日语文学作品赏析《夜行巡査》
作者:泉鏡花|来源:青空文库|2010年01月11日 00:00
       一

「こうじいさん、おめえどこだ」と職人体の壮佼わかものは、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問いけたり。車夫の老人は年紀としすでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、
「どうぞまっぴら御免なすって、向後こうごきっと気を着けまする。へいへい」
 と、どぎまぎしてあわておれり。
「爺さん慌てなさんな。こうおりゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとはやしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪すこかんしゃくさわってこたえられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装みなりが悪いとってとがめたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損しぞこないでもしなすったのか、ええ、爺さん」
 問われて老車夫は吐息をつき、
「へい、まことにびっくりいたしました。巡査おまわりさんに咎められましたのは、親父おやじ今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地ごこちもござりませなんだ。いやもうから意気地いくじがござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引ももひきが破れまして、ひざから下が露出むきだしでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! ってわめかれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」
 壮佼はしきりにうなずけり。
「むむ、そうだろう。気の小さい維新前むかしの者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主のかかぐるまじゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯ちょうちんより見っこのねえ闇夜やみだろうじゃねえか、風俗も糸瓜へちまもあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉かんがらすめ。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ないところなら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠ふんどし相撲すもうを取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車くるまくなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩ふくろだたきにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げしてかものあしらいにしてやらあ」
 口をきわめてすでに立ち去りたる巡査をののしり、満腔まんこうの熱気を吐きつつ、思わず腕をさすりしが、四谷組合としるしたるすす提灯ちょうちん蝋燭ろうそくを今継ぎ足して、力なげに梶棒かじぼうを取り上ぐる老車夫の風采ふうさいを見て、壮佼わかものは打ちしおるるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人かせぎてはおめえばかりか、孫子はねえのかい」
 優しくわれて、老車夫は涙ぐみぬ。
「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、ようかせいでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火あんかを抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計くらしが立ちかねますので、かえるの子は蛙になる、親仁おやじももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀としは取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車くるまをこうやってきますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子もそろったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然なりなんぞも構うことはできませんので、つい、巡査おまわりさんに、はい、お手数をけるようにもなりまする」
 いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方ひとかたならず心を動かし、
「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子むすこが兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言いめてひまつぶさした埋め合わせに、酒代さかてでもふんだくってやればいいに」
「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうおき入れがござりませんので」
 壮佼はますます憤りひとしおあわれみて、
「なんという木念人ぼくねんじんだろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょにあゆびねえ。股火鉢またひばち五合ごんつくとやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんをつかめえて、剣突けんつくもすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でもしてみろ、今じゃおいらが後見だ」
 憤慨と、軽侮と、怨恨えんこんとを満たしたる、視線の赴くところ、こうじ町一番町英国公使館の土塀どべいのあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜あんやに怪獣のまなこのごとし。

       二

 公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延はったよしのぶという巡査なり。かれは明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町なにがしまちの交番を発し、一時間交替の巡回の途にけるなりき。
 その歩行あゆむや、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、おそからず、早からず、着々歩を進めてみちを行くに、身体からだはきっとして立ちて左右に寸毫すんごうも傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。
 制帽のひさしの下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
 渠は左右のものを見、上下のものをながむるとき、さらにその顔を動かし、首をることをせざれども、ひとみは自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。
 されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端ほりばた芝生しばふの一面に白くほの見ゆるに、幾条のくちなわえるがごとき人の踏みしだきたるあとを印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影のせること、その門前なる二ちゅうのガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋わらじの片足の、霜にきて堅くなりたること、路傍みちばたにすくすくと立ちならべる枯れ柳の、一陣の北風にと音していっせいに南になびくこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷いちるの煙の立ちのぼること等、およそ這般このはんのささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外にのがるることを得ざりしなり。
 しかも渠は交番をでて、路に一個の老車夫を叱責しっせきし、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後うしろを振り返りしことあらず。
 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後うしろには全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわがまなこに検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
 兇徒きょうとあり、白刃をふるいて背後うしろより渠を刺さんか、巡査はその呼吸いきの根の留まらんまでは、背後うしろに人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのがまなこの観察の一度達したるところには、たとい藕糸ぐうしの孔中といえども一点の懸念をだにのこしおかざるを信ずるによれり。
 ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々ゆうゆうとしてただ前途のみを志すをるなりけり。
 そのくつは霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音きょうおんを送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木かぶき門の下にうずくまれる物体ありて、わが跫音あしおとうごめけるを、例の眼にてきっと見たり。
 八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々やつやつしき婦人おんななりき。
 一個ひとり幼児おさなごを抱きたるが、夜深よふけの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引きめ、着たる襤褸らんるの綿入れをふすまとなして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子おやこに一銭の恵みをれずとも、たれかあわれと思わざらん。
 しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭まくらもとに足踏みして、
「おいこら、起きんか、起きんか」
 と沈みたる、しかも力をめたる声にて謂えり。
 婦人はあわただしくね起きて、急に居住まいをつくろいながら、
「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土にこうべを埋めぬ。
 巡査は重々しき語気をもて、
「はいではない、こんなところに寝ていちゃあいかん、はやく行け、なんという醜態だ」
 と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸いきの下にて、
「はい、恐れ入りましてございます」
 かく打ち謝罪わぶるときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸うらがれたり。母は見るより人目も恥じず、あわてて乳房ちぶさを含ませながら、
「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那だんな様お慈悲でございます。大眼おおめに御覧あそばして」
 巡査は冷然として、
「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」
 おりからひとしきりすさぶ風は冷をきわめて、手足もあらわなる婦人おんなはだを裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、まりのごとくにすくみつつ、
「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹きさらしへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難にいまして、にわかの物貰ものもらいで勝手はわかりませず……」といいかけて婦人はむせびぬ。
 これをこの軒の主人あるじに請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査はき入れざりき。
「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」

       三

伯父おじさんおあぶのうございますよ」
 半蔵門の方より来たりて、いまや堀端ほりばたに曲がらんとするとき、一個の年紀としわかき美人はその同伴つれなる老人の蹣跚まんさんたる酔歩に向かいて注意せり。かれは編み物の手袋をめたる左の手にぶら提灯ぢょうちんを携えたり。片手は老人を導きつつ。
 伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足をみ占めながら、
「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時なんどきだろう」
 夜はけたり。天色沈々として風騒がず。見渡すお堀端の往来は、三宅みやけ坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立こだちと相連なる煉瓦屋れんがおくにて東京のその局部を限れる、この小天地せきとして、星のみひややかにえ渡れり。美人は人ほしげに振り返りぬ。百歩を隔てて黒影あり、くつを鳴らしておもむろに来たる。
「あら、巡査おまわりさんが来ましたよ」
 伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、
「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」
 とむすめの顔をみまもれる、一眼いて片眼へんがん鋭し。女はギックリとしたるさまなり。
「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」
「うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車くるまが見えんからな」
「ようございますわね、もう近いんですもの」
 やや無言にて歩を運びぬ。酔える足は捗取はかどらで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、
「おこう、今夜の婚礼はどうだった」と少しくみを含みて問いぬ。
 女はかろくうけて、
「たいそうおみごとでございました」
「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った」
 女は老人の顔を見たり。
「なんですか」
「さぞ、うらやましかったろうの」という声はあざけるごとし。
 女は答えざりき。渠はこの一冷語のためにいたく苦痛を感じたるさま見えつ。
 老人はさこそあらめと思える見得みえにて、
「どうだ、うらやましかったろう。おい、お香、おれが今夜彼家あすこの婚礼の席へおまえを連れて行った主意を知っとるか。ナニ、はいだ。はいじゃない。その主意を知ってるかよ」
 女は黙しぬ。こうべれぬ。老夫はますます高調子。
わかるまい、こりゃおそらく解るまいて。何も儀式を見習わせようためでもなし、別に御馳走ごちそうわせたいと思いもせずさ。ただうらやましがらせて、情けなく思わせて、おまえが心に泣いている、その顔を見たいばっかりよ。ははは」
 口気酒芬しゅふんを吐きておもてをも向くべからず、女は悄然しょうぜんとして横にそむけり。老夫はその肩に手をけて、
「どうだお香、あの縁女えんじょは美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白とあかとの三枚がさねで、とずかしそうにすわった恰好かっこうというものは、ありゃ婦人おんなが二度とないお晴れだな。縁女もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目せいもくだ。婿もりっぱな男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがおまえと巡査とであってみろ。さぞ目のむることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がおまえをくれろと申し込んで来たときに、おれさえアイと合点がってんすりゃ、あべこべに人をうらやましがらせてやられるところよ。しかもおまえが(生命いのちかけても)という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやアしない。しかしどうもそれ随意ままにならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。おれという邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥をいたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけてかればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!」
「あれ伯父さん」
 と声ふるえて、後ろの巡査に聞こえやせんと、心を置きて振り返れる、まなこに映ずるその人は、……夜目にもいかで見紛みまがうべき。
「おや!」と一言われ知らず、口よりもれて愕然がくぜんたり。
 八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。

       四

 老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気にくる様子もなく、
「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつとうらんでいよう。おりゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」
 真顔になりて風情ふぜい、酒のわざとも思われざりき。むすめはようよう口を開き、
伯父おじさん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」
 と老人のたもとき動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父のことばかれの耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着とんじゃくせで、平気に、むしろ聞こえよがしに、
「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満かねもちでもえらんでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんないやしい了簡りょうけんじゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人ぬすっととでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食こじきででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそいつに譲って、夫婦めおとにしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえがしんからすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてるかいがないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんとよくのないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通なみの人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念あきらめてもらった日にゃあ、おれが志も水のあわさ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険けんのんな目にえば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」
 女はややしばらく黙したるが、
「い……い……え」ときれぎれに答えたり。
 老夫は心地ここちよげに高く笑い、
「むむ、もっともだ。そうやすっぽくあきらめられるようでは、わが因業も価値ねうちがねえわい。これ、後生だからあきらめてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」
 女はこらえかねて顔を振り上げ、
「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。
 老夫は空嘯そらうそぶき、
「なんだ、何がお気に入りません? うな、もったいない。なんだってまたおそらくおまえほどおれが気に入ったものはあるまい。第一容色きりょうはよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、おまえのことといったら飯のくいようまで気に入るて。しかしそんなことで何、巡査をどうするの、こうするのという理窟りくつはない。たといおまえが何かの折に、おれの生命いのちを助けてくれてさ、生命の親と思えばとても、けっして巡査にゃあらないのだ。おまえが憎い女ならおれもなに、邪魔をしやあしねえが、かわいいから、ああしたものさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」
 女は少しきっとなり、
「それではあなた、あのおかたになんぞお悪いことでもございますの」
 かく言いけて振り返りぬ。巡査はこのときささやく声をも聞くべき距離に着々としてしおれり。
 老夫はこうべを打ちりて、
「う、んや、おりゃあいつも大好きさ。八円を大事にかけて、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷かこくだ、思いりがなさすぎると、評判のわろいのに頓着とんじゃくなく、すべ一本でも見免みのがさない、アノ邪慳じゃけん非道なところが、ばかにおれは気に入ってる。まず八円の価値ねうちはあるな。八円じゃ高くない、ろく盗人とはいわれない、まことにりっぱな八円様だ」
 女はたまらず顧みて、小腰をかがめ、片手をあげてソト巡査を拝みぬ。いかにお香はこの振舞ふるまいを伯父に認められじとはつとめけん。瞬間にまたこうべを返して、八田がなんらの挙動をもてわれに答えしやを知らざりき。

       五

「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもおまえをることはできないのだ。それもあいつが浮気うわきもので、ちょいと色に迷ったばかり、おいやならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、おれも承知をしたかもしれんが、どうしておれが探ってみると、義延よしのぶ(巡査の名)という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできないたちで、やっぱりおまえと同一おんなじように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」と冷笑あざわらえり。
 むすめは声をふるわして、
「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」と思い詰めたる体にて問いぬ。
 伯父は事もなげに、
「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とてもだめだ、なんにもいうな、たといどうしてもきゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」
 女はわっと泣きだしぬ。かれは途中なることをも忘れたるなり。
 伯父は少しも意に介せず、
「これ、一生のうちにただ一度いおうと思って、今までおまえにもだれにもほのめかしたこともないが、ついでだからって聞かす。いいか、くなったおまえのおっかさんはな」
 母という名を聞くやいなや女はにわかに聞き耳立てて、
「え、お母さんが」
「むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかりれていたのだ」
「あら、まあ、伯父さん」
「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのお母さんを、おまえのおとっさんにられたのだ。な、わかったか。もちろんおまえのお母さんは、おれがなんだということも知らず、おとともやっぱり知らない。おれもまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実におりゃもう、お香、おまえはその思いりがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れそのなかのいいのを見ていたおれは、ええ、これ、どんな気がしたとおまえは思う」
 という声濁りて、痘痕とうこんてる頬骨ほおぼね高き老顔の酒気を帯びたるに、一眼のいたるがいとものすごきものとなりて、とりひしぐばかり力をめて、お香の肩をつかみ動かし、
「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消えせない。そのためにおれはもうすべての事業を打ちてた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりおまえの母親が、おれの生涯しょうがいの幸福と、希望とをみな奪ったものだ。おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃ねたばを合わせるじゃあない、恋に失望したもののその苦痛くるしみというものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、らざる生命いのちをながらえたが、慕い合って望みがかのうた、おまえの両親に対しては、どうしてもその味を知らせよう手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちにはおれが仕方を考えて思い知らせてやろうものを、ふしあわせだか、しあわせだか、二人ともなくなって、残ったのはおまえばかり。親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代たたる執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人おもいものが、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとい世界の金満かねもちにおれをしてくれるといったって、とてもうこたあかれない。覚悟しろ! 所詮しょせんだめだ。や、こいつ、耳にふたをしているな」
 にいっぱいの涙をたたえて、お香はわなわなふるえながら、両そでを耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、
「あれ!」とそむくる耳に口、
「どうだ、わかったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛くるしみをよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる談話はなしをしたり、あらゆることをしていじめてやる」
「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」
 とおぼえず、声を放ちたり。
 少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。かれはそこを通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退さがりぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次ぞうじの間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話はなしを聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田はとくに渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回うかいし、あるいは疾走し、緩歩し、立停りゅうていするは、職務に尽くすべき責任に対して、渠がいさぎよしとせざりしところなり。

       六

 老人はなお女の耳をとらえて放たず、負われ懸くるがごとくにして歩行あるきながら、
「お香、こうは謂うもののな、おれはおまえが憎かあない、死んだ母親にそっくりでかわいくってならないのだ。憎いやつなら何もおれが仕返しをする価値ねうちはないのよ。だからな、食うこともることも、なんでもおまえの好きなとおり、おりゃ衣ないでもおまえには衣せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。おれももう取る年だし、死んだあとでと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」
 恐ろしき声をもて老人が語れるその最後のことばを聞くとひとしく、お香はもはや忍びかねけん、力をきわめて老人が押えたる肩を振り放し、ばたばたと駈けだして、あわやと見る間に堀端ほりばたの土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる! と老人は狼狽うろたえて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜をすべりて、水にざんぶと落ち込みたり。
 このときはやく救護のために一躍してせ来たれる、八田巡査を見るよりも、
「義さん」と呼吸いきせわしく、お香は一声呼びけて、巡査の胸にひたいうずめわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりにすがり着きぬ。つたをその身にからめたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振りかざし、水をきっと瞰下みおろしたる、ときに寒冷うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面にはげしきあわの吹き出ずるは老夫の沈めるところと覚しく、薄氷は亀裂きれつしおれり。
 八田巡査はこれを見て、躊躇ちゅうちょするもの一秒時セコンド、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪はなかんざしの、徽章きしょうのごとくわが胸にかれるが、ゆらぐばかりに動悸どうきはげしき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、
「お退き」
「え、どうするの」
 とお香は下より巡査の顔を見上げたり。
「助けてやる」
「伯父さんを?」
「伯父でなくってだれが落ちた」
「でも、あなた」
 巡査は儼然げんぜんとして、
「職務だ」
「だってあなた」
 巡査はひややかに、「職掌だ」
 お香はにわかに心着き、またさらにあおくなりて、
「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」
「職掌だ」
「それだって」
「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺おやじだが、職務だ! 断念あきらめろ」
 と突きやる手にくばかり、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀どべい石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
 八田巡査は、声をはげまし、
「放さんか!」
 決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯とっさに巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田は警官として、社会よりになえる負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとして、氷点の冷、水凍る夜半よわに泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああはたして仁なりや、しかも一人のかれが残忍苛酷かこくにして、じょすべき老車夫を懲罰し、あわれむべき母と子を厳責したりし尽瘁じんすいを、讃歎さんたんするもの無きはいかん。
(明治二十八年四月「文芸倶楽部」)

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