――これは、そゞろな秋のおもひでである。青葉の雨を聞きながら―― 露を其のまゝの女郎花（おみなえし）、浅葱（あさぎ）の優しい嫁菜の花、藤袴、また我亦紅（われもこう）、はよく伸び、よく茂り、慌てた...

一 越中高岡（たかおか）より倶利伽羅下（くりからじた）の建場（たてば）なる石動（いするぎ）まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。 賃銭の廉（やす）きがゆえに、旅客はおおかた人力車を...

この無題の小説は、泉先生逝去後、机邊の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月號...

一「こう爺（じい）さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼（わかもの）は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸（か）けたり。車夫の老人は年紀（とし）すでに五十を越えて、六十にも間はあらじ...

一 予が寄宿生となりて松川（まつかは）私塾に入（い）りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他（た）に密（ひそか）に期することのありけ...

一 はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、緋縮緬（ひぢりめん）であった。その燃立つようなのに、朱で処々（ところどころ）ぼかしの入った長襦袢（ながじゅばん）で。女は裙（すそ...

縁日 柳行李 橋ぞろえ 題目船 衣の雫 浅緑記念ながら［＃改ページ］ 縁日 一 先年尾上（おのえ）家の養子で橘之助（きつのすけ）といった名題俳優（やくしゃ）が、年紀（とし）二十有五に満た...

雨を含んだ風がさっと吹いて、磯（いそ）の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累（かさな）った空合（そらあい）では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁（...

一 砂山を細く開いた、両方の裾（すそ）が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞（うずくま）ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路（みち）の傍（かたえ）に、崖（がけ）に添うて、一軒漁...

私が作物に對する用意といふのは理窟はない、只好いものを書きたいといふ事のみです。されば現代の風潮はどうあらうと其□事（そんなこと）には構はず私は私の好きなものの、胸中に浮んだものを書くばか...