一

 医者はさぐりを入れたあとで、手術台の上から津田つだおろした。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。このまえさぐった時は、途中に瘢痕はんこん隆起りゅうきがあったので、ついそこがきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日きょう疎通を好くするために、そいつをがりがりき落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑のうちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言うそく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯をめ直して、椅子いすの背に投げ掛けられたはかまを取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、なおりっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活溌かっぱつにまた無雑作むぞうさに津田の言葉を否定した。あわせて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただいままでのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまでっても肉のあがりこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思ひとおもいにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
切開せっかいです。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然てんねんしぜんかれためんの両側が癒着ゆちゃくして来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭うなずいた。彼のそばには南側の窓下にえられた洋卓テーブルの上に一台の顕微鏡けんびきょうが載っていた。医者と懇意な彼は先刻さっき診察所へ這入はいった時、物珍らしさに、それをのぞかせてもらったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったようにあざやかに見える着色の葡萄状ぶどうじょうの細菌であった。
 津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入をふところに収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇ちゅうちょした。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細いみぞを全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わずまゆを寄せた。
わたしのは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上にえた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」
 その時看護婦が津田のあとに廻った患者の名前をへやの出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

        二

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革つりかわにぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛とうつうがありありと記憶の舞台ぶたいのぼった。白いベッドの上によこたえられた無残みじめな自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分のうなり声が判然はっきり聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気をしぼすような恐ろしい力の圧迫と、された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われないはげしい苦痛とが彼の記憶をおそった。
 彼は不愉快になった。急に気をえて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤あらかわづつみへ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛とうつうについて、彼は全くの盲目漢めくらであった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時なんどきどんなへんに会わないとも限らない。それどころか、今げんにどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっとうしろから突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心のうちで叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
 彼は思わずくちびるを固く結んで、あたかも自尊心をきずつけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣めづかいに対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道レールの上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日にさんち前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上にめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼をうしろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動についてひとから牽制けんせいを受けたおぼえがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれがもらおうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながらうちの方へ歩いて行った。

        三

 かどを曲って細い小路こうじ這入はいった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白いほそい手を額の所へかざすようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐそばへ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚びっくりした。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上にそそぎかけた。それから心持腰をかがめて軽い会釈えしゃくをした。
 なかば細君の嬌態きょうたいに応じようとした津田はなか逡巡しゅんじゅんして立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれすずめよ。雀が御向うのうちの二階のひさしに巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
洋杖ステッキ
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸こうしどを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫のあといて沓脱くつぬぎからあがった。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢ひばちの前にすわるか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入しゃぼんいれ手拭てぬぐいに包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂ひとふろ浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫おっくうになるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭てぬぐいを受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。へやを出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄ってて貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもうなおってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦のあいだに戻って来たのは晩食ゆうめしが済んで津田がまだ自分の室へ引き取らないよいくちであった。
いやね、切るなんて、こわくって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好かっこうの好いまゆを心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたようにいた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものをことわっちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭おいや?」
 津田は細君の顔を見て苦笑をらした。

        四

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女のまゆ一際ひときわ引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌あいきょうのない一重瞼ひとえまぶちであった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子ひとみ漆黒しっこくであった。だから非常によく働らいた。或時は専横せんおうと云ってもいいくらいに表情をほしいままにした。津田は我知らずこのちいさい眼から出る光にきつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光からね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那せつな的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断しゃだんされた。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
うそよ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中にさんちじゅう端書はがきを出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私もしにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術についてなおくわしい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物できものうみを出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤げざいをかけてまず腸を綺麗きれいに掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口きずぐちへガーゼをめたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜をり上げて明日あしたにしたところで、明後日あさってにしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着むとんじゃくであると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢ながひばちふちに右のひじたせて、その中に掛けてある鉄瓶てつびんふたを眺めた。朱銅しゅどうの葢の下では湯のたぎる音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川よしかわさんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生ふだんからあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日あしたからすぐ入院しろって云うかも知れない」
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階がいてるもんだから、そこへいる事もできるようになってるんだ」
綺麗きれい?」
 津田は苦笑した。
自宅うちよりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。

        五

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢ひばちりかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれにびようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれからのがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊みくびった自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙ってあいふすまを開けて次のへやへ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後うしろから声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配こうばいの急な階子段はしごだんをぎしぎし踏んで二階へあがった。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折しおりはさんであるページ目標めあてにそこから読みにかかった。けれども三四日さんよっか等閑なおざりにしておいたとがたたって、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気のした彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらとひるがえして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠りょうえんという気がおのずから起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日こんにちまでにもう二カ月以上もっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物ぐぶつのように細君の前でののしっていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心をくすぐった。
 しかし今彼が自分の前にひろげている書物から吸収しようとつとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多めったに実際の役に立ったためしのない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力としてたくわえておきたかった。他の注意を粧飾しょうしょくとしても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気おぼろげながら見えて来た時、彼は彼の己惚おのぼれいて見た。
「そううまくは行かないものかな」
 彼は黙って煙草たばこを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早あしばやに階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

        六

「おいおのぶ
 彼は襖越ふすまごしに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙からかみを開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢ながひばちわきに坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯のいたへやのぞいた彼の眼にそれが常よりも際立きわだって華麗はなやかに見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出はでやかな模様もようとを等分に見較みくらべた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇ひおうぎ模様の丸帯のはじを膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍もめた事がないんですもの」
「それで今度こんだその服装なり芝居しばやに出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延はなんにも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒いまゆをぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作しょさは時として変に津田の心をそそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側えんがわへ出てかわやの戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前をふさぐようにしていた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢ながじゅばんよりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
郵便函ゆうびんばこの中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
 御延は玄関の障子しょうじを開けて沓脱くつぬぎへ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻さっき飯を食う時に坐った座蒲団ざぶとんが、まだ火鉢ひばちの前に元の通りえてある上に胡坐あぐらをかいた。そうしてそこに燦爛さんらんと取り乱された濃い友染模様ゆうぜんもようの色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着ゆきぎの荒い御召おめし縞柄しまがらを眺めながらひとりごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄みえの強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

        七

「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の間際まぎわになって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出してひざの上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末にいちまったんだそうだ。それからふさがってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根のつくろいだので、だいぶ臨時費がかさんだから今月は送れないって云うんだ」
 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢ひばちの向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞあてにしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦れんがへいを一丁もこしらえやしまいし」
 津田の言葉にいつわりはなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月まいげつ息子むすこ夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出はで好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達わたしたちが要らない贅沢ぜいたくをして、むやみに御金をぱっぱっとつかうようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計くらしを覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯としに変りはないかも知れないが、周囲ぐるりはまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだとくから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
 津田は平生ふだんからお延が自分の父を軽蔑けいべつする事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉をらさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
 夫の手前老人に対する批評をはばかった細君の話頭わとうは、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語ひとりごとのように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなからちかないよ」
「でもほかにあてがなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
 その時津田はともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」

        八

いやよ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何のよどみもなかった。遠慮と斟酌しんしゃくを通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然められた時のような衝撃ショックを受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃいて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、すくって退けるようにさえぎった。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計くらしに困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼をしりぞけたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄みえに制せられたのだという事がようやく津田のに落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴ふいちょうしちゃ困るよ。買いかぶられるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴したおぼえなんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
 津田は追窮ついきゅうもしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切とぎらした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別ふんべつも出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女はきんの入った厚い帯のはじを手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光にかざした。津田にはその意味がちょっとみ込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段さんだんを、嫁に来たての若い細君が、くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑さげすむような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑げび真似まねをさせたくなかった。お延は弁解した。
ときが知ってるのよ。あのおんなうちにいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書はがきさえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとってうれしい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫のほこりをきずつけるという意味において彼は躊躇ちゅうちょした。
「まあよく考えて見よう」
 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へあがって行った。

        九

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段はしごだんの途中で吉川に出会った。しかし彼はくだりがけ、むこうのぼりがけだったので、ちがい叮嚀ていねい御辞儀おじぎをしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯ひるめしに間もないという頃、彼はそっと吉川のへやの戸をたたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草たばこを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田はもとより表向の用事で、この室へ始終しじゅう出入しゅつにゅうすべき人ではなかった。ばつの悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんならあとにしてくれたまえ。今少し差支さしつかえるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸をめた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返にへんばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使きゅうじいた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻さっき御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入でいりの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれがれて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務をった。
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足おくれて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋ポッケットから時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅うちへ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、うちまで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門をくぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負しょって見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかもみずから重んずるといった風の彼の平生の態度をごうくずさずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえってひとに見せたがるのと同じような心理作用のもとに、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身はくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

        十

 いかめしい表玄関の戸はいつもの通りまっていた。津田はその上半部じょうはんぶすかぼりのようにまれた厚い格子こうしの中を何気なくのぞいた。中には大きな花崗石みかげいし沓脱くつぬぎが静かに横たわっていた。それから天井てんじょうの真中から蒼黒あおぐろい色をした鋳物いもの電灯笠でんとうがさが下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだためしのない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐそばにある内玄関ないげんかんから案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉こくらはかまを着けて彼の前にひざをついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものとみ込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返していた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生はいやな顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆たばこぼんも運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶あいさつに軽い会釈えしゃくをしたなり席に着いた細君はすぐこういた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまりうちへいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下とししたの男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下めしたの男であった。
「まだうれしいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳はんとしと少しになります」
「早いものね、ついこのあいだだと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもううれしいところは通り越しちまったの。うそをおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊さっぱりとおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定かんじょうです」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

        十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯からかった。機嫌きげんの好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談じょうだんとも真面目まじめとも片のつかない或物がひらめく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質たちに出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥こだわった。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根をじって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的にたかぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮にちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつのにかそこへり込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなたがた御年歯おとしを伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないようなき方をしておいて、わざとそのあとをおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物きんもつよ。あなたがその癖をやめると、もっと人好ひとずきのする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭にこたえる痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下みくだしていた。細君は微笑した。
うそだと思うなら、帰ってあなたの奥さんにいて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
 津田の顔が急に堅くなった。くちびるの肉が少し動いた。彼は眼を自分のひざの上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
 細君は彼の顔をのぞき込むようにしていた。彼はもとよりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気はごうもなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言のうちに何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気にさわったら堪忍かんにんしてちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復かいふくした。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱりとくなのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方がけてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成ろうせいよ。本当に怜悧りこうかたね、あんな怜悧な方は滅多めったに見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。

        十二

 その時二人の頭の上にさがっている電灯がぱっといた。先刻さっき取次に出た書生がそっとへやの中へ入って来て、音のしないようにブラインドをろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉ガスだんろの色のだんだん濃くなって来るのを、最前さいぜんから注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送もくそうした。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬レモン一切ひときれけるようにしてその余りを残りなくすすった。そうしてそれを相図あいずに、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事はもとより単簡たんかんであった。けれども細君の諾否だくひだけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合くりあわせさえつけば」
 彼女はさも無雑作むぞうさな口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日あしたから休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分がひとのために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌きげんのいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのがうれしかった。自分の態度なり所作しょさなりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのをいていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中をやされた刹那せつなに受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己をゆたかにもっていた。彼はその自己をわざとかくして細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君からなぶられる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁にりかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子いすを離れようとした時、細君は突然口をひらいた。
「また子供のように泣いたりうなったりしちゃいけませんよ。大きななりをして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙からかみ開閉あけたてが局部にこたえて、そのたんびにぴくんぴくんと身体からだ全体が寝床ねどこの上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度こんだは大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅くちはばったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞みまいに来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯からかうのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠くちごもって躊躇ちゅうちょした。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

        十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇よいやみの町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうにぎらつく肌合はだあい七宝しっぽう製の花瓶かびん、その花瓶のなめらかな表面に流れる華麗はなやかな模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒あおぐろの中に茶の唐草からくさ模様を浮かした重そうな窓掛、三隅みすみ金箔きんぱくを置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟しげきが、すでに明るい電灯のもとを去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論このうずまく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻さっき彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆いりまめを口に入れた人のように、咀嚼そしゃくしつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸のうちで自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露ばくろした人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯からかうため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来ひとに調戯う事のすきな女であった。そうして二人の間柄あいだがらはその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼をらす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮のらちを平気でまたぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負ひいきにし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端ほりばたを沿うて走るその電車の窓硝子まどガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上にわだかまる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅かたすみに席を取った彼は、窓をすかしてこのさむざむしい秋の景色けしきにちょっと眼を注いだあと、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕ゆうべはそのままにしておいた金の工面くめんをどうかしなければならない位地いちにあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
先刻さっき事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気をかしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干らんかんの下に蹲踞うずくまる乞食こじきを見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套がいとうを着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉ガスだんろの温かいほのおをもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔けんかくは今の彼の眼中にはほとんどはいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

        十四

 津田は同じ気分で自分のうちの門前まで歩いた。彼が玄関の格子こうしへ手を掛けようとすると、格子のまだかない先に、障子しょうじの方がすうといた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚びっくりしたように、薄化粧うすげしょうを施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫のせんを越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気のいた証拠しょうこをもげた。日常瑣末さまつの事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作しょさを、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀ナイフの光のように眺める事があった。小さいながらえているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟とっさの場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳をく気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢ひばちの前には黒塗の足のついたぜんの上に布巾ふきんを掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくにえてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
 津田が一定の時刻にうちへ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。いきおい津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧あいまいなものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
 今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子ようすで解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜ゆうべ吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、あたしあてるわ」
「そうか。偉いね」
 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面くめんをしなければならないという屈託くったくがあった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方ちょうだつかたの胸に浮ばない彼を、なおいらつかせた。
 彼は神田にいるいもとの事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹ぼうちょうという名義のもとに、毎月まいげつの不足を、京都にいる父から填補てんぽしてもらう事になった一面には、盆暮ぼんくれの賞与で、その何分なんぶんかを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行りこうしなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初からいさぎよしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重ておもに書くのが得策だろうとも考えた。父母ふぼに心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢つやを着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜ゆうべお前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へあがって机の前に坐った。

        十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗ひきだしからラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆ペンや万年筆でだらしなくつづられた言文一致の手紙などを、自分のせがれから受け取る事は平生ひごろからあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆をいた。手紙を書いてやったところでとうてい効能ききめはあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯やぎひげを生やした細面ほそおもての父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。ふすまを開けて、二階のあがぐちの所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽こっけいに聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前にいきな模様入の半切はんきれひろげて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
 津田は真面目まじめな顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影がした。
ときをちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
 津田は生返事なまへんじをした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがてくぐいて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草たばこを吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方かみがた悪口わるくちを云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意をらした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがたが解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手いってに引き受けたような自信にちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだあとで、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月まいげつ正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
 彼が父の機嫌きげんそこねないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文でしたため出したのは、それから約十分であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げたあとで、もう一遍読み返した時に、自分の字のまずい事につくづく愛想あいそを尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちでる期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函とうかんさせたあと、彼は黙って床の中へもぐり込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」

        十六

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
昨日きのううちへ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子こようじを口から吐き出した。それから内隠袋うちがくしさぐって莨入たばこいれを取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸マッチった。あまり気をかそうとしていたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章あわてて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
 津田は礼を云ってへやを出ようとした。吉川はけむりの間からいた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、あわせをして貰う事にしてあります」
 佐々木は彼の上役うわやくであった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だめだ」
 吉川の言葉はよく彼の気性きしょうを現わしていた。
「都合がよければ明日あしたからにしたまえ」
「へえ」
 こう云われた津田は否応いやおうなしに明日から入院しなければならないような心持がした。
 彼の身体からだが半分戸の外へ出かかった時、彼はまたうしろから呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
 ふり返った津田の鼻を葉巻の好いにおいが急におかした。
「へえ、ありがとう、おかげさまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕ゆうべも岡本と或所で落ち合って、君のお父さんのうわさをしたがね。岡本もうらやましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇ひまになったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
 津田は自分の父がけっしてこれらの人からうらやましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それはもとより自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後じせいおくれですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶あいさつに窮した。向うの口の重宝ちょうほうなのに比べて、自分の口の不重宝ぶちょうほうさが荷になった。彼は手持無沙汰てもちぶさたの気味で、ゆるく消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
 津田はこの子供に対するような、笑談じょうだんとも訓戒とも見分みわけのつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外にのがた。

        十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所からにぎやかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾のれんだの碁会所ごかいしょの看板だのとびかしらのいそうな格子戸作こうしどづくりだのを左右に見ながら、彼は彎曲わんきょくした小路こうじの中ほどにある擦硝子張すりガラスばりの扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴ベルが鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないそのへやは狭いばかりでなく実際暗かった。外部そとから急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅かたすみへ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢ひばち周囲まわりを取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢のふちに片手をかざしたまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へめるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体からだを横にして洋袴ズボン膝頭ひざがしらを重ねたまま。
 電鈴ベルの鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥いちべつのちまた申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛をはばかって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
 この陰気な一群いちぐんの人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろはなやかにいろどられたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ちすくむようにしてこもっているのである。
 津田は長椅子の肱掛ひじかけに腕をせて手を額にあてた。彼は黙祷もくとうを神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
 その一人は事実彼の妹婿いもとむこにほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚びっくりした。そんな事に対して比較的無頓着むとんじゃくな相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶あいさつに窮したらしかった。
 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気にかかっているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、セックスラヴという問題についてむずかしい議論をした。
 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりであとのなさそうに思えた友達と彼との間には、その異常な結果が生れた。
 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃ショックを受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
 すると診察所からこんセルの洋服を着た三十恰好がっこうの男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋かくしから紙入を出して金を払おうとする途端とたんに、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知りごしの津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生にいて下さい。明日あした明後日あさって手術を受けに来て好いかって」
 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗いへやの戸口に現わした。
「今ちょうど二階がいておりますから、いつでも御都合のよろしい時にどうぞ」
 津田はのがれるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張すりガラスばりの大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯がいた。

        十八

 津田のうちへ帰ったのは、昨日きのうよりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚ひあしくに傾いて、先刻さっきまで往来にだけ残っていた肌寒はださむの余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今かどの車屋の軒灯けんとうを明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子こうしを開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段はしごだんを踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方からけ出して来た。
「何をしているんだ」
 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言のうちに自分をきつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭てぬぐいを例の通り彼女の手から受け取って火鉢ひばちそばを離れようとする夫を引きとめた。彼女はうしむきになって、かさ箪笥だんすの一番下の抽斗ひきだしから、ネルを重ねた銘仙めいせん褞袍どてらを出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだおしが好くいていないかも知れないけども」
 津田はけむに巻かれたような顔をして、黒八丈くろはちじょうえりのかかった荒い竪縞たてじま褞袍どてら見守みまもった。それは自分の買った品でもなければ、こしらえてくれとあつらえた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装なりをしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかりうちけなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前にさんちまえの事であった。その上彼はその日から今日きょうに至るまで、ついぞ針を持って裁物板たちものいたの前にすわった細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
きれは買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古おふるよ。この冬着ようと思って、洗張あらいはりをしたまま仕立てずにしまっといたの」
 なるほど若い女の着るがらだけに、しまがただ荒いばかりでなく、色合いろあいもどっちかというとむしろ派出はで過ぎた。津田はそでを通したわが姿を、奴凧やっこだこのような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日あした明後日あさってやって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょにいて行っちゃいけないの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

        十九

 津田のあくあさ眼をましたのはいつもよりずっと遅かった。家のなかはもう一片付ひとかたづきかたづいた後のようにひっそりかんとしていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子しょうじを開けた彼は、そこの火鉢のそばにきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶てつびんが鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊ねぼうをするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、こよみの上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所をしていた。
 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗のぜんに向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥くたびれたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾ふきんろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっといてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚びっくりして夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散けちらす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁はんちょうほど右へ行った所にある自動電話へけつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口がまぐちでも好い」
なんになさるの」
 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
 彼はお延から受取った蟇口を懐中ふところほうんだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分で、もうひるに間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
 津田はそう云いながらわきに抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
 お延は細かい事にまで気をつかわないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かみいどこかと思ったけれども」
 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持ばんの小さい彼の帽子が、かぶるたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日きのうの朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
 彼は蟇口の悪口わるくちばかり云えた義理でもなかった。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶のかんと、麺麭パン牛酪バタを取り出した。
「おやおやこれしゃがるの。そんならときを取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
 やがて好いにおいのするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯あさめしとも午飯ひるめしとも片のつかない、きわめて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田はひとりごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞ぶさたみまいに、ちょっと朝の内藤井の叔父おじの所まで行ってようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

        二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のようにめぐる不便と不利益とにいたく頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父おいいきを通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄あいだがらを説明するものであった。
 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終しじゅう動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
緩慢かんまんなる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳にはさんだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日こんにちまでその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然はっきりしなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面ほそおもてあごの下に、売卜者うらないしゃ見たような疎髯そぜんを垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路へんろみ果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸でついやしたあと、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請ふしんをして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らないに、この閑静かんせいな古い都が、彼の父にとって隠栖いんせいの場所と定められると共に、終焉しゅうえんの土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へしわを寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金がたまったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
 しかし金の重みのいつまでってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終しじゅう東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰ったおぼえのない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来たあとでも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑けいべつされるだけで、いっこうとくにはならないという事をよく承知しているからでもあった。
 実際の世の中に立って、端的たんてきな事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶うかつな人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉をえていうと、彼は迂濶の御蔭おかげ奇警きけいな事を云ったりたりした。
 彼の知識は豊富な代りに雑駁ざっぱくであった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地いちが彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこにおさえつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手ふところでをしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者ぶしょうものに生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。

        二十一

 こういう人にありがちな場末生活ばすえせいかつを、藤井は市の西北にしきたにあたる高台の片隅かたすみで、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々ねんねん建て増される大小の家が、年々彼の眼からあおい色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆ペンを走らす手をめて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅をこしらえて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢かんまんなる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
 津田のうちからこの叔父の所へ行くには、半分道はんぶんみちほど川沿かわぞいの電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関のたすけに依らない方が、彼の勝手であった。
 一時少し前にうちを出た津田は、ぶらぶら河縁かわべりつたって終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所にちていた。向うの高みをおおっている深い木立こだちの色が、浮き出したように、くっきり見えた。
 彼は道々今朝けさ買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対なにぎやかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違すじかいに切断されていた。彼は残酷に在来の家屋をむしって、無理にそれを取り払ったような凸凹でこぼこだらけの新道路のかどに立って、その片隅かたすみかたまっている一群いちぐんの人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
 小肥こぶとりにふとったその男は双子木綿ふたこもめんの羽織着物に角帯かくおびめて俎下駄まないたげた穿いていたが、頭にはかさも帽子もかぶっていなかった。彼のうしろに取り残された一本の柳をたてに、彼は綿めんフラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。このからっぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」
 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風おうふうな言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握ったこぶしをまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」とだまさないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間にはさんで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
 津田は軽蔑けいべつに嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然うしろから彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃ショックを受けた彼はほとんど反射作用のようにうしろをふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧いたずらこぞうらしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章きしょうの着いた制帽と、半洋袴はんズボンと、背中にしょった背嚢はいのうとが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。

        二十二

「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
 自分がとおぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣てずまつかいの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜いちや作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
 彼は例の袋を片手でぐっと締扱しごいて、再び何か投げ込む真似まねを小器用にしたあと麗々れいれいと第二の玉子を袋の底から取り出した。それでもき足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ないめんフラネルの縞柄しまがらを遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧ていねいに地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個いくつでも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度こんだは一つ生きたとりを出そう」
 津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事まこともう行こう。小父おじさんはこれからお前のうちへ行くんだよ」
 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃうそだよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘をいていつまでも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼のたもとつらまえた。
「小父さん何か買ってさ」
 宅で強請ねだられるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父おじさんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐うそつきじゃないか」
「あいつは玉子は出すがとりなんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事まことの足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのをうちでお父さんが染めたんだよ」
 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄ことがらが、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないでこしらえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策きゅうさく滑稽こっけい的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際てぎわくすぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。

        二十三

「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多めった穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」
「だってみんなが尨犬むくいぬの皮だ尨犬の皮だって揶揄からかうんだもの」
 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみはかすかな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
 津田はもし懐中が許すならば、真事まことのために、望み通りキッドの編上あみあげを買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算むなざんで自分のふところにある紙入の中を勘定かんじょうして見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替かわせが届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心せけんしんも起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度こんだうちへ来た時、小母おばさんに買ってお貰い。小父おじさんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」
 彼はすかすようにまたなだめるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物はきもので絶えず踏み堅められる結果として、四五年このかた町並まちなみが生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ばすえものとして馬鹿にできないような品が綺麗きれいに飾り立てられていた。真事はその間を向う側へけ抜けて、朝鮮人の飴屋あめやの前へ立つかと思うと、また此方こちら側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立たたずんだ。彼の馳け出す時には、隠袋ポッケットの中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
 彼は隠袋の中へ手をぐっとし込んでてのひらいっぱいにそのビー玉をせて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子ガラス玉がほとばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章あわててそれを追いかけた。そうしてうしろを振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋おもちゃやり込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
すずめならいいが、むやみに人をねらっちゃいけないよ」
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これからうちへ行って」
 好い加減をいうとすぐあとから実行をせまられそうな様子なので、津田は生返事なまへんじをしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端かたっぱしから批評し始めた。
「あの岡本ってやつ、そりゃ狡猾ずるいんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」
 話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心のうちで比較した。

        二十四

御前おまい近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「また喧嘩けんかしたな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
 真事まことの言葉にはあとがありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ御馳走ごちそうするだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃからかったよ」
 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのがいやになった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
 津田は小首を傾けた。叔父おじが子供を岡本へやりたがらない理由わけは何だろうと考えた。肌合はだあいの相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終しじゅう机に向って沈黙の間に活字的の気□きえんを天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼はあんにその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少頑固かたくなにした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、ひとから馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分いちぶでも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんにいて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
 真事は少し羞恥はにかんでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切くぎりを置くような重い口調くちょうで答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でもはじめさんの持ってるものをね、うちへ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向くらしむきは、彼らの子供が持つ玩具おもちゃの末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請ねだるんだな。みんなはじめさんの持ってるのを見て来たんだろう」
 津田は揶揄からかい半分手をげて真事の背中を打とうとした。真事はばつの悪い真相を曝露ばくろされた大人おとなに近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
うそだよ。嘘だよ」
 彼は先刻さっき津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃をかついだままどんどん自分のうちの方へ逃げ出した。彼の隠袋かくしの中にあるビー玉が数珠じゅずはげしくむように鳴った。背嚢はいのうの中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
 彼は曲り角の黒板塀くろいたべいの所でちょっと立ちどまっていたちのように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路こうじのうちに隠した。津田がその小路を行き尽してきあたりにある藤井の門をくぐった時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣いけがきの間から大事そうに彼を狙撃そげきしている真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。

        二十五

 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子こうしの間から一足の客靴をのぞいて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側えんがわの方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切しきりもないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻えんばなまで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿のの下をくぐった津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出みいだした。障子しょうじ篏入硝子はめガラスに映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部そとから声を掛けた。
「叔母さん」
 叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想あいそというものがなかった。その代り時と場合によると世間並せけんなみの遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんどセックスの感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢としのそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じをひとに与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂きちがいだわ」
 津田は縁側えんがわへ腰をかけた。叔母はあがれとも云わないで、ひざの上にせた紅絹もみきれへ軽い火熨斗ひのしを当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たおきんさんという女が津田にお辞儀じぎをしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団ざぶとん縁側えんがわへ持ってようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
 気のなさそうな生返事なまへんじをした叔母は、お金さんが生温なまぬるい番茶を形式的に津田の前へいで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄よしおさんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切でうそかない人だから」
 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞せじじゃありません、本当の事です」
 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳ききみみを立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラだまを入れて打つと危険あぶないから」
 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りのとりを打つに違ないから。構わないからたまだけ取り上げて来て下さい」
 お金さんはそれを好いしおに茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢ひばちし込んだこてをまた取り上げた。しわだらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗きれいに平たく延びて行くのを何気なくながめていた津田の耳に、客間の話し声が途切とぎれ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」

        二十六

 津田は客間にいる声の主を、すわったまま突き留めようとつとめて見た。やがて彼は軽く膝をった。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
 叔母は嫣然にこりともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んでいやにお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
 想像の眼で見るにはあまりに陳腐ちんぷ過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の服装なりもおのずと思い出された。白縮緬しろちりめんえりのかかった襦袢じゅばんの上へ薩摩絣さつまがすりを着て、茶の千筋せんすじはかま透綾すきやの羽織をはおったそのこしらえは、まるで傘屋かさや主人あるじが町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯こわめしの折でもふところに入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
 津田は微笑しながら叔母にいた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云いにくい事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目まじめな話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、あとを引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「おきんさんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあうまく行きそうなのさ」
 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥はしゃぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯ふざけ空虚からっぽうな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡りょうけんで貰ったの」
 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当けんとうがつかなかった。
「そんな料簡りょうけんって、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づけるほうの身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」
 藤井は四年ぜん長女を片づける時、仕度したくをしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談がまとまるとすれば、それは正に三人目の出費ものいりに違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向くらしむきに多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。

        二十七

 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事まこと穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合ふところつごうで見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通をあおいで、彼らの経済に幾分の潤沢うるおいをつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替かわせが届いてくれればいいという期待にしばられて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄よしおさん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんをもらったの、お前さんは」
「まさか冗談じょうだんに貰やしません。いくら僕だってそうふわついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相かわいそうだ」
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等だんとうがあるもんだからね」
 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避たじろぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目まじめなところもありますからね」
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
 こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあしましょう。今さら云ったって始まらない事だから」
 叔母は先刻さっき火熨斗ひのしをかけた紅絹もみきれ鄭寧ていねいに重ねて、濃い渋を引いた畳紙たとうの中へしまい出した。それから何となく拍子抜ひょうしぬけのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢ぜいたく過ぎるよ」
 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終しじゅうこう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
服装なりや食物ばかりじゃないのよ。心が派出はでで贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走ごちそうはないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食こじきじゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目まじめさが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」
 この時津田の胸をかすめて、自分の従妹いとこに当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、そののち夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓まゆみが今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
 この二人の従妹いとこのどっちも、貰おうとすれば容易たやすく貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云ってましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄しなかばんふたを開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。

        二十八

 奥の四畳半で先刻さっきからおきんさんに学課の復習をしてもらっていた真事まことが、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語フランスごの読本をさらい始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切くぎりを置いて読み上げる小学二年生の頓狂とんきょうな声を、いつもながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐたもとに入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音にうながされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居いずまいを直して叔父に挨拶あいさつをしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服をこしらえたじゃないか」
 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合じあい背広せびろを着ていた。いつもと違ってその洋袴ズボンの折目がまだ少しもくずれていないので、誰の眼にも仕立卸したておろしとしか見えなかった。彼は変り色の靴下をうしろへ隠すようにして、津田の前にすわり込んだ。
「へへ、冗談じょうだん云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子まどガラスの中に飾ってあるぞろいくくりつけてあった正札を見つけて、その価段ねだん通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢ぜいたくやから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
 津田は叔母の手前重ねて悪口わるくちを云う勇気もなかった。黙って茶碗ちゃわんを借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作しょさを眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」

 今日こんにちまで病気という病気をしたためしのない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病しっぺいとほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩ごましおだらけのひげでた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々じじむさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病わくびょう同源どうげんだの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事をおもい出すと、それが病気にかからない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽こっけいに感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現にわたくしなんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃかからないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理ふろんりな断案は、云い手が真面目まじめなだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
 薄暗くなったへやの中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチをねじった。

        二十九

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢さらこばちの音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
 津田は明日あしたの治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走ごちそうが足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、またしりえた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君のうちへ行ってくわしい話をするがね」
「しかし僕は明日あしたから入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしくいた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへかよったのを小林はよく知っていたのである。
 彼のくわしい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻さっき叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心をそそられた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母のこしらえてくれた肉にもさかなにも、日頃大好な茸飯たけめしにも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭パンと牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間にはさまるここいらの麺麭に内心辟易へきえきしながら、また贅沢ぜいたくだと云われるのが少しこわいので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿うしろすがたを見送った。
 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの今度こんだの縁がまとまるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
 叔父はのなさそうな返事をした。
至極しごくよさそうに思います」
 小林の挨拶あいさつも気軽かった。黙っているのは津田と真事まことだけであった。
 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父のうちで会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口はいた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田はこういってしかるべき理窟りくつが充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
 叔父は少し機嫌きげんを損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

        三十

 それでも座はしらけてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急にき止められたように、誰も津田の言葉をいで、順々にあとへ送ってくれるものがなくなった。
 小林は自分の前にある麦酒ビール洋盃コップして、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事にいた。
真事まことさん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
にがいから僕いやだよ」
 真事はすぐねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それをしおにははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
 すぐ立って奥の四畳半へけ込んだ彼が、そこから新らしい玩具おもちゃを茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母もうれしがっているわが子のために、一言いちごん愛嬌あいきょうを義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺おやじを責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうかあきらめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手にります」
「見て来たような事を云うな」
 空気銃の御蔭おかげで、みんながまた満遍まんべんなく口をくようになった。結婚が再び彼らの話頭にのぼった。それは途切とぎれた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前とちがった気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁ふえんになるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終すえしじゅう和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て来た世の中を正直にまとめるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅いちぐうにお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目まじめさを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢ぜいたくな事を、我々風情ふぜいが云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目ふまじめという疑念を塗りつぶすために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首をひねって考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易たやすく考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出てようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろごのみをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
 先刻さっきから肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。

        三十一

「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母おばおいの対話とは思えないよ」
 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はそのじつ行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心てきがいしんをもって云い合ってるようだが、喧嘩けんかでもしたのかい」
 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事まことを相手にビーだまを転がしていた小林がぬすむようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来にくいかも知れないがね、叔母さんはうそいてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来たあとと同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱ほてった顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃コップを取り上げて麦酒ビールをぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日きょうまでまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
 津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれにがあったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男ぶおとこなんぞあるもんですか」
 津田も小林も吹き出した。ひとりきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
 叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうにで廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だってみんな笑うじゃないか」
 この問答の途中へおきんさんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間ねまの方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃむかしだって恋愛事件はあったよ。いくらおあさこわい顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男にれたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
 叔母は真事の立ったあとへ坐って、さっさと松茸飯まつだけめし手盛てもりにして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達はひとの娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
 津田はかえし半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母ふぼから独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくられたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女あれを愛したおぼえがない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味まず食麺麭しょくパンをにちゃにちゃんだ。

        三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心にまとめようと努力するもののないのに気が付いた。
 餉台ちゃぶだいの上に両肱りょうひじを突いた叔父が酔後すいごあくびを続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物ざんぶつを勝手へ運ばした。先刻さっきから重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月のおもてを過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒ビールの泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終しじゅう自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快もひそんでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
 半日以上の暇をつぶしたこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌かっぱつな吉川夫人とその綺麗きれいな応接間とを記憶の舞台におどらした。つづいて近頃ようやく丸髷まるまげに結い出したおのぶの顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立とうとして小林をかえりみた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇おいとましよう」
 小林はすぐ吸い残した敷島しきしまの袋を洋袴ズボン隠袋かくしへねじ込んだ。すると彼らのぎわに、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰ごぶさたをしている。よろしく云ってくれ。お前の留守にゃひまで困るだろうね、おんなも。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急にあとからつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落しゃれにそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
芝居しばやはどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
 芝居場しばいばなどを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭をいて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
 叔父は笑うだけであった。
兄貴あにきは怒ってるんだろう」
「いったいおひでがまた余計な事を云ってやるからいけない」
 津田は少し忌々いまいましそうに妹の名前を口にした。
「お秀にとがはありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺おやじから送って貰った金を、きちんきちん返すやつがあるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
 津田はとてもかなわないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、うながすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。

        三十三

 戸外そとには風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人のほおに冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明なつゆがしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套がいとうの肩をでた。その外套の裏側にみ込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林をかえりみた。
日中にっちゅうあったかだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
 小林は新調のぞろいの上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先つまさきを厚く四角にこしらえたいかつい亜米利加型アメリカがたの靴をごとごと鳴らして、太い洋杖ステッキをわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者にことならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋くつたびまで新らしくしている男が、ひとの着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活によこたわる、不規則な物質的の凸凹たかびく証拠しょうこ立てていた。しばらくしてから、津田は小林にいた。
「なぜその背広せびろといっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君とおんなじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷てきびし過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷をへだててむこうに見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみをしたたらした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子をうかがった。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝こんもりした竹藪たけやぶが一面にかぶさっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるそのささの葉のこずえは、季節相応な蕭索しょうさくの感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうしてほうってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
 津田はこういって当面の挨拶あいさつをごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいてめないと身体からださわるからね」
 自分に都合の好い理窟りくつを勝手にこしらえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶つれであった。彼は冷かし半分にいた。
「君がおごるのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
 二人は黙って坂の下まで降りた。

        三十四

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直まっすぐに行かなければならなかった。しかしていよく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林はのぞき込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場バーめいた店の硝子戸ガラスどが、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等のうちはここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
冗談じょうだん云うな。いやだよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調くちょう追究ついきゅうした。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部そとへ現わした。
「じゃ飲もう」
 二人はすぐ明るい硝子戸ガラスどを引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅かたすみえらんで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲あたりへ向けた。
 服装から見た彼らの相客中あいきゃくちゅうに、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、しま半纏はんてんの肩へ手拭てぬぐいを掛けたのだの、木綿物もめんもの角帯かくおびめて、わざとらしく平打ひらうちの羽織のひもの真中へ擬物まがいもの翡翠ひすいを通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛はらがけ股引ももひきも一人まじっていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
 小林は津田の猪口ちょくへ酒をぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出はでな彼の背広せびろが、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でもそろっているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶あいさつをする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然とうぜんとしているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
 津田は昂然こうぜんとして両者の差違をかなかった。それでも小林は少しも悄気しょげずに、ぐいぐいさかずきを重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑けいべつしているね。同情にあたいしないものとして、始めから見くびっているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強くっきょう頸筋くびすじを曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐさかずきをそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

        三十五

 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏はんてん角刈かくがりと入れ違に這入はいって来て、二人から少しへだたった所に席を取った。ひさしを深くおろした鳥打とりうちかぶったまま、彼は一応ぐるりと四方あたりを見廻したあとで、ふところへ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまでっても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりとほかの客を、見ないようにして見始めた。その相間あいま相間には、ちんちくりんな外套がいとうの羽根の下から手を出して、薄い鼻の下のひげでた。
 先刻さっきから気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向まむきになって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢をくずさなかった。ほとんど返事にあたいしないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵たんていだぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口ちょくを干した。小林はすぐそれへなみなみといだ。
「あの眼つきを見ろ」
 薄笑いをした津田はようやく口をひらいた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取りつくろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られてしかるべきだかよく考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地きじをうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃ほこりよごれているだけなんだ。つまり湯に入れないからきたないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家じかの弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面をきずつけられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなおおっかけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜ロシアの小説を読んだろう」
 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤げせんであろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取りつくろわない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生にくと、先生はありゃうそだと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣なうつわに盛って、感傷的に読者を刺戟しげきする策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢としを取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
 小林の言葉はだんだんせまって来た。しまいに彼は感慨にえんという顔をして、涙をぽたぽた卓布テーブルクロースの上に落した。

        三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外らちがいからこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙のあとを、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵たんていとして物色ぶっしょくされた男は、ふところからまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広せびろの腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装なりをすると、汚ないと云って軽蔑けいべつするだろう。またたまに綺麗きれいな着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生ごしょうだから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんかこしらえたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸はだかで往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落しゃれだと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気しゃれけはあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田はもとより知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装なりを見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々きんきん都落みやこおちをやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻さっきから苦になっていた襟飾えりかざりの横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
 長い間叔父の雑誌の編輯へんしゅうをしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終しじゅう忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防しんぼうしていたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際いやだよ」
 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口もいた。
「要するに僕なんぞは、生涯しょうがい漂浪ひょうろうして歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者かけおちものになるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢ぜいたくだからさ。僕のは死ぬまで麺麭パンおっかけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
 小林は津田の言葉から何らの慰藉いしゃを受ける気色けしきもなかった。

        三十七

 先刻さっきから二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓テーブルの上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会をとらえてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口きんぐちを一本出してそれに火をけた。行きがけの駄賃だちんらしいこの所作しょさが、煙草たばこの箱を受け取ってたもとへ入れる津田の眼を、皮肉にくすぐったくした。
 時刻はそれほどでなかったけれども、秋のの往来は意外にけやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河のふちをつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へいっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然はっきりした事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
 彼の返事は少し曖昧あいまいであった。津田がそれを追究ついきゅうもしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃしたらいいじゃないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟りくつなだけに、同情にえていそうな相手の気分を残酷に射貫いぬいたと一般であった。数歩ののち、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕はさむしいよ」
 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床かわどこの真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭はしぐいの下で黒く消えて行く時、かすかに音を立てて、電車の通る相間あいま相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
 彼の語気は癇走かんばしっていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯としさえ若くって身体からださえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効せいこうできるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねてばつを合せる態度に出た。
「君が行ったらおきんさんの結婚する時困るだろう」
 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相かわいそうだけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴あにきをもったのが不仕合せだと思って、あきらめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生のうちで使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまたひとごとのように云った。
「旅費は先生から借りる、外套がいとうは君から貰う、たった一人の妹はいてきぼりにする、世話はないや」
 これがその晩小林の口から出た最後の台詞せりふであった。二人はついに分れた。津田はあとをも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

        三十八

 彼の門はいつもの通りまっていた。彼はくぐへ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまたかなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しいかきがねの抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立たたずんだ。新らしい世帯を持ってから今日こんにちに至るまで、一度も外泊したおぼえのない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
 今日きょうの彼は灯点ひともし頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろおのぶ面影おもかげを心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火ともしびを慕って、それを目標めあてに足を運んだのと一般であった。彼の身体からだ土塀どべいに行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
 彼は手をげてかないくぐをとんとんと二つたたいた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜめた」といって詰問するような音が、わたりつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声のぬしは、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側こちらがわで耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチをひねる音が明らかに聞こえた。格子こうしがすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだててない事はたしかであった。
「どなた?」
 潜りのすぐ向う側まで来た足音がまると、お延はまずこう云って誰何すいかした。彼はなおの事き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
 お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊ごめんあそばせ」
 ごとごと云わしてかきがねはずした後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少しあおい顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶てつびんが約束通り鳴っていた。長火鉢ながひばちの前には、例によって厚いメリンスの座蒲団ざぶとんが、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたそのむこうには、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱すずりばこが出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿らでんふたわきけられて、梨地なしじの中にんだ小さな硯がつやつやとれていた。持主が急いで座を立った証拠しょうこに、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨をにじませて、七八寸書きかけた手紙の末をけがしていた。
 戸締とじまりをして夫のあとから入ってきたお延は寝巻ねまきの上へ平生着ふだんぎの羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまりさむしくってたまらなくなったから、とうとううちへ手紙を書き出したの」
 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得なっとくができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒ぶっそうだからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だってげんに締まっていたじゃないか」
とき昨夕ゆうべ締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女のまゆを動かして見せた。日中用のないくぐかきがねを、朝はずし忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻さっき寝かしてやったわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、くぐの事をそのままにして寝た。

        三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜ゆうべ寝るまで全く予想していなかった不意の観物みものによって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟あでやか盛粧せいそうしたお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起ねおきの顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑をらした。
「今御眼覚おめざめ?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡てがらをかけた大丸髷おおまるまげと、派出はで刺繍ぬいをした半襟はんえりの模様と、それからその真中にある化粧後けしょうごの白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼のはかまも羽織も、畳んだなり、ちゃんと取りそろえて、渋紙しぶかみの上へせてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
 津田はまた改めて細君の服装なり吟味ぎんみするように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟おおげさだからね」
 彼はすぐ心のうちでこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群ひとむれとこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だってあたし……」
 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装なりをして、あのお医者様へ夫婦おそろいで乗り込むのは、少し――」
辟易へきえき?」
 お延の漢語が突然津田をくすぐった。彼は笑い出した。ちょっとまゆを動かしたお延はすぐ甘垂あまったれるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍かんにんしてちょうだいよ、ね」
 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女にくるまを二台云いつけるお延の声を、あたかも自分がてられでもするように世話せわしなく聞いた。

 普通の食事を取らない彼の朝飯あさめしはほとんど五分とかからなかった。楊枝ようじも使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものをまとめなくっちゃ」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分のうしろにある戸棚とだなを開けた。
「ここにこしらえてあるからちょっと見てちょうだい」
 よそ行着ゆきぎを着た細君をいたわらなければならなかった津田は、やや重い手提鞄てさげかばんと小さな風呂敷包ふろしきづつみを、自分の手で戸棚とだなからり出した。包の中には試しにそでを通したばかりの例の褞袍どてら平絎ひらぐけ寝巻紐ねまきひも這入はいっているだけであったが、かばんの中からは、楊枝だの歯磨粉はみがきだの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙しょかんようしだの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さいはさみだの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張かさばった大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折しおりはさんであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書ドイツしょを重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部たいぶの書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれがるんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのをってちょうだい」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へめ込んだ。

        四十

 天気が好いのでほろたたました二人は、かばんと風呂敷包を、各自めいめいくるまの上に一つずつ乗せて家を出た。小路こうじの角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入ねんいり身仕舞みじまいをした若い女の口から出る刺戟性しげきせいに富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒かじぼうを握ったまま、等しくおのぶの方へ好奇の視線を向けた。そばを通る往来の人さえ一瞥いちべつの注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。ちゅうぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、はげしい速力でまた彼の待っている所までけて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製のくさりを出して長くぶら下げて見せた。その鎖のはじにはがあって、環の中には大小五六個のかぎが通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作しょさと共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥たんすの上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人そろって外出する時の用心に、大事なものにじょうおろしておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手ひらてでぽんとその上をたたきながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再びけ出した。
 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少しおくれていた。しかしひるまでの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作ぞうさもなく笑いながら津田にお辞儀じぎをしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀くじゃくはどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延がせんを越して、「御厄介ごやっかいになります」とこっちから挨拶あいさつをしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取ったかばんを看護婦に渡して、二階のあがくちの方へ廻った。
「お延こっちだ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中をのぞき込んでいたお延は、すぐ津田のあといて階子段はしごだんあがった。
「大変陰気なへやね、あすこは」
 南東みなみひがしいた二階はさいわいに明るかった。障子しょうじを開けて縁側えんがわへ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干ものほしを見ながら、津田をかえりみた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳はよごれているけれども」
 もと請負師うけおいしか何かの妾宅しょうたくに手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなくいきな昔の面影おもかげが残っていた。
「古いけれどもうちの二階よりましかも知れないね」
 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少くすぶった天井てんじょうだの床柱とこばしらだのを見廻した。

        四十一

 そこへ先刻さっきの看護婦が急須きゅうすへ茶をれて持って来た。
「今仕度したくをしておりますから、少しの間どうぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物はものの音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたしこわいわ、そんなものを見るのは」
 お延は実際怖そうにまゆを動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台のそばまで来て、きたないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄みよりのものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
 津田は真面目まじめなお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人たちあいにんなんか呼んで来るやつがあるものかね」
 津田は女にきたないものを見せるのがきらいな男であった。ことに自分の穢ないところを見せるはいやであった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃしましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「おひるまでに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだっておんなじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 お延は後を云わなかった。津田もかなかった。
 看護婦がまた階子段はしごだんの上へ顔を出した。
支度したくができましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気についていもとの事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山ぎょうさん過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手にがてであった。
 お延は中腰ちゅうごしのまま答えた。
「でもあとでまた何か云われると、あたしが困るわ」
 いてとめる理由も見出みいだし得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延はかすかな声で階下したはばかるような笑い方をした。しかし彼女のあらわした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽こっけいだという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのはすから」
 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。ひるまでにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
 前後して階子段はしごだんを下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

        四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田にいた。
「飲みましたが思ったほど効目ききめがないようでした」
 昨日きのうの津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤げざいから受けた影響は、ほとんど精神的にゼロであったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸かんちょうしましょう」
 浣腸の結果も充分でなかった。
 津田はそれなり手術台にのぼって仰向あおむけに寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わずひやりとした。堅いくくまくらに着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度もまばたきをして、何度も天井てんじょうを見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼をかすめて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらにぬすみ見たのだという心持がなおのことつのった。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
 局部魔睡きょくぶますいは都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。にぶい抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒ぶどうしゅなどを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事はいやであった。
「大丈夫です」
「そうですか。もうじきです」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際てぎわひらめいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
 切物きれものの皿に当って鳴る音が時々した。はさみで肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇いかくした。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼でなまぐさそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むずかゆい虫のようなものが、彼の身体からだを不安にするために、気味悪く血管の中をい廻った。
 彼は大きな眼をいて天井てんじょうを見た。その天井の上には綺麗きれいに着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのしたあとで、医者はまた云った。
瘢痕はんこんが案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
 最後の注意と共に、津田はようやく手術台からろされた。

        四十三

 診察室を出るとき、うしろからいて来た看護婦が彼にいた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――あおい顔でもしているかね」
 自分自身に多少懸念けねんのあった津田はこう云ってき返さなければならなかった。
 創口きずぐちにできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、ひとが想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段はしごだんあがる時には、かれた肉とガーゼとがこすってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずにへやの中に這入はいった。そこには彼の予期通り、白いシーツにつつまれた蒲団ふとんが、彼の安臥あんがを待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地ねずみじのネルを重ねた銘仙めいせん褞袍どてらうしろから着せるつもりで、両手でえりの所を持ち上げたお延は、拍子抜ひょうしぬけのした苦笑と共に、またそれを袖畳そでだたみにしてとこすその方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
 彼女はそばにいる看護婦の方を向いていた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支さしつかえないのでございます。お食事の方はただいまこしらえてこちらから持って参ります」
 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
 お延は躊躇ちゅうちょした。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
 時計のふたを開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上でまないたへ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井てんじょうの上で、時計とにらめっくらでもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再びいた。
「今からうちへ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
 お延の返事はいつまでっても捗々はかばかしくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟しげきを避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼をかなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐあとを云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞にあがりますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作しょさが一度にひらめいた。病院へいて来るにしては派出過はですぎる彼女の衣裳いしょうといい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向ってそそまれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。とこの上に取りそろえて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙しょかんようしだのはさみだの書物だのが彼の眼についた。それは先刻さっきかばんへ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。

        四十四

 津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、むきを変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階のゆかが、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速じんそくに働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢わからずやね」
 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究ついきゅうしていいか見当けんとうがつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
 彼女のまゆがさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変なところが明暸めいりょうに云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格にかかわるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つのが我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延はかすかな溜息ためいきらしてそっと立ち上った。いったんった障子しょうじをまた開けて、南向の縁側えんがわへ出た彼女は、手摺てすりの上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干ものほし隙間すきまなくつるされたワイ襯衣シャツだのシーツだのが、先刻さっき見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声でひとりごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然かごの中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分のそばしばりつけておくのが少し可哀相かわいそうになった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂つぎほのないのに困った。お延も欄干らんかんに身をせたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 そこへ看護婦が二人の食事を持って下からあがって来た。
「どうもお待遠さま」
 津田のぜんには二個の鶏卵けいらんと一合のソップと麺麭パンがついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這はらばいになったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙フォークの手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返いっぺん断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日のひるまでに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
 二人はこういう会話と共に午飯ひるめしを済ました。

        四十五

 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶおくらせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口ひとくち劇場の名を云ったなり、すぐくるまに乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
 小路こうじを出た護謨輪ゴムわは電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただにぎやかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方かけかたが、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体からだうわつきながら早くうごくと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後にふんとして活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
 車上の彼女はうちの事を考える暇がなかった。機嫌きげんよく病院の二階へ寝かして来た津田の影像イメジが、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支さしつかえないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好しこうを始めからもっていない彼女は、時間がおくれたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟しげきであると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
 俥は茶屋の前でとまった。挨拶あいさつをする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯ちょうちんだの暖簾のれんだの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜さくそうした、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間すきまから遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入しゅつにゅうしたがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇くらやみを通り抜けて、急に明海あかるみへ出た人のように眼をました。そうしてこの氛囲気ふんいき片隅かたすみに身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作きょしどうさ共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子つぎこは、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣きづかうように、うしろを向いて筋違すじかい身体からだを延ばしながらお延にいた。
「見えて? 少しこことかわってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
 お延は首を振って見せた。
 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子ゆりこ左利ひだりききなので、左の手に軽い小さな象牙製ぞうげせいの双眼鏡を持ったまま、そのひじを、赤いきれつつんだ手摺てすりの上にせながら、うしろをふり返った。
「遅かったのね。あたしうちの方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶あいさつかたがたお延に何か云うほどの智慧ちえをもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻さっきから姉妹きょうだいの母親が傍目わきめもふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木ひょうしぎの鳴るまでついに一言ひとことも口をかなかった。

        四十六

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻さっきつぎと話してたの」
 幕が引かれてから、始めてうちくつろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってそのあとを云い足した。
「あたしお母さまとかけをしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤おみくじを引いて」
 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書てんしょの金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙ぞうげを平たくけずった精巧の番号札が数通かずどおり百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入こようじいれを取り扱うような手つきで、短冊形たんざくがたの薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入もんくいり折手本おりでほんりひろげて見た。そうしてそこに書いてあるはえの頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重はぶたえの裏をつけた更紗さらさの袋から取り出して、もったいらしくその上へかざしたりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具おもちゃとしては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的ゆうぎてきに着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時としてちつ入のままそれを机の上から取って帯の間にはさんで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
 お延は調戯半分からかいはんぶん彼女にいて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母がそばから彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤みくじじゃないのよ。お神籤よりもっとえらい予言なの」
「そう」
 お延は後が聞きたそうにして、母子おやこを見比べた。
つぎはね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被おっかぶせるようにとめた。
してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
 今まで黙って三人の会話をいていた妹娘の百合子ゆりこが、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノをさらって上げないから」
 母は隣りにいる人の注意をかないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳がきたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
 百合子はわざとあごを前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
 こう云いながら立つと、継子はうしろの戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
 年歯としの六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それをうまく利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態をくずしていたので、お延の慫慂しょうようは何の効目ききめもなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負しょわなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母たのもしく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
 お延は弱い感投詞かんとうしをむしろさみしそうに投げた。

        四十七

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕あさゆう尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一ゆいいつの責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
良人おっとというものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿かいめんに過ぎないのだろうか」
 これがお延のとうから叔母おばにぶつかって、ただして見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位きぐらいがあった。見方次第では痩我慢やせがまんとも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制けんせいした。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲すもうを取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、ていよく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へさらすような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届ふゆきとどきからでも出たように、はたから解釈されてはならないと日頃から掛念けねんしていた。すべてのうわさのうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍かむずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人おっとあやなして行けないのは、畢竟ひっきょう知恵ちえがないからだ」
 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心をきずつけたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼をそらせた。
 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目つぎめの少し切れた間から誰かが見物の方をのぞいた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。すわったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったりくずしたりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭がうずのように見えた。彼らの或者の派出はで扮装つくりが、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
 土間どまから眼を放したお延は、ついに谷をへだてた向う側を吟味ぎんみし始めた。するとちょうどその時うしろをふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当けんとうへつけて、そこに容易たやすく吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻さっきから知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええみんな知ってるのよ」
 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたしいやだわ。あんなにして見られちゃ」
 お延は隠れるように身をちぢめた。それでも向側むこうがわの双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
 お延はすぐ継子のあとおっかけて廊下へ出た。

        四十八

 そこから見渡した外部そとの光景も場所柄ばしょがらだけににぎわっていた。裏へぬきを打ってはずしのできるようにこしらえたすかしの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下のはじに立って、なかば柱に身をたせたお延が、継子の姿を見出みいだすまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指めざす人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
 うしろからのぞき込むようにしていたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんどれ擦れになって、微笑ほほえみ合った。
「今困ってるところなのよ。はじめさんが何かお土産みやげを買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにくなんにもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
 疳違かんちがいをして、男の子の玩具おもちゃを買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のあるもんなどを着けた花簪はなかんざしだの、紙入だの、手拭てぬぐいだのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口をいてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃ピストルとか木剣ぼっけんとか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんないきな所にあろうはずがないわ」
 売店の男は笑い出した。お延はそれをしおに年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまたのちほど」
 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下のはじまで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱のきばしらたてに立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件ひとじけんであった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間いっけん取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
 継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にもかなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似てまねまでして見せた。
「こうやってともに向けるんだから、かなわないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、うちのお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっとうれしがってよ。延子さんはハイカラだって」
 二人が声を出して笑い合っているそばに、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫ともぬいもんを付けて、セルの行灯袴あんどんばかま穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶あいさつでもして通り過ぎるように、鄭重ていちょうな態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子はあかくなった。
「もう這入はいりましょうよ」
 彼女はすぐお延をうながして内へ入った。

        四十九

 場中じょうちゅうの様子は先刻さっき見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女なんにょの姿が、まるで人の頭の上を渡っているようにわずらわしくながめられた。できるだけ多くの注意をこうとする浮誇ふこの活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾ふんしょくであった。
 比較的静かな舞台ぶたいの裏側では、道具方の使う金槌かなづちの音が、一般の予期をそそるべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕のうしろ拍子木ひょうしぎを打つ音が、まわされた注意を一点にまとめようとする警柝けいたくように聞こえた。
 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間まくあいを、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟しげきを盛って、他愛たわいなく時間のために流されていた。彼らは穏和おだやかであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の呼息いきに酔っ払った彼らは、少しめかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
 席に戻った二人は愉快らしく四辺あたりを見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らをねらっていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたしさがしてあげましょうか」
 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へてがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ににんまえぐらいふとってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗きれい友染模様ゆうぜんもようの背中が隠れるほど、帯を高く背負しょった令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさをこらえるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹をたしなめた。
「百合子さん」
 妹は少しもこたえなかった。例の通りちょっと小鼻をふくらませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度のかたわらに、お延が年相応の分別ふんべつを出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶ごあいさつをして来ましょうか。ましていちゃ悪いわね」
 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちをきらっているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気おぼろげな理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信もともなっていた。先刻さっき双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶あいさつに行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易たやすく果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかとあんに願っていた。
 叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ごめんこうむってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上めしやがるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」

        五十

 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けてもらった戸の隙間すきまから中をのぞいた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談たちばなしを、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がそのあとへ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体からだの位置をかえるのさえ臆劫おっくうそうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後うしろを向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前をふさいで邪魔だろう」
 一夜作いちやづくりの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺あたりへ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けたためしのない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつきあいだと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色のなまちろい変な男が柳の下をうろうろしていた。荒いしまの着物をぞろりと着流して、博多はかたの帯をわざと下の方へめたその色男は、素足に雪駄せった穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳のそばにある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。しかるに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、せき一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分うしろを向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらにいた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居しばやへ行くなんて不埒千万ふらちせんばんだとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
 小声でさえ話をするものが周囲あたりに一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌ごきげんを損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
 お延はうるさそうにまゆを動かした。面白半分調戯からかって見た岡本は少し真面目まじめになった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居しばやを見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
 お延の眼は急に舞台を離れた。
理由わけっていったい何」
「今ここじゃ話しにくいがね。いずれ後で話すよ」
 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食ばんめしを食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
 先刻さっきまで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部クラブから」
 二人の会話はそこで途切とぎれた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっとうしろの戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語ささやいた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間まくあいにどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
 叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
 男はまた戸をそっとてて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。

        五十一

 彼女が叔父叔母のあといて、継子といっしょに、二階の片隅かたすみにある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間のちであった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹いとこに小声でいて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
 こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧あいまいになってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母ちちははに遠慮があるのかも知れなかった。また自分はなんにも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
 鋭い一瞥いちべつの注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢であう多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然こつぜんお延の頭に彼女と自分との比較がひらめいた。姿恰好すがたかっこうは継子にまさっていても、服装なり顔形かおかたちで是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥はにかんでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々ういういしく出来上った、処女としては水のしたたるばかりの、この従妹いとこを軽い嫉妬しっとの眼でた。そこにはたとい気の毒だという侮蔑ぶべつこころが全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我ひがの地位をえて立って見たいぐらいな羨望せんぼうの念が、いちじるしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準めやすにおかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、にぎやかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁あいしゅうに打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質たちのものであった。そうして今嫉妬しっとの眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握りめたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私がうらやましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛をつなぐために、そのたっとい純潔な生地きじを失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたにつらくあたるかも知れません。私はあなたがうらやましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままのうつわが完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母ふぼ膝下しっかを離れると共に、すぐ天真の姿をきずつけられます。あなたは私よりも可哀相かわいそうです」
 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人にさえぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ひとかたならぬ恩顧おんこを受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、あたかぎりの愛嬌あいきょうと礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなのあといて食堂に入った。

        五十二

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標まとにするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談たちばなしをしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側にみ出している大々だいだいした夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いをみなぎらしていた夫人の方でも、すぐひとみをお延の上に移した。しかし咄嗟とっさの電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶あいさつかわすまで、ついに互を認め合わなかった。
 夫人に投げかけた一瞥いちべつについで、お延はまたそのそばに立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻さっき廊下で継子といっしょになって、冗談じょうだん半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなのうしろに立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好みよしさんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人なんびとであるかを知らずにしまった。
 席に着くとき、夫人は叔父の隣りにすわった。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子いすへ腰をろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇ちゅうちょした。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」
 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。せんすつもりでいたのに、かえって先を越されたというまずい感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心うぶらしい様子を、食卓越テーブルごしに眺めた時、ますます強固にされた。
 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口もかないで、下ばかり向いている彼女の態度のうちには、ほとんど苦痛に近い或物が見透みすかされた。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌あいきょうのある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑ちぎしているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
 ちょうど叔母と話を途切とぎらしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸ドイツを逃げ出した話でもするがいい」
 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となくかえすんでね、近頃はもうひとよりも自分の方が陳腐ちんぷになってしまいました」
「あなたのような落ちついたかたでも、少しは周章あわてたでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。

        五十三

 三好を中心にした洋行談がひとしきりはずんだ。相間あいま相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際てぎわを、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和おだやかというよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車くちぐるまに乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
 彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言ひとことも口をさしはさむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、ごうも技巧の臭味くさみなしに、着々成功して行く段取だんどりを、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんがあきれていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
 お延は不意を打たれて退避たじろいだ。津田の前でかつて挨拶あいさつに困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間のきょたした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌あいきょうに過ぎなかった。
「いいえ、大変面白くうかがっております」とあとから付け足した時は、お延自分でももう時機のおくれている事に気がついていた。またやりそくなったというにがい感じが彼女の口の先までいて出た。今日こそ夫人の機嫌きげんを取り返してやろうという気込きごみが一度にえた。夫人は残酷に見えるほど早く調子をえて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前ひとむかしまえの事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦せいれき……」
 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
普仏戦争ふふつせんそう時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様だんなさまを案内して倫敦ロンドンを連れて歩いて上げたおぼえがあるんだから」
「じゃ巴理パリ籠城ろうじょうした組じゃないのね」
「冗談じゃない」
 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭のろくさいバスがまだ幅をかしていた時代だよ」
 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨をき起すらしく見えた。継子と三好を見較みくらべた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終しじゅうその子のそばに坐っていらっしったら好いでしょう」
 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」といた。叔母がそんな呑気のんきな人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はおじいさまお爺さまって云われる時機が、もう眼前がんぜんせまって来たんだ。油断はできません」
 継子が顔をあかくして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯としを計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たらなんにも反省器械はんせいきかいを持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
 みんなが声を出して笑った。

        五十四

 彼らほど多人数たにんずでない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群いちぐんを折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲コヒーも飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布ナプキンほうす訳に行かなかった。またそんな世話しない真似まねをする気もないらしかった。芝居をに来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイにいた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧ていねいに答えた。
「ただ今きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
 叔父はすぐ皮付のとりももを攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着とんじゃくしないらしかった。彼はすぐ叔父のあとへついて、劇とは全く無関係な食物くいもの挨拶あいさつをした。
「君は相変らずうまそうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車かたぐるまへ乗った話をお聞きですか」
 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞がいぶんの好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人がそばから口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人をつぶしたんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦ロンドンの群衆の中で、大男の肩の上へかじりついていたんだ。行列を見るためにね」
 叔父おじはまだ笑いもしなかった。
「何を捏造ねつぞうする事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式たいかんしきの時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈せいが高過ぎるもんだから、苦しまぎれにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
 叔父の弁解はむしろ真面目まじめであった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人イギリスじんが大きいたって、どうも君じゃ辻褄つじつまが合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小わいしょうだからな」
 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっとに落ちたらしい言葉遣ことばづかいをして、なおその当人の猿という渾名あざなを、一座をにぎわせる滑稽こっけい余音よいんのごとくかえした。夫人はなかば好奇的で、半ば戒飭的かいちょくてきな態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏ひょうりなく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、おんなじ事です」
 こんな他愛たわいもない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前わけまえを取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまでっても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒いっけん置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹いとこを、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力のあとさえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部そとに示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望せんぼう漣□さざなみが立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてそのあとからあん人馴ひとなれない継子をあわれんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮けいぶの念がいつもの通り起った。

        五十五

 彼らの席を立ったのは、男達のくゆらし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くもたまった頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時なんじだろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間をとらえた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
 いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐそのあとを自分で云い足した。
先刻さっきから伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
 この云訳いいわけをお延は腹の中でうそらしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠こんきょのある推定であった。彼女は食堂へ這入はいって夫人に挨拶あいさつをした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、うやうやしく頭を下げて、「毎度津田が御厄介ごやっかいになりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言ひとことも口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前にさんちまえ津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
 お延は夫人のこの挙動を、自分がきらわれているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振そぶりを、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負ひいきにしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目としてはばかられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然ひとに好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一ゆいいつの共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸につかえていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際まぎわになって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、うそらしいという疑をいだくだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。おかげさまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日こんち
今日きょう? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。ひとに対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入おはいりになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階がいておるので、五六日ごろくんちそこへおいていただく事にしております」
 夫人は医者の名前と住所ところとをいた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、なおるまでよく養生するように、そう云って下さい」
 お延は礼を云った。
 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。

        五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾はらんも来なかった。ただ褞袍どてらを着て横臥おうがした寝巻姿ねまきすがたの津田の面影おもかげが、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那せつなに、「いや疳違かんちがいをしちゃいけない、何をしているかちょっとのぞいて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。だまされたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打したうちをしたくなった。
 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後ゆうめしごに起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様にようの自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前をかえさない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓テーブル晩餐ばんさんを共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、このにがい酒をかも醗酵分子はっこうぶんしとなって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかとかれると、彼女はとても判然はっきりした返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸ふめいりょうな材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念けねんいだかない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女はすべての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
 芝居がねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑ごたごたした間際まぎわに、そんな機会の来るはずもないと、始めからあきらめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念のかげから、ちょいちょい首を出した。
 茶屋は幸にしてちがっていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。えりに毛皮の付いた重そうな二重廻にじゅうまわしを引掛ひっかけながら岡本がコートにそでを通しているお延をかえりみた。
「今日はうちへ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶あいさつをしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にもあきれますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着むとんじゃくなのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目まじめな調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮はらないから」
「泊っていけったって、あなた、うちにゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
 そんならすが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介ごやっかいになった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正のいたりだね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦おそろいで、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極きょうえつしごく
 先刻さっき聞いた役者の言葉を、小さな声であとへ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さにあきれたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口かどぐちの方へ歩いて行った。みんなもそのあといて表へ出た。
 車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前うちへ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にさんちじゅうにね。少しきたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日あしたにでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
 四人の車はこの英語を相図あいずした。

        五十七

 津田のうちとほぼ同じ方角に当る岡本の住居すまいは、少し道程みちのりが遠いので、三人のあといたお延の護謨輪ゴムわは、小路こうじへ曲る例のかどまでいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女はほろの中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女のくるまはもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種のさみしさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知われしらず調子をはずして、一人圏外けんがいにふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分のうちの玄関を上った。
 下女は格子こうしの音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶てつびんさえいつものように快い音を立てなかった。今朝けさ見たと何の変りもないへやの中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁ほうようし始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体からだを、長火鉢ながひばちの前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛たわいなく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然はっきりして立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、くずれかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬかたへ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽ろうばいさせた。
 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我ひがの比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母たのもしかった。
「早く玄関をめてお寝。くぐりのかきがねはあたしがかけて来たから」
 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢ひばちの前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭をした。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯をかした。しかし夜更よふけに鳴る鉄瓶てつびんの音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなくせまってくる孤独の感が、先刻さっき帰った時よりもなおはげしくつのって来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起すさびしみに比べると、はるかに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、なつかしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日あしたは何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸にくっついていなかった。二人の間に何だかはさまってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間ちゅうかんにあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。なかば意地になった彼女の方でも、そんならよろしゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈えしゃくなく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じをいだかずにすんだろうにという気ばかり強くした。
 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜ゆうべ書きかけた里へやる手紙のつづきを書こうと思って、筆をりかけた彼女は、いつまでっても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭をまとめる事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟しげきするので、彼女はらされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

        五十八

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時なんじだか分らない朝の光で眼をました。雨戸の隙間すきまから差し込んで来るその光は、明らかにいつもより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕ゆうべの衣裳を見た。上着と下着と長襦袢ながじゅばんと重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上にくずれているので、そこには上下うえした裏表うらおもての、しだらなく一度に入り乱れた色のかたまりがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いたはじを出した金糸入りの檜扇模様ひおうぎもようの帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
 彼女はこの乱雑な有様を、いささかあきれた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面きちょうめん女徳じょとくの一つと心がけて来た自分の所作しょさかと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田にとついで以後、かつてこんな不体裁ふしだらを夫に見せたおぼえのない彼女は、その夫が今自分と同じへやの中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、いつもの通りうちにいたならば、たといどんなに夜更よふかしをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼がめると共にね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑けいべつしない訳に行かなかった。
 それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕ゆうべの不首尾をつぐなうためか、自分の知らないに起きてくれたお時の足音が、先刻さっきから台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
 そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだんゆるんで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支さしつかえなかろうと考え直すようになった。彼女の関節ふしぶしが楽々しだした。彼女はいつにないのんびりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟ひっきょう夫が留守のおかげだと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起ねおきを共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒かくせいは無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕ゆうべの自分をあざけるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
 彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗きれいに片づけた。津田がいないので、だいぶはぶける手数てすうを利用して、下女もわずらわさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞みじまいをして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
 彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先にえらばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥おうが状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期ははずれなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦にき返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌きげんを悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損しぞんをさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕ゆうべ吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口でらしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけえて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口ひとくち報告的に通じただけで、またうちへ帰った。

        五十九

 お時の御給仕で朝食兼帯あさめしけんたいひるぜんに着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王クイーンらしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反してむさぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女をとらえた。身体からだのゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
旦那様だんなさまがいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋おさむしゅうございます」
 お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、よろしゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味にこたえた。彼女はすぐ黙ってしまった。
 三十分ほどって、お時の沓脱くつぬぎそろえたよそゆきの下駄げた穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女をかえりみた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
 岡本の住居すまいは藤井の家とほぼ同じ見当けんとうにあるので、途中までは例の川沿かわぞいの電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日にさんち前の晩、酒場バーを出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来るもつった感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父おじうちへ行くには是非共のぼらなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
昨日さくじつは」
「どこへ行くの」
「お稽古けいこ
 去年女学校を卒業したこの従妹いとこは、余暇ひまに任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
 彼らはこんな楽屋落がくやおち笑談じょうだんをいうほど親しい間柄あいだがらであった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心かんじんの当人には、いっこう諷刺ふうしとしての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
 彼女はただこう云って機嫌きげんよく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすからいやよ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播でんぱんしたこの悪口わるくちは、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とをぜたその人に対するいつもの感じが起った。

        六十

 岡本の邸宅やしきへ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出みいだした。羽織も着ずに、兵児帯へこおびをだらりと下げて、その結び目の所に、うしろへ廻した両手を重ねた彼は、そばくわを動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
 植木屋の横には、大きな通草あけびつるが巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へわせようというんだ。ちょっと好いだろう」
 お延は網代組あじろぐみの竹垣の中程にあるその茅門かやもんを支えているちょうななぐりの柱と丸太のけたを見較べた。
「へえ。あの袖垣そでがきの所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁たまぶちをつけた目関垣めせきがきこしらえたよ」
 近頃身体からだに暇ができて、自分の意匠いしょう通り住居すまいを新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急にえていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答あしらっているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。おなかいて」
笑談じょうだんじゃない、叔父さんはまだ午飯前ひるめしまえなんだ」
 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「すみ、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻さっきみんなといっしょに召上めしやがれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一もの区切くぎりのあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶あいさつも相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対いっついの老夫婦と、結婚してからまだ一年とたない、云わば新生活の門出かどでにある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達もながの月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終すえしじゅうまで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気あぶらけが抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来によこたわる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢つやを持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、しんに恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸にいているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前にえられたぜんに向って胡坐あぐらきながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
 飯櫃おはちがあいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭パンだからできないよ」
 下女が皿の上に狐色にげたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんはなさけない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想かわいそうだろう」
 糖尿病とうにょうびょうの叔父は既定の分量以外に澱粉質でんぷんしつ摂取せっしゅする事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐がなまのままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとするなさけなさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
 叔父は叔母をかえりみた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

        六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没しゅつぼつするこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
 肥った身体からだに釣り合わない神経質の彼には、時々自分のへやに入ったぎり、半日ぐらい黙って口をかずにいる癖がある代りに、ひとの顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時かたときもいられないといった気作きさくな風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的なおもいやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰てもちぶさたを避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効せいこうに少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上きわめて有利な彼のこの話術は、その所有者の天からけた諧謔趣味かいぎゃくしゅみのために、一層派出はでな光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼のそばにいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌きげんのいい時に、彼を向うへ廻して軽口かるくちくらをやるくらいは、今の彼女にとって何の努力もらない第二の天性のようなものであった。しかし津田にとついでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初つつしみのために控えた悪口わるくちは、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫をあざむいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこにむかしの自由をおもい出させる或物があった。彼女は生豆腐なまどうふを前に、胡坐あぐらいている剽軽ひょうきんな彼の顔を、過去の記念のようになつかし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込しこみじゃないの。津田に教わったおぼえなんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくにきらう叔母の方を見た。はたから注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知そしらぬ顔をして取り合わなかった。すると目標あてはずれた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなにしらばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目まじめくさっておきになるの」
「少しこっちにも料簡りょうけんがあるんだ、返答次第では」
「おおこわい事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶くどいのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、あごでしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどおあつらえむきかも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸をでた。彼女は急に悲しい気分にとらえられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分からかいはんぶんの叔父の笑談じょうだんを、ただ座興から来た出鱈目でたらめとして笑ってしまうには、お延の心にあまりすきがあり過ぎた。と云って、その隙をくまでつくろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中にまろうとしたところを、彼女はまたたきでごまかした。
「いくらおあつらえむきでも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢つやのある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

        六十二

 親身しんみの叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛かわいがられているという信念を常にもっていた。洒落しゃらくでありながら神経質に生れついた彼の気合きあいをよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分たがわず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢としの若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作しょさを眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効せいこうするに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間にこなしつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間にそそがれた。こんな時に、叔父ならうれしがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一ちくいち叔父に話してしまえと命令した。その命令にそむくほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
 こうして叔父夫婦をあざむいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念けねんもなく彼女のためにだまされているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体ありてい見透みすかした叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間によこたわる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密ちみつな、無頓着むとんじゃくのようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田をきらっていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」とかれた裏側に、「じゃおれのようなものはきらいだったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味きまずせきを通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮はらないから」と親切に云ってくれた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分にれなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯せいいっぱい愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口わるくちが始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬しっとから来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚おのぼれは、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌あいづちを打ってくれた。……
 叔父の前に坐ったお延は自分のうしろにあるこんな過去をおもい出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談じょうだんのうちに、何か真面目まじめな意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

        六十三

 感傷的の気分を笑にまぎらした彼女は、その苦痛からのがれるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
昨日きのうの事は全体どういう意味なの」
 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣めづかいをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。やぶから棒にそんな事いたって。ねえ叔母さん」
 叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気がいてるからっておっしゃるんだよ」
 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気おぼろげながらある臆測おくそくがあった。けれどもいられないのに、悧巧りこうぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉はすはでなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当けんとうはつくだろう」
 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色けしきを見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
 お延の推測を首肯うけがう前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方がすみより悧巧だね」
 こんな事で、二人のに優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評ひやかした。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞おほめにあずかったって、あんまりうれしくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋あっせんぶりがまたえがいだされた。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終しじゅう継子さんと、それからあの三好さんてかたを、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事おびただしいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋かんぶくろかぶった猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしてもとくだよ。少くとも当世向とうせいむきだ」
いやにしゃあしゃあしているからでしょう。何だかめられてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効ふせいこうに終った、昨夕ゆうべの会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉いとこじゃないか」
 ただ親類だからというのが唯一ゆいいつの理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
 叔父の目的中には、昨夕ゆうべの機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切はっきり聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性きしょうがそこに現われているように思って、あんに彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかとうらんだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしそのあとから、吉川夫人と自分との間によこたわる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟ひっきょうどうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕かんじょの念も起って来た。

        六十四

 お延はその問題をそこへほうしたまま、まだ自分のに落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味あいだったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値ねうちは充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物いちもつを胸にしまんでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利めききをしてもらおうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目まじめな相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目をうけたまわったのね。光栄の至りだ事」
 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子をおさえた。
「あたしのようなものが眼利めききをするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だからみんながきたがるんだよ」
冷評ひやかしちゃいやよ」
 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分にびる一種の快感を味わった。それは自分が実際ひとにそう思われているらしいという把捉はそくから来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面てきめんの事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日こんにちに至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違かんちがい痕迹こんせきで、すでにそこここよごれていた。畢竟ひっきょう夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父にあおられてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際つきあって見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男のぐさだろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよくうまい事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
 叔母はいつものようにお延に加勢かせいしなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言をいる気色けしきを見せない代りに、叔父の悪強わるじいもとめなかった。始めて嫁にやる可愛かわいい長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打ねうちは充分あるといった風も見えた。お延はあたさわりのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
 そのあとを待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するようにいた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあのかた一軒いっけん置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言ひとことで、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚がらされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚どんかくだけよ」

        六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪こうおを改めるはずがないという事もよく承知していた。だからむつましそうな津田と自分とを、彼は始終しじゅう不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損みそくなったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳ようえいするために、彼の心に下層にいつも沈澱ちんでんしているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃しつこく聴こうとするのだろう」
 お延はしかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、あんに叔父から目指めざされているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延をいて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様だんなさまの感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまりいじめるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
 叔母の態度は、叔父をたしなめるよりもむしろお延を庇護かばう方に傾いていた。しかしそれをうれしがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫をえらんだ当時の事をおもい起さない訳に行かなかった。津田を見出みいだした彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもととつぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡りょうけんをよそにして、他人の考えなどを頼りたがったおぼえはいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
肝心かんじんの当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸によこたわる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理ロジックがすぐ彼女の頭にひらめいた。「自分の結婚だって畢竟ひっきょうは似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、あきれたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかくつぎが是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧りこうだと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれはいやだというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父はさえぎった。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心せいしんがあっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
 お延は初めて叔父にいられる意味を理解した。

        六十六

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性にもとづ牽引性けんいんせい以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味にちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でもに受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起ねおきを共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇ふこの心から、柔軟性じゅうなんせいに富んだこの従妹いとこを、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやりおおせるだけの活きた眼力がんりきを自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、うらやみから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まぎわまで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘のほのおのごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外にしている未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えはごうも変らなかった。彼女はくまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福をける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜ひょうぼうしていた。
 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台におどらせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、つらいよりもむしろ快よくなかった。それはんなが寄ってたかって、今まで糊塗ことして来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向ってたたきつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾しそうして、自分に当擦あてこすりをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
 ぜんを引かせて、叔母の新らしくれて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんなったわだかまりが蜿蜒うねくっていようと思うはずがなかった。造りたての平庭ひらにわを見渡しながら、晴々せいせいした顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になったや石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へかえでを一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴がいてるようでおかしいからね」
 お延は何の気なしに叔父のしている見当けんとうを見た。隣家となり地続じつづきになっている塀際へいぎわの土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪もうそうやぶをこんもりしげらした根のあたりが、叔父のいう通りまばらにいていた。先刻さっきから問題を変えよう変えようと思って、あんに機会を待っていた彼女は、すぐ気転をかした。
「本当ね。あすこをふさがないと、さもさもやぶこしらえましたって云うようで変ね」
 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

        六十七

 それは叔父が先刻玄関先でくわを動かしていた出入でいりの植木屋に呼ばれて、ちょっと席をはずしたあと、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子ゆりこはじめうわさに始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方にすべり込みつつあった。
慾張屋よくばりやさん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子のけた渾名あざなで継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちではくまで放恣ほうしなくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たようにすくんでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭というかごの中で、さも愉快らしくさえずる小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古けいこに行ったの」
 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹いとこの多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝しゅしょうらしい顔をしてなるほどと首肯うなずかなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人りょうじんに対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古けいこがいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女をくするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦まさつするには相違なかった。しかし怜悧れいりすますものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のおかげでそれを今日こんにちに発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
 従妹いとこのどこにも不平らしい素振そぶりさえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。いて解釈しようとすれば、彼らはめいと娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜くやしくなった。そういう考えがまた時々発作ほっさのようにお延の胸をつかんだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えないそでを顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けないなぞのように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性しんぱいしょうでないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただうちにいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前とつぎとは……」
 中途でめた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸どうきがしたからである。
昨日きのうの見合に引き出されたのは、容貌ようぼうの劣者としてあんに従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火せっかのようなこの暗示がひらめいた時、彼女の意志も平常へいぜいより倍以上の力をもって彼女にせまった。彼女はついに自分をおさえつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんはとくかたね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々すきずきだからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側えんがわへ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。

        六十八

 すると今までおさえつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。くまで機嫌きげんの好い、飽くまで元気にちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟しげきした。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
 彼女はやぶから棒にこう云わなければならなかった。今日こんにちまで二人の間に何百遍なんびゃっぺんとなく取り換わされたこの常套じょうとうな言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻さっきからお延の腹の中にどんなうしお満干みちひがあったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草きざみ雁首がんくびへ詰めた。
「おれの留守るすにまた叔母さんから何かいたな」
 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌ふんどしのミツへはさんでいるか、または胴巻どうまきへ入れてへその上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
 叔父の笑談じょうだんはけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いてまゆ睫毛まつげをいっしょに動かした。その睫毛の先には知らないに涙がいっぱいたまった。勝手を違えた叔父の悪口わるくちもぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管きせる灰吹はいふきを叩いた。叔母も何とかその場を取りつくろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
 叔母の小言こごとは、義理のある叔父の手前を兼た挨拶あいさつとばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女のくちびるふるえた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まできとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしをいじめなくったって……」
 叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれをみんかげで感心しているんだ。だから……」
「そんな事うかがわなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
 沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯からかかたが悪かったのかい」
「いいえ。んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないからくんだ」
「だからみんなあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
 お延はなお泣き出した。叔母は苦々にがにがしい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。うちにいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那だんなから大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
 お延はくちびるんで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評ひやかし過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
 ようやく発作ほっさの去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、ばつの悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。

        六十九

 ところへ何にも知らない継子つぎこが、語学の稽古けいこから帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出みいだした人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶あいさつを返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻さっきから待ってたのよ」
「いや大変なお待兼まちかねだよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁かいかつであった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上にさかさまに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
 しかし下女が襖越ふすまごしに手を突いて、風呂のいた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話せわしない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別にうれしいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
 叔母は婉曲えんきょくに自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃすか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
 お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙ごめんこうむってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行してかえりみない叔母の態度は、お延にとってうらやましいものであった。またいまわしいものであった。女らしくないいやなものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯こうさくした。
 立って行く叔母の後姿うしろすがたを彼女がぼんやり目送もくそうしていると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
 二人は火鉢ひばちや茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

        七十

 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井てんじょうにも残っていた。硝子戸ガラスどめた小さいたなの上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇ばらの花を刺繍ぬいにした籃入かごいりのピンクッションもそのままであった。二人しておついに三越から買って来た唐草からくさ模様の染付そめつけ一輪挿いちりんざしもそのままであった。
 四方を見廻したお延は、従妹いとこと共に暮した処女時代のにおいを至る所にいだ。甘い空想にちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然こつぜんあざやかなほのおに変化した自己の感情の前に抃舞べんぶしたのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯ガスがあったから、ぱっと火がいたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。かえりみるとその時からもう半年はんとし以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいはきわめて現実化されにくいものらしくなって来た。お延の胸のうちにはかすかな溜息ためいきさえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
 彼女はこういう観念の眼で、自分の前にすわっている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期にはずれた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否のさいが、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
 お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤みくじを引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れてもらいたい様子がありありと見えた。お延は従妹いとこよろこばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのはいやであった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
 お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
 神籤みくじに何の執着もなかったお延は、突然こうして継子とたわむれたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女におもい起させる媒介なかだちであった。弱いもののきょくために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌かっぱつにした。抑えられた手をね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱みくじばこを継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声をはばかりなく出して、遊技的ゆうぎてきな戦いに興を添えた。二人はついに硯箱すずりばこの前に飾ってある大事な一輪挿いちりんざしかえした。紫檀したんの台からころころと転がり出したその花瓶かびんは、中にある水を所嫌ところきらわずけながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意にほうされた可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。

        七十一

 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾ぞうきんを取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたがこぼしたんだから、あなた取っていらっしゃい」
 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャンけんよ」と云い出したお延は、ほそい手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
狡猾ずるいわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
 しまいにお延が負けた時にはこぼれた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗きれいに吸い込まれていた。彼女は落ちつき払ってたもとから出した手巾ハンケチで、れた所を上からおさえつけた。
「雑巾なんかりゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
 彼女は転がった花瓶はないけを元の位置に直して、くだけかかった花を鄭寧ていねいにその中へし込んだ。そうして今までの頓興とんきょうをまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
 発作ほっさが静まった時、継子は帯の間に隠した帙入ちついり神籤みくじを取り出して、そばにある本箱の抽斗ひきだしへしまいえた。しかもその上からぴちんとじょうおろして、わざとお延の方を見た。
 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹いとこより早くめてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
 彼女はこう云って継子を見返した。あたさわりのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされるかねての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
 二人は年齢としが違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定かんじょうに入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様だんなさまくなして、未亡人びぼうじんになるとか」
 継子は少し怪訝けげんな顔をしてお延を見た。
「延子さんはうちにいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
 お延は口籠くちごもった。継子は彼女に返答をこしらえる余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃかなわないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

        七十二

 だんだん勾配こうばいの急になって来た会話は、いつのにか継子の結婚問題にすべり込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女なんにょ関係に一日いちじつの長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差しさわりのないきわどい筋の上を婉曲えんきょくに渡って歩いた。
「そりゃ駄目だめよ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、ひとの事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
 お延は答える前にしばらくをおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄てがらをするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯しょうがいにそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返いっぺんも来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目めくら同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目おかめはちもくって云うじゃありませんか。はたにいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりはあらたまった態度で口をき出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
 お延はそこで句切くぎりをおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後をした。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫をえらぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口からほとばしり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好みよしの影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少しあきれたようにお延の顔を見た。「昨夕ゆうべお目にかかったあのかたの事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
 平生つつかくしているお延の利かない気性きしょうが、しだいに鋒鋩ほうぼうあらわして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつあと退さがった。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女はかすかな溜息ためいきさえいた。するとお延が忽然こつぜんまた調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事をうたぐっていらっしゃるの。本当よ。あたしうそなんかいちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯うけがわせた彼女は、後からまたひとごとのように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡りょうけん一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然ばくぜんと自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。

        七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音のぬしががらりとへやの入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶あいさつした。
 彼女の机をえた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手のすみであった。お延が津田へ片づくや否や、すぐそのあとへ入る事のできた彼女は、従姉いとこのいなくなったのを、自分にとって大変な好都合こうつごうのように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴のきそうになった黒い靴足袋くつたびの親指の先を、手ででていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少しをおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相かわいそうだと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
 こう云った百合子は年上の二人と共に声をそろえて笑った。そうしてはかまも脱がずに、火鉢ひばちそばへ来てその間にすわりながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子もちがしを食べ出した。
「今頃おツ? このお皿を見ると思い出すのね」
 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自めいめいの前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。うまそうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫おっくうだし、そうかってうちに何かあっても、むかしのようにおいしくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
 二人が話しているうちに、百合子は綺麗きれいに木皿をからにした。そうして木に竹をいだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
 お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
 百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
 薄赤くなった継子は急にいもとの方へかかって行った。百合子は頓興とんきょうな声を出してすぐそこを退いた。
「おお大変大変」
 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人でへやを逃げ出して行った。

        七十四

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それからもなくであった。
 一家のものは明るい室に晴々はればれした顔をそろえた。先刻さっき何かにねて縁の下へ這入はいったなり容易に出て来なかったというはじめさえ、機嫌きげんよく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹いとこから、彼がぱくりと口をいて上から鼻の先へ出された餅菓子もちがしに食いついたという話を聞いたのであった。
 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星ほうきぼしが出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問がひらけたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬ローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
 はじめはそれで納得なっとくして黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面はおっこちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨ようしであった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、はたのものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そううまくは行かないよ」
 女連おんなれんが一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕このうちが軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅ならつぶれるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻さっき藤井を晩餐ばんさんに招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一にいて見たくなった。
「一さん藤井の真事まことさんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力でにぎわった。
 みんなを笑わせた真事の逸話のうちに、しものようなのがあった。
 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴をのぞき込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢はいのう背負しょって、尨犬むくいぬの皮でこしらえたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつるすべりそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急にこわくなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへりにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終しじゅう足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂しとげて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧こりこうのようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。

        七十五

 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。いやでも顔を合せなければならない祝儀しゅうぎ不祝儀ぶしゅうぎの席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才じょさいなさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面おうだんめんもあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向くらしむきに不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜ふそんの誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味にかな模細工モザイックで毎日めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
 これらの原因が困絡こんがらがって、叔父は時々藤井のうちへ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義りちぎに叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼をいやがる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。そこまで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶うかつなものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云ってひとをごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟りくつもてあそんでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながらいた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥くたびれた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あらいやだ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
 お延と叔母はこもごもあきれたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこのうちでも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
 親身しんみの叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目まじめになった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終しじゅう引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしてもたす訳に行かないんだ」
 お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分のうに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合いんようわごうっていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟りくつよ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟へりくつよ」
 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのはいやであった。

        七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏じょうぶつする通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度ひとたび夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までの牽引力けんいんりょくがたちまち反撥性はんぱつせいに変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志ということわざを永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実をげるのは、やがてきたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売うけうりで、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目まじめで、どこからが笑談じょうだんなのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つすべを知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒しんぼうがあると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、あぶらが乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとてもかないっこないからおしよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和をかもすように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切とぎれるのを待って、おもむろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したでよろしい。けたものを追窮ついきゅうはしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものをあわれむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔をよそおって立ち上がった。障子しょうじを開けてへやの外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日あしたにでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女はひろよみにぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽こっけいなもんだ。洒落しゃれだとか、なぞだとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩がらなくってね」
「なるほど叔父さんむきのものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支さしつかえあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
 お延が礼を云って書物をひざの上に置くと、叔父はまた片々かたかたの手に持った小さい紙片かみぎれを彼女の前に出した。
「これは先刻さっきお前を泣かした賠償金ばいしょうきんだ。約束だからついでに持っておいで」
 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よくく薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒へいゆする妙薬だ」
 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体からだはいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱいたまった。

        七十七

 お延は叔父の送らせるというくるまを断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁かわべりの方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
 肥っていて呼息いきが短いので、坂をのぼるときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
 二人は途々夜のけた昨夕ゆうべの話をした。仮寝うたたねをして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父のうちにいたという縁故で、新夫婦二人ふたりぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守るすなんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だがひとりで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯としが年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこのおもいやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日きのうの結果を、今度はかえさせたくないという主意からであった。
 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人がかろうじて別れの挨拶あいさつを交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
 車内のお延は別にまとまった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日きのうからの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩めまぐるしい影像イメジを一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調こんちょうで、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定ねんていしなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効せいこうをもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いているくしを見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
 玄関の格子こうしを開ける音と共に、台所の方からけ出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧ていねいな頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切はっきりした態度を、さも自分の手柄てがらででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女にいた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰もやしなかったろうね」
 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高ちょうしだかな返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口をいた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套がいとうを取りにいらっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延がけば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生よみがえった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作ほっさのようにげてくる滑稽感こっけいかんに遠慮なく自己を託した彼女は、電車のうちから持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

        七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へてて手紙を書いた。一昨日おととい昨日きのうも書きかけてめにしたその音信たよりを、今日は是非ぜひとも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
 彼女は落ちつけなかった。不安からのがれようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻さっきからの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持をまとめて見る事ができそうに思えたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶あいさつから始めて、無沙汰ぶさたの申し訳までを器械的に書きおわった後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息をまとにおかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家せいか父母ふぼに知らせなくってはすまない事項であった。それを差しいて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄あいだがらは、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母ふぼに報知する必要にせまられてはいなかった。けれどもある男にとついだ一個の妻として、それを見極みきわめておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、しかとしたところは手につかめなかった。
 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻さっき電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像イメジは、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根おおね辿たどりついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
今日こんにち解決ができなければ、明日みょうにち解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日みょうごにち解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
 これが彼女の論法ロジックであった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人をくまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
 彼女の気分は少しかろくなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母ふぼの喜こびそうな津田と自分の現況をはばかりなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人のおもむきが、それからそれへと描出びょうしゅつされた。感激にちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
 しまいに筆をいた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削てんさくの必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海げんかいを引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取りつくろっただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。うそや、気休きやすめや、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人をにくみます、軽蔑けいべつします、つばきを吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部うわかわの事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方をあざむいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙あざむきの手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目めくらです。その人こそ嘘吐うそつきです。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
 お延は封書を枕元へ置いて寝た。

        七十九

 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母ちちははの顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日にさんちして、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙いっちつ唐本とうほんを持って、彼女は五六町へだたった津田のうちまで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然つれづれなぐさめるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立ついたてが立ててあった。白い紙の上におどっているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立のうしろから取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都のうちへ来ていた由雄であった。
 二人はもとよりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただうわさで由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
 由雄はその時お延から帙入ちついり唐本とうほんを受取って、なぜだか、明詩別裁みんしべっさいといういかめしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作しょさに違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父あての手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意をいた。彼の遣口やりくち不作法ぶさほうであった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野がさつとか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用いりようの書物を探しに奥へ這入はいった。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延をむなしく引きとめておいたわびを述べた。指定していの本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日あしたにでも取りに来るからと約束してうちへ帰った。
 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手にげた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗さらさの風呂敷に包んで、あたかも鳥籠とりかごでもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人にはえられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩ごばいそんしという四文字よもじあてに、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人べつにんではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方にきつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はそのうたがいぬぐい去るために、その事実をり返さなければならなかった。

        八十

 強い意志がお延の身体からだ全体にち渡った。朝になって眼をました時の彼女には、怯懦きょうだほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起ねおきの悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を退けて、床を離れる途端とたんに、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒あささむ刺戟しげきと共に、まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰たぐった。戸外そとの模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日きのうに引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女にはうれしかった。なまけて寝過した昨日のつぐない、それも満足の一つであった。
 彼女は自分で床を上げて座敷をき出した後で鏡台に向った。そうしてってから四日目になる髪をいた。油でよごれた所へ二三度くしを通して、癖がついて自由にならないのを、無理にひさしつかげた。それが済んでから始めて下女を起した。
 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、ぜんに着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様だんなさまのお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日きのう行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
 お延の言葉遣ことばづかいは平生より鄭寧ていねいで片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。たすきはずして盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になったおぼえのあるその家族は、お時にとっても、興味にちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物のけものにされたような変な結果におちいるからであった。ふとした拍子からそんな気下味きまずい思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴ふいちょうしたがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてそのむねを言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急せっかちだから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好きりょうよしだしね」
 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞せじを受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でそのあとをつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧りこうでも、気がいていても、顔が悪いと男にはきらわれるだけね」
「そんな事はございません」
 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
 お時はあきれた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外そとから誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴ベルが鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声のぬしを判断しようとして首を傾けた。

        八十一

 そでを口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へけ込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさをみ殺そうとして、お延の前でもだえ苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯をめかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取かけとりでも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見すがたみの前にすくんだ彼女は当惑のまゆを寄せた。仕方がないので、今がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更まんざら知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌しんしゃくだの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人にひけを取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間がせまっているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支さしつかえないものとひとりで合点がてんしているらしかった。
 彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵にけられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指めざされているのだろうという説明までして聴かせた。
 彼の談話には気の弱い女に衝撃ショックを与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々こわごわながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかにみちがなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕ゆうべお延とお時をさんざ笑わせた外套がいとうの件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体からだに合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
 お延はすぐ入用いりようの品を箪笥たんすの底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡ためらった彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性きしょうをよく知っていた。着古した外套がいとう一つがもとで、他日細君の手落呼ておちよばわりなどをされた日にはたまらないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったにちがいないんだから。うそなんかきやしませんよ」
 出してやらないと小林を嘘吐うそつきとしてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気はたしかなんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
 お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面きちょうめんですね」と云って小林は笑った。けれどもお延のあんに恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
 お時が自働電話へけつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話でつないだ。ところがその談話は突然なひらめきで、何にも予期していなかったお延の心臓をおどらせた。

        八十二

「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
 お時が出て行くや否や、小林はやぶからぼうにこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、あたらずさわらずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
 小林の云い方があまり大袈裟おおげさなので、お延はかえって相手を冷評ひやかし返してやりたくなった。しかし彼女の気位きぐらいがそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮こりょする男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛とっぴにここかしこをめぐる代りに、時としては不作法ぶさほうなくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力にはかないませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
 お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当けんとうのつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
ひとりものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
 お延は細い眼のうちに、かしこそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをおもらいになるのが、一番捷径ちかみちじゃありませんか」
 小林は頭を真似まねをした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
 お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くてはげしい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これからおちをしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
 駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人なんにょふたり道行みちゆきをお延におもい起させた。そうした濃厚な恋愛をかたどるなまめかしい歌舞伎姿かぶきすがたを、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、ひとの着古した外套がいとうを貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
駈落かけおちをなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰もれていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
 小林はこう云ったなりかしこまった。その態度が全くお延の予期にはずれていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目まじめであった。しばらくをおいてからひとごとのような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界さんがいまで駈落のお供をしてくれるような、じつのある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどうなしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人のいもとがあるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしてもれて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
 お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫からのがれようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果におちいった。

        八十三

 特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うからき返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
 お延は巧みに相手を岐路わきみちに誘い込んだ。
「あなた先刻さっきおっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
 小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
 お延はちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠しょうこでも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終しじゅう薄笑いの影が射していた。けれどもそれはついに本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯からかわれる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気おぼろげながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調しきちょうの階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部そとからのぞいてもとうていわかりこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐ごうりの変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
 小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚そらッとぼける事が上手だから、僕なんざあとてもかなわない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういううまいお手際てぎわをもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
 お延はわざと取り合わなかった。と云って別にうるさい顔もしなかった。愛嬌あいきょうを見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。おびされると知りながら、彼女はついこういってき返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
 小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露ひろうするらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
 お延はさも軽蔑けいべつした調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々にがにがしい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女をなだめるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去にさかのぼって行った。

        八十四

 自分のまだ知らない夫の領分に這入はいり込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心かんじんのところはわざと略してしまった。たとえば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深よふかしをしていたかの点になると、彼は故意にぼかしさって、全く語らないという風を示した。それをけば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥じらしているのではなかろうかという気さえ起した。
 お延は平生から小林を軽く見ていた。なかば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑ぶべつの裏には、まだひとに向って公言しない大きな因子ファクトーがあった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯へんしゅう、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍むせきもののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴ぐちこぼして、いやがらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
 しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物つきものであった。ことにそういう階級にらされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本のうち出入ではいりをするそれらの人々は、みんなその分をわきまえていた。身分には段等だんとうがあるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体あくたいくものにはけっして会った事がなかった。
 お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余るれッらしじゃなかろうか」
 軽蔑けいべつの裏にひそんでいる不気味な方面が強く頭を持上もちやげた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠しょうこにか、またはそれに全くの無頓着むとんじゃくでか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度いちどきに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気をませて、歇斯的里ヒステリでも起されると、あとでまた僕の責任だなんて、津田君にうらまれるだけだから」
 お延はうしろを向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当けんとうに、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児まいごになる気遣きづかいはないから大丈夫です」
 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶をえるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえさえぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌たいくつしのぎに幾らでも先刻さっきの続きを話しますよ。しゃべってつぶすのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰ごくつぶしにゃ、おんなし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊たんぱくでないからね」
 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯うけがわない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法ぶさほうな男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あってもよろしいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」

        八十五

 小林の顔には皮肉のうずみなぎった。進んでも退しりぞいてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振そぶりさえ示した。
「何という陋劣ろうれつな男だろう」
 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼とにらめっくらをしていた。すると小林の方からまた口をき出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたにかせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでもわたしの方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑けいべつされていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻さっきからいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。ごうも変らないのです。これだけはいくら怜悧りこうな奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体ありていに云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
 小林の眼はわっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶんひがんでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能やくざに生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰をうらむ訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像のつばささえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人にいやがられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑けいべつされても存分な讐討かたきうちができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでもはまって、ごうもとらないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
吃驚びっくりしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
 小林は多少溜飲りゅういんの下りたような顔をした。
「奥さんは先刻さっきから僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭なやつだと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
 小林はまた大きな声を出して笑った。

        八十六

 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目まじめさが疑がわれた。反抗、畏怖いふ、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪けんお、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯こうさくしたいろいろなものはけっして一点にまとまる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいにいた。
「じゃあなたは私をいやがらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套がいとうを貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望ほんもうかも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
 お延の細い眼から憎悪ぞうおの光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性きしょうがありありと瞳子ひとみうちに宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡りょうけんから敵打かたきうちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になってひとを厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
 小林の筋の運び方は、少し困絡こんがらかり過ぎていた。お延は彼の論理ロジック間隙すきを突くだけに頭がれていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口にまとめて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっしてわないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をしたおぼえがあるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
 小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草たばこを吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高をくくったように落ちついている小林の態度がまたしゃくさわった。そこへ先刻さっきから心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延のわだかまりは、一定した様式のもとに表現される機会の来ない先にまたくずされてしまわなければならなかった。

        八十七

 お時は縁側えんがわへ坐って外部そとから障子しょうじを開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延にみ込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終しじゅう相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸ふめいりょうであった。それから判切はっきり聞こえるところも辻褄つじつまの合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとうあきらめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのままうちへ帰るのがいやだったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
 お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざんいやな思いをさせられたのだと思うと、気をかした下女がかえってうらめしくもあった。
 彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこにえられたあかの金具の光るかさ箪笥だんすの一番下の抽斗ひきだしを開けた。そうして底の方から問題の外套がいとうを取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを繰返くりかえした。
「思ったよりだいぶよごれていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。えりを返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それがいちじるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢ぜいたくも云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
 小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうなそでへ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しいたたじわが幾筋もお延の眼にった。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまたぎゃくった。
「ちょうど好いようですね」
 彼女は誰も自分のそばにいないので、せっかく出来上った滑稽こっけい後姿うしろすがたも、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐あぐらをかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元をめた。
「奥さんのようなこまった事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
 小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭おかげでこの冬も生きていられます」
 彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側えんがわへ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけてひとに笑われないようにしないといけませんよ」

        八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端とたん、小林がうしろを向いた拍子ひょうし、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
 その時小林の太いまゆが一層際立きわだってお延の視覚をおかした。下にある黒瞳くろめはじっと彼女の上にえられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受けるおぼえがないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたはもとより立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
 小林は応じなかった。問答が咫尺しせきの間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
 鋭どい稲妻いなずまがお延の細い眼からまともにほとばしった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
 お延は歯をんだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側えんがわを二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
 小林はのっそり立ちどまった。そうしてゆきの長過ぎる古外套ふるがいとうを着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻さっき云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
 小林はわざと空々そらぞらしい様子をした。はてなと考える態度までよそおって見せた。お延は詰責きっせきした。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。さいの前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗きれいに説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時にはじを恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたにあやまりましょう。そうしたらいいでしょう」
 お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
 お延は依然として下を向いたまま口をかなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もそのあとを話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。あわせて取消します。その他もし奥さんの気にさわった事があったら、すべて取消します。みんな僕の失言です」
 小林はこう云った後で、沓脱くつぬぎそろえてある自分の靴を穿いた。そうして格子こうしを開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
 かすかに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段はしごだんけ上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

        八十九

 幸いにお時が下からあがって来なかったので、お延ははばかりなく当座の目的を達する事ができた。彼女はひとに顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
 れた手巾ハンケチたもとへ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗ひきだしを開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用いりようの手荷物をまとめるため、二三日前にさんちまえすでにそこをさがしたのである。彼女は残された封筒だの、物指ものさしだの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧ていねいそろえた。パナマや麦藁製むぎわらせいのいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏しょかの夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤まっかに咲いた日比谷公園の躑躅つつじだの、突当りにかすみせきの見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去のにおいのように、聯想れんそうとしてつきまつわっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机をてたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手をかんにかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応てごたえのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらにまわした。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底にひそんでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。じょうおろさない秘密をそこいらへほうしておくには、あまりにこまぎるのが彼の持前であった。
 お延は戸棚とだなを開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多がらくたが、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。
 再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差じょうさしの中から、津田あてで来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意をいざないつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実のもとに、それへ手を出さなければならなくなった。
 封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置にもどした。
 突然疑惑のほのおが彼女の胸に燃え上った。一束ひとたばの古手紙へ油をそそいで、それを綺麗きれいに庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片かみきれを、津田は恐ろしそうに、竹の棒でおさえつけていた。それは初秋はつあきの冷たい風がはだえを吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分とたないうちに起った光景であった。はしを置くと、すぐ二階から細いひもからげた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火をけていた。お延が縁側えんがわへ出た時には、厚い上包がすでにげて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかといた。津田はかさばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故ほごにして、自分達の髪をう時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙がうずを巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙にむせぶ顔をお延からそむけた。……
 お時が午飯ひるめしの催促にあがって来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。

        九十

 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕でひとぜんに向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張こわばっていた。そのくせ心はまとまりなく動いていた。先刻さっき出かけようとして着換えた着物まで、平生ふだんと違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介なかだちとなった。
 もし今の自分に触れる問題が、お時の口かられなかったなら、お延はついに一言ひとことも云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのがいやさに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳ではしを置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」といた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
 彼女は自分の専断で病院へ行ったわびを述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
 お延はうたぐりの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口いとくちで先へ進んだ。
旦那様だんなさまは驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどいやつだって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判じきだんぱんを始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
 お延は軽蔑さげすんだ笑いをかすかにらした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊おききになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変いやな顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換めしかえをしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評ひやかされました」
 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、ひとうちへお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんなうそだと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまもそばで笑っていらっしゃいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

        九十一

 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼びますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛かわいがりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界きょうがいに達せられるもののように考えていた。人世観といういかめしい名をつけてしかるべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温なまぬるく触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。なんにも執着しない事であった。呑気のんきに、ずぼらに、淡泊たんぱくに、鷹揚おうように、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆるつうであった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟こうせいせきがますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
 器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩ほうとうの酒で臓腑ぞうふを洗濯されたような彼のおもむきもようやく解する事ができた。こんなに拘泥こうでいの少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目まじめに云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味をさとる前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上にそそがなければならなくなった。
 お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯しんしょたいが夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、ひとの知らない気苦労をしなければならなかった。
 器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまでっても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳よっつの子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情のもとに、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりもけていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染しょたいじみたのである。
 こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母ちちははの味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことにあによめ気下味きまずい事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生からつつしんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好はでずきな女と結婚しなかったならばという気が、始終しじゅう胸の底にあった。そうしてそれは身贔負みびいきに過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
 お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦からけむたがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人がいやがるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延がきらいだという一点にまとめられてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢ぜいたくのできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀にはしゅうとがあった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯かんれんしてこの相違すら考えなかった。
 お秀がお延から津田の消息を電話でかされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套がいとうを受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。

        九十二

 前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれたぜんにちょっと手を出したぎり、また仰向あおむけになって、昨夕ゆうべの不足を取り返すために、重たい眼をつぶっていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態にりかけた間際まぎわだったので、彼はふすまの音ですぐ眼をました。そうして病人に斟酌しんしゃくを加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
 こういう場合に彼らはけっして愛嬌あいきょうを売り合わなかった。うれしそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ちんぷすぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹きょうだいでなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用しにくい黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部うわべ所作しょさだけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手にだまし合う手数てかずはぶいて、良心にそむかない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、とりなおさず、愛嬌あいきょうのない顔という事に過ぎなかった。
 第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄あいだがらであった。だから遠慮のらないという意味で、不愛嬌ぶあいきょう挨拶あいさつが苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それがわざわいの元で、互の顔を見ると、互にはじいたくなった。
 ふと首を上げてそこにお秀を見出みいだした津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精ぶしょうと不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着とんじゃくなく、言葉もかけずに、そっとへやの内に入って来た。
 彼女は何より先にまず、枕元にあるぜんを眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しにかえされた牛乳のびんの下に、鶏卵たまごからが一つ、その重みで押しつぶされているそばに、歯痕はがたのついた焼麺麭トースト食欠くいかけのまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗きれいに皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
 お秀はまゆをひそめて、膳を階子段はしごだんあがくちまで運び出した。看護婦の手がかなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食あさめし残骸なきがらは、掃除の行き届いた自分のうちを今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
 今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐようと思ったんですけれども、あいにく昨日きのうは少し差支さしつかえがあって――」
 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄あいだがらを考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟りくつとおらない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、あんに希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振そぶりを見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振そぶりを見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
 津田は後をかずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だってねえさんが、もしひまがあったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。

        九十三

 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口きずぐちの周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏みゃくはくのように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
 彼は一昨日おとといの午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾きょだくを彼から得たお延が、階子段はしごだんを下へ降りて行った拍子ひょうしに起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心のうちで叫んだ。するとにがい記憶をわざと彼のためにかえしてみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉がちぢむ、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉をすられた気持がする、次にそれがだんだん緩和かんわされて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端とたんに一度引いたなみがまたいそへ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶりかえしてくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。めさせようと焦慮あせれば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼はかごの中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分のそばに引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、はげしく鳴らした号鈴ベルの音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受けるいやな筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟しげきに帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のおかげにほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作しょさに対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合あんごうでない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡りょうけんで、二つの間にある関係をこしらえた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
 お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末てんまつを思い起させた。彼はにがい顔をした。
 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「おいやなら病院をおになってから後にしましょうか」
 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しんしゃくしなければならなかった。
「どこか痛いの」
 津田はただ首肯うなずいて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。ねえさんはどうしたんでしょう。昨日きのうの電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のおかげで痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々だだらしく見えて来た。上部うわべはとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのがずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
 津田はゆうに自分をいつわる事ができた。しかしその時の彼は偽るのがいやであった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だからろくな事じゃないのよ。よくって」
 津田にも大よその見当けんとうはついていた。

        九十四

「またあの事だろう」
 津田はしばらくをおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもういつもの通りきたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻さっきから用は今度こんだの次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんないやな顔をなさるんですもの」
 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈えしゃくを加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へとおした。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
 津田の所へは父の方から、お秀のもとへは母のがわから、京都の消息がおもに伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無うむを心のうちで気遣きづかっていたのである。兄妹きょうだいの間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末つきずえの仕払や病院の入費の出所でどころに多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡こんがらかって、離す事のできない事情のもとにある意味合いみあいを、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただかすかに薄笑の影をしまりの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田にはしゃくだった。平生は単に妹であるという因縁いんねんずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟しげきした。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計ひとの感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯しょうがい自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
 お秀はやがてきちりと整った眼鼻をそろえて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
 津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっともうちへはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当けんとうがついて」
 津田は何とも答えなかった。お延のこしらえてくれた□袍どてらえり手探てさぐりに探って、黒八丈くろはちじょうの下から抜き取った小楊枝こようじで、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻さっきからいてるじゃないか」
 お秀はわざと眼をらして縁側えんがわの方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作しょさの代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」

        九十五

 津田はようやくお秀あてで来た手紙の中に、どんな事柄ことがらが書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚さいかくするなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根のつくろいだとか家賃のとどこおりだとかいうのはうそでなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
 彼は沈吟ちんぎんして考えた。山羊髯やぎひげやして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪そくはつきらってまげにばかりいたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場をひとからも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
 お秀には自分の良人おっとの堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
良人うちでも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見をひるがえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作むぞうさにそれを引き受けた堀は、物価の騰貴とうき、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説くどおとしたのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分をいて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極しごく呑気のんきな男であった。約束の履行りこうなどという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行すいこうの時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責きっせきに近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗きれいに消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
 同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪をめた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮こりょに打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。
 不断から派手過はですぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末てんまつを京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫をそそのかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解からのがれる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろあによめのお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったいねえさんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃねえさんが一番気楽でいいわね」
 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、あざやかに見えた。

        九十六

「いったいどうしたらいいんでしょう」
 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑をらす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝なしゅうとさえその奥には控えていた。
「そりゃ良人うちだって兄さんに頼まれて、口はいたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人うちへ対して困るだけだわ」
 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡りょうけんがどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前にはなはだ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
 兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
 津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面くめんするに違ないとでも思っているのか知ら」
「そこなのよ、兄さん」
 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
 かすかな暗示が津田の頭にひらめいた。秋口あきぐちに見る稲妻いなずまのように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質たちのものであった。心のうちで劈頭へきとうに「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、しものような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初にていよく送金を拒絶する。津田が困る。今までのいきがかりじょう堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応いやおうなしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟りくつもあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊たんぱくさがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭きつねくさ狡獪こうかいな所も少しはあった。小額の金に対する度外どはずれの執着心が殊更ことさらに目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口やりくちに感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じようにまゆひそめなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫やしゅうとへの義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度そんたくから成立った父の料簡りょうけんは、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。

        九十七

 感情と理窟のもつった所をごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈じれったくした。しかし彼らは兄妹きょうだいであった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊さっぱりしないところをあんに非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁ふていさいは演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点にくく手際てぎわをお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたっておんなじ事だがね」
「あら、ねえさんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
 お秀の兄を冷笑あざけるような調子が、すぐ津田の次の言葉をおこした。
「できなければ死ぬまでの事さ」
 お秀はついにきりりとしまった口元を少しゆるめて、白い歯をかすかに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯をいじくっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
 津田にとってそれほど容易たやすい解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、またとりなおさず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角いっかくにおいて突きくずすのは、自分で自分に打撲傷だぼくしょうを与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をとひとから笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余ありあまるほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。おのれを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質たちに父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」とほうすように云った後で、彼はまだお秀の様子をうかがっていた。腹の中に言葉通りの断乎だんこたる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤てんびんを働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量しょうりょうした。そうしていっそ二つのうちで後の方をおかしたらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのをあきたらなく思った。兄のうしろに御本尊のお延が澄まして控えているのをにくんだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚みなして、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹ごうはらであった。そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見えいて来たあとでも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心にちていた。彼は成上なりあがりものに近いある臭味しゅうみを結婚後のこの妹に見出みいだした。あるいは見出したと思った。いつか兄といういかめしい具足ぐそくを着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえどもみだりにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人のこしらえかけていた局面を、一度にくずしてしまったのである。

        九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段はしごだんの途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」とき返した。薬局生はりながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶あいさつが、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着おうちゃくにした。芝居へ行ったぎり、昨日きのう今日きょうも姿を見せないお延の仕うちをあんに快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
 彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日あしたの朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方にき着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振そぶりから推して見ると、この類測に満更まんざらな無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛しとやかに自分を驚ろかしに這入はいって来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那いっせつなひらめかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今までこたえに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。ほうっておけ」
 この挨拶あいさつがまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラをむ兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前をはばかって、不断の甘いところを押し隠すために、わざとあによめに対して無頓着むとんじゃくよそおうのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口いとくちを取り上げた時、一方では急込せきこんだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話をてて電車に乗ったのである。それから十五分とたないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅るすたくに押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套がいとうをやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかしひとの外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛とっぴがあった。自暴やけがあった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択せんたくされる恐れがあった。平生から彼を軽蔑けいべつする事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地したじを作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖がいた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
 お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父おじの前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸マッチ一本だって、大きなうちを焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸マッチを抱え込んでいたって。ねえさんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

        九十九

 津田はお秀の口から出た下半句しもはんくを聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとそのあとを待っていた。しかし彼の聞こうとするそのあとはついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取けどられないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作しょさから来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑ひやかされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
 同時に先刻さっきから催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念けねんに制せられた。
 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口いとくちを失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったいねえさんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜくんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」

「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
 津田は答えなかった。お秀は穴のくようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃかないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子ひょうしを抜く必要があったので、彼は判然はっきりした返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕けんまくだね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡泊たんぱくでないから駄目よ」
 津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違かんちがいをしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴あいつは僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
 お秀は急にあてはずれたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守るすに誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
 二人は黙らなければならなかった。

        百

 しかし二人はもう因果いんがづけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸からたたき出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座にせまる金の工面くめん、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢におちいっていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
 時間がちょうどこんな愛嬌あいきょうをいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせうちへ帰ったって用はないんだろう」
 お秀は津田のいう通りにした。話は容易たやすく二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹きょうだいらしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹のたしにならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へもぐもうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用いりようのものを」
「そうかい」
 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金をえばにして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄をらす事に帰着した。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻さっきもうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕をらすためにかい、または僕にくれるためにかい」
 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱいめた。津田にはそれが口惜涙くやしなみだとしか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
 今度はあきれた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事はひとかなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌きげんを取り返した方がとくか、またはくしゃりと一度に押しつぶした方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼はおもむろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少しをおいた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのおなかの中には、あたしが京都へ告口つげぐちをしたという事が始終しじゅうあるんでしょう」
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしをかたきにしていらっしゃるんです」
「誰が」
 不幸な言葉は二人の間に伏字ふせじのごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明たいまつのように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。ねえさんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」

        百一

 津田から見たお秀は彼に対する僻見へきけんで武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障みみざわりであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼はすくなからぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒にほんぼうじゃないよ」
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡をよそおって、うっちゃっておおきになるくらいですから」
 こういう言葉が所嫌ところきらわずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
 彼は神経の亢奮こうふんまぎらす人のように、しきりに短かい口髭くちひげを引張った。しだいしだいににがい顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
 津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸あかはだかにされて行くので、しまいに彼はじ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息ひといきで彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするようないきおいで。
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊たんぱくでした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体ありていに事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをおもらいになる前、今度こんだのようなうそをお父さんにいたおぼえがありますか」
 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
 お秀はそうだと答えたいところをわざとそらした。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠しょうこにそれだけの事実を主張するんです」
 津田は表向どうしても負けなければならない形勢におちいって来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
 お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った証拠しょうこはまだあるんです」
 津田は素知そしらぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのをげた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、ねえさんに何か云やしないかって、先刻さっきから心配しているじゃありませんか」
うるさいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
 津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔をのぞき込むようにして見た。それから好い恰好かっこうをした鼻柱に冷笑のしわを寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息ひといき懺悔ざんげ深谷しんこくさかさまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄のうしろ平坦へいたんな地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなにこわがるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当けんとうだろうね」
 お秀はかっとした。同時に一筋の稲妻いなずまが彼女の頭の中を走った。

        百二

わかりました」
 お秀は鋭どい声でこうはなった。しかし彼女の改まった切口上きりこうじょうは外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦ちょうせんに応ずる気色けしきを見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩をゆすぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜねえさんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
 津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙ってひとりで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚みなしていらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似まねは夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑けいべつが、微温なまぬるい表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻さっきから見せている津田をごうも容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。
 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先ほこさきをお延に向けていた。兄を攻撃するのもうそではなかったが、矢面やおもてに立つ彼をよそにしても、背後に控えているあねだけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうしたうたがいを妹が少しでももっているなら、綺麗きれいにそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪かんしゃくは始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女につらまえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑けいべつなさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんはねえさんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹よりさいを大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんをこわがるのです。しかもその怖がるのは――」
 お秀がこう云いかけた時、病室のふすまがすうといた。そうして蒼白あおしろい顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

        百三

 彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜べんぎを計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静なドアーを開けて内へ入る事ができたのである。
 実際彼女は三四日さんよっか前に来た時のように、編上あみあげだのたたみつきだのという雑然たる穿物はきものを、一足も沓脱くつぬぎの上に見出みいださなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲あたり寂寞ひっそりしていた。
 彼女はそのしんとした玄関の沓脱の上に、行儀よくそろえられたただ一足の女下駄を認めた。価段ねだんから云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心をおどらせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何すいかでもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかもいた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段はしごだんの下まで来た。そうして上を見上げた。
 上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、よどみなく往ったり来たり流れているのとはだいぶおもむきことにしていた。そこには強い感情があった。亢奮こうふんがあった。しかもそれをおさえつけようとする努力のあとがありありと聞こえた。他聞たぶんはばかるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段をあがってすぐとっつきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延のこうとする談話は、聴くに都合の好くない見当けんとう、すなわち彼女のうしろの方かられて来るのであった。
 彼女はそっと階子段をのぼった。柔婉しなやか体格からだをもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効せいこうをもってむくいられた。
 あがぐちの一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄てすりこしらえてあった。お延はそれにって、津田の様子をうかがった。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳にった。ことにねえさんがという特殊な言葉が際立きわだって鼓膜こまくに響いた。みごとに予期のはずれた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張がゆるいとまなく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口からげつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩けんかをしていた。その喧嘩の渦中かちゅうには、知らないに、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩のおもな原因かも分らなかった。
 しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉はあられのように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味ぎんみしているひまなどはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立たたずんでいる彼女の耳朶みみたぶたたきに来るだけであった。
 彼女は事件が分明ぶんみょうになるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心をふるわせた。際立きわだって明暸めいりょうに聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻さっきから一言葉ひとことばごとに一調子ひとちょうしずつ高まって来た二人の遣取やりとりは、ここで絶頂に達したものと見傚みなすよりほかにみちはなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もしいて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁ふていさいを防ぐ緩和剤かんわざいとして、どうしても病室へ入らなければならなかった。
 彼女は兄妹きょうだいの中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際てぎわった。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女はきわどい刹那せつなに覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室のふすまを開けた。

        百四

 二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行をめられた時の沈黙は、けっして平和の象徴シンボルではなかった。不自然におさえつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄ものすごい或物が潜んでいた。
 二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対のがわから入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵あんどであった。困ったという心持と、助かったという心持が、つつかくす余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支さしつかえないという証左しょうさを、永く心のうちつかんだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下こっかの目的としなければならなかった。彼女は蒼白あおしろほおに無理な微笑をたたえて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作しょさだったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬にのぼった。
「おや」
今日こんちは」
 軽い挨拶あいさつが二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰てもちぶさたに圧迫され始めなければならなかった。滅多めったな事の云えないお延は、わきに抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本こっけいぼんを出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終しじゅう腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
 津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさらページひるがえして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言ふたことみことほど口をいた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉のどからし出したようなものであった。
 お延はまた懐中ふところから一通の手紙を出した。
「今がけに郵便函ゆうびんばこの中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
 お延の言葉は几帳面きちょうめんに改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人べつにんのように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところをあんきらっていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉づかいを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
 手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
 津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延駄目だめだとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
 津田のかたは珍らしく真摯しんしの気にちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対してひらたい旦那様だんなさまになっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。てらのないその態度がお延にはうれしかった。彼女は慰さめるような温味あたたかみのある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生ふだんの自分に戻ってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
 津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本こっけいぼんの場合のように口をき合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読みおわって、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもうみ込めていた。それでもお秀はわざといた。
「何と書いてありますか、兄さん」
 気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
 手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻さっきからのいきがかりじょう、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹ごうはらであった。

        百五

 お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心のうちで再度の衝突をおそれた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸めいりょうおさえれば、もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易におこらない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女がへやに入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩けんかの相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信たよりがあったんですか」
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
 お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお物費ものいりが多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」
 お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面くめんはどうにでもできるぐらいに考えて」
 お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
 こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根をつくろったの、家賃がとどこおったのって、そんな費用は元来些細ささいなものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分のうちを一軒持って見ると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌あいきょうを惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆こんたんがあるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
 お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
 お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀にいて御覧よ」
 お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
 お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐそのきょたした。
「それで先刻さっきから大変御機嫌ごきげんが悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩けんかになるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交ためいきまじりに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆まさかそんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
 津田は蒼蠅うるさそうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼とまゆの間に現われた。

        百六

「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。あによめに対して何とか説明しなければならない位地いちに追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂をにくんだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々そらぞらしいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人うちは強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよくわからないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目ききめがなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがっておきになっても駄目だめよ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直すなおにお取りにならないんです」
「素直にも義剛ぎごわにも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だっていやですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
わかってるじゃありませんか」
 三人はしばらく黙っていた。
 突然津田が云い出した。
「お延お前お秀にあやまったらどうだ」
 お延はあきれたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡りょうけんでは」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はそのあとさえぎった。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつねえさんに詫まってもらいたいと云いました。そんな言がかりを捏造ねつぞうされては、あたしが嫂さんに対して面目めんぼくなくなるだけじゃありませんか」
 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口をかなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだっておんなじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんやねえさんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにもつらいんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日きのう嫂さんから電話がかかった時、すぐようと思ったんですけれども、朝のうちはうちに用があったし、ひるからはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損きそこなっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
 お延はなお黙っている津田の顔をのぞき込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃいやだよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走かんばしった声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子をくずさなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがおいやなら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。

        百七

 三人は妙な羽目におちいった。いきがかりじょう一種の関係で因果いんがづけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席をはずす事は無論できなくなった。彼らはそこへすわったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
 しかもはたから見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らはひとから注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後せなか背負しょっている因縁いんねんは、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らをあやつった。
 しまいに津田とお秀の間にしものような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊たんぱくに云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹きょうだいらしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口ひとくちおっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のおわびじゃありません。心からの後悔です」
 津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫よう空々そらぞらしいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前いちにんまえの男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪あやまったんでしょう」
「でなければ何もあやまる必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
 津田は口を閉じた。お秀はすぐしかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃおしよ。何も無理にもらおうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
先刻さっきからそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
 津田は一種けわしい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪ぞうおが輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用いりようだ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
 お秀の手先が怒りでふるえた。両方のほおに血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層あざやかであった。しかし彼女の言葉づかいだけはそれほど変らなかった。怒りのうちに微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
ねえさんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人うちには絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるでべつッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんとこしらえるだけなのよ」
 彼女はこう云いながら、昨日きのう岡本の叔父おじに貰って来た小切手を帯の間から出した。

        百八

 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後のゆきがかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心のうちで祈ったのである。会心の微笑をらしながら首肯うなずいて、それを鷹揚おうように枕元へほうり出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所でどころについて、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
 不幸にして津田にはお延の所作しょさも小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少しおもむきことにしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくりいた。
「こりゃいったいどうしたんだい」
 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込をうらめしくくじいた。彼女の予期ははずれた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目まじめくさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露ばくろするに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後でわかる事なんだから」
 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
 津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑けいべつする点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
 彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲りゅういんさがるような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
 先刻さっきから二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうしてふところから綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
 彼女は紙入の中から白紙はくしで包んだものを抜いて小切手のそばへ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
 津田に話しかけたお秀はあんにお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強しんぼうづよくいつまでもそれをいていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
 お秀はきっとなった。
「どっちも本当です」
 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒きほうくじいた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱ほてっていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜くやしいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎かげろった。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通してくよりほかにみちがなかった。二人はきつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らはさえぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口をいて出た。

        百九

「実は先刻さっきから云おうかそうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑ひやかされて見ると、私だって黙って帰るのがいやになります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合わけあいからです」
 お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってそのあとを待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目まじめに聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろねえさんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩きょうだいげんかになったら、その時にめていただけばそれまでですから」
 お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日きょうまで云わずにいました。それを今改めてあなた方のおそろいになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかになんにも考えていらっしゃらないかただという事だけなんです。自分達さえよければ、いくらひとが困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
 この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただあきれるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
 ここまで来たお秀は急に後をした。二人のうちの一人が自分をさえぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうしてもらいたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体ありていにいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁いんねんずくとあきらめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
 お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然はっきりした観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっしてひとの親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしくうれしがる能力をてんから奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。ねえさんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、あわせて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直すなおに受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じないかたなのです」
 お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女をさえぎろうとするお延の出鼻をおさえつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。

        百十

「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもうじきです。そんなに長くかかりゃしません」
 お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻さっき津田と衝突した時にくらべると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂げっこうから沈静の方へし移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。ねえさんも考えて下さい」
 考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁きべんとしか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目まじめであった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額かねだかは問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日きょうここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久にほうさなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生ごしょうですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
 お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私にわかりました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもうなんにも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
 お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手しょてから勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀がうちから用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
 お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかにみちはないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻さっきそういう問を私におかけになりました。私はどっちもおんなじだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然はっきり入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅うるさいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌あいきょうもなければ気高けだかくもなかった。ただ厄介やっかいなだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
 すでにあきらめていたお秀は、別にうらめしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人うちが立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人うちわずらわせるのはいやです。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
 お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔にはなんという合図あいずの表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段はしごだんを降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶あいさつかわせて別れた。

        百十一

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面シーンでその相手になろうとは思わなかった。相手になったあとでも、それが偶然のまわあわせのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果いんが迹付あとづけて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負しょって立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対してましい点は容易に見出みいだされなかった。
 この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上にきたされそうに見える葛藤かっとうさえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田がくまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通しちぶどおりの安心と、三分方さんぶがたの不安があった。その三分方の不安を、今日きょうの自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけのじつを津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
 これはお延自身に解っているがわ消息中しょうそくちゅうで、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らないに、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑さいぎから、彼女は運よくまぬかれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起ったきわどい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままにひろげる役を勤めたお延は、吾知われしらずもうけものをしたのと同じ事になったのである。
 彼女はなぜ岡本がいて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本のうち昨日きのう行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数てかずはぶく事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
 二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段はしごだんあがって、またへやの入口にそのすらりとした姿を現わした刹那せつなであった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかになんにもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴シムボルであるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好かっこうをとって動いた肉その物の形が、彼女にはうれしい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
 その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯をあらわすまでに口をけて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
 お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴あいつに電話なんかかけるなって云うんだ」
 二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教キリストきょうじゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
真面目まじめくさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋りくつやだよ。つまりああかえさなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうしてなまじい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父のそばにいて、あの叔父の議論好きなところを、始終しじゅう見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

        百十二

 久しぶりに夫とじかに向き合ったような気のしたお延はうれしかった。二人のあいだにいつのにかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々はればれしい心持になった。
 彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女にうながした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついにむくいられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻はたんは、とりなおさず彼女にとって復活の曙光しょこうであった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色ばらいろの空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口からほとばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中ににぶまばたきを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退しりぞいた。少くともさほどにならなかった。耳に入れた刹那せつなに起った昂奮こうふんの記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」とかれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気おぼろげ薄墨うすずみで描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外になんにも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾はらんが、ああまできわどくならずにすんだなら、お延はいきがかりじょう、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くからさぐらなければならない順序だったのである。
 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのがつらくてたまらないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中にたたき込んでおく方が得策だと思案した。
 こう決心するや否や彼女はうそいた。それは些細ささいの嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面にわたって、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。おかげで助かったよ」
 お延の嘘はこの感謝の言葉の後にいて、すぐ彼女の口をすべって出てしまった。
昨日きのう岡本へ行ったのは、それを叔父さんからもらうためなのよ」
 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間とたないうちに、どこからそんな好意が急にいて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃいやなのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶんつらかったの」
 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本にこしらえてもらっていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日きょうまでして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」
 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよくみ込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云いにくいだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやもそろっているからな」
 津田はかえって自尊心をきずつけられたような顔つきをした。お延はそれをつくろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間こないだからそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
 津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。

        百十三

 二人はいつになくけ合った。
 今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知われしらずゆるんだ。自分の父が鄙吝ひりんらしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念けねん、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊みくびりはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧あいまいな幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれがうれしかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
 同時に津田から見たお延にも、またそれと同様のおもむきが出た。余事はしばらく問題外にくとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果いんがから来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際よりはるか余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴ふいちょうした。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延ににおわせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那わかだんなであった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困るうれいはけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責げんせきを彼女に対して背負しょって立っていたのと同じ事であった。利巧りこうな彼は、財力に重きを置く点において、彼にまさるとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金おうごんの光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕とりつくろわなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑けいべつされるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月まいげつ父からけてもらうようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満をいだかざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊たんぱくでないのをうらんだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前にさらしてくれないのかをにした。しまいには、それをあえてしないようなへだたりのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精こだまのように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、じかに向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないようにつつしんでいた。ところがお秀との悶着もんちゃくが、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりとたたき破った。しかもお延自身ごうもそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人べつにんのように快よく見えた。
 二人はこういう風で、いつになくけ合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
 二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心かんじんの善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々まちまちで、容易にまとまらなかった。
 お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首をった。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存いぞんはなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
 しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件がそなわっていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づきにくい吉川に口をいてもらおうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説くどき落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手にがてであった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善なかよしの津田はまた充分成効せいこうの見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとうを折った。
 事件後の二人は打ち解けてこんな相談をしたあとで心持よく別れた。

        百十四

 前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易きやすく眠る事ができた。翌日あくるひもまたき通るような日差ひざしを眼に受けて、晴々はればれしい空気を篏硝子はめガラスの外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣をそそった。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
 洗濯屋の男は、俗歌をうたいながら、区切くぎり区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
 彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へのぼって、その白いものを隙間すきまなく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作しょさは単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田にはわからなかった。
 彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿をおもい浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然ばくぜん過ぎた。それをまとめようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
 一にはこの間訪問した時からのひっかかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはそのあとくまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味をひらく権利は自分にあるようにも思われた。
 二には京都の事が気になった。軽重けいちょうを別にして考えると、この方がむしろ急にせまっていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体からだを持ち扱った彼は、昨日きのうお延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口やりくちだと信じていた。
 お延がなぜこういう用向ようむきを帯びて夫人をたずねるのをきらったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入でいりをしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事をこしらえてもらったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たっている気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効せいこうするにちがいないからと云った。成効するにしても、病院を出たあとでなければ会う訳に行かないんだから、遅くなるおそれがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
 津田は洗濯屋の干物ほしものを眺めながら、昨日きのうの問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰たぐり寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐ばんさんの卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少しおそれなければならなかった彼には、杜撰ずざんにそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水のあわを製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折ってこしらえても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようとたくらんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越ガラスごしに表を眺めた。
 表はいつか風立かぜだった。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それをかすめるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。

        百十五

 下からあがって来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」といた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口きずぐちの方はそっとしておかないと、危険ですから」
 彼はこう注意して、じかに局部をおさえつけている個所を少しゆるめて見たら、血が煮染にじみ出したという話を用心のためにしてかせた。
 取りえられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所をがすと、血がほとばしるかも知れないという身体からだでは、津田も無理をしてうちへ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数にっすうは動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」
 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
 それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がおありになる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもうじきです。もう少しの辛防しんぼうです」
 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだわないためか、そこへすわって二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話ひとくちばなしが、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑けんぎをかけて、是非その看護婦をなぐらせろと、医局へせまった人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽こっけいであった。こういう性質たちの人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出みいだす事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気をられた。そうしてその裏側へあんに自分の長所を点綴てんてつして喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所にくくりつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
 彼はお延の置いて行った書物のうちから、その一冊をいた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯うなずかせるようなおもむきがそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔ヒューモアを解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほどこたえなかった。頭にさえみ込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然しものようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたはわたしの娘を愛しておいでなのですかといたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あのなつかしい眼で、優しい眼遣めづかいをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうというがけの上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけなかたまりになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首をって、実を云うと、私も少しうそ性分しょうぶんだが、私のうちのような少人数こにんずな家族に、嘘付うそつきが二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
 嘘吐うそつきという言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分をうけがう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的えんせいてきにならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然ばくぜんとした人世観のもとに生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただおこなったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
 自分の読んだ一口噺ひとくちばなしからこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。

        百十六

 津田はまとまらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過ひるすぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、ひとり寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方におもいをせた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着おうちゃくであった。今まで彼女の手前はばからなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それがいやになると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中にいて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸のうちに納めているのだぐらいの料簡りょうけんは、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然はっきりした言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
 お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人はもとより姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻さっきから近くで誰かがやっている、彼の最もきらいうたいの声が、不快に彼の耳を刺戟しげきした。彼の記憶にある謡曲指南ようきょくしなんという細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建のうちであった。二階が稽古けいこをする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。ひとが勝手にやっているものをめさせる権利をどこにも見出みいだし得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
 柳の木のうしろにある赤い煉瓦造れんがづくりの倉に、山形やまがたの下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためともわからない、大きな折釘おれくぎに似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段はしごだんを、どしどしのぼって来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
 彼の予覚はすぐ事実になった。彼がへやの入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套がいとうを着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
 彼はすぐ胡坐あぐらをかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶あいさつの代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套のそでを津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、おかげでこの冬も生きて行かれるよ」
 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれをかされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
 小林はまたこういた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇ちゅうちょした。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
 容易に手がかりを得た津田は、すぐそれにすがりついた。
「君があんまりいじめるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯からかい過ぎたんだ、可哀想かわいそうに。泣きゃしなかったかね」
 津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目でたらめさ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事までにするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
 津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴あいつに調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんからいたろう」
「いいや聴かない」
 二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度そんたくしようとする試みが、同時にそこに現われた。

        百十七

 津田が小林に本音ほんねを吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、くまで素直すなおに、飽くまで閑雅しとやかな態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面にわたっていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜べんぎだときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日きのうどんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細をく暇もないうちに、時間がってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それをかないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方をあきらめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所でどころを、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。
 小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。うそだと思うなら、もう一遍お延さんにいて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、あやまって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」
 彼はこう云ってうそぶいた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑けいべつした口調で津田にいた。彼はぞんざいにページ剥繰はぐりながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印みとめいん見出みいだした時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんのさとじゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
 この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父おじだぜ、君知らないのか。さとでも何でもありゃしないよ」
「そうか」
 小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
 小林は「えへへ」と云った。「貧乏するとひとの財産まで苦になってしようがない」
 津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
 こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのはいやだ。もらうなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣きづかいはないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
 津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
 今日小林から充分な事がけなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会をあんに作り上げた。

        百十八

 故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿つけまつわった。それがまた津田のこうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅うるさくもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振いたぶられるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
 津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
 津田はついそのあとへ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延をりつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
 小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目まじめくさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼からおびやかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明そうめいだからいい。ひとはみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
ひととは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当けんとうがついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物ぎぶつなのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
 津田の頭に妙な暗示がひらめかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
 こういう彼は、平気で自分の妹のおきんさんを藤井に片づけてもらう男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪ゆする所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまったあとの彼の財布はからと同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要をごうも認めなかった。
 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
 その朝藤井へ行った彼は、そこでいつもするように昼飯の馳走ちそうになって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子こうしいたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出みいだしたのである。
 小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。

        百十九

 しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯からかった。
兄妹喧嘩きょうだいげんかをしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまたそばでそれをいていたのか」
 小林は苦笑しながら頭をいた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然てんねんしぜん耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
 お秀にはどこか片意地で一本調子なおもむきがあった。それに一種の刺戟しげきが加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄つじつまが合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終しじゅう取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にもり移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
 津田は心の中で、この叔父と妹と対坐たいざした時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾ひとはらん起したのではあるまいかといううたがいさえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部うわべはわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
 小林は御挨拶ごあいさつにただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴あいつだって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるでわからないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
 小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩けんかなんかするもんか。あんなやつと」
 小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子ひとちょうしずつ余裕を生じて来た。
けだしやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪ちんりんしている人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕のとくになるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得のもとに、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終しじゅう考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
 津田は面倒臭そうに小林をさえぎった。
「よしわかった。解ったよ。つまりひとと衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便おんびんにしろという忠告なんだろう、君の主意は」
 小林はとぼけた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻さっきからお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
 小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。

        百二十

 小林はここだという時機をつらまえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田をとりこにしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
 津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
 津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、そのうちの名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
 津田は不思議がらざるを得なかった。
 ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想のたすけに依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向おもてむき媒妁ばいしゃくの労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題をひっさげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話をいていると」
 津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのはだよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手しょてから高をくくっているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
 結果の上から見た津田の隙間すきまさがし出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事よろしく願ってあるんだろう。そこへお秀さんがけ込むのは当り前じゃないか」
 津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分じょうだんはんぶんの訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目まじめ一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛とっぴやつだな」
 突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴あいつの云う事を真向まともに受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
 津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合えんあい、それらのものがお秀の遣口やりくち一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」
 この言葉をいた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君がいたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だからろくに聴いちゃいなかったよ」
 こう云った小林は肝心かんじんなところへ来て、知らん顔をして圏外けんがいへ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わったあとで、小林はまた圏内けんないへ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。いやでもおうでも聴かされるよ」
 津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんはじかに来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。うそじゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
 お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。

        百二十一

 津田の頭に二つのものが相継あいついでひらめいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人をうまく取扱わなければならないという事前じぜん暗示あんじであった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところにはちがいなかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答おうとうぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見をまれた後の夫人と、まだ反感をあおられない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場いちじょうの会見で、充分引繰ひっくかえして見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
 残る一つのひらめきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜べんぎを彼に教えた。先刻さっきまでの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ちもうけていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟しげきを予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
 附帯条件として、小林を早く追払おっぱらう手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色けしきをどこにも現わさなかった。彼はひとの邪魔になる自分をにする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断をしかひとに与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
 津田は欠伸あくびをして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作しょさが彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色がまだらになって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
 津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
 冗談じょうだんじゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際つきあったためしもない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
見世物みせものじゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕はひまだからね」
 津田はあきれた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのがいやでならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑けいべつされた日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気のんきだね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
 津田は最後の引導いんどうを渡すよりほかにみちがなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
 小林は別におこった様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
 面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用ならうけたまわってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套がいとうのように留守るすへ取りに行かれちゃ困る」
 小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林にく事の残っている津田は、出立前しゅったつぜんもう一遍彼に会っておく方が便宜べんぎであった。けれども彼とお延と落ち合う掛念けねんのある病院では都合つごうが悪かった。津田は送別会という名のもとに、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者やっかいものを退去させた。

        百二十二

 津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱をけて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書きくだした手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気のいた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒そそかしくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫をうちまでやって下さい」
 看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名あてなを眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
 二階へ帰って来たあとでも、彼はそればかりがになった。そう思うと、お延がもううちを出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付まつわるのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段はしごだんの上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿うしろすがたを見送った津田は、それでももう少しで刻下こっかの用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。
 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだおもいいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛なあて苗字みょうじ小綺麗こぎれいな二階建の一軒の門札もんさつ見出みいだした。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
 ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしそのあとには、書面をしたためる時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実がよこたわっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
 しかし津田の懸念けねんしたように、うちにいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれはきわどい機会をうまく利用しようとする敏捷びんしょうな彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守るすから必然的に起る、時間の余裕を持て余すほどらくな午前を過ごした。午飯ひるめしを食べた後で、彼女は洗湯せんとうに行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗きれいになっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入ねんいりに時間を費やしたあと晴々せいせいした好い心持を湯上りの光沢つやつやしい皮膚はだに包みながら帰って来ると、お時からうそではないかと思われるような報告をいた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
 お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日きのう今日きょう、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえかなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りにとおみちだからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
 お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然におちいる痕迹こんせきなしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀のあとおっかけるようにして宅を出た。

        百二十三

 堀のうち大略おおよその見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。
 藤井や岡本の住居すまいと違って、郊外に遠い彼のやしきには、ほとんど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。
 市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺あたりが繁華な割に、通りはいつも閑静であった。
 その上みちの左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側にうごく緑りのうちに一種のおもむきを見せた。中で一番大きいのが、ちょうどほり塀際へいぎわから斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそにはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁ていさいが好かった。
 その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶てんすいおけがあった。まるで下町の質屋か何かを聯想れんそうさせるこの長物ちょうぶつと、そのすぐ横にある玄関のかまえとがまたよく釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口はことごとくほそ格子こうしで仕切られているだけで、唐戸からどだのドアだのの装飾はどこにも見られなかった。
 一口でいうと、ハイカラな仕舞しもうたと評しさえすれば、それですぐ首肯うなずかれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんなうちへ入っているかいまだかつて知らなかった。そんな事をにする神経をもたない彼は、ひとから自分の家業柄かぎょうがらを何とあげつらわれてもいっこう平気であった。道楽者だが、満更まんざら無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家にすまうのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、きわめての少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造どぞうづくりのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度をめるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐ちんぷ過ぎた。
 お延は堀のうちを見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へいってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。
 次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、このうちに釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧あいまいなところがまたお延の堀に対する好悪こうおの感情をそのままに現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。
 最後にきたるお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向ふむきに育て上げられていた。この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾をいられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。
 家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺てこずらせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
 玄関の格子こうしを開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度によみがえらさせるべく号鈴ベルがはげしく鳴った。

        百二十四

 昨日きのう孫をれて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合つごうにもなり、また悪いばつにもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄をけてくれたと同時に、ただ一人めんと向き合って、当のかたきのお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
 お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さなまげった母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭へきとうにお秀が顔を出したばかりか、待ちもうけた老女はそのあとからも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまずはずさせられた。その時彼女はお秀を一目見た眼のうちに、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日きのうの戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんなかたきを打たれるかも知れないというかすかな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。
 お延はこの一瞥いちべつをお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥いちべつが突如としてひらめいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。
 一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日きのう、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫してはたの人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾はらんが呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
 だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌あいきょうの好い挨拶あいさつをした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜てぬかりなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審がいて起った。
 けれども肝心かんじんなその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸なちがいについても、ついに一言ひとことも口をく様子を見せなかった。
 相手に心得があってわざときわどい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切くぎりを付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
 怜悧りこうなお延は弱らせられた。会話がなめらかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭をもたげて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側をのぞいて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やりそくなったあかつきに、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
 その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこをたたかせてもらって局部から自然に出る本音ほんねを充分にく事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和こうわの役目をやりおおせて帰るよりもはるかに重大な用向ようむきであった。
 津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守るすに、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかをしかと突きとめたかったのである。
 どこにひっかかりをこしらえたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、「先刻さっきいらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切くちきりに使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗きれいにお延をねつけてしまった。

        百二十五

 お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝けさこの叔父おじの所をたずねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構もんがまえは依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延にわかっていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞ことばろうさなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目まじめに取り合う緒口いとくちをどこにも見出みいだす事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿たどって行くうちには、自然気色きしょくを悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷びんしょうなお延は、相手を見縊みくびぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々ちょうちょうし始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉にはすべっこい皮膚があるだけで、肝心かんじんの中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞せじの返礼をさもうまそうに鵜呑うのみにしなければならなかった。
 しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌あいきょう手古盛てこもりに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人からあおって行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただめそやすだけでは、同じ不成蹟ふせいせきおちいるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第であとの段取をきめようと覚悟した。
 彼女はお秀が自分の風呂の留守るすへ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるでおもいたらなかった。しかも昨日きのう病院で起った波瀾はらんの結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
 最初夫人の名前がお延のくちびるかられた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
 すると第二の予想外がいで起った。お秀がちょっと顔をそむけた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めてわかった。年来陳腐ちんぷなくらい見飽みあきている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味のってきたるところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
 お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹をいだように、突然話題を変化した。ゆきがかりじょう全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛とっぴであった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。

        百二十六

 お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐ちんぷなありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのがおもな原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
 お延に比べるとお秀は理窟りくつっぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代りひとからまれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読みれた雑誌さえ近頃は滅多めったに手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟しげきされずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
 ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々がらにもない議論を主張するような弊におちいった。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分だいぶん道程みちのりがあった。意地の方から行くと、あまりにが強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体にぐわないような理窟りくつを、わざわざ自分の尊敬する書物のうちから引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸たまを込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分くすんごぶの代りに、振り廻して見るような滑稽こっけいも時々は出て来なければならなかった。
 問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的ちゅうしょうてきな問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
 彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよくみ込んでいた。きわどい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合つごうの悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上にしばりつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至ないしお延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然まんぜんとして空裏くうり飛揚ひようする愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引きりおろさなければならなかった。
 子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染しょたいじみているお秀が、この意味において、はるかに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯うけがいながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲すもうを取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
 やがてお延の胸に分別ふんべつがついた。分別とはほかでもなかった。この問題をかすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思うつぼに入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟しげきに対して、真偽の吟味ぎんみなどは、らざる斟酌しんしゃくであった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀はおこるにちがいなかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
 最後に彼女はある時機をつかんでった。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。

        百二十七

「そう云われると、何と云っていいかわからなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
 お秀の器量望きりょうのぞみでもらわれた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、うらやましい事実にちがいなかった。始めて津田からその話をかされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬しっとを感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐ふくしゅうをしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑けいべつであった。それを表向おもてむきさもうれしい消息ででもあるように取扱かって、彼我ひがに共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞せじに過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄ちょうろうであった。
 幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本きいっぽんに愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬがほとけということわざがまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸のうちへしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目まじめに受けるほど無邪気だったのである。
 本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱うろんな言葉を通して、鋭どいお延からよく見透みすかされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉をいた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
 実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々そらぞらしい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
 この挨拶あいさつは平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然はっきり表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかにみちはなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶちこわすのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ためらったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環ゆびわが遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥いちべつは何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日きのうごうも変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
 ひとに向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶あいさつをついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日あくるひ、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
 お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹けいせきをお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風をよそおって、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなおいやだった。したがって応対に非常な呼吸がった。目的地へぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。

        百二十八

 彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実にからまれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、めんと向き合ったままお秀に相見しょうけんしようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影おもかげを突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
 この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、ごうもこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何のたくわえもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
 お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕あさゆうそばにいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
わからないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
 お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減がおもいやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延はただちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫□」
 疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀のくちびるのあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
うそよ。そりゃあなたの事よ」
 お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労をはぶいた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
 お延は叩きつけられたあとで、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹きょうだいとしての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだってうから知ってるわ」
 お延のかまきわどいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険あぶないのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しをかしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
 こういったお秀は急にあかくなった。それが何の羞恥しゅうちのために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩しまできなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度しょどの記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧うすあかい顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同をぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものをつないでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどうさがしたって、金輪際こんりんざい出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡れんらくが存在しているに相違ないという推測すいそくであった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。

        百二十九

 とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口をいて出るうそおさえる事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながらき返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
 お延にはもうあとがなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
 お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻さっきより著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田ふかだの中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もうすくいを求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当けんとうがつかないんですもの」
 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延のわきの下から膏汗あぶらあせが流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者キリストきょうしんじゃじゃありませんか」
 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日きのうのような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」
 昨日と今日の二人は、まるで地位をえたような形勢におちいった。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がおきらいなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高けだかい心持になって、この小さいお延をあわれんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いてあやまるから」
 お延は光る宝石入の指輪を穿めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
 持前の癖を見せて、まゆを寄せた時、お延の細い眼から涙がひざの上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこううらみとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよくわかります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」
 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀はあかくなる代りに少し蒼白あおじろくなった。そうして度外どはずれにんだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉づかいをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をしたおぼえはないんです。兄さんに対してもねえさんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」

        百三十

 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇くらやみこうとした。三度目のうそが安々と彼女の口をすべって出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。おいや?」
 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌あいきょうをその細い眼にたたえて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作しょさは全くはずれた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾そつじな質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこかほかから廻っていらしったの」
「いいえ。うちからすぐ上ったの」
 お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだすがりついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷ざんこくな光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分ひと精一杯せいいっぱい愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
良人うちを御覧なさい」
 お秀はすぐこう云って退けた。お延は話頭わとうからわざと堀をけた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直のいっくらよ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直すなおな夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」
 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地いち顛倒てんとうした。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目だめよ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯しょうがいったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃわかるわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心かんじんのあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分のうちの庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、ねえさんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めからきらいなんだから」
 お秀の顔に軽蔑けいべつの色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透みすかされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟りくつなんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太じだんだを踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守るすに彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。

        百三十一

 お延とお秀が対坐たいざして戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延あてで書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほどあとであった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前をいた時、この異人種いじんしゅに近い二人が、狭いへや鉢合はちあわせをしずにすんだ好都合こうつごうを、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それをめた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢うえきばちをちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するようにいた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉もみじの色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子をそろえて並んでいる下に、恰好かっこうの好い手頃な石さえあしらったその盆栽ぼんさいとこの上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
 先刻さっきから彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、あんに心配していた彼の掛念けねんの半分は、この一語いちごで吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほどうわ調子ちょうしでもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚おうようさをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田はひとから機嫌きげんを取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支さしつかえないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と(</