日语文学作品赏析《それから》
作者:夏目漱石
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
一の一
誰 か慌 たゞしく門前 を馳 けて行く足音 がした時、代助 の頭 の中 には、大きな俎下駄 が空 から、ぶら下 つてゐた。けれども、その俎 下駄は、足音 の遠退 くに従つて、すうと頭 から抜 け出 して消えて仕舞つた。さうして眼 が覚めた。
枕元 を見ると、八重の椿 が一輪 畳 の上に落ちてゐる。代助 は昨夕 床 の中 で慥かに此花の落ちる音 を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬 を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更 けて、四隣 が静かな所為 かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋 のはづれに正 しく中 る血 の音 を確 かめながら眠 に就いた。
ぼんやりして、少時 、赤ん坊の頭 程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当 てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈 を聴 いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確 に打つてゐた。彼は胸に手を当 てた儘、此鼓動の下に、温 かい紅 の血潮の緩く流れる様 を想像して見た。是が命 であると考へた。自分は今流れる命 を掌 で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌 に応 へる、時計の針に似た響 は、自分を死 に誘 ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生 きてゐられたなら、――血を盛 る袋 が、時 を盛 る袋 の用を兼ねなかつたなら、如何 に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生 を味はひ得るだらう。けれども――代助 は覚えず悚 とした。彼は血潮 によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生 きたがる男である。彼は時々 寐 ながら、左の乳 の下 に手を置いて、もし、此所 を鉄槌 で一つ撲 されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中 から両手を出 して、大きく左右に開 くと、左側 に男が女を斬 つてゐる絵があつた。彼はすぐ外 の頁 へ眼 を移した。其所 には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠 さうな手から、はたりと新聞を夜具の上 に落した。夫から烟草を一本吹 かしながら、五寸許り布団を摺 り出して、畳の上の椿 を取つて、引つ繰 り返 して、鼻の先へ持 つて来 た。口 と口髭 と鼻の大部分が全く隠 れた。烟りは椿 の瓣 と蕊 に絡 まつて漂 ふ程濃く出た。それを白 い敷布 の上 に置くと、立ち上 がつて風呂場 へ行つた。
其所 で叮嚀 に歯 を磨 いた。彼 は歯並 の好 いのを常に嬉しく思つてゐる。肌 を脱 いで綺麗 に胸 と脊 を摩擦 した。彼 の皮膚 には濃 かな一種の光沢 がある。香油を塗 り込んだあとを、よく拭き取 つた様に、肩 を揺 かしたり、腕 を上 げたりする度 に、局所 の脂肪 が薄 く漲 つて見える。かれは夫 にも満足である。次に黒い髪 を分 けた。油 を塗 けないでも面白い程自由になる。髭 も髪 同様に細 く且つ初々 しく、口 の上 を品よく蔽ふてゐる。代助 は其ふつくらした頬 を、両手で両三度撫でながら、鏡の前 にわが顔 を映 してゐた。丸で女 が御白粉 を付 ける時の手付 と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉 さへ付 けかねぬ程に、肉体に誇 を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好 で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生 れなくつて、まあ可 かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落 と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。
一の二
約 三十分の後 彼は食卓に就いた。熱 い紅茶を啜 りながら焼麺麭 に牛酪 を付けてゐると、門野 と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の傍 へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を捕 まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に限 つて、平気に先生として通 してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして麺麭 を食 つて居た。
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と嬉 しがつてゐる。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる事 でもあるんですか」
「冗談云つちや不可 ません。さう損得 づくで、痛快がられやしません」
代助は矢つ張り麺麭 を食 つてゐた。
「君、あれは本当に校長が悪 らしくつて排斥するのか、他 に損得 問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の中 へ注 した。
「知りませんな。何 ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得 にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、左様 なもんですかな」と門野 は稍真面目 な顔をした。代助はそれぎり黙 つて仕舞つた。門野 は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ左様 なもんですかなで押し通して澄 ましてゐる。此方 の云ふことが応 へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、其所 が漠然として、刺激が要 らなくつて好 いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、一日 ごろ/\してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると門野 は何時 でも、左様 でせうか、とか、左様 なもんでせうか、とか答 へる丈である。決して為 ませうといふ事は口 にしない。又かう、怠惰 ものでは、さう判然 した答 が出来ないのである。代助の方でも、門野 を教育しに生 れて来 た訳でもないから、好加減 にして放 つて置く。幸 ひ頭 と違 つて、身体 の方は善く動 くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも門野 の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと門野 とは頗る仲 が好 い。主人の留守などには、よく二人 で話をする。
「先生は一体 何 を為 る気なんだらうね。小母 さん」
「あの位 になつて入らつしやれば、何 でも出来 ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。何 か為 たら好 ささうなもんだと思ふんだが」
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも御探 しなさる御積りなんでせうよ」
「いゝ積 りだなあ。僕も、あんな風に一日 本 を読んだり、音楽を聞きに行つたりして暮 して居たいな」
「御前 さんが?」
「本 は読まんでも好 いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」
「夫 はみんな、前世 からの約束だから仕方がない」
「左様 なものかな」
まづ斯う云ふ調子である。門野 が代助の所へ引き移る二週間 前には、此若い独身の主人と、此食客 との間に下の様な会話があつた。
一の三
「君は何方 の学校へ行つてるんですか」
「もとは行きましたがな。今は廃 めちまいました」
「もと、何処 へ行つたんです」
「何処 つて方々 行きました。然しどうも厭 きつぽいもんだから」
「ぢき厭 になるんですか」
「まあ、左様 ですな」
「で、大 して勉強する考もないんですか」
「えゝ、一寸 有りませんな。それに近頃家 の都合が、あんまり好 くないもんですから」
「家 の婆 さんは、あなたの御母 さんを知つてるんだつてね」
「えゝ、もと、直 近所に居たもんですから」
「御母 さんは矢っ張り……」
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも近頃 は不景気で、余 まり好 くない様です」
「好 くない様ですつて、君、一所 に居るんぢやないですか」
「一所 に居ることは居ますが、つい面倒だから聞 いた事 もありません。何でも能 くこぼしてる様です」
「兄 さんは」
「兄 は郵便局の方へ出てゐます」
「家 は夫 丈ですか」
「まだ弟がゐます。是は銀行の――まあ小使 に少し毛の生えた位な所なんでせう」
「すると遊 んでるのは、君許りぢやないか」
「まあ、左様 なもんですな」
「それで、家 にゐるときは、何をしてゐるんです」
「まあ、大抵寐 てゐますな。でなければ散歩でも為 ますかな」
「外 のものが、みんな稼 いでるのに、君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」
「いえ、左様 でもありませんな」
「家庭が余 つ程円満なんですか」
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、御母 さんや兄 さんから云つたら、一日 も早く君に独立して貰 ひたいでせうがね」
「左様 かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な性分 と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に嘘 を吐 く料簡もありませんな」
「ぢや全くの呑気 屋なんだね」
「えゝ、まあ呑気 屋つて云ふもんでせうか」
「兄 さんは何歳 になるんです」
「斯 うつと、取つて六 になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄 さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に為 つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、何 しろ、どうか為 るだらうと思つてます」
「其外 に親類はないんですか」
「叔母 が一人 ありますがな。こいつは今、浜 で運漕業をやつてます」
「叔母 さんが?」
「叔母 が遣 つてる訳でもないんでせうが、まあ叔父 ですな」
「其所 へでも頼 んで使つて貰 つちや、どうです。運漕業なら大分人 が要 るでせう」
「根が怠惰 もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の御母 さんが、家 の婆さんに頼んで、君を僕の宅 へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく怠 けない様にして……」
「家 へ来 る方が好 いんですか」
「まあ、左様 ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。身体 の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも可 い」
「ぢや、掃除でもしませう」
門野 は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。
一の四
代助はやがて食事を済まして、烟草を吹 かし出した。今迄茶箪笥 の陰 に、ぽつねんと膝 を抱 へて柱に倚 り懸 つてゐた門野 は、もう好 い時分だと思つて、又主人に質問を掛 けた。
「先生、今朝 は心臓の具合はどうですか」
此間 から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「今日 はまだ大丈夫だ」
「何だか明日 にも危 しくなりさうですな。どうも先生見た様に身体 を気にしちや、――仕舞には本当の病気に取 つ付 かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
門野 は只 へえゝと云つた限 、代助の光沢 の好 い顔色 や肉 の豊 かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時 でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭 は、牛 の脳味噌 で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。話 をすると、平民の通 る大通りを半町位しか付 いて来 ない。たまに横町へでも曲 ると、すぐ迷児 になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪 に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼 の神経系に至つては猶更粗末である。恰も荒縄 で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為 に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも此 のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞 たがる。其上頑強一点張りの肉体を笠 に着 て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して来 る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた報 に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為 れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野 にはそんな事は丸で分らない。
「門野 さん、郵便は来 て居 なかつたかね」
「郵便ですか。斯 うつと。来 てゐました。端書 と封書が。机の上に置きました。持つて来 ますか」
「いや、僕が彼方 へ行つても可 い」
歯切 れのわるい返事なので、門野 はもう立つて仕舞つた。さうして端書 と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、明日 午前会 ひたし、と薄墨 の走 り書 の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋 の名 と平岡常 次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来 たのか、昨日 着 いたんだな」と独 り言 の様に云ひながら、封書の方を取り上 げると、是は親爺 の手蹟 である。二三日前帰つて来 た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着 いたら来てくれろと書 いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。家 へ」
「はあ、御宅 へ。何 て掛 けます」
「今日 は約束があつて、待 ち合 せる人があるから上 がれないつて。明日 か明後日 屹度伺ひますからつて」
「はあ。何方 に」
「親爺 が旅行から帰つて来 て、話があるから一寸 来 いつて云ふんだが、――何 親爺 を呼 び出さないでも可 いから、誰 にでも左様 云つて呉 れ給へ」
「はあ」
門野 は無雑作に出 て行つた。代助は茶の間 から、座敷を通 つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に掃除 が出来てゐる。落椿 も何所 かへ掃 き出されて仕舞つた。代助は花瓶 の右手 にある組 み重 ねの書棚 の前 へ行つて、上 に載せた重い写真帖を取り上 げて、立 ちながら、金 の留金 を外 して、一枚二枚と繰 り始めたが、中頃迄来 てぴたりと手 を留 めた。其所 には廿歳 位の女の半身 がある。代助は眼 を俯せて凝 と女の顔を見詰めてゐた。
二の一
着物 でも着換 へて、此方 から平岡 の宿 を訪 ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方 から遣 つて来 た。車 をがら/\と門前迄乗り付けて、此所 だ/\と梶 棒を下 さした声は慥 かに三年前分 れた時そつくりである。玄関で、取次 の婆さんを捕 まへて、宿 へ蟇口 を忘れて来 たから、一寸 二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄馳 け出して行つて、手を執 らぬ許りに旧友を座敷へ上 げた。
「何 うした。まあ緩 くりするが好 い」
「おや、椅子 だね」と云ひながら平岡は安楽椅子 へ、どさりと身体 を投 げ掛 けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉 に、三文の価値 を置いてゐない様な扱 かひ方 に見えた。それから椅子 の脊 に坊主頭 を靠 たして、一寸 部屋の中 を見廻しながら、
「中々 、好 い家 だね。思つたより好 い」と賞 めた。代助は黙 つて巻莨入 の蓋 を開 けた。
「それから、以後 何 うだい」
「何 うの、斯 うのつて、――まあ色々 話すがね」
「もとは、よく手紙が来 たから、様子が分 つたが、近頃ぢや些 とも寄 さないもんだから」
「いや何所 も彼所 も御無沙汰で」と平岡は突然 眼鏡 を外 して、脊広の胸から皺だらけの手帛 を出して、眼 をぱち/\させながら拭 き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝 と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、細 い蔓 を耳 の後 へ絡 みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番好 いな。あんまり相変るものだから」
そこで平岡 は八 の字 を寄 せて、庭の模様を眺め出 したが、不意に語調を更 へて、
「やあ、桜 がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故 の様にしんみりしない。代助も少し気の抜 けた風に、
「向ふは大分暖 かいだらう」と序 同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外 に熱 した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨 に火を点 けた。其時婆さんが漸く急須 に茶を注 れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水 を射 して仕舞つたので、煮立 るのに暇 が入つて、つい遅 くなつて済 みませんと言訳をしながら、洋卓 の上 へ盆 を載せた。二人 は婆 さんの喋舌 てる間 、紫檀の盆 を見 て黙 つてゐた。婆さんは相手にされないので、独 りで愛想笑ひをして座敷を出 た。
「ありや何 だい」
「婆 さんさ。雇 つたんだ。飯 を食 はなくつちやならないから」
「御世辞が好 いね」
代助は赤い唇 の両端 を、少し弓 なりに下 の方へ彎 げて蔑 む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家 から誰 か連 れて呉れば好 いのに。大勢 ゐるだらう」
「みんな若 いの許りでね」と代助は真面目 に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「若 けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角家 の奴 は好 くないよ」
「あの婆 さんの外 に誰 かゐるのかい」
「書生が一人 ゐる」
門野 は何時 の間 にか帰つて、台所 の方で婆さんと話 をしてゐた。
「それ限 りかい」
「それ限 りだ。何故 」
「細君はまだ貰 はないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「妻 を貰つたら、君の所へ通知位 する筈ぢやないか。夫 よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。
二の二
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後 、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力 に為 り合 ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口 にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤 めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、出立 の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直 帰つて来給 へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡 の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家 へ帰つて、一日 部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。嫂 を連れて音楽会へ行く筈 の所を断わつて、大いに嫂 に気を揉ました位である。
平岡からは断えず音信 があつた。安着の端書 、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の来 るたびに、代助は何時 も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書 くときは、何時 でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭 になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来 る場合に限つて、安々 と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
そのうち段々手紙の遣 り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二 月、三 月に跨がる様に間 を置 いて来 ると、今度は手紙を書 かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為 に封筒の糊 を湿 す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭 も胸 も段々組織が変つて来 る様に感ぜられて来 た。此変化に伴 つて、平岡へは手紙を書 いても書 かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。現 に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、此春 年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々 思ひ出 す。さうして今頃は何 うして暮 してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過 して来 た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き上 げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は何分 宜しく頼 むとあつた。此何分宜しく頼 むの頼 むは本当の意味の頼 むか、又は単に辞令上の頼 むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
それで、逢 ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が外 れて容易に其所 へ戻 つて来 ない。折を見て此方 から持ち掛けると、まあ緩 つくり話すとか何とか云つて、中々 埒 を開 けない。代助は仕方 なしに、仕舞に、
「久 し振 りだから、其所 いらで飯 でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何 れ緩 くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上 つた。
二の三
両人 は其所 で大分 飲 んだ。飲 む事 と食 ふ事は昔 の通りだねと言 つたのが始 りで、硬 い舌 が段々 弛 んで来 た。代助は面白さうに、二三日前 自分の観 に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭 が夜 の十二時を相図に、世の中の寐鎮 まる頃を見計 つて始 る。参詣 人が長い廊下を廻 つて本堂へ帰つて来 ると、何時 の間 にか幾千本 の蝋燭が一度 に点 いてゐる。法衣 を着 た坊主が行列して向ふを通るときに、黒 い影 が、無地 の壁 へ非常に大きく映 る。――平岡は頬杖を突 いて、眼鏡 の奥の二重瞼 を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃広 い御成 街道を通 つて、深夜 の鉄軌 が、暗 い中 を真直 に渡 つてゐる上 を、たつた一人 上野 の森 迄来 て、さうして電燈に照らされた花 の中 に這入 つた。
「人気 のない夜桜 は好 いもんだよ」と云つた。平岡は黙 つて盃 を干 したが、一寸 気の毒さうに口元 を動 かして、
「好 いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似 が出来 る間 はまだ気楽なんだよ。世の中 へ出 ると、中々 それ所 ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所 でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた眼 を心持大きくした。
「大分 考へが違 つて来 た様だね。――けれども其苦痛が後 から薬 になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の諺 に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の中 へ出 なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の中 へは昔 から出 てゐるさ。ことに君と分 れてから、大変世の中が広 くなつた様な気がする。たゞ君の出 てゐる世 の中 とは種類が違 ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、何時 でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗 めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の間 に、一寸 不快の色が閃 めいた。赤い眼 を据ゑてぷか/\烟草 を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少 し調子を穏 やかにした。――
「僕の知つたものに、丸で音楽の解 らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯 が食 へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読 をするのと、教場へ出 て器械的に口 を動 かしてゐるより外に全く暇 がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから何所 に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来 やうと聞 に行く機会がない。つまり楽 といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭 に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭 を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡は巻莨 の灰を、皿 の上 にはたきながら、沈 んだ暗 い調子で、
「うん、何時 迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其重 い言葉の足 が、富 に対する一種の呪咀を引 き摺 つてゐる様に聴 えた。
二の四
両人 は酔 つて、戸外 へ出 た。酒 の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「少 し歩 かないか」と代助が誘 つた。平岡も口 程忙 がしくはないと見えて、生返事 をしながら、一所に歩 を運 んで来 た。通 を曲 つて横町へ出 て、成る可 く、話 の為好 い閑 な場所を撰んで行くうちに、何時 か緒口 が付 いて、思ふあたりへ談柄 が落ちた。
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭 の中 に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時 も取り合はなかつた。六 ※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪 い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分 つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖 いからの様に思はれた。其所 に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事 も一度 や二度 ではない。
けれども、時日 を経過するに従つて、肝癪が何時 となく薄らいできて、次第に自分の頭 が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力 めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来 た。時々 は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出 たての平岡でないから、先方 に解 らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺 るのとは違ふが」と平岡はわざ/\断つた。代助は真面目 な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
支店長は平岡の未来 の事に就て、色々 心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中 つてゐるから、其時 は一所に来 給へ抔 と冗談半分に約束迄した。其頃 は事務 にも慣 れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇 が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨 をする様に感ぜられて来 た。
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関 といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所 が此男がある芸妓と関係 つて、何時 の間 にか会計に穴を明 けた。それが曝露 したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放 つて置くと、支店長に迄多少の煩 が及んで来 さうだつたから、其所 で自分が責を引いて辞職を申し出 た。
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上 になればなる程旨 い事が出来 るものでね。実は関 なんて、あれつ許 の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番旨 い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁 して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ金 は何 うした」
「千 に足 らない金 だつたから、僕が出して置 いた」
「よく有 つたね。君も大分旨 い事をしたと見える」
平岡 は苦 い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「旨 い事 をしたと仮定しても、皆 使つて仕舞つてゐる。生活 にさへ足りない位だ。其金は借 りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何 んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低 く明 らかなうちに一種の丸味 が出てゐる。
「支店長から借 りて埋 めて置いた」
「何故 支店長がぢかに其関 とか何とか云ふ男に貸して遣 らないのかな」
平岡 は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人 は無言の儘しばらくの間 並 んで歩 いて行つた。
二の五
代助は平岡 が語 つたより外 に、まだ何 かあるに違 ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有 つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil admirari の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚 する程の山出 ではなかつた。彼 の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅 いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中 で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、何時 でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の初心 と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、洗 ひ浚 ひ自分の弱点を打 ち明 けては、徒 らに馬糞 を投 げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想 を尽 かされるよりは黙 つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が斯 う取 れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言 で歩 いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視 する程度に於て、あるひは其 れ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視 し始 めたのである。けれども両人 が十五六間過 ぎて、又話 を遣 り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は更 になかつた。最初に口 を切つたのは代助であつた。
「それで、是 から先 何 うする積 かね」
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が可 いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は緩 くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。何 うだらう、君 の兄 さんの会社の方に口 はあるまいか」
「うん、頼 んで見様、二三日内 に家 へ行く用があるから。然し何 うかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「夫 も好 いだらう」
両人 は又電車の通る通 へ出 た。平岡は向ふから来 た電車の軒 を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ出 した。代助はさうかと答へた儘、留 めもしない、と云つて直 分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄歩 いて来 た。そこで、
「三千代 さんは何 うした」と聞 いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に宜 しく云つてゐた。実は今日 連 れて来 やうと思つたんだけれども、何だか汽車に揺 れたんで頭 が悪 いといふから宿 屋へ置いて来 た」
電車が二人 の前で留 まつた。平岡は二三歩早足 に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼 の乗るべき車はまだ着 かなかつたのである。
「子供は惜 しい事をしたね」
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好 かつた」
「其後 は何 うだい。まだ後 は出来ないか」
「うん、未 だにも何にも、もう駄目 だらう。身体 があんまり好 くないものだからね」
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で可 いかも知れない」
「夫 もさうさ。一層 君の様に一人身 なら、猶の事、気楽で可 いかも知れない」
「一人身 になるさ」
「冗談云つてら――夫よりか、妻 が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、未 だだらうかつて気にしてゐたぜ」
所へ電車が来 た。
三の一
代助 の父 は長井得 といつて、御維新のとき、戦争に出 た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已 めてから、実業界に這入つて、何 か彼 かしてゐるうちに、自然と金が貯 つて、此十四五年来は大分 の財産家になつた。
誠吾 と云ふ兄 がある。学校を卒業してすぐ、父 の関係してゐる会社へ出 たので、今では其所 で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二人 の子供 が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は縫 といつて三つ違である。
誠吾 の外に姉がまだ一人 あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫 と共に西洋にゐる。誠吾 と此姉の間にもう一人 、それから此姉と代助の間にも、まだ一人 兄弟があつたけれども、それは二人 とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。
代助の一家 は是丈の人数 から出来上 つてゐる。そのうちで外 へ出 てゐるものは、西洋に行つた姉と、近頃 一戸を構へた代助ばかりだから、本家 には大小合せて四人 残る訳になる。
代助は月に一度 は必ず本家 へ金 を貰ひに行く。代助は親 の金 とも、兄 の金ともつかぬものを使 つて生きてゐる。月 に一度の外 にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に調戯 つたり、書生と五目並 をしたり、嫂 と芝居の評をしたりして帰つて来 る。
代助は此嫂 を好 いてゐる。此嫂 は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継 ぎ合 せた様な一種の人物である。わざ/\仏蘭西 にゐる義妹 に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な織物 を取寄せて、それを四五人で裁 つて、帯に仕立てゝ着 て見たり何 かする。後 で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。夫 から西洋の音楽が好 きで、よく代助に誘ひ出されて聞 に行く。さうかと思ふと易断 に非常な興味を有 つてゐる。石龍子 と尾島某 を大いに崇拝する。代助も二三度御相伴 に、俥 で易者 の許 迄食付 いて行つた事がある。
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて時々 球 を投 げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。毎年 夏 の初めに、多くの焼芋 屋が俄然として氷水 屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、氷菓 を食 ふものは誠太郎である。氷菓 がないときには、氷水 で我慢する。さうして得意になつて帰つて来 る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先 へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父 さん誰 か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
縫 といふ娘 は、何か云ふと、好 くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃は□イオリンの稽古に行く。帰つて来 ると、鋸 の目立 ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して遣 らない。室 を締 め切 つて、きい/\云はせるのだから、親 は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が時々 そつと戸を明 けるので、好 くつてよ、知らないわと叱 られる。
兄 は大抵不在勝 である。ことに忙 がしい時になると、家 で食 ふのは朝食 位なもので、あとは、何 うして暮 してゐるのか、二人 の子供には全く分 らない。同程度に於て代助にも分らない。是は分 らない方が好 ましいので、必要のない限 りは、兄 の日々の戸外 生活に就て決して研究しないのである。
代助は二人 の子供に大変人望がある。嫂 にも可 なりある。兄 には、あるんだか、ないんだか分 らない。会 に兄 と弟 が顔を合せると、たゞ浮世 話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で遣 つてゐる。陳腐に慣 れ抜 いた様子である。
三の二
代助の尤 も応 へるのは親爺 である。好 い年 をして、若 い妾 を持 つてゐるが、それは構 はない。代助から云 ふと寧ろ賛成な位なもので、彼 は妾 を置く余裕のないものに限 つて、蓄妾 の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺 は又大分 の八釜 し屋 である。小供のうちは心魂 に徹 して困却した事がある。しかし成人 の今日 では、それにも別段辟易する必要を認 めない。たゞ応 へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大 した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処 した時の心掛 けでもつて、代助も遣 らなくつては、嘘 だといふ論理になる。尤も代助の方では、何 が嘘 ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺 と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已 んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒 つた試 しがない。親爺 はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇 つてゐる。
実際を云ふと親爺 の所謂薫育は、此父子の間 に纏綿する暖 かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺 の腹のなかでは、それが全く反対 に解釈されて仕舞つた。何 をしやうと血肉 の親子 である。子が親 に対する天賦の情合 が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈 がない。教育の為 め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺 は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺 は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子 を作り上 げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来 て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生 れ落ちるや否や、此親爺 が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
親爺 は戦争に出 たのを頗る自慢にする。稍 もすると、御前 抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据 らなくつて不可 んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間 至上な能力であるかの如き言草 である。代助はこれを聞 かせられるたんびに厭 な心持がする。胆力は命 の遣 り取 りの劇 しい、親爺 の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類 と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父 さんから又胆力の講釈を聞いた。御父 さんの様に云ふと、世の中 で石地蔵が一番偉 いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂 と笑つた事がある。
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心 から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺 の使嗾で、夜中 にわざ/\青山 の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家 へ帰つて来 た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝 親爺 に笑はれたときは、親爺 が憎 らしかつた。親爺 の云ふ所によると、彼 と同時代の少年は、胆力修養の為 め、夜半 に結束 して、たつた一人 、御城 の北 一里にある剣 が峰 の天頂 迄登 つて、其所 の辻堂で夜明 をして、日の出 を拝 んで帰 つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方 からして違ふと親爺が批評した。
斯んな事を真面目 に口 にした、又今でも口 にしかねまじき親爺 は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌 である。瞬間の動揺でも胸 に波 が打 つ。あるときは書斎で凝 と坐 つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来 るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷 いてゐる坐蒲団も、畳 も、乃至床 板も明らかに震 へる様に思はれる。彼 はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺 の如きは、神経未熟 の野人か、然らずんば己 れを偽 はる愚者としか代助には受け取れないのである。
三の三
代助は今 此 親爺 と対坐してゐる。廂 の長い小 さな部屋なので、居 ながら庭 を見ると、廂 の先 で庭 が仕切 られた様な感がある。少 なくとも空 は広 く見えない。其代り静 かで、落ち付いて、尻 の据 り具合が好 い。
親爺 は刻 み烟草 を吹 かすので、手 のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々 灰吹 をぽん/\と叩 く。それが静かな庭 へ響いて好 い音 がする。代助の方は金 の吸口 を四五本手烙 の中 へ並 べた。もう鼻 から烟 を出すのが厭 になつたので、腕組 をして親爺 の顔 を眺 めてゐる。其顔 には年 の割に肉 が多い。それでゐて頬 は痩 けてゐる。濃 い眉 の下 に眼 の皮 が弛 んで見える。髭 は真白 と云はんよりは、寧ろ黄色 である。さうして、話 をするときに相手 の膝頭 と顔 とを半々 に見較べる癖 がある。其時の眼 の動 かし方 で、白眼 が一寸 ちらついて、相手 に妙な心持 をさせる。
老人 は今 斯んな事を云つてゐる。――
「さう人間 は自分丈を考へるべきではない。世の中 もある。国家もある。少しは人 の為 に何 かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の好 い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出 るものだからな」
「左様 です」と代助は答へてゐる。親爺 から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺 の考は、万事中途半端 に、或物 を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時 の間 にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談 である。それを基礎から打ち崩して懸 かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく触 らない様にしてゐる。所が親爺 の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来 る。そこで代助も已を得ず親爺 といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
「それは実業が厭 なら厭 で好 い。何も金 を儲ける丈が日本の為 になるとも限るまいから。金 は取 らんでも構 はない。金 の為 に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。金 は今迄通り己 が補助して遣 る。おれも、もう何時 死 ぬか分 らないし、死 にや金 を持つて行く訳にも行 かないし。月々 御前の生計 位どうでもしてやる。だから奮発して何か為 るが好 い。国民の義務としてするが好 い。もう三十だらう」
「左様 です」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして居 るとは思はない。たゞ職業の為 に汚 されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。親爺 が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺 の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日 を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出 してゐるのが、全く映 らないのである。仕方がないから、真面目 な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。老人 は頭 から代助を小僧視してゐる上 に、其返事が何時 でも幼気 を失はない、簡単な、世帯離 れをした文句だものだから、馬鹿 にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付 かず尋常極まつてゐるので、此奴 は手の付け様がないといふ気にもなる。
三の四
「身体 は丈夫だね」
「二三年このかた風邪 を引 いた事 もありません」
「頭 も悪 い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可 なりだつたんぢやないか」
「まあ左様 です」
「夫 で遊 んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前 の所へ善 く話しに来 た男があるだらう。己 も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可 い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処 かへ行つたぢやないか」
「其代り失敗 て、もう帰 つて来 ました」
老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「詰 り食 ふ為 に働 らくからでせう」
老人には此意味が善 く解 らなかつた。
「何 か面白くない事でも遣 つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗 になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易 へて、説き出した。
「若い人がよく失敗 といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己 も多年の経験で、此年 になる迄遣 つて来 たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、先 ないな」
親爺 の頭 の上 に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺 は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後 へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀 を脱いで其前に頭 を下 げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返 せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額 を藩主に書 いて貰 つたんである。爾来長井は何時 でも、之を自分の居間 に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞 かされたか知れない。
今から十五六年前に、旧藩主の家 で、月々 の支出が嵩 んできて、折角持ち直した経済が又崩 れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪 を焚いて見 て、実際の消費高 と帳面づらの消費高 との差違から調 べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計 をしてゐる。
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何 によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何 う云ふ訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合 の奴 を胸に蓄 はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花 の出 る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人 の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪 くつては起 り様がない。
「御父 さんは論語だの、王陽明だのといふ、金 の延金 を呑 んで入らつしやるから、左様 いふ事を仰しやるんでせう」
「金 の延金 とは」
代助はしばらく黙 つてゐたが、漸やく、
「延金 の儘出 て来 るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
三の五
それから約四十分程して、老人は着物 を着換 えて、袴 を穿 いて、俥 に乗 つて、何処 かへ出 て行 つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間 の戸を開けて中 へ這入 つた。是 は近頃 になつて建 て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本 づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間 の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼 んで、色々相談の揚句 に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物 を展開 した様な、横長 の色彩 を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前 来 て見た時よりは、痛 く見劣りがする。是では頼 もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼 を付 けて吟味してゐると、突然嫂 が這入つて来た。
「おや、此所 に入 らつしやるの」と云つたが、「一寸 其所 らに私 の櫛 が落ちて居 なくつて」と聞いた。櫛 は長椅子 の足 の所 にあつた。昨日 縫子 に貸 して遣 つたら、何所 かへ失 なして仕舞つたんで、探 しに来 たんださうである。両手で頭 を抑へる様にして、櫛 を束髪の根方 へ押し付けて、上眼 で代助を見ながら、
「相変らず茫乎 してるぢやありませんか」と調戯 つた。
「御父 さんから御談義を聞 かされちまつた」
「また? 能く叱 られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方 もあんまり、好 かないわ。些とも御父 さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父 さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪 いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、些 とも云ふ事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して黙 つて仕舞つた。梅子 は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊 のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃 い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛 けなさい。少し話し相手になつて上 げるから」
代助は矢っ張り立つた儘、嫂 の姿 を見守つてゐた。
「今日 は妙な半襟 を掛けてますね」
「これ?」
梅子は顎 を縮 めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「此間 買つたの」
「好 い色だ」
「まあ、そんな事は、何 うでも可 いから、其所 へ御掛 けなさいよ」
代助は嫂 の真 正面へ腰を卸した。
「へえ掛 けました」
「一体 今日 は何を叱 られたんです」
「何を叱 られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父 さんの国家社会の為 に尽すには驚ろいた。何でも十八の年 から今日迄 のべつに尽 してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に尽 して、金 が御父 さん位儲かるなら、僕も尽 しても好 い」
「だから遊んでないで、御尽 しなさいな。貴方 は寐てゐて御金 を取 らうとするから狡猾よ」
「御金 を取らうとした事は、まだ有 りません」
「取 らうとしなくつても、使 ふから同 じぢやありませんか」
「兄 さんが何 とか云つてましたか」
「兄 さんは呆 れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父 さんより兄 さんの方が偉 いですね」
「何 うして。――あら悪 らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方 はそれが悪 いのよ。真面目 な顔をして他 を茶化すから」
「左様 なもんでせうか」
「左様 なもんでせうかつて、他 の事ぢやあるまいし。少 しや考へて御覧なさいな」
「何 うも此所 へ来 ると、丸で門野 と同 じ様になつちまふから困 る」
「門野 つて何 です」
「なに宅 にゐる書生ですがね。人 に何か云はれると、屹度左様 なもんでせうか、とか、左様 でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
三の六
代助は一寸 話 を已 めて、梅子 の肩越 に、窓掛 の間 から、奇麗な空 を透 かす様に見てゐた。遠くに大きな樹 が一本ある。薄茶色 の芽 を全体に吹いて、柔 らかい梢 の端 が天 に接 く所は、糠雨 で暈 されたかの如くに霞 んでゐる。
「好 い気候になりましたね。何所 か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰 しやい」
「何 を」
「御父 さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立 てて繰 り返 すのは困るですよ。頭 が悪 いんだから」
「まだ空 つとぼけて居 らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺 ひませうか」
梅子は少しつんとした。
「貴方 は近頃余つ程減 らず口 が達者におなりね」
「何 、姉 さんが辟易する程ぢやない。――時に今日 は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
十六七の小間使 が戸 を開 けて顔 を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸 電話口 迄と取り次 いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間 を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所 に居 らつしやい。少し話しがあるから」
代助には嫂 のかう云ふ命令的の言葉が何時 でも面白く感ぜられる。御緩 と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出 した。しばらくすると、其色が壁 の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球 の中 から飛び出して、壁 の上 へ行つて、べた/\喰 つ付 く様に見えて来 た。仕舞には眼球 から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方 の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手 な個所々々を悉く塗り更 へて、とう/\自分の想像し得 る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐 つてゐた。所へ梅子 が帰つて来 たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何 づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好 い逃 口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂 々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口 と顎 の角度が悪 いとか、眼 の長さが顔の幅 に比例しないとか、耳の位置が間違 つてるとか、必ず妙な非難を持つて来 る。それが悉く尋常な言草 でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困 らせるのだらう。当分打遣 つて置いて、向ふから頼み出させるに若 くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口 にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮 して来 た。
其所 へ親爺 が甚だ因念の深 いある候補者を見付けて、旅行先 から帰つた。梅子は代助の来 る二三日前に、其話を親爺 から聞かされたので、今日 の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日 何にも聞 かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意 と話題を避けたとも取れる。
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有 つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故 その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
三の七
代助の父 には一人 の兄 があつた。直記 と云つて、父 とはたつた一つ違ひの年上 だが、父 よりは小柄 なうへに、顔付 眼鼻立 が非常に似 てゐたものだから、知らない人には往々双子 と間違へられた。其折は父も得 とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通 つてゐた。
直記 と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質 も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食 つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火 を分つた位親 しかつた。
丁度直記 の十八の秋 であつた。ある時二人 は城下外 の等覚寺といふ寺へ親 の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、二人 の親 とは昵近 なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留 められて、色々話してゐるうちに遅 くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中 は大分雑沓してゐた。二人 は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角 で、川向ひの方限 りの某 といふものに突き当つた。此某 と二人 とは、かねてから仲 が悪 かつた。其時某 は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言 いひ争ふうちに刀 を抜 いて、いきなり斬り付 けた。斬り付 けられた方は兄 であつた。已を得ず是も腰の物を抜 いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙 つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人 で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
其頃 の習慣として、侍 が侍 を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家 へ帰つて来 た。父 も二人 を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母 が生憎祭 で知己 の家 へ呼 ばれて留守である。父は二人 に切腹をさせる前、もう一遍母 に逢 はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母 を迎にやつた。さうして母の来 る間 、二人 に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
母 の客に行つてゐた所は、その遠縁 にあたる高木 といふ勢力家であつたので、大変都合が好 かつた。と云ふのは、其頃は世の中 の動 き掛けた当時で、侍 の掟 も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家 へ来 て、何分の沙汰が公向 からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭 した。
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某 の親 は又、存外訳の解 つた人で、平生から倅 の行跡 の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方 から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間 の内 に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人 とも人 知れず家 を捨 てた。
三年の後兄 は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得 といふ一字名 になつた。其時は自分の命 を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人 あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入 つた。其所 を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁 に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。私 驚ろいちまつた」と嫂 が代助に云つた。
「御父 さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、何時 もは御嫁 の話 が出 ないから、好 い加減に聞いてるのよ」
「佐川 にそんな娘があつたのかな。僕も些 つとも知らなかつた」
「御貰 なさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰 ひ好 い様だな」
「おや、左様 なのがあるの」
代助は苦笑して答へなかつた。
四の一
代助は今読み切 つた許 の薄 い洋書を机の上に開 けた儘、両肱 を突 いて茫乎 考へた。代助の頭 は最後の幕 で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒 さうな樹が立つてゐる後 に、二つの小さな角燈が音 もなく揺 めいて見えた。絞首台は其所 にある。刑人は暗 い所に立つた。木履 を片足 失 くなした、寒 いと一人 が云ふと、何 を? と一人 が聞き直 した。木履 を失 くなして寒いと前 のものが同じ事を繰り返した。Mは何処 にゐると誰 か聞いた。此所 にゐると誰 か答へた。樹 の間 に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿 つぽい風 が其所 から吹いて来 る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を書 いた紙 と、宣告文を持つた、白い手――手套 を穿 めない――を角燈が照 らした。読上 げんでも可 からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只 一人 になつたとKが云つた。さうして溜息 を吐 いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。只 一人 になつて仕舞つた。……
海から日 が上 つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた頸 、飛び出 した眼 、唇 の上 に咲いた、怖ろしい花の様な血の泡 に濡 れた舌 を積み込んで元 の路へ引き返した。……
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、此所 迄頭 の中 で繰り返して見て、竦 と肩 を縮 めた。斯 う云ふ時に、彼 が尤も痛切に感 ずるのは、万一自分がこんな場に臨 んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、如何 にも残酷である。彼は生 の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練 に両方に往つたり来 たりする苦悶を心に描 き出しながら凝 と坐 つてゐると、脊中 一面 の皮 が毛穴 ごとにむづ/\して殆 んど堪 らなくなる。
彼 の父 は十七のとき、家中 の一人 を斬り殺して、それが為 め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語 つてゐる。父 の考では兄 の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父 に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。父 が過去を語 る度 に、代助は父 をえらいと思ふより、不愉快な人間 だと思ふ。さうでなければ嘘吐 だと思ふ。嘘吐 の方がまだ余っ程父 らしい気がする。
父許 ではない。祖父 に就ても、こんな話がある。祖父 が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、他 の嫉妬 を受けて、ある夜縄手道 を城下へ帰る途中で、誰 かに斬り殺された。其時第一に馳け付 けたものは祖父 であつた。左の手に提灯を翳 して、右の手に抜身 を持つて、其抜身 で死骸 を叩きながら、軍平 確 かりしろ、創 は浅 いぞと云つたさうである。
伯父 が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや/\と、旅宿 に踏み込まれて、伯父は二階の廂 から飛び下 りる途端、庭石に爪付 いて倒れる所を上 から、容赦なく遣 られた為に、顔が膾 の様になつたさうである。殺される十日程 前、夜中 、合羽 を着 て、傘 に雪を除 けながら、足駄 がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時旅宿 の二丁程手前で、突然 後 から長井直記 どのと呼び懸けられた。伯父 は振り向きもせず、矢張り傘 を差 した儘、旅宿 の戸口 迄来 て、格子 を開 けて中 へ這入 た。さうして格子をぴしやりと締 めて、中 から、長井直記 は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く度 に、勇 ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立 つ。度胸を買つてやる前に、腥 ぐさい臭 が鼻柱 を抜ける様に応 へる。
もし死が可能であるならば、それは発作 の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作 性の男でない。手も顫 へる、足も顫 へる。声の顫 へる事や、心臓の飛び上 がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死 に易くなるのは眼 に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見 たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違 つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
四の二
代助は机の上の書物を伏せると立ち上 がつた。縁側 の硝子戸 を細目 に開 けた間 から暖 かい陽気な風が吹き込んで来 た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣 をふら/\と揺 かした。日 は大きな花の上 に落ちてゐる。代助は曲 んで、花の中 を覗 き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊 の頂 きから、花粉 を取つて、雌蕊 の先 へ持つて来 て、丹念 に塗 り付 けた。
「蟻 でも付 きましたか」と門野 が玄関の方から出 て来 た。袴 を穿 いてゐる。代助は曲 んだ儘顔を上 げた。
「もう行 つて来 たの」
「えゝ、行 つて来 ました。何 ださうです。明日 御引移 りになるさうです。今日 是から上 がらうと思つてた所だと仰 しやいました」
「誰 が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも何 ですな。大分御忙 がしい様ですな。先生た余つ程違 つてますね。――蟻なら種油 を御注 ぎなさい。さうして苦 しがつて、穴から出 て来 る所を一々 殺すんです。何なら殺 しませうか」
「蟻ぢやない。斯 うして、天気の好 い時に、花粉を取 つて、雌蕊 へ塗り付 けて置くと、今に実 が結 るんです。暇 だから植木屋から聞 いた通り、遣 つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中 になりましたね。――然し盆栽は好 いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は面倒臭 いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯 も好加減 に休 すかな」と云ひながら立ち上 がつて、縁側へ据付 の、籐 の安楽椅子 に腰を掛けた。夫れ限 りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野 は詰 らなくなつたから、自分の玄関傍 の三畳敷 へ引き取つた。障子 を開 けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返 された。
「平岡が今日 来 ると云つたつて」
「えゝ、来 る様な御話しでした」
「ぢや待 つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間 から大分気に掛 つてゐる。
平岡は此前 、代助を訪問した当時、既 に落ち付 いてゐられない身分であつた。彼 自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿 を訪 ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居 つた。が、洋服を着 た儘、部屋 の敷居 の上に立つて、何 か急 しい調子で、細君を極 め付 けてゐた。――案内なしに廊下を伝 つて、平岡の部屋の横 へ出 た代助には、突然ながら、たしかに左様 取れた。其時平岡は一寸 振り向 いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快 よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内 から顔を出した細君は代助を見て、蒼白 い頬 をぽつと赤くした。代助は何となく席に就 き悪 くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何 うしてゐるかと思つて一寸 来 て見た丈だ。出掛 けるなら一所に出様 と、此方 から誘ふ様にして表 へ出 て仕舞つた。
其時平岡は、早く家 を探 して落ち付きたいが、あんまり忙 しいんで、何 うする事も出来ない、たまに宿 のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退 かなかつたり、あるひは今壁 を塗 つてる最中 だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家 は、宅 の書生に探 させやう。なに不景気だから、大分空 いてるのがある筈だ。と請合 つて帰つた。
夫 から約束通り門野 を探 しに出 した。出 すや否や、門野はすぐ恰好 なのを見付けて来 た。門野 に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可 からうと云ふ事で分 れたさうだが、門野 は家主 の方へ責任もあるし、又其所 が気に入らなければ外 を探 す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然 した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主 の方へは借 りるつて、断わつて来 たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄 つて、明日 引越すからつて、云つて来 ました」
四の三
代助は椅子に腰 を掛 けた儘、新 らしく二度の世帯 を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼 の経歴は処世の階子段 を一二段で踏 み外 したと同じ事である。まだ高い所へ上 つてゐなかつた丈が、幸 と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼 に映ずる程、身体 に打撲 を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様 思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算 して見て、或は此方 の心 が向 に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後 平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外 へ出 た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻 らなければならなくなつた。平岡は其時顔 の中心 に一種の神経を寄せてゐた。風 が吹 いても、砂 が飛 んでも、強い刺激を受けさうな眉 と眉 の継目 を、憚 らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口 にする事 が、内容の如何に関はらず、如何にも急 しなく、且つ切 なさうに、代助の耳 に響 いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦 しい葛湯 の中 を片息 で泳 いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦 つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿 を見送つた代助は、口 の内 でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を捕 まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時 でも三千代 さん/\と、結婚しない前の通りに、本名 を呼 んでゐる。代助は平岡に分 れてから又引き返して、旅宿 へ行つて、三千代 さんに逢つて話 しをしやうかと思つた。けれども、何 だか行 けなかつた。足 を停 めて思案 しても、今の自分には、行くのが悪 いと云ふ意味はちつとも見出 せなかつた。けれども、気 が咎 めて行 かれなかつた。勇気を出 せば行 かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫 で家 へ帰つた。其代り帰つても、落 ち付 かない様な、物足 らない様な、妙な心持がした。ので、又外 へ出 て酒を飲 んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何 うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚 りながら、比較的冷 やかな自己で、自己の影を批判した。
「何 か御用ですか」と門野 が又出 て来 た。袴 を脱 いで、足袋 を脱 いで、団子 の様な素足 を出 してゐる。代助は黙 つて門野 の顔 を見た。門野 も代助の顔を見て、一寸 の間 突立 つてゐた。
「おや、御呼 になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段可笑 しいとも思はなかつた。
「小母 さん、御呼 びになつたんぢやないとさ。何 うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間 の方で聞 えた。夫から門野 と婆 さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が来 た。取次 に出 た門野 は意外な顔をして這入つて来 た。さうして、其顔を代助の傍 迄持つて来 て、先生、奥さんですと囁 やく様に云つた。代助は黙 つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
四の四
平岡の細君は、色の白い割に髪 の黒い、細面 に眉毛 の判然 映 る女である。一寸 見ると何所 となく淋 しい感じの起る所が、古版 の浮世絵に似てゐる。帰京後は色光沢 がことに可 くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少 し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左様 ぢやない、始終斯 うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代 は東京を出 て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、何 うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て貰 つたら、能 くは分 らないが、ことに依 ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左様 だとすれば、心臓から動脈へ出 る血 が、少しづゝ、後戻 りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した所為 か、一年許りするうちに、好 い案排 に、元気が滅切 りよくなつた。色光沢 も殆んど元 の様に冴々 して見える日が多いので、当人も喜 こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又血色 が悪くなり出 した。然し医者の話によると、今度のは心臓の為 ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは悪 くなつてゐない。弁 の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。――是は三千代が直 に代助に話 した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の為 ぢやないかしらと思つた。
三千代 は美 くしい線 を奇麗に重ねた鮮 かな二重瞼 を持つてゐる。眼 の恰好は細長い方であるが、瞳 を据ゑて凝 と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を黒眼 の働らきと判断してゐた。三千代 が細君にならない前、代助はよく、三千代 の斯 う云ふ眼遣 を見た。さうして今でも善 く覚えてゐる。三千代 の顔を頭 の中 に浮 べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来上 らないうちに、此黒 い、湿 んだ様に暈 された眼 が、ぽつと出 て来 る。
廊下伝ひに坐敷へ案内された三千代 は今代助の前に腰 を掛けた。さうして奇麗な手を膝 の上 に畳 ねた。下 にした手にも指輪 を穿 めてゐる。上 にした手にも指輪 を穿 めてゐる。上 のは細い金 の枠 に比較的大きな真珠 を盛 つた当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
三千代 は顔 を上 げた。代助は、突然 例の眼 を認 めて、思はず瞬 を一つした。
汽車で着いた明日 平岡と一所に来 る筈であつたけれども、つい気分が悪 いので、来損 なつて仕舞つて、それからは一人 でなくつては来 る機会がないので、つい出 ずにゐたが、今日 は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間来 て呉れた時は、平岡が出掛際 だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な詫 をして、
「待 つてゐらつしやれば可 かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も是 は此女の持 調子で、代助は却つて其昔を憶 ひ出 した。
「だつて、大変忙 しさうだつたから」
「えゝ、忙 しい事は忙 しいんですけれども――好 いぢやありませんか。居 らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例 なら調戯 半分に、あなたは何か叱 られて、顔 を赤くしてゐましたね、どんな悪 い事をしたんですか位言ひかねない間柄 なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後 から其場 を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸 出 なかつた。
四の五
代助は烟草 へ火 を点 けて、吸口 を啣 へた儘、椅子の脊 に頭 を持 たせて、寛 ろいだ様に、
「久し振 りだから、何か御馳走しませうか」と聞 いた。さうして心 のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「今日 は沢山 。さう緩 りしちやゐられないの」と云つて、昔 の金歯 を一寸 見せた。
「まあ、可 いでせう」
代助は両手を頭 の後 へ持 つて行つて、指 と指 を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の間 から小さな時計を出 した。代助が真珠の指輪を此女に贈 ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣 つたのである。代助は、一つ店 で別々 の品物 を買つた後 、平岡と連 れ立 つて其所 の敷居 を跨 ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り道 をしてゐたものだから」
と独り言 の様に説明を加へた。
「そんなに急 ぐんですか」
「えゝ、成 り丈 早く帰りたいの」
代助は頭 から手 を放 して、烟草 の灰をはたき落した。
「三年 のうちに大分 世帯染 ちまつた。仕方 がない」
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何処 かに苦 い所があつた。
「あら、だつて、明日 引越 すんぢやありませんか」
三千代 の声は、此時 急に生々 と聞 えた。代助は引越 の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや引越 してから緩 くり来 れば可 いのに」
代助は相手の快 よささうな調子に釣り込まれて、此方 からも他愛 なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額 の所へあらはして、一寸 下 を見たが、やがて頬 を上 げた。それが薄赤く染 まつて居た。
「実 は私 少し御願 があつて上 がつたの」
疳 の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識 の下 で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し御金 の工面 が出来 なくつて?」
三千代の言葉 は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬 は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥 づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、明日 引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為 めの金 が入用なのではなかつた。支店の方を引き上 げる時、向ふへ置き去 りにして来 た借金が三口 とかあるうちで、其一口 を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着 いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅 い約束をして来 た上 に、少し訳があつて、他 の様に放 つて置 けない性質 のものだから、平岡も着 いた明日 から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄 したと云ふ事が分 つた。
「支店長から借りたと云ふ奴 ですか」
「いゝえ。其方 は何時 迄延ばして置いても構はないんですが、此方 の方を何 うかしないと困るのよ。東京で運動する方に響 いて来 るんだから」
代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高 を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の中 で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金 に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
「何 でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから私 考へると厭 になるのよ。私 も病気をしたのが、悪 いには悪 いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。薬代 なんか知れたもんですわ」
三千代は夫 以上を語 らなかつた。代助も夫 以上を聞く勇気がなかつた。たゞ蒼白 い三千代の顔を眺めて、その中 に、漠然たる未来の不安を感じた。
五の一
翌日 朝 早 く門野 は荷車 を三台雇 つて、新橋の停車場 迄平岡の荷物 を受取 りに行 つた。実は疾 うから着 いて居たのであるけれども、宅 がまだ極 らないので、今日 迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何 うしても半日仕事である。早く行かなけりや、間 に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野 は例の調子で、なに訳 はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅 へ届 けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時過 迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家 の部屋 を、青色 と赤色 に分 つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外 ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は何故 ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤 の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好 い心持はしない。出来得るならば、自分の頭 丈でも可 いから、緑 のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画 いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好 い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
代助は縁側へ出て、庭 から先 にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽 若葉 の初期である。はなやかな緑 がぱつと顔 に吹き付けた様な心持ちがした。眼 を醒 す刺激の底 に何所 か沈 んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打 帽を被 つて、銘仙 の不断着 の儘門 を出 た。
平岡の新宅へ来て見ると、門 が開 いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着 いた様子もなければ、平岡夫婦の来 てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人 縁側に腰を懸 けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻 一返御出 になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過 だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に来 たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着 くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ出 た。
神田へ来 たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども二人 の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので一寸 顔 を出 した。夫婦は膳 を並 べて飯 を食 つてゐた。下女 が盆 を持 つて、敷居に尻 を向けてゐる。其後 から、声を懸けた。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。其眼 が血ばしつてゐる。二三日能 く眠 らない所為 だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ方 だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。留 めるのを外 へ出 て、飯 を食つて、髪 を刈つて、九段の上 へ一寸 寄つて、又帰りに新宅 へ行つて見た。三千代は手拭を姉 さん被 りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、襷 がけで荷物の世話を焼 いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も来 てゐる。平岡は縁側で行李の紐 を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手伝 はないかと云つた。門野 は袴を脱 いで、尻 を端折つて、重 ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ抱 へ込みながら、先生どうです、此服装 は、笑 つちや不可 ませんよと云つた。
五の二
翌日 、代助が朝食 の膳 に向 つて、例の如く紅茶を呑 んでゐると、門野 が、洗 ひ立 ての顔 を光 らして茶の間 へ這入つて来 た。
「昨夕 は何時 御帰 りでした。つい疲 れちまつて、仮寐 をしてゐたものだから、些 とも気が付きませんでした。――寐 てゐる所を御覧になつたんですか、先生も随分人 が悪 いな。全体何時頃 なんです、御帰りになつたのは。夫迄 何所 へ行 つて居 らしつた」と平生 の調子で苦 もなく※舌 [#「口+堯」、71-2]り立てた。代助は真面目 で、
「君、すつかり片付迄 居 て呉 れたんでせうね」と聞いた。
「えゝ、すつかり片付 けちまいました。其代り、何 うも骨 が折れましたぜ。何 しろ、我々の引越 と違 つて、大きな物が色々 あるんだから。奥 さんが坐敷 の真中 へ立 つて、茫然 、斯 う周囲 を見回 してゐた様子 つたら、――随分可笑 なもんでした」
「少 し身体 の具合が悪 いんだからね」
「どうも左様 らしいですね。色 が何 だか可 くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の体格は好 いですね。昨夕 一所に湯 に入つて驚ろいた」
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本書 いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人宛 で、先達 て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る姉婿 宛で、タナグラの安いのを見付 けて呉れといふ依頼である。
昼過 散歩の出掛 けに、門野 の室 を覗 いたら又引繰 り返つて、ぐう/\寐てゐた。代助は門野 の無邪気な鼻の穴を見て羨ましくなつた。実を云ふと、自分は昨夕 寐 つかれないで大変難義したのである。例に依 つて、枕 の傍 へ置 いた袂 時計が、大変大きな音 を出 す。夫 が気になつたので、手を延 ばして、時計を枕 の下 へ押し込んだ。けれども音 は依然として頭 の中 へ響 いて来 る。其音 を聞 きながら、つい、うと/\する間 に、凡ての外 の意識は、全く暗窖 の裡 に降下 した。が、たゞ独り夜 を縫 ふミシンの針 丈が刻 み足に頭 の中 を断 えず通 つてゐた事を自覚してゐた。所が其音 が何時 かりん/\といふ虫の音 に変つて、奇麗な玄関の傍 の植込 みの奥で鳴いてゐる様になつた。――代助は昨夕 の夢を此所 迄辿 つて来 て、睡眠 と覚醒 との間 を繋 ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。
代助は、何事によらず一度 気にかゝり出 すと、何処 迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿気 さ加減の程度を明らかに見積 る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり方 が猶眼 に付いてならない。三四年前、平生の自分が如何 にして夢 に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。夜 、蒲団へ這入つて、好 い案排にうと/\し掛けると、あゝ此所 だ、斯 うして眠 るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に眼 が冴 えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所 だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰 り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく/″\自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、暗闇 を検査する為 に蝋燭を点 したり、独楽 の運動を吟味する為 に独楽 を抑 へる様なもので、生涯寐 られつこない訳になる。と解 つてゐるが晩 になると又はつと思ふ。
此困難は約一年許りで何時 の間 にか漸く遠退 いた。代助は昨夕 の夢 と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正気の自己 の一部分を切り放 して、其儘の姿 として、知らぬ間 に夢の中 へ譲 り渡す方が趣 があると思つたからである。同時に、此作用は気狂 になる時の状態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂しないから気狂 にはなれないと信じてゐたのである。
五の三
それから二三日は、代助も門野 も平岡の消息を聞 かずに過 ごした。四日目 の午過 に代助は麻布 のある家 へ園遊会に呼ばれて行 つた。御客は男女を合せて、大分 来 たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは中 々の美人で、日本抔へ来 るには勿体ない位な容色だが、何処 で買つたものか、岐阜 出来 の絵日傘 を得意に差 してゐた。
尤も其日は大変な好 い天気で、広い芝生の上 にフロツクで立つてゐると、もう夏 が来 たといふ感じが、肩 から脊中 へ掛けて著 るしく起 つた位、空 が真蒼 に透 き通 つてゐた。英国の紳士は顔 をしかめて空 を見 て、実 に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと答 へた。非常に疳 の高 い声で尤も力を入れた挨拶の仕様であつたので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた。
代助も二言三言 此細君から話 しかけられた。が三分 と経 たないうちに、遣 り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を着 て、わざと島田に結 つた令嬢と、長らく紐育 で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を喋舌 る天才を以て自ら任ずる男で、欠 かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を遣 つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの楽 みにしてゐる。何か云つては、あとでさも可笑 しさうに、げら/\笑 ふ癖 がある。英国人が時によると怪訝 な顔 をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら可 からうと思つた。令嬢も中々旨 い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく/″\感心して聞いてゐた。
代助が此所 へ呼ばれたのは、個人的に此所 の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の父 と兄 との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ行 つて、好い加減に頭 を下 げて、ぶら/\してゐた。其中 に兄 も居 た。
「やあ、来 たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。
「何 うも、好 い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
代助も脊の低 い方ではないが、兄 は一層高 く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して来 たので、中々 立派に見える。
「何 うです、彼方 へ行 つて、ちと外国人と話 でもしちや」
「いや、真平 だ」と云つて兄 は苦笑 ひをした。さうして大きな腹 にぶら下 がつてゐる金鎖 を指 の先 で弄 つた。
「何 うも外国人は調子が可 いですね。少 し可 すぎる位だ。あゝ賞 められると、天気の方でも是非好 くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を賞 めてゐたのかい。へえ。少し暑過 ぎるぢやないか」
「私 にも暑過 ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い手巾 を出 して額 を拭 いた。両人 共重 い絹帽 を被 つてゐる。
兄弟は芝生の外 れの木蔭 迄来 て留 つた。近所には誰 もゐない。向ふの方で余興か何 か始まつてゐる。それを、誠吾は、宅 にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「兄 の様になると、宅 にゐても、客に来 ても同じ心持ちなんだらう。斯 う世の中 に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、詰 らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
「今日 は御父 さんは何 うしました」
「御父 さんは詩 の会 だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少可笑 しかつた。
「姉 さんは」
「御客の接待掛りだ」
また嫂 が後 で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又可笑 しくなつた。
五の四
代助は、誠吾の始終忙 しがつてゐる様子を知つてゐる。又その忙 しさの過半は、斯 う云ふ会合から出来上 がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に厭 な顔 もせず、一口 の不平も零 さず、不規則に酒を飲んだり、物 を食 つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時 見ても疲 れた態 もなく、噪 ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ上 つたり、晩餐に出 たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を出 して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、斯 う云ふ生活に慣 れ抜 いて、海月 が海 に漂 ひながら、塩水 を辛 く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
其所 が代助には難有い。と云ふのは、誠吾は父 と異 つて、嘗て小六※[#小書き濁点付き平仮名つ、77-6]かしい説法抔を代助に向つて遣 つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ許 も口 にしないんだから、有 んだか、無 いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを積極的 に打 ち壊 して懸 つた試 もない。実に平凡で好 い。
だが面白くはない。話し相手としては、兄 よりも嫂 の方が、代助に取つて遥かに興味がある。兄 に逢ふと屹度何 うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の船底 に大蛇 が飼 つてあつた、誰 が鉄道で轢 かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事許 である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄経 つても種 が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。今 日本 の小説家では誰 が一番偉 いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし易 い。
斯 う云ふ兄 と差し向 ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、灰汁 がなくつて、気楽で好 い。たゞ朝から晩迄出歩 いてゐるから滅多に捕 まへる事が出来 ない。嫂 でも、誠太郎でも、縫子でも、兄 が終日 宅 に居て、三度の食事を家族と共に欠 かさず食 ふと、却つて珍 らしがる位である。
だから木蔭 に立つて、兄 と肩 を比 べた時 、代助は丁度好 い機会だと思つた。
「兄 さん、貴方 に少し話 があるんだが。何時 か暇 はありませんか」
「暇 」と繰り返 した誠吾は、何 にも説明せずに笑つて見せた。
「明日 の朝 は何 うです」
「明日 の朝 は浜 迄行 つて来 なくつちやならない」
「午 からは」
「午 からは、会社の方に居る事はゐるが、少 し相談があるから、来 ても緩 くり話 しちやゐられない」
「ぢや晩 なら宜 からう」
「晩 は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日 の晩 帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
代助は口 を尖 がらかして、兄 を凝 と見た。さうして二人 で笑ひ出した。
「そんなに急 ぐなら、今日 ぢや、何 うだ。今日 なら可 い。久し振 りで一所に飯 でも食 はうか」
代助は賛成した。所が倶楽部 へでも行 くかと思ひの外 、誠吾は鰻 が可 からうと云ひ出した。
「絹帽 で鰻 屋へ行くのは始 てだな」と代助は逡巡した。
「何 構 ふものか」
二人 は園遊会を辞して、車 に乗つて、金杉橋 の袂 にある鰻屋 へ上 つた。
五の五
其所 は河 が流れて、柳 があつて、古風な家 であつた。黒 くなつた床柱 の傍 の違 ひ棚 に、絹帽 を引繰返 しに、二つ並 べて置いて見て、代助は妙だなと云 つた。然し明 け放 した二階の間 に、たつた二人 で胡坐 をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽 であつた。
二人 は好 い心持 に酒を飲 んだ。兄 は飲 んで、食 つて、世間話 をすれば其外 に用はないと云ふ態度 であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘 れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛 つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間三千代 から頼 まれた金策の件である。
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過 ぎて、其尻を兄 になすり付けた覚はある。其時兄 は叱るかと思ひの外 、さうか、困り者だな、親爺 には内々で置けと云つて嫂 を通 して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口 の小言 も云はなかつた。代助は其時から、兄 に恐縮して仕舞つた。其後 小遣 に困 る事はよくあるが、困るたんびに嫂 を痛 めて事を済ましてゐた。従つて斯 う云ふ事件に関して兄 との交渉は、まあ初対面の様なものである。
代助から見ると、誠吾は蔓 のない薬鑵 と同じことで、何処 から手を出して好 いか分 らない。然しそこが代助には興味があつた。
代助は世間話 の体 にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話 し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金 を借 りに来 た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、私 も気の毒だから、何 うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。左様 かい」
「何 うでせう」
「御前 金 が出来 るのかい」
「私 や一文も出来 やしません。借 りるんです」
「誰 から」
代助は始めから此所 へ落 す積 だつたんだから、判然 した調子で、
「貴方 から借りて置 かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔 を見た。兄 は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御廃 しよ」と答へた。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許 ではない、返 す返 さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放 つて置けば自 から何 うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住 んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子 を頼 まれて宅 へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前 以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使 ひ込 んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼 みに来 た事がある。無論誠吾が直 に逢つたのではないが、妻 に云ひ付 けて断 らした。夫でも其子 は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済 ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家 の敷金 を、つい使 つて仕舞つて、借家人 が明日 引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来 た事がある。然し是も断 らした。夫でも別 に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯 んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、姉 さんが蔭 へ廻 つて恵 んでゐるに違 ない。ハヽヽヽ。兄 さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「何 、そんな事があるものか」
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口 へ持つて行つた。
六の一
其日誠吾は中々 金 を貸して遣 らうと云はなかつた。代助も三千代 が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言 は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄 を、其所 迄連 れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口 にすれば、兄 には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方 へ行 つたり此方 へ来 たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺 の所謂熱誠が足りないとは、此所 の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障 だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障 なものはないと自覚してゐる。兄 には其辺の消息がよく解 つてゐる。だから此手で遣 り損 なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落 す事になる。と気が付 いてゐる。
代助は飲むに従つて、段々金 を遠 ざかつて来 た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、旨 く飲 めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ段 になつて、思ひ出した様に、金 は借りなくつても好 いから、平岡を何処 か使 つて遣 つて呉れないかと頼 んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\飯 を掻き込んでゐた。
明日 眼 が覚 めた時、代助は床 の中 でまづ第一番に斯う考へた。
「兄 を動 かすのは、同じ仲間 の実業家でなくつちや駄目だ。単に兄弟 の好 丈では何 うする事も出来ない」
斯 う考へた様なものゝ、別に兄 を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今茲 で平岡の為 に判 を押 して、連借でもしたら、何 うするだらう。矢っ張り彼 の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄 は其所 迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為 に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄 が其所 を見抜いて金 を貸さないとすると、一寸 意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――其所 迄来 て、代助は自分ながら、あんまり性質 が能くないなと心 のうちで苦笑した。
けれども、唯一 つ慥 な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
斯う考へながら、代助は床 を出た。門野 は茶 の間 で、胡坐 をかいて新聞を読んでゐたが、髪 を濡 らして湯殿 から帰 つて来 る代助を見るや否や、急に坐三昧 を直 して、新聞を畳んで坐 蒲団の傍 へ押 し遣 りながら、
「何 うも『煤烟 』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、毎朝 読 んでます」
「面白 いですか」
「面白 い様ですな。どうも」
「何 んな所が」
「何 んな所がつて。さう改 たまつて聞 かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が出 てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の臭 ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
代助は黙 つて仕舞つた。
六の二
紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ腰 を懸けて、茫然 庭 を眺 めてゐると、瘤 だらけの柘榴 の枯枝 と、灰色 の幹 の根方 に、暗緑 と暗紅 を混 ぜ合 はした様な若 い芽が、一面に吹き出 してゐる。代助の眼 には夫 がぱつと映 じた丈で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。
代助の頭 には今具体的な何物をも留 めてゐない。恰かも戸外 の天気の様に、それが静 かに凝 と働 らいてゐる。が、其底には微塵 の如き本体の分らぬものが無数に押し合つてゐた。乾酪 の中 で、いくら虫 が動 いても、乾酪 が元 の位置にある間 は、気が付かないと同じ事で、代助も此微震 には殆んど自覚を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して来 る度 に、椅子の上 で、少し宛 身体 の位置を変 へなければならなかつた。
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり口 にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分丈で信じて居たからである。
代助は露西亜文学に出 て来 る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈してゐる。仏蘭西文学に出てくる不安を、有夫姦の多いためと見てゐる。ダヌンチオによつて代表される以太利文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断してゐる。だから日本の文学者が、好んで不安と云ふ側 からのみ社会を描 き出すのを、舶来の唐物 の様に見傚してゐる。
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、有 つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと留 つて、夫から逆戻りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を抛 げた様なものである。代助は今では、なまじい石抔を抛げなければ可 かつたと思つてゐる。禅坊さんの所謂大疑現前 抔と云ふ境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国である。代助は、斯 う真卒性急に万事を疑ふには、あまりに利口 に生れ過 ぎた男である。
代助は門野 の賞 めた「煤烟」を読んでゐる。今日 は紅茶々碗の傍 に新聞を置いたなり、開 けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金 に不自由のない男だから、贅沢 の結果 あゝ云ふ悪戯 をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな余地のない程に貧 しい人である。それを彼所迄 押 して行くには、全く情愛 の力でなくつちや出来る筈のものでない。所が、要吉といふ人物にも、朋子 といふ女にも、誠 の愛で、已むなく社会の外 に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動 かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を断行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを断行するに□躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は特殊人 だと思ふ。けれども要吉の特殊人 たるに至つては、自分より遥かに上手 であると承認した。それで此間 迄は好奇心に駆 られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、眼 を通さない事がよくある。
代助は椅子の上 で、時々 身を動 かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例 の通り読書 に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある頁 の中頃まで来 て急に休 めて頬杖を突 いた。さうして、傍 にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから外 の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で出 てゐる。代助は斯う云ふ記事を読 むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為 の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出 した。
六の三
午過 になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し出 した。腹 のなかに小 さな皺 が無数に出来 て、其皺 が絶えず、相互 の位地と、形状 とを変 へて、一面に揺 いてゐる様な気持がする。代助は時々 斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は昨日 兄 と一所に鰻 を食 つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て見 やうかと思ひ出 したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を出 さして、着換 へやうとしてゐる所へ、甥 の誠太郎が来 た。帽子を手に持 つた儘、恰好の好 い円 い頭 を、代助の頭へ出して、腰 を掛 けた。
「もう学校は引けたのかい。早過 ぎるぢやないか」
「ちつとも早 かない」と云つて、笑 ひながら、代助の顔 を見てゐる。代助は手 を敲 いて婆 さんを呼 んで、
「誠太郎、チヨコレートを飲 むかい」と聞いた。
「飲 む」
代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯 だした。
「誠太郎、御前はベースボール許 遣 るもんだから、此頃 手が大変大きくなつたよ。頭 より手の方が大きいよ」
誠太郎はにこ/\して、右の手で、円 い頭 をぐる/″\撫 でた。実際大きな手を持 つてゐる。
「叔父 さんは、昨日 御父 さんから奢 つて貰 つたんですつてね」
「あゝ、御馳走になつたよ。御蔭 で今日 は腹具合 が悪 くつて不可 ない」
「又 神経 だ」
「神経 ぢやない本当だよ。全 たく兄 さんの所為 だ」
「だつて御父 さんは左様 云つてましたよ」
「何 て」
「明日 学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して貰 へつて」
「へえゝ、昨日 の御礼にかい」
「えゝ、今日 は己 が奢 つたから、明日 が向 ふの番 だつて」
「それで、わざ/\遣 つて来 たのかい」
「えゝ」
「兄 の子丈あつて、中々 抜 けないな。だから今チヨコレートを飲 まして遣 るから可 いぢやないか」
「チヨコレートなんぞ」
「飲 まないかい」
「飲 む事は飲 むけれども」
誠太郎の注文を能 く聞 いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ連 れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は快 よく引き受けた。すると誠太郎は嬉 しさうな顔 をして、突然 、
「叔父 さんはのらくらして居るけれども実際偉 いんですつてね」と云つた。代助も是には一寸 呆 れた。仕方なしに、
「偉 いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。
「だつて、僕 は昨夕 始 めて御父 さんから聞 いたんですもの」と云ふ弁解があつた。
誠太郎の云ふ所によると、昨夕 兄 が宅 へ帰つてから、父 と嫂 と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く分 らないが、比較的頭 が可 いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。父 は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄 は之に対して、あゝ遣 つてゐても、あれで中々解 つた所がある。当分放 つて置 くが可 い。放 つて置 いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣 るだらうと弁護したのださうだ。すると嫂 がそれに賛成して、一週間許り前占者 に見てもらつたら、此人 は屹度人の上 に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、占者 の所 へ来 たら、本当に可笑しくなつた。やがて着物 を着換 て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家 を訪 ねた。
六の四
平岡 の家 は、此十数年来の物価騰貴 に伴 れて、中流社会が次第々々に切 り詰 められて行 く有様を、住宅 の上 に善 く代表してゐる、尤も粗悪な見苦 しき構 へである。とくに代助には左様 見えた。
門 と玄関の間 が一間 位しかない。勝手口 も其通りである。さうして裏にも、横 にも同じ様な窮屈な家 が建 てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に付 け込 んで、最低度の資本家が、なけなしの元手 を二割乃至三割の高利 に廻 さうと目論 で、あたぢけなく拵 へ上 げた、生存競争の記念 である。
今日 の東京市、ことに場末 の東京市には、至る所に此種 の家 が散点してゐる、のみならず、梅雨 に入 つた蚤 の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の発展 と名 づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の象徴 とした。
彼等のあるものは、石油缶 の底 を継 ぎ合 はせた四角な鱗 で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、夜中 に柱 の割れる音 で眼 を醒 まさないものは一人 もない。彼等の戸には必ず節穴 がある。彼等の襖 は必ず狂 ひが出ると極つてゐる。資本を頭 の中 へ注 ぎ込 んで、月々 其頭 から利息を取つて生活しやうと云ふ人間 は、みんな斯 ういふ所を借 りて立 て籠 つてゐる。平岡も其一人 である。
代助は垣根 の前 を通るとき、先づ其屋根 に眼 が付 いた。さうして、どす黒 い瓦の色が妙に彼 の心を刺激した。代助には此光 のない土 の板 が、いくらでも水 を吸 ひ込 む様に思はれた。玄関前に、此間 引越のときに解 いた菰包 の藁屑 がまだ零 れてゐた。座敷 へ通 ると、平岡は机の前 へ坐 つて、長 い手紙 を書 き掛 けてゐる所であつた。三千代 は次 の部屋 で簟笥の環 をかたかた鳴らしてゐた。傍 に大 きな行李 が開 けてあつて、中 から奇麗 な長繻絆 の袖 が半分 出 かかつてゐた。
平岡が、失敬だが鳥渡 待 つて呉れと云つた間 に、代助は行李 と長繻絆 と、時々 行李 の中 へ落 ちる繊 い手とを見てゐた。襖 は明 けた儘閉 て切 る様子もなかつた。が三千代の顔は陰 になつて見えなかつた。
やがて、平岡は筆 を机 の上へ抛 げ付ける様にして、座 を直 した。何 だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を赤 くしてゐた。眼 も赤くしてゐた。
「何 うだい。此間 は色々 難有う。其後 一寸 礼 に行 かうと思つて、まだ行 かない」
平岡の言葉は言訳 と云はんより寧ろ挑戦 の調子を帯びてゐる様に聞 こえた。襯衣 も股引 も着 けずにすぐ胡坐 をかいた。襟 を正 しく合 せないので、胸毛 が少し出 ゝゐる。
「まだ落 ち付 かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く所 か、此分 ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし出 した。
代助は平岡が何故 こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に中 るのぢやない、つまり世間 に中 るんである、否己 れに中 つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹 が立たない丈である。
「宅 の都合は、どうだい。間取 の具合は可 ささうぢやないか」
「うん、まあ、悪 くつても仕方 がない。気に入つた家 へ這入らうと思へば、株 でも遣 るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家 はみんな株屋が拵 へるんだつて云ふぢやないか」
「左様 かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な家 が一軒立 つと、其陰 に、どの位沢山な家 が潰 れてゐるか知れやしない」
「だから猶 住 み好 いだらう」
平岡は斯 う云つて大いに笑 つた。其所 へ三千代 が出 て来 た。先達てはと、軽 く代助に挨拶をして、手に持 つた赤いフランネルのくる/\と巻 いたのを、坐 ると共に、前 へ置 いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤※[#小書き平仮名ん、94-8]坊の着物 なの。拵 へた儘、つい、まだ、解 かずにあつたのを、今行李 の底 を見 たら有 つたから、出 して来 たんです」と云ひながら、附紐 を解 いて筒袖 を左右に開 いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壊 して雑巾にでもして仕舞へ」
六の五
三千代 は小供 の着物 を膝の上 に乗 せた儘、返事もせずしばらく俯向 いて眺めてゐたが、
「貴方 のと同 じに拵 へたのよ」と云つて夫 の方を見た。
「是 か」
平岡は絣 の袷 の下 へ、ネルを重 ねて、素肌 に着 てゐた。
「是 はもう不可 ん。暑 くて駄目 だ」
代助は始 めて、昔 の平岡 を当面 に見 た。
「袷 の下 にネルを重 ねちやもう暑 い。繻絆にすると可 い」
「うん、面倒だから着 てゐるが」
「洗濯をするから御脱 ぎなさいと云つても、中々 脱 がないのよ」
「いや、もう脱 ぐ、己 も少々厭 になつた」
話 は死 んだ小供 の事をとう/\離 れて仕舞つた。さうして、来 た時よりは幾分か空気に暖味 が出来 た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出 した。三千代 も支度 をするから、緩 りして行 つて呉 れと頼 む様に留 めて、次 の間 へ立 つた。代助は其後姿 を見て、どうかして金 を拵 へてやりたいと思つた。
「君何所 か奉公口 の見当は付 いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無 い様なもんだ。無 ければ当分遊 ぶ丈の事だ。緩 くり探 してゐるうちには何 うかなるだらう」
云ふ事は落ち付 いてゐるが、代助が聞 くと却つて焦 つて探 してゐる様にしか取れない。代助は、昨日 兄 と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構 へてゐる向ふの体面を、わざと此方 から毀損する様な気がしたからである。其上 金 の事に付 いては平岡からはまだ一言 の相談も受けた事もない。だから表向 挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯 うして黙 つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴 だと悪 く思はれるに極 つてゐる。けれども今 の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間 ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回 してゐた。渡金 を金 に通用させ様とする切 ない工面より、真鍮を真鍮で通 して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽 である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て甘 んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来 たしたといふ様な、小説じみた歴史を有 つてゐる為 ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金 を自分で剥がして来 たに過 ぎない。代助は此渡金 の大半をもつて、親爺 が捺摺 り付けたものと信じてゐる。其時分 は親爺 が金 に見えた。多くの先輩が金 に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金 に見えた。だから自分の渡金 が辛 かつた。早く金 になりたいと焦 つて見た。所が、他 のものゝ地金 へ、自分の眼光がぢかに打 つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出 した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄 と喧嘩をしても、父 と口論をしても、平岡の為 に計つたらう、又其計 つた通りを平岡の所へ来 て事々 しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で已 めて、あとは色々な雑談に時を過 ごすうちに酒が出 た。三千代が徳利の尻 を持つて御酌をした。
六の六
平岡は酔 ふに従つて、段々口 が多くなつて来 た。此男 はいくら酔つても、中 /\平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽 を帯びて来 る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的真面目 な問題を持ち出して、相手と議論を上下して楽 し気 に見える。代助は其昔し、麦酒 の壜 を互 の間 に並 べて、よく平岡と戦 つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯 う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで本音 を吐 かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。今日 の二人 の境界は其時分 とは、大分離 れて来 た。さうして、其離れて、近 づく路 を見出し悪 い事実を、双方共に腹の中 で心得てゐる。東京へ着 いた翌日 、三年振りで邂逅した二人 は、其時 既 に、二人 ともに何時 か互 の傍 を立退 いてゐたことを発見した。
所が今日 は妙である。酒 に親 しめば親 しむ程、平岡が昔 の調子を出 して来 た。旨 い局所へ酒が回 つて、刻下 の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騒 がしさやらを全然痲痺 [#「痲痺」は底本では「痳痺」]して仕舞つた様に見える。平岡の談話は一躍 して高 い平面に飛び上 がつた。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働 らいてゐる。又是からも働 らく積 だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君 は何も為 ないぢやないか。君は世の中 を、有 の儘 で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘 だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違 ない。僕は僕の意志を現実社会に働 き掛 けて、其現実社会が、僕の意志の為 に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値 を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭 の中 の世界と、頭 の外 の世界を別々 に建立 して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故 と云つて見給へ。僕のは其不調和を外 へ出 した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面 に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度 は少 ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可 ないんだらう」
「何 笑 つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、嘘 だ。ねえ三千代 」
三千代 は先刻 から黙 つて坐 つてゐたが、夫 から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、三千代 さん」と云ひながら、代助は盃 を出 して、酒を受 けた。
「そりや嘘 だ。おれの細君が、いくら弁護 したつて、嘘 だ。尤も君は人 を笑 つても、自分を笑つても、両方共頭 の中 で遣 る人だから、嘘 か本当か其辺はしかと分 らないが……」
「冗談云つちや不可 ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔 の君 はさうぢや無 かつた。昔の君はさうぢや無 かつたが、今の君は大分違 つてるよ。ねえ三千代 。長井 は誰 が見たつて、大得意ぢやないか」
「何 だか先刻 から、傍 で伺 がつてると、貴方 の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代 は燗 徳利を持つて次 の間へ立 つた。
六の七
平岡は膳の上 の肴 を二口三口 、箸 で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼 を上げて、云つた。――
「今日 は久し振 りに好 い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好 い心持にならないね。何 うも怪 しからん。僕が昔 の平岡常次郎になつてるのに、君が昔 の長井代助にならないのは怪 しからん。是非なり給 へ。さうして、大いに遣 つて呉 れ給 へ。僕 も是 から遣 る。から君 も遣 つて呉れ給 へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を昔 に返 さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認 めた。さうして、それに動 かされた。けれども一方では、一昨日 、食 つた麺麭 を今返 せと強請 られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭 は大抵確 かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが厭 になつた。
「君、頭 は確 かい」と聞いた。
「確 だとも。君さへ確 なら此方 は何時 でも確 だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、働 らかない/\と云つて、大分僕 を攻撃したが、僕は黙 つてゐた。攻撃される通り僕は働 らかない積 だから黙 つてゐた」
「何故 働 かない」
「何故 働 かないつて、そりや僕が悪 いんぢやない。つまり世 の中 が悪 いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働 かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震 ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時 になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許 りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行 を削 つて、一等国丈の間口 を張 つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨 なものだ。牛 と競争をする蛙 と同じ事で、もう君、腹 が裂 けるよ。其影響はみんな我々個人の上 に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭 に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日 の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊 と、身体の衰弱とは不幸にして伴 なつてゐる。のみならず、道徳の敗退 も一所に来 てゐる。日本国中何所 を見渡したつて、輝 いてる断面 は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間 に立つて僕一人 が、何と云つたつて、何を為 たつて、仕様がないさ。僕は元来怠 けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠 けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣 る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝 つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来 るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有 の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中 僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外 の人を、此方 の考へ通りにするなんて、到底出来 た話ぢやありやしないもの――」
代助は一寸 息 を継 いだ。さうして、一寸 窮屈 さうに控えてゐる三 千代の方を見て、御世辞を遣 つた。
「三千代 さん。どうです、私 の考 は。随分呑気 で宜 いでせう。賛成しませんか」
「何 だか厭世の様な呑気 の様な妙なのね。私 よく分 らないわ。けれども、少し胡麻化 して入らつしやる様よ」
「へええ。何処 ん所 を」
「何処 ん所 つて、ねえ貴方 」と三千代 は夫 を見た。平岡は股 の上 へ肱 を乗 せて、肱 の上へ顎 を載 せて黙 つてゐたが、何にも云はずに盃 を代助の前に出 した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。
六の八
代助は盃 へ唇 を付 けながら、是から先 はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直 させる為 の弁論でもなし、又平岡から意見されに来 た訪問でもない。二人 はいつ迄立 つても、二人 として離 れてゐなければならない運命を有 つてゐるんだと、始めから心付 てゐるから、議論は能い加減に引き上 げて、三千代 の仲間 入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来 やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛 の奥 迄赤くなつた胸 を突き出 して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当 つて、現実と悪闘 してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱 だつて、弱虫 だつて、働 らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中 が堕落 したつて、世の中 の堕落に気が付 かないで、其中 に活動するんだからね。君の様な暇人 から見れば日本の貧乏 や、僕等の堕落 が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口 にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙 がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡は※舌 [#「口+堯」、104-10]つてるうち、自然と此比喩に打 つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所 で得意に一段落をつけた。代助は仕方 なしに薄笑 ひをした。すると平岡はすぐ後 を附加 へた。
「君は金 に不自由しないから不可 ない。生活に困 らないから、働 らく気にならないんだ。要するに坊 ちやんだから、品 の好 い様なこと許 かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が小憎 しくなつたので、突然中途で相手を遮 ぎつた。
「働 らくのも可 いが、働 らくなら、生活以上の働 でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭 を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼 をして、代助の顔 を窺 つた。さうして、
「何故 」と聞 いた。
「何故 つて、生活の為 めの労力は、労力の為 めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題 見た様なものは分 らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食 ふ為 めの職業は、誠実にや出来悪 いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働 らけるかも知れないが誠実には働 らき悪 いよ。食 ふ為 の働 らきと云ふと、つまり食 ふのと、働 らくのと何方 が目的だと思ふ」
「無論食 ふ方さ」
「夫れ見給へ。食 ふ方が目的で働 らく方が方便なら、食 ひ易 い様に、働 らき方 を合 せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働 らいたつて、又どう働 らいたつて、構はない、只麺麭 が得られゝば好 いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何 うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極 上品な例で説明してやらう。古臭 い話 だが、ある本で斯 んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵 へたものを食 つて見ると頗 る不味 かつたんで、大変小言 を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食 はして、叱 られたものだから、其次 からは二流もしくは三流の料理を主人 にあてがつて、始終褒 められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為 に働らく事は抜目 のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働 らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様 しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働 らきでなくつちや、真面目 な仕事は出来 るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益 遣 る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話 が、元 へ戻つちまつた。是だから議論は不可 ないよ」と云つて、代助は頭 を掻 いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。
七の一
代助は風呂 へ這入 た。
「先生、何 うです、御燗 は。もう少し燃 させませうか」と門野 が突然 入り口 から顔 を出 した。門野 は斯 う云ふ事には能 く気 の付 く男である。代助は、凝 と湯 に浸 つた儘、
「結構 」と答へた。すると、門野 が、
「ですか」と云ひ棄 てゝ、茶の間 の方へ引き返 した。代助は門野 の返事のし具合に、いたく興味を有 つて、独りにや/\と笑つた。代助には人 の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為 時々 苦しい思 もする。ある時、友達の御親爺 さんが死んで、葬式の供 に立つたが、不図其友達が装束を着 て、青竹を突 いて、柩 のあとへ付 いて行く姿 を見て可笑 しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父 から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父 の顔を見たら、急に吹き出 したくなつて弱り抜 いた事がある。自宅に風呂を買 はない時分には、つい近所の銭湯 に行つたが、其所 に一人 の骨骼 の逞ましい三助 がゐた。是が行くたんびに、奥 から飛び出 して来 て、流 しませうと云つては脊中 を擦 る。代助は其奴 に体 をごし/\遣 られる度 に、どうしても、埃及人 に遣 られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の心臓 の鼓動を、増したり、減 したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する癖 のある代助は、ためしに遣 つて見たくなつて、一日 に二三回位怖々 ながら試 してゐるうちに、何 うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
湯のなかに、静 かに浸 つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上 へ持つて行つたが、どん/\と云ふ命 の音 を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ出 して、すぐ流 しへ下 りた。さうして、其所 に胡坐 をかいた儘、茫然と、自分の足 を見詰めてゐた。すると其足 が変になり始めた。どうも自分の胴から生 えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所 に無作法に横 はつてゐる様に思はれて来 た。さうなると、今迄は気が付 かなかつたが、実 に見るに堪えない程醜くいものである。毛が不揃 に延 びて、青 い筋 が所々 に蔓 つて、如何にも不思議な動物である。
代助は又湯 に這入つて、平岡の云つた通り、全たく暇 があり過 ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から出 て、鏡に自分の姿を写 した時、又平岡の言葉を思ひ出 した。幅の厚 い西洋髪剃 で、顎 と頬を剃 る段 になつて、其鋭 どい刃 が、鏡 の裏 で閃 く色が、一種むづ痒 い様な気持を起 さした。是 が烈敷 なると、高い塔の上から、遥かの下 を見下 すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終 つた。
茶の間 を抜 け様とする拍子に、
「何 うも先生は旨 いよ」と門野 が婆 さんに話 してゐた。
「何 が旨 いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野 は、
「やあ、もう御上 りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が旨 いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ帰 つて、椅子 に腰 を掛けて休息してゐた。
休息しながら、斯 う頭 が妙な方面に鋭どく働 き出 しちや、身体 の毒だから、些 と旅行でもしやうかと思つて見た。一 つは近来持ち上 つた結婚問題を避 けるに都合が好 いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に掛 つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り三千代 の事が気にかかるのである。代助は其所 迄押して来 ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
七の二
代助が三千代 と知 り合 になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃 であつた。代助は長井家 の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出 た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合 から云ふと、もつと地味 で、気持 から云ふと、もう少し沈 んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼 と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合 つてゐた。三千代 は其妹 である。
此菅沼 は東京近県のもので、学生になつた二年目の春 、修業の為 と号して、国 から妹を連 れて来 ると同時に、今迄の下宿を引き払 つて、二人 して家 を持つた。其時妹 は国 の高等女学校を卒業した許 で、年 は慥 十八とか云ふ話 であつたが、派出な半襟を掛 けて、肩上 をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通 ひ始 めた。
菅沼の家 は谷中 の清水町 で、庭 のない代りに、椽側へ出 ると、上野の森 の古 い杉 が高 く見えた。それがまた、錆 た鉄 の様に、頗 る異 しい色 をしてゐた。其 一本は殆んど枯 れ掛 かつて、上 の方には丸裸 の骨許 残つた所に、夕方 になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若 い画家 が住 んでゐた。車 もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居 であつた。
代助は其所 へ能 く遊びに行 つた。始めて三千代 に逢 つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来 た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持 つて出 る丈であつた。其癖 狭い家 だから、隣 の室 にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話 しながら、隣 の室 に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行 かなかつた。
三千代 と口 を利 き出 したのは、どんな機会 であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居 ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭 いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦口 を利 き出 してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人 はすぐ心安 くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく菅沼 の家 へ遊 びに来 た。あるときは二人 連 れ立 つて、来 た事もある。さうして、代助と前後して、三千代 と懇意になつた。三千代は兄と此二人 に食付 いて、時々池の端 抔を散歩した事がある。
四人 は此関係で約二年 足らず過 ごした。すると菅沼 の卒業する年 の春 、菅沼 の母 と云ふのが、田舎 から遊 びに出 て来 て、しばらく清水 町に泊 つてゐた。此母 は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日寐起 する例になつてゐたんだが、其時は帰る前日 から熱 が出 だして、全く動 けなくなつた。それが一週間の後窒扶斯 と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為 附添 として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり返 して、とう/\死んで仕舞つた。それ許 ではない。窒扶斯 が、見舞に来 た兄 に伝染して、是も程なく亡 くなつた。国 にはたゞ父親 が一人 残 つた。
それが母 の死んだ時も、菅沼 の死んだ時も出 て来 て、始末をしたので、生前に関係の深 かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連 れて国へ帰る時は、娘とともに二人 の下宿を別々に訪 ねて、暇乞 旁 礼を述 べた。
其年 の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間 に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連 なつて貰つたのだが、身体 を動 かして、三千代 の方を纏 めたものは代助であつた。
結婚して間 もなく二人 は東京を去つた。国に居 た父 は思はざるある事情の為 に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代 は何方 かと云へば、今 心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付 いてゐられる様にして遣 りたい気がする。代助はもう一返嫂 に相談して、此間 の金 を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代 に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委 しく聞いて見やうかと思つた。
七の三
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗 ひ浚 い※舌 [#「口+堯」、112-13]り散 らす女ではなし、よしんば何 うして、そんな金 が要 る様になつたかの事情を、詳しく聞 き得たにした所で、夫婦 の腹 の中 なんぞは容易に探 られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼 の本当に知りたい点は、却つて此所 に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故 に金 が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞 かなくつても、三千代に金 を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金 を拵 へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有 つてゐなかつたのである。
其上 平岡の留守へ行き中 てゝ、今日 迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家 にゐる以上は、詳しい話 の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄真 に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄 を張つてゐる。見栄 の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ嫂 に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂 にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯 う短兵急に痛 め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持 つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫 で駄目なら、又高利でも借 りるのだが、代助はまだ其所 迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層 此方 から進んで、直接に三千代 を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭 の中 に潜 んでゐた。
生暖 かい風 の吹 く日であつた。曇 つた天気が何時迄 も無精 に空 に引掛 つて、中々 暮 れさうにない四時過から家 を出 て、兄 の宅迄 電車で行つた。青山 御所の少 し手前迄来 ると、電車の左側 を父 と兄 が綱曳 で急 がして通 つた。挨拶 をする暇 もないうちに擦 れ違 つたから、向ふは元より気が付 かずに過 ぎ去つた。代助は次 の停留所で下 りた。
兄 の家 の門を這入ると、客間 でピアノの音 がした。代助は一寸 砂利の上 に立ち留 つたが、すぐ左へ切れて勝手口 の方へ廻つた。其所 には格子の外 に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口 を革紐 で縛 られて臥 てゐた。代助の足音を聞 くや否や、ヘクターは毛の長い耳 を振 つて、斑 な顔 を急に上 げた。さうして尾を揺 かした。
入口 の書生部屋を覗き込んで、敷居の上 に立ちながら、二言三言 愛嬌を云つた後 、すぐ西洋間 の方へ来 て、戸 を明 けると、嫂 がピヤノの前に腰を掛けて両手を動 かして居た。其傍 に縫 子が袖 の長い着物を着 て、例の髪 を肩迄掛けて立 つてゐた。代助は縫 子の髪 を見るたんびに、ブランコに乗 つた縫子の姿 を思ひ出 す。黒 い髪 と、淡紅色 のリボンと、それから黄色い縮緬 の帯が、一時 に風に吹かれて空 に流れる様 を、鮮 かに頭 の中 に刻み込んでゐる。
母子 は同時に振 り向いた。
「おや」
縫子の方は、黙 つて馳 けて来 た。さうして、代助の手をぐい/\引張 つた。代助はピヤノの傍 迄来 た。
「如何なる名人が鳴 らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、額 に八の字を寄 せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向 ふから斯 う云つた。
「代さん、此所 ん所 を一寸 遣 つて見 せて下 さい」
代助は黙 つて嫂 と入れ替 つた。譜 を見ながら、両方の指 をしばらく奇麗に働 かした後 、
「斯 うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。
七の四
それから三十分程の間 、母子 して交 る/″\楽器の前に坐 つては、一つ所 を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう廃 しませう。彼方 へ行 つて、御飯 でも食 ませう。叔父 さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗 くなつてゐた。代助は先刻 から、ピヤノの音 を聞いて、嫂 や姪 の白い手の動 く様子を見て、さうして時々 は例の欄間 の画 を眺 めて、三千代 の事も、金 を借 りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出 る時、振り返つたら、紺青 の波 が摧 けて、白く吹き返 す所丈 が、暗 い中 に判然 見えた。代助は此大濤 の上 に黄金色 の雲 の峰 を一面に描 かした。さうして、其雲 の峰 をよく見ると、真裸 な女性 の巨人 が、髪 を乱 し、身を躍 らして、一団となつて、暴 れ狂つてゐる様 に、旨 く輪廓を取 らした。代助は□ルキイルを雲 に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此雲 の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付 かない、偉 な塊 を脳中 に髣髴 して、ひそかに嬉 しがつてゐた。が偖出来上 つて、壁 の中 へ嵌 め込んでみると、想像したよりは不味 かつた。梅子と共に部屋を出 た時 は、此□ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青 の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡 の大きな塊 が薄白 く見えた。
居間 にはもう電燈が点 いてゐた。代助は其所 で、梅子と共に晩食 を済 ました。子供二人 も卓 を共にした。誠太郎に兄 の部室 からマニラを一本取 つて来 さして、夫 を吹 かしながら、雑談をした。やがて、小供 は明日 の下読 をする時間だと云ふので、母 から注意を受けて、自分の部屋 へ引き取 つたので、後 は差し向 になつた。
代助は突然例の話 を持 ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ父 と兄 が綱曳 で車 を急 がして何所 へ行つたのだとか、此間 は兄 さんに御馳走になつたとか、あなたは何故 麻布の園遊会へ来 なかつたのだとか、御父 さんの漢詩は大抵法螺 だとか、色々 聞いたり答へたりして居 るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外 でもない。父 と兄 が、近来目に立 つ様に、忙 しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々 寐 るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始 つたんですと、代助は平気な顔 で聞いて見た。すると、嫂 も普通の調子で、さうですね、何 か始 つたんでせう。御父 さんも、兄 さんも私 には何 にも仰 しやらないから、知 らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間 の御嫁 さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来 た。
今夜 も遅 くなる、もし、誰 と誰 が来 たら何 とか屋 へ来 る様に云つて呉れと云ふ電話を伝 へた儘、書生は再び出 て行 つた。代助は又結婚問題に話 が戻 ると面倒だから、時に姉 さん、些 御願 があつて来 たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
梅子 は代助の云ふ事を素直 に聞 いて居 た。代助は凡てを話すに約十分許を費 やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して下 さい」と云つた。すると梅子は真面目 な顔をして、
「さうね。けれども全体何時 返 す気なの」と思ひも寄 らぬ事を問ひ返した。代助は顎 の先 を指 で撮 んだ儘、じつと嫂 の気色 を窺 つた。梅子 は益真面目 な顔 をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。怒 つちや不可 ませんよ」
代助は無論怒 つてはゐなかつた。たゞ姉弟 から斯 ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更返 す気 だの、貰 う積りだのと布衍 すればする程馬鹿になる許 だから、甘 んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後 が大変云ひ易 かつた。――
七の五
「代さん、あなたは不断 から私 を馬鹿にして御出 なさる。――いゝえ、厭味 を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「困 りますね、左様 真剣 に詰問 されちや」
「善 ござんすよ。胡魔化 さないでも。ちやんと分 つてるんだから。だから正直に左様 だと云つて御仕舞なさい。左様 でないと、後 が話 せないから」
代助は黙 つてにや/\笑 つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構 やしません。いくら私 が威張つたつて、貴方 に敵 ひつこないのは無論ですもの。私 と貴方 とは今迄通 りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫 で好 いとして、貴方 は御父 さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
代助は嫂 の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左 も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「兄 さんも馬鹿にして入らつしやる」
「兄 さんですか。兄 さんは大いに尊敬してゐる」
「嘘 を仰 しやい。序 だから、みんな打 ち散 けて御仕舞 なさい」
「そりや、或点 では馬鹿にしない事もない」
「それ御覧 なさい。あなたは一家族中 悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳 はどうでも好 いんですよ。貴方 から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、廃 さうぢやありませんか。今日 は中中 きびしいですね」
「本当なのよ。夫 で差支 ないんですよ。喧嘩も何 も起 らないんだから。けれどもね、そんなに偉 い貴方 が、何故 私 なんぞから御金 を借 りる必要があるの。可笑 しいぢやありませんか。いえ、揚足 を取ると思ふと、腹 が立つでせう。左様 なんぢやありません。それ程偉 い貴方 でも、御金 がないと、私 見た様なものに頭 を下 げなけりやならなくなる」
「だから先 きから頭 を下 げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が私 の本気な所なんです」
「ぢや、それも貴方 の偉 い所かも知れない。然し誰 も御金 を貸 し手 がなくつて、今の御友達を救 つて上 げる事が出来なかつたら、何 うなさる。いくら偉 くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋 と同 なしですもの」
代助は今迄嫂 が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金 の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡 に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから姉 さんに頼 むんです」
「仕方がないのね、貴方 は。あんまり、偉過 て。一人 で御金 を御取 んなさいな。本当の車屋なら貸 して上げない事もないけれども、貴方 には厭 よ。だつて余 りぢやありませんか。月々 兄 さんや御父 さんの厄介になつた上 に、人 の分 迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰 も出 し度 はないぢやありませんか」
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤 を通り越して、気が付 かずにゐた。振り返つて見ると、後 の方に姉 と兄 と父 がかたまつてゐた。自分も後戻 りをして、世間並 にならなければならないと感じた。家 を出 る時、嫂 から無心を断わられるだらうとは気遣 つた。けれども夫 が為 めに、大いに働 らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。
七の六
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の腹 がよく解 つてゐた。解 れば解 る程激する気にならなかつた。そのうち話題は金 を離れて、再び結婚に戻 つて来 た。代助は最近の候補者に就て、此間 から親爺 に二度程悩 まされてゐる。親爺 の論理は何時 聞 いても昔し風に甚だ義理堅 いものであつたが、其代り今度は左程権柄づくでもなかつた。自分の命 の親 に当 る人 の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、貰 つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が返 せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、丸で筋の立 たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた事丈は慥かである。だから父 の云ふ事の当否は論弁の限 にあらずとして、貰 へば貰 つても構 はないのである。代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚 に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない。佐川の娘といふのは只写真で知つてゐる許であるが、夫丈でも沢山な様な気がする。――尤も写真は大分美くしかつた。――従つて、貰ふとなれば、左様 面倒な条件を持ち出す考も何もない。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が出 なかつた丈である。
その不明晰な態度を、父 に評させると、丸で要領を得てゐない鈍物同様の挨拶振になる。結婚を生死の間 に横 はる一大要件と見傚して、あらゆる他の出来事を、これに従属させる考の嫂 から云はせると、不可思議になる。
「だつて、貴方 だつて、生涯一人 でゐる気でもないんでせう。さう我儘を云はないで、好 い加減な所で極 めて仕舞つたら何 うです」と梅子は少 し焦 れつたさうに云つた。
生涯一人 でゐるか、或は妾 を置いて暮 すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。只 、今 の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持 てなかつた事は慥 である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の頭 が普通以上に鋭 どくつて、しかも其鋭 さが、日本現代の社会状況のために、幻像 打破の方面に向 つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。が代助は其所 迄解剖して考へる必要は認めてゐない。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に明 かな事実を握 つて、それに応じて未来を自然に延 ばして行く気でゐる。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、何時 か之を成立させ様と喘 る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。
代助は固より斯 んな哲理 を嫂 に向つて講釈する気はない。が、段々押し詰 られると、苦し紛 れに、
「だが、姉 さん、僕は何 うしても嫁 を貰 はなければならないのかね」と聞 く事がある。代助は無論真面目 に聞 く積 だけれども、嫂 の方では呆 れて仕舞ふ。さうして、自分を茶にするのだと取る。梅子は其晩代助に向つて、平生 の手続 を繰 り返 した後 で、斯 んな事を云つた。
「妙なのね、そんなに厭 がるのは。――厭 なんぢやないつて、口 では仰 しやるけれども、貰 はなければ、厭 なのと同 なしぢやありませんか。それぢや誰 か好 きなのがあるんでせう。其方 の名を仰 やい」
代助は今迄嫁 の候補者としては、たゞの一人も好 いた女 を頭 の中 に指名してゐた覚がなかつた。が、今 斯 う云はれた時、どう云ふ訳か、不意に三千代といふ名が心に浮かんだ。つゞいて、だから先刻 云つた金 を貸して下 さい、といふ文句が自 から頭 の中 で出来上 つた。――けれども代助はたゞ苦笑して嫂 の前に坐 つてゐた。
八の一
代助が嫂 に失敗して帰つた夜 は、大分 更 けてゐた。彼は辛 うじて青山の通りで、最後 の電車を捕 まえた位である。それにも拘はらず彼 の話してゐる間 には、父 も兄 も帰つて来 なかつた。尤も其間 に梅子は電話口 へ二返呼ばれた。然し、嫂 の様子に別段変つた所 もないので、代助は此方 から進んで何にも聞かなかつた。
其夜 は雨催 の空 が、地面 と同 じ様な色 に見えた。停留所の赤い柱の傍 に、たつた一人 立 つて電車を待ち合はしてゐると、遠 い向 ふから小さい火の玉 があらはれて、それが一直線に暗い中 を上下 に揺 れつつ代助の方に近 いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗 り込んで見ると、誰 も居なかつた。黒 い着物 を着 た車掌と運転手の間 に挟 まれて、一種の音 に埋 まつて動 いて行くと、動 いてゐる車 の外 は真暗 である。代助は一人 明 るい中 に腰を掛 けて、どこ迄も電車に乗つて、終 に下 りる機会が来 ない迄引つ張り廻 される様な気がした。
神楽坂 へかゝると、寂 りとした路 が左右の二階家 に挟 まれて、細長 く前 を塞 いでゐた。中途迄上 つて来 たら、それが急に鳴り出 した。代助は風 が家 の棟 に当る事と思つて、立ち留 まつて暗 い軒 を見上げながら、屋根から空 をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。戸 と障子と硝子 の打 ち合 ふ音 が、見る/\烈 しくなつて、あゝ地震だと気が付 いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦 んでゐた。其時代助は左右の二階家 が坂 を埋 むべく、双方から倒れて来 る様に感じた。すると、突然右側 の潜 り戸 をがらりと開 けて、小供を抱 いた一人 の男が、地震だ/\、大きな地震だと云つて出 て来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
家 へ着 いたら、婆さんも門野 も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人 とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し様 かと思案して見た。然し分別を凝 らす迄には至らなかつた。父 と兄 の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を極 めた。さうして眠 に入つた。
其明日 の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の金 を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ数 が大分多くなつて来 て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し立 てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出 したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下 したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした後 の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の父 と兄 の関係してゐる会社に就ては何事 も知らなかつた。けれども、いつ何 んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、父 も兄 もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜敷 い吟味をされたなら、両方共拘引に価 する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父 と兄 の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、誰 が見ても尤 と認める様に、作 り上 げられたとは肯 はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ貰 つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。父 と兄 の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、暖室 を造つて、拵 え上 げたんだらうと代助は鑑定してゐた。
八の二
代助は斯 う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。父 と兄 の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、徒手 で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹 の中 で料簡を定 めて、日々 読書に耽つて四五日過 した。不思議な事に其後 例の金 の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来 なかつた。代助は心 のうちに、あるひは三千代が又一人 で返事を聞 きに来 る事もあるだらうと、実 は心待 に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
仕舞にアンニユイを感じ出 した。何処 か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜 して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から外濠 線へ乗つて、御茶の水 迄来 るうちに気が変 つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は厭 だから文学を職業とすると云ひ出して、他 のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も上 らず、窮々 云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、何 でも好 いから書けと逼 るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝 されたぎり、永久人間世界から何処 かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己 を見ろと云ふのが口癖 であつた。けれども外 の人 に聞 くと、寺尾ももう陥落 するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが好 で、ことに人が名前を知らない作家が好 で、なけなしの銭 を工面しては新刊物 を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評 返した事がある。すると寺尾は真面目 な顔 をして、戦争は何時 でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰 らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は真中 へ一貫張 の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢巻 をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書 いてゐた。邪魔ならまた来 ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう今朝 から五五 、二円五十銭丈稼 いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢巻 を外 して、話 を始 めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰 も賞 めないので、其対抗運動として、自分の方では他 を貶 すんだらうと思つた。ちと、左様 云ふ意見を発表したら好 いぢやないかと勧めると、左様 は行 かないよと笑つてゐる。何故 と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮 せる身分なら随分云つて見せるが――何 しろ食 ふんだからね。どうせ真面目 な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、夫 で結構だ、確 かり遣 り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや些 とも結構ぢやない。どうかして、真面目 になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金 を借 して僕を真面目 にする了見はないかと聞 いた。いや、君が今の様な事をして、夫 で真面目 だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯 つて、代助は表へ出 た。
本郷の通り迄来 たが惓怠 の感は依然として故 の通りである。何処 をどう歩 いても物足りない。と云つて、人 の宅 を訪 ねる気はもう出 ない。自分を検査して見ると、身体 全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ乗 つて、今度は伝通院前迄来 た。車中で揺 られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢 の中 で、腐 つたものが、波 を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅 へ帰 つた。玄関で門野が、
「先刻 御宅 から御使 でした。手紙は書斎の机の上 に載せて置きました。受取は一寸 私 が書 いて渡 して置 きました」と云つた。
八の三
手紙 は古風 な状箱 の中 にあつた。其 赤塗 の表 には名宛 も何 も書 かないで、真鍮 の環 に通 した観世撚 の封 じ目 に黒 い墨 を着けてあつた。代助は机 の上 を一目 見て、此手紙の主 は嫂 だとすぐ悟 つた。嫂 は斯 う云ふ旧式な趣味があつて、それが時々 思 はぬ方角へ出 てくる。代助は鋏 の先 で観世撚 の結目 を突 つつきながら、面倒な手数 だと思つた。
けれども中 にあつた手紙 は、状箱とは正反対に、簡単な言文一致で用を済 してゐた。此間 わざ/\来 て呉 れた時は、御依頼 通り取り計 ひかねて、御気の毒をした。後 から考へて見ると、其時 色々無遠慮な失礼を云つた事が気にかゝる。どうか悪 く取 つて下 さるな。其代り御金 を上 げる。尤 もみんなと云ふ訳 には行かない。二百円丈都合して上 げる。から夫 をすぐ御友達 の所へ届けて御上 げなさい。是は兄 さんには内所 だから其積 でゐなくつては不可 ない。奥さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。
手紙 の中 に巻 き込めて、二百円の小切手が這入 つてゐた。代助は、しばらく、それを眺 めてゐるうちに、梅子 に済 まない様な気がして来 た。此間 の晩 、帰 りがけに、向 から、ぢや御金 は要 らないのと聞 いた。貸 して呉れと切り込 んで頼 んだ時は、あゝ手痛 く跳ね付けて置 きながら、いざ断念して帰る段になると、却つて断わつた方から、掛念 がつて駄目 を押 して出 た。代助はそこに女性 の美くしさと弱 さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇気を失つた。此美 しい弱点を弄 ぶに堪 えなかつたからである。えゝ要 りません、何 うかなるでせうと云つて分 れた。それを梅子は冷 かな挨拶と思つたに違 ない。其冷 かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた動作 の裏 に、何処 にか引つ掛 つてゐて、とう/\此手紙になつたのだらうと代助は判断した。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈暖 かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が斯 う云ふ気分になる事は兄 に対してもない。父 に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり起 らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。実 を云ふと、二百円は代助に取つて中途半端 な額 であつた。是丈 呉れるなら、一層 思ひ切つて、此方 の強請 つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も出 た。が、それは代助の頭 が梅子を離れて三千代の方へ向 いた時の事であつた。その上 、女は如何 に思ひ切つた女でも、感情上中途半端 なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。否 女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、快 よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、父 であつたとすれば、代助は、それを経済的中途半端 と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は晩食 も食 はずに、すぐ又表 へ出た。五軒町から江戸川の縁 を伝 つて、河 を向 へ越した時は、先刻 散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を上 つて伝通院の横へ出 ると、細く高い烟突が、寺 と寺 の間 から、汚 ない烟 を、雲 の多い空 に吐 いてゐた。代助はそれを見 て、貧弱な工業が、生存の為 に無理に吐 く呼吸 を見苦 しいものと思つた。さうして其近 くに住 む平岡と、此烟突とを暗々 の裏 に連想せずにはゐられなかつた。斯 う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が先 に立つのが、代助の常 であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、空 に散 る憐れな石炭の烟 に刺激された。
平岡 の玄関の沓脱 には女の穿 く重 ね草履が脱 ぎ棄てゝあつた。格子を開 けると、奥の方から三千代が裾 を鳴 らして出 て来 た。其時上 り口 の二畳 は殆 んど暗 かつた。三千代 は其暗 い中 に坐 つて挨拶をした。始めは誰 が来 たのか、よく分 らなかつたらしかつたが、代助の声 を聞 くや否や、何方 かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は判然 見えない三千代の姿を、常よりは美 しく眺めた。
八の四
平岡 は不在 であつた。それを聞 いた時、代助は話 してゐ易 い様な、又話 してゐ悪 い様な変な気がした。けれども三千代の方は常 の通り落ち付 いてゐた。洋燈 も点 けないで、暗 い室 を閉 て切つた儘二人 で坐 つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻 其所 迄用達 に出 て、今帰つて夕食 を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が出 た。
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外 へ出 なくなつた。疲 れたと云つて、よく宅 に寐 てゐる。でなければ酒 を飲 む。人 が尋 ねて来 れば猶飲 む。さうして善 く怒 る。さかんに人 を罵倒する。のださうである。
「昔 と違 つて気が荒 くなつて困 るわ」と云つて、三千代 は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙 つてゐた。下女が帰 つて来 て、勝手口 でがた/\音 をさせた。しばらくすると、胡摩竹 の台 の着 いた洋燈 を持つて出 た。襖 を締 める時 、代助の顔 を偸 む様に見て行つた。
代助は懐 から例の小切手 を出 した。二つに折 れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛 けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「先達 て御頼 の金 ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼 を挙 げて代助を見た。
「実 は、直 にもと思つたんだけれども、此方 の都合が付 かなかつたものだから、遂 遅 くなつたんだが、何 うですか、もう始末は付 きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな低 い声になつた。さうして怨 ずる様に、
「未 ですわ。だつて、片付 く訳が無 いぢやありませんか」と云つた儘、眼 を□ つて凝 と代助を見てゐた。代助は折 れた小切手を取り上 げて二つに開 いた。
「是丈ぢや駄目 ですか」
三千代は手を伸 ばして小切手を受取 つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静 かに小切手を畳 の上 に置 いた。
代助は金 を借りて来 た由来を、極ざつと説明して、自分は斯 ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出 さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪 く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、私 も承知してゐますわ。けれども、困 つて、何 うする事も出来 ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫 を述べた。代助はそこで念を押した。
「夫 丈で、何 うか始末が付 きますか。もし何 うしても付 かなければ、もう一遍工面 して見るんだが」
「もう一遍 工面するつて」
「判を押 して高い利のつく御金 を借 りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消 す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方 」
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質 の悪 い金 を借 り始めたのが転々 して祟つてゐるんだと云ふ事を聞 いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通 つてゐたのだが、三千代が産後 心臓が悪 くなつて、ぶら/\し出 すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程 烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際 上已 を得ないんだらうと諦 めてゐたが、仕舞にはそれが段々高 じて、程度 が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体 が悪 くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私 が悪 いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい顔 をして、責 めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸 可 かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方 から問 ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱 つちや不可 ない。昔 の様に元気に御成 んなさい。さうして些 と遊びに御出 なさい」と勇気をつけた。
「本当 ね」と三千代は笑つた。彼等は互 の昔 を互 の顔 の上 に認めた。平岡はとう/\帰つて来 なかつた。
八の五
中二日 置 いて、突然平岡が来 た。其日 は乾いた風 が朗 らかな天 を吹 いて、蒼 いものが眼 に映 る、常 よりは暑 い天気であつた。朝 の新聞に菖蒲の案内が出 てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭 はとう/\縁側で散 つて仕舞つた。其代り脇差 程も幅 のある緑 の葉 が、茎 を押し分けて長 く延 びて来 た。古 い葉 は黒 ずんだ儘 、日に光 つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分 から折れて、茎 を去る五寸許 の所 で、急に鋭 く下 つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏 を持 つて椽に出た。さうして其葉 を折 れ込 んだ手前 から、剪 つて棄てた。時に厚い切 り口 が、急に煮染 む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音 がした。切口 に集 つたのは緑色 の濃い重 い汁 であつた。代助は其香 を嗅 がうと思つて、乱 れる葉 の中 に鼻を突 つ込んだ。椽側の滴 は其儘にして置いた。立ち上 がつて、袂 から手帛 を出 して、鋏 の刃 を拭 いてゐる所へ、門野 が平岡さんが御出 ですと報 せて来 たのである。代助は其時平岡の事 も三千代の事も、丸で頭 の中 に考へてゐなかつた。只 不思議な緑色 の液体 に支配されて、比較的世間 に関係のない情調の下 に動 いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「此方 へ御通 し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席 に導 かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着 てゐた。襟 も白襯衣 も新 らしい上 に、流行の編襟飾 を掛 けて、浪人とは誰 にも受け取れない位、ハイカラに取り繕 ろつてゐた。
話 して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日斯 うして遊 んで歩 く。それでなければ、宅 に寐 てゐるんだと云つて、大きな声を出 して笑つて見せた。代助もそれが可 からうと答へたなり、後 は当 らず障らずの世間話 に時間 を潰 してゐた。けれども自然に出 る世間話 といふよりも、寧ろある問題を回避する為 の世間話 だから、両方共に緊張 を腹 の底 に感 じてゐた。
平岡は三千代の事も、金 の事も口 へ出 さなかつた。従 がつて三日前 代助が彼 の留守宅を訪問した事に就ても何も語 らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触 れないで澄 してゐたが、何時 迄経 つても、平岡の方で余所 々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日前 君の所 へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様 だつたさうだね。其節は又難有う。御蔭 さまで。――なに、君を煩はさないでも何 うかなつたんだが、彼奴 があまり心配し過 て、つい君に迷惑を掛けて済 まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来 た様 なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出 るだらうから」と丸で三千代と自分を別物 にした言分 であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話 は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持 たない方面に摺 り滑 つて行 つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已 めるかも知れない。実際内幕 を知れば知る程厭 になる。其上此方 へ来 て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底 かららしい告白をした。代助は、一口 、
「それは、左様 だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付 けた。
「先達ても一寸 話 したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口 があるのかい」と代助が聞 き返した。
「今 、一 つある。多分出来 さうだ」
来 た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口 があるから出様と云ふし、少し要領を欠 いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
八の六
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身 を寄せて、敷居 の上 に立つてゐた。門野 も御附合 に平岡の後姿 を眺 めてゐた。が、すぐ口 を出 した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服装 ぢや、少 し宅 の方が御粗末過 る様です」
「左様 でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「全 たく、服装 丈ぢや分 らない世の中 になりましたからね。何処 の紳士かと思ふと、どうも変 ちきりんな家 へ這入 てますからね」と門野 はすぐあとを付けた。
代助は返事も為 ずに書斎へ引き返した。椽側に垂 れた君子蘭 の緑 の滴 がどろ/\になつて、干上 り掛 つてゐた。代助はわざと、書斎と座敷 の仕切 を立 て切 つて、一人 室 のうちへ這入 つた。来客に接 した後 しばらくは、独坐 に耽 るが代助の癖 であつた。ことに今日 の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。逢 ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰 に逢つても左 んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過 なかつた。大地 は自然に続 いてゐるけれども、其上に家 を建 てたら、忽ち切 れ/\ になつて仕舞つた。家 の中 にゐる人間 も亦切 れ切 れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣 いて貰 ふ事を喜 こぶ人 であつた。今 でも左様 かも知れない。が、些 ともそんな顔 をしないから、解 らない。否、力 めて、人 の同情を斥 ける様に振舞 つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ悟 りか、何方 かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、人 の為 に泣 く事の好 きな男であつた。それが次第々々に泣 けなくなつた。泣 かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は寧 ろ之 を逆 にして、泣 かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の圧迫 を受 けて、其重荷 の下 に唸 る、劇烈な生存競争場裏に立つ人 で、真 によく人 の為 に泣き得るものに、代助は未 だ曾 て出逢 はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪 の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌 してゐると判じた。昔しの代助も、時々 わが胸のうちに、斯う云ふ影 を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲 しかつた。今 は其悲 しみも殆んど薄 く剥 がれて仕舞つた。だから自分で黒い影 を凝 と見詰めて見る。さうして、これが真 だと思ふ。已 を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯 う云ふ意味の孤独の底 に陥 つて煩悶するには、代助の頭 はあまりに判然 し過 てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏 むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今 の自分の眼 に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過 ないと見傚した。けれども、同時に、両人 の間 に横 たはる一種の特別な事情の為 、此隔離が世間並 よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代 の結婚であつた。三千代 を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に悔 る様な薄弱な頭脳 ではなかつた。今日 に至つて振り返つて見ても、自分の所作 は、過去を照 らす鮮 かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人 の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に頭 を下 げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と何故 三千代を貰 つたかと思ふ様になつた。代助は何処 かしらで、何故 三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に閉 ぢ籠 つて一日 考へに沈 んでゐた。晩食 の時、門野が、
「先生今日 は一日 御勉強ですな。どうです、些 と御散歩になりませんか。今夜 は寅毘沙 ですぜ。演芸館で支那人 の留学生が芝居を演 つてます。どんな事を演 る積ですか、行 つて御覧なすつたら何 うです。支那人 てえ奴 は、臆面がないから、何 でも遣 る気だから呑気なもんだ。……」と一人 で喋舌 つた。
九の一
代助は又 父 から呼 ばれた。代助には其用事が大抵分 つてゐた。代助は不断 から成るべく父 を避 けて会 はない様にしてゐた。此頃 になつては猶更奥 へ寄 り付 かなかつた。逢 ふと、叮嚀な言葉を使 つて応対してゐるにも拘はらず、腹 の中 では、父 を侮辱 してゐる様な気がしてならなかつたからである。
代助は人類の一人 として、互 を腹 の中 で侮辱する事なしには、互 に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯 と心得てゐた。
この二 つの因数 は、何処 かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較 べる日の来 る迄は、此平衡は日本に於て得 られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯 ゝる日 は、到底日本の上を照 らさないものと諦 めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭 の中 に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人 として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
代助の父 の場合は、一般に比 べると、稍 特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近 な真 を、眼中 に置かない無理なものであつた。にも拘 はらず、父 は習慣に囚へられて、未 だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為 に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父 は自認してゐなかつた。昔 の自分が、昔通 りの心得で、今の事業を是迄に成し遂 げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭 める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充 たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之 を敢てする個人は、矛盾の為 に大苦痛を受 けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明 らかで、何の為 の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍 い劣等な人種である。代助は父に対する毎 に、父 は自己を隠蔽 する偽君子 か、もしくは分別の足らない愚物 か、何方 かでなくてはならない様な気がした。さうして、左 う云ふ気がするのが厭 でならなかつた。
と云つて、父 は代助の手際で、何 うする事も出来ない男であつた。代助には明 らかに、それが分 つてゐた。だから代助は未 だ曾 て父 を矛盾の極端迄追ひ詰 めた事がなかつた。
代助は凡ての道徳の出立点 は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭 の中に硬張 つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過 ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時 、昔 の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父 から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭 の中 に起した。代助はそれを恨 めしく思つてゐる位であつた。
代助は此前 梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸 奥 へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父 さんはゐるんですかと空 とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日 はちと急 ぐから廃 さうと帰つて来 た。
九の二
今日 はわざ/\其為 に来 たのだから、否 でも応でも父 に逢はなければならない。相変らず、内 玄関の方から廻つて座敷へ来 ると、珍 らしく兄 の誠吾が胡坐 をかいて、酒 を呑んでゐた。梅子も傍 に坐 つてゐた。兄 は代助を見て、
「何 うだ、一盃遣 らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜 を持つて振 つて見せた。中 にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を敲 いて洋盞 を取り寄せた。
「当 てゝ御覧 なさい。どの位古 いんだか」と一杯注 いだ。
「代助に分 るものか」と云つて、誠吾は弟の唇 のあたりを眺 めてゐた。代助は一口 飲 んで盃 を下 へ下 した。肴 の代りに薄いウエーファーが菓子皿 にあつた。
「旨 いですね」と云つた。
「だから時代を当 てゝ御覧なさいよ」
「時代 があるんですか。偉 いものを買ひ込んだもんだね。帰 りに一本 貰 つて行 かう」
「御生憎様、もう是限 なの。到来物 よ」と云つて梅子は椽側へ出 て、膝 の上 に落 ちたウエーフアーの粉 を払 いた。
「兄 さん、今日 は何 うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が聞 いた。
「今日 は休養だ。此間中 は何 うも忙 し過 て降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻 を口 に啣えた。代助は自分の傍 にあつた燐寸 を擦 つて遣 つた。
「代 さん貴方 こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から帰 つて来 た。
「姉 さん歌舞伎座へ行 きましたか。まだなら、行 つて御覧なさい。面白いから」
「貴方 もう行 つたの、驚ろいた。貴方 も余 っ程怠 けものね」
「怠 けものは可 くない。勉強の方向が違ふんだから」
「押 の強い事ばかり云つて。人 の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤 い瞼 をして、ぽかんと葉巻 の烟 を吹 いてゐた。
「ねえ、貴方 」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに葉巻 を指 の股 へ移して、
「今のうち沢山 勉強して貰 つて置いて、今 に此方 が貧乏したら、救 つて貰 ふ方が好 いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞 を姉の前に出 した。梅子も黙 つて葡萄酒の壜を取り上 げた。
「兄 さん、此間中 は何だか大変忙 しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転 んで仕舞つた。
「何 か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙 しかつた」
兄 の答は何時 でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽 に其返事の中 に這入 てゐた。
「日糖も詰 らない事 になつたが、あゝなる前に何 うか方法はないもんでせうかね」
「左 うさなあ。実際世 の中 の事は、何 が何 うなるんだか分 らないからな。――梅 、今日 は直木 に云ひ付 けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可 いよ。あゝ大食 をして寐て許 ゐちや毒だ」と誠吾は眠 さうな瞼 を指 でしきりに擦 つた。代助は、
「愈 奥 へ行 つて御父 さんに叱 られて来 るかな」と云ひながら又洋盞 を嫂 の前へ出 した。梅子は笑 つて酒 を注 いだ。
「嫁 の事か」と誠吾が聞 いた。
「まあ、左 うだらうと思ふんです」
「貰 つて置 くがいゝ。さう老人 に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然 した語勢で、
「気を付 けないと不可 よ。少し低気圧が来 てゐるから」と注意した。代助は立 ち掛けながら、
「まさか此間中 の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄 は寐転んだ儘、
「何 とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時 拘引されるか分 らない身体 なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を仰 しやるなよ」と梅子が窘 めた。
「矢っ張り僕 ののらくらが持ち来 たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。
九の三
廊下伝 ひに中庭 を越 して、奥 へ来 て見ると、父 は唐机 の前 へ坐 つて、唐本 を見 てゐた。父 は詩が好 で、閑 があると折々支那人の詩集を読 んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引 になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来上 つた兄 でも、成るべく近寄 らない事にしてゐた。是非顔 を合 せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方 か引張 て父 の前 へ出 る手段を取 つてゐた。代助も椽側迄来 て、そこに気が付 いたが、夫程 の必要もあるまいと思つて、座敷を一 つ通 り越して、父 の居間 に這入つた。
父はまづ眼鏡 を外 した。それを読み掛けた書物の上 に置くと、代助の方に向き直 つた。さうして、たゞ一言 、
「来 たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏 な位であつた。代助は膝 の上 に手を置きながら、兄 が真面目 な顔をして、自分を担 いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又苦 い茶を飲 ませられて、しばらく雑談に時を移 した。今年 は芍薬 の出 が早いとか、茶摘歌 を聞 いてゐると眠 くなる時候だとか、何所 とかに、大きな藤 があつて、其花の長さが四尺足 らずあるとか、話 は好加減 な方角へ大分 長く延 びて行 つた。代助は又 其方 が勝手なので、いつ迄も延 ばす様にと、後 から後 を付 けて行 つた。父 も仕舞には持て余 して、とう/\、時に今日 御前を呼んだのはと云ひ出した。
代助はそれから後 は、一言 も口 を利 かなくなつた。只謹んで親爺 の云ふことを聴 いてゐた。父 も代助から斯 う云ふ態度に出られると、長い間 自分一人 で、講義でもする様に、述 べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞 いてゐた。
父 の長 談義のうちに、代助は二三の新 しい点も認 めた。その一つは、御前は一体是からさき何 うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄父 からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外 す事に慣 れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口 から出任 せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父 を怒 らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父 の頭 を教育した上 でなくつては、通じない理窟になる。何故 と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破 る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父 が、其通りを聞 いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通 じつこないかも知れない。父 の気に入る様にするのは、何でも、国家の為 とか、天下の為 とか、景気の好 い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述 べて置けば済 むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気 てゐて、口 へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立 てゝ来 て、御相談をする積であると答へた。答へた後 で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は次 に、独立の出来る丈の財産が欲 しくはないかと聞かれた。代助は無論欲 しいと答へた。すると、父 が、では佐川の娘 を貰 つたら好 からうと云ふ条件を付 けた。其財産は佐川の娘 が持つて来 るのか、又は父 が呉 れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少 し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已 めた。
次 に、一層 洋行する気はないかと云はれた。代助は好 いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出 て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父 の顔 が赤 くなつた。
九の四
代助は父 を怒 らせる気は少しもなかつたのである。彼 の近頃の主義として、人 と喧嘩をするのは、人間 の堕落の一範鋳 になつてゐた。喧嘩 の一部分として、人 を怒 らせるのは、怒 らせる事自身よりは、怒 つた人 の顔色 が、如何に不愉快にわが眼 に映 ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷 ける打撃に外 ならぬと心得てゐた。彼 は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有 つてゐた。けれども、それが為 に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰 を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬 つたものゝ受くる罰 は、斬 られた人 の肉 から出 る血潮であると固 く信 じてゐた。迸 しる血の色を見て、清 い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔 の色 を赤くした父 を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父 の云ふ通りにしやうと云ふ気は些 とも起らなかつた。彼 は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
其時父 は頗 る熱した語気で、先 づ自分の年 を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁 を持 たせるのは親 の義務であると云ふ事、嫁 の資格其他に就ては、本人よりも親 の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他 の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後 になると、もう一遍うるさく干 渉して貰ひたい時機が来 るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説 いた。代助は慎重な態度で、聴 いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾 の意を表さなかつた。すると父 はわざと抑 えた調子で、
「ぢや、佐川は已 めるさ。さうして誰 でも御前の好 なのを貰 つたら好 いだらう。誰 か貰 ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂 の質問と同様であるが、代助は梅子 に対 する様に、たゞ苦笑 ばかりしてはゐられなかつた。
「別 にそんな貰ひたいのもありません」と明 らかな返事をした。すると父 は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、少 しは此方 の事も考へて呉れたら好 からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然父 が代助を離れて、彼 自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上 に注 がれた丈であつた。
「貴方 にそれ程御都合が好 い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何 うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫 が為 め、よく人 から、相手を遣 り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼 程人を遣 り込める事の嫌な男はないのである。
「何も己 の都合許 で、嫁 を貰へと云つてやしない」と父 は前 の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の為 、云つて聞かせるが、御前 はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間 では何 と思ふか大抵分 るだらう。そりや今 は昔 と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の為 に親 や兄弟が迷惑 したり、果 は自分の名誉に関係 する様な事が出来 したりしたら何 うする気だ」
代助はたゞ茫然として父 の顔 を見てゐた。父 は何 の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分 らなかつたからである。しばらくして、
「そりや私 のことだから少 しは道楽もしますが……」と云ひかけた。父 はすぐ夫 を遮 ぎつた。
「そんな事 ぢやない」
二人 は夫限 りしばらく口 を利 かずにゐた。父 は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和 らげて、
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、父 の室 を退 ぞいた。座敷へ来 て兄 を探 したが見えなかつた。嫂 はと尋ねたら、客間 だと下女が教へたので、行 つて戸を明 けて見ると、縫子のピヤノの先生が来 てゐた。代助は先生に一寸 挨拶をして、梅子 を戸口 迄呼 び出 した。
「あなたは僕 の事を何か御父 さんに讒訴しやしないか」
梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度好 い所だから」と云つて、代助を楽器の傍 迄引張つて行 つた。
十の一
蟻 の座敷 へ上 がる時候になつた。代助は大きな鉢 へ水を張 つて、其中 に真白 なリリー、オフ、ゼ、□レーを茎 ごと漬 けた。簇 がる細 かい花が、濃 い模様の縁 を隠 した。鉢 を動 かすと、花 が零 れる。代助はそれを大 きな字引 の上 に載 せた。さうして、其傍 に枕 を置 いて仰向 けに倒れた。黒 い頭 が丁度鉢 の陰 になつて、花から出 る香 が、好 い具合に鼻 に通 つた。代助は其香 を嗅 ぎながら仮寐 をした。
代助は時々 尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇 しくなると、晴天から来 る日光 の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る可 く世間 との交渉を稀薄にして、朝 でも午 でも構はず寐 る工夫をした。其手段には、極めて淡 い、甘味 の軽 い、花 の香 をよく用ひた。瞼 を閉 ぢて、瞳 に落 ちる光線を謝絶して、静かに鼻 の穴 丈で呼吸 してゐるうちに、枕元 の花 が、次第に夢 の方 へ、躁 ぐ意識を吹 いて行く。是が成功すると、代助の神経が生 れ代 つた様に落ち付いて、世間 との連絡 が、前よりは比較的楽 に取れる。
代助は父 に呼 ばれてから二三日の間 、庭 の隅 に咲いた薔薇 の花 の赤 いのを見るたびに、それが点々 として眼 を刺 してならなかつた。其時は、いつでも、手水鉢 の傍 にある、擬宝珠 の葉 に眼 を移 した。其葉 には、放肆 な白 い縞 が、三筋 か四筋 、長 く乱 れてゐた。代助が見るたびに、擬宝珠 の葉 は延 びて行く様に思はれた。さうして、それと共に白 い縞 も、自由に拘束なく、延 びる様な気がした。柘榴 の花 は、薔薇 よりも派出 に且つ重苦 しく見えた。緑 の間 にちらり/\と光 つて見える位、強い色を出 してゐた。従つて是 も代助の今の気分には相応 らなかつた。
彼の今 の気分は、彼に時々 起 る如 く、総体の上 に一種の暗調を帯びてゐた。だから余 りに明 る過 るものに接すると、其矛盾に堪えがたかつた。擬宝珠 の葉 も長く見詰めてゐると、すぐ厭 になる位であつた。
其上 彼 は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出 した。其不安は人と人との間 に信仰がない源因から起 る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神 に信仰を置く事を喜 ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質 であつた。けれども、相互 に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱 する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神 のある国では、人が嘘 を吐 くものと極 めた。然し今の日本は、神 にも人 にも信仰のない国柄 であるといふ事を発見した。さうして、彼 は之を一 に日本の経済事情に帰着せしめた。
四五日前、彼は掏摸 と結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人 や二人 ではなかつた。他の新聞の記 す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥 るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
代助が父に逢 つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父 に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父 を尤もだと肯 ふ積りだつたからである。
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好 く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有 ち得なかつた。嫂 は実意のある女であつた。然し嫂 は、直接生活の難関に当 らない丈、それ丈兄 よりも近付き易 いのだと考へてゐた。
代助は平生から、此位に世の中 を打遣 つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。夫 が、何 う云ふ具合か急に揺 き出 した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと察 した。そこである人が北海道から採 つて来 たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、□レーの束 を解 いて、それを悉く水 の中 に浸 して、其下 に寐 たのである。
十の二
一時間 の後 、代助は大きな黒い眼 を開 いた。其眼 は、しばらくの間 一つ所 に留 まつて全く動 かなかつた。手 も足 も寐 てゐた時の姿勢を少しも崩 さずに、丸で死人 のそれの様であつた。其時一匹の黒 い蟻 が、ネルの襟 を伝はつて、代助の咽喉 に落 ちた。代助はすぐ右の手を動 かして咽喉 を抑 へた。さうして、額 に皺 を寄 せて、指 の股 に挟 んだ小 さな動物を、鼻 の上 迄持つて来 て眺 めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指 の先 に着 いた黒いものを、親指 の爪 で向 へ弾 いた。さうして起 き上 がつた。
膝 の周囲 に、まだ三四匹 這つてゐたのを、薄 い象牙の紙小刀 で打ち殺した。それから手を叩 いて人 を呼 んだ。
「御目醒 ですか」と云つて、門野 が出 て来 た。
「御茶でも入 れて来 ませうか」と聞 いた。代助は、はだかつた胸 を掻 き合 せながら、
「君 、僕 の寐てゐるうちに、誰 か来 やしなかつたかね」と、静 かな調子で尋ねた。
「えゝ、御出 でした。平岡の奥さんが。よく御存 じですな」と門野 は平気に答へた。
「何故 起 さなかつたんだ」
「余 まり能 く御休 でしたからな」
「だつて御客 なら仕方 がないぢやないか」
代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの方 で、起 さない方が好 いつて、仰 しやつたもんですからな」
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに帰 つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸 神楽坂 に買物 があるから、それを済 まして又来 るからつて、云はれるもんですからな」
「ぢや又来 るんだね」
「さうです。実 は御目覚 になる迄待 つてゐやうかつて、此座敷迄上 つて来 られたんですが、先生の顔 を見て、あんまり善 く寐 てゐるもんだから、こいつは、容易に起 きさうもないと思つたんでせう」
「また出 て行 つたのかい」
「えゝ、まあ左 うです」
代助は笑ひながら、両手で寐起 の顔 を撫 でた。さうして風呂場へ顔 を洗ひに行 つた。頭 を濡 らして、椽側 迄帰 つて来 て、庭 を眺 めてゐると、前 よりは気分が大分 晴々 した。曇 つた空 を燕 が二羽 飛んでゐる様 が大いに愉快に見えた。
代助は此前 平岡の訪問を受けてから、心待 に、後 から三千代の来 るのを待 つてゐた。けれども、平岡 の言葉 は遂 に事実として現 れて来 なかつた。特別の事情があつて、三千代 がわざと来 ないのか、又は平岡が始 めから御世辞を使 つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心 の何処 かに空虚 を感じてゐた。然し彼 は此 空虚 な感じを、一つの経験として日常生活中に見出 した迄で、其原因をどうするの、斯 うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥 を覗 き込むと、それ以上に暗 い影 がちらついてゐる様に思つたからである。
それで彼 は進 んで平岡を訪問するのを避 けてゐた。散歩のとき彼 の足 は多く江戸川の方角に向 いた。桜 の散 る時分には、夕暮 の風 に吹 かれて、四 つの橋 を此方 から向 へ渡 り、向 から又此方 へ渡 り返して、長い堤 を縫 ふ様に歩 いた。が其桜 はとくに散 て仕舞つて、今 は緑蔭の時節になつた。代助は時々 橋 の真中 に立 つて、欄干に頬杖を突いて、茂 る葉 の中 を、真直 に通 つてゐる、水 の光 を眺 め尽 して見 る。それから其光 の細 くなつた先 の方 に、高く聳える目白台の森 を見上 て見 る。けれども橋を向 へ渡 つて、小石川の坂 を上 る事はやめにして帰 る様になつた。ある時 彼 は大曲 の所で、電車を下 る平岡の影 を半町程手前から認 めた。彼 は慥 に左様 に違 ないと思つた。さうして、すぐ揚場 の方へ引 き返した。
彼 は平岡の安否 を気 にかけてゐた。まだ坐食 の不安な境遇に居 るに違 ないとは思ふけれども、或は何 の方面かへ、生活の行路 を切り開く手掛りが出来 たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確 める為 に、平岡 の後 を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面 するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為 にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪 んでもゐなかつた。平岡の為 にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。
十の三
斯んな風 に、代助は空虚なるわが心 の一角 を抱 いて今日 に至つた。いま先方 門 野を呼 んで括 り枕 を取 り寄 せて、午寐 を貪 ぼつた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭 を、出来 るならば、蒼 い色 の付 いた、深 い水 の中 に沈 めたい位に思つた。それ程彼 は命 を鋭 く感じ過 ぎた。従つて熱 い頭 を枕へ着 けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして涼 しい心持に寐 た。けれども其穏 やかな眠 のうちに、誰 かすうと来 て、又すうと出 て行 つた様な心持がした。眼 を醒 まして起 き上 がつても其感じがまだ残つてゐて、頭 から拭 ひ去る事が出来なかつた。それで門野を呼んで、寐 てゐる間 に誰 か来 はしないかと聞 いたのである。
代助は両手を額 に当 てゝ、高 い空 を面白さうに切 つて廻 る燕 の運動を椽側から眺めてゐたが、やがて、それが眼 ま苦 しくなつたので、室 の中 に這入 つた。けれども、三千代 が又訪 ねて来 ると云ふ目前の予期が、既 に気分の平調を冒 してゐるので、思索も読書も殆んど手に着 かなかつた。代助は仕舞に本棚 の中 から、大きな画帖を出 して来 て、膝の上 に広 げて、繰 り始 めた。けれども、それも、只 指 の先 で順々に開 けて行 く丈であつた。一つ画を半分 とは味 はつてゐられなかつた。やがてブランギンの所 へ来 た。代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有つてゐた。彼 の眼 は常 の如く輝 を帯びて、一度 は其上 に落 ちた。それは何処 かの港 の図であつた。背景に船 と檣 と帆 を大きく描 いて、其余 つた所に、際立 つて花やかな空 の雲 と、蒼黒 い水 の色をあらはした前 に、裸体 の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩 から脊 へかけて、肉塊 と肉塊 が落ち合つて、其間に渦 の様な谷 を作 つてゐる模様を見て、其所 にしばらく肉の力 の快感を認めたが、やがて、画帖を開 けた儘、眼 を放 して耳 を立 てた。すると勝手の方で婆さんの声がした。それから牛乳配達が空壜 を鳴らして急ぎ足に出て行つた。宅 のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く応 へた。
代助はぼんやり壁 を見詰めてゐた。門野 をもう一返呼 んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何 うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから憚 かつた。それ許 ではない、人 の細君が訪 ねて来 るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方 から何時 でも行 つて話 をすべきであると考へた。此矛盾の両面を双対 に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる色々 の因数 を自分で善 く承知してゐた。さうして、今 の自分に取 つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方 ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題 を繋 ぎ合 はして出来上 つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰 を卸した。
それから三千代の来 る迄、代助はどんな風に時 を過 したか、殆んど知らなかつた。表 に女の声がした時 、彼は胸 に一鼓動 を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来怒 れなくなつたのは、全 く頭 の御蔭 で、腹 を立 てる程自分を馬鹿にすることを、理智 が許 さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情緒 の支配を受けるべく余儀なくされてゐた。取次 に出 た門野 が足音 を立 てゝ、書斎の入口 にあらはれた時、血色 のいゝ代助の頬 は微 かに光沢 を失 つてゐた。門野 は、
「此方 にしますか」と甚だ簡単に代助の意向を確 めた。座敷 へ案内するか、書斎で逢ふかと聞くのが面倒だから、斯 う詰 めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、入口 に返事を待 つてゐた門野 を追ひ払 ふ様に、自分で立 つて行 つて、椽側へ首 を出 した。三千代は椽側と玄関 の継目 の所に、此方 を向 いてためらつて居 た。
十の四
三千代の顔 は此前 逢 つた時 よりは寧ろ蒼白 かつた。代助に眼 と顎 で招 かれて書斎の入口 へ近寄 つた時、代助は三千代の息 を喘 ましてゐることに気が付いた。
「何 うかしましたか」と聞 いた。
三千代は何 にも答へずに室 の中 に這入 て来 た。セルの単衣 の下 に襦袢を重 ねて、手 に大きな白い百合 の花 を三本許 提 げてゐた。其百合 をいきなり洋卓 の上 に投 げる様に置 いて、其横 にある椅子 へ腰 を卸 した。さうして、結 つた許 の銀杏返 を、構 はず、椅子 の脊 に押 し付 けて、
「あゝ苦 しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑 つた。代助は手を叩 いて水 を取り寄 せ様とした。三千代は黙 つて洋卓 の上 を指 した。其所 には代助の食後 の嗽 をする硝子 の洋盃 があつた。中 に水 が二口許 残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞 いた。
「此奴 は先刻 僕 が飲んだんだから」と云つて、洋盃 を取 り上 げたが、□躇 した。代助の坐 つてゐる所から、水 を棄 てやうとすると、障子の外 に硝子戸 が一枚邪魔をしてゐる。門野 は毎朝椽側の硝子戸 を一二枚宛開 けないで、元 の通 りに放 つて置く癖 があつた。代助は席 を立 つて、椽へ出 て、水 を庭 へ空 けながら、門野 を呼 んだ。今ゐた門 野は何処 へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少 しまごついて、又三千代 の所 へ帰つて来 て、
「今 すぐ持 つて来 て上 げる」と云ひながら、折角空 けた洋盃 を其儘洋卓 の上に置 いたなり、勝手の方へ出 て行つた。茶 の間 を通ると、門野 は無細工な手をして錫 の茶壺 から玉露を撮 み出 してゐた。代助の姿 を見て、
「先生、今直 です」と言訳 をした。
「茶は後 でも好 い。水 が要 るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ出 た。
「はあ、左様 ですか。上 がるんですか」と茶壺 を放り出 して門野も付 いて来 た。二人 で洋盃 を探 したが一寸 見付 からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて置 けば可 いのに」と代助は水道の栓 を捩 つて湯呑に水を溢 らせながら云つた。
「つい、小母 さんに、御客さんの呉 る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野 は気の毒さうに頭 を掻 いた。
「ぢや、君が菓子を買 に行 けば可 いのに」と代助は勝手 を出 ながら、門野 に当 つた。門野 はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外 にも、まだ色々 買 物があるつて云ふもんですからな。足 は悪 し天気は好 くないし、廃 せば好 いんですのに」
代助は振 り向きもせず、書斎へ戻 つた。敷居 を跨いで、中 へ這入るや否や三千代の顔 を見ると、三千代は先刻 代助 の置 いて行 つた洋盃 を膝の上 に両手で持つてゐた。其洋盃 の中 には、代助が庭 へ空 けたと同じ位に水 が這入 つてゐた。代助は湯呑を持 つた儘 、茫然として、三千代の前 に立 つた。
「何 うしたんです」と聞 いた。三千代は例 の通り落ち付いた調子で、
「難有 う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、□レーの漬 けてある鉢 を顧 みた。代助は此大鉢 の中 に水を八分目 程張 つて置いた。妻 楊枝位な細 い茎 の薄青 い色 が、水 の中 に揃 つてゐる間 から、陶器 の模様が仄 かに浮 いて見えた。
「何故 あんなものを飲んだんですか」と代助は呆 れて聞 いた。
「だつて毒 ぢやないでせう」と三千代は手に持 つた洋盃 を代助の前へ出 して、透 かして見 せた。
「毒 でないつたつて、もし二日 も三日 も経 つた水 だつたら何 うするんです」
「いえ、先刻 来 た時、あの傍 迄顔 を持 つて行つて嗅 いで見たの。其時、たつた今其鉢 へ水 を入れて、桶 から移 した許 だつて、あの方 が云つたんですもの。大丈夫だわ。好 い香 ね」
代助は黙 つて椅子へ腰 を卸した。果して詩 の為 に鉢 の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促 がされて飲んだのか、追窮する勇気も出 なかつた。よし前者 とした所で、詩を衒 つて、小説の真似なぞをした受売 の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう好 くなりましたか」と聞 いた。
十の五
三千代の頬 に漸やく色が出 て来 た。袂 から手帛 を取り出 して、口 の辺 を拭 きながら話 を始 めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗 つて本郷迄買物 に出 るんだが、人 に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂 に比 べて、何 うしても一割か二割物 が高 いと云ふので、此間 から一二度此方 の方へ出 て来 て見た。此前 も寄 る筈 であつたが、つい遅 くなつたので急 いで帰 つた。今日 は其積 で早 く宅 を出 た。が、御息 み中 だつたので、又通 り迄行つて買物 を済 まして帰 り掛 けに寄 る事にした。所 が天気模様が悪 くなつて、藁店 を上 がり掛 けるとぽつ/\降 り出 した。傘 を持 つて来 なかつたので、濡 れまいと思つて、つい急 ぎ過 ぎたものだから、すぐ身体 に障 つて、息 が苦 しくなつて困つた。――
「けれども、慣 れつこに為 てるんだから、驚 ろきやしません」と云つて、代助を見て淋 しい笑 ひ方 をした。
「心臓の方 は、まだ悉皆 善 くないんですか」と代助は気の毒さうな顔 で尋ねた。
「悉皆 善 くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は沈 んでゐなかつた。繊 い指 を反 して穿 めてゐる指環 を見た。それから、手帛 を丸めて、又袂 へ入れた。代助は眼 を俯 せた女の額 の、髪 に連 なる所を眺めてゐた。
すると、三千代は急に思ひ出 した様に、此間 の小切手 の礼を述 べ出 した。其時 何だか少し頬 を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善 く分 つた。彼はそれを、貸借 に関係した羞恥 の血潮 とのみ解釈 した。そこで話 をすぐ他所 へ外 した。
先刻 三千代が提 げて這入 て来 た百合 の花が、依然として洋卓 の上 に載 つてゐる。甘 たるい強 い香 が二人 の間 に立ちつゝあつた。代助は此重苦 しい刺激を鼻の先 に置くに堪へなかつた。けれども無断 で、取り除 ける程、三千代に対 して思ひ切つた振舞が出来 なかつた。
「此花 は何 うしたんです。買 て来 たんですか」と聞 いた。三千代は黙 つて首肯 いた。さうして、
「好 い香 でせう」と云つて、自分の鼻 を、瓣 の傍 迄持 つて来 て、ふんと嗅 いで見せた。代助は思はず足 を真直 に踏 ん張 つて、身 を後 の方へ反 らした。
「さう傍 で嗅 いぢや不可 ない」
「あら何故 」
「何故 つて理由もないんだが、不可 ない」
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方 、此花 、御嫌 なの?」
代助は椅子の足 を斜 に立てゝ、身体 を後 へ伸 した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買 つて来 なくつても好 かつたのに。詰 らないわ、回 り路 をして。御負 に雨 に降 られ損 なつて、息 を切 らして」
雨 は本当に降 つて来た。雨滴 が樋に集 まつて、流れる音 がざあと聞 えた。代助は椅子から立ち上 がつた。眼 の前 にある百合の束 を取り上 げて、根元 を括 つた濡藁 を□ り切 つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活 けやう」と云ひながら、すぐ先刻 の大鉢 の中 に投 げ込 んだ。茎 が長 すぎるので、根 が水 を跳 ねて、飛 び出 しさうになる。代助は滴 る茎 を又 鉢 から抜 いた。さうして洋卓 の引出 から西洋鋏 を出 して、ぷつり/\と半分 程の長さに剪 り詰 めた。さうして、大きな花 を、リリー、オフ、ゼ、□レーの簇 がる上 に浮 かした。
「さあ是 で好 い」と代助は鋏 を洋卓 の上 に置いた。三千代は此不思議に無作法に活 けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然 、
「あなた、何時 から此花が御嫌 になつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の兄 がまだ生 きてゐる時分、ある日何 かのはづみに、長い百合 を買 つて、代助が谷中 の家 を訪 ねた事があつた。其時 彼は三千代に危 しげな花瓶 の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来 た花 を活 けて、三千代にも、三千代の兄 にも、床 へ向直 つて眺 めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方 だつて、鼻 を着 けて嗅 いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
十の六
そのうち雨 は益 深 くなつた。家 を包 んで遠い音 が聴 えた。門野 が出 て来 て、少 し寒 い様ですな、硝子戸 を閉 めませうかと聞 いた。硝子戸 を引 く間 、二人 は顔 を揃 えて庭 の方を見 てゐた。青 い木 の葉 が悉 く濡 れて、静 かな湿 り気 が、硝子越 に代助の頭 に吹 き込 んで来 た。世 の中 の浮 いてゐるものは残らず大地 の上 に落ち付 いた様に見えた。代助は久 し振 りで吾 に返 つた心持がした。
「好 い雨 ですね」と云つた。
「些 とも好 かないわ、私 、草履 を穿 いて来 たんですもの」
三千代は寧ろ恨 めしさうに樋から洩 る雨点 を眺 めた。
「帰 りには車 を云ひ付 けて上 げるから可 いでせう。緩 りなさい」
三千代はあまり緩 り出来 さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「貴方 も相変らず呑気 な事を仰 しやるのね」と窘 めた。けれども其眼元 には笑 の影 が泛 んでゐた。
今迄三千代の陰 に隠 れてぼんやりしてゐた平岡の顔 が、此時明 らかに代助の心 の瞳 に映 つた。代助は急に薄暗 がりから物 に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離 れ難 い黒い影 を引き摺 つて歩 いてゐる女であつた。
「平岡君は何 うしました」とわざと何気 なく聞 いた。すると三千代の口元 が心持 締 つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何 にも見付 らないんですか」
「その方はまあ安心なの。来月 から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりや好 かつた。些 とも知らなかつた。そんなら当分夫で好 いぢやありませんか」
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で真面目 に云つた。代助は、其時三千代を大変可愛 く感じた。引き続 いて、
「彼方 の方 は差し当 り責 められる様な事もないんですか」と聞 いた。
「彼方 の方 つて――」と少 し逡巡 つてゐた三千代は、急 に顔 を赧 らめた。
「私 、実は今日 夫 で御詫 に上 つたのよ」と云ひながら、一度俯向 いた顔を又上 げた。
代助は少しでも気不味 い様子を見せて、此上にも、女の優 しい血潮を動 かすに堪えなかつた。同時に、わざと向 ふの意を迎へる様な言葉を掛 けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
先達 ての二百円は、代助から受取 るとすぐ借銭 の方へ回 す筈 であつたが、新 らしく家 を持 つた為 、色々 入費が掛 つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁 じたのが始 りであつた。あとはと思つてゐると、今度 は毎日の活計 に追 はれ出 した。自分ながら好 い心持 はしなかつたけれども、仕方 なしに困 るとは使 ひ、困 るとは使 して、とう/\荒増 亡 くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日 迄斯 うして暮 らしては行 けなかつたのである。今から考へて見ると、一層 の事無 ければ無 いなりに、何 うか斯 うか工面 も付 いたかも知れないが、なまじい、手元 に有 つたものだから、苦 し紛 れに、急場 の間 に合 はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭 の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧 ろ平岡の悪 いのではない。全く自分の過 である。
「私 、本当 に済 まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して貴方 を瞞 して嘘 を吐 く積 ぢやなかつたんだから、堪忍 して頂戴」と三千代は甚だ苦 しさうに言訳 をした。
「何 うせ貴方 に上 げたんだから、何 う使 つたつて、誰 も何とも云ふ訳はないでせう。役 にさへ立 てば夫 で好 いぢやありませんか」と代助は慰 めた。さうして貴方 といふ字をことさらに重 く且つ緩 く響 かせた。三千代はたゞ、
「私 、夫 で漸く安心したわ」と云つた丈であつた。
雨が頻 なので、帰 るときには約束通り車 を雇つた。寒 いので、セルの上 へ男の羽織を着 せやうとしたら、三千代は笑つて着 なかつた。
十一の一
何時 の間 にか、人 が絽 の羽織を着 て歩 く様になつた。二三日、宅 で調物 をして庭先 より外 に眺 めなかつた代助は、冬帽を被 つて表 へ出て見 て、急に暑さを感じた。自分もセルを脱 がなければならないと思つて、五六町歩 くうちに、袷 を着 た人 に二人 出逢 つた。左様 かと思ふと新らしい氷屋で書生が洋盃 を手 にして、冷 たさうなものを飲んでゐた。代助は其時誠太郎を思ひ出 した。
近頃代助は元 よりも誠太郎が好 きになつた。外 の人間 と話 してゐると、人間 の皮 と話 す様で歯痒 くつてならなかつた。けれども、顧 みて自分を見ると、自分は人間中 で、尤も相手を歯痒 がらせる様に拵 えられてゐた。是も長年 生存競争の因果 に曝 された罰 かと思ふと余り難有い心持はしなかつた。
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く此間 浅草の奥山 へ一所に連 れて行 つた結果である。あの一図な所はよく、嫂 の気性を受け継 いでゐる。然し兄 の子丈あつて、一図なうちに、何処 か逼 らない鷹揚 な気象がある。誠太郎の相手をしてゐると、向ふの魂 が遠慮なく此方 へ流 れ込 んで来 るから愉快である。実際代助は、昼夜 の区別なく、武装を解 いた事 のない精神に、包囲されるのが苦痛であつた。
誠太郎は此春 から中学校へ行き出 した。すると急に脊丈 が延 びて来 る様に思はれた。もう一二年すると声が変 る。それから先 何 んな径路 を取つて、生長するか分 らないが、到底人間 として、生存する為 には、人間 から嫌 はれると云ふ運命に到着するに違 ない。其時 、彼 は穏 やかに人の目に着 かない服装 をして、乞食 の如く、何物をか求めつゝ、人 の市 をうろついて歩 くだらう。
代助は堀端 へ出 た。此間 迄向 の土手にむら躑躅 が、団団 と紅白 の模様を青い中 に印してゐたのが、丸で跡形 もなくなつて、のべつに草が生 い茂つてゐる高い傾斜の上 に、大きな松 が何十本となく並んで、何処 迄もつゞいてゐる。空 は奇麗に晴 れた。代助は電車 に乗 つて、宅 へ行つて、嫂 に調戯 つて、誠太郎と遊ばうと思つたが、急に厭 になつて、此松 を見 ながら、草臥 る所迄堀端 を伝 つて行く気になつた。
新見付 へ来 ると、向 から来 たり、此方 から行 つたりする電車が苦 になり出 したので、堀 を横切 つて、招魂社の横 から番町へ出 た。そこをぐる/\回 つて歩 いてゐるうちに、かく目的なしに歩 いてゐる事 が、不意に馬鹿らしく思はれた。目的があつて歩 くものは賤民だと、彼 は平生から信じてゐたのであるけれども、此場合に限 つて、其賤民の方が偉 い様な気がした。全 たく、又アンニユイに襲はれたと悟つて、帰 りだした。神楽坂へかゝると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしてゐた。其音 が甚しく金属 性の刺激を帯びてゐて、大いに代助の頭 に応 へた。
家 の門 を這入 ると、今度は門野 が、主人の留守を幸ひと、大きな声で琵琶歌をうたつてゐた。夫 でも代助の足音 を聞 いて、ぴたりと已 めた。
「いや、御早うがしたな」と云つて玄関へ出 て来 た。代助は何にも答へずに、帽子を其所 へ掛 けた儘、椽側から書斎へ這入つた。さうして、わざ/\障子を締 め切つた。つゞいて湯呑 に茶を注 いで持つて来 た門野が、
「締 めときますか。暑 かありませんか」と聞 いた。代助は袂 から手帛 を出 して額 を拭いてゐたが、矢っ張り、
「締 めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を締 めて出 て行つた。代助は暗 くした室 のなかに、十分許 ぽかんとしてゐた。
彼は人 の羨 やむ程光沢 の好 い皮膚 と、労働者に見出しがたい様に柔かな筋肉を有 つた男であつた。彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかつた位、健康に於て幸福を享 けてゐた。彼はこれでこそ、生甲斐 があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、他人 の倍以上に価値を有 つてゐた。彼の頭 は、彼の肉体と同じく確 であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事実である。それから時々 、頭 の中心 が、大弓 の的 の様に、二重 もしくは三重 にかさなる様に感ずる事があつた。ことに、今日 は朝 から左様 な心持がした。
十一の二
代助が黙然 として、自己 は何の為 に此世 の中 に生 れて来 たかを考へるのは斯 う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕 へて、彼 の眼前 に据ゑ付けて見た。其動機 は、単 に哲学上の好奇心から来 た事 もあるし、又世間 の現象が、余 りに複雑 な色彩 を以て、彼 の頭 を染め付 けやうと焦 るから来 る事もあるし、又最後には今日 の如くアンニユイの結果として来 る事もあるが、其都度 彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之 と反対に、生 れた人間 に、始めてある目的が出来 て来 るのであつた。最初から客観的にある目的を拵 らえて、それを人間 に附着するのは、其人間 の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間 の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩 きたいから歩 く。すると歩 くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩 いたり、考 へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自 ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望 、嗜欲 が起るたび毎 に、是等の願望 嗜欲 を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望 嗜欲 が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出 る一目的の消耗と解釈してゐた。これを煎 じ詰 めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を偽 らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
此主義を出来る丈遂行する彼 は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為 に、こんな事をしてゐるのかと考へ出 す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故 散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是 である。
其時彼 は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自 ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと名 けてゐた。アンニユイに罹 ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何 の為 と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外 ならなかつたからである。
彼 は立 て切 つた室 の中 で、一二度頭 を抑えて振 り動 かして見た。彼は昔 から今日 迄の思索家の、屡 繰 り返 した無意義な疑義を、又脳裏 に拈定 するに堪えなかつた。その姿 のちらりと眼前 に起 つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切 り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。従つて行為其物を目的として、円満に遂行する興味も有 たなかつた。彼はたゞ一人 荒野 の中 に立 つた。茫然としてゐた。
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ来 ると、此二つのものが火花 を散 らして切り結 ぶ関門 があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に留 めて我慢してゐた。彼の室 は普通の日本間 であつた。是 と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、額 さへ気の利 いたものは掛けてなかつた。色彩 として眼 を惹 く程に美 しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼 は今此書物の中 に、茫然として坐 つた。良 あつて、これほど寐入 つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何 うかしなければならぬと、思ひながら、室 の中 をぐる/\見廻 した。それから、又ぽかんとして壁 を眺 めた。が、最後 に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口 の内 で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに逢 はなくちや不可 ん」
十一の三
彼は足の進まない方角へ散歩に出 たのを悔いた。もう一遍出直 して、平岡の許 迄行 かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が来 た。新らしい麦藁 帽を被 つて、閑静な薄い羽織を着て、暑 い/\と云つて赤い顔 を拭 いた。
「何 だつて、今時分 来 たんだ」と代助は愛想 もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。
「今時分 が丁度訪問に好 い刻限だらう。君 、又昼寐 をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可 ん。君は一体何の為 に生 れて来 たのだつたかね」と云つて、寺尾は麦藁 帽で、しきりに胸のあたりへ風 を送 つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。
「何の為 に生 れて来 やうと、余計な御世話だ。夫 より君こそ何しに来 たんだ。又「此所 十日許 の間 」ぢやないか、金 の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先 へ断 つた。
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙 つて、寺尾の顔 を見てゐた。それは、空 しい壁 を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。
寺尾は懐 から汚 ない仮綴 の書物を出 した。
「是を訳 さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として黙 つてゐた。
「食 ふに困 らないと思つて、さう無精 な顔 をしなくつて好 からう。もう少し判然 として呉 れ。此方 は生死 の戦 だ」と云つて、寺尾は小形 の本をとん/\と椅子 の角 で二返敲 いた。
「何時 迄に」
寺尾は、書物の頁 をさら/\と繰 つて見せたが、断然たる調子で、
「二週間」と答へた後 で、「何 うでも斯 うでも、夫迄に片付 なけりや、食 へないんだから仕方がない」と説明した。
「偉 い勢 だね」と代助は冷 かした。
「だから、本郷からわざ/\遣 つて来 たんだ。なに、金 は借 りなくても好 い。――貸 せば猶好 いが――夫 より少し分 らない所があるから、相談しやうと思 つて」
「面倒だな。僕は今日 は頭 が悪 くつて、そんな事は遣 つてゐられないよ。好 い加減に訳して置けば構 はないぢやないか。どうせ原稿料は頁 で呉れるんだらう」
「なんぼ、僕 だつて、さう無責任な翻訳は出来 ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると後 から面倒だあね」
「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、
「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる人 は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、本 の善 く読める人 の所へ行 く気なら、わざ/\君の所迄来 やしない。けれども、左 んな人 は君 と違 つて、みんな忙 しいんだからな」と少 しも辟易した様子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか何方 かだと覚悟を極 めた。彼の性質として、斯 う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、怒 り付 ける気は出 せなかつた。
「ぢや成るべく少 しに仕様ぢやないか」と断 つて置いて、符号 の附 けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧 な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、
「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。
「分 らない所は何 する」と代助が聞 いた。
「なに何 かする。――誰 に聞 いたつて、さう善く分 りやしまい。第一時間 がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如く天 から極めてゐた。
相談が済 むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち出 した。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは違 つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑 しく思つた。けれども面倒だから、口 へは出 さなかつた。
寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた。
十一の四
晩食 の時 、丸善から小包 が届 いた。箸 を措 いて開 けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であつた。代助はそれを腋 の下 に抱 へ込 んで、書斎へ帰つた。一冊づゝ順々に取り上 げて、暗 いながら二三頁 、捲 る様に眼 を通 したが何処 も彼の注意を惹 く様な所はなかつた。最後の一冊に至つては、其名前さへ既に忘れてゐた。何 れ其中 読む事にしやうと云ふ考で、一所に纏 めた儘、立つて、本棚の上 に重 ねて置いた。椽側から外 を窺 うと、奇麗な空 が、高い色 を失 ひかけて、隣 の梧桐 の一際 濃 く見える上 に、薄 い月 が出 てゐた。
そこへ門野 が大きな洋燈 を持つて這入 つて来 た。それには絹縮 の様 に、竪 に溝 の入 つた青い笠 が掛 けてあつた。門野 はそれを洋卓 の上 に置 いて、又椽側へ出 たが、出掛 に、
「もう、そろ/\蛍 が出 る時分ですな」と云つた。代助は可笑 な顔 をして、
「まだ出 やしまい」と答へた。すると門野 は例の如く、
「左様 でしやうか」と云ふ返事をしたが、すぐ真面目 な調子で、「蛍 てえものは、昔 は大分 流行 たもんだが、近来は余 り文士方 が騒 がない様になりましたな。何 う云ふもんでせう。蛍 だの烏 だのつて、此頃 ぢやついぞ見た事がない位なもんだ」と云つた。
「左様 さ。何 う云ふ訳 だらう」と代助も空 つとぼけて、真面目な挨拶をした。すると門野 は、
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、自 から、えへゝゝと、洒落 の結末をつけて、書生部屋へ帰つて行つた。代助もつゞいて玄関迄出 た。門野は振返 た。
「また御出掛 ですか。よござんす。洋燈 は私 が気を付 けますから。――小母 さんが先刻 から腹 が痛 いつて寐 たんですが、何 大 した事はないでせう。御緩 り」
代助は門 を出 た。江戸川迄来 ると、河 の水 がもう暗 くなつてゐた。彼は固より平岡を訪 ねる気であつた。から何時 もの様に川辺 を伝 はないで、すぐ橋 を渡 つて、金剛寺坂 を上 つた。
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、――其後 色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣 つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜 しくあるまいと思つて、一応御相談をすると云ふ意味が後 に書いてあつた。代助は、其当時 平岡から、兄 の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず今日 迄放 つて置いた。ので、其返事を促 がされたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過 ると云ふ考もあつたので、翌日 出 向いて行 つて、色々兄 の方の事情を話して当分、此方 は断念して呉れる様に頼んだ。平岡は其時 、僕も大方 左様 だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼 をして三千代の方を見 た。
いま一遍は、愈新聞の方が極 まつたから、一晩 緩 り君 と飲 みたい。何日 に来 て呉れといふ平岡の端書 が着 いた時、折悪く差支が出来たからと云つて散歩の序に断わりに寄 つたのである。其時平岡は座敷の真中 に引繰 り返 つて寐 てゐた。昨夕 どこかの会 へ出 て、飲み過 ごした結果 だと云つて、赤い眼 をしきりに摩 つた。代助を見て、突然 、人間 は何 うしても君の様に独身でなけりや仕事は出来ない。僕も一人 なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次 の間 で、こつそり仕事 をしてゐた。
三遍目 には、平岡の社へ出た留守を訪 ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分許り椽へ腰 を掛 けて話 した。
夫 から以後は可成小石川の方面へ立ち回 らない事にして今夜 に至たのである。代助は竹早町へ上 つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ来 た。格子の外 から声を掛 ると、洋燈 を持つて下女が出 た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先 も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄来 て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒 をぐい/\飲んだ。
十一の五
翌日 眼 が覚 めると、依然として脳 の中心から、半径 の違 つた円 が、頭 を二重 に仕切つてゐる様な心持がした。斯 う云ふ時に代助は、頭 の内側 と外側 が、質 の異 なつた切り組 み細工で出来上 つてゐるとしか感じ得られない癖 になつてゐた。夫 で能 く自分 で自分 の頭 を振 つてみて、二つのものを混 ぜやうと力 めたものである。彼 は今 枕 の上 へ髪 を着 けたなり、右 の手を固 めて、耳 の上 を二三度敲 いた。
代助は斯 ゝる脳髄 の異状を以て、かつて酒 の咎 に帰した事はなかつた。彼は小供の時 から酒 に量を得た男であつた。いくら飲 んでも、左程平常を離れなかつた。のみならず、一度 熟睡さへすれば、あとは身体 に何の故障も認める事が出来 なかつた。嘗 て何かのはづみに、兄 と競 り飲 みをやつて、三合入 の徳利を十三本倒した事がある。其翌日 代助は平気な顔をして学校へ出 た。兄 は二日 も頭 が痛 いと云つて苦 り切 つてゐた。さうして、これを年齢 の違 だと云つた。
昨夕 飲んだ麦酒 は是 に比 べると愚 なものだと、代助は頭 を敲 きながら考へた。幸 に、代助はいくら頭 が二重 になつても、脳の活動に狂 を受けた事がなかつた。時としては、たゞ頭 を使 ふのが臆劫になつた。けれども努力さへすれば、充分複雑な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、斯 んな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪 い影響を与へるものとしては、悲観する余地がなかつた。始めて、こんな感覚があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新奇な経験として喜 んだ。この頃 は、此経験が、多くの場合に、精神気力の低落 に伴 ふ様になつた。内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。
床 の上 に起 き上 がつて、彼は又頭 を振 つた。朝食 の時、門野 は今朝 の新聞に出てゐた蛇 と鷲 の戦 の事を話 し掛けたが、代助は応じなかつた。門野は又始 まつたなと思つて、茶の間 を出 た。勝手の方で、
「小母 さん、さう働 らいちや悪 いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方 へ行 つて休 んで御出 」と婆 さんを労 つてゐた。代助は始めて婆 さんの病気の事を思ひ出 した。何 か優 しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて已 めにした。
食刀 を置 くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を持 つて書斎へ這入 つた。時計を見るともう九時過 であつた。しばらく、庭 を眺 めながら、茶を啜 り延 ばしてゐると、門野 が来 て、
「御宅 から御迎 が参りました」と云つた。代助は宅 から迎 を受ける覚 がなかつた。聞き返 して見ても、門野 は車夫 がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は頭 を振り/\玄関へ出 て見た。すると、そこに兄 の車 を引 く勝 と云ふのがゐた。ちやんと、護謨 輪の車 を玄関へ横付 にして、叮嚀に御辞義をした。
「勝 、御迎 つて何 だい」と聞 くと、勝 は恐縮の態度で、
「奥様が車 を持 つて、迎 に行 つて来 いつて、御仰 いました」
「何 か急用でも出来 たのかい」
勝 は固 より何事 も知らなかつた。
「御出 になれば分 るからつて――」と簡潔に答へて、言葉 の尻を結 ばなかつた。
代助は奥へ這入 つた。婆 さんを呼んで着物 を出させやうと思つたが、腹の痛むものを使 ふのが厭 なので、自分で簟笥の抽出 を掻 き回 して、急いで身支度 をして、勝 の車 に乗つて出 た。
其日 は風 が強く吹 いた。勝 は苦 しさうに、前 の方 に曲 んで馳 けた。乗 つてゐた代助は、二重の頭 がぐる/\回転するほど、風 に吹かれた。けれども、音 も響 もない車輪 が美くしく動 いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で宙 に運 んで行く有様が愉快であつた。青山 の家 へ着く時分には、起 きた頃とは違 つて、気色 が余程晴々して来 た。
十一の六
何 か事 が起 つたのかと思つて、上 り掛 けに、書生部屋を覗 いて見たら、直木 と誠太郎がたつた二人 で、白砂糖 を振 り掛 けた苺 を食 つてゐた。
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ居 ずまひを直 して、挨拶をした。誠太郎は唇 の縁 を濡 らした儘 、突然、
「叔父 さん、奥 さんは何時 貰 ふんですか」と聞 いた。直木はにや/\してゐる。代助は一寸返答に窮した。已を得ず、
「今日 は何故 学校 へ行 かないんだ。さうして朝 つ腹 から苺 なんぞを食 つて」と調戯 ふ様に、叱 る様に云つた。
「だつて今日 は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は真面目 になつた。
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の顔 を見てとう/\笑ひ出 した。代助も笑つて、座敷へ来 た。そこには誰 も居なかつた。替 え立ての畳 の上 に、丸い紫檀の刳抜盆 が一つ出 てゐて、中 に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画 が染 め付 けてあつた。からんとした広 い座敷へ朝 の緑 が庭 から射 し込んで、凡 てが静 かに見えた。戸外 の風 は急に落ちた様に思はれた。
座敷を通り抜 けて、兄 の部屋 の方 へ来 たら、人 の影 がした。
「あら、だつて、夫 ぢや余 まりだわ」と云ふ嫂 の声が聞えた。代助は中 へ這入つた。中 には兄 と嫂 と縫子がゐた。兄 は角帯 に金鎖 を巻 き付 けて、近頃流行る妙な絽 の羽織を着 て、此方 を向 いて立つてゐた。代助の姿 を見て、
「そら来 た。ね。だから一所に連 れて行 つて御貰 よ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より分 らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、今日 貴方 、無論暇 でせう」と云つた。
「えゝ、まあ暇 です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行 つて頂戴」
代助は嫂 の此言葉を聞いて、頭 の中 に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日 は平常 の様に、嫂 に調戯 ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な顔 をして、
「えゝ宜 しい、行 きませう」と機嫌 よく答へた。すると梅子は、
「だつて、貴方 は、最早 、一遍観 たつて云ふんぢやありませんか」と聞 き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、些 とも構 はない。行 きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「貴方 も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を感 じた。
兄 は用があると云つて、すぐ出 て行 つた。四時頃用が済 んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら好 ささうなものだが、梅子は夫 が厭 だと云つた。そんなら直木を連れて行 けと兄 から注意された時、直木は紺絣 を着 て、袴 を穿 いて、六づかしく坐 つてゐて不可 ないと答へた。夫 で仕方がないから代助を迎ひに遣 つたのだ、と、是は兄 が出掛 の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左様 ですかと答へた。さうして、嫂 は幕 の相間 に話 し相手が欲 いのと、夫 からいざと云ふ時 に、色々 用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び寄 せたに違ないと解釈した。
梅子と縫子は長い時間を御化 粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人 の傍 に附 いてゐた。さうして時々は、面白半分 の冷 かしも云つた。縫子からは叔父 さん随分だわを二三度繰り返 された。
父 は今朝 早くから出 て、家 にゐなかつた。何処 へ行つたのだか、嫂 は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間 の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔 を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過 ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父 は座敷の方へ出 て来 て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃 げ支度をすると云つて怒 つた。と嫂 は鏡 の前で夏帯 の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を落 したもんだな」
代助は斯う云つて、嫂 と縫子 の蝙蝠傘 を抱 げて一足 先へ玄関へ出 た。車はそこに三挺并 んでゐた。
十一の七
代助は風 を恐れて鳥打 帽を被 つてゐた。風 は漸く歇 んで、強い日 が雲 の隙間 から頭 の上 を照 らした。先 へ行 く梅子と縫子は傘 を広 げた。代助は時々 手 の甲 を額 の前 に翳 した。
芝居の中 では、嫂 も縫 子も非常に熱心な観客 であつた。代助は二返目 の所為 といひ、此三四日来 の脳の状態からと云ひ、左様 一図に舞台ばかりに気を取 られてゐる訳 にも行 かなかつた。堪えず精神に重苦しい暑 を感ずるので、屡団扇 を手 にして、風 を襟 から頭 へ送 つてゐた。
幕 の合間 に縫子が代助の方を向 いて時々 妙な事を聞 いた。何故 あの人は盥 で酒を飲むんだとか、何故 坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不図二三日前新聞で見た、ある文学者の劇評を思ひ出 した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋 に富 んでゐるので、楽 に見物が出来ないと書 いてあつた。代助は其時 、役者の立場 から考へて、何 もそんな人 に見て貰ふ必要はあるまいと思つた。作者に云ふべき小言 を、役者の方へ持つてくるのは、近松の作を知るために、越路の浄瑠理が聴きたいと云ふ愚物と同じ事だと云つて門野 に話した。門野は依然として、左様 なもんでせうかなと云つてゐた。
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であつた。さうして舞台に於ける芸術の意味を、役者の手腕 に就てのみ用ひべきものと狭義に解釈してゐた。だから梅子とは大いに話 が合 つた。時々 顔 を見合 して、黒人 の様な批評を加へて、互に感心してゐた。けれども、大体に於て、舞台にはもう厭 が来 てゐた。幕 の途中 でも、双眼鏡で、彼方 を見たり、此方 を見たりしてゐた。双眼鏡の向 ふ所には芸者が沢山ゐた。そのあるものは、先方 でも眼鏡 の先 を此方 へ向けてゐた。
代助の右隣 には自分と同年輩の男が丸髷に結 た美くしい細君を連れて来 てゐた。代助は其細君の横顔を見て、自分の近付 のある芸者によく似てゐると思つた。左隣 には男連 が四人許 ゐた。さうして、それが、悉 く博士であつた。代助は其顔を一々覚えてゐた。其又隣 に、広 い所を、たつた二人 で専 領してゐるものがあつた。その一人 は、兄 と同じ位な年恰好 で、正 しい洋服を着 てゐた。さうして金縁 の眼鏡 を掛けて、物を見 るときには、顎 を前 へ出 して、心持 仰向 く癖 があつた。代助は此 男を見たとき、何所 か見覚 のある様な気がした。が、ついに思ひ出 さうと力 めても見なかつた。其伴侶 は若 い女であつた。代助はまだ廿 になるまいと判定した。羽織を着 ないで、普通よりは大きく廂 を出 して、多くは顎 を襟元 へぴたりと着 けて坐 つてゐた。
代助は苦 しいので、何返 も席 を立 つて、後 の廊下へ出 て、狭 い空 を仰いだ。兄 が来 たら、嫂 と縫子を引き渡 して早 く帰りたい位に思つた。一遍 は縫子を連 れて、其所等 をぐる/\運動して歩 いた。仕舞には些 と酒でも取り寄 せて飲 まうかと思つた。
兄 は日暮 とすれ/\に来 た。大変遅 かつたぢやありませんかと云つた時、帯の間 から、金時計を出 して見せた。実際六時少し回 つた許であつた。兄 は例の如く、平気な顔 をして、方々見回 してゐた。が、飯 を食 ふ時、立つて廊下へ出たぎり、中々 帰 つて来 なかつた。しばらくして、代助は不図振り返 つたら、一軒置 いて隣 りの金縁 の眼鏡 を掛けた男の所へ這入つて、話 をしてゐた。若い女にも時々話しかける様であつた。然し女の方では笑 ひ顔を一寸 見せる丈で、すぐ舞台の方へ真面目 に向き直つた。代助は嫂 に其人 の名を聞 かうと思つたが、兄 は人 の集 る所へさへ出れば、何所 へでも斯 の如く平気に這入り込む程、世間 の広 い、又世間 を自分の家 の様に心得てゐる男であるから、気にも掛 けずに黙 つてゐた。
すると幕 の切れ目に、兄 が入口 迄帰 つて来 て、代助一寸 来 いと云ひながら、代助を其金縁 の男の席へ連れて行 つて、愚弟だと紹介した。それから代助には、是が神戸の高木さんだと云つて引合 した。金縁 の紳士は、若 い女を顧みて、私の姪 ですと云つた。女はしとやかに御辞義をした。其時 兄が、佐川さんの令嬢だと口 を添 へた。代助は女の名を聞いたとき、旨 く掛 けられたと腹 の中 で思つた。が何事も知らぬものゝ如く装 つて、好加減 に話 してゐた。すると嫂 が一寸 自分の方を振り向 いた。
十一の八
五六分 して、代助は兄 と共 に自分の席に返 つた。佐川の娘 を紹介される迄は、兄 の見え次第逃 げる気であつたが、今 では左様 不可 なくなつた。余 り現金に見えては、却つて好 くない結果を引き起 しさうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐 つてゐた。兄 も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い頭 を燻 す程、葉巻 をゆらした。時々 評をすると、縫子 あの幕 は綺麗 だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問も掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其澄 した様子が却つて滑稽に思はれた。彼は今日 迄嫂 の策略にかゝつた事が時々 あつた。けれども、只 の一返も腹 を立 てた事はなかつた。今度 の狂言も、平生ならば、退屈紛 らしの遊戯程度に解釈して、笑つて仕舞たかも知れない。夫許 ではない。もし自分が結婚する気なら、却つて、此狂言を利用して、自 ら人巧的に、御目出度 喜劇 を作り上 げて、生涯自分を嘲 けつて満足する事も出来た。然し此姉 迄が、今 の自分を、父 や兄 と共謀して、漸々 窮地に誘 なつて行 くかと思ふと、流石 がに此所作 をたゞの滑稽として、観察する訳には行 かなかつた。代助は此先 、嫂 が此事件を何 う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。家 のものゝ中 で、嫂 が一番斯 んな計画に興味をもつてゐたからである。もし嫂 が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族 のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の頭 の何処 かに潜 んでゐた。
芝居の仕舞になつたのは十一時近 くであつた。外 へ出 て見ると、風は全く歇 んだが、月 も星 も見 えない静 かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた。時間が遅 いので茶屋では話 をする暇 もなかつた。三人の迎 は来 てゐたが、代助はつい車 を誂 へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、嫂 の勧 を斥 けて、茶屋の前から電車に乗つた。数寄屋 橋で乗 り易 え様と思つて、黒 い路 の中 に、待ち合 はしてゐると、小供を負 つた神 さんが、退儀 さうに向 から近寄 つて来 た。電車は向 ふ側 を二三度通 つた。代助と軌道 の間 には、土 か石 の積 んだものが、高 い土手の様に挟 まつてゐた。代助は始 めて間違 つた所に立 つてゐる事を悟つた。
「御神さん、電車へ乗るなら、此所 ぢや不可 ない。向側 だ」と教へながら歩 き出 した。神さんは礼を云つて跟 いて来 た。代助は手探 でもする様に、暗 い所を好加減 に歩 いた。十四五間 左 の方へ濠際 を目標 に出 たら、漸く停留所 の柱が見付 つた。神さんは其所 で、神田橋の方へ向 いて乗つた。代助はたつた一人 反対の赤坂行 へ這入つた。
車 の中 では、眠 くて寐 られない様な気がした。揺 られながらも今夜の睡眠が苦になつた。彼 は大いに疲労して、白昼 の凡てに、惰気 を催うすにも拘はらず、知られざる何物 かの興奮の為 に、静かな夜 を恣 にする事が出来ない事がよくあつた。彼 の脳裏 には、今日 の日中 に、交 る/″\痕 を残した色彩が、時 の前後と形 の差別を忘れて、一度に散 らついてゐた。さうして、それが何 の色彩であるか、何の運動であるか慥 かに解 らなかつた。彼 は眼 を眠 つて、家 へ帰 つたら、又 ヰスキーの力 を借りやうと覚悟した。
彼 は此 取り留めのない花やかな色調 の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所 にわが安住の地を見出 した様な気がした。けれども其安住の地は、明 らかには、彼 の眼 に映じて出 なかつた。たゞ、かれの心 の調子全体で、それを認 めた丈であつた。従つて彼 は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係 や、病気や、身分 を一纏 にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。
十一の九
翌日 代助は但馬にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰 つたぎり、今日迄 ついぞ東京へ出 た事のない男であつた。当人は無論山 の中 で暮 す気はなかつたんだが、親 の命令で已 を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。夫 でも一年許 の間 は、もう一返親父 を説 き付 けて、東京へ出 る出 ると云つて、うるさい程手紙を寄 こしたが、此頃は漸く断念したと見 えて、大した不平がましい訴もしない様になつた。家 は所 の旧家 で、先祖から持 ち伝へた山林を年々伐 り出すのが、重 な用事になつてゐるよしであつた。今度 の手紙には、彼 の日常生活の模様が委しく書 いてあつた。それから、一ヶ月前町長に挙 げられて、年俸を三百円頂戴する身分になつた事を、面白半分 、殊更に真面目 な句調で吹聴して来 た。卒業してすぐ中学の教師になつても、此三倍は貰 へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。
此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都在 のある財産家から嫁 を貰 つた。それは無論親 の云ひ付 であつた。すると、少時 して、直 子供が生れた。女房の事は貰 つた時より外 に何も云つて来 ないが、子供の生長 には興味があると見えて、時々 代助の可笑 くなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、此子供に対して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の為 に、彼の細君に対する感想が、貰 つた当時に比べて、どの位変化したかを疑つた。
友人は時々 鮎 の乾 したのや、柿の乾 したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣 つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは続 かなかつた。仕舞には受取 つたと云ふ礼状さへ寄 こさなかつた。此方 からわざ/\問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい遅 くなつた。実はまだ読 まない。白状すると、読 む閑 がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも解 らなくなつたのである。といふ返事が来 た。代助は夫 から書物を廃 めて、其代りに新らしい玩具 を買 つて送 る事にした。
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有 つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色 を出 してゐると云ふ事実を、切 に感じた。さうして、命 の絃 の震動 から出 る二人 の響 を審 かに比較した。
彼 は理論家 として、友人の結婚 を肯 つた。山 の中 に住 んで、樹 や谷 を相手にしてゐるものは、親 の取り極 めた通りの妻 を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼 は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来 すものと断定した。其原因を云へば、都会は人間 の展覧会に過ぎないからであつた。彼は此前提 から此 結論に達する為 に斯 う云ふ径路を辿 つた。
彼は肉体と精神に於て美 の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる美 の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる美 の種類に接触して、其たび毎 に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動 かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家 であると断定した。彼 は是 を自家の経験に徴 して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力 に於て、悉く随縁臨機 に、測りがたき変化を受 けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延 ばすと、既婚 の一対 は、双方ともに、流俗に所謂 不義 の念に冒 されて、過去から生じた不幸を、始終嘗 めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替 えるか分 らないではないか。普通の都会人は、より少 なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝 らざる愛を、今 の世に口 にするものを偽善家 の第一位に置 いた。
此所 迄考へた時、代助の頭 の中 に、突然三千代 の姿 が浮 んだ。其時 代助はこの論理中に、或 因数 を数 へ込むのを忘れたのではなからうかと疑 つた。けれども、其因数 は何 うしても発見 する事が出来 なかつた。すると、自分が三千代に対する情合 も、此論理 によつて、たゞ現在的 のものに過 ぎなくなつた。彼 の頭 は正 にこれを承認した。然し彼 の心 は、慥かに左様 だと感 ずる勇気がなかつた。
十二の一
代助は嫂 の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間 があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影 を黒い文字の上 に認める事が出来 なくなつた。落付 いて考へれば、考へは蓮 の糸 を引く如くに出 るが、出たものを纏めて見 ると、人 の恐 ろしがるもの許 であつた。仕舞には、斯様 に考へなければならない自分が怖 くなつた。代助は蒼白 く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為 に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父 の別荘に行く積 であつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大 した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて来 て、自分の行 くべき先 を調 べて見た。が、自分の行くべき先 は天下中 何処 にも無 い様な気がした。しかし、代助は無理にも何処 かへ行 かうとした。それには、支度を調 へるに若 くはないと極めた。代助は電車に乗つて、銀座 迄来 た。朗 かに風 の往来を渡 る午後であつた。新橋の勧工場 を一回 して、広い通りをぶら/\と京橋の方へ下 つた。其時 代助の眼 には、向ふ側 の家 が、芝居の書割 の様に平 たく見えた。青 い空 は、屋根 の上 にすぐ塗 り付 けられてゐた。
代助は二三の唐物屋 を冷 かして、入用 の品 を調 へた。其中 に、比較的高 い香水があつた。資生堂で練歯磨 を買はうとしたら、若 いものが、欲 しくないと云ふのに自製のものを出 して、頻 に勧 めた。代助は顔 をしかめて店 を出 た。紙包 を腋 の下 に抱 へた儘、銀座の外 れ迄遣 つて来 て、其所 から大根河岸 を回 つて、鍛冶橋 を丸の内 へ志 した。当 もなく西 の方へ歩 きながら、是 も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句 、草臥 れて車 をと思つたが、何処 にも見当 らなかつたので又電車へ乗 つて帰つた。
家 の門 を這入 ると、玄関に誠太郎のらしい履 が叮嚀に并 べてあつた。門野 に聞 いたら、へえ左様 です、先方 から待 つて御出 ですといふ答 であつた。代助はすぐ書斎へ来 て見 た。誠太郎は、代助の坐 る大きな椅子 に腰 を掛 けて、洋卓 の前 で、アラスカ探検 記を読んでゐた。洋卓 の上 には、蕎麦饅 頭と茶盆 が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、人 のゐない留守 に来 て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席 を立 つた。
「其所 に居 るなら、ゐても構 はないよ」と云つても、聞 かなかつた。
代助は誠太郎を捕 まえて、例 の様に調戯 ひ出 した。誠太郎は此間 代助が歌舞伎座 でした欠伸 の数 を知つてゐた。さうして、
「叔父 さんは何時 奥さんを貰 ふの」と、又先達 てと同じ様な質問を掛けた。
此日 誠太郎は、父 の使 に来 たのであつた。其口上は、明日 の十一時迄に一寸 来 て呉れと云ふのであつた。代助はさう/\父 や兄 に呼び付 けられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分怒 つた様に、
「何 だい、苛 いぢやないか。用も云はないで、無暗 に人 を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた。代助はそれぎり話 を外 へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人 の題目の重 なるものであつた。
晩食 を食 つて行 けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、叔父 さん、明日 は来 ないんですか」と聞 いた。代助は已を得ず、
「うむ。何 うだか分 らない。叔父 さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「何時 」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日 明日 のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て行 つたが、沓脱 へ下 りながら振り返つて、突然
「何処 へ入らつしやるの」と代助を見上 げた。代助は、
「何処 つて、まだ分 るもんか。ぐる/\回 るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや/\しながら、格子を出た。
十二の二
代助は其夜 すぐ立 たうと思つて、グラツドストーンの中 を門野 に掃除 さして、携帯品を少 し詰 め込 んだ。門野 は少 なからざる好奇心を以て、代助の革鞄 を眺 めてゐたが、
「少 し手伝 ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、
「なに、訳 はない」と断わりながら、一旦詰 め込んだ香水の壜 を取 り出 して、封被 を剥 いで、栓 を抜 いて、鼻 に当 てゝ嗅 いで見た。門野は少 し愛想を尽 した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三分 すると又出 て来 て、
「先生、車 を左様 云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顔 を上 げた。
「左様 、少し待 つて呉れ給へ」
庭 を見ると、生垣 の要目 の頂 に、まだ薄明 るい日足 がうろついてゐた。代助は外 を覗 きながら、是から三十分のうちに行く先 を極 めやうと考へた。何でも都合のよささうな時間 に出 る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ降 りて、其所 で明日 迄暮 らして、暮 らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫 ひに来 るのを待つ積 であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の宿泊 を続 けるとすれば、一週間も保 たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。愈 となれば、家 から金 を取り寄 せる気でゐた。それから、本来が四辺 の風気 を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、荷持 を雇つて、一日 歩 いても可 いと覚悟した。
彼は又旅行案内を開 いて、細かい数字を丹念 に調べ出 したが、少しも決定の運 に近寄 らないうちに、又三千代の方に頭 が滑 つて行 つた。立 つ前 にもう一遍様子を見て、それから東京を出 やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは今夜中 に始末を付 けて、明日 の朝早 く提 げて行 かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄出 た。其音 を聞き付 けて、門野 も飛び出 した。代助は不断着 の儘、掛釘 から帽子を取つてゐた。
「又御出掛 ですか。何か御買物 ぢやありませんか。私 で可 ければ買 つて来 ませう」と門野 が驚 ろいた様 に云つた。
「今夜 は已 めだ」と云ひ放 した儘、代助は外 へ出 た。外 はもう暗 かつた。美 くしい空 に星 がぽつ/\影 を増 して行く様に見えた。心持 の好 い風 が袂 を吹 いた。けれども長 い足 を大きく動かした代助は、二三町も歩 かないうちに額際 に汗 を覚えた。彼は頭 から鳥打を脱 つた。黒い髪 を夜露 に打たして、時々 帽子をわざと振 つて歩 いた。
平岡の家 の近所へ来 ると、暗 い人影 が蝙蝠 の如く静 かに其所 、此所 に動 いた。粗末な板塀 の隙間 から、洋燈 の灯 が往来へ映 つた。三千代 は其光 の下 で新聞を読 んでゐた。今頃 新聞を読むのかと聞 いたら、二返目だと答へた。
「そんなに閑 なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移 して、椽側へ半分身体 を出 しながら、障子へ倚りかゝつた。
平岡は居なかつた。三千代 は今 湯から帰 つた所だと云つて、団扇さへ膝 の傍 に置いてゐた。平生 の頬 に、心持 暖 い色を出 して、もう帰るでせうから、緩 くりしてゐらつしやいと、茶の間 へ茶を入れに立 つた。髪は西洋風に結つてゐた。
平岡は三千代の云つた通りには中々 帰らなかつた。何時 でも斯んなに遅 いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ左 んな所でせうと答へた。代助は其笑 の中 に一種 の淋 しさを認めて、眼 を正 して、三千代の顔 を凝 と見た。三千代は急に団扇 を取つて袖 の下 を煽 いだ。
代助は平岡の経済の事が気に掛 つた。正面から、此頃 は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左様 ですねと云つて、又前の様な笑 ひ方 をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、
「貴方 には、左様 見えて」と今度は向ふから聞き直 した。さうして、手に持つた団扇 を放り出 して、湯 から出 たての奇麗な繊 い指 を、代助の前に広 げて見せた。其指 には代助の贈 つた指環 も、他 の指環 も穿 めてゐなかつた。自分の記念を何時 でも胸に描 いてゐた代助には、三千代 の意味がよく分 つた。三千代は手を引き込 めると同時に、ぽつと赤い顔をした。
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。
十二の三
代助は其夜 九時頃平岡の家 を辞 した。辞 する前 、自分の紙入 の中 に有 るものを出 して、三千代に渡 した。其時は、腹 の中 で多少の工夫 を費 やした。彼 は先 づ何気 なく懐中物 を胸 の所 で開 けて、中 にある紙幣を、勘定もせずに攫 んで、是 を上 げるから御使 なさいと無雑作に三千代の前 へ出 した。三千代は、下女を憚 かる様な低い声で、
「そんな事を」と、却 つて両手をぴたりと身体 へ付 けて仕舞つた。代助は然し自分の手を引 き込 めなかつた。
「指環を受取 るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環 だと思つて御貰ひなさい」
代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、余 りだからとまだ□躇した。代助は、平岡に知れると叱 られるのかと聞いた。三千代は叱 られるか、賞 められるか、明 らかに分 らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた。代助は、叱 られるなら、平岡に黙 つてゐたら可 からうと注意した。三千代はまだ手を出 さなかつた。代助は無論出 したものを引き込 める訳 に行 かなかつた。已 を得ず、少 し及び腰 になつて、掌 を三千代の胸 の傍 迄持 つて行 つた。同時に自分の顔 も一尺許 の距離に近寄 せて、
「大丈夫だから、御取 んなさい」と確 りした低 い調子で云つた。三千代は顎 を襟 の中 へ埋 める様に後 へ引いて、無言の儘右の手を前へ出 した。紙幣は其上 に落ちた。其時三千代は長い睫毛 を二三度打ち合はした。さうして、掌 に落ちたものを帯 の間 に挟 んだ。
「又来 る。平岡君によろしく」と云つて、代助は表 へ出 た。町 を横断して小路 へ下 ると、あたりは暗くなつた。代助は美 くしい夢 を見た様に、暗 い夜 を切 つて歩 いた。彼は三十分と立たないうちに、吾家 の門前 に来 た。けれども門 を潜 る気がしなかつた。彼 は高い星 を戴 いて、静 かな屋敷町 をぐる/\徘徊した。自分では、夜半迄歩 きつゞけても疲 れる事はなからうと思つた。兎角 するうち、又自分の家 の前へ出 た。中 は静 かであつた。門野 と婆 さんは茶の間 で世間話 をしてゐたらしい。
「大変遅 うがしたな。明日 は何時 の汽車で御立 ちですか」と玄関へ上 るや否 や問 を掛 けた。代助は、微笑しながら、
「明日 も御已 めだ」と答 へて、自分の室 へ這入 つた。そこには床 がもう敷 いてあつた。代助は先刻 栓 を抜 いた香水を取つて、括枕 の上 に一滴 垂 らした。夫 では何だか物足 りなかつた。壜 を持 つた儘 、立 つて室 の四隅 へ行 つて、そこに一二滴づゝ振 りかけた。斯様 に打 ち興 じた後 、白地 の浴衣 に着換 えて、新 らしい小掻巻 の下 に安 かな手足 を横 たへた。さうして、薔薇 の香 のする眠 に就 いた。
眼 が覚 めた時は、高い日 が椽に黄金色 の震動を射込んでゐた。枕元 には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が何時 、雨戸を引 いて、何時 新聞を持 つて来 たか、丸 で知らなかつた。代助は長 い伸 を一つして起 き上 つた。風呂場で身体 を拭 いてゐると、門野 が少 し狼狽 へた容子で遣 つて来 て、
「青山 から御兄 いさんが御見えになりました」と云つた。代助は今直 行 く旨 を答へて、奇麗に身体 を拭 き取 つた。座敷はまだ掃除が出来てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び出 す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪 を分けて剃 を中 て、悠々と茶の間へ帰 つた。そこでは流石 にゆつくりと膳につく気も出 なかつた。立ちながら紅茶を一杯啜 つて、タヱルで一寸 口髭 を摩 つて、それを、其所 へ放り出すと、すぐ客間へ出 て、
「やあ兄 さん」と挨拶をした。兄 は例 の如 く、色 の濃 い葉巻 の、火 の消えたのを、指 の股 に挟 んで、平然として代助の新聞を読 んでゐた。代助の顔 を見るや否や、
「此室 は大変好 い香 がする様だが、御前 の頭 かい」と聞いた。
「僕 の頭 の見える前 からでせう」と答 へて、昨夜 の香水の事を話 した。兄 は、落ち付いて、
「はゝあ、大分洒落 た事をやるな」と云つた。
十二の四
兄 は滅多に代助の所へ来 た事のない男であつた。たまに来 れば必ず来 なくつてならない用事を持つてゐた。さうして、用を済 ますとさつさと帰つて行つた。今日 も何事 か起 つたに違 ないと代助は考へた。さうして、それは昨日 誠太郎を好加減 に胡魔化 して返 した反響だらうと想像した。五六分 雑談をしてゐるうちに、兄 はとう/\斯 う云ひ出 した。
「昨夕 誠太郎が帰 つて来 て、叔父 さんは明日 から旅行するつて云ふ話 だから、出 て来 た」
「えゝ、実 は今朝 六時頃 から出 やうと思つてね」と代助は嘘 の様な事を、至極冷静に答 へた。兄 も真面目な顔をして、
「六時に立てる位な早起 の男なら、今時分 わざわざ青山 から遣 つて来 やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り予想の通 り肉薄 の遂行に過ぎなかつた。即ち今日 高木と佐川の娘を呼んで午餐を振舞 ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ父 の命令であつた。兄 の語 る所によると、昨夕 誠太郎の返事を聞いて、父 は大いに機嫌を悪くした。梅子は気を揉 んで、代助の立 たない前に逢 つて、旅行を延 ばさせると云ひ出 した。兄 はそれを留 めたさうである。
「なに彼奴 が今夜中 に立 つものか、今頃 は革鞄 の前へ坐 つて考へ込んでゐる位 のものだ。明日 になつて見ろ、放 つて置いても遣 つて来 るからつて、己 が姉 さんを安心させたのだよ」と誠吾は落付 払つてゐた。代助は少し忌々 しくなつたので、
「ぢや、放 つて置いて御覧なされば好 いのに」と云つた。
「所 が女 と云ふものは、気の短 かいもので、御父 さんに悪 いからつて、今朝 起 きるや否や、己 をせびるんだからね」と誠吾は可笑 い様な顔 もしなかつた。寧 ろ迷惑さうに代助を眺 めてゐた。代助は行くとも、行かないとも決答を与へなかつた。けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで返 して仕舞ふ勇気も出 なかつた。其上 午餐を断つて、旅行するにしても、もう自分の懐中 を当 にする訳 には行 かなかつた。矢張り、兄とか嫂 とか、もしくは父 とか、いづれ反対派の誰 かを痛 めなければ、身動 が取 れない位地にゐた。そこで、即 かず離 れずに、高木 と佐川の娘 の評判をした。高木には十年程前 に一遍逢 つた限 であつたが、妙なもので、何処 かに見 覚があつて、此間 歌舞伎座で眼 に着 いた時 は、はてなと思つた。これに反して、佐川の娘 の方は、つい先達 て、写真を手にした許 であるのに、実物に接 しても、丸で聯想が浮 ばなかつた。写真は奇体なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、写真の誰彼 を極 めるのは容易であるが、その逆 の、写真から人間 を定める方は中々 六づかしい。是 を哲学にすると、死 から生 を出 すのは不可能だが、生 から死 に移るのは自然の順序であると云ふ真理に帰着する。
「私 は左様 考へた」と代助が云つた。兄 は成程と答へたが別段感心した様子もなかつた。葉巻 の短 かくなつて、口髭 に火 が付きさうなのを無暗に啣 へ易 えて、
「それで、必ずしも今日 旅行する必要もないんだらう」と聞 いた。
代助はないと答へざるを得なかつた。
「ぢや、今日 餐 を食 ひに来 ても好 いんだらう」
代助は又好 いと答へない訳 に行 かなかつた。
「ぢや、己 はこれから、一寸 他所 へ回 るから、間違 のない様に来 てくれ」と相変らず多忙に見えた。代助はもう度胸を据ゑたから、何 うでも構はないといふ気で、先方に都合の好 い返事を与へた。すると兄 が突然、
「一体何 うなんだ。あの女を貰ふ気はないのか。好 いぢやないか貰 つたつて。さう撰 り好 みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄 時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の人間 は男女に限らず非常に窮屈な恋 をした様だが、左様 でもなかつたのかい。――まあ、どうでも好 いから、成る可 く年寄 を怒 らせない様に遣 つてくれ」と云つて帰つた。
代助は座敷へ戻 つて、しばらく、兄 の警句を咀嚼してゐた。自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を勧 める方 でも、怒 らないで放つて置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の好 い結論を得た。
十二の五
兄 の云ふ所 によると、佐川の娘は、今度久 し振 に叔父 に連 れられて、見物旁 上京したので、叔父の商用が済み次第又連 れられて国 へ帰るのださうである。父 が其機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結 び付 けやうと企だてたのか、又は先達 ての旅行先 で、此機会をも自発的に拵 えて帰つて来 たのか、どつちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかつた。自分はたゞ是等の人 と同じ食卓 で、旨 さうに午餐 を味 はつて見せれば、社交上の義務は其所 に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等の発展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて処置を付 けるより外 に道 はないと思案した。
代助は婆さんを呼 んで着物 を出 さした。面倒だと思つたが、敬意を表するために、紋付 の夏羽織を着 た。袴は一重のがなかつたから、家 へ行 つて、父 か兄 かのを穿 く事に極 めた。代助は神経質な割 に、子供の時からの習慣で、人中 へ出 るのを余り苦 にしなかつた。宴会とか、招待とか、送別とかいふ機会があると、大抵は都合して出席した。だから、ある方面に知名な人の顔は大分覚えてゐた。其中 には伯爵とか子爵とかいふ貴公子も交 つてゐた。彼は斯 んな人 の仲間入 をして、其仲間 なりの交際 に、損も得 も感じなかつた。言語 動作は何処 へ出 ても同じであつた。外部 から見ると、其所 が大変能く兄 の誠吾に似てゐた。だから、よく知 らない人は、此兄弟の性質を、全く同一型に属するものと信じてゐた。
代助が青山に着 いた時は、十一時五分前であつたが、御客はまだ来 てゐなかつた。兄 もまだ帰 らなかつた。嫂 丈がちやんと支度をして、座敷に坐 つてゐた。代助の顔 を見て、
「あなたも、随分乱暴ね。人 を出 し抜 いて旅行するなんて」と、いきなり遣 り込めた。梅子は場合によると、決して論理 を有 ち得ない女であつた。此場合にも、自分が代助を出 し抜 いた事には丸で気が付 いてゐない挨拶の仕方 であつた。それが代助には愛嬌に見えた。で、直 そこへ坐 り込んで梅子の服装の品評を始めた。父 は奥にゐると聞 いたが、わざと行 かなかつた。強 ひられたとき、
「今に御客さんが来 たら、僕が奥 へ知らせに行く。其時挨拶をすれば好 からう」と云つて、矢っ張り平常 の様な無駄口 を叩 いてゐた。けれども佐川の娘に関しては、一言も口 を切 らなかつた。梅子は何 とかして、話 を其所 へ持つて行かうとした。代助には、それが明 らかに見えた。だから、猶 空 とぼけて讐 を取つた。
其うち待ち設けた御客が来 たので、代助は約束通りすぐ父 の所へ知 らせに行 つた。父 は、案 のじよう、
「左様 か」とすぐ立ち上 がつた丈であつた。代助に小言 を云ふ暇 も何 も無 かつた。代助は座敷へ引き返 して来 て、袴を穿 いて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこで悉 く顔を合はせた。父 と高木とが第一に話 を始めた。梅子は重 に佐川の令嬢の相手になつた。そこへ兄 が今朝 の通りの服装 で、のつそりと這入つて来 た。
「いや、何 うも遅 くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返 つて、
「大分 早 かつたね」と小 さな声を掛けた。
食堂には応接室 の次 の間 を使つた。代助は戸 の開 いた間 から、白 い卓布の角 の際立 つた色 を認めて、午餐は洋食だと心づいた。梅子は一寸 席を立つて、次 の入口 を覗 きに行つた。それは父 に、食卓の準備が出来上 つた旨 を知らせる為 であつた。
「では何 うぞ」と父 は立ち上 がつた。高木も会釈して立ち上 がつた。佐川の令嬢も叔父 に継 いで立ち上 がつた。代助は其時、女の腰から下 の、比較的に細く長 い事を発見した。食卓では、父 と高木が、真中 に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、父 の左に令嬢が席を占 めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は五味台 を中 に、少し斜 に反 れた位地から令嬢の顔 を眺める事になつた。代助は其頬 の肉と色が、著 るしく後 の窓から射 す光線の影響を受けて、鼻の境 に暗過 ぎる影 を作つた様に思つた。其代り耳に接した方は、明 らかに薄紅 であつた。殊に小さい耳が、日 の光を透 してゐるかの如くデリケートに見えた。皮膚 とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな眼 を有したゐた。此二つの対照から華 やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。
十二の六
食卓 は、人数 が人数 だけに、左程大きくはなかつた。部屋の広 さに比例して、寧 ろ小 さ過 る位であつたが、純白 な卓布を、取り集めた花で綴 つて、其中 に肉刀 と肉匙 の色 が冴 えて輝 いた。
卓上の談話は重 に平凡な世間話 であつた。始 のうちは、それさへ余 り興味が乗 らない様に見えた。父 は斯 う云ふ場合には、よく自分の好 きな書画骨董の話 を持ち出 すのを常 としてゐた。さうして気 が向 けば、いくらでも、蔵 から出 して来 て、客 の前 に陳 べたものである。父 の御蔭 で、代助は多少斯道 に好悪 を有 てる様になつてゐた。兄 も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方 は掛物 の前 に立つて、はあ仇英 だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。面白 い顔 もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから真偽 の鑑定の為 に、虫眼鏡 などを振 り舞 はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父 の様に、こんな波 は昔 の人 は描 かないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。
父 は乾 いた会話 に色彩 を添 へるため、やがて好 きな方面の問題に触 れて見た。所が一二言 で、高木はさう云ふ事 に丸 で無頓着な男であるといふ事が分 つた。父 は老巧の人 だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。父 は已 を得ず、高木に何 んな娯楽があるかを確 めた。高木は特別に娯楽を持 たない由 を答へた。父 は万事休すといふ体裁で、高木を誠吾と代助に托して、しばらく談話の圏外に出 た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋 やら、楠公神社やら、手当り次第に話題を開拓して行つた。さうして、其中 に自然令嬢の演ずべき役割を拵 えた。令嬢はたゞ簡単に、必要な言葉丈を点じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亜米利加の大学の状況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が出 た。代助は、高木に斯 う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈で、それより以上に深入 もしなかつた。従つて文学談は単に二三の人名と書名に終つて、少しも発展しなかつた。
梅子は固より初 から断 えず口 を動 かしてゐた。其努力の重 なるものは、無論自分の前にゐる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令嬢は礼義上から云つても、梅子の間断 なき質問に応じない訳に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の心 を動 かさうと力 めた形迹は殆んどなかつた。たゞ物 を云ふときに、少し首 を横 に曲 げる癖 があつた。それすらも代助には媚 を売 るとは解釈出来 なかつた。
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、始 めは琴 を習つたが、後にはピヤノに易 えた。□イオリンも少し稽古 したが、此方 は手の使 い方 が六※[#小書き濁点付き平仮名つ、218-1]かしいので、まあ遣 らないと同じである。芝居は滅多に行つた事がなかつた。
「先達 ての歌舞伎座は如何 でした」と梅子が聞 いた時、令嬢は何とも答へなかつた。代助には夫 が劇を解 しないと云ふより、劇を軽蔑してゐる様に取れた。それだのに、梅子はつゞけて、同じ問題に就 いて、甲の役者は何 うだの、乙の役者は何 だのと評し出 した。代助は又嫂 が論理を踏 み外 したと思つた。仕方がないから、横合 から、
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と聞 いて芝居の話を已めさした。令嬢は其時始めて、一寸 代助の方を見た。けれども答は案外に判然 してゐた。
「いえ小説も」
令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を出 して笑つた。高木は令嬢の為 に説明の労を取つた。その云ふ所によると、令嬢の教育を受けたミス何 とか云ふ婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど清教徒 の様に仕込まれてゐるのださうであつた。だから余程時代後 れだと、高木は説明のあとから批評さへ付 け加へた。其時は無論誰 も笑はなかつた。耶蘇教に対して、あまり好意を有 つてゐない父 は、
「それは結構だ」と賞 めた。梅子は、さう云ふ教育の価値を全く解 する事が出来 なかつた。にも拘はらず、
「本当にね」と趣味に適 はない不得要領の言葉を使 つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与へない様に、すぐ問題を易えた。
「ぢや英語は御上手でせう」
令嬢はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。
十二の七
食事 が済 んでから、主客 は又応接間 に戻 つて、話 を始 めたが、蝋燭 を継 ぎ足 した様に、新 らしい方へは急に火が移りさうにも見えなかつた。梅子は立つて、ピヤノの蓋 を開 けて、
「何 か一つ如何 ですか」と云ひながら令嬢を顧みた。令嬢は固より席を動かなかつた。
「ぢや、代さん、皮切 に何か御遣 り」と今度は代助に云つた。代助は人 に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた。けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟臭 く、しつこくなる許 だから、
「まあ、蓋 を開 けて御置 なさい。今 に遣 るから」と答へたなり、何かなしに、無関係の事を話 しつゞけてゐた。
一時間程して客 は帰 つた。四人 は肩 を揃へて玄関迄出 た。奥へ這入る時、
「代助はまだ帰 るんぢやなからうな」と父 が云つた。代助はみんなから一足 後 れて、鴨居 の上 に両手が届 く様な伸 を一つした。それから、人 のゐない応接間 と食堂を少しうろ/\して座敷へ来 て見ると、兄 と嫂 が向き合 つて何か話 をしてゐた。
「おい、すぐ帰 つちや不可 ない。御父 さんが何か用があるさうだ。奥 へ御出 」と兄 はわざとらしい真面目 な調子で云つた。梅子は薄笑 ひをしてゐる。代助は黙 つて頭 を掻 いた。
代助は一人 で父 の室 へ行く勇気がなかつた。何とか蚊とか云つて、兄 夫婦を引張つて行 かうとした。それが旨 く成功しないので、とう/\其所 へ坐 り込んで仕舞つた。所へ小間使 が来 て、
「あの、若旦那様に一寸 、奥 迄入 つしやる様に」と催促した。
「うん、今 行 く」と返事をして、それから、兄 夫婦に斯 ういふ理窟を述べた。――自分一人 で父 に逢 ふと、父 があゝ云ふ気象の所へ持つて来 て、自分がこんな図法螺 だから、殊によると大いに老人 を怒 らして仕舞ふかも知れない。さうすると、兄 夫婦だつて、後 から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。其方 が却つて迷惑になる訳だから、骨惜 をせずに今一寸 一所に行 つて呉れたら宜 からう。
兄 は議論が嫌な男 なので、何 んだ下 らないと云はぬ許 の顔をしたが、
「ぢや、さあ行かう」と立ち上 がつた。梅子も笑ひながらすぐに立 つた。三人して廊下を渡つて父 の室 に行 つて、何事 も起 らなかつたかの如く着坐した。
そこでは、梅子が如才 なく、代助の過去に父 の小言 が飛 ばない様な手加減 をした。さうして談話の潮流を、成るべく今帰つた来客の品評の方へ持 つて行 つた。梅子は佐川の令嬢を大変大人 しさうな可 い子 だと賞 めた。是には父 も兄 も代助も同意を表した。けれども、兄 は、もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき/\しさうなものだと云ふ疑 を立 てた。代助は其疑 にも賛成した。父 と嫂 は黙 つてゐた。そこで代助は、あの大人 しさは、羞恥 む性質 の大人 さだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明した。父 はそれも左 うだと云つた。梅子は令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。兄 は東京だつて、御前 見 た様なの許 はゐないと云つた。此時父 は厳正 な顔 をして灰吹 を叩 いた。次 に、容色 だつて十人並 より可 いぢやありませんかと梅子が云つた。是には父 も兄 も異議はなかつた。代助も賛成の旨 を告白した。四人は夫 から高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、其方 はすぐ方付 いて仕舞つた。不幸にして誰 も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、物堅 い地味な人 だと云ふ丈は、父 が三人 の前で保証した。父 はそれを同県下の多額納税議員の某から確 めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても話 が出 た。其 時父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が確 りしてゐて安全だと云つた。
令嬢の資格が略 定 まつた時、父 は代助に向つて、
「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、何 うするかね位の程度ではなかつた。代助は、
「左様 ですな」と矢っ張り煮 え切 らない答をした。父 はじつと代助を見てゐたが、段々 皺 の多い額 を曇 らした。兄 は仕方なしに、
「まあ、もう少し善 く考へて見るが可 い」と云つて、代助の為 に余裕を付 けて呉れた。
十三の一
四日程 してから、代助は又父 の命令で、高木の出立 を新橋迄見送つた。其日 は眠 い所を無理に早く起 されて、寐足 らない頭 を風 に吹 かした所為 か、停車場に着 く頃 、髪 の毛の中 に風邪 を引 いた様な気がした。待合所 に這入 るや否や、梅子から顔色 が可 くないと云ふ注意を受けた。代助は何 にも答へずに、帽子を脱 いで、時々 濡 れた頭 を抑えた。仕舞には朝 奇麗 に分 けた髪 がもぢや/\になつた。
プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、
「何 うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勧めた。代助はたゞ難有うと答へた丈であつた。愈 汽車の出 る間際 に、梅子はわざと、窓際 に近寄 つて、とくに令嬢の名を呼んで、
「近 い内 に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は窓 のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外 へは別段の言葉も聞 えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人 りは、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭 を抑えて応じなかつた。
車 に乗つてすぐ牛込へ帰 つて、それなり書斎へ這入つて、仰向 に倒れた。門野 は一寸 其様子を覗 きに来 たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に引 つ掛 けてある羽織丈を抱 へて出 て行つた。
代助は寐 ながら、自分の近き未来を何 うなるものだらうと考へた。斯 うして打遣 つて置けば、是非共嫁 を貰 はなければならなくなる。嫁 はもう今迄 に大分 断 つてゐる。此上断 れば、愛想を尽 かされるか、本当に怒 り出 されるか、何方 かになるらしい。もし愛想を尽 かされて、結婚勧誘をこれ限 り断念して貰 へれば、それに越した事はないが、怒 られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを貰 ひませうと云ふのは今代人 として馬鹿気てゐる。代助は此 ヂレンマの間 に□徊した。
彼は父と違 つて、当初からある計画を拵らえて、自然を其計画通りに強ひる古風な人 ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵 えた凡ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父 が、自分の自然に逆 らつて、父 の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻 が、離縁状を楯 に夫婦の関係を証拠立 てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父 に向つて述 べる気は、丸でなかつた。父 を理攻 にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父 の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。
彼 は父 と兄 と嫂 の三人 の中 で、父 の人格に尤も疑 を置 いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父 の唯一 の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父 の本意が何処 にあるかは、固 より明 らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、父 の心意を斯様 に揣摩する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子 のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日 迄の程度より以上に、父 と自分の間 が隔 つて来 さうなのを不快に感じた。
彼は隔離の極端として、父子 絶縁の状態を想像して見た。さうして其所 に一種の苦痛を認 めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。寧 ろそれから生ずる財源の杜絶 の方が恐ろしかつた。
もし馬鈴薯 が金剛石 より大切になつたら、人間 はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後父 の怒 に触れて、万一金銭 上の関係が絶えるとすれば、彼 は厭 でも金剛石 を放り出して、馬鈴薯 に噛 り付かなければならない。さうして其償 には自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。
彼は寐ながら、何時 迄も考へた。けれども、彼の頭 は何時 迄も何処 へも到着 する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を極 める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付 け得る如く、自分の未来にも多少の影 を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。
十三の二
其時代助の脳の活動は、夕闇 を驚ろかす蝙蝠 の様な幻像をちらり/\と産 み出 すに過 ぎなかつた。其羽搏 の光 を追 ひ掛 けて寐 てゐるうちに、頭 が床 から浮 き上 がつて、ふわ/\する様に思はれて来 た。さうして、何時 の間 にか軽 い眠 に陥 つた。
すると突然誰 か耳 の傍 で半鐘を打つた。代助は火事と云ふ意識さへまだ起 らない先 に眼 を醒 ました。けれども跳 ね起 きもせずに寐 てゐた。彼 の夢 に斯 んな音 の出 るのは殆んど普通であつた。ある時 はそれが正気に返つた後 迄も響 いてゐた。五六日前 彼 は、彼 の家 の大いに揺 れる自覚と共に眠 を破 つた。其時 彼 は明 らかに、彼 の下 に動 く畳 の様 を、肩 と腰 と脊 の一部に感 じた。彼は又夢 に得た心臓の鼓動を、覚 めた後 迄持 ち伝 へる事が屡あつた。そんな場合には聖徒 の如く、胸 に手を当 てゝ、眼 を開 けた儘 、じつと天井を見詰めてゐた。
代助は此時も半鐘の音 が、じいんと耳 の底 で鳴り尽 して仕舞ふ迄横 になつて待 つてゐた。それから起 きた。茶 の間 へ来 て見ると、自分の膳 の上 に簀垂 が掛 けて、火鉢の傍 に据ゑてあつた。柱時計はもう十二時回 つてゐた。婆 さんは、飯 を済 ました後 と見 えて、下女部屋で御櫃 の上 に肱 を突 いて居眠 りをしてゐた。門野 は何処 へ行 つたか影 さへ見えなかつた。
代助は風呂場へ行つて、頭 を濡 らしたあと、独 り茶 の間 の膳 に就いた。そこで、淋 しい食事を済 して、再 び書斎に戻つたが、久し振 りに今日 は少し書見をしやうと云ふ心組 であつた。
かねて読 み掛 けてある洋書を、栞 の挟 んである所で開 けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に取 つて斯 う云ふ現象は寧ろ珍 らしかつた。彼 は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の後 も、衣食の煩 なしに、講読の利益を適意に収め得る身分 を誇 りにしてゐた。一頁 も眼 を通 さないで、日 を送ることがあると、習慣上何 となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親 んだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。
代助は今茫然として、烟草 を燻 らしながら、読 み掛けた頁 を二三枚あとへ繰 つて見た。そこに何 んな議論があつて、それが何 う続 くのか、頭 を拵 える為 に一寸 骨を折つた。其努力は艀 から桟橋へ移る程楽 ではなかつた。食 ひ違 つた断面の甲に迷付 いてゐるものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼 を頁 の上 に曝 してゐた。が仕舞にとう/\堪え切れなくなつた。彼 の読 んでゐるものは、活字の集合 として、ある意味を以て、彼 の頭 に映 ずるには違 ないが、彼 の肉や血 に廻 る気色は一向見えなかつた。彼 は氷嚢を隔てゝ、氷 に食 ひ付 いた時の様に物足らなく思つた。
彼は書物を伏 せた。さうして、こんな時に書物を読 むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。彼 の苦痛は何時 ものアンニユイではなかつた。何 も為 るのが慵 いと云ふのとは違 つて、何 か為 なくてはゐられない頭 の状態であつた。
彼は立ち上 がつて、茶 の間 へ来 て、畳んである羽織を又引掛 た。さうして玄関に脱 ぎ棄てた下駄を穿 いて馳 け出 す様に門を出 た。時は四時頃であつた。神楽坂 を下 りて、当 もなく、眼 に付 いた第一の電車に乗 つた。車掌に行先 を問はれたとき、口 から出任 せの返事をした。紙入 を開 けたら、三千代に遣 つた旅行費の余りが、三折 の深底 の方にまだ這入つてゐた。代助は乗車券を買つた後 で、札の数を調べて見た。
彼 は其晩を赤坂のある待合で暮 らした。其所 で面白い話 を聞 いた。ある若 くて美くしい女が、去る男と関係して、其種 を宿 した所が、愈子を生 む段になつて、涙 を零 して悲 しがつた。後 から其訳を聞いたら、こんな年 で子供を生 ませられるのは情 ないからだと答へた。此女は愛を専 らにする時機が余り短か過 ぎて、親子 の関係が容赦もなく、若い頭 の上 を襲つて来 たのに、一種の無定を感じたのであつた。それは無論堅気 の女ではなかつた。代助は肉の美 と、霊 の愛にのみ己 れを捧げて、其他を顧みぬ女の心理状体として、此話を甚だ興味あるものと思つた。
十三の三
翌日 になつて、代助はとう/\又三千代に逢 ひに行つた。其時彼 は腹 の中 で、先達 て置 いて来 た金 の事を、三千代が平岡に話したらうか、話 さなかつたらうか、もし話 したとすれば何 んな結果を夫婦の上 に生じたらうか、それが気掛 りだからと云ふ口実を拵 らえた。彼は此気掛 が、自分を駆 つて、凝 と落ち付 かれない様に、東西に引張回 した揚句、遂 に三千代の方に吹 き付 けるのだと解釈した。
代助は家 を出 る前 に、昨夕 着 た肌着 も単衣 も悉く改 めて気 を新 にした。外 は寒暖計の度盛 の日を逐 ふて騰 る頃 であつた。歩 いてゐると、湿 つぽい梅雨 が却つて待ち遠 しい程熾 んに日 が照 つた。代助は昨夕 の反動で、此陽気な空気の中 に落 ちる自分の黒 い影 が苦 になつた。広 い鍔 の夏帽 を被 りながら、早く雨季 に入れば好 いと云ふ心持があつた。其雨季 はもう二三日 の眼前 に逼 つてゐた。彼 の頭 はそれを予報するかの様に、どんよりと重 かつた。
平岡の家 の前 へ来 た時は、曇 つた頭 を厚 く掩ふ髪 の根元 が息切 れてゐた。代助は家 に入る前 に先 づ帽子を脱 いだ。格子には締 りがしてあつた。物音 を目的 に裏 へ回 ると、三千代は下女と張物 をしてゐた。物置 の横 へ立 て掛 けた張板 の中途 から、細 い首 を前へ出 して、曲 みながら、苦茶 々々になつたものを丹念に引き伸 ばしつゝあつた手を留 めて、代助を見 た。一寸 は何 とも云はなかつた。代助も、しばらくは唯 立 つてゐた。漸くにして、
「又来 ました」と云つた時 、三千代は濡 れた手を振 つて、馳け込む様に勝手から上 がつた。同時に表 へ回 れと眼 で合図をした。三千代は自分で沓脱 へ下 りて、格子の締 を外 しながら、
「無 用心 だから」と云つた。今迄 日の透 る澄 んだ空気の下 で、手 を動 かしてゐた所為 で、頬 の所 が熱 つて見えた。それが額際 へ来 て何時 もの様に蒼白 く変 つてゐる辺 に、汗 が少し煮染 み出 した。代助は格子の外
ぼんやりして、
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の
一の二
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる
「冗談云つちや
代助は矢つ張り
「君、あれは本当に校長が
「知りませんな。
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、
「へえ、
「先生は
「あの
「心配はせんがね。
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも
「いゝ
「
「
「
「
まづ斯う云ふ調子である。
一の三
「君は
「もとは行きましたがな。今は
「もと、
「
「ぢき
「まあ、
「で、
「えゝ、
「
「えゝ、もと、
「
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも
「
「
「
「
「
「まだ弟がゐます。是は銀行の――まあ
「すると
「まあ、
「それで、
「まあ、大抵
「
「いえ、
「家庭が
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、
「
「君は余つ程気楽な
「えゝ、別に
「ぢや全くの
「えゝ、まあ
「
「
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。
「其時に
「
「
「
「
「
「根が
「さう自任してゐちや困る。実は君の
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく
「
「まあ、
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。
「風呂は水道があるから汲まないでも
「ぢや、掃除でもしませう」
一の四
代助はやがて食事を済まして、烟草を
「先生、
「
「何だか
「もう病気ですよ」
「
「郵便ですか。
「いや、僕が
「もう
「君、電話を掛けて呉れませんか。
「はあ、
「
「はあ。
「
「はあ」
二の一
「
「おや、
「
「それから、
「
「もとは、よく手紙が
「いや
「僕より君はどうだい」と云ひながら、
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番
そこで
「やあ、
「向ふは大分
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は
「ありや
「
「御世辞が
代助は赤い
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の
「みんな
「
「兎に角
「あの
「書生が
「それ
「それ
「細君はまだ
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「
二の二
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して
平岡からは断えず
そのうち段々手紙の
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。
それで、
「
二の三
「
「
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた
「
「そりや不見識な青年が、流俗の
「だつて、君だつて、もう大抵世の
「世の
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、
平岡の眉の
「僕の知つたものに、丸で音楽の
平岡は
「うん、
二の四
「
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に
けれども、
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を
支店長は平岡の
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、
「ぢや支店長は一番
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を
「それで其男の使ひ込んだ
「
「よく
「
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は
「支店長から
「
二の五
代助は
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の
「それで、
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が
「さあ。事情次第だが。実は
「うん、
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「
「
「難有う、まあ相変らずだ。君に
電車が
「子供は
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が
「其
「うん、
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で
「
「
「冗談云つてら――夫よりか、
所へ電車が
三の一
代助の
代助は月に
代助は此
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて
代助は
三の二
代助の
実際を云ふと
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は
斯んな事を
三の三
代助は
「さう
「
「それは実業が
「
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして
「えゝ、困ります」と答へた。
三の四
「
「二三年このかた
「
「まあ
「
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の
「其代り
老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「
老人には此意味が
「
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を
「若い人がよく
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、
今から十五六年前に、旧藩主の
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が
「
「
代助はしばらく
「
三の五
それから約四十分程して、老人は
「おや、
「相変らず
「
「また? 能く
「
「だから猶始末が
代助は苦笑して
「まあ、
代助は矢っ張り立つた儘、
「
「これ?」
梅子は
「
「
「まあ、そんな事は、
代助は
「へえ
「
「何を
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に
「だから遊んでないで、御
「
「
「
「
「随分猛烈だな。然し
「
「
「
「
「
「なに
「あの人が? 余っ程妙なのね」
三の六
代助は
「
「行きませう。行くから
「
「
「云はれた事は色々あるんですが、
「まだ
「ぢや、
梅子は少しつんとした。
「
「
「小供は学校です」
十六七の
「あなたは、
代助には
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を
三の七
代助の
丁度
其
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された
三年の後
「大変込み入つてるのね。
「
「だつて、
「
「
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が
「おや、
代助は苦笑して答へなかつた。
四の一
代助は今読み
海から
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、
代助は斯んな話を聞く
もし死が可能であるならば、それは
四の二
代助は机の上の書物を伏せると立ち
「
「もう
「えゝ、
「
「えゝ。――どうも
「蟻ぢやない。
「なある程。どうも重宝な世の
代助は
「
「平岡が
「えゝ、
「ぢや
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が
平岡は
其時平岡は、早く
「君、
「えゝ、帰りに
四の三
代助は椅子に
「あんなに、
代助は此細君を
「あの時は、
「
「おや、
「
其時、待ち設けてゐる御客が
四の四
平岡の細君は、色の白い割に
廊下伝ひに坐敷へ案内された
汽車で着いた
「
「だつて、大変
「えゝ、
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。
四の五
代助は
「久し
「
「まあ、
代助は両手を
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り
と独り
「そんなに
「えゝ、
代助は
「
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には
「あら、だつて、
「ぢや
代助は相手の
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、
「
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し
三千代の
段々聞いて見ると、
「支店長から借りたと云ふ
「いゝえ。
代助は成程そんな事があるのかと思つた。
「
「だから
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。
三千代は
五の一
それから十一時
代助は
代助は縁側へ出て、
平岡の新宅へ来て見ると、
「旦那と奥さんと一所に
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち
神田へ
平岡は驚ろいた様に代助を見た。
五の二
「
「君、すつかり
「えゝ、すつかり
「
「どうも
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本
代助は、何事によらず
此困難は約一年許りで
五の三
それから二三日は、代助も
尤も其日は大変な
代助も
代助が
「やあ、
「
「あゝ。結構だ」
代助も脊の
「
「いや、
「
「そんなに天気を
「
誠吾と代助は申し合せた様に、白い
兄弟は芝生の
「
「
「
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少
「
「御客の接待掛りだ」
また
五の四
代助は、誠吾の始終
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ
だが面白くはない。話し相手としては、
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。
だから
「
「
「
「
「
「
「ぢや
「
代助は
「そんなに
代助は賛成した。所が
「
「
五の五
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし
代助から見ると、誠吾は
代助は
「で、
「へえ。
「
「
「
「
代助は始めから
「
「そりや、御
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて
「そりや、
と代助は大きい声を出して笑つた。
「
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて
六の一
其日誠吾は
代助は飲むに従つて、段々
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\
「
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の
けれども、唯
斯う考へながら、代助は
「
「君読んでるんですか」
「えゝ、
「
「
「
「
「さうして、肉の
「しますな。大いに」
代助は
六の二
紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ
代助の
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり
代助は露西亜文学に
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、
代助は
代助は椅子の
六の三
「もう学校は引けたのかい。
「ちつとも
「誠太郎、チヨコレートを
「
代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に
「誠太郎、御前はベースボール
誠太郎はにこ/\して、右の手で、
「
「あゝ、御馳走になつたよ。
「
「
「だつて
「
「
「へえゝ、
「えゝ、
「それで、わざ/\
「えゝ」
「
「チヨコレートなんぞ」
「
「
誠太郎の注文を
「
「
「だつて、
誠太郎の云ふ所によると、
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、
六の四
彼等のあるものは、
代助は
平岡が、失敬だが
やがて、平岡は
「
平岡の言葉は
「まだ
「落ち付く
代助は平岡が
「
「うん、まあ、
「
「だから
平岡は
「何ですか、それは」
「赤※[#小書き平仮名ん、94-8]坊の
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く
六の五
「
「
平岡は
「
代助は
「
「うん、面倒だから
「洗濯をするから御
「いや、もう
「君
「うん、まあ、ある様な
云ふ事は落ち
代助が真鍮を以て
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には
それで肝心の話は一二言で
六の六
平岡は
所が
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても
「
「そりや、
「本当でせう、
「そりや
「冗談云つちや
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや
「
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。
六の七
平岡は膳の
「
代助は此言葉のうちに、今の自己を
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが
「君、
「
「君はさつきから、
「
「
代助は
「
「
「へええ。
「
六の八
代助は
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に
平岡は
「君は
代助は少々平岡が
「
平岡は不思議に不愉快な
「
「
「そんな論理学の
「つまり
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には
「無論
「夫れ見給へ。
「まだ理論的だね、
「では
「だつて
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや
「本当ですわ」
「何だか
七の一
代助は
「先生、
「
「ですか」と云ひ
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の
湯のなかに、
代助は又
茶の
「
「
「やあ、もう
休息しながら、
七の二
代助が
此
菅沼の
代助は
平岡も、代助の様に、よく
それが
結婚して
七の三
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に
代助は、兎も角もまづ
「おや」
縫子の方は、
「如何なる名人が
梅子は何にも云はずに、
「代さん、
代助は
「
七の四
それから三十分程の
「もう
代助は突然例の
「だから思ひ切つて貸して
「さうね。けれども全体
「皮肉ぢやないのよ。
代助は無論
七の五
「代さん、あなたは
「
「
代助は
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも
代助は
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は
「
「
「
「そりや、
「それ御
「どうも恐れ入りました」
「そんな
「もう、
「本当なのよ。
「だから
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が
「ぢや、それも
代助は今迄
「全く車屋ですね。だから
「仕方がないのね、
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此
七の六
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の
その不明晰な態度を、
「だつて、
生涯
代助は固より
「だが、
「妙なのね、そんなに
代助は今迄
八の一
代助が
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした
代助は自分の
八の二
代助は
仕舞にアンニユイを感じ
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は
本郷の通り迄
「
八の三
けれども
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。
代助は
八の四
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり
「
代助は
「
三千代は何にも答へなかつた。たゞ
「
其時三千代は急に心細さうな
「
「是丈ぢや
三千代は手を
「難有う。平岡が喜びますわ」と
代助は
「それは、
「
「もう
「判を
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く
「そんなに
「
八の五
「
平岡は三千代の事も、
「実は二三日
「うん。
「僕も実は御礼に
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。
「僕はことによると、もう実業は
「それは、
「先達ても
「
「
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
八の六
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの
「
「
代助は返事も
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に
平岡に接近してゐた時分の代助は、
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ
代助は書斎に
「先生
九の一
代助は
代助は人類の
この
代助の
と云つて、
代助は凡ての道徳の
代助は
九の二
「
「
「代助に
「
「だから時代を
「
「御生憎様、もう
「
「
「
「
「
「
「
「ねえ、
「今のうち
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、
「
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は
「
「日糖事件に関係はないが、
「日糖も
「
「
「
「まあ、
「
「気を
「まさか
「
「馬鹿な事を
「矢っ張り
九の三
廊下
父はまづ
「
代助はそれから
代助は
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると
九の四
代助は
其時
「ぢや、佐川は
「
「ぢや、
「
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、
「何も
代助はたゞ茫然として
「そりや
「そんな
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、
「あなたは
梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度
十の一
代助は
代助は
彼の
四五日前、彼は
代助が父に
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を
代助は平生から、此位に世の
十の二
「御目
「御茶でも
「
「えゝ、
「
「
「だつて
代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに
「ぢや又
「さうです。
「また
「えゝ、まあ
代助は笑ひながら、両手で
代助は
それで
十の三
斯んな
代助は両手を
代助はぼんやり
それから三千代の
「
十の四
三千代の
「
三千代は
「あゝ
「奇麗なんでせう」と三千代が
「
「
「先生、今
「茶は
「はあ、
「菓子がなければ、早く買つて
「つい、
「ぢや、君が菓子を
「なに菓子の
代助は
「
「
「
「だつて
「
「いえ、
代助は
「気分はもう
十の五
三千代の
「けれども、
「心臓の
「
意味の絶望な程、三千代の言葉は
すると、三千代は急に思ひ
「
「
「さう
「あら
「
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「
代助は椅子の
「ぢや、
「僕に呉れたのか。そんなら早く
「さあ
「あなた、
昔し三千代の
「
十の六
そのうち
「
「
三千代は寧ろ
「
三千代はあまり
「
今迄三千代の
「平岡君は
「相変らずですわ」
「まだ
「その方はまあ安心なの。
「そりや
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で
「
「
「
代助は少しでも
「
「
「
雨が
十一の一
近頃代助は
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く
誠太郎は
代助は堀
「いや、御早うがしたな」と云つて玄関へ
「
「
彼は
十一の二
代助が
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に
此主義を出来る丈遂行する
其時
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ
「矢つ張り、三千代さんに
十一の三
彼は足の進まない方角へ散歩に
「
「今
「何の
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は
寺尾は
「是を
「
「
寺尾は、書物の
「二週間」と答へた
「
「だから、本郷からわざ/\
「面倒だな。僕は
「なんぼ、
「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、
「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる
「ぢや成るべく
「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。
「
「なに
相談が
寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた。
十一の四
そこへ
「もう、そろ/\
「まだ
「
「
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、
「また御
代助は
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、――
いま一遍は、愈新聞の方が
十一の五
代助は
「
「御
「
「奥様が
「
「
代助は奥へ
十一の六
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ
「
「
「だつて
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の
座敷を通り
「あら、だつて、
「そら
「代さん、
「えゝ、まあ
「ぢや、一所に歌舞伎座へ
代助は
「えゝ
「だつて、
「一遍だらうが、二遍だらうが、
「
梅子と縫子は長い時間を御
「ひどく、信用を
代助は斯う云つて、
十一の七
代助は
芝居の
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であつた。さうして舞台に於ける芸術の意味を、役者の
代助の
代助は
すると
十一の八
五六
芝居の仕舞になつたのは十一時
「御神さん、電車へ乗るなら、
十一の九
此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都
友人は
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を
彼は肉体と精神に於て
十二の一
代助は
代助は二三の唐物
「誠太郎、何だい、
「
代助は誠太郎を
「
此
「
「それぢや、
「うむ。
「
「
「
十二の二
代助は
「
「なに、
「先生、
「
彼は又旅行案内を
「又御
「
平岡の
「そんなに
平岡は居なかつた。
平岡は三千代の云つた通りには
代助は平岡の経済の事が気に
「
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。
十二の三
代助は其
「そんな事を」と、
「指環を
代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、
「大丈夫だから、
「又
「大変
「
「
「やあ
「
「
「はゝあ、大分
十二の四
「
「えゝ、
「六時に立てる位な
「なに
「ぢや、
「
「
「それで、必ずしも
代助はないと答へざるを得なかつた。
「ぢや、
代助は又
「ぢや、
「一体
代助は座敷へ
十二の五
代助は婆さんを
代助が青山に
「あなたも、随分乱暴ね。
「今に御客さんが
其うち待ち設けた御客が
「
「いや、
「
食堂には応接
「では
十二の六
卓上の談話は
梅子は固より
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、
「
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と
「いえ小説も」
令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を
「それは結構だ」と
「本当にね」と趣味に
「ぢや英語は御上手でせう」
令嬢はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。
十二の七
「
「ぢや、代さん、
「まあ、
一時間程して
「代助はまだ
「おい、すぐ
代助は
「あの、若旦那様に
「うん、
「ぢや、さあ行かう」と立ち
そこでは、梅子が
令嬢の資格が
「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、
「
「まあ、もう少し
十三の一
プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、
「
「
代助は
彼は父と
彼は隔離の極端として、
もし
彼は寐ながら、
十三の二
其時代助の脳の活動は、
すると突然
代助は此時も半鐘の
代助は風呂場へ行つて、
かねて
代助は今茫然として、
彼は書物を
彼は立ち
十三の三
代助は
平岡の
「又
「