彼女は裏二階の階子段はしごだんをおりて便所へ往った。郊外の小さな山の上になったその家へは、梅の咲くころたまに呼ばれることはあるが、夜遅くしかも客と二人で来て泊まって往くようなことはなかったので、これまではなんとも思わなかったが、独りで便所へ往くとなるとさびしかった。彼女はじょちゅうが来たなら便所の判らないようなふりをしていっしょに傍まで往ってもらおうと思ったが、婢はこうした二人づれの客の処へは来ないことになっているのでそれもできなかった。
 東京の近郊では有名な料理店で木材も大きながっしりしたのを用いてあるが、もう新らしい時代にとりのこされたような建物で、けてある電燈も微暗うすぐらかった。便所は裏二階の降口おりぐちを左に往って、その往き詰めを右に折れた処にあった。縁側えんがわからその便所へは一跨ひとまたぎの渡廊下わたりろうかがついていて、昼見ると下には清水の流れている小溝があって石菖せきしょうなどが生えていた。渡廊下の前には寒竹かんちくのような小さな竹で編んだ眼隠めかくしがしてあった。入って往くと往き詰めの左側が共同便所のような男の便所になり、右側が女の便所になって、その向いが洗面所と手洗場になり、そこの壁には大きな鏡をとりつけてあった。彼女は淋しいので急いで取附の便所へ入ろうとしたところで、その入口に二人の者が便所の方を向いて並んで立っていた。彼女はあまりあわてていたので人のいるのも眼に入らなかったのかと思ってきまりがわるかった。彼女はひとりでじぶんの顔のあか[#「報」の「幸」に代えて「赤」、272-5]らんだのを感じながら二人のうしろに立った。それはひとりは印半纏しるしばんてんを着た料理番のようなわかい男で、ひとりは銀杏返いちょうがえしったじょちゅうのような女であった。そこには女便所が三つばかりあったが、二人が立っているくらいであるから、無論みなふさがっているのだろうと思った。彼女はしばらく待っていたが、便所の中の人は何人だれも出て来なかった。彼女はじれったくなったので他の便所へ往こうと思って、一まず二階のへやへ引返した。二階の室には客が長火鉢ながひばちによりかかって煙草をんでいた。
「もう往って来たのか」
 彼女は不平であった。
「往ったのですけど、たてこんでて、待ってたけれど、前の人がどうしても出て来ないのですもの、ばかにしてるわ、まだ他にも料理番のような方と婢さんのような方が待ってるわ」
「なに、料理番のような男と、婢のような女がいた」
「あれ、ここの方」
「そうだろうよ、だが、もういないさ、おれも往くから、いっしょに往こう」
「でも、まだ一ぱいだわ」
「もう、大丈夫だよ、おいで」
 男は新らしい煙草をつけてすぐってへやを出た。彼女も男の力に引きずられるようにして後からいて往った。もう便所はがらんとして何人だれもいなかった。彼女は男といっしょにへやへ帰ったが、翌朝になって自動車で男といっしょに海岸にある男の宿坊やどへ引返していると、男は笑って云った。
前夜ゆうべの便所の口に立ってた二人ね、あれをなんと思うのだね」
「なにって、あれ、なんなの」
「ありゃ、時どきあすこへ出るものだよ」
「え」
「あいつ、かまわずにずんずん入って往きゃいいのだ。なにもしやしないのだよ」
「あなた、知ってて」
「おなじみだよ」
 翌晩になって彼女は雑誌記者だと云う三人づれの客の席へ呼ばれた。その時同じように呼ばれて来ていた知己しりあいの女から、
「あなた、このごろ、へんなことを聞かない」
 と云われた。彼女には前夜ゆうべの体験があった。
「見たわ、あれでしょう」
「見たの、山の、あの字のついた家よ」
「そうよ、前夜ゆうべ、見たてのほやほやだわ」
「ほんとう、料理番とじょちゅうさん」
「そうよ」
 彼女は得意になって話した。

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