日语文学作品赏析《明暗》
作者:夏目漱石
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
一
医者は探 りを入れた後 で、手術台の上から津田 を下 した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前 探 った時は、途中に瘢痕 の隆起 があったので、ついそこが行 きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日 疎通を好くするために、そいつをがりがり掻 き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の裡 に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言 を吐 く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
津田は無言のまま帯を締 め直して、椅子 の背に投げ掛けられた袴 を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒 りっこないんですか」
「そんな事はありません」
医者は活溌 にまた無雑作 に津田の言葉を否定した。併 せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今 までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経 っても肉の上 りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思 いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開 です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然 割 かれた面 の両側が癒着 して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
津田は黙って点頭 いた。彼の傍 には南側の窓下に据 えられた洋卓 の上に一台の顕微鏡 が載っていた。医者と懇意な彼は先刻 診察所へ這入 った時、物珍らしさに、それを覗 かせて貰 ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影 ったように鮮 やかに見える着色の葡萄状 の細菌であった。
津田は袴を穿 いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐 に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇 した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝 を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず眉 を寄せた。
「私 のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据 えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察 た様子で分ります」
その時看護婦が津田の後 に廻った患者の名前を室 の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
二
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革 にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛 がありありと記憶の舞台 に上 った。白いベッドの上に横 えられた無残 な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸 り声が判然 聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾 り出 すような恐ろしい力の圧迫と、圧 された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇 しい苦痛とが彼の記憶を襲 った。
彼は不愉快になった。急に気を換 えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
荒川堤 へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛 について、彼は全くの盲目漢 であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時 どんな変 に会わないとも限らない。それどころか、今現 にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後 から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中 で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
彼は思わず唇 を固く結んで、あたかも自尊心を傷 けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣 に対して少しの注意も払わなかった。
彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道 の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日 前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当 て篏 めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後 ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他 から牽制 を受けた覚 がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰 おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
彼は電車を降りて考えながら宅 の方へ歩いて行った。
三
角 を曲って細い小路 へ這入 った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊 い手を額の所へ翳 すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍 へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚 した。――御帰り遊ばせ」
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注 ぎかけた。それから心持腰を曲 めて軽い会釈 をした。
半 ば細君の嬌態 に応じようとした津田は半 ば逡巡 して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀 よ。雀が御向うの宅 の二階の庇 に巣を食ってるんでしょう」
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖 」
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸 を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後 に跟 いて沓脱 から上 った。
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢 の前に坐 るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入 を手拭 に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂 浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫 になるから」
津田は仕方なしに手を出して手拭 を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。室 を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診 て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒 ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、後 を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
同じ話題が再び夫婦の間 に戻って来たのは晩食 が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵 の口 であった。
「厭 ね、切るなんて、怖 くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い恰好 の好い眉 を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊 いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断 っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭 ?」
津田は細君の顔を見て苦笑を洩 らした。
四
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉 が一際 引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌 のない一重瞼 であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子 は漆黒 であった。だから非常によく働らいた。或時は専横 と云ってもいいくらいに表情を恣 ままにした。津田は我知らずこの小 さい眼から出る光に牽 きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳 ね返される事もないではなかった。
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那 的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断 された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘 よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中 に端書 を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止 しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
津田は自分の受けべき手術についてなお詳 しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物 の膿 を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤 をかけてまず腸を綺麗 に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口 へガーゼを詰 めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰 り上げて明日 にしたところで、明後日 にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着 であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢 の縁 に右の肘 を靠 たせて、その中に掛けてある鉄瓶 の葢 を眺めた。朱銅 の葢の下では湯の沸 る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川 さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生 からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日 からすぐ入院しろって云うかも知れない」
入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空 いてるもんだから、そこへ入 いる事もできるようになってるんだ」
「綺麗 ?」
津田は苦笑した。
「自宅 よりは少しあ綺麗かも知れない」
今度は細君が苦笑した。
五
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢 に倚 りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚 びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃 れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊 った自覚がぼんやり働らいていた。
彼が黙って間 の襖 を開けて次の室 へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後 から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配 の急な階子段 をぎしぎし踏んで二階へ上 った。
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載 せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折 の挿 んである頁 を目標 にそこから読みにかかった。けれども三四日 等閑 にしておいた咎 が祟 って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差 した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻 して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠 という気が自 から起った。
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日 までにもう二カ月以上も経 っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物 のように細君の前で罵 っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽 った。
しかし今彼が自分の前に拡 げている書物から吸収しようと力 めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多 に実際の役に立った例 のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯 えておきたかった。他の注意を惹 く粧飾 としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気 ながら見えて来た時、彼は彼の己惚 に訊 いて見た。
「そう旨 くは行かないものかな」
彼は黙って煙草 を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早 に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。
六
「おいお延 」
彼は襖越 しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙 を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢 の傍 に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点 いた室 を覗 いた彼の眼にそれが常よりも際立 って華麗 に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出 やかな模様 とを等分に見較 べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
お延は檜扇 模様の丸帯の端 を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締 めた事がないんですもの」
「それで今度 その服装 で芝居 に出かけようと云うのかね」
津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何 にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉 をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作 は時として変に津田の心を唆 かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側 へ出て厠 の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞 ぐようにして訊 いた。
「何か御用なの」
彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢 よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函 の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
御延は玄関の障子 を開けて沓脱 へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻 飯を食う時に坐った座蒲団 が、まだ火鉢 の前に元の通り据 えてある上に胡坐 をかいた。そうしてそこに燦爛 と取り乱された濃い友染模様 の色を見守った。
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着 の荒い御召 の縞柄 を眺めながら独 りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
見栄 の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。
七
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要 る間際 になって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝 の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空 いちまったんだそうだ。それから塞 がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕 いだので、だいぶ臨時費が嵩 んだから今月は送れないって云うんだ」
彼は開いた手紙を、そのまま火鉢 の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当 にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦 の塀 を一丁も拵 えやしまいし」
津田の言葉に偽 はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月 息子 夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出 好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達 が要らない贅沢 をして、むやみに御金をぱっぱっと遣 うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計 を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯 に変りはないかも知れないが、周囲 はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊 くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
津田は平生 からお延が自分の父を軽蔑 する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩 らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を憚 かった細君の話頭 は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語 のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒 は開 かないよ」
「でもほかに当 がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は真 ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「厭 よ、あたし」
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀 みもなかった。遠慮と斟酌 を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停 められた時のような衝撃 を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強 いて頼まないでもいい。しかし……」
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬 って追 い退 けるように遮 った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計 に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
お延が一概に津田の依頼を斥 けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄 に制せられたのだという事がようやく津田の腑 に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴 しちゃ困るよ。買い被 られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚 なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
津田は追窮 もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切 らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別 も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は金 の入った厚い帯の端 を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳 した。津田にはその意味がちょっと呑 み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段 を、嫁に来たての若い細君が、疾 くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、軽蔑 むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑 た真似 をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時 が知ってるのよ。あの婢 は宅 にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書 さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉 しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜 りを傷 けるという意味において彼は躊躇 した。
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上 って行った。
九
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段 の途中で吉川に出会った。しかし彼は下 りがけ、向 は上 りがけだったので、擦 れ違 に叮嚀 な御辞儀 をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯 に間もないという頃、彼はそっと吉川の室 の戸を敲 いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草 を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は固 より表向の用事で、この室へ始終 出入 すべき人ではなかった。跋 の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後 にしてくれたまえ。今少し差支 えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を締 めた津田はまた自分の机の前に帰った。
午後になってから彼は二返 ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使 に訊 いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻 御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
毎日人の出入 の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴 れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執 った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足後 れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋 から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅 へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅 まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜 る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に背負 って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自 ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫 も崩 さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他 に見せたがるのと同じような心理作用の下 に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽 くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
十
厳 めしい表玄関の戸はいつもの通り締 まっていた。津田はその上半部 に透 し彫 のように篏 め込 まれた厚い格子 の中を何気なく覗 いた。中には大きな花崗石 の沓脱 が静かに横たわっていた。それから天井 の真中から蒼黒 い色をした鋳物 の電灯笠 が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例 のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍 にある内玄関 から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
小倉 の袴 を着けて彼の前に膝 をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑 み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊 いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭 な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆 も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の挨拶 に軽い会釈 をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊 いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅 へいらっしゃらなくなったようね」
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下 の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下 の男であった。
「まだ嬉 しいんでしょう」
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳 と少しになります」
「早いものね、ついこの間 だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉 しいところは通り越しちまったの。嘘 をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊 とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定 です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
十一
吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯 った。機嫌 の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談 とも真面目 とも片のつかない或物が閃 めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質 に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥 った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘 じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢 ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充 ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間 にかそこへ引 き摺 り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方 の御年歯 を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊 き方をしておいて、わざとその後 をおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物 よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好 のする好い男になれるんだけれども」
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応 える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下 していた。細君は微笑した。
「嘘 だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊 いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
津田の顔が急に堅くなった。唇 の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝 の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を覗 き込むようにして訊 いた。彼は固 よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫 もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡 に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障 ったら堪忍 してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を恢復 した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得 なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更 けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成 よ。本当に怜悧 な方 ね、あんな怜悧な方は滅多 に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
十二
その時二人の頭の上に下 っている電灯がぱっと点 いた。先刻 取次に出た書生がそっと室 の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸 ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉 の色のだんだん濃くなって来るのを、最前 から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送 した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬 の一切 を除 けるようにしてその余りを残りなく啜 った。そうしてそれを相図 に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固 より単簡 であった。けれども細君の諾否 だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合 せさえつけば」
彼女はさも無雑作 な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日 から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他 のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌 のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉 しかった。自分の態度なり所作 なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好 いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打 やされた刹那 に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕 にもっていた。彼はその自己をわざと押 し蔵 して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲 られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚 りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子 を離れようとした時、細君は突然口を開 いた。
「また子供のように泣いたり唸 ったりしちゃいけませんよ。大きな体 をして」
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙 の開閉 が局部に応 えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体 全体が寝床 の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度 は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅 ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞 に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか調戯 うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠 って躊躇 した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
十三
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇 の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
冷たそうに燦 つく肌合 の七宝 製の花瓶 、その花瓶の滑 らかな表面に流れる華麗 な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒 い地 の中に茶の唐草 模様を浮かした重そうな窓掛、三隅 に金箔 を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟 が、すでに明るい電灯の下 を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
彼は無論この渦 まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻 彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆 を口に入れた人のように、咀嚼 しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中 で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露 した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯 うため?」
それは何とも云えなかった。彼女は元来他 に調戯う事の好 な女であった。そうして二人の間柄 はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦 らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒 を平気で跨 ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負 にし過ぎるため?」
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端 を沿うて走るその電車の窓硝子 の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠 まる黒い松の木が見えるだけであった。
車内の片隅 に席を取った彼は、窓を透 してこのさむざむしい秋の夜 の景色 にちょっと眼を注いだ後 、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕 はそのままにしておいた金の工面 をどうかしなければならない位地 にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻 事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
そう思うと、自分が気を利 かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干 の下に蹲踞 まる乞食 を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套 を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉 の温かい□ をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔 は今の彼の眼中にはほとんど入 る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
十四
津田は同じ気分で自分の宅 の門前まで歩いた。彼が玄関の格子 へ手を掛けようとすると、格子のまだ開 かない先に、障子 の方がすうと開 いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚 したように、薄化粧 を施こした彼女の横顔を眺めた。
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先 を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利 いた証拠 をも挙 げた。日常瑣末 の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作 を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀 の光のように眺める事があった。小さいながら冴 えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
咄嗟 の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊 く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢 の前には黒塗の足のついた膳 の上に布巾 を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据 えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に宅 へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢 い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧 なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子 で解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜 吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾 あてるわ」
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面 をしなければならないという屈託 があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方 の胸に浮ばない彼を、なお焦 つかせた。
彼は神田にいる妹 の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹 という名義の下 に、毎月 の不足を、京都にいる父から填補 して貰 う事になった一面には、盆暮 の賞与で、その何分 かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行 しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑 よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重 に書くのが得策だろうとも考えた。父母 に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢 を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜 お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上 って机の前に坐った。
十五
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗 からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆 や万年筆でだらしなく綴 られた言文一致の手紙などを、自分の伜 から受け取る事は平生 からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱 いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能 はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯 を生やした細面 の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
やがて彼は決心して立ち上った。襖 を開けて、二階の上 り口 の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽 に聞こえた。
「女のならあるわ」
津田はまた自分の前に粋 な模様入の半切 を拡 げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
津田は真面目 な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差 した。
「時 をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
津田は生返事 をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
お延はすぐ下へ降りた。やがて潜 り戸 が開 いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草 を吹かした。
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方 の悪口 を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩 らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味 が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手 に引き受けたような自信に充 ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後 で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月 正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
彼が父の機嫌 を損 ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認 め出したのは、それから約十分後 であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後 で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙 い事につくづく愛想 を尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要 る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函 させた後 、彼は黙って床の中へ潜 り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」
十六
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日 宅 へ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子 を口から吐き出した。それから内隠袋 を探 って莨入 を取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸 を擦 った。あまり気を利 かそうとして急 いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章 てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
津田は礼を云って室 を出ようとした。吉川は煙 りの間から訊 いた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰 り合 せをして貰う事にしてあります」
佐々木は彼の上役 であった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目 だ」
吉川の言葉はよく彼の気性 を現わしていた。
「都合がよければ明日 からにしたまえ」
「へえ」
こう云われた津田は否応 なしに明日から入院しなければならないような心持がした。
彼の身体 が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後 から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香 が急に冒 した。
「へえ、ありがとう、お蔭 さまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕 も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂 をしたがね。岡本も羨 ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇 になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨 やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固 より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後 れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は挨拶 に窮した。向うの口の重宝 なのに比べて、自分の口の不重宝 さが荷になった。彼は手持無沙汰 の気味で、緩 く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、笑談 とも訓戒とも見分 のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃 れ出 た。
十七
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑 やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾 だの碁会所 の看板だの鳶 の頭 のいそうな格子戸作 りだのを左右に見ながら、彼は彎曲 した小路 の中ほどにある擦硝子張 の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴 が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないその室 は狭いばかりでなく実際暗かった。外部 から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅 へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢 の周囲 を取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁 に片手を翳 したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜 めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体 を横にして洋袴 の膝頭 を重ねたまま。
電鈴 の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥 の後 また申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚 かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
この陰気な一群 の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華 やかに彩 られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦 むようにして閉 じ籠 っているのである。
津田は長椅子の肱掛 に腕を載 せて手を額にあてた。彼は黙祷 を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
その一人は事実彼の妹婿 にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚 した。そんな事に対して比較的無頓着 な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶 に窮したらしかった。
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹 っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性 と愛 という問題についてむずかしい議論をした。
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後 のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後 異常な結果が生れた。
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃 を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
すると診察所から紺 セルの洋服を着た三十恰好 の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋 から紙入を出して金を払おうとする途端 に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越 の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊 いて下さい。明日 か明後日 手術を受けに来て好いかって」
奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室 の戸口に現わした。
「今ちょうど二階が空 いておりますから、いつでも御都合の宜 しい時にどうぞ」
津田は逃 れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿 いて、擦硝子張 の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点 いた。
十八
津田の宅 へ帰ったのは、昨日 よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚 は疾 くに傾いて、先刻 まで往来にだけ残っていた肌寒 の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今角 の車屋の軒灯 を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子 を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段 を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳 け出して来た。
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡 に自分を牽 きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭 を例の通り彼女の手から受け取って火鉢 の傍 を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後 ろ向 になって、重 ね箪笥 の一番下の抽斗 から、ネルを重ねた銘仙 の褞袍 を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧 が好く利 いていないかも知れないけども」
津田は煙 に巻かれたような顔をして、黒八丈 の襟 のかかった荒い竪縞 の褞袍 を見守 もった。それは自分の買った品でもなければ、拵 えてくれと誂 えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装 をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
彼が手術のため一週間ばかり家 を空 けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前 の事であった。その上彼はその日から今日 に至るまで、ついぞ針を持って裁物板 の前に坐 った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布 は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古 よ。この冬着ようと思って、洗張 をしたまま仕立てずにしまっといたの」
なるほど若い女の着る柄 だけに、縞 がただ荒いばかりでなく、色合 もどっちかというとむしろ派出 過ぎた。津田は袖 を通したわが姿を、奴凧 のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日 か明後日 やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随 いて行っちゃいけないの。病院へ」
お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
十九
津田の明 る朝 眼を覚 ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内 はもう一片付 かたづいた後のようにひっそり閑 としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子 を開けた彼は、そこの火鉢の傍 にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶 が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊 をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
彼は云い訳らしい事をいって、暦 の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指 していた。
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳 に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥 れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾 を除 ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊 いてくる」
「今すぐ?」
お延は吃驚 して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散 らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁 ほど右へ行った所にある自動電話へ馳 けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口 でも好い」
「何 になさるの」
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を懐中 へ放 り込 んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分後 で、もう午 に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら腋 に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を遣 わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床 かと思ったけれども」
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持番 の小さい彼の帽子が、被 るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日 の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の悪口 ばかり云えた義理でもなかった。
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶 と、麺麭 と牛酪 を取り出した。
「おやおやこれ召 しゃがるの。そんなら時 を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い香 のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
朝飯 とも午飯 とも片のつかない、極 めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独 りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞 に、ちょっと朝の内藤井の叔父 の所まで行って来 ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
二十
藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経 めぐる不便と不利益とに痛 く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父甥 の域 を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄 を説明するものであった。
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終 動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢 なる人世の旅行者」
叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟 んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日 までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然 しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面 の腮 の下に、売卜者 見たような疎髯 を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路 に倦 み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費 やした後 、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請 をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間 に、この閑静 な古い都が、彼の父にとって隠栖 の場所と定められると共に、終焉 の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺 を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜 ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
しかし金の重みのいつまで経 ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終 東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚 のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後 でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑 されるだけで、いっこう得 にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
実際の世の中に立って、端的 な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶 な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換 えていうと、彼は迂濶の御蔭 で奇警 な事を云ったり為 たりした。
彼の知識は豊富な代りに雑駁 であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地 が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑 えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手 をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者 に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
二十一
こういう人にありがちな場末生活 を、藤井は市の西北 にあたる高台の片隅 で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々 建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼 い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆 を走らす手を止 めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵 えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢 なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
津田の宅 からこの叔父の所へ行くには、半分道 ほど川沿 の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援 に依らない方が、彼の勝手であった。
一時少し前に宅 を出た津田は、ぶらぶら河縁 を伝 って終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充 ちていた。向うの高みを蔽 っている深い木立 の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
彼は道々今朝 買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑 やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違 に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻 き□ って、無理にそれを取り払ったような凸凹 だらけの新道路の角 に立って、その片隅 に塊 まっている一群 の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
小肥 りにふとったその男は双子木綿 の羽織着物に角帯 を締 めて俎下駄 を穿 いていたが、頭には笠 も帽子も被 っていなかった。彼の後 に取り残された一本の柳を盾 に、彼は綿 フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空 っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」
彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風 な言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳 をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙 さないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間に挟 んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
津田は軽蔑 に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然後 から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃 を受けた彼はほとんど反射作用のように後 をふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧 らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章 の着いた制帽と、半洋袴 と、背中にしょった背嚢 とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
二十二
「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
自分が十 ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣 いの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜 作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
彼は例の袋を片手でぐっと締扱 いて、再び何か投げ込む真似 を小器用にした後 、麗々 と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽 き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉 フラネルの縞柄 を遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧 に地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個 でも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度 は一つ生きた鶏 を出そう」
津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事 もう行こう。小父 さんはこれからお前の宅 へ行くんだよ」
真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ嘘 だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐 いていつまでも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の袂 を捉 えた。
「小父さん何か買ってさ」
宅で強請 られるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父 さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐 きじゃないか」
「あいつは玉子は出すが鶏 なんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事 の足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのを宅 でお父さんが染めたんだよ」
津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄 が、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないで拵 らえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策 を滑稽 的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際 を擽 ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。
二十三
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿 いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多 に穿 けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」
「だってみんなが尨犬 の皮だ尨犬の皮だって揶揄 うんだもの」
藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは微 かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
津田はもし懐中が許すならば、真事 のために、望み通りキッドの編上 を買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算 で自分の懐 にある紙入の中を勘定 して見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替 が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心 も起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度 宅 へ来た時、小母 さんに買ってお貰い。小父 さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」
彼は賺 すようにまた宥 めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物 で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方 町並 が生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末 ものとして馬鹿にできないような品が綺麗 に飾り立てられていた。真事はその間を向う側へ馳 け抜けて、朝鮮人の飴屋 の前へ立つかと思うと、また此方 側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立 んだ。彼の馳け出す時には、隠袋 の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
彼は隠袋の中へ手をぐっと挿 し込んで掌 いっぱいにそのビー玉を載 せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子 玉が迸 ばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章 ててそれを追いかけた。そうして後 を振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋 へ引 き摺 り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
「雀 ならいいが、むやみに人を狙 っちゃいけないよ」
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅 へ行って」
好い加減をいうとすぐ後 から実行を逼 られそうな様子なので、津田は生返事 をしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端 から批評し始めた。
「あの岡本って奴 、そりゃ狡猾 いんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」
話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中 で比較した。
二十四
「御前 近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「また喧嘩 したな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
真事 の言葉には後 がありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ御馳走 するだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛 かったよ」
ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが厭 になった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
津田は小首を傾けた。叔父 が子供を岡本へやりたがらない理由 は何だろうと考えた。肌合 の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終 机に向って沈黙の間に活字的の気□ を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼は暗 にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少頑固 にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他 から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分 でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんに訊 いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕訊 いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
真事は少し羞恥 んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切 を置くような重い口調 で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一 さんの持ってるものをね、宅 へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向 は、彼らの子供が持つ玩具 の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請 んだな。みんな一 さんの持ってるのを見て来たんだろう」
津田は揶揄 い半分手を挙 げて真事の背中を打とうとした。真事は跋 の悪い真相を曝露 された大人 に近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘 だよ。嘘だよ」
彼は先刻 津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担 いだままどんどん自分の宅 の方へ逃げ出した。彼の隠袋 の中にあるビー玉が数珠 を劇 しく揉 むように鳴った。背嚢 の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
彼は曲り角の黒板塀 の所でちょっと立ちどまって鼬 のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路 のうちに隠した。津田がその小路を行き尽して突 きあたりにある藤井の門を潜 った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣 の間から大事そうに彼を狙撃 している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。
二十五
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子 の間から一足の客靴を覗 いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側 の方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切 もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻 まで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹 の下を潜 った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出 した。障子 の篏入硝子 に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部 から声を掛けた。
「叔母さん」
叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想 というものがなかった。その代り時と場合によると世間並 の遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんど性 の感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢 のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他 に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂 だわ」
津田は縁側 へ腰をかけた。叔母は上 れとも云わないで、膝 の上に載 せた紅絹 の片 へ軽い火熨斗 を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金 さんという女が津田にお辞儀 をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団 を縁側 へ持って来 ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
気のなさそうな生返事 をした叔母は、お金さんが生温 るい番茶を形式的に津田の前へ注 いで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄 さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘 を吐 かない人だから」
お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞 じゃありません、本当の事です」
叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳 を立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸 を入れて打つと危険 いから」
叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏 を打つに違ないから。構わないから丸 だけ取り上げて来て下さい」
お金さんはそれを好い機 に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢 に挿 し込んだ鏝 をまた取り上げた。皺 だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗 に平たく延びて行くのを何気なく眺 めていた津田の耳に、客間の話し声が途切 れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
二十六
津田は客間にいる声の主を、坐 ったまま突き留めようと力 めて見た。やがて彼は軽く膝を拍 った。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
叔母は嫣然 ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿 き込んで厭 にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
想像の眼で見るにはあまりに陳腐 過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異 な服装 もおのずと思い出された。白縮緬 の襟 のかかった襦袢 の上へ薩摩絣 を着て、茶の千筋 の袴 に透綾 の羽織をはおったその拵 えは、まるで傘屋 の主人 が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯 の折でも懐 に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
津田は微笑しながら叔母に訊 いた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪 い事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目 な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後 を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「お金 さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ旨 く行きそうなのさ」
叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥 ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯 た空虚 うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡 で貰ったの」
叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当 がつかなかった。
「そんな料簡 って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける方 の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」
藤井は四年前 長女を片づける時、仕度 をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談が纏 まるとすれば、それは正に三人目の出費 に違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向 に多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。
二十七
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事 の穿 きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合 で見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通を仰 いで、彼らの経済に幾分の潤沢 をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替 が届いてくれればいいという期待に縛 られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄 さん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰 ったの、お前さんは」
「まさか冗談 に貰やしません。いくら僕だってそう浮 ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相 だ」
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等 があるもんだからね」
相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避 ぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目 なところもありますからね」
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ止 しましょう。今さら云ったって始まらない事だから」
叔母は先刻 火熨斗 をかけた紅絹 の片 を鄭寧 に重ねて、濃い渋を引いた畳紙 の中へしまい出した。それから何となく拍子抜 けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢 過ぎるよ」
学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終 こう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
「服装 や食物ばかりじゃないのよ。心が派出 で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走 はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食 じゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目 さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」
この時津田の胸を掠 めて、自分の従妹 に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、その後 夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓 が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
この二人の従妹 のどっちも、貰おうとすれば容易 く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾 ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄 の葢 を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。
二十八
奥の四畳半で先刻 からお金 さんに学課の復習をして貰 っていた真事 が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語 の読本を浚 い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切 を置いて読み上げる小学二年生の頓狂 な声を、例 ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂 に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促 がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居 を直して叔父に挨拶 をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵 えたじゃないか」
小林はホームスパンみたようなざらざらした地合 の背広 を着ていた。いつもと違ってその洋袴 の折目がまだ少しも崩 れていないので、誰の眼にも仕立卸 しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後 へ隠すようにして、津田の前に坐 り込んだ。
「へへ、冗談 云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子 の中に飾ってある三 つ揃 に括 りつけてあった正札を見つけて、その価段 通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢 やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
津田は叔母の手前重ねて悪口 を云う勇気もなかった。黙って茶碗 を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作 を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
今日 まで病気という病気をした例 のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病 とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩 だらけの髯 を撫 でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々 むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病 は同源 だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶 い出すと、それが病気に罹 らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽 に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私 なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹 らないもんだろうと思います」
津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
この不論理 な断案は、云い手が真面目 なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
薄暗くなった室 の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩 った。
二十九
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢 の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は明日 の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走 が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻 を据 えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅 へ行って詳 しい話をするがね」
「しかし僕は明日 から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊 いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通 ったのを小林はよく知っていたのである。
彼の詳 しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻 叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆 られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵 えてくれた肉にも肴 にも、日頃大好な茸飯 にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭 と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟 まるここいらの麺麭に内心辟易 しながら、また贅沢 だと云われるのが少し怖 いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿 を見送った。
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子 も今度 の縁が纏 まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
叔父は苦 のなさそうな返事をした。
「至極 よさそうに思います」
小林の挨拶 も気軽かった。黙っているのは津田と真事 だけであった。
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家 で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は利 いた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
津田はこういって然 るべき理窟 が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
叔父は少し機嫌 を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
三十
それでも座は白 けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰 き止められたように、誰も津田の言葉を受 け継 いで、順々に後 へ送ってくれるものがなくなった。
小林は自分の前にある麦酒 の洋盃 を指 して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊 いた。
「真事 さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦 いから僕厭 だよ」
真事はすぐ跳 ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機 にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
すぐ立って奥の四畳半へ馳 け込んだ彼が、そこから新らしい玩具 を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉 しがっているわが子のために、一言 の愛嬌 を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺 を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦 らめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入 ります」
「見て来たような事を云うな」
空気銃の御蔭 で、みんながまた満遍 なく口を利 くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上 った。それは途切 れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異 った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁 になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終 和合するとは限らないんだから」
叔母の見て来た世の中を正直に纏 めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅 にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目 さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢 な事を、我々風情 が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目 という疑念を塗り潰 すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻 って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易 く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来 ようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選 り好 みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
先刻 から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。
三十一
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母 甥 の対話とは思えないよ」
二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実 行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心 をもって云い合ってるようだが、喧嘩 でもしたのかい」
彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事 を相手にビー珠 を転がしていた小林が偸 むようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来悪 いかも知れないがね、叔母さんは嘘 を吐 いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後 と同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
そろそろ酔の廻った叔父は、火熱 った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃 を取り上げて麦酒 をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日 までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意 があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男 に意 なんぞあるもんですか」
津田も小林も吹き出した。独 りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
叔父はにやにやしながら、禿 げた頭の真中を大事そうに撫 で廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって皆 な笑うじゃないか」
この問答の途中へお金 さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間 の方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃ昔 しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝 が怖 い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚 れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
叔母は真事の立った後 へ坐って、さっさと松茸飯 を手盛 にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他 の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
津田は交 ぜ返 し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母 から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚 れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女 を愛した覚 がない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味 い食麺麭 をにちゃにちゃ噛 んだ。
三十二
食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏 めようと努力するもののないのに気が付いた。
餉台 の上に両肱 を突いた叔父が酔後 の欠 を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物 を勝手へ運ばした。先刻 から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面 を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒 の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終 自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜 んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
半日以上の暇を潰 したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌 な吉川夫人とその綺麗 な応接間とを記憶の舞台に躍 らした。つづいて近頃ようやく丸髷 に結い出したお延 の顔が眼の前に動いた。
彼は座を立とうとして小林を顧 みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇 しよう」
小林はすぐ吸い残した敷島 の袋を洋袴 の隠袋 へねじ込んだ。すると彼らの立 ち際 に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰 をしている。宜 しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑 で困るだろうね、彼 の女 も。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後 からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落 にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
「芝居 はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
芝居場 などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻 いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
叔父は笑うだけであった。
「兄貴 は怒ってるんだろう」
「いったいお秀 がまた余計な事を云ってやるからいけない」
津田は少し忌々 しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎 はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺 から送って貰った金を、きちんきちん返す奴 があるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
津田はとても敵 わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促 がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。
三十三
戸外 には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬 に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露 がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套 の肩を撫 でた。その外套の裏側に滲 み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧 みた。
「日中 は暖 かだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
小林は新調の三 つ揃 の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先 を厚く四角に拵 えたいかつい亜米利加型 の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖 をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異 ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋 まで新らしくしている男が、他 の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横 わる、不規則な物質的の凸凹 を証拠 立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊 いた。
「なぜその背広 といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同 なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷 し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔 てて向 に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴 らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺 った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝 した竹藪 が一面に生 い被 さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹 の葉の梢 は、季節相応な蕭索 の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放 ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
津田はこういって当面の挨拶 をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止 めないと身体 に障 るからね」
自分に都合の好い理窟 を勝手に拵 らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶 であった。彼は冷かし半分に訊 いた。
「君が奢 るのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
二人は黙って坂の下まで降りた。
三十四
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直 に行かなければならなかった。しかし体 よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗 き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場 めいた店の硝子戸 が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅 はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談 云うな。厭 だよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調 で追究 した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部 へ現わした。
「じゃ飲もう」
二人はすぐ明るい硝子戸 を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅 を択 んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲 へ向けた。
服装から見た彼らの相客中 に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞 の半纏 の肩へ濡 れ手拭 を掛けたのだの、木綿物 に角帯 を締 めて、わざとらしく平打 の羽織の紐 の真中へ擬物 の翡翠 を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛 股引 も一人交 っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
小林は津田の猪口 へ酒を注 ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出 な彼の背広 が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃 っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
挨拶 をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然 としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
津田は昂然 として両者の差違を訊 かなかった。それでも小林は少しも悄気 ずに、ぐいぐい杯 を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑 しているね。同情に価 しないものとして、始めから見くびっているんだ」
こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
出し抜けに呼びかけられた若者は倔強 な頸筋 を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯 をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
三十五
インヴァネスを着た小作りな男が、半纏 の角刈 と入れ違に這入 って来て、二人から少し隔 った所に席を取った。廂 を深くおろした鳥打 を被 ったまま、彼は一応ぐるりと四方 を見廻した後 で、懐 へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経 っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他 の客を、見ないようにして見始めた。その相間 相間には、ちんちくりんな外套 の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭 を撫 でた。
先刻 から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向 になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
津田は元の通りの姿勢を崩 さなかった。ほとんど返事に価 しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵 だぜ」
津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口 を干した。小林はすぐそれへなみなみと注 いだ。
「あの眼つきを見ろ」
薄笑いをした津田はようやく口を開 いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕 ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然 るべきだかよく考えて見ろ」
鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地 をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃 で汚 れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢 ないんだ。馬鹿にするな」
小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家 の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷 けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追 かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜 の小説を読んだろう」
露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤 であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕 わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊 くと、先生はありゃ嘘 だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器 に盛って、感傷的に読者を刺戟 する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢 を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
小林の言葉はだんだん逼 って来た。しまいに彼は感慨に堪 えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布 の上に落した。
三十六
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外 からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕 を、ただ迷惑そうに眺めた。
探偵 として物色 された男は、懐 からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広 の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装 をすると、汚ないと云って軽蔑 するだろう。またたまに綺麗 な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生 だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵 えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸 で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落 だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気 はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
そんな特別の理由を津田は固 より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上訊 いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装 を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々 都落 をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻 から苦になっていた襟飾 の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
長い間叔父の雑誌の編輯 をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終 忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防 していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭 だよ」
その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利 いた。
「要するに僕なんぞは、生涯 漂浪 して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者 になるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢 だからさ。僕のは死ぬまで麺麭 を追 かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
小林は津田の言葉から何らの慰藉 を受ける気色 もなかった。
三十七
先刻 から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓 の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾 うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉 えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口 を一本出してそれに火を点 けた。行きがけの駄賃 らしいこの所作 が、煙草 の箱を受け取って袂 へ入れる津田の眼を、皮肉に擽 ぐったくした。
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜 の往来は意外に更 けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁 をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入 いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然 した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し曖昧 であった。津田がそれを追究 もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止 したらいいじゃないか」
津田の言葉は誰にでも解り切った理窟 なだけに、同情に飢 えていそうな相手の気分を残酷に射貫 いたと一般であった。数歩の後 、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋 しいよ」
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床 の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭 の下で黒く消えて行く時、幽 かに音を立てて、電車の通る相間 相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は癇走 っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯 さえ若くって身体 さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効 できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋 を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金 さんの結婚する時困るだろう」
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相 だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴 をもったのが不仕合せだと思って、諦 らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅 で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独 り言 のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套 は君から貰う、たった一人の妹は置 いてき堀 にする、世話はないや」
これがその晩小林の口から出た最後の台詞 であった。二人はついに分れた。津田は後 をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。
三十八
彼の門は例 の通り締 まっていた。彼は潜 り戸 へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開 かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい□ の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立 んだ。新らしい世帯を持ってから今日 に至るまで、一度も外泊した覚 のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
今日 の彼は灯点 し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延 の面影 を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火 を慕って、それを目標 に足を運んだのと一般であった。彼の身体 が土塀 に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
彼は手を挙 げて開 かない潜 り戸 をとんとんと二つ敲 いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締 めた」といって詰問するような音が、更 け渡 りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主 は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側 で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩 る音が明らかに聞こえた。格子 がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉 ててない事はたしかであった。
「どなた?」
潜りのすぐ向う側まで来た足音が止 まると、お延はまずこう云って誰何 した。彼はなおの事急 き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊 ばせ」
ごとごと云わして□ を外 した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼 い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶 が約束通り鳴っていた。長火鉢 の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団 が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向 には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱 が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿 の葢 は傍 へ取 り除 けられて、梨地 の中に篏 め込 んだ小さな硯がつやつやと濡 れていた。持主が急いで座を立った証拠 に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲 ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚 していた。
戸締 りをして夫の後 から入ってきたお延は寝巻 の上へ平生着 の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋 しくってたまらなくなったから、とうとう宅 へ手紙を書き出したの」
お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得 ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒 だからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現 に締まっていたじゃないか」
「時 が昨夕 締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉 を動かして見せた。日中用のない潜 り戸 の□ を、朝外 し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻 寝かしてやったわ」
下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜 り戸 の事をそのままにして寝た。
三十九
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜 寝るまで全く予想していなかった不意の観物 によって驚ろかされた。
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟 に盛粧 したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起 の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩 らした。
「今御眼覚 ?」
津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡 をかけた大丸髷 と、派出 な刺繍 をした半襟 の模様と、それからその真中にある化粧後 の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴 も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃 えて、渋紙 の上へ載 せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の服装 を吟味 するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟 だからね」
彼はすぐ心の中 でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群 とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾 ……」
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装 をして、あのお医者様へ夫婦お揃 いで乗り込むのは、少し――」
「辟易 ?」
お延の漢語が突然津田を擽 った。彼は笑い出した。ちょっと眉 を動かしたお延はすぐ甘垂 れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍 してちょうだいよ、ね」
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥 を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急 き立 てられでもするように世話 しなく聞いた。
普通の食事を取らない彼の朝飯 はほとんど五分とかからなかった。楊枝 も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏 めなくっちゃ」
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後 にある戸棚 を開けた。
「ここに拵 えてあるからちょっと見てちょうだい」
よそ行着 を着た細君を労 らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄 と小さな風呂敷包 を、自分の手で戸棚 から引 き摺 り出した。包の中には試しに袖 を通したばかりの例の褞袍 と平絎 の寝巻紐 が這入 っているだけであったが、鞄 の中からは、楊枝だの歯磨粉 だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙 だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏 だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張 った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折 が挟 んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書 を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの大部 の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要 るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択 ってちょうだい」
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰 め込んだ。
四十
天気が好いので幌 を畳 ました二人は、鞄 と風呂敷包を、各自 の俥 の上に一つずつ乗せて家を出た。小路 の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入 に身仕舞 をした若い女の口から出る刺戟性 に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒 を握ったまま、等しくお延 の方へ好奇の視線を向けた。傍 を通る往来の人さえ一瞥 の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
彼女は自分の俥だけを元へ返した。中 ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇 しい速力でまた彼の待っている所まで馳 けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖 を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端 には環 があって、環の中には大小五六個の鍵 が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作 と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥 の上に置きっ放しにしたまま」
夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人揃 って外出する時の用心に、大事なものに錠 を卸 しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手 でぽんとその上を敲 きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
俥は再び走 け出した。
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後 れていた。しかし午 までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作 もなく笑いながら津田にお辞儀 をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀 はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先 を越して、「御厄介 になります」とこっちから挨拶 をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
津田は車夫から受取った鞄 を看護婦に渡して、二階の上 り口 の方へ廻った。
「お延こっちだ」
控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗 き込んでいたお延は、すぐ津田の後 に随 いて階子段 を上 った。
「大変陰気な室 ね、あすこは」
南東 の開 いた二階は幸 に明るかった。障子 を開けて縁側 へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干 を見ながら、津田を顧 みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚 れているけれども」
もと請負師 か何かの妾宅 に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋 な昔の面影 が残っていた。
「古いけれども宅 の二階よりましかも知れないね」
日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少燻 ぶった天井 だの床柱 だのを見廻した。
四十一
そこへ先刻 の看護婦が急須 へ茶を淹 れて持って来た。
「今仕度 をしておりますから、少しの間どうぞ」
二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物 の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖 いわ、そんなものを見るのは」
お延は実際怖そうに眉 を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍 まで来て、穢 ないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄 のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
津田は真面目 なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人 なんか呼んで来る奴 があるものかね」
津田は女に穢 ないものを見せるのが嫌 な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭 であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止 しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午 までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同 なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
お延は後を云わなかった。津田も訊 かなかった。
看護婦がまた階子段 の上へ顔を出した。
「支度 ができましたからどうぞ」
津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹 の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山 過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手 であった。
お延は中腰 のまま答えた。
「でも後 でまた何か云われると、あたしが困るわ」
強 いてとめる理由も見出 し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
お延は微 かな声で階下 を憚 かるような笑い方をした。しかし彼女の露 わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽 だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止 すから」
こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午 までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
前後して階子段 を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。
四十二
「リチネはお飲みでしたろうね」
医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊 いた。
「飲みましたが思ったほど効目 がないようでした」
昨日 の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤 から受けた影響は、ほとんど精神的に零 であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸 しましょう」
浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に上 って仰向 に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷 りとした。堅い括 り枕 に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬 きをして、何度も天井 を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠 めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸 み見たのだという心持がなおのこと募 った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
局部魔睡 は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍 い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒 などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭 であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直 です」
こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際 が閃 めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
切物 の皿に当って鳴る音が時々した。鋏 で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇 した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥 さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒 い虫のようなものが、彼の身体 を不安にするために、気味悪く血管の中を這 い廻った。
彼は大きな眼を開 いて天井 を見た。その天井の上には綺麗 に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後 で、医者はまた云った。
「瘢痕 が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下 ろされた。
四十三
診察室を出るとき、後 から随 いて来た看護婦が彼に訊 いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼 い顔でもしているかね」
自分自身に多少懸念 のあった津田はこう云って訊 き返さなければならなかった。
創口 にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他 が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段 を上 る時には、割 かれた肉とガーゼとが擦 れ合 ってざらざらするような心持がした。
お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
津田ははっきりした返事も与えずに室 の中に這入 った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹 まれた蒲団 が、彼の安臥 を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地 のネルを重ねた銘仙 の褞袍 を後 から着せるつもりで、両手で襟 の所を持ち上げたお延は、拍子抜 けのした苦笑と共に、またそれを袖畳 みにして床 の裾 の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
彼女は傍 にいる看護婦の方を向いて訊 いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支 えないのでございます。お食事の方はただいま拵 えてこちらから持って参ります」
看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
お延は躊躇 した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
時計の葢 を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎 へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井 の上で、時計と睨 めっ競 でもするように、手術の時間を計っていたのである。
津田は再び訊 いた。
「今から宅 へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
お延の返事はいつまで経 っても捗々 しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟 を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開 かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
念を押したお延はすぐ後 を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上 りますからって」
「そうか」
津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作 が一度に閃 めいた。病院へ随 いて来るにしては派出過 ぎる彼女の衣裳 といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注 ぎ込 まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床 の間 の上に取り揃 えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙 だの鋏 だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻 鞄 へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、向 を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床 が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速 に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢 ね」
津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究 していいか見当 がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の眉 がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが明暸 に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関 わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我 が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
お延は微 かな溜息 を洩 らしてそっと立ち上った。いったん閉 て切 った障子 をまた開けて、南向の縁側 へ出た彼女は、手摺 の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干 に隙間 なく吊 されたワイ襯衣 だのシーツだのが、先刻 見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で独 りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠 の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍 に縛 りつけておくのが少し可哀相 になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂 のないのに困った。お延も欄干 に身を倚 せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上 って来た。
「どうもお待遠さま」
津田の膳 には二個の鶏卵 と一合のソップと麺麭 がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這 になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ肉匙 の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止 せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊 いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返 断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午 までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯 を済ました。
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後 らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口 劇場の名を云ったなり、すぐ俥 に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路 を出た護謨輪 は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑 やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方 が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体 が浮 つきながら早く揺 くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛 として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅 の事を考える暇がなかった。機嫌 よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像 が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支 えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好 を始めからもっていない彼女は、時間が後 れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟 であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。挨拶 をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯 だの暖簾 だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜 した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間 から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入 したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇 を通り抜けて、急に明海 へ出た人のように眼を覚 ました。そうしてこの氛囲気 の片隅 に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作 共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子 は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣 うように、後 を向いて筋違 に身体 を延ばしながらお延に訊 いた。
「見えて? 少しここと換 ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子 は左利 なので、左の手に軽い小さな象牙製 の双眼鏡を持ったまま、その肱 を、赤い布 で裹 んだ手摺 の上に載 せながら、後 をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅 の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶 かたがたお延に何か云うほどの智慧 をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻 から姉妹 の母親が傍目 もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木 の鳴るまでついに一言 も口を利 かなかった。
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻 継 と話してたの」
幕が引かれてから、始めてうち寛 ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後 を云い足した。
「あたしお母さまと賭 をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤 を引いて」
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書 の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙 を平たく削 った精巧の番号札が数通 り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入 を取り扱うような手つきで、短冊形 の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入 の折手本 を繰 りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅 の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重 の裏をつけた更紗 の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳 したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具 としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的 に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙 入のままそれを机の上から取って帯の間に挟 んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
お延は調戯半分 彼女に訊 いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍 から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤 じゃないのよ。お神籤よりもっと偉 い予言なの」
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、母子 を見比べた。
「継 はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被 せるようにとめた。
「止 してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
今まで黙って三人の会話を聴 いていた妹娘の百合子 が、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚 って上げないから」
母は隣りにいる人の注意を惹 かないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳が訊 きたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと腮 を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は後 の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
年歯 の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨 く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩 していたので、お延の慫慂 は何の効目 もなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負 わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母 しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い感投詞 をむしろ淋 しそうに投げた。
四十七
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕 尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一 の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人 というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿 に過ぎないのだろうか」
これがお延のとうから叔母 にぶつかって、質 して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位 があった。見方次第では痩我慢 とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制 した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲 を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体 よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝 すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届 からでも出たように、傍 から解釈されてはならないと日頃から掛念 していた。すべての噂 のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気 むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人 を綾 なして行けないのは、畢竟 知恵 がないからだ」
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷 けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外 せた。
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目 の少し切れた間から誰かが見物の方を覗 いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐 ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩 したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦 のように見えた。彼らの或者の派出 な扮装 が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
土間 から眼を放したお延は、ついに谷を隔 てた向う側を吟味 し始めた。するとちょうどその時後 をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当 へつけて、そこに容易 く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻 から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆 な知ってるのよ」
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭 だわ。あんなにして見られちゃ」
お延は隠れるように身を縮 めた。それでも向側 の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の後 を追 かけて廊下へ出た。
四十八
そこから見渡した外部 の光景も場所柄 だけに賑 わっていた。裏へ貫 を打って取 り除 しのできるように拵 らえた透 しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下の端 に立って、半 ば柱に身を靠 たせたお延が、継子の姿を見出 すまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指 す人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
後 から覗 き込むようにして訊 いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦 れ擦れになって、微笑 み合った。
「今困ってるところなのよ。一 さんが何かお土産 を買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにく何 にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
疳違 いをして、男の子の玩具 を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止 すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のある紋 などを着けた花簪 だの、紙入だの、手拭 だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利 いてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃 とか木剣 とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋 な所にあろうはずがないわ」
売店の男は笑い出した。お延はそれを機 に年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後 ほど」
こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端 まで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱 を盾 に立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件 であった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧 されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間 取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊 かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似 までして見せた。
「こうやって真 ともに向けるんだから、敵 わないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅 のお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと嬉 しがってよ。延子さんはハイカラだって」
二人が声を出して笑い合っている傍 に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫 の紋 を付けて、セルの行灯袴 を穿 いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶 でもして通り過ぎるように、鄭重 な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧 くなった。
「もう這入 りましょうよ」
彼女はすぐお延を促 がして内へ入った。
四十九
場中 の様子は先刻 見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女 の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩 らわしく眺 められた。できるだけ多くの注意を惹 こうとする浮誇 の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾 であった。
比較的静かな舞台 の裏側では、道具方の使う金槌 の音が、一般の予期を唆 るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後 で拍子木 を打つ音が、攪 き廻 された注意を一点に纏 めようとする警柝 の如 に聞こえた。
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間 を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟 を盛って、他愛 なく時間のために流されていた。彼らは穏和 かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐 く呼息 に酔っ払った彼らは、少し醒 めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
席に戻った二人は愉快らしく四辺 を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘 っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探 してあげましょうか」
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛 てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前 ぐらい肥 ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗 な友染模様 の背中が隠れるほど、帯を高く背負 った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪 えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘 なめた。
「百合子さん」
妹は少しも応 えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨 らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍 に、お延が年相応の分別 を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶 をして来ましょうか。澄 ましていちゃ悪いわね」
実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌 っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気 な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴 っていた。先刻 双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶 に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易 く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗 に願っていた。
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙 ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上 がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰 った戸の隙間 から中を覗 いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談 を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後 へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体 の位置を変 るのさえ臆劫 そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後 を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞 いで邪魔だろう」
一夜作 りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺 へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例 のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合 だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生 っ白 い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞 の着物をぞろりと着流して、博多 の帯をわざと下の方へ締 めたその色男は、素足に雪駄 を穿 いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍 にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然 るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳 一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後 を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊 いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居 へ行くなんて不埒千万 だとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが周囲 に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌 を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は煩 さそうに眉 を動かした。面白半分調戯 って見た岡本は少し真面目 になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居 を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由 っていったい何」
「今ここじゃ話し悪 いがね。いずれ後で話すよ」
お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食 を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
先刻 まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部 から」
二人の会話はそこで途切 れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分経 つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後 の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語 いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間 にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
男はまた戸をそっと閉 てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。
五十一
彼女が叔父叔母の後 に随 いて、継子といっしょに、二階の片隅 にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後 であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹 に小声で訊 いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
訊 こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧 になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母 に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何 にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
鋭い一瞥 の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢 う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然 お延の頭に彼女と自分との比較が閃 めいた。姿恰好 は継子に立 ち優 っていても、服装 や顔形 で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥 んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々 しく出来上った、処女としては水の滴 たるばかりの、この従妹 を軽い嫉妬 の眼で視 た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑 の意 が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我 の地位を易 えて立って見たいぐらいな羨望 の念が、著 るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準 におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑 やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁 に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質 のものであった。そうして今嫉妬 の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締 めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨 やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋 ぐために、その貴 い純潔な生地 を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛 くあたるかも知れません。私はあなたが羨 ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器 が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母 の膝下 を離れると共に、すぐ天真の姿を傷 けられます。あなたは私よりも可哀相 です」
二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮 ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方 ならぬ恩顧 を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能 う限 りの愛嬌 と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後 に随 いて食堂に入った。
五十二
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標 にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談 をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食 み出している大々 した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲 らしていた夫人の方でも、すぐ眸 をお延の上に移した。しかし咄嗟 の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶 を取 り換 すまで、ついに互を認め合わなかった。
夫人に投げかけた一瞥 についで、お延はまたその傍 に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻 廊下で継子といっしょになって、冗談 半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後 に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好 さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人 であるかを知らずにしまった。
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐 った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子 へ腰を下 ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇 した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」
吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先 を越 すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙 い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心 らしい様子を、食卓越 に眺めた時、ますます強固にされた。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利 かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中 には、ほとんど苦痛に近い或物が見透 された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌 のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑 しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
ちょうど叔母と話を途切 らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸 を逃げ出した話でもするがいい」
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰 り返 すんでね、近頃はもう他 よりも自分の方が陳腐 になってしまいました」
「あなたのような落ちついた方 でも、少しは周章 たでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾 んだ。相間 相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際 を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和 というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車 に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言 も口を挟 さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫 も技巧の臭味 なしに、着々成功して行く段取 を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆 れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
お延は不意を打たれて退避 ろいだ。津田の前でかつて挨拶 に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚 を充 たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌 に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺 っております」と後 から付け足した時は、お延自分でももう時機の後 れている事に気がついていた。またやり損 なったという苦 い感じが彼女の口の先まで湧 いて出た。今日こそ夫人の機嫌 を取り返してやろうという気込 が一度に萎 えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易 えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前 の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦 ……」
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争 時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様 を案内して倫敦 を連れて歩いて上げた覚 があるんだから」
「じゃ巴理 で籠城 した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭 いバスがまだ幅を利 かしていた時代だよ」
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹 き起すらしく見えた。継子と三好を見較 べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終 その子の傍 に坐っていらっしったら好いでしょう」
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊 いた。叔母がそんな呑気 な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺 さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前 に逼 って来たんだ。油断はできません」
継子が顔を赧 くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯 を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何 にも反省器械 を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
五十四
彼らほど多人数 でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群 を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲 も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布 を放 り出 す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似 をする気もないらしかった。芝居を観 に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊 いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧 に答えた。
「ただ今開 きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の鶏 の股 を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着 しないらしかった。彼はすぐ叔父の後 へついて、劇とは全く無関係な食物 の挨拶 をした。
「君は相変らず旨 そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車 へ乗った話をお聞きですか」
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞 の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍 から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰 したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦 の群衆の中で、大男の肩の上へ噛 りついていたんだ。行列を見るためにね」
叔父 はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造 する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式 の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈 が高過ぎるもんだから、苦し紛 れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ真面目 であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人 が大きいたって、どうも君じゃ辻褄 が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小 だからな」
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑 に落ちたらしい言葉遣 いをして、なおその当人の猿という渾名 を、一座を賑 わせる滑稽 の余音 のごとく繰 り返 した。夫人は半 ば好奇的で、半ば戒飭的 な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏 なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同 なじ事です」
こんな他愛 もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前 を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経 っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒 置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹 を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹 さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部 に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望 の漣□ が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後 から暗 に人馴 れない継子を憐 れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮 の念が例 もの通り起った。
五十五
彼らの席を立ったのは、男達の燻 らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜 った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時 だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉 えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後 を自分で云い足した。
「先刻 から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
この云訳 をお延は腹の中で嘘 らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠 のある推定であった。彼女は食堂へ這入 って夫人に挨拶 をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭 しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介 になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言 も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前 津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌 われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振 を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負 にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚 かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然他 に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一 の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞 えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際 になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘 らしいという疑を抱 くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭 さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日 」
「今日 ? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他 に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入 りになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空 いておるので、五六日 そこへおいていただく事にしております」
夫人は医者の名前と住所 とを訊 いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒 るまでよく養生するように、そう云って下さい」
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾 も来なかった。ただ褞袍 を着て横臥 した寝巻姿 の津田の面影 が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那 に、「いや疳違 いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗 いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙 されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打 をしたくなった。
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後 に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様 の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰 り返 さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓 で晩餐 を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦 い酒を醸 す醗酵分子 となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊 かれると、彼女はとても判然 した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸 な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念 を抱 かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総 ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了 ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑 した間際 に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦 らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭 から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異 っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟 に毛皮の付いた重そうな二重廻 しを引掛 けながら岡本がコートに袖 を通しているお延を顧 みた。
「今日は宅 へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない挨拶 をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆 れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着 なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目 な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要 らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅 にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら止 すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介 になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至 だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃 で、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極 」
先刻 聞いた役者の言葉を、小さな声で後 へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆 れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口 の方へ歩いて行った。みんなもその後 に随 いて表へ出た。
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前宅 へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中 にね。少し訊 きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日 にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を相図 に走 け出 した。
五十七
津田の宅 とほぼ同じ方角に当る岡本の住居 は、少し道程 が遠いので、三人の後 に随 いたお延の護謨輪 は、小路 へ曲る例の角 までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌 の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥 はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋 しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知 らず調子を踏 み外 して、一人圏外 にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅 の玄関を上った。
下女は格子 の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶 さえいつものように快い音を立てなかった。今朝 見たと何の変りもない室 の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁 し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体 を、長火鉢 の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛 なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然 して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩 れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方 へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽 させた。
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我 の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母 しかった。
「早く玄関を締 めてお寝。潜 りの□ はあたしがかけて来たから」
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢 の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継 ぎ足 した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸 かした。しかし夜更 に鳴る鉄瓶 の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼 ってくる孤独の感が、先刻 帰った時よりもなお劇 しく募 って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋 しみに比べると、遥 かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐 かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日 は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食 ついていなかった。二人の間に何だか挟 まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間 にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半 ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜 しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈 なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱 かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜 書きかけた里へやる手紙の続 を書こうと思って、筆を執 りかけた彼女は、いつまで経 っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏 める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟 するので、彼女は焦 らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。
五十八
彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時 だか分らない朝の光で眼を覚 ました。雨戸の隙間 から差し込んで来るその光は、明らかに例 もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕 の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢 と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩 れているので、そこには上下 裏表 の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊 りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端 を出した金糸入りの檜扇模様 の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆 れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面 を女徳 の一つと心がけて来た自分の所作 かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田に嫁 いで以後、かつてこんな不体裁 を夫に見せた覚 のない彼女は、その夫が今自分と同じ室 の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例 もの通り宅 にいたならば、たといどんなに夜更 しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚 めると共に跳 ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑 しない訳に行かなかった。
それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕 の不首尾を償 うためか、自分の知らない間 に起きてくれたお時の足音が、先刻 から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛 んで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支 えなかろうと考え直すようになった。彼女の関節 が楽々しだした。彼女はいつにない暢 びりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟 夫が留守のお蔭 だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起 を共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒 は無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕 の自分を嘲 けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗 に片づけた。津田がいないので、だいぶ省 ける手数 を利用して、下女も煩 わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞 をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に択 ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥 状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外 れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊 き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌 を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損 をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕 吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩 らしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易 えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口 報告的に通じただけで、また宅 へ帰った。
五十九
お時の御給仕で朝食兼帯 の午 の膳 に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王 らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪 ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚 えた。身体 のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様 がいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋 しゅうございます」
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜 しゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応 えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
三十分ほど経 って、お時の沓脱 に揃 えたよそゆきの下駄 を穿 いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧 みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の住居 は藤井の家とほぼ同じ見当 にあるので、途中までは例の川沿 の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日 前の晩、酒場 を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺 れ合 った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父 の宅 へ行くには是非共上 らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日 は」
「どこへ行くの」
「お稽古 」
去年女学校を卒業したこの従妹 は、余暇 に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
彼らはこんな楽屋落 の笑談 をいうほど親しい間柄 であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心 の当人には、いっこう諷刺 としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
彼女はただこう云って機嫌 よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭 よ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播 したこの悪口 は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗 き交 ぜたその人に対するいつもの感じが起った。
六十
岡本の邸宅 へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出 した。羽織も着ずに、兵児帯 をだらりと下げて、その結び目の所に、後 へ廻した両手を重ねた彼は、傍 で鍬 を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
植木屋の横には、大きな通草 の蔓 が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這 わせようというんだ。ちょっと好いだろう」
お延は網代組 の竹垣の中程にあるその茅門 を支えている釿 なぐりの柱と丸太の桁 を見較べた。
「へえ。あの袖垣 の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁 をつけた目関垣 を拵 えたよ」
近頃身体 に暇ができて、自分の意匠 通り住居 を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖 えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答 っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹 が空 いて」
「笑談 じゃない、叔父さんはまだ午飯前 なんだ」
お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住 、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻 みんなといっしょに召上 がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物 に区切 のあるという事をあなたは御承知ですか」
自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶 も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対 の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経 たない、云わば新生活の門出 にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長 の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終 まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気 が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横 わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢 を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真 に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧 いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据 えられた膳 に向って胡坐 を掻 きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
飯櫃 があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭 だからできないよ」
下女が皿の上に狐色に焦 げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情 けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想 だろう」
糖尿病 の叔父は既定の分量以外に澱粉質 を摂取 する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生 のままで供えられた。
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情 なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
叔父は叔母を顧 みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
六十一
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没 するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
肥った身体 に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室 に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利 かずにいる癖がある代りに、他 の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時 もいられないといった気作 な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想 いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰 を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効 に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極 めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟 けた諧謔趣味 のために、一層派出 な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍 にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌 のいい時に、彼を向うへ廻して軽口 の吐 き競 をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要 らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁 いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初慎 みのために控えた悪口 は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺 むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔 しの自由を憶 い出させる或物があった。彼女は生豆腐 を前に、胡坐 を掻 いている剽軽 な彼の顔を、過去の記念のように懐 かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込 じゃないの。津田に教わった覚 なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌 み嫌 う叔母の方を見た。傍 から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知 らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標 が外 れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白 ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目 くさってお訊 きになるの」
「少しこっちにも料簡 があるんだ、返答次第では」
「おお怖 い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶 いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷 でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂 らえ向 かも知れないがね」
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫 でた。彼女は急に悲しい気分に囚 えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分 の叔父の笑談 を、ただ座興から来た出鱈目 として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙 があり過ぎた。と云って、その隙を飽 くまで取 り繕 ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜 まろうとしたところを、彼女は瞬 きでごまかした。
「いくらお誂 らえ向 でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢 のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。
六十二
親身 の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛 がられているという信念を常にもっていた。洒落 でありながら神経質に生れついた彼の気合 をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分違 わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢 の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作 を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効 するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟 しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注 がれた。こんな時に、叔父なら嬉 しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一 叔父に話してしまえと命令した。その命令に背 くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
こうして叔父夫婦を欺 むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念 もなく彼女のために騙 されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体 に見透 した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横 わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密 な、無頓着 のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌 っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊 かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌 だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味 い関 を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要 らないから」と親切に云ってくれた。
お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚 れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯 愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口 が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬 から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚 は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌 を打ってくれた。……
叔父の前に坐ったお延は自分の後 にあるこんな過去を憶 い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談 のうちに、何か真面目 な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三
感傷的の気分を笑に紛 らした彼女は、その苦痛から逃 れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日 の事は全体どういう意味なの」
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣 いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪 から棒にそんな事訊 いたって。ねえ叔母さん」
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利 いてるからっておっしゃるんだよ」
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気 ながらある臆測 があった。けれども強 いられないのに、悧巧 ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉 でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当 はつくだろう」
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色 を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を首肯 う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住 より悧巧だね」
こんな事で、二人の間 に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評 した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞 にあずかったって、あんまり嬉 しくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋 ぶりがまた描 き出 された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終 継子さんと、それからあの三好さんて方 を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事夥 しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋 を被 った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得 だよ。少くとも当世向 だ」
「厭 にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞 められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効 に終った、昨夕 の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉 じゃないか」
ただ親類だからというのが唯一 の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、昨夕 の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切 聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性 がそこに現われているように思って、暗 に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨 んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後 から、吉川夫人と自分との間に横 わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟 どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕 の念も起って来た。
六十四
お延はその問題をそこへ放 り出 したまま、まだ自分の腑 に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味合 だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値 は充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物 を胸に蔵 い込 んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利 をして貰 おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目 な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承 わったのね。光栄の至りだ事」
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑 えた。
「あたしのようなものが眼利 をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆 なが訊 きたがるんだよ」
「冷評 しちゃ厭 よ」
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚 びる一種の快感を味わった。それは自分が実際他 にそう思われているらしいという把捉 から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面 の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日 に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違 の痕迹 で、すでにそこここ汚 れていた。畢竟 夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽 られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際 って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云 い草 だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨 い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に加勢 しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強 いる気色 を見せない代りに、叔父の悪強 いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛 い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打 は充分あるといった風も見えた。お延は当 り障 りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その後 を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊 いた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあの方 の一軒 置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言 で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦 り減 らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚 だけよ」
六十五
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪 を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦 しそうな津田と自分とを、彼は始終 不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損 なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳 するために、彼の心に下層にいつも沈澱 しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃 く聴こうとするのだろう」
お延は解 しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗 に叔父から目指 されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措 いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様 の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛 めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
叔母の態度は、叔父を窘 めるよりもむしろお延を庇護 う方に傾いていた。しかしそれを嬉 しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
お延は自分で自分の夫を択 んだ当時の事を憶 い起さない訳に行かなかった。津田を見出 した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許 に嫁 ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡 をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚 はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「肝心 の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横 わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理 がすぐ彼女の頭に閃 めいた。「自分の結婚だって畢竟 は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆 れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく継 が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧 だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは厭 だというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮 った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心 があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
お延は初めて叔父に強 いられる意味を理解した。
六十六
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基 く牽引性 以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充 ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真 に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起 を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇 の心から、柔軟性 に富んだこの従妹 を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり終 せるだけの活きた眼力 を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨 みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際 まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の□ のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食 み出 している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫 も変らなかった。彼女は飽 くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享 ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜 していた。
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍 らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛 いよりもむしろ快よくなかった。それは皆 んなが寄ってたかって、今まで糊塗 して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我 」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩 きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾 して、自分に当擦 りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
膳 を引かせて、叔母の新らしく淹 れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交 み入 った蟠 まりが蜿蜒 っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭 を見渡しながら、晴々 した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹 や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓 を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開 いてるようでおかしいからね」
お延は何の気なしに叔父の指 している見当 を見た。隣家 と地続 きになっている塀際 の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪 をこんもり繁 らした根の辺 が、叔父のいう通り疎 らに隙 いていた。先刻 から問題を変えよう変えようと思って、暗 に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利 かした。
「本当ね。あすこを塞 がないと、さもさも藪 を拵 えましたって云うようで変ね」
談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
六十七
それは叔父が先刻玄関先で鍬 を動かしていた出入 の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外 した後 、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
まだ学校から帰らない百合子 や一 の噂 に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑 り込みつつあった。
「慾張屋 さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
叔母はわざわざ百合子の命 けた渾名 で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽 くまで放恣 なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦 んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠 の中で、さも愉快らしく囀 る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古 に行ったの」
叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹 の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝 らしい顔をしてなるほどと首肯 かなければならなかった。
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人 に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古 がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善 くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦 するには相違なかった。しかし怜悧 に研 ぎ澄 すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭 でそれを今日 に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
従妹 のどこにも不平らしい素振 さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強 いて解釈しようとすれば、彼らは姪 と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜 しくなった。そういう考えがまた時々発作 のようにお延の胸を掴 んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖 を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎 のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性 でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅 にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継 とは……」
中途で止 めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸 がしたからである。
「昨日 の見合に引き出されたのは、容貌 の劣者として暗 に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
お延の頭に石火 のようなこの暗示が閃 めいた時、彼女の意志も平常 より倍以上の力をもって彼女に逼 った。彼女はついに自分を抑 えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得 な方 ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々 だからね。あんな馬鹿でも……」
叔父が縁側 へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。
六十八
すると今まで抑 えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽 くまで機嫌 の好い、飽くまで元気に充 ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟 した。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
彼女は藪 から棒にこう云わなければならなかった。今日 まで二人の間に何百遍 となく取り換わされたこの常套 な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻 からお延の腹の中にどんな潮 の満干 があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草 を雁首 へ詰めた。
「おれの留守 にまた叔母さんから何か聴 いたな」
お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌 のミツへ挟 んでいるか、または胴巻 へ入れて臍 の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
叔父の笑談 はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉 と睫毛 をいっしょに動かした。その睫毛の先には知らない間 に涙がいっぱい溜 った。勝手を違えた叔父の悪口 もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管 で灰吹 を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕 ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
叔母の小言 は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶 とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女の唇 が顫 えた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰 きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛 めなくったって……」
叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞 めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆 な蔭 で感心しているんだ。だから……」
「そんな事承 わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯 い方 が悪かったのかい」
「いいえ。皆 んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊 くんだ」
「だから皆 なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
お延はなお泣き出した。叔母は苦々 しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅 にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那 から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
お延は唇 を噛 んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評 し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
ようやく発作 の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋 の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。
六十九
ところへ何にも知らない継子 が、語学の稽古 から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出 した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶 を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻 から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼 だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁 であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆 まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
しかし下女が襖越 に手を突いて、風呂の沸 いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話 しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉 しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
叔母は婉曲 に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止 すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙 ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧 みない叔母の態度は、お延にとって羨 ましいものであった。また忌 わしいものであった。女らしくない厭 なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯 した。
立って行く叔母の後姿 を彼女がぼんやり目送 していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
二人は火鉢 や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。
七十
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井 にも残っていた。硝子戸 を篏 めた小さい棚 の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇 の花を刺繍 にした籃入 のピンクッションもそのままであった。二人してお対 に三越から買って来た唐草 模様の染付 の一輪挿 もそのままであった。
四方を見廻したお延は、従妹 と共に暮した処女時代の匂 を至る所に嗅 いだ。甘い空想に充 ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然 鮮 やかな□ に変化した自己の感情の前に抃舞 したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯 があったから、ぱっと火が点 いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧 みるとその時からもう半年 以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極 めて現実化され悪 いものらしくなって来た。お延の胸の中 には微 かな溜息 さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐 っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外 れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽 が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤 を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰 いたい様子がありありと見えた。お延は従妹 を喜 こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭 であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
神籤 に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯 れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶 い起させる良 い媒介 であった。弱いものの虚 を衝 くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌 にした。抑えられた手を跳 ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱 を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚 りなく出して、遊技的 な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱 の前に飾ってある大事な一輪挿 を引 っ繰 り返 した。紫檀 の台からころころと転がり出したその花瓶 は、中にある水を所嫌 わず打 ち空 けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放 り出 された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。
七十一
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾 を取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたが零 したんだから、あなた取っていらっしゃい」
二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン拳 よ」と云い出したお延は、繊 い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
「狡猾 いわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
しまいにお延が負けた時には零 れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗 に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂 から出した手巾 で、濡 れた所を上から抑 えつけた。
「雑巾なんか要 りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
彼女は転がった花瓶 を元の位置に直して、摧 けかかった花を鄭寧 にその中へ挿 し込んだ。そうして今までの頓興 をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
発作 が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入 の神籤 を取り出して、傍 にある本箱の抽斗 へしまい易 えた。しかもその上からぴちんと錠 を下 して、わざとお延の方を見た。
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹 より早く醒 めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。当 り障 りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼 ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は年齢 が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定 に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様 を亡 くなして、未亡人 になるとか」
継子は少し怪訝 な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅 にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
お延は口籠 った。継子は彼女に返答を拵 える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵 わないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
七十二
だんだん勾配 の急になって来た会話は、いつの間 にか継子の結婚問題に滑 り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女 関係に一日 の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障 りのない際 どい筋の上を婉曲 に渡って歩いた。
「そりゃ駄目 よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他 の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
お延は答える前にしばらく間 をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄 をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯 にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返 も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目 同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目 って云うじゃありませんか。傍 にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改 った態度で口を利 き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
お延はそこで句切 をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継 ぎ足 した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択 ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸 しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好 の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真 ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆 れたようにお延の顔を見た。「昨夕 お目にかかったあの方 の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
平生包 み蔵 しているお延の利かない気性 が、しだいに鋒鋩 を露 わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後 へ退 った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微 かな溜息 さえ吐 いた。するとお延が忽然 また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑 っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘 なんか吐 いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
こう云って絶対に継子を首肯 わせた彼女は、後からまた独 り言 のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡 一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然 と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。
七十三
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主 ががらりと室 の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶 した。
彼女の机を据 えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅 であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後 へ入る事のできた彼女は、従姉 のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合 のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開 きそうになった黒い靴足袋 の親指の先を、手で撫 でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間 をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相 だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃 えて笑った。そうして袴 も脱がずに、火鉢 の傍 へ来てその間に坐 りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子 を食べ出した。
「今頃お八 ツ? このお皿を見ると思い出すのね」
お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自 の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨 そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫 だし、そうかって宅 に何かあっても、昔 しのように旨 しくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
二人が話しているうちに、百合子は綺麗 に木皿を空 にした。そうして木に竹を接 いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
薄赤くなった継子は急に妹 の方へかかって行った。百合子は頓興 な声を出してすぐそこを飛 び退 いた。
「おお大変大変」
入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室 を逃げ出して行った。
七十四
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間 もなくであった。
一家のものは明るい室に晴々 した顔を揃 えた。先刻 何かに拗 ねて縁の下へ這入 ったなり容易に出て来なかったという一 さえ、機嫌 よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹 から、彼がぱくりと口を開 いて上から鼻の先へ出された餅菓子 に食いついたという話を聞いたのであった。
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星 が出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開 けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬 の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
一 はそれで納得 して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落 こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨 であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍 のものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう旨 くは行かないよ」
女連 が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅 が軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら潰 れるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻 藤井を晩餐 に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊 いて見たくなった。
「一さん藤井の真事 さんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑 わった。
みんなを笑わせた真事の逸話の中 に、下 のようなのがあった。
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗 き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢 を背負 って、尨犬 の皮で拵 えたといわれる例の靴を穿 いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑 りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖 くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置 き去 りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終 足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂 げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧 のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否 でも顔を合せなければならない祝儀 不祝儀 の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才 なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面 もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向 に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜 の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適 う模細工 で毎日埋 めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
これらの原因が困絡 がって、叔父は時々藤井の宅 へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義 に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭 がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底 まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶 なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他 をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟 を弄 んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊 いた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥 れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら厭 だ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
お延と叔母はこもごも呆 れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅 でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
親身 の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目 になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終 引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充 たす訳に行かないんだ」
お延の興味は急に退 きかけた。叔父の云う事は、自分の疾 うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合 っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟 よ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟 よ」
お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭 であった。
七十六
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て成仏 する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度 夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪 くなる。今までの牽引力 がたちまち反撥性 に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺 を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙 げるのは、やがて来 るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
叔父の言葉のどこまでが藤井の受売 で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目 で、どこからが笑談 なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術 を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒 があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏 が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵 いっこないからお止 しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸 すように仕向けるのね」
お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切 れるのを待って、徐 ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜 しい。敗 けたものを追窮 はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐 れむという美点があるんだからな、こう見えても」
彼はさも勝利者らしい顔を粧 って立ち上がった。障子 を開けて室 の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日 にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾 い読 にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽 なもんだ。洒落 だとか、謎 だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝 らなくってね」
「なるほど叔父さん向 のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支 えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
お延が礼を云って書物を膝 の上に置くと、叔父はまた片々 の手に持った小さい紙片 を彼女の前に出した。
「これは先刻 お前を泣かした賠償金 だ。約束だからついでに持っておいで」
お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利 く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒 する妙薬だ」
お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体 はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜 った。
七十七
お延は叔父の送らせるという俥 を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁 の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて呼息 が短いので、坂を上 るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
二人は途々夜の更 けた昨夕 の話をした。仮寝 をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家 にいたという縁故で、新夫婦二人 ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守 なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独 りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯 が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想 いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日 の結果を、今度は繰 り返 させたくないという主意からであった。
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛 うじて別れの挨拶 を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
車内のお延は別に纏 まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日 からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩 しい影像 を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調 で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定 しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効 をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串 を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
玄関の格子 を開ける音と共に、台所の方から駈 け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧 な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切 した態度を、さも自分の手柄 ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊 いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来 やしなかったろうね」
するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高 な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利 いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套 を取りにいらっしゃいました」
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊 けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生 えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作 のように込 み上 げてくる滑稽感 に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中 から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。
七十八
お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛 てて手紙を書いた。一昨日 も昨日 も書きかけて止 めにしたその音信 を、今日は是非 とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
彼女は落ちつけなかった。不安から逃 れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻 からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏 めて見る事ができそうに思えたのである。
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶 から始めて、無沙汰 の申し訳までを器械的に書き了 った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的 におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家 の父母 に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措 いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄 は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母 に報知する必要に逼 られてはいなかった。けれどもある男に嫁 いだ一個の妻として、それを見極 めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確 としたところは手に掴 めなかった。
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻 電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像 は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根 に辿 りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日 解決ができなければ、明日 解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日 解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
これが彼女の論法 であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽 くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し軽 くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母 の喜こびそうな津田と自分の現況を憚 りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣 が、それからそれへと描出 された。感激に充 ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
しまいに筆を擱 いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削 の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海 を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕 っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘 や、気休 や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎 みます、軽蔑 します、唾 を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部 の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺 むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙 の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目 です。その人こそ嘘吐 です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
お延は封書を枕元へ置いて寝た。
七十九
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母 の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日 して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙 の唐本 を持って、彼女は五六町隔 った津田の宅 まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然 を慰 めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立 が立ててあった。白い紙の上に躍 っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後 から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家 へ来ていた由雄であった。
二人は固 よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂 で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
由雄はその時お延から帙入 の唐本 を受取って、なぜだか、明詩別裁 という厳 めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作 に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父宛 の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹 いた。彼の遣口 は不作法 であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野 とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用 の書物を探しに奥へ這入 った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空 しく引きとめておいた詫 を述べた。指定 の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日 にでも取りに来るからと約束して宅 へ帰った。
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提 げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗 の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠 でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪 えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩 という四文字 を的 に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人 ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽 きつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑 を拭 い去るために、その事実を引 ッ繰 り返さなければならなかった。
八十
強い意志がお延の身体 全体に充 ち渡った。朝になって眼を覚 ました時の彼女には、怯懦 ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起 の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳 ね退 けて、床を離れる途端 に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒 の刺戟 と共に、締 まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
彼女は自分の手で雨戸を手繰 った。戸外 の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日 に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉 しかった。怠 けて寝過した昨日の償 い、それも満足の一つであった。
彼女は自分で床を上げて座敷を掃 き出した後で鏡台に向った。そうして結 ってから四日目になる髪を解 いた。油で汚 れた所へ二三度櫛 を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂 に束 ね上 げた。それが済んでから始めて下女を起した。
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳 に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様 のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日 行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
お延の言葉遣 は平生より鄭寧 で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷 を外 して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚 のあるその家族は、お時にとっても、興味に充 ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物 にされたような変な結果に陥 るからであった。ふとした拍子からそんな気下味 い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴 したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨 を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急 だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好 しだしね」
お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞 を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後 をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧 でも、気が利 いていても、顔が悪いと男には嫌 われるだけね」
「そんな事はございません」
お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
お時は呆 れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外 から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴 が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主 を判断しようとして首を傾けた。
八十一
袖 を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈 け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛 み殺そうとして、お延の前で悶 え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締 めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取 でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見 の前に立 ち竦 んだ彼女は当惑の眉 を寄せた。仕方がないので、今出 がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更 知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌 だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引 を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼 っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支 えないものと独 りで合点 しているらしかった。
彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟 けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指 されているのだろうという説明までして聴かせた。
彼の談話には気の弱い女に衝撃 を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々 ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途 がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕 お延とお時をさんざ笑わせた外套 の件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体 に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
お延はすぐ入用 の品を箪笥 の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡 った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性 をよく知っていた。着古した外套 一つが本 で、他日細君の手落呼 わりなどをされた日には耐 らないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違 ないんだから。嘘 なんか吐 きやしませんよ」
出してやらないと小林を嘘吐 としてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確 なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面 ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗 に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ駈 けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋 いだ。ところがその談話は突然な閃 めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍 らせた。
八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は藪 から棒 にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当 らず障 らずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり大袈裟 なので、お延はかえって相手を冷評 し返してやりたくなった。しかし彼女の気位 がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮 する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛 にここかしこを駈 け回 る代りに、時としては不作法 なくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力には敵 いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当 のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「独 りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、賢 こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰 いになるのが、一番捷径 じゃありませんか」
小林は頭を掻 く真似 をした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈 しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈 け落 をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人 の道行 をお延に想 い起させた。そうした濃厚な恋愛を象 どる艶 めかしい歌舞伎姿 を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他 の着古した外套 を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落 をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴 れていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
小林はこう云ったなり畏 まった。その態度が全くお延の予期に外 れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目 であった。しばらく間 をおいてから独 り言 のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界 まで駈落のお供をしてくれるような、実 のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌 なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹 があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴 れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃 れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥 った。
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊 き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を岐路 に誘い込んだ。
「あなた先刻 おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は腑 に落 ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠 でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終 薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終 に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯 われる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気 ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調 の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部 から覗 いてもとうてい判 りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐 の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚 ける事が上手だから、僕なんざあとても敵 わない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨 いお手際 をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩 さい顔もしなかった。愛嬌 を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘 き出 されると知りながら、彼女はついこういって訊 き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露 するらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも軽蔑 した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々 しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥 めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯 って行った。
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に這入 り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心 のところはわざと略してしまった。例 えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深 しをしていたかの点になると、彼は故意に暈 しさって、全く語らないという風を示した。それを訊 けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥 しているのではなかろうかという気さえ起した。
お延は平生から小林を軽く見ていた。半 ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑 の裏には、まだ他 に向って公言しない大きな因子 があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯 、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍 もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴 を零 して、厭 がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物 であった。ことにそういう階級に馴 らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅 へ出入 りをするそれらの人々は、みんなその分を弁 えていた。身分には段等 があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体 を吐 くものにはけっして会った事がなかった。
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦 れッ枯 らしじゃなかろうか」
軽蔑 の裏に潜 んでいる不気味な方面が強く頭を持上 げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠 にか、またはそれに全くの無頓着 でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度 きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉 ませて、歇斯的里 でも起されると、後 でまた僕の責任だなんて、津田君に恨 まれるだけだから」
お延は後 を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当 に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾 うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児 になる気遣 はないから大丈夫です」
小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹 れ代 えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮 ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌 ぎに幾らでも先刻 の続きを話しますよ。しゃべって潰 すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰 しにゃ、同 なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊 でないからね」
お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯 わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法 な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜 しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の渦 が漲 った。進んでも退 いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振 さえ示した。
「何という陋劣 な男だろう」
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨 めっ競 をしていた。すると小林の方からまた口を利 き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴 かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私 の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑 されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻 からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫 も変らないのです。これだけはいくら怜悧 な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体 に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
小林の眼は据 わっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん僻 んでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能 に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨 む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼 さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭 がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑 されても存分な讐討 ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当 て篏 って、毫 も悖 らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚 りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
小林は多少溜飲 の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻 から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴 だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
小林はまた大きな声を出して笑った。
八十六
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目 さが疑がわれた。反抗、畏怖 、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪 、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯 したいろいろなものはけっして一点に纏 まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊 いた。
「じゃあなたは私を厭 がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套 を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望 かも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から憎悪 の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性 がありありと瞳子 の裏 に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡 から敵打 をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他 を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
小林の筋の運び方は、少し困絡 かり過ぎていた。お延は彼の論理 の間隙 を突くだけに頭が錬 れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴 むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏 めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負 わないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚 があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草 を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括 ったように落ちついている小林の態度がまた癪 に障 った。そこへ先刻 から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠 まりは、一定した様式の下 に表現される機会の来ない先にまた崩 されてしまわなければならなかった。
八十七
お時は縁側 へ坐って外部 から障子 を開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑 み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終 相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸 であった。それから判切 聞こえるところも辻褄 の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦 らめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのまま宅 へ帰るのが厭 だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん厭 な思いをさせられたのだと思うと、気を利 かした下女がかえって恨 めしくもあった。
彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据 えられた銅 の金具の光る重 ね箪笥 の一番下の抽斗 を開けた。そうして底の方から問題の外套 を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引 ッ繰返 した。
「思ったよりだいぶ汚 れていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟 を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著 じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢 も云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖 へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳 み皺 が幾筋もお延の眼に入 った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆 に行 った。
「ちょうど好いようですね」
彼女は誰も自分の傍 にいないので、せっかく出来上った滑稽 な後姿 も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐 をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を締 めた。
「奥さんのような窮 った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭 でこの冬も生きていられます」
彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側 へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他 に笑われないようにしないといけませんよ」
八十八
二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端 、小林が後 を向いた拍子 、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
その時小林の太い眉 が一層際立 ってお延の視覚を侵 した。下にある黒瞳 はじっと彼女の上に据 えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚 がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固 より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
小林は応じなかった。問答が咫尺 の間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
鋭どい稲妻 がお延の細い眼からまともに迸 しった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
お延は歯を噛 んだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側 を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
小林はのっそり立ちどまった。そうして裄 の長過ぎる古外套 を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻 云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
小林はわざと空々 しい様子をした。はてなと考える態度まで粧 って見せた。お延は詰責 した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。妻 の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗 に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥 を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫 まりましょう。そうしたらいいでしょう」
お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
お延は依然として下を向いたまま口を利 かなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後 を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併 せて取消します。その他もし奥さんの気に障 った事があったら、総 て取消します。みんな僕の失言です」
小林はこう云った後で、沓脱 に揃 えてある自分の靴を穿 いた。そうして格子 を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
微 かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段 を駈 け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。
八十九
幸いにお時が下から上 って来なかったので、お延は憚 りなく当座の目的を達する事ができた。彼女は他 に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
濡 れた手巾 を袂 へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗 を開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用 の手荷物を纏 めるため、二三日前 すでにそこを捜 したのである。彼女は残された封筒だの、物指 だの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧 に揃 えた。パナマや麦藁製 のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏 の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤 に咲いた日比谷公園の躑躅 だの、突当りに霞 が関 の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂 のように、聯想 としてつき纏 わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を棄 てたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手を環 にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応 えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪 き廻 した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜 んでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠 を卸 さない秘密をそこいらへ放 り出 しておくには、あまりに細 か過 ぎるのが彼の持前であった。
お延は戸棚 を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多 が、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差 の中から、津田宛 で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘 いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実の下 に、それへ手を出さなければならなくなった。
封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復 した。
突然疑惑の焔 が彼女の胸に燃え上った。一束 の古手紙へ油を濺 いで、それを綺麗 に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片 を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑 えつけていた。それは初秋 の冷たい風が肌 を吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分と経 たないうちに起った光景であった。箸 を置くと、すぐ二階から細い紐 で絡 げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点 けていた。お延が縁側 へ出た時には、厚い上包がすでに焦 げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊 いた。津田は嵩 ばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故 にして、自分達の髪を結 う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦 を巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙に咽 ぶ顔をお延から背 けた。……
お時が午飯 の催促に上 って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。
九十
時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独 り膳 に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張 っていた。そのくせ心は纏 まりなく動いていた。先刻 出かけようとして着換えた着物まで、平生 と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介 となった。
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩 れなかったなら、お延はついに一言 も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭 さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸 を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊 いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
彼女は自分の専断で病院へ行った詫 を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
お延は疑 りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口 で先へ進んだ。
「旦那様 は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴 だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判 を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
お延は軽蔑 んだ笑いを微 かに洩 らした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊 きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変厭 な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換 をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評 かされました」
お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他 の家 へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘 だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍 で笑っていらっしゃいました」
お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
九十一
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒 ますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛 がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界 に達せられるもののように考えていた。人世観という厳 めしい名をつけて然 るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温 く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何 にも執着しない事であった。呑気 に、ずぼらに、淡泊 に、鷹揚 に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通 であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟 がますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩 の酒で臓腑 を洗濯されたような彼の趣 もようやく解する事ができた。こんなに拘泥 の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目 に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚 る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注 がなければならなくなった。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯 が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他 の知らない気苦労をしなければならなかった。
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経 っても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳 の子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情の下 に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老 けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染 みたのである。
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母 の味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂 に気下味 い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎 しんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好 きな女と結婚しなかったならばという気が、始終 胸の底にあった。そうしてそれは身贔負 に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から煙 たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭 がるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌 だという一点に纏 められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢 のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑 があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯 してこの相違すら考えなかった。
お秀がお延から津田の消息を電話で訊 かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套 を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳 にちょっと手を出したぎり、また仰向 になって、昨夕 の不足を取り返すために、重たい眼を閉 っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入 りかけた間際 だったので、彼は襖 の音ですぐ眼を覚 ました。そうして病人に斟酌 を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌 を売り合わなかった。嬉 しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過 ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹 でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪 い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部 の所作 だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙 し合う手数 を省 いて、良心に背 かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取 も直 さず、愛嬌 のない顔という事に過ぎなかった。
第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄 であった。だから遠慮の要 らないという意味で、不愛嬌 な挨拶 が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災 の元で、互の顔を見ると、互に弾 き合 いたくなった。
ふと首を上げてそこにお秀を見出 した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精 と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着 なく、言葉もかけずに、そっと室 の内に入って来た。
彼女は何より先にまず、枕元にある膳 を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引 ッ繰 り返 された牛乳の罎 の下に、鶏卵 の殻 が一つ、その重みで押し潰 されている傍 に、歯痕 のついた焼麺麭 が食欠 のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗 に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は眉 をひそめて、膳を階子段 の上 り口 まで運び出した。看護婦の手が隙 かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食 の残骸 は、掃除の行き届いた自分の家 を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来 ようと思ったんですけれども、あいにく昨日 は少し差支 えがあって――」
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄 を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟 の徹 らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗 に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振 を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振 を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
津田は後を訊 かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂 さんが、もし閑 があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
九十三
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口 の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏 のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
彼は一昨日 の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾 を彼から得たお延が、階子段 を下へ降りて行った拍子 に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中 で叫んだ。すると苦 い記憶をわざと彼のために繰 り返 してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮 む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦 すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和 されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端 に一度引いた浪 がまた磯 へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返 してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。止 めさせようと焦慮 れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠 の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分の傍 に引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈 しく鳴らした号鈴 の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭 な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟 に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭 にほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作 に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合 でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡 で、二つの間にある関係を拵 えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末 を思い起させた。彼は苦 い顔をした。
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お厭 なら病院をお出 になってから後にしましょうか」
別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌 しなければならなかった。
「どこか痛いの」
津田はただ首肯 いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂 さんはどうしたんでしょう。昨日 の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお蔭 で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々 っ子 らしく見えて来た。上部 はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥 ずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
津田は優 に自分を偽 る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭 であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから碌 な事じゃないのよ。よくって」
津田にも大よその見当 はついていた。
九十四
「またあの事だろう」
津田はしばらく間 をおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもう例 の通り聴 きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻 から用は今度 の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな厭 な顔をなさるんですもの」
お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈 を加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へ通 り過 した。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
津田の所へは父の方から、お秀の許 へは母の側 から、京都の消息が重 に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無 を心のうちで気遣 っていたのである。兄妹 の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末 の仕払や病院の入費の出所 に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡 かって、離す事のできない事情の下 にある意味合 を、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微 かに薄笑の影を締 りの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪 だった。平生は単に妹であるという因縁 ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟 した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他 の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯 自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃 えて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家 へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当 がついて」
津田は何とも答えなかった。お延の拵 らえてくれた□袍 の襟 を手探 りに探って、黒八丈 の下から抜き取った小楊枝 で、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻 から訊 いてるじゃないか」
お秀はわざと眼を反 らして縁側 の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作 の代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
九十五
津田はようやくお秀宛 で来た手紙の中に、どんな事柄 が書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚 するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕 いだとか家賃の滞 りだとかいうのは嘘 でなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
彼は沈吟 して考えた。山羊髯 を生 やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪 を嫌 って髷 にばかり結 いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他 からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
お秀には自分の良人 の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
「良人 でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻 がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作 にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴 、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説 き落 したのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割 いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極 呑気 な男であった。約束の履行 などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行 の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責 に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗 に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞 めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮 に打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。
不断から派手過 ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末 を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆 のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解から逃 れる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂 のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったい嫂 さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃ嫂 さんが一番気楽でいいわね」
お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮 かに見えた。
九十六
「いったいどうしたらいいんでしょう」
お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩 らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑 さえその奥には控えていた。
「そりゃ良人 だって兄さんに頼まれて、口は利 いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人 へ対して困るだけだわ」
津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡 がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚 だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面 するに違ないとでも思っているのか知ら」
「そこなのよ、兄さん」
お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
微 かな暗示が津田の頭に閃 めいた。秋口 に見る稲妻 のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質 のものであった。心のうちで劈頭 に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下 のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体 よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行 がかり上 堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応 なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟 もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊 さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭 い狡獪 な所も少しはあった。小額の金に対する度外 れの執着心が殊更 に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口 に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉 を顰 めなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑 への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度 から成立った父の料簡 は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。
九十七
感情と理窟の縺 れ合 った所を解 ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈 ったくした。しかし彼らは兄妹 であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊 しないところを暗 に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁 は演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括 る手際 をお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同 なじ事だがね」
「あら、嫂 さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
お秀の兄を冷笑 けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚 び起 した。
「できなければ死ぬまでの事さ」
お秀はついにきりりと緊 った口元を少し緩 めて、白い歯を微 かに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄 くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
津田にとってそれほど容易 い解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、また取 も直 さず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角 において突き崩 すのは、自分で自分に打撲傷 を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他 から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余 るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己 れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質 に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放 り出 すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺 っていた。腹の中に言葉通りの断乎 たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤 を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量 した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒 したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊 らなく思った。兄の後 に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪 んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚 して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹 であった。そんなこんなの蟠 まりから、津田の意志が充分見え透 いて来た後 でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充 ちていた。彼は成上 りものに近いある臭味 を結婚後のこの妹に見出 した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳 めしい具足 を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄 りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵 らえかけていた局面を、一度に崩 してしまったのである。
九十八
しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段 の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊 き返した。薬局生は下 りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶 が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着 にした。芝居へ行ったぎり、昨日 も今日 も姿を見せないお延の仕うちを暗 に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日 の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹 き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振 から推して見ると、この類測に満更 な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛 に自分を驚ろかしに這入 って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那 に閃 めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持 ち応 えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放 っておけ」
この挨拶 がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌 む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚 かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂 に対して無頓着 を粧 うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口 を取り上げた時、一方では急込 んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄 てて電車に乗ったのである。それから十五分と経 たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅 に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套 をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他 の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛 があった。自暴 があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択 される恐れがあった。平生から彼を軽蔑 する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地 を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
津田の心には突然一種の恐怖が湧 いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父 の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸 一本だって、大きな家 を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸 を抱え込んでいたって。嫂 さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」
九十九
津田はお秀の口から出た下半句 を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとその後 を待っていた。しかし彼の聞こうとするその後 はついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取 られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作 から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑 かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
同時に先刻 から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念 に制せられた。
そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口 を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったい嫂 さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜ訊 くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
津田は答えなかった。お秀は穴の開 くようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ聴 かないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子 を抜く必要があったので、彼は判然 した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕 だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡泊 でないから駄目よ」
津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違 をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴 は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
お秀は急に的 の外 れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守 に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
二人は黙らなければならなかった。
百
しかし二人はもう因果 づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲 き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼 る金の工面 、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥 っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
時間がちょうどこんな愛嬌 をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせ家 へ帰ったって用はないんだろう」
お秀は津田のいう通りにした。話は容易 く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹 らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足 にならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜 り込 もうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用 のものを」
「そうかい」
津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌 にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦 らす事に帰着した。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻 もうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を焦 らすためにかい、または僕にくれるためにかい」
お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜 めた。津田にはそれが口惜涙 としか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
今度は呆 れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は他 に訊 かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌 を取り返した方が得 か、またはくしゃりと一度に押し潰 した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐 ろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間 をおいた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのお腹 の中には、あたしが京都へ告口 をしたという事が始終 あるんでしょう」
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしを眼 の敵 にしていらっしゃるんです」
「誰が」
不幸な言葉は二人の間に伏字 のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明 のように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。嫂 さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」
百一
津田から見たお秀は彼に対する僻見 で武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障 りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠 からぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒 じゃないよ」
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装 って、うっちゃっておおきになるくらいですから」
こういう言葉が所嫌 わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
彼は神経の亢奮 を紛 らす人のように、しきりに短かい口髭 を引張った。しだいしだいに苦 い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸 にされて行くので、しまいに彼は恥 じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息 で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢 で。
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊 でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体 に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰 いになる前、今度 のような嘘 をお父さんに吐 いた覚 がありますか」
この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
お秀はそうだと答えたいところをわざと外 した。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠 にそれだけの事実を主張するんです」
津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥 って来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った証拠 はまだあるんです」
津田は素知 らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙 げた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂 さんに何か云やしないかって、先刻 から心配しているじゃありませんか」
「煩 さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗 き込むようにして見た。それから好い恰好 をした鼻柱に冷笑の皺 を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息 で懺悔 の深谷 へ真 ッ逆 さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後 に平坦 な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖 がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当 だろうね」
お秀は赫 とした。同時に一筋の稲妻 が彼女の頭の中を走った。
百二
「解 りました」
お秀は鋭どい声でこう云 い放 った。しかし彼女の改まった切口上 は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦 に応ずる気色 を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を揺 ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂 さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独 りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚 していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似 は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑 が、微温 い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻 から見せている津田を毫 も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先 をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘 ではなかったが、矢面 に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂 だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑 を妹が少しでももっているなら、綺麗 にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
津田の癇癪 は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕 まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑 なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂 さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻 を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖 がるのです。しかもその怖がるのは――」
お秀がこう云いかけた時、病室の襖 がすうと開 いた。そうして蒼白 い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
百三
彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜 を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉 を開けて内へ入る事ができたのである。
実際彼女は三四日 前に来た時のように、編上 だの畳 つきだのという雑然たる穿物 を、一足も沓脱 の上に見出 さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲 は寂寞 していた。
彼女はその森 とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃 えられたただ一足の女下駄を認めた。価段 から云っても看護婦などの穿 きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍 らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何 でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊 いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段 の下まで来た。そうして上を見上げた。
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀 みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣 を異 にしていた。そこには強い感情があった。亢奮 があった。しかもそれを抑 えつけようとする努力の痕 がありありと聞こえた。他聞 を憚 かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上 ってすぐ取 つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴 こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当 、すなわち彼女の後 の方から洩 れて来るのであった。
彼女はそっと階子段を上 った。柔婉 な体格 をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効 をもって酬 いられた。
上 り口 の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄 が拵 えてあった。お延はそれに倚 って、津田の様子を窺 った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入 った。ことに嫂 さんがという特殊な言葉が際立 って鼓膜 に響いた。みごとに予期の外 れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛 む暇 なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛 げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩 をしていた。その喧嘩の渦中 には、知らない間 に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主 な原因かも分らなかった。
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰 のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味 している閑 などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立 んでいる彼女の耳朶 を叩 きに来るだけであった。
彼女は事件が分明 になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震 わせた。際立 って明暸 に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻 から一言葉 ごとに一調子 ずつ高まって来た二人の遣取 は、ここで絶頂に達したものと見傚 すよりほかに途 はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強 いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁 を防ぐ緩和剤 として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
彼女は兄妹 の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際 が要 った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際 どい刹那 に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖 を開けた。
百四
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止 められた時の沈黙は、けっして平和の象徴 ではなかった。不自然に抑 えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄 い或物が潜んでいた。
二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側 から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵 であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包 み蔵 す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支 えないという証左 を、永く心の中 に掴 んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下 の目的としなければならなかった。彼女は蒼白 い頬 に無理な微笑を湛 えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作 だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上 った。
「おや」
「今日 は」
軽い挨拶 が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰 に圧迫され始めなければならなかった。滅多 な事の云えないお延は、脇 に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本 を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終 腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁 を翻 えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言 ほど口を利 いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉 から圧 し出したようなものであった。
お延はまた懐中 から一通の手紙を出した。
「今来 がけに郵便函 の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
お延の言葉は几帳面 に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人 のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗 に嫌 っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣 いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延駄目 だとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
津田の云 い方 は珍らしく真摯 の気に充 ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平 たい旦那様 になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒 い気 のないその態度がお延には嬉 しかった。彼女は慰さめるような温味 のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生 の自分に戻ってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本 の場合のように口を利 き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了 って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑 み込めていた。それでもお秀はわざと訊 いた。
「何と書いてありますか、兄さん」
気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻 からの行 がかり上 、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹 であった。
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中 で再度の衝突を惧 れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸 に抑 えれば、苦 もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒 らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室 に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退 きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩 の相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信 があったんですか」
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお物費 が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」
お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面 はどうにでもできるぐらいに考えて」
お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕 ろったの、家賃が滞 ったのって、そんな費用は元来些細 なものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家 を一軒持って見ると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌 を惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆 があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に訊 いて御覧よ」
お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚 を充 たした。
「それで先刻 から大変御機嫌 が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩 になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交 りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆 そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
津田は蒼蠅 そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉 の間に現われた。
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂 に対して何とか説明しなければならない位地 に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎 んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々 しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人 は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく解 らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目 がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴 きになっても駄目 よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直 にお取りにならないんです」
「素直にも義剛 にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭 ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「解 ってるじゃありませんか」
三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫 まったらどうだ」
お延は呆 れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡 では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後 を遮 った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂 さんに詫まって貰 いたいと云いました。そんな言がかりを捏造 されては、あたしが嫂さんに対して面目 なくなるだけじゃありませんか」
沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利 かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって同 なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂 さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛 いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日 嫂さんから電話がかかった時、すぐ来 ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅 に用があったし、午 からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損 なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
お延はなお黙っている津田の顔を覗 き込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭 だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走 った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩 さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭 なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
百七
三人は妙な羽目に陥 った。行 がかり上 一種の関係で因果 づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外 す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐 ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
しかも傍 から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他 から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後 に背負 っている因縁 は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操 った。
しまいに津田とお秀の間に下 のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊 に云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹 らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口 おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫 じゃありません。心からの後悔です」
津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫様 が空々 しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前 の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪 ったんでしょう」
「でなければ何も詫 る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗 しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止 しよ。何も無理に貰 おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻 からそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
津田は一種嶮 しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪 が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用 だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
お秀の手先が怒りで顫 えた。両方の頬 に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮 やかであった。しかし彼女の言葉遣 いだけはそれほど変らなかった。怒りの中 に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂 さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人 には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別 ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵 えるだけなのよ」
彼女はこう云いながら、昨日 岡本の叔父 に貰って来た小切手を帯の間から出した。
百八
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行 がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中 で祈ったのである。会心の微笑を洩 らしながら首肯 ずいて、それを鷹揚 に枕元へ放 り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所 について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
不幸にして津田にはお延の所作 も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣 を異 にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊 いた。
「こりゃいったいどうしたんだい」
この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨 めしく摧 いた。彼女の予期は外 れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目 くさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露 するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解 る事なんだから」
これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑 する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲 の下 るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
先刻 から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐 から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から白紙 で包んだものを抜いて小切手の傍 へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
津田に話しかけたお秀は暗 にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強 くいつまでもそれを聴 いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は屹 となった。
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒 を挫 いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱 っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜 しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎 った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴 くよりほかに途 がなかった。二人は惹 きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮 ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝 いて出た。
百九
「実は先刻 から云おうか止 そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑 かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭 になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合 からです」
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後 を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目 に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂 さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩 になったら、その時に止 めていただけばそれまでですから」
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日 まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃 いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何 にも考えていらっしゃらない方 だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他 が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆 れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を継 ぎ足 した。二人の中 の一人が自分を遮 ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰 いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体 にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁 ずくと諦 らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然 した観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他 の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉 しがる能力を天 から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂 さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併 せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直 に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方 なのです」
お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮 ぎろうとするお延の出鼻を抑 えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。
百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直 です。そんなに長くかかりゃしません」
お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻 津田と衝突した時に比 べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂 から沈静の方へ推 し移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂 さんも考えて下さい」
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁 としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目 であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額 は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日 ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放 り出 さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生 ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解 りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何 にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手 から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅 から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途 はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻 そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同 じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然 入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅 さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌 もなければ気高 くもなかった。ただ厄介 なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに諦 らめていたお秀は、別に恨 めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人 が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人 を煩 わせるのは厭 です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何 という合図 の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段 を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶 を交 り換 せて別れた。
百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面 でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後 でも、それが偶然の廻 り合 せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果 を迹付 けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負 って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚 ましい点は容易に見出 だされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持 ち来 されそうに見える葛藤 さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽 くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通 りの安心と、三分方 の不安があった。その三分方の不安を、今日 の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実 を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
これはお延自身に解っている側 の消息中 で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間 に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑 の眼 から、彼女は運よく免 かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際 どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡 げる役を勤めたお延は、吾知 らず儲 けものをしたのと同じ事になったのである。
彼女はなぜ岡本が強 いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅 へ昨日 行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数 を省 く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段 を上 って、また室 の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那 であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何 にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴 であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好 をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉 しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露 わすまでに口を開 けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴 に電話なんかかけるなって云うんだ」
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教 じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目 くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋 だよ。つまりああ捏 ね返 さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生 じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍 にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終 見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。
百十二
久しぶりに夫と直 に向き合ったような気のしたお延は嬉 しかった。二人の間 にいつの間 にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々 しい心持になった。
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促 がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬 いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻 は、取 も直 さず彼女にとって復活の曙光 であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色 の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸 ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍 い瞬 きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退 いた。少くともさほど苦 にならなかった。耳に入れた刹那 に起った昂奮 の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊 かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気 に薄墨 で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何 にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾 が、ああまで際 どくならずにすんだなら、お延は行 がかり上 、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探 らなければならない順序だったのである。
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛 くて耐 らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩 き込んでおく方が得策だと思案した。
こう決心するや否や彼女は嘘 を吐 いた。それは些細 の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘 って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭 で助かったよ」
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随 いて、すぐ彼女の口を滑 って出てしまった。
「昨日 岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰 うためなのよ」
津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳 ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経 たないうちに、どこからそんな好意が急に湧 いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭 なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん辛 かったの」
お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵 えて貰 っていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日 までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」
自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑 み込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪 いだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃 っているからな」
津田はかえって自尊心を傷 けられたような顔つきをした。お延はそれを取 り繕 ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間 からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
百十三
二人はいつになく融 け合った。
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知 らず弛 んだ。自分の父が鄙吝 らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念 、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊 りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧 な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉 しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣 が出た。余事はしばらく問題外に措 くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果 から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥 か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴 した。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂 わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那 であった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂 はけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責 を彼女に対して背負 って立っていたのと同じ事であった。利巧 な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優 るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金 の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕 わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑 されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月 父から助 けて貰 うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱 かざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊 でないのを恨 んだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝 け出 してくれないのかを苦 にした。しまいには、それをあえてしないような隔 りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精 のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直 に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎 しんでいた。ところがお秀との悶着 が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲 き破った。しかもお延自身毫 もそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人 のように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融 け合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心 の善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々 で、容易に纏 まらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉 った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存 はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具 っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪 い吉川に口を利 いて貰 おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説 き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手 であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善 の津田はまた充分成効 の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我 を折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後 で心持よく別れた。
百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易 く眠る事ができた。翌日 もまた透 き通るような日差 を眼に受けて、晴々 しい空気を篏硝子 の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆 った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
洗濯屋の男は、俗歌を唄 いながら、区切 区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上 って、その白いものを隙間 なく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作 は単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解 らなかった。
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶 い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然 過ぎた。それを纏 めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
一にはこの間訪問した時からの引 かかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後 を聴 くまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披 く権利は自分にあるようにも思われた。
二には京都の事が気になった。軽重 を別にして考えると、この方がむしろ急に逼 っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体 を持ち扱った彼は、昨日 お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口 だと信じていた。
お延がなぜこういう用向 を帯びて夫人を訪 ねるのを嫌 ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入 をしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵 らえて貰 ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強 いる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効 するに違 ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後 でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞 れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
津田は洗濯屋の干物 を眺めながら、昨日 の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰 り寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐 の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少し畏 れなければならなかった彼には、杜撰 にそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水の泡 を製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵 えても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧 らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越 に表を眺めた。
表はいつか風立 った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠 めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。
百十五
下から上 って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊 いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口 の方はそっとしておかないと、危険ですから」
彼はこう注意して、じかに局部を抑 えつけている個所を少し緩 めて見たら、血が煮染 み出したという話を用心のためにして聴 かせた。
取り易 えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥 がすと、血が迸 しるかも知れないという身体 では、津田も無理をして宅 へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数 は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」
医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有 になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直 です。もう少しの辛防 です」
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込 み合 わないためか、そこへ坐 って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話 が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑 をかけて、是非その看護婦を殴 らせろと、医局へ逼 った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽 であった。こういう性質 の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出 す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪 られた。そうしてその裏側へ暗 に自分の長所を点綴 して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括 りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中 から、その一冊を抽 いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯 ずかせるような趣 がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔 を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応 えなかった。頭にさえ呑 み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下 のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私 の娘を愛しておいでなのですかと訊 いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐 かしい眼で、優しい眼遣 いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖 の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊 りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉 って、実を云うと、私も少し嘘 を吐 く性分 だが、私の家 のような少人数 な家族に、嘘付 が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
嘘吐 という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯 がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的 にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然 とした人世観の下 に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行 ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
自分の読んだ一口噺 からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。
百十六
津田は纏 まらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過 ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独 り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想 いを馳 せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着 であった。今まで彼女の手前憚 からなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭 になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧 いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中 に納めているのだぐらいの料簡 は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然 した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固 より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻 から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌 な謡 の声が、不快に彼の耳を刺戟 した。彼の記憶にある謡曲指南 という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家 であった。二階が稽古 をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他 が勝手にやっているものを止 めさせる権利をどこにも見出 し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
柳の木の後 にある赤い煉瓦造 りの倉に、山形 の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解 らない、大きな折釘 に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段 を、どしどし上 って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室 の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套 を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
彼はすぐ胡坐 をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶 の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖 を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭 でこの冬も生きて行かれるよ」
小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴 かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう訊 いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇 した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋 りついた。
「君があんまり苛 めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯 い過ぎたんだ、可哀想 に。泣きゃしなかったかね」
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目 さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦 にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴 に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴 いたろう」
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度 しようとする試みが、同時にそこに現われた。
百十七
津田が小林に本音 を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽 くまで素直 に、飽くまで閑雅 な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘 っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜 だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日 どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊 く暇もないうちに、時間が経 ってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴 かないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方を諦 らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所 を、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘 だと思うなら、もう一遍お延さんに訊 いて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫 まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」
彼はこう云って嘯 いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑 した口調で津田に訊 いた。彼はぞんざいに頁 を剥繰 りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印 を見出 した時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里 じゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父 だぜ、君知らないのか。里 でも何でもありゃしないよ」
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他 の財産まで苦になってしようがない」
津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは厭 だ。貰 うなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣 はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が聴 けなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗 に作り上げた。
百十八
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿 わった。それがまた津田の訊 こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅 くもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振 られるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
津田はついその後 へ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を貼 りつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目 くさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅 やかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明 だからいい。他 はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他 とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当 がついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物 なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
津田の頭に妙な暗示が閃 めかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
こういう彼は、平気で自分の妹のお金 さんを藤井に片づけて貰 う男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪 る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後 の彼の財布は空 と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫 も認めなかった。
不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
その朝藤井へ行った彼は、そこで例 もするように昼飯の馳走 になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子 が開 いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出 したのである。
小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。
百十九
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯 った。
「兄妹喧嘩 をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍 でそれを聴 いていたのか」
小林は苦笑しながら頭を掻 いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然 耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
お秀にはどこか片意地で一本調子な趣 があった。それに一種の刺戟 が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄 が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終 取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑 り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
津田は心の中で、この叔父と妹と対坐 した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾 起したのではあるまいかという疑 さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部 はわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は御挨拶 にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴 だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解 らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩 なんかするもんか。あんな奴 と」
小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子 ずつ余裕を生じて来た。
「蓋 しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪 している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得 になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下 に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終 考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
津田は面倒臭そうに小林を遮 ぎった。
「よし解 った。解ったよ。つまり他 と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便 にしろという忠告なんだろう、君の主意は」
小林は惚 けた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻 からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
百二十
小林はここだという時機を捕 まえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒 にしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その宅 の名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
津田は不思議がらざるを得なかった。
ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援 に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向 媒妁 の労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提 さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴 いていると」
津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚 だよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手 から高を括 っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
結果の上から見た津田の隙間 を探 し出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事宜 しく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳 け込むのは当り前じゃないか」
津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分 の訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目 一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛 な奴 だな」
突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴 の云う事を真向 に受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合 、それらのものがお秀の遣口 一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」
この言葉を聴 いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴 いたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌 に聴いちゃいなかったよ」
こう云った小林は肝心 なところへ来て、知らん顔をして圏外 へ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後 で、小林はまた圏内 へ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否 でも応 でも聴かされるよ」
津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直 に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘 じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。
百二十一
津田の頭に二つのものが相継 いで閃 めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨 く取扱わなければならないという事前 の暗示 であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違 なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答 ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注 ぎ込 まれた後の夫人と、まだ反感を煽 られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場 の会見で、充分引繰 り返 して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
残る一つの閃 めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜 を彼に教えた。先刻 までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設 けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟 を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
附帯条件として、小林を早く追払 う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色 をどこにも現わさなかった。彼は他 の邪魔になる自分を苦 にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確 と他 に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
津田は欠伸 をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作 が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑 になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
冗談 じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際 った例 もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物 じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑 だからね」
津田は呆 れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭 でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑 された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気 だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の引導 を渡すよりほかに途 がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
小林は別に怒 った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承 ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套 のように留守 へ取りに行かれちゃ困る」
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴 く事の残っている津田は、出立前 もう一遍彼に会っておく方が便宜 であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念 のある病院では都合 が悪かった。津田は送別会という名の下 に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者 を退去させた。
百二十二
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取 り除 けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下 した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急 いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒 しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅 までやって下さい」
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名 を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た後 でも、彼はそればかりが苦 になった。そう思うと、お延がもう宅 を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付 るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段 の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿 を見送った津田は、それでももう少しで刻下 の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。
津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想 いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛 の苗字 を小綺麗 な二階建の一軒の門札 に見出 した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後 には、書面を認 める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横 わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
しかし津田の懸念 したように、宅 にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際 どい機会を旨 く利用しようとする敏捷 な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守 から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽 な午前を過ごした。午飯 を食べた後で、彼女は洗湯 に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗 になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入 に時間を費やした後 、晴々 した好い心持を湯上りの光沢 しい皮膚 に包みながら帰って来ると、お時から嘘 ではないかと思われるような報告を聴 いた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日 の今日 、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊 かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通 り路 だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥 いる痕迹 なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後 を追 かけるようにして宅を出た。
百二十三
堀の家 は大略 の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。
藤井や岡本の住居 と違って、郊外に遠い彼の邸 には、ほとんど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。
市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺 が繁華な割に、通りはいつも閑静であった。
その上路 の左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側に揺 く緑りの裡 に一種の趣 を見せた。中で一番大きいのが、ちょうど堀 の塀際 から斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそ目 にはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁 が好かった。
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶 があった。まるで下町の質屋か何かを聯想 させるこの長物 と、そのすぐ横にある玄関の構 とがまたよく釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口はことごとく細 い格子 で仕切られているだけで、唐戸 だの扉 だのの装飾はどこにも見られなかった。
一口でいうと、ハイカラな仕舞 うた屋 と評しさえすれば、それですぐ首肯 かれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんな宅 へ入っているかいまだかつて知らなかった。そんな事を苦 にする神経をもたない彼は、他 から自分の家業柄 を何とあげつらわれてもいっこう平気であった。道楽者だが、満更 無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住 うのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、極 めて我 の少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造 りのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞 めるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐 過ぎた。
お延は堀の家 を見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へ入 いってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。
次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この家 に釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧 なところがまたお延の堀に対する好悪 の感情をそのままに現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。
最後に来 るお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向 に育て上げられていた。この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強 いられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺 らせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
玄関の格子 を開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇 えらさせるべく号鈴 がはげしく鳴った。
百二十四
昨日 孫を伴 れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合 にもなり、また悪い跋 にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追 い除 けてくれたと同時に、ただ一人面 と向き合って、当の敵 のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな髷 に結 った母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭 にお秀が顔を出したばかりか、待ち設 けた老女はその後 からも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外 させられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中 に、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日 の戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんな敵 を打たれるかも知れないという微 かな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。
お延はこの一瞥 をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥 が突如として閃 めいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日 、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫して傍 の人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾 が呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌 の好い挨拶 をした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜 りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧 いて起った。
けれども肝心 なその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸な行 き違 についても、ついに一言 も口を利 く様子を見せなかった。
相手に心得があってわざと際 どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切 を付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
怜悧 なお延は弱らせられた。会話が滑 らかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡 げて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗 いて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損 なった暁 に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを敲 かせて貰 って局部から自然に出る本音 を充分に聴 く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和 の役目をやり終 せて帰るよりも遥 かに重大な用向 であった。
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守 に、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確 と突きとめたかったのである。
どこに引 かかりを拵 えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、「先刻 いらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切 に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗 にお延を跳 ねつけてしまった。
百二十五
お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝 この叔父 の所を訪 ねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構 は依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解 っていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞 を弄 さなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目 に取り合う緒口 をどこにも見出 す事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿 って行くうちには、自然気色 を悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷 なお延は、相手を見縊 り過 ぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々 し始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉には滑 っこい皮膚があるだけで、肝心 の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞 の返礼をさも旨 そうに鵜呑 にしなければならなかった。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌 を手古盛 りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽 って行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞 めそやすだけでは、同じ不成蹟 に陥 いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後 の段取をきめようと覚悟した。
彼女はお秀が自分の風呂の留守 へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想 い到 らなかった。しかも昨日 病院で起った波瀾 の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
最初夫人の名前がお延の唇 から洩 れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
すると第二の予想外が継 いで起った。お秀がちょっと顔を背 けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解 った。年来陳腐 なくらい見飽 きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因 って来 るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接 いだように、突然話題を変化した。行 がかり上 全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛 であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。
百二十六
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐 なありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重 な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
お延に比べるとお秀は理窟 っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他 から注 ぎ込 まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴 れた雑誌さえ近頃は滅多 に手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟 されずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄 にもない議論を主張するような弊に陥 った。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分 の道程 があった。意地の方から行くと、あまりに我 が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副 ぐわないような理窟 を、わざわざ自分の尊敬する書物の中 から引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸 を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分 の代りに、振り廻して見るような滑稽 も時々は出て来なければならなかった。
問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的 な問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑 み込んでいた。際 どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合 の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛 りつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至 お延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然 として空裏 に飛揚 する愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺 りおろさなければならなかった。
子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染 みているお秀が、この意味において、遥 かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯 いながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲 を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
やがてお延の胸に分別 がついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活 かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺 に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟 に対して、真偽の吟味 などは、要 らざる斟酌 であった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒 るに違 なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
最後に彼女はある時機を掴 んで起 った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。
百二十七
「そう云われると、何と云っていいか解 らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
お秀の器量望 みで貰 われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨 やましい事実に違 なかった。始めて津田からその話を聴 かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬 を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐 をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑 であった。それを表向 さも嬉 しい消息ででもあるように取扱かって、彼我 に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞 に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄 であった。
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本 に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏 という諺 がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中 へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目 に受けるほど無邪気だったのである。
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱 な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透 かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴 いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々 しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
この挨拶 は平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然 表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途 はなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀 すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡 ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環 が遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥 は何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日 と毫 も変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
他 に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶 をついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日 、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹 をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧 って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭 だった。したがって応対に非常な呼吸が要 った。目的地へ漕 ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。
百二十八
彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡 まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面 と向き合ったままお秀に相見 しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影 を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫 もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯 えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕 傍 にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解 らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想 いやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直 ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫□」
疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇 のあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘 よ。そりゃあなたの事よ」
お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省 いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
お延は叩きつけられた後 で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹 としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾 うから知ってるわ」
お延の鎌 は際 どいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険 いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴 かしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
こういったお秀は急に赧 くなった。それが何の羞恥 のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩 できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度 の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧 い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅 ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋 いでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探 したって、金輪際 出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡 が存在しているに相違ないという推測 であった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。
百二十九
とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝 いて出る嘘 を抑 える事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊 き返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
お延にはもう後 がなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻 より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田 の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救 を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当 がつかないんですもの」
お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋 の下から膏汗 が流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者 じゃありませんか」
お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日 のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」
昨日と今日の二人は、まるで地位を易 えたような形勢に陥 った。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌 いなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高 い心持になって、この小さいお延を憐 れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫 まるから」
お延は光る宝石入の指輪を穿 めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
持前の癖を見せて、眉 を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝 の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万 ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨 みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解 ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」
お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧 くなる代りに少し蒼白 くなった。そうして度外 れに急 き込 んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣 いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚 はないんです。兄さんに対しても嫂 さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」
百三十
お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇 を衝 こうとした。三度目の嘘 が安々と彼女の口を滑 って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭 ?」
こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌 をその細い眼に湛 えて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作 は全く外 れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾 な質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか外 から廻っていらしったの」
「いいえ。宅 からすぐ上ったの」
お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋 りついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
その時お秀の涼しい眼のうちに残酷 な光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分独 り精一杯 愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人 を御覧なさい」
お秀はすぐこう云って退 けた。お延は話頭 からわざと堀を追 い除 けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云 いっ競 よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直 な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」
雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地 は顛倒 した。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目 よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯 経 ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解 るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心 のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅 の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂 さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌 いなんだから」
お秀の顔に軽蔑 の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透 かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟 なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太 を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守 に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。
百三十一
お延とお秀が対坐 して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延宛 で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後 であった。
彼は看護婦の口から夫人の名前を聴 いた時、この異人種 に近い二人が、狭い室 で鉢合 せをしずにすんだ好都合 を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止 めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢 をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊 いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉 の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃 えて並んでいる下に、恰好 の好い手頃な石さえあしらったその盆栽 が床 の間 の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
先刻 から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗 に心配していた彼の掛念 の半分は、この一語 で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上 っ調子 でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚 さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他 から機嫌 を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支 えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉
医者は
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の
津田は無言のまま帯を
「腸まで続いているとすると、
「そんな事はありません」
医者は
「ただ
「根本的の治療と云うと」
「
津田は黙って
津田は袴を
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず
「
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。
その時看護婦が津田の
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
二
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は
彼は不愉快になった。急に気を
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
「この肉体はいつ
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
彼は思わず
彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが
彼は電車を降りて考えながら
三
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が
「ちょっと今のうち
津田は仕方なしに手を出して
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。
「今日帰りに小林さんへ寄って
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、
同じ話題が再び夫婦の
「
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。
津田は細君の顔を見て苦笑を
四
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は
「
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も
津田は自分の受けべき手術についてなお
「手術ってたって、そう
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。
「吉川さんに話したら
入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が
「
津田は苦笑した。
「
今度は細君が苦笑した。
五
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で
「また御勉強?」
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに
彼が黙って
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから
しかし今彼が自分の前に
「そう
彼は黙って
六
「おいお
彼は
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
お延は
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も
「それで
津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は
「あなた、あなた」
同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を
「何か御用なの」
彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
御延は玄関の
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
津田はようやく茶の間へ引き返して、
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
七
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の
「いったいどういう訳なんでしょう」
津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して
「貸家が二軒先月末に
彼は開いた手紙を、そのまま
「なにそんな家賃なんぞ
津田の言葉に
「御父さまはきっと
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の
津田は
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか
「でもほかに
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、
お延が一概に津田の依頼を
「そんなに楽な身分のように
「あたし吹聴した
津田は
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした
「
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ
九
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は
「そうです。ちょっと……」
「そんなら
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を
午後になってから彼は
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる
「ええ
毎日人の
時間になった時、彼はほかの人よりも一足
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に
十
「まだ御帰りになりません」
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の
「奥さんができたせいか近頃はあんまり
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に
「まだ
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう
「早いものね、ついこの
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
十一
吉川の細君はこんな調子でよく津田に
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に
「
津田の顔が急に堅くなった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を
「御気に
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
十二
その時二人の頭の上に
「いつだって構やしないんでしょう。
彼女はさも
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を
彼が用事を済まして
「また子供のように泣いたり
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり
「あなたに
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
十三
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない
冷たそうに
彼は無論この
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに
それは何とも云えなかった。彼女は元来
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。
車内の
「
そう思うと、自分が気を
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い
十四
津田は同じ気分で自分の
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい
「そうかね。もっとも
「そんな事がなくったって、
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の
彼は神田にいる
「お延
「そう。でも……」
お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ
十五
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の
やがて彼は決心して立ち上った。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
細君の耳にはこの形容詞が変に
「女のならあるわ」
津田はまた自分の前に
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
津田は
「
「うん」
津田は
「待っていらっしゃい。じきだから」
お延はすぐ下へ降りた。やがて
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ
「御父さんが死んだ
彼が父の
「その時はその時の事だ」
十六
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
津田は礼を云って
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、
佐々木は彼の
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ
吉川の言葉はよく彼の
「都合がよければ
「へえ」
こう云われた津田は
彼の
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い
「へえ、ありがとう、お
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。
津田は自分の父がけっしてこれらの人から
「父はもう
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、
十七
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から
この陰気な
津田は長椅子の
その一人は事実彼の
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然
すると診察所から
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に
奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い
「今ちょうど二階が
津田は
十八
津田の
彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ
津田は
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な
「いつの間に拵えたのかね」
彼が手術のため一週間ばかり
「
「いいえ、これあたしの
なるほど若い女の着る
「とうとう
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに
お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
十九
津田の
「気を許して寝ると、
彼は云い訳らしい事をいって、
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと
「今すぐ?」
お延は
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の
「
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の
「おやおやこれ
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い
「今日は病気の報知かたがた
彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
二十
藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間
「
叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に
彼の父は今から十年ばかり前に、突然
「兄貴はそれでも少し金が
しかし金の重みのいつまで
実際の世の中に立って、
彼の知識は豊富な代りに
二十一
こういう人にありがちな
津田の
一時少し前に
彼は道々
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この
彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい
津田は
「今学校の帰りか」
「うん」
子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
二十二
「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
自分が
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
彼は例の袋を片手でぐっと
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、
津田は叔父の子供をふり返った。
「おい
真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を
「そうしてどうするの」
そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の
「小父さん何か買ってさ」
宅で
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。
「あいつは玉子は出すが
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して
「赤かったのを
津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという
二十三
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか
「だってみんなが
藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
津田はもし懐中が許すならば、
「真事、そんなにキッドが買いたければね、
彼は
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
彼は隠袋の中へ手をぐっと
「小父さんも拾ってさ」
最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の
「
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから
好い加減をいうとすぐ
「あの岡本って
話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の
二十四
「
「ううん、行かない」
「また
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ
ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
津田は小首を傾けた。
「真事なぜお父さんに
「僕
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
真事は少し
「あのね、岡本へ行くとね、何でも
津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり
津田は
「
彼は
彼は曲り角の
二十五
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、
「叔母さん」
叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ
津田は
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために
「ねえ叔母さん」
「ええ」
気のなさそうな
「お金さん
お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お
叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ
叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの
お金さんはそれを好い
「時に誰です、お客は」
叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
二十六
津田は客間にいる声の主を、
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
叔母は
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか
想像の眼で見るにはあまりに
津田は微笑しながら叔母に
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い
「へえ、小林にもそんな
こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、
「お
いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ
叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな
叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には
「そんな
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける
藤井は四年
二十七
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを
「まさか
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ
相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも
「これでもいざとなると、なかなか
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ
叔母は
「由雄さんはいったい
学校を卒業してから以来の津田は叔母に
「ええ少し贅沢です」
「
「じゃ贅沢どころかまるで
「乞食じゃないけれども、自然
この時津田の胸を
この二人の
二十八
奥の四畳半で
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を
小林はホームスパンみたようなざらざらした
「へへ、
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな
津田は叔母の手前重ねて
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に
津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
この
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
薄暗くなった
二十九
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の
「しかし僕は
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく
彼の
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの
「纏まるだろうよ」
叔父は
「
小林の
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
津田はこういって
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
叔父は少し
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
三十
それでも座は
小林は自分の前にある
「
「
真事はすぐ
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
すぐ立って奥の四畳半へ
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に
「見て来たような事を云うな」
空気銃の
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと
叔母の見て来た世の中を正直に
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな
津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ
三十一
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、
二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその
「何だか双方
彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
そろそろ酔の廻った叔父は、
「実を云うとその訳を
「ええ」
津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような
津田も小林も吹き出した。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
叔父はにやにやしながら、
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって
この問答の途中へお
「そりゃ
「どうだか存じませんよ」
叔母は真事の立った
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は
「女だと思ってます」
津田は
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり
三十二
食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は
半日以上の暇を
彼は座を立とうとして小林を
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう
小林はすぐ吸い残した
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、
「何って別にする事もないでしょうよ」
こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお
「ありがたい仕合せだな」
「
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
叔父は笑うだけであった。
「
「いったいお
津田は少し
「お秀に
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
津田はとても
三十三
「
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
小林は新調の
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
津田はむしろ冷やかに答えた。
「なぜその
「君と
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し
津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。広い谷を
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして
津田はこういって当面の
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて
自分に都合の好い
「君が
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
二人は黙って坂の下まで降りた。
三十四
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は
「僕もそっちへ行くよ」
彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を
「じゃ飲もう」
二人はすぐ明るい
服装から見た彼らの
「どうだ平民的でいいじゃないか」
小林は津田の
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
「少くとも
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
津田は
「君はこういう人間を
こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
出し抜けに呼びかけられた若者は
「まあ君一杯飲みたまえ」
若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
三十五
インヴァネスを着た小作りな男が、
「何だか知ってるか」
津田は元の通りの姿勢を
「何だか知るもんか」
小林はなお声を低くした。
「あいつは
津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある
「あの眼つきを見ろ」
薄笑いをした津田はようやく口を
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り
鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な
小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は
露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に
小林の言葉はだんだん
三十六
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の
「君は僕が汚ない
津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お
「そうか。そりゃ悪かった」
もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも
そんな特別の理由を津田は
「実はこの着物で
津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに
長い間叔父の雑誌の
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に
その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も
「要するに僕なんぞは、
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
小林は津田の言葉から何らの
三十七
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ
津田の言葉は誰にでも解り切った
「津田君、僕は
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて
「君が行ったらお
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた
「旅費は先生から借りる、
これがその晩小林の口から出た最後の
三十八
彼の門は
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に
彼は手を
「どなた?」
潜りのすぐ向う側まで来た足音が
「早く開けろ、おれだ」
お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。
ごとごと云わして
茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。
「どうもすみません」
津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり
お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって
「
こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の
「時はどうしたい」
「もう
下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、
三十九
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると
「今
津田は眼をぱちつかせて、赤い
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の
「あんまりおつくりが
彼はすぐ心の
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな
「
お延の漢語が突然津田を
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に
普通の食事を取らない彼の
「病院へ持って行くものを
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の
「ここに
よそ
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの
「そう、本はどれが
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ
四十
天気が好いので
「大変。忘れものがあるの」
車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。
「何だい。何を忘れたんだい」
お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
彼女は自分の俥だけを元へ返した。
「これ忘れたの。
夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人
「お前預かっておいで」
じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、
「大丈夫」
俥は再び
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
津田は車夫から受取った
「お延こっちだ」
控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を
「大変陰気な
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は
もと
「古いけれども
日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少
四十一
そこへ
「今
二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの
「あたし
お延は実際怖そうに
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の
「でもこんな場合には誰か
津田は
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に
津田は女に
「じゃ
「お
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって
「そりゃそうだけど……」
お延は後を云わなかった。津田も
看護婦がまた
「
津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり
年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の
お延は
「でも
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
お延は
「じゃお秀さんへかけるのは
こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。
前後して
四十二
「リチネはお飲みでしたろうね」
医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に
「飲みましたが思ったほど
「じゃもう一度
浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
「どんなです。痛かないでしょう」
医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために
「大丈夫です」
「そうですか。もう
こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る
彼は大きな眼を
「やっと済みました」
むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした
「
最後の注意と共に、津田はようやく手術台から
四十三
診察室を出るとき、
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――
自分自身に多少
お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
津田ははっきりした返事も与えずに
「お薬はいただかなくっていいの」
彼女は
「別に内用のお薬は召し上らないでも
看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
お延は
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
時計の
津田は再び
「今から
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
お延の返事はいつまで
「心持が悪いの?」
「いいや」
念を押したお延はすぐ
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に
「そうか」
津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの
津田は黙ってしまった。何といって彼女を
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に
「ああ」
お延は
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から
「どうもお待遠さま」
津田の
津田は床の上に
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ
車上の彼女は
俥は茶屋の前でとまった。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の
「見えて? 少しここと
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の
「遅かったのね。あたし
年の若い彼女は、まだ津田の病気について
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、
幕が引かれてから、始めてうち
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその
「あたしお母さまと
「そう。また
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ
「今日も持って来たの?」
お延は
「今日の予言はお
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、
「
「
今まで黙って三人の会話を
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを
母は隣りにいる人の注意を
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い
四十七
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の
「
これがお延のとうから
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の
「世間には津田よりも何層倍か
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし
お延は隠れるように身を
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の
四十八
そこから見渡した
「何を買ってるの」
「今困ってるところなのよ。
「駄目よ、あの子は、
売店の男は笑い出した。お延はそれを
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた
こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも
「こうやって
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと
二人が声を出して笑い合っている
「もう
彼女はすぐお延を
四十九
比較的静かな
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い
席に戻った二人は愉快らしく
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。
「百合子さん」
妹は少しも
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに
実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ
お延の眼は急に舞台を離れた。
「
「今ここじゃ話し
お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で
「叔父さんといっしょに来たんだよ。
二人の会話はそこで
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の
叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
男はまた戸をそっと
五十一
彼女が叔父叔母の
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
鋭い
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を
「あなたは私より純潔です。私が
二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から
五十二
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の
夫人に投げかけた
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに
「どうですかけたら」
吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
お延は仕方なしに夫人の前に着席した。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
ちょうど叔母と話を
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく
「あなたのような落ちついた
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり
彼女はこの談話の進行中、ほとんど
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが
お延は不意を打たれて
「いいえ、大変面白く
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの
「じゃ
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と
「今度はお
継子が顔を
「でも岡本さんにゃ自分の
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
五十四
彼らほど
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに
「ただ今
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の
「君は相変らず
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が
「おおかた重過ぎてその外国人を
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、
「何を
「エドワード七世の
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は
こんな
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその
五十五
彼らの席を立ったのは、男達の
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその
「
この
お延は夫人のこの挙動を、自分が
「ありがとうございます。お
「もう手術をなすったの」
「ええ
「
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。
「病院へ
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が
夫人は医者の名前と
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて
芝居が
茶屋は幸にして
「今日は
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は
「泊っていけったって、あなた、
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お
「何よりもって
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を
五十七
津田の
下女は
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという
「早く玄関を
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして
こういう立場まで来ると、彼女の空想は
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。
五十八
彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから
彼女はその光で枕元に取り散らされた
彼女はこの乱雑な有様を、いささか
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、
それでも彼女は容易に起き上らなかった。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ
五十九
お時の御給仕で
「
「へえ、
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に
三十分ほど
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の
「
「どこへ行くの」
「お
去年女学校を卒業したこの
「何のお稽古? トーダンス?」
彼らはこんな
「まさか」
彼女はただこう云って
「冷かすから
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを
六十
岡本の
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
植木屋の横には、大きな
「そいつを今その庭の入口の門の上へ
お延は
「へえ。あの
「うんその代りあすこへは
近頃
「食後の運動には好いわね。お
「
お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一
自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
「御給仕をしたくったって、
下女が皿の上に狐色に
「お延、叔父さんは
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
叔父は叔母を
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
六十一
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で
肥った
「だってあたしの悪口は叔父さんのお
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を
「少しこっちにも
「おお
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、
「この叔母さんなら、ちょうどお
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、
「いくらお
年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した
六十二
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば
こうして叔父夫婦を
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は
お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に
不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を
叔父の前に坐ったお延は自分の
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三
感傷的の気分を笑に
「
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような
「解らないわ。
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が
こんな事で、二人の
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事
「
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の
ただ親類だからというのが
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、
六十四
お延はその問題をそこへ
「なるほどそういう意味
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の
「実はお前にお婿さんの
叔父の平生から推して、お延はどこまでが
「まあ大変な御役目を
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を
「あたしのようなものが
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから
「
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に
「人間はよく
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その
「それっきりかね」
「だって、あたしあの
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が
六十五
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに
お延は
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり
「あなたがあんまり
叔母の態度は、叔父を
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
お延は自分で自分の夫を
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは
「なぜでしょう」
お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は
「なにきまりが悪いばかりじゃない。
お延は初めて叔父に
六十六
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って
「来年はあの松の横の所へ
お延は何の気なしに叔父の
「本当ね。あすこを
談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
六十七
それは叔父が先刻玄関先で
まだ学校から帰らない
「
叔母はわざわざ百合子の
「今日は何のお
叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と
中途で
「
お延の頭に
「継子さんは
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の
叔父が
六十八
すると今まで
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
彼女は
「そんなに人が悪うがすかな」
例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして
「おれの
お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを
叔父の
「お延どうかしたのかい」
こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
叔母の
「何もそんなにまでして、あたしを
叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。
「そんな事
沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの
「いいえ。
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから
「だから
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
お延はなお泣き出した。叔母は
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。
お延は
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し
ようやく
六十九
ところへ何にも知らない
「ただいま」
和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを
「お帰んなさい」
「遅かったのね。
「いや大変なお
神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に
しかし下女が
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
叔母は
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ
お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して
立って行く叔母の
「あたしのお部屋へ来なくって」
二人は
七十
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも
四方を見廻したお延は、
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
七十一
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く
「厭よ。あなたが
二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン
「
「あなたこそ狡猾いわ」
しまいにお延が負けた時には
「雑巾なんか
彼女は転がった
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた
継子は少し
「延子さんは
「そりゃ……」
お延は
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
七十二
だんだん
「そりゃ
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
お延は答える前にしばらく
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
お延はそこで
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を
継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど
「誰を」と云った彼女は少し
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
平生
「あなたあたしの云う事を
こう云って絶対に継子を
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の
お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ
七十三
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の
彼女の机を
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
こう云った百合子は年上の二人と共に声を
「今頃お
お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは
「運動が足りないからでしょう」
二人が話しているうちに、百合子は
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
薄赤くなった継子は急に
「おお大変大変」
入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で
七十四
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから
一家のものは明るい室に
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が
「西洋では」
西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう
「お父さま、僕この
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。
「一さん藤井の
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で
みんなを笑わせた真事の逸話の
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を
「一の方が少し
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。
これらの原因が
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら
「馬鹿らしい、好い年をして」
お延と叔母はこもごも
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は
お延の興味は急に
「昔から
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな
お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは
七十六
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て
叔父の言葉のどこまでが藤井の
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても
「ええ、わざわざ陰陽不和を
お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで
彼はさも勝利者らしい顔を
「おいお延好いものを持って来た。お前
「何よ」
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は
「へええ」
「みんな
「なるほど叔父さん
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
お延が礼を云って書物を
「これは
お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく
お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして
叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい
七十七
お延は叔父の送らせるという
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて
二人は途々夜の
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が
車内のお延は別に
玄関の
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も
するとお時が急に忘れたものを思い出したように
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が
七十八
お延はその晩京都にいる自分の両親へ
彼女は落ちつけなかった。不安から
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。
「
これが彼女の
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を
彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し
しまいに筆を
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。
お延は封書を枕元へ置いて寝た。
七十九
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに
二人は
由雄はその時お延から
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には
お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と
八十
強い意志がお延の
彼女は自分の手で雨戸を
彼女は自分で床を上げて座敷を
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、
「今日は
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。
お延の
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな
お時は何か云おうとした。お延は下女のお
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら
「そんな事はございません」
お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
お時は
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、
八十一
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を
彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に
彼の談話には気の弱い女に
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の
お延はすぐ
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに
出してやらないと小林を
「いくら酔払っていたって気は
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ
八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり
「やッぱり細君の力には
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、
「それよりあなた御自分で奥さんをお
小林は頭を
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて
「いくら女が余っていても、これから
駈落という言葉が、ふと芝居でやる
「
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も
「へえ」
小林はこう云ったなり
「僕だって朝鮮
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう
「奥さん、僕にはたった一人の
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を
「あなた
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に
お延は平生から小林を軽く見ていた。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を
お延は
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも
小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を
「奥さん、時間があるなら、
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか
お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の
「何という
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。
小林の眼は
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと
小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の
「奥さん、僕は人に
お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも
「
小林は多少
「奥さんは
小林はまた大きな声を出して笑った。
八十六
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の
「じゃあなたは私を
「いや目的はそうじゃありません。目的は
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな
小林の筋の運び方は、少し
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って
八十七
お時は
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん
彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを
「思ったよりだいぶ
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。
「どうせただ貰うんだからそう
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな
「どうですか」
小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい
「ちょうど好いようですね」
彼女は誰も自分の
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を
「奥さんのような
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。
彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて
八十八
二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする
その時小林の太い
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
小林は応じなかった。問答が
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
鋭どい
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
お延は歯を
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして
「お待ちなさい」
「何ですか」
小林はのっそり立ちどまった。そうして
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は
「外套の事じゃありません」
小林はわざと
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に
お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
お延は依然として下を向いたまま口を
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその
小林はこう云った後で、
八十九
幸いにお時が下から
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を
お延は
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある
封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に
突然疑惑の
お時が
九十
時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で
「どうもすみませんでした」
彼女は自分の専断で病院へ行った
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
お延は
「あのお客さまは、ずいぶん――」
しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが
「
お延は
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、
お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな
「そう」
お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも
お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
九十一
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び
彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から
お秀がお延から津田の消息を電話で
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた
こういう場合に彼らはけっして
第一に彼らは普通の兄妹として親しい
ふと首を上げてそこにお秀を
彼女は何より先にまず、枕元にある
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の
津田は後を
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
九十三
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ
彼は
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お
別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か
「どこか痛いの」
津田はただ
「そんなに痛くっちゃ困るのね。
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
津田は
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから
津田にも大よその
九十四
「またあの事だろう」
津田はしばらく
「だからあたしの方じゃ
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな
お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
津田の所へは父の方から、お秀の
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには
津田は何とも答えなかった。お延の
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、
お秀はわざと眼を
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
九十五
津田はようやくお秀
彼は
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
お秀には自分の
「
学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を
不断から
「いったい
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃ
お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、
九十六
「いったいどうしたらいいんでしょう」
お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を
「そりゃ
津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は
「そこなのよ、兄さん」
お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、
こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な
ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした
九十七
感情と理窟の
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって
「あら、
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
お秀の兄を
「できなければ死ぬまでの事さ」
お秀はついにきりりと
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
津田にとってそれほど
その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。
「できなければ死ぬまでさ」と
同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に
二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の
九十八
しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は
「電話で釣るんだ」
彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。
この
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の
「何をいうか分らない」
津田の心には突然一種の恐怖が
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱
九十九
津田はお秀の口から出た
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
この調子で押して行くと彼はただお秀から
同時に
そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん
「兄さんはいったい
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜ
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
津田は答えなかった。お秀は穴の
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の
「大変な
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは
津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
お秀は急に
「だけど兄さん、もし堀のいない
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
二人は黙らなければならなかった。
百
しかし二人はもう
「お秀病院で飯を食って行かないか」
時間がちょうどこんな
「どうせ
お秀は津田のいう通りにした。話は
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの
「そうかい」
津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を
お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
今度は
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し
「兄さんのお
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしを
「誰が」
不幸な言葉は二人の間に
「兄さんこそ違ったのです。
百一
津田から見たお秀は彼に対する
「おれはお前の考えてるような
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を
こういう言葉が
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
彼は神経の
津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと
この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
お秀はそうだと答えたいところをわざと
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った
津田は表向どうしても負けなければならない形勢に
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った
津田は
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、
「
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその
お秀は
百二
「
お秀は鋭どい声でこう
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を
「何が」
「なぜ
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と
津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
津田の
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に
「そう私を
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは
「妹より
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを
お秀がこう云いかけた時、病室の
百三
彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の
実際彼女は
彼女はその
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を
彼女はそっと階子段を
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は
彼女は事件が
彼女は
百四
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を
二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の
「おや」
「
軽い
津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら
お延はまた
「今
お延の言葉は
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
津田の
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は
「何と書いてありますか、兄さん」
気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の
「秀子さんの方へもお父さまから何かお
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお
お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの
お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の
「兄さんはその底に何か
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に
お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその
「それで
「困るのね」とお延は
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
津田は
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。
「ええ
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお
「馬鹿」
馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを
「素直にも
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって
「じゃどうすればいいんだ」
「
三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に
お延は
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ
沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや
お延はなお黙っている津田の顔を
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお
お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
百七
三人は妙な羽目に
しかも
しまいに津田とお秀の間に
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお
津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに
「でなければ何も
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
津田は口を閉じた。お秀はすぐ
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
津田は一種
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に
お秀の手先が怒りで
「
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと
彼女はこう云いながら、
百八
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の
不幸にして津田にはお延の
「こりゃいったいどうしたんだい」
この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で
これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を
彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から
「こうしておけばそれでいいでしょう」
津田に話しかけたお秀は
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の
百九
「実は
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその
「少しや
こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、
この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして
お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして
お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を
百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう
お秀の断り方は妙に落ちついていた。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに
「これは
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には
百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に
これはお延自身に解っている
彼女はなぜ岡本が
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を
「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。
百十二
久しぶりに夫と
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが
こう決心するや否や彼女は
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に
「
津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然
「そりゃ
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん
お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を
自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも
津田はかえって自尊心を
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、
津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
百十三
二人はいつになく
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の
二人はこういう風で、いつになく
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした
百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
洗濯屋の男は、俗歌を
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を
一にはこの間訪問した時からの
二には京都の事が気になった。
お延がなぜこういう
津田は洗濯屋の
表はいつか
百十五
下から
「まだ
彼はこう注意して、じかに局部を
取り
「やッぱり予定通りの
医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の
「娘の父が青年に向って、あなたは
「愛と虚偽」
自分の読んだ
百十六
津田は
お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は
柳の木の
彼の予覚はすぐ事実になった。彼が
「どうかね」
彼はすぐ
「これだ」と彼は外套の
「ありがとう、お
小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに
「君があんまり
「いや苛めやしないよ。ただ少し
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、
「そりゃもうお延さんから
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を
百十七
津田が小林に
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。
彼はこう云って
「こんなものを読むのかね」と彼はさも
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると
津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が
百十八
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
津田はついその
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
小林はまた「そうか」という言葉を使った。この
「しかし君は僕などと違って
「
「先生でも奥さんでもさ」
藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
津田の頭に妙な暗示が
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
こういう彼は、平気で自分の妹のお
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった
不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
その朝藤井へ行った彼は、そこで
小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。
百十九
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に
「
「君はまた
小林は苦笑しながら頭を
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ
お秀にはどこか片意地で一本調子な
津田は心の中で、この叔父と妹と
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が
小林はますます笑った。彼は笑うたびに
「
津田は面倒臭そうに小林を
「よし
小林は
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
百二十
小林はここだという時機を
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
津田は不思議がらざるを得なかった。
ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を
津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは
結果の上から見た津田の
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事
津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても
「ずいぶん
突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――
津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との
「女はあさはかなもんだからな」
この言葉を
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから
こう云った小林は
「しかしもう少し待ってたまえ。
津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは
お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。
百二十一
津田の頭に二つのものが
残る一つの
附帯条件として、小林を早く
津田は
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と
「
「いや単なる好奇心だ。それに僕は
津田は
「君もよほど
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
小林は別に
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に
百二十二
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、
「電車で行くようにして下さい」
彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た
津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた
ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその
しかし津田の
その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。
お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に
百二十三
堀の
藤井や岡本の
市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、
その上
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の
一口でいうと、ハイカラな
お延は堀の
次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この
最後に
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を
玄関の
百二十四
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな
お延はこの
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより
けれども
相手に心得があってわざと
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない
どこに
百二十五
お延は次に藤井から入って行こうとした。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の
彼女はお秀が自分の風呂の
最初夫人の名前がお延の
すると第二の予想外が
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を
百二十六
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この
お延に比べるとお秀は
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々
問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく
子供がすでに二人もあって、万事自分より
やがてお延の胸に
最後に彼女はある時機を
百二十七
「そう云われると、何と云っていいか
お秀の
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、
「まだその上に愛されてみたいの」
この
「まだ何か不足があるの」
こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという
百二十八
彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、
「そりゃちょっと解らないわ」
お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、
「
お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は
「大丈夫□」
疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「
お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
お延は叩きつけられた
「だけど
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって
お延の
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども
「あら、あたし何にも知らないわ」
こういったお秀は急に
百二十九
とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
お延にはもう
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、
お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の
「秀子さん、あなたは
お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、
昨日と今日の二人は、まるで地位を
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような
お延は光る宝石入の指輪を
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
持前の癖を見せて、
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために
お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は
「あたしはまだ何にも悪い事をした
百三十
お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お
こう云った時、お延は出来得る限りの
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか
「いいえ。
お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
その時お秀の涼しい眼のうちに
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「
お秀はすぐこう云って
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような
雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の
「いくら理想だってそりゃ
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから
お秀の顔に
「あたしはどうせ馬鹿だから
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で
百三十一
お延とお秀が
津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延
彼は看護婦の口から夫人の名前を
彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを
「どうです」