日语文学作品赏析《虞美人草》
作者:夏目漱石
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
一
「随分遠いね。元来 どこから登るのだ」
と一人 が手巾 で額 を拭きながら立ち留 った。
「どこか己 にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯 も四角に出来上った男が無雑作 に答えた。
反 を打った中折れの茶の廂 の下から、深き眉 を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫 なる春の空の、底までも藍 を漂わして、吹けば揺 くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然 として、どうする気かと云 わぬばかりに叡山 が聳 えている。
「恐ろしい頑固 な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖 に身を倚 たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳 はない」と今度は叡山 を軽蔑 したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝 宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行 いていれば自然と山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽 いでいる。日頃 からなる廂 に遮 ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額 だけは目立って蒼白 い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝 して、粘 り着いた黒髪の、逆 に飛ばぬを恨 むごとくに、手巾 を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩 の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻 き廻した。促 がされた事には頓着 する気色 もなく、
「君はあの山を頑固 だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排 じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、空 いた方の手に栄螺 の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の角 から斜 めに相手を見下 した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖 を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否 や、歩行 き出した。瘠 せた男も手巾 を袂 に収めて歩行き出す。
「今日は山端 の平八茶屋 で一日 遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端 になるばかりだ。元来 頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
瘠 せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌 り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損 ってしまう。連 こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当 がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。瘠 せた男は無言のままあとに後 れてしまう。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫 ぬいて、煙 る柳の間から、温 き水打つ白き布 を、高野川 の磧 に数え尽くして、長々と北にうねる路 を、おおかたは二里余りも来たら、山は自 から左右に逼 って、脚下に奔 る潺湲 の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更 けたるを、山を極 めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾 を縫 うて、暗き陰に走る一条 の路に、爪上 りなる向うから大原女 が来る。牛が来る。京の春は牛の尿 の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留 りながら、先 きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑 と行き尽して、萱 ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸 して、返れ返れと二度ほど揺 って見せる。桜の杖 が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間 もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋 を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行 いていると若狭 の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴 いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向 へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山 の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、仰 せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行 けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前 だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから尾 いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
渓川 に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛 うじて一縷 の細き力に頂 きへ抜ける小径 のなかに隠れた。草は固 より去年の霜 を持ち越したまま立枯 の姿であるが、薄く溶けた雲を透 して真上から射し込む日影に蒸 し返されて、両頬 のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野 さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯 を真直 に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、遥 か向うには、白銀 の一筋に眼を射る高野川を閃 めかして、左右は燃え崩 るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦 り着けた背景には薄紫 の遠山 を縹緲 のあなたに描 き出してある。
「なるほど好い景色 だ」と甲野さんは例の長身を捩 じ向けて、際 どく六十度の勾配 に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間 に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近 君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾 くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳 だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見 だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作 もなく言って退 ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談 を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退 いてやれ」
百折 れ千折 れ、五間とは直 に続かぬ坂道を、呑気 な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の丈 に余る粗朶 の大束を、緑 り洩 る濃き髪の上に圧 え付けて、手も懸 けずに戴 きながら、宗近君の横を擦 り抜ける。生 い茂 る立ち枯れの萱 をごそつかせた後 ろ姿の眼 につくは、目暗縞 の黒きが中を斜 に抜けた赤襷 である。一里を隔 てても、そこと指 す指 の先に、引っ着いて見えるほどの藁葺 は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引 く霞 は長 しえに八瀬 の山里を封じて長閑 である。
「この辺の女はみんな奇麗 だな。感心だ。何だか画 のようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女 なんだろう」
「なに八瀬女 だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度逢 ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく雅 でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌 、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋 に藪 がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は廃 せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足 で石を転 がしてはいかん。後 から尾 いて行くものが剣呑 だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄 の中へ仰向 けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱 えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖 で、甲野さんの寝 ている頭の先をこつこつ敲 く。敲くたびに杖の先が薄を薙 ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐 が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一 と休息 仕 ろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘 も坂道に転がしたまま、仰向 けに空を眺 めている。蒼白 く面高 に削 り成 せる彼の顔と、無辺際 に浮き出す薄き雲の□然 と消えて入る大いなる天上界 の間には、一塵の眼を遮 ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は米沢絣 の羽織を脱いで、袖畳 みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間 に諸肌 を脱いだ。下から袖無 が露 われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐 の皮が食 み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊 の皮は一狐 の腋 にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑 にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど性 の悪い野良狐 に違ない。
「御山 へ御登 りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ妙 な所 に寝ていやはる」とまた目暗縞 が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天 を眺 めている。
「そう泰然と尻を据 えちゃ困るな。まだ反吐 を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「厄介 だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛 の反吐皆動 の一字より来 る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担 いで麓 まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易 していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌 のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分 でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪 しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃 す柔 かい武器だよ」
「それじゃ無愛想 は自分より弱いものを、扱 き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁 を弄 するね。そんなら僕は御先へ御免蒙 るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛 に纏 わる竪縞 の裾 をぐいと端折 って、同じく白縮緬 の周囲 に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸 けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路 を飄然 として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事定 って、静かなるうちに、わが一脈 の命を託 すると知った時、この大乾坤 のいずくにか通 う、わが血潮は、粛々 と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏 に形骸 を土木視 して、しかも依稀 たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶 の累 を捨てたるは、雲の岫 を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥 を超絶したる活気である。古今来 を空 しゅうして、東西位 を尽 くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石 になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫 も吸い尽くして、元の五彩に還 す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮 ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側 なるすべてのいさくさは、肉一重 の垣に隔 てられた因果 に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情 けの油を注 して、要なき屍 に長夜 の踊をおどらしむる滑稽 である。遐 なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行 かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹 を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄 にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に膨 れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に半 ば掛けたる編み上げの踵 を見下ろす途端 、石はきりりと面 を更 えて、乗せかけた足をすわと云う間 に二尺ほど滑 べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟 じながら、傘 を力に、岨路 を登り詰めると、急に折れた胸突坂 が、下から来る人を天に誘 う風情 で帽に逼 って立っている。甲野さんは真廂 を煽 って坂の下から真一文字に坂の尽きる頂 きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を漲 ぎらしたる果 もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、雑木 の間を四五段上 ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿 っぽく思われる。路は山の背 を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江 の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上 の幹と、その上の枝が、幾重 幾里に連 なりて、昔 しながらの翠 りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を埋 め、三百の神輿 を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提 の仏達を埋め尽くして、森々 と半空に聳 ゆるは、伝教大師 以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に遮 ぎる杉の根は、土を穿 ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、跳 ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする岩 の梯子 に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の階 を、山霊 の賜 と甲野さんは息を切らして上 って行く。
行く路の杉に逼 って、暗きより洩 るるがごとく這 い出ずる日影蔓 の、足に纏 わるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓 の長きを伝わって、手も届かぬに、朽 ちかかる歯朶 の、風なき昼をふらふらと揺 く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗 のような声を出す。朽草 の土となるまで積み古 るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘 を力に、天狗 の座 まで、登って行く。
「善哉善哉 、われ汝 を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放 り出すと、その上へどさりと尻持 を突いた。
「また反吐 か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖 で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間 に、的□ と近江 の湖 が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸 を凝 らす。
鏡を延べたとばかりでは飽 き足らぬ。琵琶 の銘ある鏡の明かなるを忌 んで、叡山の天狗共が、宵 に偸 んだ神酒 の酔 に乗じて、曇れる気息 を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎 を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷 に抹 り付けた、瀲□ たる春色が、十里のほかに糢糊 と棚引 いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉 しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々 人間と御無沙汰 になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背 にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手 をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門 が気□ を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下 したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気□を吐くより、反吐 でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨 だね」
「あの煙 るような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲 としているね。おおかた竹生島 だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質 さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが真 だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気 はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは真 っ平 御免 だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工 の好 な人間がさ」
山を下りて近江 の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺 めているのが甲野さんの世界である。
二
紅 を弥生 に包む昼酣 なるに、春を抽 んずる紫 の濃き一点を、天地 の眠れるなかに、鮮 やかに滴 たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶 に眺 めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢 の上には、玉虫貝 を冴々 と菫 に刻んで、細き金脚 にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸 のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴 のひろがりに、一瞬の短かきを偸 んで、疾風の威 を作 すは、春にいて春を制する深き眼 である。この瞳 を遡 って、魔力の境 を窮 むるとき、桃源 に骨を白うして、再び塵寰 に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊 たる夢の大いなるうちに、燦 たる一点の妖星 が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉 近く逼 るのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに栞 を抽 いて、箔 に重き一巻を、女は膝の上に読む。
蒼白 き頬 の締 れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重 の底に、余れる何物かを蔵 せるがごとく、蔵せるものを見極 わめんとあせる男はことごとく虜 となる。男は眩 げに半 ば口元を動かした。口の居住 の崩 るる時、この人の意志はすでに相手の餌食 とならねばならぬ。下唇 のわざとらしく色めいて、しかも判然 と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
女はただ隼 の空を搏 つがごとくちらと眸 を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を□頭 に飛ばして、泡吹く蟹 と、烏鷺 を争うは策のもっとも拙 なきものである。風励鼓行 して、やむなく城下 の誓 をなさしむるは策のもっとも凡 なるものである。蜜 を含んで針を吹き、酒を強 いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華 の一拶 は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇 する事刹那 なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷 と書き、惑 と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間 に引き上げる。下界万丈 の鬼火 に、腥 さき青燐 を筆の穂に吹いて、会釈 もなく描 き出 せる文字は、白髪 をたわしにして洗っても容易 くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳 には行くまい。
「小野 さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩 れた口元を立て直す暇 もない。唇に笑 を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰 に草書に崩 したまでであって、崩したものの尽きんとする間際 に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩 っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉 を滑 り出たのである。女は固 より曲者 である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継 いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映 らぬ男の眼には、二の句は固 より愚かである。
女はまだ何 にも言わぬ。床 に懸 けた容斎 の、小松に交 る稚子髷 の、太刀持 こそ、昔 しから長閑 である。狩衣 に、鹿毛 なる駒 の主人 は、事なきに慣 れし殿上人 の常か、動く景色 も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外 れれば、また継がねばならぬ。男は気息 を凝 らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面 に予期の情 を漲 らして、重きに過ぐる唇の、奇 か偶 かを疑がいつつも、手答 のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎 ける弓の、危うくも吾 が頭の上に、瓢箪羽 を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反 えて、女は始めより、わが前に坐 われる人の存在を、膝 に開 ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔 美しと見つけた時、今携 えたる男の手から□ ぎ取るようにして、読み始めたのである。
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬 へ行くつもりなんでしょうか」
女は腑 に落ちぬ不快の面持 で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得 する。小野さんは暗い隧道 を辛 うじて抜け出した。
「沙翁 の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳 け出そうとする。魚は淵 に躍 る、鳶 は空に舞う。小野さんは詩の郷 に住む人である。
稜錐塔 の空を燬 く所、獅身女 の砂を抱く所、長河 の鰐魚 を蔵する所、二千年の昔妖姫 クレオパトラの安図尼 と相擁して、駝鳥 の□□ に軽く玉肌 を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の描 いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色 のクレオパトラが眼の前に鮮 やかに映って来ます。剥 げかかった錦絵 のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖 を、さっと捌 いて、小野さんの鼻の先に翻 えす。小野さんの眉間 の奥で、急にクレオパトラの臭 がぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然 として我に帰る。空を掠 める子規 の、駟 も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異 しき色は、疾 く収まって、美くしい手は膝頭 に乗っている。脈打 つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々 と遠のく後 を追うて、小野さんの心は杳窕 の境に誘 われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息 の恋じゃありません。暴風雨 の恋、暦 にも録 っていない大暴雨 の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬 ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒 ると九寸五分が紫色に閃 ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁 が描 いた所を私 が評したのです。――安図尼 が羅馬 でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道 を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬 で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及 の日で焦 げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間 もなく長い袖 が再び閃 いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺 めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑 えた女は再び手綱 を緩 める。小野さんは馳 け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰 り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背 が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮 します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆 さんね」
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨 のなかに捲 き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽 りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓 い歯に交る一筋の金の耀 いてまた消えんとする間際 まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾 うから知っている。
美しき女の二十 を越えて夫 なく、空 しく一二三を数えて、二十四の今日 まで嫁 がぬは不思議である。春院 いたずらに更 けて、花影 欄 にたけなわなるを、遅日 早く尽きんとする風情 と見て、琴 を抱 いて恨 み顔なるは、嫁ぎ後 れたる世の常の女の習 なるに、麈尾 に払う折々の空音 に、琵琶 らしき響を琴柱 に聴いて、本来ならぬ音色 を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細 は固 より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗 き込んで、いらざる臆測 に、うやむやなる恋の八卦 をひそかに占 なうばかりである。
「年を取ると嫉妬 が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
小野さんはまた面喰 う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳 がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能 なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因 るでしょう」
角 を立てない代りに挨拶 は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬 なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
女の声は静かなる春風 をひやりと斬 った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外 して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖 の上から、こちらを見下 している。自分をこんな所に蹴落 したのは誰だと考える暇もない。
「清姫 が蛇 になったのは何歳 でしょう」
「左様 、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍 は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳 でしたかね」
「私 ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同 い年 でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老 けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢 りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想 に」
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極 まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固 より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必 ず女である。男は必ず負ける。具象 の籠 の中に飼 われて、個体の粟 を喙 んでは嬉しげに羽搏 するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音 を競うものは必ず斃 れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損 ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍 のようなの」
「安珍は苛 い」
許せと云わぬばかりに、今度は受け留 めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭 なの」
「私 は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの受太刀 と云う。坊っちゃんは機 を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追 っ懸 けますよ」
男は黙っている。
「蛇 になるには、少し年が老 け過ぎていますかしら」
時ならぬ春の稲妻 は、女を出でて男の胸をするりと透 した。色は紫である。
「藤尾 さん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑 り濃き植込に隔 てられて、往来に鳴る車の響さえ幽 かである。寂寞 たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁 の畳を境に、二尺を隔 てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍 を遠く立ち退 いた。救世軍はこの時太鼓を敲 いて市中を練り歩 るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息 を引き取ろうとしている。露西亜 では虚無党 が爆裂弾を投げている。停車場 では掏摸 が捕 まっている。火事がある。赤子 が生れかかっている。練兵場 で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄 さんと宗近君は叡山 に登っている。
花の香 さえ重きに過ぐる深き巷 に、呼び交 わしたる男と女の姿が、死の底に滅 り込む春の影の上に、明らかに躍 りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来 る心臓の扉 は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女 を、躍然と大空裏 に描 き出している。二人の運命はこの危うき刹那 に定 まる。東か西か、微塵 だに体 を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然 たる爆発物が抛 げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体 は二塊 の□ である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利 を軋 る車輪がはたと行き留まった。襖 を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩 れた。
「母が帰って来たのです」と女は坐 ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然 と外に露 わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎 は、法庭 の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人 も後指 を指 す事は出来ぬ。出来れば向うが悪 るい。天下はあくまでも太平である。
「御母 さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸 ける前に居住 をちょっと繕 ろい直す。洋袴 の襞 の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突 っかい棒 に、尻を挙げるための、膝頭 に揃 えた両手は、雪のようなカフスに甲 まで蔽 われて、くすんだ鼠縞 の袖の下から、七宝 の夫婦釦 が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩 くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色 もない。男はもとより尻を上げるのは厭 である。
「しかし」と云いながら、隠袋 の中を捜 ぐって、太い巻煙草 を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛 らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産 である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据 え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰 める便 が出来んとも限らぬ。
薄い煙りの、黒い口髭 を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀 な命令を下した。
男は無言のまま再び膝 を崩 す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋 しくっていけません」
「甲野君はいつ頃 御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信 が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出 になればよかったのに」
「私 は……」と小野さんは後を暈 かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染 じゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目 になって、埃及煙草 を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母 さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私 はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在 りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙 ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床 に据えた古薩摩 の香炉 に、いつ焼 き残したる煙の迹 か、こぼれた灰の、灰のままに崩 れもせず、藤尾の部屋は昨日 も今日も静かである。敷き棄てた八反 の座布団 に、主 を待つ間 の温気 は、軽く払う春風に、ひっそり閑 と吹かれている。
小野さんは黙然 と香炉 を見て、また黙然と布団を見た。崩 し格子 の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟 まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓 と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障 のしなやかに、布団 が擦 れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗 いて見た。松葉形 に繋 ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子 の縁 が幽 かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
金は色の純にして濃きものである。富貴 を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀 うものは必ずこの色を撰 む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石 の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨 である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
折柄 向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲 がり椽 を伝わって近づいて来る。小野さんは覗 き込んだ眼を急に外 らして、素知らぬ顔で、容斎 の軸 を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
黒縮緬 の三つ紋を撫 で肩 に着こなして、くすんだ半襟 に、髷 ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母 さんは軽く会釈 して、椽に近く座を占める。鶯 も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終 御厄介 になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽 に――いつも御挨拶 を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児 で、困り切ります、駄々ばかり捏 ねまして――でも英語だけは御蔭 さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行 かんものと見えまして――」
御母さんの弁舌は滾々 としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟 む遑 まなく、口車 に乗って馳 けて行く。行く先は固 より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続 を読んでいる。
焚 き罩 むる錬香 の尽きなんとして幽 かなる尾を虚冥 に曳 くごとく、全 き頁 が淡く霞 んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母 さんは呼ぶ。
男はやっと寛容 だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向 ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪 の、白い額に接 く下から、骨張らぬ細い鼻を承 けて、紅 を寸 に織る唇が――唇をそと滑 って、頬 の末としっくり落ち合う□ が――□を棄 ててなよやかに退 いて行く咽喉 が――しだいと現実世界に競 り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗 な――汚 さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開 いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者 の寄り合いだもんでござんすから、始終 、小供のように喧嘩 ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝 手段は長者 の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具 の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ抛 げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間 へ向けて抛 げつけた。御母さんは苦笑 いをする。小野さんは口を開 く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母 さんは遠廻しに棄鉢 になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終 身体 が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然 したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏 ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰 いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋 で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前 さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝 を斜 めに立てて、青畳の上に、八反 の座布団 をさらりと滑 べらせる。富貴 の色は蜷局 を三重に巻いた鎖の中に、堆 く七子 の蓋 を盛り上げている。
右手を伸 べて、輝くものを戛然 と鳴らすよと思う間 に、掌 より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰 い留 められると、余る力を横に抜いて、端 につけた柘榴石 の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅 の珠 に女の白き腕 を打つ。第二の波は観世 に動いて、軽く袖口 にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝 と立ち上がった。
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾 く動く景色 を、茫然 と眺 めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「御母 さん」と後 を顧 みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って故 の席に返る。小野さんの胴衣 の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦 の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛 と耀 やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど善 く似合いますね」と御母 さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙 に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止 しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外 してしまった。
三
柳 □ れて条々 の煙を欄 に吹き込むほどの雨の日である。衣桁 に懸 けた紺 の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋 が三分一 裏返しに丸く蹲踞 っている。違棚 の狭 い上に、偉大な頭陀袋 を据 えて、締括 りのない紐 をだらだらと嬾 も垂らした傍 らに、錬歯粉 と白楊子 が御早うと挨拶 している。立て切った障子 の硝子 を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近 君は貸浴衣 の上に銘仙 の丹前を重ねて、床柱 の松の木を背負 て、傲然 と箕坐 をかいたまま、外を覗 きながら、甲野 さんに話しかけた。
甲野さんは駱駝 の膝掛 を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の向 を換えると、櫛 を入れたての濡 れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋 といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝 に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母 さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額 の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※雨※風 [#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも人扁 だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの襖 が面白いよ。一面に金紙 を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに皺 が寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居 の道具立 見たようだ。そこへ持って来て、筍 を三本、景気に描 いたのは、どう云う了見 だろう。なあ甲野さん、これは謎 だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描 いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂 の発明した詰将棋 の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工 が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理 が分ったら煩悶 もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話 しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深 い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納 したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の轅 と横木を蔓 で結 いた結び目を誰がどうしても解 く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目 をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の帝 たらんと云う神託 を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見 がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯 なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪 いと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐 のまま旅行案内をひろげる。雨は斜 めに降る。
古い京をいやが上に寂 びよと降る糠雨 が、赤い腹を空に見せて衝 いと行く乙鳥 の背 に応 えるほど繁くなったとき、下京 も上京 もしめやかに濡 れて、三十六峰 の翠 りの底に、音は友禅 の紅 を溶いて、菜の花に注 ぐ流のみである。「御前 川上、わしゃ川下で……」と芹 を洗う門口 に、眉 をかくす手拭 の重きを脱げば、「大文字 」が見える。「松虫 」も「鈴虫 」も幾代 の春を苔蒸 して、鶯 の鳴くべき藪 に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門 に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀 たれた。綱 が□ ぎとった腕の行末 は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨 が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園 では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記を記 けだした。横綴 の茶の表布 の少しは汗に汚 ごれた角 を、折るようにあけて、二三枚めくると、一頁 の三 が一 ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執 って景気よく、
「一奩 楼角雨 、閑殺 古今人 」
と書いてしばらく考えている。転結 を添えて絶句にする気と見える。
旅行案内を放 り出して宗近君はずしんと畳を威嚇 して椽側 へ出る。椽側には御誂向 に一脚の籐 の椅子 が、人待ち顔に、しめっぽく据 えてある。連□ の疎 なる花の間から隣 り家 の座敷が見える。障子 は立て切ってある。中 では琴の音 がする。
「忽 ※ [#「耳+吾」、56-1]弾琴響 、垂楊 惹恨 新 」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎 である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭 に□□ し、中夜 に煩悶 するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
宗近君は籐 の椅子 に横平 な腰を据えてさっきから隣りの琴 を聴いている。御室 の御所 の春寒 に、銘 をたまわる琵琶 の風流は知るはずがない。十三絃 を南部の菖蒲形 に張って、象牙 に置いた蒔絵 の舌 を気高 しと思う数奇 も有 たぬ。宗近君はただ漫然と聴 いているばかりである。
滴々 と垣を蔽 う連□ の黄 な向うは業平竹 の一叢 に、苔 の多い御影の突 く這 いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔 を這 わしている。琴の音 はこの庭から出る。
雨は一つである。冬は合羽 が凍 る。秋は灯心が細る。夏は褌 を洗う。春は――平打 の銀簪 を畳の上に落したまま、貝合 せの貝の裏が朱と金と藍 に光る傍 に、ころりんと掻 き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴 くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕 えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空 の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
琴の手は次第に繁くなる。雨滴 の絶間 を縫 うて、白い爪が幾度か駒 の上を飛ぶと見えて、濃 かなる調べは、太き糸の音 と細き音を綯 り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃 の琴を聴 いて始めて序破急 の意義を悟る」と書き終った時、椅子 に靠 れて隣家 ばかりを瞰下 していた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟 ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか旨 いぜ」
と椽側 から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽 まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色 がない。
「おい、どうも東山が奇麗 に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川 を渉 る奴 がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団 着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩 が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差 し支 えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖 の筍 を横に眺 め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我 を折って部屋の中へ這入 って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何 だと思う」
「幾歳 だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然 云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田 だよ」
「座敷でも開 いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減 な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴 きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍 を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背 が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙 に三本描 いたのは、どう云う因縁 だろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青 なのはなぜだろう」
「食うと中毒 ると云う謎 なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を釈 くじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、後 から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日 ね、僕が湯から上がって、椽側 で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東 の景色 を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子 を半分開けて、開けた障子に靠 たれかかって庭を見ていたのさ」
「別嬪 かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公 より好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、余 まり他愛 が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側 まで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち開 くかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは霞 に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を披 いて本体を見つけようとしないから性根 がないよ」
「霞の酔 っ払 か。哲学者は余計な事を考え込んで苦 い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山 へ登るのに、若狭 まで突き貫 ける男は白雨 の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢 のある髪で湿 っぽく圧 し付けられていた空気が、弾力で膨 れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝 の膝掛 が擦 り落ちながら、裏を返して半分 に折れる。下から、だらしなく腰に捲 き付けた平絎 の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に畏 まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩 せた体躯 を持ち上げた肱 を二段に伸 して、手の平に胴を支 えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨 め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく畏 まってるじゃないか」と一重瞼 の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「居住 だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてらを着て跪坐 てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払 らしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙 ろう」と宗近君はすぐさま胡坐 をかく。
「君は感心に愚 を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹 痛い事はないものだ」
「諫 に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋 し気に笑った。勢込 んで喋舌 って来た宗近君は急に真面目 になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑 に入る。面上の筋肉が我勝 ちに躍 るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻 を起すためでもない。涙管 の関が切れて滂沱 の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床 を斬 るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管を通して、捕 えがたい情 けの波が、心の底から辛 うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転 がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕 まえた人が勝ちである。捕まえ損 なえば生涯 甲野さんを知る事は出来ぬ。
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その速 かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明 かに描 き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己 である。斬 った張 ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点 するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を描 き出すのは野暮 な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
春の旅は長閑 である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝 の膝掛 の馬簾 をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語 のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺 が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、家 を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲 いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母 さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば己 にさえ欺 むかれる。まして己以外の人間の、利害の衢 に、損失の塵除 と被 る、面 の厚さは、容易には度 られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見 か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜 んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶 には天機を洩 らしがたい。宗近の言 は継母に対するわが心の底を見んための鎌 か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸 けるほどの男ならば、思う通りを引き出した後 で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率 なる彼の、裏表の見界 なく、母の口占 を一図 にそれと信じたる反響か。平生 のかれこれから推 して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵 の底に、詮索 の錘 を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損 なった母の意を承 けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程 以前に、家庭のなかに打 ち開 ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発 くまい。
二人はしばらく無言である。隣家 ではまだ琴 を弾 いている。
「あの琴は生田流 かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無 でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、違棚 の上から、例の異様な胴衣 を取り下ろして、体 を斜 めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無 は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。旨 いもんだ。御糸 さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴 が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父 さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母 さんの云う通りに君が家 を襲 いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭 なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧 を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚 な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚 は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺 も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯 と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦 で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具 になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの鏈 に着いている柘榴石 が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身 に僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の眉 の間を、長い事見ていた。御昼の膳 の上には宗近君の予言通り鱧 が出た。
四
甲野 さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁 無了期 、色相世界 現狂癡 」
小野さんは色相 世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖 を着て学校へ通う時から友達に苛 められていた。行く所で犬に吠 えられた。父は死んだ。外で辛 い目に遇 った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底 の藻 は、暗い所に漂 うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺 こうが、左 りに靡 こうが嬲 るは波である。ただその時々に逆 らわなければ済む。馴 れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇 もない。なぜ波がつらく己 れにあたるかは無論問題には上 らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生 えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では孤堂 先生の世話になった。先生から絣 の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園 の桜をぐるぐる周 る事を知った。知恩院 の勅額 を見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前 は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目の眩 む所である。元禄 の昔に百年の寿 を保ったものは、明治の代 に三日住んだものよりも短命である。余所 では人が蹠 であるいている。東京では爪先 であるく。逆立 をする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
きりきりと回った後 で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を擦 すっても変っている。変だと考えるのは悪 るく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜 わった。浮かび出した藻 は水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
世界は色の世界である。ただこの色を味 えば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて鮮 やかに眼に映 る。鮮やかなる事錦を欺 くに至って生きて甲斐 ある命は貴 とい。小野さんの手巾 には時々ヘリオトロープの香 がする。
世界は色の世界である、形は色の残骸 である。残骸を論 って中味の旨 きを解せぬものは、方円の器 に拘 わって、盛り上る酒の泡 をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極 めても皿は食われぬ。唇 を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の巵 を抱 いて、路頭に跼蹐 している。
世界は色の世界である。いたずらに空華 と云い鏡花 と云う。真如 の実相とは、世に容 れられぬ畸形 の徒が、容れられぬ恨 を、黒※郷裏 [#「甘+舌」、72-14]に晴らすための妄想 である。盲人は鼎 を撫 でる。色が見えねばこそ形が究 めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作 である。小野さんの机の上には花が活 けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡 が掛かっている。
絢爛 の域を超 えて平淡に入 るは自然の順序である。我らは昔 し赤ん坊と呼ばれて赤いべべを着せられた。大抵 のものは絵画 のなかに生い立って、四条派 の淡彩から、雲谷 流の墨画 に老いて、ついに棺桶 のはかなきに親しむ。顧 みると母がある、姉がある、菓子がある、鯉 の幟 がある。顧みれば顧みるほど華麗 である。小野さんは趣 が違う。自然の径路 を逆 しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の透 る波の、明るい渚 へ漂 うて来た。――坑 の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴 から覗 いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の紅 がほのかに揺 いている。東京へ来 たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも厭 わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き夜 を、永き日を、あるは時雨 るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退 いた。その上、色もよほど褪 めた。小野さんは節穴を覗く事を怠 たるようになった。
過去の節穴を塞 ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇 である。薔薇の蕾 である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾 んだ薔薇を一面に開かせればそれが自 からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管 から眺 めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕 まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍 で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必 ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色 に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸 っている。時計の下には赤い柘榴石 が心臓の焔 となって揺れている。その側 に黒い眼の藤尾さんが繊 い腕を出して手招 ぎをしている。すべてが美くしい画 である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
昔 しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰 で、苛 い目に逢 うたと書いてある。身体 は肩深く水に浸 っている。頭の上には旨 そうな菓物 が累々 と枝をたわわに結実 っている。タンタラスは咽喉 が渇 く。水を飲もうとすると水が退 いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺前 むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ懸 けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い眉 を押しつけたように短かくして、屹 と睨 めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、□のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって剥 げながら暗くなる事がある。時計が遥 かな天から隕石 のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描 き出す。
机の前に頬杖 を突いて、色硝子 の一輪挿 をぱっと蔽 う椿 の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手 でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと向 をむいて、すたすた歩き出す」
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻 なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた□ を持ち上げると、障子 が、すうと開 いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流 にかいた名宛 を見た時、小野さんは、急に両肱 に力を入れて、机に持たした体 を跳 ねるように後 へ引いた。未来を覗く椿 の管 が、同時に揺れて、唐紅 の一片 がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完 き未来は、はや崩 れかけた。
小野さんは机に添えて左 りの手を伸 したまま、顔を斜 めに、受け取った封書を掌 の上に遠くから眺 めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当 はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀 に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅 の中に立て籠 る。打たれる運命を眼前に控えた間際 でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸 に逃 れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良 しばらく眺めていると今度は掌がむず痒 ゆくなる。一刻の安きを貪 った後 は、安き思 を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に逆 に置いた。裏から井上孤堂 の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字 は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんは障 らぬ神に祟 なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と膝 とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を抛 げて見ないうちはどうも柔術家たる所以 を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気 で羨 しいと思う。――椿の花片 がまた一つ落ちた。
一輪挿 を持ったまま障子を開 けて椽側 へ出る。花は庭へ棄 てた。水もついでにあけた。花活 は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。檜 がある。塀 がある。向 に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が干 してある。蛇 の目の黒い縁 に落花 が二片 貼 ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き擦 ってまた部屋のなかへ這入 って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴 がすうと開 いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を屈 めて手を伸ばすや否や封を切った。
端 が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き留 った時、やむを得ず、睛 を転じてロゼッチの詩集を眺 めた。詩集の表紙の上に散った二片 の紅 も眺めた。紅に誘われて、右の角 に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日 挿した椿 は影も形もない。うつくしい未来を覗く管 が無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上 る。一種古ぼけた黴臭 いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇 する毛筋の末を引いて、細い縁 に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面 のあたりに結び合わす香 である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで逆 しまに尋ぬれば、溯 るほどに暗澹 となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝 の末に、錐 の力の尖 れるを幸 と、記憶の命を突き透 すは要なしと云わんよりむしろ無惨 である。ジェーナスの神は二つの顔に、後 ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背 を過去に向けた上は、眼に映るは煕々 たる前程のみである。後 を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日 、寒い所から、寒いものが追っ懸 けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮 やかなるうちに、己 れを捲 き込んで、一歩でも過去を遠退 けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤 られて、動くかとは掛念 しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退 いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫 でていた。ところが、昔しながらとたかを括 って、過去の管 を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。逼 って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超 えて、暗夜 を照らす提灯 の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。極 まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分 と立たぬうちに、障子 から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て妄 りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌 があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文 の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日 まで下女の人望を繋 いだのも全くこの自覚に基 づく。小野さんは下女の人望をさえ妄 りに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能 わずと昔 しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退 いて不安が這入 る。下女は悪 るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃 で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主 が這入るについて、愛嬌が示談 の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「逢 おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、好 い。好 し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後 ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと体 を交 わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ避 ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を換 えて反対へ出る。反対と反対が鉢合 せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子 のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪 るい野郎だと悪口 が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が這入 ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で圧 し潰 すように握って、畳の上へ抛 り出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐 をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日 行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜 料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜 料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻 だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって緩 っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら緩 くり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人 ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分昔堅気 だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹 なんだ」
「近頃は家計 の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時 かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨 い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
門口 で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。
五
山門を入る事一歩にして、古き世の緑 りが、急に左右から肩を襲う。自然石 の形状 乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落 と平らかに敷き詰めたる径 に落つる足音は、甲野 さんと宗近 君の足音だけである。
一条 の径の細く直 なるを行き尽さざる此方 から、石に眼を添えて遥 かなる向うを極 むる行き当りに、仰 げば伽藍 がある。木賊葺 の厚板が左右から内輪にうねって、大 なる両の翼を、険 しき一本の背筋 にあつめたる上に、今一つ小さき家根 が小さき翼を伸 して乗っかっている。風抜 きか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎 を、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんは杖 を停 めた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好 が旨 くそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形 に適 ってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「舟板塀 趣味 や御神灯 趣味 とは違うさ。夢窓国師 が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥 する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根 になって明治まで生きていれば結構だ。安直 な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然 だ」
「何が」
「何がって、この境内 の景色 がさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ這入 ると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池 に渡した石橋 の欄干 に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松 が三寸の厚さを透 かして水に臨んでいる。石には苔 の斑 が薄青く吹き出して、灰を交えた紫 の質に深く食い込む下に、枯蓮 の黄 な軸 がすいすいと、去年の霜 を弥生 の中に突き出している。
宗近君は燐寸 を出して、煙草 を出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな悪戯 はしなかった」と甲野さんは、□ の先に、両手で杖 の頭 を丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真似 をするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京 へ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺 ぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は我儘 過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目の上に冗談 の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後 ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪 が癒 れば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜 の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「亜米利加 を見ろ、印度 を見ろ、亜弗利加 を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ間 に殺されているんだ」
すべてを爪弾 きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋 を敲 いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山 と云う坊主は一椀の托鉢 だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に寝 た箸 を竪 にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に颯 と開 いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨 の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹 と嵐山 に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺 の門前を左へ折れれば釈迦堂 で右へ曲れば渡月橋 である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場 の方へ旅衣 七日 余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条 から半時 ごとに花時を空 にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢 を忘れている。京ほどに女の綺羅 を飾る所はない。天下の大勢も、京女 の色には叶 わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「悪 るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性 の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味 がない」
「どうも淡粧 して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極 御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ善 かったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭 になっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見 を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に陳 べてある、抹茶茶碗 を見始めた。土を捏 ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて眺 めている袖 を、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた片 を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を跨 ぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの琴 の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残 な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追 つかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物 だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲 き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、停車場 へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨 より二条 に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波 へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡 に降りた。保津川 の急湍 はこの駅より下 る掟 である。下るべき水は眼の前にまだ緩 く流れて碧油 の趣 をなす。岸は開いて、里の子の摘 む土筆 も生える。舟子 は舟を渚 に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷 は尺と水を離れぬ。赤い毛布 に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数 は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿 、続 づく二人は右側に櫂 、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと櫂 が鳴る。粗削 りに平 げたる樫 の頸筋 を、太い藤蔓 に捲 いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節 の隆 きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻 く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根 を抑えられた櫂が、掻 くごとに撓 りでもする事か、強 き項 を真直 に立てたまま、藤蔓と擦 れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停 まる暇なきに、前へ前へと送る。重 なる水の蹙 って行く、頭 の上には、山城 を屏風 と囲う春の山が聳 えている。逼 りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡 に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体 を透 かして岩と岩の逼 る間を半丁の向 に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷 から首を出した時、船ははや瀬の中に滑 り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩 める。櫂 は流れて舷に着く。舳 に立つは竿 を横 えたままである。傾 むいて矢のごとく下る船は、どどどと刻 み足に、船底に据えた尻に響く。壊 われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指 す後 ろを見ると、白い泡 が一町ばかり、逆 か落しに噛 み合って、谷を洩 る微 かな日影を万顆 の珠 と我勝 に奪い合っている。
「壮 んなものだ」と宗近君は大いに御意 に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は至極 冷淡である。松を抱く巌 の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、棹 を操 り去る。通る瀬はさまざまに廻 る。廻るごとに新たなる山は当面に躍 り出す。石山、松山、雑木山 と数うる遑 を行客 に許さざる疾 き流れは、船を駆 ってまた奔湍 に躍り込む。
大きな丸い岩である。苔 を畳む煩 わしさを避けて、紫 の裸身 に、撃 ちつけて散る水沫 を、春寒く腰から浴びて、緑り崩 るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は矢 も楯 も物かは。一図 にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲 いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削 られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末 である。岩に突き当って砕けるか、捲 き込まれて、見えぬ彼方 にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑 む岩の太腹に潜 り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚 がると共に舟はぐうと廻った。この獣奴 と突き離す竿の先から、岩の裾 を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘 を落ち尽すと向 から空舟 が上 ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の拳 を収めて、肩から斜めに目暗縞 を掠 めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を牽 いて来る。水行くほかに尺寸 の余地だに見出 しがたき岸辺を、石に飛び、岩に這 うて、穿 く草鞋 の滅 り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は塞 かれて注 ぐ渦の中に指先を浸 すばかりである。うんと踏ん張る幾世 の金剛力に、岩は自然 と擦 り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱 をわが勢に逆 わぬほどに、疾 く滑 らすための策 と云う。
「少しは穏 かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の遥 かの上に、鉈 の音が丁々 とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏 を突き出して峰を見上げた。
「慣 れると何でもするもんだね」と相手も手を翳 して見る。
「あれで一日働いて若干 になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて見 ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに駛 っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。願 くは船頭の棹 を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏 している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち遣 った。
「そう困った日にゃ方 が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照 らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに違 ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙然 として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと昔 し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川 と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を敲 く。
乱れ起る岩石を左右に□ る流は、抱 くがごとくそと割れて、半ば碧 りを透明に含む光琳波 が、早蕨 に似たる曲線を描 いて巌角 をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山 どす」と長い棹 を舷 のうちへ挿 し込んだ船頭が云う。鳴る櫂 に送られて、深い淵 を滑 るように抜け出すと、左右の岩が自 ら開いて、舟は大悲閣 の下 に着いた。
二人は松と桜と京人形の群 がるなかに這 い上がる。幕と連 なる袖 の下を掻 い潜 ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の二抱 を楯 に、大堰 の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の袂 の葭簀茶屋 に、高島田が休んでいる。昔しの髷 を今の世にしばし許せと被 る瓜実顔 は、花に臨んで風に堪 えず、俯目 に人を避けて、名物の団子を眺 めている。薄く染めた綸子 の被布 に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる衣 の色は見えぬ。ただ襟元 より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが琴 を弾 いた女だよ。あの黒い羽織は阿爺 に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪 に酔 を飾る三五の癡漢 が、天下の高笑 に、腕を振って後 ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、体 を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が真 っ盛 りである。
六
丸顔に愁 少し、颯 と映 る襟地 の中から薄鶯 の蘭 の花が、幽 なる香 を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子 はこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つを掌 に折って、余る第二指のありたけにあれぞと指 す時、指す手はただ一筋の紛 れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点 す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点 す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
人に指点 す指の、細 そりと爪先 に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点 を構成 る。藤尾 の指は爪先の紅 を抜け出でて縫針の尖 がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干 を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に懸 りませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰 をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「向島 は」
「まだどこへも行かないの」
宅 にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が翳 す。
「そんなに御用が御在 りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路 である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側 へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この袖 は、この詩とこの歌は、鍋 、炭取の類 ではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字を冠 らせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「一 さんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑 をして前へ進む。糸子は返事をする前に顔を揚 げて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を眤 と見る。針は真逆 の用意に、なかなか瞳 の中 には出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ絡 まってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。一 さんが貰うときまれば本気に捜 がしますよ」
黐竿 は届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は際 どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索 の綱を、ぷつりと切って、逆 さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの不手際 である。あたったのに手答 もなく装 わるるは不器量 である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を噛 んだ。ここまで推 して来て停 まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは私 の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に吾 を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の中 で冷笑 って引き上げる。
甲野 さんと宗近 君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人 の妹は肝胆の外廓 で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い懸 けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを取 っ押 える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで馳 け込んで来た。袞竜 の袖に隠れると云う諺 がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは蹌々踉々 として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に被 せる従容 の紋付を、まだ誂 えていない。二十世紀の人は皆この紋付 を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便 る未来が戈 を逆 まにして、過去をほじり出そうとするのは情 けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵 の嘘 は渡頭 の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾 さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気 よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも家 の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退 けたが、急に気がついて、羽二重 の手巾 を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の角 を彩 どる金の筋がすっと外界に映 る。敵は首尾よくわが術中に陥 った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信 はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書 ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが?御叔母 さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると顫 える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾 を出して、薄い口髭 をちょっと撫 でる。幽 かな香 がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の方 を一 さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっと勢 を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗 だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精 に似合わない事ね。何と」
「隣家 の琴は御前より旨 いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪 だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢 っちゃ叶 わない」
「でも、あなたの事は褒 めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪 だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を交 えたる眼を輝かして、すらりと首を後 ろに引く。鬣 に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫 のみが星のごとく可憐 の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条 に蔦屋 と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、縋 る未来に全く吸い込まれたる人は、刹那 の戸板返 しにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去を逃 がるるは雲紫 に立ち騰 る袖香炉 の煙 る影に、縹緲 の楽しみをこれぞと見極 むるひまもなく、貪 ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶 に、結ばぬ夢は醒 めて、逆 しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇 あり、容易に青 を踏む事を許さずとある。
「蔦屋 がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿 ってるんですって。だから、どんな所 かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋 じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴 えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家 で美人が琴を弾 いてるのを、気楽に寝転 んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、床 の山吹を無意味に眺 めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の音 も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い画 が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解 しかねる。要 らぬ事と黙って控 えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――廻 り椽 で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙 るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸 い山は――あの山が、青い御供 のように、こんもりと霞 んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾 げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女詩人 の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする訳 はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に逆 った時は、必ず人をもって詫 を入れるのが世間である。女王の逆鱗 は鍋 、釜 、味噌漉 の御供物 では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞 のうちに腫物 のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の眉 はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に障 ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
針鼠 は撫 でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなお怒 られる。琴の音 は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑 を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り除 けられた。女二人を調停するのは眼の前に快 からぬ言葉の果し合を見るのが厭 だからである。文錦 やさしき眉 に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者 を仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさく絡 ってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子 を合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑 する料簡 ではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの頭 に耀 かず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸が隙 く。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人を呪 わば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違 に見えて、その先に井桁 があって、小米桜 が擦 れ擦れに咲いていて、釣瓶 が触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん擦 り落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生 をどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣 のはずれに幣辛夷 の花が怪しい色を併 べて立っている。木立に透 かしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに映 る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
居は気を移す。藤尾の想像は空と共に濃 かになる。
「小米桜を二階の欄干 から御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の後 ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の音 がするんです」
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家 の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと掠 める。
「ホホホホ御厭 なの――何だか暗くなって来た事。花曇りが化 け出しそうね」
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから直 すいと追懸 けて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降 になりそうだ事」
「私 失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に崩 れた。
七
燐寸 を擦 る事一寸 にして火は闇 に入る。幾段の彩錦 を捲 り終れば無地の境 をなす。春興は二人 の青年に尽きた。狐の袖無 を着て天下を行くものは、日記を懐 にして百年の憂 を抱 くものと共に帰程 に上 る。
古き寺、古き社 、神の森、仏の丘を掩 うて、いそぐ事を解 せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠 るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然 とは映らぬ。瞬 くも嬾 き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
一人 の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥 き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏 めたる団子 と、他の清濁を混じたる団子と、層々相連 って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果 の交叉点に据えて分相応の円周を右に劃 し左に劃す。怒 の中心より画 き去る円は飛ぶがごとくに速 かに、恋の中心より振り来 る円周は□ の痕 を空裏 に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎 の圜 をほのめかして回 る。縦横に、前後に、上下 四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越 の客ここに舟を同じゅうす。甲野 さんと宗近 君は、三春行楽 の興尽きて東に帰る。孤堂 先生と小夜子 は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端 なくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他 の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破 けて飛ぶ事がある。あるいは発矢 と熱を曳 いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄 まじき喰い違い方が生涯 に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自 からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢 うてただ別れる袖 だけの縁 ならば、星深き春の夜を、名さえ寂 びたる七条 に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢 する。自然その物は小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻 のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の方 に搬 び去ろうか、さらに無頓着 である。世を畏 れぬ鉄輪 をごとりと転 す。あとは驀地 に闇 を衝 く。離れて合うを待ち佗 び顔なるを、行 いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠 を意とせざるを、一様に束 ねて、ことごとく土偶 のごとくに遇待 うとする。夜 こそ見えね、熾 んに黒煙 を吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、提灯 の火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒 が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋 まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束 に夜明までに、あかるい東京へ推 し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに解 れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛 の戸をはたはたと締めて行く。忽然 としてプラットフォームは、在 る人を掃 いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛 が遥 かの後 ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気 に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は淋 しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋 の隣家 に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家 を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは独 り言 のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋 を棚 へ上げた腰を卸 しながら笑う。相手は半分顔を背 けて硝子越 に窓の外を透 して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟 と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何哩 くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐 をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。向 の棚 に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂 を顫 わせている。給仕 が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を眠 っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は轟 と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――余 りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞 める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵 一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を緘 じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟 と走る。二人の世界はしばらく闇 の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜 を糸のごとく照らして動く電灯の下 にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて小夜 と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居 に、盂蘭盆 の灯籠 を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊 を、東京の苧殻 で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗 し掛 る怒 は、撫 で下 す絹しなやかに情 の裾 に滑 り込む。
紫に驕 るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連 なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長 を顫 わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴 たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫 と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透 って、当時 を裏返す折々にさえ鮮 かに煮染 んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒 の懐 に暖めつつ、黒く動く一条の車に載 せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱 きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑 りを衝 き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱 く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇 の遠きより切り放して、現実の前に抛 げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢 うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに□ の下に白くなる疎髯 を握っては昔 しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠 って容易には出て来ない。漠々 たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々 たるわれを、つれなく見捨て去る当時 に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩 交 りの髯 をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳 の時だったかな」
「学校を廃 めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山 へ連れていっていただいたでしょう。御母 さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子 もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋 の傍 で喫 べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母 さんも丈夫だったがな。ああ早く亡 くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分蒼 い顔をしてね、そうして何だか始終 おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和 いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質 の好い男でも、あのまま放 って置けばそれぎり、どこへどう這入 ってしまうか分らない」
「本当にね」
明かなる夢は輪を描 いて胸のうちに回 り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻 りの深き記憶を離れて、咫尺 に飛び上がって来る。女はただ眸 を凝 らして眼前に逼 る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯 を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎 にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び躍 る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛 ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠 る。人も犬も草も木も判然 と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転 りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱 いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆 う風を打つ。追い懸くる冥府 の神を、力ある尾に敲 いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙 る向うが一面に競 り上がって来る。茫々 たる原野の自 から尽きず、しだいに天に逼 って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼 を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の代 を空に鳴く金鶏 の、翼 五百里なるを一時に搏 して、漲 ぎる雲を下界に披 く大虚の真中 に、朗 に浮き出す万古 の雪は、末広になだれて、八州の野 を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫 の裡 に、腰から下を埋 めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫 の襞 と藍 の襞とを斜 めに畳んで、白き地 を不規則なる幾条 に裂いて行く。見上ぐる人は這 う雲の影を沿うて、蒼暗 き裾野 から、藍、紫の深きを稲妻 に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然 として眼が醒 める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘 う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑 り下りながら、窓をはたりと卸 す。広い裾野 から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝 の毛布 を頭から被 ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝 なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山 よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑 するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退 けて動いた」と宗近君は頭陀袋 を棚 から取り卸 す。室 のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳 け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯 を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干 の銀貨を握って、へぎ折 を取る左と引 き換 に出す。御茶は部屋のなかで娘が注 いでいる。
「どうだね」と折の蓋 を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋 の白茶 に寝転んでいる傍 らに、一片 の玉子焼が黄色く圧 し潰 されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸 を執 らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸 を眺 めながら、ぐっと飲む。
「もう直 ですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋 が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗 に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入 る。
「小野さんは宿を捜 がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯 と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣 の襟 を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄 を跨 いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪 ずくと危ない」と注意した。
硝子戸 を押し開 けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直 に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が後 ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過 ぎてね。――阿爺 のように年を取ると、どうも硬 いのは胸に痞 えていけないよ」
「御茶でも上がったら……注 ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方 に飛び交 わす小世界の、普 ねく天涯 を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭 わず植えつけし蚕 の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半 を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃 き落されて、大空の皮を奇麗に剥 ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上 る窓の中 に、四人の小宇宙は偶 を作って、ここぞと互に擦 れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布 を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表 を眺 めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕 京都の停車場 では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで膏 ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺 を逆 にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々情 けなさそうに白い膏味 を頬張 る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「猶太人 は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「猶太人 はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕 紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を外 してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想 して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎 を支 えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据 えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑 が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫 も心配にならない気色 で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶 も聞く料簡 はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目 に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児 だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無 を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突 でも造 えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡 げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦 れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日 の世界を擁して新橋の停車場 に着く。
「さっき馳 けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、停車場 に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。
八
一本の浅葱桜 が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ椽 は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢 に手取形 の鉄瓶 を沸 らして前には絞 り羽二重 の座布団 を敷く。布団の上には甲野 の母が品 よく座 っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、疳 の筋 が裏を通って額へ突き抜けているらしい上部 を、浅黒く膚理 の細かい皮が包んで、外見だけは至極 穏やかである。――針を海綿に蔵 して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬 を貼 って創口 を快よく慰めよ。出来得べくんば唇 を血の出る局所に接 けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を露 わすものは亡 ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今卸 したかと思われるほどの白足袋 を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い□ の椽に引き擦るを軽く蹴返 しながら、障子 をすうと開ける。
居住 をそのままの母は、濃い眉 を半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入 」と云う。
藤尾 は無言で後 を締める。母の向 に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶 はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目 に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に真 少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝 きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥 に籠 る。熱に堪 えざる時は骨を露 わす。
「ふん」
長煙管 に煙草 の殻を丁 とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人 の料簡 ばかりは御母 さんにも分らないね」
雲井の煙は会釈 なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同 じ事ですね」
「同じ事さ。生涯 あれなんだよ」
御母 さんの疳 の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家 を襲 ぐのがあんなに厭 なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪 いんだよ。あんな事を云って私達 に当付 けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日 までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮 え切らないっちゃありゃしない。彼人 の顔を見るたんびに阿母 は疳癪 が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知 を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕 む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多 にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃 しなさい、阿母 さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉 じ籠 って寝転んでるしさ。――そうして他人 には財産を藤尾にやって自分は流浪 するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近 の阿爺 の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質 ですね。それより早く糸子 さんでも貰 ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡 はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶 を卸 して、炭取を取り上げた。隙間 なく渋 の洩 れた劈痕焼 に、二筋三筋藍 を流す波を描 いて、真白 な桜を気ままに散らした、薩摩 の急須 の中には、緑りを細く綯 り込んだ宇治 の葉が、午 の湯に腐 やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は疾 く抜け出した香 のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を敲 くほどは、さほどとも思えぬが、縁 に近くようやく色を増して、濃き水は泡 を面 に片寄せて動かずなる。
母は掻 き馴 らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭 の白き残骸 の完 きを毀 ちて、心 に潜む赤きものを片寄せる。温 もる穴の崩 れたる中には、黒く輪切の正しきを択 んで、ぴちぴちと活 ける。――室内の春光は飽 くまでも二人 の母子 に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑 不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴 の春を司 どる人の歌めく天 が下 に住まずして、半滴 の気韻 だに帯びざる野卑の言語を臚列 するとき、毫端 に泥を含んで双手に筆を運 らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須 と、佐倉の切り炭を描 くは瞬時の閑 を偸 んで、一弾指頭 に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔 しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉 しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切 なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、一 もよっぽど剽軽者 だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩 と鳥屋 といっしょにあった。牝鶏 の馬を評する語に、――あれは鶏鳴 をつくる事も、鶏卵 を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通 のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は滑 らかな頬 に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠 の鉄砲玉は鉛を鎔 かして鋳 る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は飽 くまでも真面目 である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、端 なくも母の疑問を起す。子を知るは親に若 かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども唐 、天竺 である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき眉 の下から、娘を屹 と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵 と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍 を輪切りにすると、こんな風になる。張 のある眉 に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお籠 る何物かがちょっと閃 いてすぐ消えた。母は相槌 を打つ。
「あんな見込のない人は、私 も好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶 の頭 はかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じ剣 である。
「いっそ、ここで、判然 断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺 が、あの金時計を一 にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具 にして、赤い珠 ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰 っ着 いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談 半分に皆 の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎 だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺 の口占 ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の角 に敲 きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える柘榴石 は、蒔絵 の蘆雁 を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧 とも化けぬ浅葱桜 が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今少時 と護 る椽 に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面 の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子 のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな灯 が宗近家の座敷に点 る。静かなる夜を陽に返す洋灯 の笠に白き光りをゆかしく罩 めて、唐草 を一面に高く敲 き出した白銅の油壺 が晴がましくも宵 に曇らぬ色を誇る。灯火 の照らす限りは顔ごとに賑 やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火 の周囲 に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好 と思う。
「それじゃ相輪□ も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎 はやむを得ず二重 に折れている。頭はだいぶ禿 げかかった。これを時々撫 でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪□た何ですか」と宗近君は阿爺 の前で変則の胡坐 をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山 へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野 さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の襟 を正しく坐っている。甲野さんが問い懸 けられた時、□然 な糸子の顔は揺 いた。
「相輪□はなかったようだね」と甲野さんは手を膝 の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「阿爺 何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭 の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談 さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼 の波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行 くばかりで飛脚 同然だからいけない。――叡山には東塔 、西塔 、横川 とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火 は明かに揺れる。糸子は袖 を口へ当てて、崩 しかかった笑顔の収まり際 に頭 を上げながら、眸 を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略 はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父 さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺 の区域だね。広い山の中に、あすこに一 と塊 まり、ここに一と塊まりと坊が集 まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「東 は修羅 、西 は都に近ければ横川 の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番淋 しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪□ から五十丁も這入 らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶 にもあるだろう。――かように候 ものは、西塔 の傍 に住居 する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺 さん叡山 の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「開基 かい。開基は伝教大師 さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体昔 しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前 、叡山の麓 で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭 が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は想 こそ無上 なれと説いた。逝 く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今載 せて杳然 と去るを思わぬが世の常である。堂に法華 と云い、石に仏足 と云い、□ に相輪 と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を記 して吾事 畢 ると思うは屍 を抱 いて活ける人を髣髴 するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上 は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山 に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。大法鼓 を鳴らし、大法螺 を吹き、大法幢 を樹 てて王城の鬼門を護 りし昔 しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋 に蜘蛛 の糸引く古伽藍 を、今 さらのように桓武 天皇の御宇 から堀り起して、無用の詮議 に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人 の所作 である。現在は刻 をきざんで吾 を待つ。有為 の天下は眼前に落ち来 る。双の腕 は風を截 って乾坤 に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹 の指揮によって、夜来 、日来 に面目を新たにするものじゃと思い籠 めたように、□々 として叡山を説く。説くは固 より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を択 んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢 になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目 である。
「阿爺 叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦 を食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆 」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「到底 のらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を競 り出して笑った。洋灯 の蓋 が喫驚 するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶 にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院 と云って、延暦寺となったのはだいぶ後 の事だ。その時分から妙な行 があって、十二年間山へ籠 り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見 かな」
と宗近君が今度は独語 のように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似 でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に背 く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠 ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと噴 き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆 に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫 え落ちそうだ。糸子は俯向 いて声を殺したため二重瞼 が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫 だ。――欽吾 さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠 る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母 さんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人 もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然 として天地の間 に懸 っている。世界滅却の日をただ一人 生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一 にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を推 している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕 の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。
九
真葛 が原 に女郎花 が咲いた。すらすらと薄 を抜けて、悔 ある高き身に、秋風を品 よく避 けて通す心細さを、秋は時雨 て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜 に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕 に頼み少なく繋 なぐ。冬は五年の長きを厭 わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧 を知らぬ春の天下に紛 れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴 に色づくを、ひそかなる黄を、一本 の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く憚 かりの呼吸 を吹くようである。
今までは珠 よりも鮮 やかなる夢を抱 いていた。真黒闇 に据 えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に懸 ける暇 もなかった。懐 に抱く珠の光りを夜 に抜いて、二百里の道を遥々 と闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海 に幾分か往昔 の輝きを失った。
小夜子 は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて逢 う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が吠 える。自 からも、わが来 る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に蔵 してなおさらに疑 を路上に受くるような気がする。
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫 の油は容易に油壺 の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自 に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に描 く。小夜子の世界は新橋の停車場 へぶつかった時、劈痕 が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
小野さんも同じ事である。打ち遣 った過去は、夢の塵 をむくむくと掻 き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜 から出す。おやと思う間 に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息 の根を留 めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく向 で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛 の時節を誤って、暖たかき陽炎 のちらつくなかに甦 えるのは情 けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば労 らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖 に隠れて見た。紫 の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据 えかける途端 に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
「阿父 は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日 より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、蒸 れやすき髪に櫛 の歯を入れる暇もない。不断着の綿入 さえ見すぼらしく詩人の眼に映 る。――粧 は鏡に向って凝 らす、玻璃瓶裏 に薔薇 の香 を浮かして、軽く雲鬟 を浸 し去る時、琥珀 の櫛は条々 の翠 を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
「御忙 しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日 も一昨日 も会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己 れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向 いて、膝 に載 せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾 の指輪とは無論比較にはならぬ。
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井 の白茶けた板の、二た所まで節穴 の歴然 と見える上、雨漏 の染 みを侵 して、ここかしこと蜘蛛 の囲 を欺 く煤 がかたまって黒く釣りを懸 けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸 が一本横に貫ぬいて、長い方の端 が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退 いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢 でもぶら下げたものだろう。次の間 を立て切る二枚の唐紙 は、洋紙に箔 を置いて英吉利 めいた葵 の幾何 模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい縁 の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく椽 に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上 ほどもない。丈 に足らぬ檜 が春に用なき、去年の葉を硬 く尖 らして、瘠 せこけて立つ後 ろは、腰高塀 に隣家 の話が手に取るように聞える。
家は小野さんが孤堂 先生のために周旋したに相違ない。しかし極 めて下卑 ている。小野さんは心のうちに厭 な住居 だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣 に辛夷 を添わせて、松苔 を葉蘭 の影に畳む上に、切り立ての手拭 が春風に揺 らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭 さまで、好い家 が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情 けない。ある人に奴鰻 を奢 ったら、御蔭様で始めて旨 い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑 したそうである。
いじらしいのと見縊 るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟 ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い家 でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好 なのがなくって……」
と云い懸 けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇 な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細い面 をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣 は背広に変っている。五分刈 は光沢 のある毛に変っている。――髭 は一躍して紳士の域に上 る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟 は卸 し立てである。飾りには留針 さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品 の好い胴衣 の隠袋 には――恩賜の時計が這入 っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間一日一夜 も懐 に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東 長短の袂 を分かって、離愁 を鎖 す暮雲 に相思 の関 を塞 かれては、逢 う事の疎 くなりまさるこの年月 を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気 に生い立った阿蒙 の変りかたではない。色の褪 めた過去を逆 に捩 じ伏せて、目醒 しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵 らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が恨 めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
新橋へは迎 に来てくれた。車を傭 って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛 親子して寝る庵 を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様 に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。小 さい手提 の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛 といっしょに先へ行った、刻 み足の後 ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々 と来た二人を案内するためではなく、時候後 れの親子を追い越して馳 け抜けるためのように見える。割符 とは瓜 二つを取ってつけて較 べるための証拠 である。天に懸 る日よりも貴 しと護 るわが夢を、五年 の長き香洩 る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退 いている。握る割符は通用しない。
始めは穴を出でて眩 き故と思う。少し慣 れたらばと、逝 く日を杖 に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく咽喉 に滑 べり込む長い顎 を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺 めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭 を見た。変る髪の風 と変る装 とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息 を吐 いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯 を逆 に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山 へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山 は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を看 る人は星月夜のごとく夥 しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父 とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情 けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣 の温泉などは立派に普請 が出来て……」
「そうですか」
「小督 の局 の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「彼所 いらは皆 掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「毎年 俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓 しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向 に返る。金縁の眼鏡 と薄黒い口髭 がすぐ眸 に映 る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒 の、するすると抜け出しそうな咽喉 を抑 えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角 を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。品 のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終 突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳 ばかりで、いたずらに育った縞柄 と、用い古るした琴 が恨 めしい。琴は蔽 のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。膝 に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶 が、行儀よく、鬢 の末を潜 り抜けて、頬 と頸 の続目 が、暈 したように曲線を陰に曳 いて去る。見事な画 である。惜しい事に真向 に座 った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退 き具合、これほどの光線 に、これほどの色の付き具合は滅多 に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵 を、地に滅 り込むほどに回 らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向 に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻 える袖 の香 が、濃き紫 の眉間 を掠 めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広 の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜 しく」
「あの……」と口籠 っている。
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと急 き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪 くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道 に離れて行く。未練も会釈 もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然 として、椽 に近く坐った。
降らんとして降り損 ねた空の奥から幽 かな春の光りが、淡き雲に遮 ぎられながら一面に照り渡る。長閑 かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶 しい。どこやらで琴の音 がする。わが弾 くべきは塵 も払わず、更紗 の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋 しく壁に持たれている。いつ欝金 の掩 を除 ける事やら。あの曲はだいぶ熟 れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾 く爪の、安らかに幾関 の柱 を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐 しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日 のように思う。ちらちらに昼の蛍 と竹垣に滴 る連□ に、朝から降って退屈だと阿父様 がおっしゃる。繻子 の袖口は手頸 に滑 りやすい。絹糸を細長く目に貫 いたまま、針差の紅 をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮 かに眼を醒 ませと、への字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥 ねた。曲はたしか小督 であった。狂う指の、憂 き昼を、くちゃくちゃに揉 みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴 の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好 な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇 を破る烏 の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴 でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父 は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日 を明日 と、その日に数 る命は、文 も理 も危 い。……
格子 ががらりと開 く。古 の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも苛 い埃 でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭 な所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋 をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、提 げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団 を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に逢 った」
「おやおや」と気の毒そうに微笑 んだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭 で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈 まがいの黄な縞 を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「阿父 も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――価 が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り損 なってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々 しいから帰りには歩いて来た」
「御草臥 なすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で髯 も何も埃 だらけになっちまった。こら」と右手 の指を四本并 べて櫛 の代りに顎 の下を梳 くと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入 んなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分苛 くってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と廂 の外を下から覗 いて見る。空は曇る心持ちを透 かして春の日があやふやに流れている。琴の音 がまだ聴 える。
「おや琴を弾いているね。――なかなか旨 い。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父 には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈 しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑 を浮べて見せる。老人は世に疎 いわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談 を……」
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「阿父様 」
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で逢 った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
後 の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車 を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が欝 ぐものでね。今日なぞは阿父 などにもよくない天気だ」
気が欝 ぐのは秋である。餅 と知って、酒の咎 だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと琴 でも弾 いちゃどうだい。気晴 に」
娘は浮かぬ顔を、愛嬌 に傾けて、床の間を見る。軸 は空 しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、竪 に截 って、欝金 の蔽 が春を隠さず明らかである。
「まあ廃 しましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々 博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己 れには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に凝 ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに緩 くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日 都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利 かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父 が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜 はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日 くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
十
謎 の女は宗近 家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団 が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅 と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏 はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋 の中へ入れて、方寸 の杉箸 に交 ぜ繰り返す。芋をもって自 からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石 のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所 が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽 の面 には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の大和尚 は、かく物騒な女が天 が下 に生を享 けて、しきりに鍋の底を攪 き廻しているとは思いも寄らぬ。唐木 の机に唐刻の法帖 を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃 の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢 の木 を謡 っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖婆 は鍋 の中に天下の雑物 を攫 い込んだ。石の影に三十日 の毒を人知れず吹く夜 の蟇 と、燃ゆる腹を黒き背 に蔵 す蠑□ の胆 と、蛇の眼 と蝙蝠 の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて尖 れる爪は、世を咀 う幾代 の錆 に瘠 せ尽くしたる鉄 の火箸 を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡 と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間 である。鍋の底からは愛嬌 が湧 いて出る。漾 うは笑の波だと云う。攪 き淆 ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品 よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛 である。大和尚 の怖 がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖 になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌 を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後 は……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人 だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰 になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後 をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾 や藤尾 が出まして、御厄介 にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
頭はここでようやく上がる。阿父 はほっと気息 をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖 かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛 でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日前 がちょうど観頃 でございましたが、一昨日 の風で、だいぶ傷 められまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?浅葱桜 。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄 いような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川 には緋桜 と云うのがあるが、浅葱桜 は珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家 に云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一 が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気 なものでアハハハハ。――どうです粗菓 だが一つ御撮 みなさい。岐阜 の柿羊羹 」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、旨 いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸 を上げて皿の中から剥 ぎ取った羊羹の一片 を手に受けて、独 りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野 の母は切り出した。
「せんだって中 は欽吾 がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭 様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者 でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友 と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合 が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝 いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家 にさえいるとあなた、妹 にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊 してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人 の病気のせいだから、今さら愚癡 をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目 に答えたが、ついでに灰吹 をぽんと敲 いて、銀の延打 の煙管 を畳の上にころりと落す。雁首 から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって家 へ見えた時などは皆 と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細 らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「彼人 の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
謎 の女は自分の思う事を他 に云わせる。手を下 しては落度になる。向うで滑 って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海 を知らぬ間 に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮 申すのでございますが――どう在 っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡 くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日 も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥 ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母 だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負 い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳 になっても心配は絶えませんね」
「此方 様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶 に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母 私 はこんな身体 で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟 を貰って、阿母 さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は和尚 をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀 の蓋 を丁寧に被 せる。煙管 は転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生 の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利 きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
和尚は手提 の煙草盆の浅い抽出 から欝金木綿 の布巾 を取り出して、鯨 の蔓 を鄭重 に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪 ければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障 らないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後 が大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、疳 が高くなってちゃあ」
「まるで腫物 へ障 るようで……」
「ふうん」と和尚 は腕組を始めた。裄 が短かいので太い肘 が無作法 に見える。
謎 の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言 と遽色 である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃 えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重 なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人 が断然家 を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「聟 かね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「左様 さね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳 ですい」
「もう、明けて四 になります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌 を下から覗 き込むようにする。
「いえもう、身体 ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は放 って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一 さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気 な女だと覚 し召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実は私 の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一 も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日 と云う訳にも行かないですが、晩 かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの方 なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母 の御考は」
「あの通 行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり叶 ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人 に困りますので。一さんは宗近家を御襲 ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父 がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡 くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶 さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜 しい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに湿気 を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛 うじて謎の女の謎をここまで叙し来 った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭 だと云う。日を作り夜を作り、海と陸 とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹 が活動する。六畳の中二階 の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽 の鉢 に、蟠 まる根を盛りあげて、くの字の影を椽 に伏せる。一間 の唐紙 は白地に秦漢瓦鐺 の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床 は、軸を嫌って、籠花活 に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、彩 と乱して、糸屑 のこぼるるほどの抽出 を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方 は、一針ごとに春を刻 む幽 かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這 は弥生 の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指 の先でしきりに敷居を敲 いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで余 り儲 かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父 が苔盛園 で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆 でもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺 も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担 ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ私 は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度 こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌 なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
「阿父 さまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日が中 って二階の方が松のために好いって」
「阿爺 も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句 ?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎 でしょう」
「いやに光 つくじゃないか。兄さんのかい」
「阿爺 のよ」
「阿爺 のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無 以後御見限 りだね」
「あらいやだ。あんな嘘 ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢 だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏 が多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父 の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古 ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠 をかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想 に」
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、欄干 の隙間 から庭前 の植込を頬杖 に見下している。
「まだあるのよ。一寸 」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮 んだ合せ目を、見る間 に括 けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔 を障子 へ向けて、可愛 らしい二重瞼 を細くする。宗近君は依然として長閑 な心を頬杖に託して庭を眺 めている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
下顎 は頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉 から鼻へ抜ける。
「あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を唇 に湿 して、指先に尖 らすは、射損 なった針孔を通す女の計 である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母 が御出 よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶 わない」
「でも品 がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌 じゃ、世話の仕栄 がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無 の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島 は駄目だが荒川 は今が盛 だよ。荒川から萱野 へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山 はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借 してちょうだい」
「そうして裁縫 を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石 の指環 を買ってやる」
「旨 いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに鋏 はなくって」
「その蒲団 の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落 かい」
「これ?奇麗 でしょう。縮緬 の御申 さん」
「御前がこしらえたのかい。感心に旨 く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側 へ煙草の灰を捨てるのは御廃 しなさいよ。――これを借 して上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙 の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人 だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の屑 をかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのような方 が好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「嫌 でもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母 はしきりに密談をしているね」
「ことに因 ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨 がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分の家 で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑 だね。それじゃこっちも気息 を殺して寝転 んでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫 の手を休 めて、火熨に逡巡 っていた糸子は、入子菱 に縢 った指抜を抽 いて、□色 に銀 の雨を刺す針差 を裏に、如鱗木 の塗美くしき蓋 をはたと落した。やがて日永 の窓に赤くなった耳朶 のあたりを、平手 で支えて、右の肘 を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた膝 を斜めに崩 した。襦袢 の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑 って、くっきりと普通 よりは明かなる肉の柱が、蝶 と傾く絹紐 の下に鮮 かである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾 に聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女 だね。――御前がそう頬杖 を突いて針箱へ靠 たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴 な姿勢だハハハハ」
「沢山 御冷 やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
云いながら糸子は首を支 えた白い腕をぱたりと倒した。揃 った指が針箱の角を抑 えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、圧 し付けられた手の痕 を耳朶 共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重 の瞼 は、涼しい眸 を、長い睫 に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘 に撥 ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出 な色の絹紐 がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目 になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「今度 の試験の結果はまだ分らないの」
「もう直 だろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「好 かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方 が好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例 に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至 だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦 にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃 そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を透 して糸子の頬を暖かに射る。俯向 いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻 える襦袢 の袖 のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑 えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨 く手が届くね。盲目 にすると疳 の好い按摩 さんが出来るよ」
「だって慣 れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴 を引く別嬪 がいてね」
「端書 に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山 へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚 れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘 よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁 だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃 そう」
「その女の方 は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目 にならなくっても好い。実は嘘 だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪 らしい」
糸子はめでたく笑った。
十一
蟻 は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存 のうちに無聊 をかこつ。立ちながら三度の食につくの忙 きに堪 えて、路上に昏睡 の病を憂 う。生を縦横に託して、縦横に死を貪 るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃 に削 って、人の精神を擂木 と鈍くする。刺激に麻痺 して、しかも刺激に渇 くものは数 を尽くして新らしき博覧会に集まる。
狗 は香 を恋 い、人は色に趁 る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣 と云い、黄袍 と云い、青衿 と云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤 を走る弥次馬 は必ずいろいろの旗を担 ぐ。担がれて懸命に櫂 を操 るものは色に担がれるのである。天下、天狗 の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕 として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
蛾 は灯 に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽 く。金銀、□□ 、瑪瑙 、琉璃 、閻浮檀金 、の属を挙げて、ことごとく退屈の眸 を見張らして、疲れたる頭を我破 と跳 ね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌に鏤 たる宝石が独 り幅を利 かす。金剛石 は人の心を奪うが故 に人の心よりも高価である。泥海 に落つる星の影は、影ながら瓦 よりも鮮 に、見るものの胸に閃 く。閃く影に躍 る善男子 、善女子 は家を空 しゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に篩 い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜 の砂に漉 せば燦 たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
花電車が風を截 って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋 の辺 で卸 す。雁鍋はとくの昔に亡 くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方 にぞろぞろ行く。
岡は夜 を掠 めて本郷から起る。高き台を朧 に浮かして幅十町を東へなだれる下 り口 は、根津に、弥生 に、切り通しに、驚ろかんとするものを枡 で料 って下谷 へ通す。踏み合う黒い影はことごとく池 の端 にあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の隙間 に夜を照らす宵重 なりて、雨も降り風も吹く。始めは一片 と落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中 は見るからに、万紅 を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、梢 から後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪 はいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやく収 った。星ならずして夜を護 る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点 いた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
薄 の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の閃 く中に織り出した半月 の数は分からず。幅広に腰を蔽 う藤尾の帯を一尺隔てて宗近 君と甲野 さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「糸子 さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を眉 深く被 って立つ。
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の衣 の色は黄に似て夜を欺 くを、黒いものが幾筋も竪 に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「貴所方 は」と糸子を差し置いて藤尾 が振り返る。黒い髪の陰から颯 と白い顔が映 す。頬の端は遠い火光 を受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは楽 があるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯 を真直 に立てたまま藤尾を見下 した。
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点 す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書 を附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は旨 く中 ると俗になるのが通例だ」
「中 ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に外 れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると旨 く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味 くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。聴 いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の角 から欽吾 を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気 に聞く。
□ の線を闇 に渡して空を横に切るは屋根である。竪 に切るは柱である。斜めに切るは甍 である。朧 の奥に星を埋 めて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻 の穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。卍 を描 いて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座 の真中を貫けとばかり抛 げ上げた。かくして塔は棟 に入り、棟は床 に連 なって、不忍 の池 の、此方 から見渡す向 を、右から左へ隙間 なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
藍 を含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵 は堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄 を描き、円塔方柱 の数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横に空 を走る□の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形を崩 す気色 が見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好 が好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇 した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠 に紅玉 を嵌 めたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向 いた。
空は低い。薄黒く大地に逼 る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下 がっている。柱と連 なり、甍と積む万点の□は逆 しまに天を浸 して、寝とぼけた星の眼 を射る。星の眼は熱い。
「空が焦 げるようだ。――羅馬 法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中 から上野の森へかけて大いなる圜 を画 いた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支 なしか。とにかく女王 の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗 よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧 し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底 から、腐った蓮 の根がそろそろ青い芽 を吹きかけている。泥から生れた鯉 と鮒 が、闇 を忍んで緩 やかに□ を働かしている。イルミネーションは高い影を逆 まにして、二丁余 の岸を、尺も残さず真赤 になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を作 す。泥に潜 む魚の鰭 は燃える。
湿 える□は、一抹 に岸を伸 して、明かに向側 へ渡る。行く道に横 わるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりと截 って長い橋を西から東へ懸 ける。白い石に野羽玉 の波を跨 ぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠 はことごとく夜を照らす白光の珠 である。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに聚 った。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列に空 に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で埋 っている」
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは孤堂 先生と小夜子 を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の祠 を抜けて圧 して来る。向 が岡 を下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲 を捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただ揉 まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸 に見出して、安々と踵 を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後 ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰 すために皆 が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢 の間に立って、多数より優 れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存 の自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後 家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負 って、幅の利 かぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎 められるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の大 さが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
「阿爺 、大丈夫」と後 から呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然 に押して行けば世話はない」と挟 まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬 に笑 を見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯 が孤堂先生の黒い帽子を掠 めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で指 す。手を出せば人の肩で遮 ぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足を揃 える暇もなく、そのまま日和下駄 の前歯を傾けて背延 をする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が押 しかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人を援 ける事を拒まぬ親切な人間である。
文明の波は自 から動いて頼 のない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へ崩 れ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
暗い底に藍 を含む逝 く春の夜を透 かして見ると、花が見える。雨に風に散り後 れて、八重に咲く遅き香 を、夜に懸 けん花の願を、人の世の灯 が下から朗かに照らしている。朧 に薄紅 の螺鈿 を鐫 る。鐫ると云うと硬過 る。浮くと云えば空を離れる。この宵 とこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうも怖 ろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早く家 へ帰りたくなった。どうも怖 しい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛 の子のように暗い森を蔽 うて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
数 は勢 である。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子 のうじょうじょ湧 く所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで紛 れるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって怖 くって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を回 るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の湧 き返る薄黒い倫敦 で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐 もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重 の壁に遮 られて隣りの家に煤 けた空を眺 めている。それでも逢 えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利 になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古 に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲 を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連 はだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は廃 しにするかね」
「でも欽吾 さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなか旨 い事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には敵 わない」と甲野さんは断案を下 した。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請 の入口を跨 ぐと、小 い卓に椅子 を添えてここ、かしこに併 べた大広間に、三人四人ずつの群 がおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんの袂 をぐいと引いた。後 の藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山 に何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこが空 いている」とずんずん奥へ這入 って行く。あとを跟 けながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。後 ろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい輝 を帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気 なき糸子は、優 しい肩を斜 めに捩 じ向けた。
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を卸 した三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択 ばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、遥 か隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向 に見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、顎 の下に抜くも嬾 うく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるる憂 き髯 は小夜子の方に向いている。
「あら御連 があるのね」と糸子は頸 をもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上に竪 に挟んだ燐寸箱 の横側をしゅっと擦 った。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪 だろう」と宗近君は糸子に調戯 かける。
俯目 に卓布を眺 めていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしい方 ね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気 なく云い放つ。極 めて低い声である。答を与うるに価 せぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌 を打つ事を屑 とせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草 の灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向 になって燐寸 を擦 る。刹那 に藤尾の眸 は宗近君の額を射た。宗近君は知らない。啣 えた巻煙草に火を移して顔を真向 に起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒 を」と云いながら角砂糖を茶碗の中へ抛 り込む。蟹 の眼のような泡 が幽 かな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子は匙 でぐるぐる攪 き廻している。
「そら阿爺 が云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が嫌 だよ。柿羊羹 か味噌松風 、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの傍 へ持って行くとすぐ軽蔑 されてしまう」
「そう阿爺 の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣 はないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上 り。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺 のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖 を口いっぱいに頬張 る。
「ホホホホ一人で饒舌 って……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗を卸 して、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、瞬 もせず窓を通して映 る、イルミネーションの片割 を専念に見ている。兄の首はしだいに故 の位地に帰る。
四人が席を立った時、藤尾は傍目 も触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然 として入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落 に女の肩を敲 く。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちは楽 がある。女は仕合せなものだ」と再び人込 へ出た時、何を思ったか甲野さんは復 前言を繰り返した。
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!家 へ帰って寝床へ這入 るまで藤尾の耳にこの二句が嘲 の鈴 のごとく鳴った。
十二
貧乏を十七字に標榜 して、馬の糞、馬の尿 を得意気に咏 ずる発句 と云うがある。芭蕉 が古池に蛙 を飛び込ますと、蕪村 が傘 を担 いで紅葉 を見に行く。明治になっては子規 と云う男が脊髄病 を煩 って糸瓜 の水を取った。貧に誇る風流は今日 に至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれを卑 しとする。
仙人は流霞 を餐 し、朝□ を吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像に耽 るためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
文明の詩は金剛石 より成る。紫 より成る。薔薇 の香 と、葡萄 の酒と、琥珀 の盃 より成る。冬は斑入 の大理石を四角に組んで、漆 に似たる石炭に絹足袋 の底を煖 めるところにある。夏は氷盤 に莓 を盛って、旨 き血を、クリームの白きなかに溶 し込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭 を見よがしに匂わする温室にある。野路 や空、月のなかなる花野 を惜気 も無く織り込んだ綴 の丸帯にある。唐錦 小袖 振袖 の擦 れ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完 うするために金を得ねばならぬ。
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の行 を愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴 の実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
詩人ほど金にならん商買 はない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共他 の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾 に頼 たくなるのは自然の数 である。あすこには中以上の恒産 があると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥 と長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾 は多病である。実の娘に婿 を取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占 があたればいつも吉 である。急 いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、自 ら開くべき優曇華 の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲 をとらぬ、またとれぬ男である。
天地はこの有望の青年に対して悠久 であった。春は九十日の東風 を限りなく得意の額 に吹くように思われた。小野さんは優 しい、物に逆 わぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢と背 を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁 にも較 ぶべきほどの暗い小 い点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留 っている。仰ぐとぐるぐる旋転 しそうに見える。ぱっと散れば白雨 が一度にくる。小野さんは首を縮めて馳 け出したくなる。
四五日は孤堂 先生の世話やら用事やらで甲野 の方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜 は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子 を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母 を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃 やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好 な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考 に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸 な男である。
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を開 けた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見える栞 があらわれる。小野さんは左の手に栞を滑 らして、細かい活字を金縁の眼鏡 の奥から読み始める。五分 ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつの間 にやら、黒い眼は頁 を離れて、筋違 に日脚 の伸びた障子 の桟 を見詰めている。――四五日藤尾に逢 わぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日 でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には梳 る間も千金である。逢えば逢うたびに願の的 は近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる縁 はない。のみならず、魔は節穴 の隙 にも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、籠 る一夜 に月は入 る。等閑 のこの四五日に藤尾の眉 にいかな稲妻 が差しているかは夢測 りがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭蕉布 の襖 を開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李 が見える。小野さんは行李の上に畳んである背広 を出して手早く着換 え終る。帽子は壁に主 を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒 の上草履 に、カシミヤの靴足袋 を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談 か」と行こうとすると、卸 し立ての草履が片方 足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯 部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ余 まり周章 るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目 ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛 な顔をして障子の傍 に上草履を揃 えたまま廊下の突き当りを眺 めている。何が出てくるかと思う。焦茶 の中折が鴨居 を越すほどの高い背を伸 して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開 の狭い胴衣 から白い襯衣 と白い襟 が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳 を、見栄 のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴 の隠袋 に挿 し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲 ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端 にあらわれた。海老茶色 の緞子 の片側が竜紋 の所だけ異様に光線を射返して見える。在来 りの銘仙 の袷 を、白足袋 の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢 らしいものがちらと色めいた。同時に遮 ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女 の視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは崩 さない。女ははっと躊躇 う。やがて頬に差す紅 を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を注 さぬ黒髪に、漣 の琥珀 に寄る幅広の絹の色が鮮 な翼を片鬢 に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶 をする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入 んなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足 に廊下を滑 って来る。
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入 る。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話を促 がす。
「昨夜は御忙 しいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭 さまで」と云う顔は何となく窶 れている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込 へは滅多 に出つけた事がないもんですから」
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて怖 がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて淋 しく笑った。
「先生も雑沓 する所が嫌 でしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を外 して、畳の上に置いてある埋木 の茶托を眺 める。京焼の染付茶碗 はさっきから膝頭 に載 っている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋 から煙草入を取り出す。闇 を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出 を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金 に、銀 の冴 えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、好 かぬ人込へわざわざ出掛けるのも皆 自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、袖 振り交わして、長閑 な歩 を、春の宵 に併 んで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇 った。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態 染みた料簡 からではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味が籠 っている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色 をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み馴 れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の中 ではそれほど性 に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた口籠 る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭 のする煙草を燻 らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌 も御前の舵 の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪 を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかを尋ねられるのは恨 めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達 せぬのかと思う。
胴衣 の隠袋 から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨 い具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し焦慮 くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑 ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場 ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私 が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び水泡 に帰した。小夜子は悄然 として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載 せて手早く表へ出る。――同時に逝 く春の舞台は廻る。
紫を辛夷 の弁 に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽 ちかかる椽 に、干 す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎 が立つ。黒きを外に、風が嬲 り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶 がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、後 ろからさす日の影に、耳を蔽 うて肩に流す鬢 の影に、しっとりとして仄 である。千筋 にぎらついて深き菫 を一面に浴せる肩を通り越して、向う側はと覗 き込むとき、眩 ゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思う蓼 の花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかの細 りした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木 の小机に肱 を持たせて俯向 いている。
心臓の扉を黄金 の鎚 に敲 いて、青春の盃 に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背 けるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いて妄 りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地 には花吹雪 、一年を重ねて二十に至って愛の神は今が盛 である。緑濃き黒髪を婆娑 とさばいて春風 に織る羅 を、蜘蛛 の囲 と五彩の軒に懸けて、自 と引き掛 る男を待つ。引き掛った男は夜光の璧 を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を逆 にして、後 の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教 の牧師は救われよという。臨済 、黄檗 は悟れと云う。この女は迷えとのみ黒い眸 を動かす。迷わぬものはすべてこの女の敵 である。迷うて、苦しんで、狂うて、躍 る時、始めて女の御意はめでたい。欄干 に繊 い手を出してわんと云えという。わんと云えばまたわんと云えと云う。犬は続け様にわんと云う。女は片頬 に笑 を含む。犬はわんと云い、わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を逆 にして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
石仏 に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基 いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜 して憚 からぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼 る。相手を愛するの資格を具 えざるがためである。□ たる美目 に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危 い。倩 たる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午 である。藤尾は己 れのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は玩具 である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄 ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫 も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外 れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風 の吹き回しで、旨 い潮の満干 で、はたりと天地の前に行き逢 った時、この変則の愛は成就する。
我 を立てて恋をするのは、火事頭巾 を被 って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを溶 かす。角張 った絵紙鳶 も飴細工 であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに渉 ってもふやける気色 を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
沙翁 は女を評して脆 きは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通す昂 れる恋は、炊 ぎたる飯の柔らかきに御影 の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛 み締めるものに護謨 の弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを択 んだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉 はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近 君を捕 るは容易である。宗近君を馴 らすは藤尾といえども困難である。我 の女は顋 で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌 の璧 を懐 に抱 いて来る。夢にだもわれを弄 ぶの意思なくして、満腔 の誠を捧げてわが玩具 となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉 に、わが唇 に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰 する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯々 として来 るべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄き粧 を日ごとにして我 の角 を鏡の裡 に隠していた。その五日目の昨夕 ! 驚くうちは楽 がある! 女は仕合せなものだ! 嘲 の鈴 はいまだに耳の底に鳴っている。小机に肱 を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背を椽 に、顔を影なる居住 は、考え事に明海 を忌 む、昔からの掟 である。
縄なくて十重 に括 る虜 は、捕われたるを誇顔 に、麾 けば来り、指 せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人と併 んで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神懸 けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
冴 えぬ白さに青味を含む憂顔 を、三五の卓を隔てて電灯の下 に眺めた時は、――わが傍 ならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、気遣 わし気 に、また親し気に、この人と半々に洋卓 の角を回って向き合っていた時は、――撞木 で心臓をすぽりと敲 かれたような気がした。拍子 に胸の血はことごとく頬に潮 す。紅 は云う、赫 としてここに躍 り上がると。
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。有 ども無きがごとくに装 え。昂然 として水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが復讐 である。
我の女はいざと云う間際 まで心細い顔をせぬ。恨 むと云うは頼る人に見替られた時に云う。侮 に対する適当な言葉は怒 である。無念と嫉妬 を交 ぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に優 る不面目と思う。小野さんはたしかに淑女を辱 しめた。
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依 の頭 を下げながら、二心 の背を軽薄の街 に向けて、何の社 の鈴を鳴らす。牛頭 、馬骨 、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の御賽銭 を投げて、波か字かの辻占 を見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から早速 に放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った餌食 である。外へはやられぬ。神聖なる玩具として生涯 大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が玩具 にして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕 から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――肱 を持たして、俯向 くままの藤尾の眉が活きて来る。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我 は愛を八 つ裂 にする。面当 はいくらもある。貧乏は恋を乾干 にする。富貴 は恋を贅沢 にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。尖 る錐 に自分の股 を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも価 ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠 る。逆 しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我 ! 我 ! と叫ぶ。――藤尾は俯向 ながら下唇を噛 んだ。
逢 わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕 帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪 らせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口の中 で云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
よし来ても昨夜 の女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分を焦 らす料簡 だろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人が仄 かした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしても詫 らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面 にあてつけた二人の悪戯 は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫 こうと、洗髪 の後 に顔を埋 めて考えている。
静かな椽 に足音がする。背の高い影がのっと現われた。絣 の袷 の前が開いて、肌につけた鼠色 の毛織の襯衣 が、長い三角を逆様 にして胸に映 る上に、長い頸 がある、長い顔がある。顔の色は蒼 い。髪は渦 を捲 いて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日は櫛 を入れないとも思われる。美くしいのは濃い眉 と口髭 である。髭の質 は極 めて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣を具 えて何となく人柄に見える。腰は汚 れた白縮緬 を二重 に周 して、長過ぎる端 を、だらりと、猫じゃらしに、右の袂 の下で結んでいる。裾 は固 より合わない。引き掛けた法衣 のようにふわついた下から黒足袋 が見える。足袋だけは新らしい。嗅 げば紺 の匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾 は、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側 へ出た。
拭き込んだ細かい柾目 の板が、雲斎底 の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負 った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入 る。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は後 でする。雨戸の溝 をすっくと仕切った栂 の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪 を見下 した。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇 の首を擡 げた時のようである。黒い髪に陽炎 を砕く。
男は、眼さえ動かさない。蒼 い顔で見下 している。向き直った女の額をじっと見下している。
「昨夕 は面白かったかい」
女は答える前に熱い団子をぐいと嚥 み下 した。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶 をする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女は急 いて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら悠々 として柱に倚 って人を見下しているのは、酒を飲みつつ胡坐 をかいて追剥 をすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちは楽 があるんでしょう」
女は逆 に寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた気色 さえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の十分一 と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩 をすると妙な現象が起る。
姿勢を変えるさえ嬾 うく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「楽 ?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する気遣 がない」
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように楽 の多いものは危ないよ」
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり見下 している。何事とも知らず「埃及 の御代 しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を金槌 の先で敲 いたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯を噛 んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に倚 っている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分私 があずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木 の机に凭 せた肘 を跳 ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊 と海老茶 の棒縞 が、棒のごとく揃 って立ち上がる。裾 だけが四色 の波のうねりを打って白足袋の鞐 を隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底 の踵 を見せて、向 へ行ってしまった。
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に籠 る青味を蒸 し返して、湿 りながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。磨 き上げた山羊 の皮に被 る埃 さえ目につかぬほどの奇麗 な靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
世を投 げ遣 りのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織の紐 を丸打に結んで、細い杖に本来空 の手持無沙汰 を紛 らす甲野さんと、近づいてくる小野さんは塀 の側 でぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け応 があった。そのまま洋杖 は動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは躊躇 する。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から覗 き込 んだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕 見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥 は一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして連 があった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまず繋 ぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時 頃?」の方が便宜 ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸 になる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉 の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢 ほど先 を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻 えす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図 をしたらしく感じた時、後 から押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠退 いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖に牽 かれて故 へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴の踵 に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を描 く事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽した靴は、光る頭 を回 らして、棄身 に細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく真直 に立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことに因 ると今日は下読が出来ていないかも知れない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく被 ったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関に掛 かる。
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に倚 りながら、席に返らぬ爪先 を、雨戸引く溝の上に翳 して、手広く囲い込んだ庭の面を眺 めている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、謎 の女は立て切った一間 のうちで、鳴る鉄瓶 を相手に、行く春の行き尽さぬ間 を、根限 り考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考 は、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍 すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶の音 を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑 のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
居住 は心を正す。端然 と恋に焦 れたもう雛 は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いて夫 なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上に忌 わしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ掟 は忌わしいのみか情 けない。謎の女は自 を情ない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。醤油 と味淋 は昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょに呑 めば咳が出る。親の器 の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経 れば日を重ねて隔 りの関が出来る。この頃は江戸の敵 に長崎で巡 り逢 ったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に逆 って、師走 正月の拍子 をはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子 としては不都合と思う。こんなものに死水 を取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
幸 と藤尾がいる。冬を凌 ぐ女竹 の、吹き寄せて夜 を積る粉雪 をぴんと撥 ねる力もある。十目 を街頭に集むる春の姿に、蝶 を縫い花を浮かした派出 な衣裳 も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿 と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦 らしてこそ、育て上げた母の面目は揚 る。海鼠 の氷ったような他人にかかるよりは、羨 しがられて華麗 に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
蘭 は幽谷 に生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名ある聟 を取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日 まで出来ずにいた。燦 として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌 があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
小野さんは申分 のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利 かぬ。無一物の某 を入れて、おとなしく嫁姑 を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。夫 が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に帰 してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸 になれるものなら、降って湧 いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳 はそう無雑作 に剥 ぎ取れるものではない。降りそうだから傘 をやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人が濡 れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思 わくもある。そこに謎 が出来る。くれると云うのは本気で云う嘘 で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々 ながら受取った顔つきに、文明の手前を繕 わねばならぬ。そこで謎が解 ける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡 で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを飽 くまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦し紛 れの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮 いが高 じて、布団の上に坐 たたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑 で、平気に鬢 を嬲 る温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色 が悪くなった。
椽 を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は鍵 の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅 の底を渡る気で真直 な向う角を見ると藤尾が立っている。濡色 に捌 いた濃き鬢 のあたりを、栂 の柱に圧 しつけて、斜めに持たした艶 な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸 だけが白く見える。萩に伏し薄 に靡 く故里 を流離人 はこんな風に眺 める事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母 さん」と斜 めな身体を柱から離す。振り返った眼つきには愁 の影さえもない。我 の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と我 が聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉 が跳 ねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母 さんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう蓮 の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今始 て」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶 である。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳 を畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀 が鳴く。時雨 れる。木枯 が吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所に坐 って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁 のする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽く温 む底から、朦朧 と朱 い影が静かな土を動かして、浮いて来る。滑 らかな波にきらりと射す日影を崩 さぬほどに、尾を揺 っているかと思うと、思い切ってぽんと水を敲 いて飛びあがる。一面に揚 る泥の濃きうちに、幽 かなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去る痕 は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆 を風なきに嬲 る。甲野さんの日記には鳥入 雲無迹 、魚行 水有紋 と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書 でかいてある。春光は天地を蔽 わず、任意に人の心を悦 ばしむ。ただ謎の女には幸 せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂 と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭 を畳むと云った。銭 のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩 い命を托して、娑婆 の風に薄い顔を曝 すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙 の薄きに過ぎて、重苦しと碧 を厭 う柔らかき茶に、日ごとに冒 す緑青 を交ぜた葉の上には、鯉の躍 った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠 となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺 める。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上を□ ていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は屹 と向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ眸 を反 らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走 るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
清水 の舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「御前 ――あの人と喧嘩 でもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
昨夕 の事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論躍起 になって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓 に逼 って、知らぬ人の門口 に、一銭二銭の憐 を乞うのと大した相違はない。同情は我 の敵である。昨日 まで舞台に躍る操人形 のように、物云うも懶 きわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、果 は笑わしたり、焦 らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた手柄顔を、母も天晴 れと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄 をぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の昨夕 を見たら、招く薄 は向 へ靡 く。知らぬ顔の美しい人と、睦 じく御茶を飲んでいたと、心外な蓋 をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。外 れた鷹 なら見限 をつけてもういらぬと話す。あとを跟 けて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時に辛 い目に逢 わせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさしたりする。そうして、面白そうな手柄顔 を、母に見せれば母への面目は立つ。兄と一 に見せれば、両人 への意趣返 しになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は躍 る。蓮 は芽 を吹く、芝生はしだいに青くなる、辛夷 は朽 ちた。謎の女はそんな事に頓着 はない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱に罹 った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用 すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の挟 ったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈語 を云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。一 にやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
椽側 を曲って母の影が障子 のうちに消えたとき、小野さんは内玄関 の方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
磬 を打って入室相見 の時、足音を聞いただけで、公案の工夫 が出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った和尚 がある。気の引けるときは歩き方にも現われる。獣 にさえ屠所 のあゆみと云う諺 がある。参禅 の衲子 に限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にも利 く。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は一入 変である。落人 は戦 ぐ芒 に安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す靴足袋 の黒き爪先 に憚 り気を置いて這入 って来た。
一睛 を暗所 に点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう舐 められている。
「今日 は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸 はぐらついた。
「御無沙汰 をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は遮 った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を挫 かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ暖 かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、後 は故 のごとく静になる。ところへ鯉 がぽちゃりとまた跳 る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉がと云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷 に注 いている。――壺 のごとく長い弁 から、濃い紫 が春を追うて抜け出した後は、残骸 に空 しき茶の汚染 を皺立 てて、あるものはぽきりと絶えた萼 のみあらわである。
鯉がと云おうとした小野さんはまた廃 めた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえと受けた。男は仕損 ったと心得て、だいぶ暖 になりましたと気を換えて見たが、それでも験 が見えぬので、鯉がの方へ移ろうとしたのである。男は踏み留 まれるところまで滑 って行く気で、気を揉 んでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕 博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いで汚 い腫物 を知らぬ人の鼻の前 に臭 わせると同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵 とは云わせぬ。今宵限 の朧 だものと、即興にそそのかされて、他生 の縁の袖 と袂 を、今宵限り擦 り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋 めて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支 ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併 べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月 を、向 では離れじと、日 の間 とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁 の色に、細くともこれまで繋 ぎ留 められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘 となる。嘘は河豚汁 である。その場限りで祟 がなければこれほど旨 いものはない。しかし中毒 たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実 を手繰寄 せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便 もあるに、隠そうとする身繕 、名繕、さては素性 繕に、疑 の眸 の征矢 はてっきり的 と集りやすい。繕は綻 びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の□ は生涯 洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者 である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸に括 られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血に通 うこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸 に暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知 を切る当座の嘘は吐 きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「昨夕 博覧会へ御出 に……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたかにしようか、御出になったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻面 を掠 めて、黒い影が颯 と横切って過ぎた。男はあっと思う間 に先 を越されてしまう。仕方がないから、
「奇麗 でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確 受け留める。後 から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当 がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。当 り障 りのない答は大抵の場合において愚 な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘 んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛 と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審 にする必要がある。
「誰か御伴 がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと拗 ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の外 にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦 の中を漕 ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの間 にやら平地 へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙 に
「そんなに忙 しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を後 へ引く。長い髪が一筋ごとに活 きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高 く笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然 としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。燦 たる金剛石 がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆 でぴしゃりと頬辺 を叩 かれた。同時に頭の底で見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩 となる。
「実は一週間前に京都から故 の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と嘯 きながら頭を低 れた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕 兄と一 さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺 に亀屋 の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで皆 して御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、飽 くまでも粧 う。
「大変旨 い御茶でした事。あなた、まだ御這入 になった事はないの」
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度 是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影は傾 く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜 の夢に藤尾は、驚くうちは楽 がある! 女は仕合 なものだ! と云う嘲 の鈴 を聴かなかった。
十三
太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。夜中郵便 と書いて板塀 に穴があいているところを見ると夜は締 りをするらしい。正面に芝生 を土饅頭 に盛り上げて市 を遮 ぎる翠 を傘 と張る松を格 のごとく植える。松を廻れば、弧線を描 いて、頭の上に合う玄関の廂 に、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。呑気 な白襖 に舞楽の面ほどな草体を、大雅堂 流の筆勢で、無残 に書き散らして、座敷との仕切 とする。
甲野 さんは玄関を右に切れて、下駄箱の透 いて見える格子 をそろりと明けた。細い杖 の先で合土 の上をこちこち叩 いて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気合 も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえって賑 やかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
やがて静かなうちで、すうと唐紙 が明く音がする。清 や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子 と甲野さんは顔を見合せて立った。
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても滅多 に取次に出る事はない。出ようと思う間 に、立てかけた膝 をおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき琵琶 の抱 き心地と云う永い昼が、永きに堪 えず崩れんとするを、鳴く□ にうっとりと夢を支えて、清を呼べば、清は裏へでも行ったらしい。からりとした勝手には茶釜 ばかりが静かに光っている。黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中に埋 めて、机の上に猫のように寝ているだろう。立 ち退 いた空屋敷 とも思わるるなかに、内玄関 でこちこち音がする。はてなと何気なく障子を明けると――広い世界にたった一人の甲野さんが立っている。格子 から差す戸外 の日影を背に受けて、薄暗く高い身を、合土 の真中に動かしもせず、しきりに杖を鳴らしている。
「あら」
同時に杖の音 はとまる。甲野さんは帽の廂 の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが上 って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
「御出 ?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼 に愛嬌 の波が寄った。
「御留守ですか。――阿爺 さんは」
「父は謡 の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯 を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入 、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後 へ引いた。着物はあらい縞 の銘仙 である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後 から掠 めて来る日影に、蒼 い頬が、気のせいか、昨日 より少し瘠 けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「私 も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾 の俎下駄 を脱いで座敷へ上がる。
長押作 りに重い釘隠 を打って、動かぬ春の床 には、常信 の雲竜 の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角 に取り巻く紋緞子 の藍 に、寂 びたる時代は、象牙 の軸さえも落ちついている。唐獅子 を青磁 に鋳 る、口ばかりなる香炉 を、どっかと据 えた尺余の卓は、木理 に光沢 ある膏 を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻 濃 やかな紫檀 である。
椽 に遅日 多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く絣 の前を合せる。乱菊に襟 晴れがましきを豊 なる顎 に圧 しつけて、面と向う障子の明 なるを眩 く思う女は入口に控える。八畳の座敷は眇 たる二人を離れ離れに容 れて広過ぎる。間は六尺もある。
忽然 として黒田さんが現れた。小倉 の襞 を飽くまで潰 した袴 の裾 から赭黒 い足をにょきにょきと運ばして、茶を持って来る。煙草盆 を持って来る。菓子鉢を持って来る。六尺の距離は格 のごとく埋 められて、主客の位地は辛うじて、接待の道具で繋 がれる。忽然 として午睡の夢から起きた黒田さんは器械的に縁 の糸を二人の間に渡したまま、朦朧 たる精神を毬栗頭 の中に封じ込めて、再び書生部屋へ引き下がる。あとは故 の空屋敷 となる。
「昨夕 は、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない?私 より丈夫だね」と甲野さんは少し笑い掛けた。
「だって、往復 共電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に片靨 を見せたばかりである。返事はしなかった。
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を傾 げて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、皆 して御茶を飲んだでしょう」
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しい方 を連れていらしったでしょう」
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は逢 った事は何遍もあります」
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
二重瞼 に寄る波は、寄りては崩 れ、崩れては寄り、黒い眸 を、見よがしに弄 ぶ。繁 き若葉を洩 る日影の、錯落 と大地に鋪 くを、風は枝頭 を揺 かして、ちらつく苔 の定かならぬようである。甲野さんは糸子の顔を見たまま、なぜの説明を求めなかった。糸子も進んでなぜの訳を話さなかった。なぜは愛嬌 のうちに溺 れて、要領を得る前に、行方 を隠してしまった。
塗り立てて瓢箪形 の池浅く、焙烙 に熬 る玉子の黄味に、朝夕を楽しく暮す金魚の世は、尾を振り立てて藻 に潜 るとも、起つ波に身を攫 るる憂 はない。鳴戸 を抜ける鯛 の骨は潮に揉 まれて年々 に硬くなる。荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも徒事 では通れない。ただ広海 の荒魚 も、三つ尾の丸 っ子 も、同じ箱に入れられれば、水族館に隣合 の友となる。隔たりの関は見えぬが、仕切る硝子 は透 き通りながら、突き抜けようとすれば鼻頭 を痛めるばかりである。海を知らぬ糸子に、海の話は出来ぬ。甲野さんはしばらく瓢箪形に応対をしている。
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは椽側 の方を見た。野面 の御影 に、乾かぬ露が降りて、いつまでも湿 とりと眺 められる径 二尺の、縁 を択 んで、鷺草 とも菫 とも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春を偸 んで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と根方 にあしらった熊笹 が見えるのみである。
「どこに」と暖い顎 を延ばして向 を眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い袖 をふらつかせながら、二三歩膝頭 で椽 に近く擦 り寄って来る。二人の距離が鼻の先に逼 ると共に微 かな花は見えた。
「あら」と女は留 る。
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「昨夜 の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を翻 えしてじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
賞 められたのか、腐 されたのか分らない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものか解 しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目 に云うから、真面目にそうでしょうかと云うよりほかに道はない。
文 は人の目を奪う。巧は人の目を掠 める。質は人の目を明かにする。そうでしょうかを聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。直下 に人の魂を見るとき、哲学者は理解 の頭 を下げて、無念とも何とも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
糸子は美くしい歯を露 わした。
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――阿爺 と兄さんの傍 を離れると変ります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「私 もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変れば変る方がいいんでしょう。どうかして藤尾 さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに羨 しいんですか」
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと危 ない」
女は依然として、肉余る瞼 を二重 に、愛嬌 の露を大きな眸 の上に滴 しているのみである。危ないという気色 は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕 のような女を五人殺します」
鮮 かな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。殺すと云う言葉はさほどに怖 しい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
女は咽喉 から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥 み下 した。顔は真赤 になる。
「嫁に行くと変ります」
女は俯向 いた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜 の影が渡る。鷺草 とも菫 とも片づかぬ花は依然として春を乏 しく咲いている。
十四
電車が赤い札を卸 して、ぶうと鳴って来る。入れ代って後 から町内の風を鉄軌 の上に追い捲 くって去る。按摩 が隙 を見計って恐る恐る向側 へ渡る。茶屋の小僧が臼 を挽 きながら笑う。旗振 の着るヘル地の織目は、埃 がいっぱい溜って、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出て来る。鳥打帽が寄席 の前に立っている。今晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は針線 だらけである。一羽の鳶 も見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる雑駁 な世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は印絆天 が向いた。
呼ばれた本人は、知らぬ気 に、来る人を避 けて早足に行く。抜き競 をして飛んで来た二輛 の人力 に遮 ぎられて、間はますます遠くなる。宗近 君は胸を出して馳 け出した。寛 く着た袷 と羽織が、足を下 すたんびに躍 を踊る。
「おい」と後 から手を懸 ける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの細面 が斜 めに見えた。両手は塞 がっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま鄭寧 に会釈 した。両手は塞 がっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも聴 えない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の歩行方 がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを提 げていると歩行にくいから……」
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが紙屑籠 、こっちが洋灯 の台」
「そんなハイカラな形姿 をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を提 げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
小野さんは黙って笑ながら御辞儀 をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を歩行 ていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく適合 った小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに逢 っては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に捕 まると何となく不安である。宗近君と藤尾 の関係を知るような知らぬような間 に、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向 人の許嫁 を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われ故 に、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、毫 も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談 を云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を解 せぬ男だろう。藤尾の夫 には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己 を含んでいる。悪戯 をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見 よりは何となく物騒だと云う感じが重 である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷 の嫌 なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡 するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣 が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは鄭寧 に聞いた。
「うん。今、その角 で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
この答は少々論理に叶 わないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで差支 ない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その紙屑籠 を出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど嵩張 る割に軽いもんだね。見っともないと云うのは小野さんの事だ」と宗近君は屑籠を揺 りながら歩き出す。
「そう云う風に提 げるとさも軽そうだ」
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ勧工場 で買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が這入 っていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多 な屑は入れられない」
「歌反古 とか、五車 反古と云うようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものは要 らない。紙幣 の反古をたくさん入れて貰いたい」
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に反古 になる訳だな。乞う隗 より始めよか。人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は昨夕 妙な伴 とイルミネーションを見に行ったね」
見物に行った事はさっき露見してしまった。今更 隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野 さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかも是非共こちらから白状させようとする。宗近君は向 から正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――故 の先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を外 した。向側 の硝子戸 のなかに金文字入の洋書が燦爛 と詩人の注意を促 がしている。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ馳 け抜けた。小野さんも小走 に跟 いて来る。
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の眼鏡 を硝子窓に擦 り寄せて余念なく見取れている。
小羊 の皮を柔らかに鞣 して、木賊色 の濃き真中に、水蓮 を細く金に描 いて、弁 の尽くる萼 のあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を回 らしたのがある。背を平らに截 って、深き紅 に金髪を一面に這 わせたような模様がある。堅き真鍮版 に、どっかと布 の目を潰 して、重たき箔 を楯形 に置いたのがある。素気 なきカーフの背を鈍色 に緑に上下 に区切って、双方に文字だけを鏤 めたのがある。ざら目の紙に、品 よく朱の書名を配置した扉 も見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘 だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部 を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情 ない」
「とかく眼鏡が祟 るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「冗談 を云っちゃいけない。――さあ好加減 に歩こう」
二人は肩を比 べてまた歩き出した。
「君、鵜 と云う鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら云う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫 の魚籃 の中に這入 るから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠 のなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。得 の行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「行為 さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅 を画 にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺 めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんは間 を延ばして答えたが、
「例 えば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜 の女ね」
小野さんの腋 の下が何だかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
琴 の事件なら糸子から聞いた。その外 に何も知るはずがない。
「蔦屋 の裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾いていた」
「なかなか旨 いでしょう」と小野さんは容易に悄然 ない。藤尾に逢った時とは少々様子が違う。
「旨いんだろう、何となく眠気 を催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上色彩 がある。
「冷やかすんじゃない。真面目 なところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか尊 といところがある」
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候後 れだなどとけなしたがる」
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云う謎 である。
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を軽蔑 している。
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐 がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の縁 から、斜めに宗近君を見ると、相変らず、紙屑籠 を揺 って、揚々 と正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返した時は何となく勢 がなかった。
「どんなって、よっぽど深い因縁 と見える」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と孤堂 先生との関係をぷすりと切って棄てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうする訳にも行かない。京の宿屋は何百軒とあるに、何で蔦屋 へ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶棒 を卸 して、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。酔興 だと思う。余計な悪戯 だと思う。先方に益 もないのに好んで人を苦しめる泊り方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨の欄に出て、連翹 の花もろともに古い庭を見下 された事は、とくの昔に知っている。今更引合 に出されても驚ろきはしない。しかし二階からもとなると剣呑 だ。そのほかにまだ見られた事があるにきまっている。不断なら進んで聞くところだが、何となく空景気 を着けるような心持がして、どこでと押を強く出損 なったまま、二三歩あるく。
「嵐山 へ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
小野さんは突然冗談 を云う。にわかに景気が好くなった。
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり嵐山 だ」
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が停車場 へ迎えに行ったところも見た」
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡の珠 のはずれから、変に相手の横顔を覗 き込んだ。
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が?蔦屋 の?」
念を押したような、後 が聞きたいような、後がないのを確かめたいような様子である。
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
小野さんは恭 しく屑籠を受取った。宗近君は飄然 として去る。
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の家 へ着く。着くのはありがたくない。孤堂先生の家へ急ぎたいのではない。小野さんは何だか急ぎたいのである。両手は塞 っている。足は動いている。恩賜の時計は胴衣 のなかで鳴っている。往来は賑 かである。――すべてのものを忘れて、小野さんの頭は急いでいる。早くしなければならん。しかしどうして早くして好いか分らない。ただ一昼夜が十二時間に縮まって、運命の車が思う方角へ全速力で廻転してくれるよりほかに致し方はない。進んで自然の法則を破るほどな不料簡 は起さぬつもりである。しかし自然の方で、少しは事情を斟酌 して、自分の味方になって働らいてくれても好さそうなものだ。そうなる事は受合だと保証がつけば、観音 様へ御百度を踏んでも構わない。不動様へ護摩 を上げても宜 しい。耶蘇教 の信者には無論なる。小野さんは歩きながら神の必要を感じた。
宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと軽蔑 む事もある。露骨でいやになる事もある。しかし今更のように考えて見ると、あの態度は自分にはとうてい出来ない態度である。出来ないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中には出来もせぬが、またしたくもない事がある。箸 の先で皿を廻す芸当は出来るより出来ない方が上品だと思う。宗近の言語動作は無論自分には出来にくい。しかし出来にくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を圧 しつけようとしている景色 が寸毫 も先方に見えないのにこちらは何となく感じてくる。ただ会釈 もなく思うままを随意に振舞っている自然のなかから、どうだと云わぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それが祟 って、徳義が制裁を加えるとのみ思い通して来たがそればかりではけっしてない。例 えば天を憚 からず地を憚からぬ山の、無頓着 に聳 えて、面白からぬと云わんよりは、美くしく思えぬ感じである。星から墜 つる露を、蕊 に受けて、可憐の弁 を、折々は、風の音信 と小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは檜山 と花圃 の差 で、本来から性 が合わぬから妙な感じがするに違ない。
性 が合わぬ人を、合わねばそれまでと澄していた事もある。気の毒だと考えた事もある。情 ないと軽蔑 んだ事もある。しかし今日ほど羨 しく感じた事はない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみに引 き較 べて、急に羨ましくなった。
藤尾には小夜子 と自分の関係を云い切ってしまった。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添う小 さき影を、逢 わぬ五年を霞 と隔てて、再び逢 うたばかりの朦朧 した間柄と云い切ってしまった。恩を着るは情 の肌、師に渥 きは弟子 の分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防 して来た嘘 はとうとう吐 いてしまった。ようやくの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を実 と偽 わる料簡 はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も嫌 だと聞く。今日からは是非共嘘を実と通用させなければならぬ。
それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、手詰 に出られると跳 ねつける勇気はない。もう少し冷刻に生れていれば何の雑作 もない。法律上の問題になるような不都合はしておらんつもりだから、判然 断わってしまえばそれまでである。しかしそれでは恩人に済まぬ。恩人から逼 られぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然が早く廻転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――後 は? 後は後から考える。事実は何よりも有効である。結婚と云う事実が成立すれば、万事はこの新事実を土台にして考え直さなければならん。この新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
ただ機一髪と云う間際 で、煩悶 する。どうする事も出来ぬ心が急 く。進むのが怖 い。退 ぞくのが厭 だ。早く事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。したがって気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき浅黄 の幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上に被 さってくる。払い退 ける風も見えぬ往来は、夕暮のなすがままに静まり返って、蒼然 たる大地の色は刻々に蔓 って来る。西の果 に用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変った。
蕎麦屋 の看板におかめの顔が薄暗く膨 れて、後 から点 ける灯 を今やと赤い頬に待つ向横町 は、二間足らずの狭い往来になる。黄昏 は細長く家と家の間に落ちて、鎖 さぬ門 を戸ごとにくぐる。部屋のなかはなおさら暗いだろう。
曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る格子戸 をそろりと明けると、なかは、ほのくらく近づく宵 を、一段と刻んで下へ降りたような心持がする。
「御免」と云う。
静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどに穏 である。幅一尺の揚板 に、菱形 の黒い穴が、椽 の下へ抜けているのを眺 めながら取次をおとなしく待つ。返事はやがてした。うんと云うのか、ああと云うのかはいと云うのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴を覗 きながら取次を待っている。やがて障子 の向 でずしんと誰か跳 ね起きた様子である。怪しい普請 と見えて根太 の鳴る音が手に取るように聞える。例の壁紙模様の襖 が開 く。二畳の玄関へ出て来たなと思う間 もなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔が髯 もろともに現われた。
平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、躯 が細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、辛 い浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は一層 顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い隙間 を白いのが埋 めて、白い隙間を風が通る。
古 の人は顎 の下まで影が薄い。一本ずつ吟味して見ると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんは鄭寧 に帽を脱いで、無言のまま挨拶 をする。英吉利刈 の新式な頭は、眇然 たる「過去」の前に落ちた。
径 何十尺の円を描 いて、周囲に鉄の格子を嵌 めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児 はわれ先にとこの箱へ這入 る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
英吉利式 の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯 に、世を佗 び古りた記念のためと、大事に胡麻塩 を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々 が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、降 りつつ夜に行くものの前に鄭寧 な頭 を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴の紐 を解く。解き終らぬ先に先生はまた出てくる。
「さあ御上り」
座敷の真中に、昼を厭 わず延べた床 を、壁際へ押しやったあとに、新調の座布団が敷いてある。
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、午 からとうとう寝てしまった。今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので、待たして御気の毒だった」
「いえ、今格子を開 けたばかりです」
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
床の抜殻は、こんもり高く、這 い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を暈 す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線 をきらきらと聚 める。裏は鼠 の甲斐絹 である。
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
「風邪 でもないようだが、――なに大した事もあるまい」
「昨夕 御出 になったのが悪かったですかね」
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。御蔭 で好い保養をした」
「もう少し閑 だと、方々へ御供をする事が出来るんですが……」
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっとも要 らない。君の忙がしいのは、つまり我々の幸福 なんだから」
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ち懸 ける。締め切った障子に黒い長い影が出来る。
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて故 のごとく低くなる。えがらっぽい咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い懸 ける途端 にまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮然 として咳の終るを待つ。
「横になって温 まっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと一時 いけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」
若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、疎 らな髯 を風塵 に託して、残喘 に一昔と二昔を、互違 に呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今が始めてである。子 の鐘は陰 に響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちの事だと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうち旨 くやらないと生涯 の損だと思った。
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて淋 しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒 が悪いのは、損をした昔を思い出すより欝陶 しいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。今日藤尾に逢う前に先生の所へ来たら、あの嘘を当分見合せたかも知れぬ。しかし嘘を吐 いてしまった今となって見ると致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたと云って差 し支 ない。――小野さんは心中でこう云う言訳をした。
「東京は変ったね」と先生が云う。
「烈 しい所で、毎日変っています」
「恐ろしいくらいだ。昨夜 もだいぶ驚いたよ」
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には滅多 に逢 わないだろうね」
「そうですね」と瞹眛 に受ける。
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか田舎染 みて見える。小野さんは光沢 の悪い先生の顔から眼を放して、自分の膝元を眺めた。カフスは真白である。七宝 の夫婦釦 は滑 な淡紅色 を緑の上に浮かして、華奢 な金縁のなかに暖かく包まれている。背広 の地は品 の好い英吉利織 である。自己をまのあたりに物色した時、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣り込まれそうな際 どいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生には無論分らぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも可懐 げに話しかける。
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から継 ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早速 の返事を忘れて、暗い部屋のなかに竦 るような気がした。
「さっき御嬢さんが御出 でした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく出掛 けだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い淀 む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々 たる挨拶 をした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも朦朧 と取締 がなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだ間 がある。のに日は落ちた。床 は一間を申訳のために濃い藍 の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義董 の幅 が掛かっていた。唐代の衣冠 に蹣跚 の履 を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩に凭 した酔態は、この家の淋 しさに似ず、春王 の四月に叶 う楽天家である。仰せのごとく額をかくす冠 の、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、纓 か飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく宵 を迎えて、来る夜に紛 れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、御頼 の洋灯 の台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠 を持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。灯火 を点 けてから緩 くり拝見しよう」
「私が点 けましょう。洋灯 はどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、障子 をすうと明ける。残る影はひそかに手を拱 いて動かぬほどを、夜は襲 って来る。六畳の座敷は淋 しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
やがて椽 の片隅で擦 る燐寸 の音と共に、咳はやんだ。明るいものは室 のなかに動いて来る。小野さんは洋袴 の膝を折って、五分心 を新らしい台の上に載 せる。
「ちょうどよく合うね。据 りがいい。紫檀 かい」
「模擬 でしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が遥 かに好いようだ」
二三年前と違って、先生は些額 の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分か貢 いで貰いたいようにも見える。小野さんは畏 まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいても差 し支 ないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「私 などはどこの果 で死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で可哀想 だからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も交際 もない。まるで他国と同様だ。それに来て見ると、砂が立つ、埃 が立つ。雑沓 はする、物価 は貴 し、けっして住み好いとは思わない。……」
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間音信不通 にしていたものだから、今では居所も分らない。不断はさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。何となく心細い」
「なるほど」
「まあ御前が傍 にいてくれるのが何よりの依頼 だ」
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。忙 しいところを……」
「論文の方がないと、まだ閑 なんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
先生は襦袢 の袖 から手を抜いて、素肌の懐 に肘 まで収めたまま、二三度肩をゆすって
「どうも、ぞくぞくする」と細長い髯 を襟 のなかに埋 めた。
「御寝 みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう御暇 をします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ私 の方で御免蒙 って寝る。それにまだ話も残っているから」
先生は急に胸の中から、手を出して膝 の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあ緩 くりするが好い。今暮れたばかりだ」
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の可懐味 や、一夕 の無聊 ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片時 も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
実は夕食 もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に洋袴 の膝を伸 す訳にもいかない。老人は病を力 めて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき蒲団 は片寄せられて、穴ばかりになった。温気 は昔の事である。
「時に小夜の事だがね」と先生は洋灯 の灯 を見ながら云う。五分心 を蒲鉾形 に点 る火屋 のなかは、壺 に充 る油を、物言わず吸い上げて、穏かな□ の舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人佗 て淋 しき宵 を、ただ一点の明 きに償 う。燈灯 は希望 の影を招く。
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な性質 ではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生は洋灯から眼を放した。眼は小野さんの方に向う。何とか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から眸 を動かさない。その上口を開 かずに何だか待っている。
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに納得 した先生は先へ進む。
「あれも不憫 だからね」
小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は膝 の上にある。眼は手の上にある。
「私 がこうして、どうかこうかしているうちは好い。好いがこの通りの身体だから、いつ何時 どんな事がないとも限らない。その時が困る。兼 ての約束はあるし、御前も約束を反故 にするような軽薄な男ではないから、小夜の事は私がいない後 でも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃ勿論 です」と云わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ淋 しくなった。
「そんなに御心配なさる事も要 らんでしょう」と覚束 なく云う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を摩 り始めた。しばらくは二人とも無言である。心なき灯火 が双方を半分 ずつ照らす。
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが判然 していれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。大体 」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「来々月 はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ馬鹿気 ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は物価 が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞 の兵児帯 を締めて芋粥 に寒さを凌 いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽 の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩 の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ湧 いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空 である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸 して洋灯 の心 をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観が瞬 と共に変るように明るくなる。小野さんはまだ螺旋 から手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで覗 いて見る。やがて背広 の表隠袋 から、真白な手巾 を撮 み出して丁寧に指頭 の油を拭き取った。
「少し灯 が曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅 いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は股 の開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん御手数 を掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん慣 れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い按排 でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに因 ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
「一昨 かの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは捩 じ上げた五分心 の頭を無心に眺 めている。浅井の帰京と五分心の関係を見極 めんと思索するごとくに眸子 は一点に集った。
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け易 えた。例になく口の角 にいささかの決心を齎 している。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が判然 さえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、夜 の針は疾 く回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――御疎怱 であった」
小野さんはすっきりと立つ。先生は洋灯 を執 る。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ穏 な晩です」と小野さんは靴の紐 を締めつつ格子 から往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
屈 んでいた小野さんはようやく沓脱 に立った。格子が明 く。華奢 な体躯 が半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
小野さんは恭 しく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
外は朧 である。半 ば世を照らし、半ば世を鎖 す光が空に懸 る。空は高きがごとく低きがごとく据 らぬ腰を、更 けぬ宵 に浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸い縁 に黄を帯びた輪をぼんやり膨 らまして輪廓も確 でない。黄な帯は外囲 に近く色を失って、黒ずんだ藍 のなかに煮染出 す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛 れやすい晩である。
小野さんの靴は、湿 っぽい光を憚 かるごとく、地に落す踵 を洋袴 の裾 に隠して、小路 を蕎麦屋 の行灯 まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香 がする。地に□ く影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと揺 れて去る。下駄の音は朧 に包まれて、霜 のようには冴 えぬ。撫 でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸 を不審と据 えると白墨の相々傘 が映 る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た霞 が立て籠 める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば靄 のなか、出 れば月の世界である。小野さんは夢のように歩 を移して来た。□々 として独 り行くと云う句に似ている。
実は夕食 もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡 で、得意な襞 の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。今宵 はいつまで立っても腹も減らない。牛乳 さえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、確 と踏答 えがないような心持である。そと卸 すせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧は要 らぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服 の着こなし方に至って、ことごとく粋 を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいが乗 っ引 きならぬ羽目 に陥 る。水に溺 れるものは水を蹴 ると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と諦 めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。吾妻下駄 と駒下駄の音が調子を揃 えて生温 く宵を刻んで寛 なるなかに、話し声は聞える。
「洋灯 の台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人が応 える。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」と後 の声がまた応 える。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だか暖 か過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯は温 まりますから」と説明する。
二人の話はここで小野さんの向側 を通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけが斜 に出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首を捩 じ向けて、立ち留っていた小野さんは、また歩き出した。
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。宗近 のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野 なら超然として板挟 みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。向 へ行って一歩深く陥 り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡 んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後 から被 せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥 るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を拱 いて、自然の為 すがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像すると怖 しくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、眼 のあたりに見るようになるかもしれぬ。是非ここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二三日の余裕はある。二三日よく考えた上で決断しても遅くはない。二三日立って善 い智慧 が出なければ、その時こそ仕方がない。浅井を捕 えて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考で、浅井の帰りを勘定に入れて、二三日の猶予をと云った。こんな事は人情に拘泥 しない浅井に限る。自分のような情に篤 いものはとうてい断わり切れない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
月はまだ天 のなかにいる。流れんとして流るる気色 も見えぬ。地に落つる光は、冴 ゆる暇なきを、重たき温気 に封じ込められて、限りなき大夢を半空に曳 く。乏しい星は雲を潜 って向側 へ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのが辛 うじて輝やくようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。
十五
部屋は南を向く。仏蘭西式 の窓は床 を去る事五寸にして、すぐ硝子 となる。明 け放てば日が這入 る。温 かい風が這入る。日は椅子 の足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井 まで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を据 える。蒲鉾形 に引戸を卸 せば、上から錠 がかかる。明ければ、緑の羅紗 を張り詰めた真中を、斜めに低く手元へ削 って、背を平らかに、書を開くべき便宜 とする。下は左右を銀金具の抽出 に畳み卸してその四つ目が床に着く。床は樟 の木の寄木 に仮漆 を掛けて、礼に叶 わぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
そのほかに洋卓 がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様 を華奢 な昔に忍ばして、室 の真中を占領している。周囲 に並ぶ四脚の椅子は無論同式 の構造 である。繻子 の模様も対 とは思うが、日除 の白蔽 に、卸す腰も、凭 れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
書棚は壁に片寄せて、間 の高さを九尺列 ねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋 から取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字 の金は、縦にも横にも奇麗である。
小野さんは欽吾 の書斎を見るたびに羨 しいと思わぬ事はない。欽吾も無論嫌 ってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けると直 応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手狭 な住居 を、二十世紀に取り拡 げた便利の結果である。趣味に叶 うと云わんよりは、むしろ実用に逼 られて、時好の程度に己 れを委却 した建築である。さほどに嬉 しい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
こう云う書斎に這入 って、好きな書物を、好きな時に読んで、厭 きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽 だろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪 き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入 りたくてたまらない。
高等学校こそ違え、大学では甲野 さんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪 をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に洩 れた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内に蓄 えているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て差支 ない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を拱 いて、徒然 の日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人 となる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、驥 も櫪 に伏す天の不公平を、やむを得ず、今日 まで忍んで来た。一陽は幸 なき人の上にも来 り復 ると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつ然 として机に向っている。
正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生 を一目に見渡すのみか、朗 な気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立て籠 っている。
右手の小窓は、硝子 を下 した上に、左右から垂れかかる窓掛に半 ば蔽 われている。通う光線 は幽 かに床 の上に落つる。窓掛は海老茶 の毛織に浮出しの花模様を埃 のままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶ褪 めた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の隙間 から硝子へ顔を圧 しつけて、外を覗 くと扇骨木 の植込 を通して池が見える。棒縞 の間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の筋向 が藤尾 の座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に凭 ってじっとしている。焚 き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる体 である。
やがて、かたりと書物を置き易 える音がする。甲野さんは手垢 の着いた、例の日記帳を取り出して、誌 け始める。
「多くの人は吾 に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。曰 く。命に服せざれば汝を嫉 まんと」
細字 に書き終った甲野さんは、その後 に片仮名 でレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再び故 の座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆 がころころと机を滑 って床 に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机の角 に突張って、心持腰を後 へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜 に取り上げた洋筆軸 は父が西洋から買って来てくれた昔土産 である。
甲野さんは、指先に軸を撮 んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌 のなかに落し込む。掌の向 を上下に易 えると、長い軸は、ころころと前へ行き後 ろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念 である。
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。頁 をはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力相若 くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌 の末に制する事能 わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺 くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐 に富むとき、二人 の位地は、誠実をもって相対すると毫 も異なるところなきに至る。この故に偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽 、不足悪に出会 するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難 しとす。第三の場合は固 より稀 なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵 するをもって常態とすればなり。人相賊 してついに達する能 わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到 り得べきを思えば、悲しむべし」
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の洋筆軸 を、ぽとりと墨壺 の底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記を頁 の上に載せる。両足を踏張 って、組み合せた手を、頸根 にうんと椅子の背に凭 れかかる。仰向 く途端に父の半身画と顔を見合わした。
余り大きくはない。半身とは云え胴衣 の釦 が二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに洩 るる白襯衣 の色と、額の広い顔だけである。
名のある人の筆になると云う。三年前 帰朝の節、父はこの一面を携えて、遥 かなる海を横浜の埠頭 に上 った。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に懸 っている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下 している。筆を執 るときも、頬杖 を突くときも、仮寝 の頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、画布 の人は、常に書斎を見下している。
見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに錬 り上げた眼玉ではない。一刷毛 に輪廓を描 いて、眉と睫 の間に自然の影が出来る。下瞼 の垂味 が見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中に瞳 が活 きている。動かないでしかも活きている刹那 の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速 に捕えた非凡の技 と云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
想界に一瀾 を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々 相擁 して思索の郷 に、吾を忘るるとき、懊悩 の頭 を上げて、この眼にはたりと逢 えば、あっ、在 ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも烈 しくおやいたなと驚ろいた。
思出 の種に、亡 き人を忍ぶ片身 とは、思い出す便 を与えながら、亡き人を故 に返さぬ無惨 なものである。肌に離さぬ数糸の髪を、懐 いては、泣いては、月日はただ先へと廻 るのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが厭 になった。離れても別状がないと落つきの根城を据 えて、咫尺 に慈顔 を髣髴 するは、離れたる親を、記憶の紙に炙 り出すのみか、逢 える日を春に待てとの占 にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみで毫 も動かない。――甲野さんは茫然 として、眼玉を眺 めながら考えている。
親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭 もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹 って頓死 してしまった。……
活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子 に倚 り掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの眸 が何となく働らいて来た。睛 を閑所 に転ずる気紛 の働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼 って来る。甲野さんはおやと、首を動 した。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつの間 にやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体 が衰弱したせいか、頭脳 の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父 に似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと逼 られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪 るだけで、頭はほかの国に、母も妹 も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、踵 を上げる事を解 し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてを棄 てる覚悟があるにもせよ、この体 たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖 の子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
十人は十人の因果 を持つ。羹 に懲 りて膾 を吹くは、株 を守って兎を待つと、等しく一様の大律 に支配せらる。白日天に中 して万戸に午砲の飯 を炊 ぐとき、蹠下 の民は褥裏 に夜半 太平の計 熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾 は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った節糸 の袷 は存外地味 な代りに、長く明けた袖 の後 から紅絹 の裏が婀娜 な色を一筋 なまめかす。帯に代赭 の古代模様 が見える。織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞物 を、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。座布団 の縁 を捲 って、
「おや、煙管 はどうしたろう」と云う。
煙管は火鉢の向う側にある。長い羅宇 を、逆 に、親指の股 に挟んで
「はい」と手取形の鉄瓶 の上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば御廃 しかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首 へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金 である。
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を開 いた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ私 が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手 からこうしないでもほかにいくらも遣口 はあらあね」
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も要 りゃしないんだが。どうも表向家 の相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して貰 ったって、構わないんだが――ただ世間体 がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し悪 いよ」
「だから、話したら好 いじゃありませんか」
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は明暸 に答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、御母 さんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」
「だって向 で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母 さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
母は黙っている。
「この間金時計を宗近 にやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。一 さんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰 いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方 を見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜 は、ことごとく梢 を辞して、光る茶色の嫩葉 さえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木 の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を伸 した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向 に見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬 をむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然 と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺 に逢って、よく理由 は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然 しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭 だと申しますから、平 に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨 でも構わないと御思 かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋 も味 もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰 うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下 して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾 があのまま押し通す料簡 なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一 さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪 の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子 でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太 そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、彼 男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上 ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父 はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり同 じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日 、一昨々日 の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎 が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒 そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。椽側 へ出た足を一歩 後 へ返して、小声に
「御前、一に逢 うだろう」と屈 ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日 だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした椽 を通り越して、奇麗な木理 を一面に研 ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕 を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木 の床 に落した時、釘舌 のかちゃりと跳 ね返る音がする。窓掛に春を遮 ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓 まで来て立ち留まる。椅子 の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭 が上唇を沿うて、自然 と下りて来て、尽んとする角 から、急に捲 き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸 は眼尻まで擦 って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と緩 聞いた。
「どうでも――母 さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶 しいだろうと思ってさ」
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。促 がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を卸 した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事 をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝 を乗せる。母の眼からは、ただ裄 の縮んだ卵色の襯衣 の袖が正面に見える。
「身体 を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎 を咽喉 へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人 の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い襞 が左右に切れる間から、扇骨木 の若葉が燃えるように硝子 に映 る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓 っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一 のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは眩 しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変奇麗 に芽 を吹きましたね」
「見事だね。かえって生 じいな花よりも、好 ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向 へ廻ると刈り込んだのが丸 く揃 って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉 が、まことによく跳 るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母 さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古 をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障 る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳 を母の上に据 えた。母の眼はなぜか洋卓 の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐 かに云う。
「御前がそう云ってくれると私 もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後 を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に倚 る背を前に、胸を洋卓 の角 へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母 さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体 を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋 げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼 らして、
「藤尾 も実は可哀想 だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘 を立てて、手の平で額 を抑えた。
「だって見縊 られているんだから、世話を焼けば喧嘩 になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打 ち消 はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一私 が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺 めている。
「もし不都合があったら、私から篤 と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味 い事があっちゃあ面白くないから」
額に加えた五本の指は、節長に細 りして、爪の形さえ女のように華奢 に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四 になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟 とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の眉 はやはり手の下に隠れている。眼の光 は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母 さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で片頬 に笑った。淋 しい笑である。
「身体 が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓 の上には一枚の罫紙 に鉛筆が添えて載 せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日 読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片 である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を執 って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が鴃 の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は悄然 として下を向いた。同時に忰 の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって鱗 の紋になる。
「母 かさん。家 は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と打 ち消 にかかる。
「財産も藤尾にやります。私 は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子 はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父 さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色 に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放 り出した。
「どうすれば好いか、どうせ母 さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭 なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「私 も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終 云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、尖 った先を見た。丸い護謨 の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓 の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家 を襲 ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母 かさんの世話はしてくれないんだね」
甲野さんは返事をする前に、眸 を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃 に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩 くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を凝 らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「母 かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬 を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一 かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父 さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父 さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾 げた。
「父さんの金時計です。柘榴石 の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一 はまだ当 にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預 っているから、私 から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重 に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆 うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚 がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲 がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が母 かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の料簡 を間違えて取っておくれだと困るが――母 さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗 なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。極 めて真面目 な調子である。母にさえ嘲弄 の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後 が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。叮嚀 で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう素気 なく云わずと、何か考 があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
しばらく罫紙 の上の楽書 を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より母 さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。後 から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には行 かないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ私 も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
母は立った。薄紅色 に深く唐草 を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴 を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに応 がある。入口の戸が五寸ばかりそっと明 く、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は洋卓 を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三 つ鱗 の周囲 に擦 れ擦れの大きさに円 を描 く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本叮嚀 に並行させて行く。母は所在なさに、忰 の図案を慇懃 に眺 めている。
二人の心は無論わからぬ。ただ上部 だけはいかにも静である。もし手足 の挙止が、内面の消息を形而下 に運び来 る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑 な母子 は容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十 の線に劃 して、行儀よく三つ鱗の外部 を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円 の中を、端然 と打ち守る母とは、咸雍 の母子である。和怡 の母子である。挟 さむ洋卓に、遮 らるる胸と胸を対 い合せて、春鎖 す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。亡 き人の肖像は例に因 って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく繁 くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形 の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌 を捩 る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半 ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙 り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸 す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑 の影が奇麗 な頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家 と、私 が父 さんから受け襲 いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、母 さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭 か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は屹 となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子 の上に背を伸 して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑 したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一 の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静 に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値 は分りません。けっして分りません。一さんを賞 める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い棄 てて紫の絹 は戸口の方へ揺 いた。繊 い手に円鈕 をぐるりと回すや否 や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。
十六
叙述の筆は甲野 の書斎を去って、宗近 の家庭に入る。同日である。また同刻である。
相変らずの唐机 を控えて、宗近の父 さんが鬼更紗 の座蒲団 の上に坐っている。襯衣 を嫌った、黒八丈 の襦袢 の襟 が崩 れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼 の布袋 の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆 を置く。呉祥瑞 の銘のある染付 には山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに描 かれている間を、一筋の金泥 が蜿蜒 と縁 まで這上 る。形は甕 のごとく、鉢 が開いて、開いた頂 が、がっくりと縮まると、丸い縁 になる。向い合せの耳を潜 る蔓 には、ぎりぎりと渋 を帯びた籐 を巻きつけて手提 の便を計る。
宗近の父 さんは昨日 どこの古道具屋からか、継 のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
ところへ入口の唐紙 をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌 に這入 って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰 は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋 だけに、大なる通 をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家 にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕 のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は蔓 を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は贋 の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多 な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出 だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両 と植え替えた。それは薩摩 の鉢 で古いものだ」
「十六世紀頃の葡萄耳 人が被った帽子のような恰好 ですね。――この薔薇 はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑 と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「華厳経 に外面 如菩薩 、内心 如夜叉 と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変刺 がある。触 って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首 の先で祥瑞 の中を穿 り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を眺 めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一 あの花を見た事があるかい。あの床 に挿 してある」
老人はいながら、顔の向を後 へ変える。捩 れた頸 に、行き所を失った肉が、三筋ほど括 られて肩の方へ競 り出して来る。
茶がかった平床 には、釣竿を担 いだ蜆子和尚 を一筆 に描 いた軸 を閑静に掛けて、前に青銅の古瓶 を据 える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎 に、十字と四方に囲う葉を境に、数珠 に貫 く露の珠 が二穂 ずつ偶 を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静 だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果 のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通 あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管 の雁首で灰の中を掻 き廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「阿爺 さん。今日ね、久しぶりに髪結床 へ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところを撫 で廻す。
「頭を」と云いながら羅宇 の中ほどを祥瑞 の縁 でとんと叩 いて灰を落す。
「あんまり奇麗 にもならんじゃないか」と真向 に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺 さん、こりゃ五分刈 じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。廃 せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも拵 えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限 御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ廃 すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃 しなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体 に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気 過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利 か、仏蘭西 か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故 の通 の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法 ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二 た通 り拵 えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法 な裏と、奇麗な表と。厄介 でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈 しいから上部 を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八 つ裂 の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸 をつけたような奴 ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃 にするか。うちにいて親父 の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利 人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流 で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞 めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸 すと更紗 の結襟 が白襟 の真中 まで浮き出して結目 は横に捩 れている。
「どうも、この襟飾 は滑 っていけない」と手探 に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸 す機会 に、準胡坐 の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私 が大事に預かってやる」
「私 もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾 かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父 が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄 にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心 の本人の事だが――この間甲野の母 さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出 でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々 と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
多少苦々 しい気色 に、煙管 でとんと膝頭 を敲 いた父 さんは、視線さえ椽側 の方へ移した。最前植え易 えた仏見笑 が鮮 な紅 を春と夏の境 に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介 ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声 で長ったらしくって――私 ゃ嫌 だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父 さんは、手の平を二つ内側へ揃 えて眼の球をぐりぐり擦 る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾 がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家 を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡 でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭 だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気 た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡 の藪不知 へ這入 ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
父 さんは額に皺 を寄せて上眼 を使いながら、頭を撫 で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私 の及第報告は二三日後 れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然 談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が妻 を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「一先 本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど切 の洋袴 を二本ぬっと立てた。仏見笑 と二人静 と蜆子和尚 と活 きた布袋 の置物を残して廊下つづきを中二階 へ上る。
とんとんと二段踏むと妹の御太鼓 が奇麗 に見える。三段目に水色の絹 が、横に傾いて、ふっくらした片頬 が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子 ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生 だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父 っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘 ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父 さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様 がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落 し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴 じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を袖 で隠さんばかりに、机から手本 へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏 り替 えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を掠 めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手で叮嚀 に抑えた頁 の、残る一寸角 の真中に朱印が見える。
「見留 じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳 になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私 厭 だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳 ですか」
「そんな茶化 したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀 に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢 なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、調戯 れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷 めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯 せて、畳みの目を勘定 し出した。
「どうだい、御嫁は。厭 でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は頭 を竪 に振った。
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
俯向 いた眼の色は見えぬ。ただ豊 なる頬を掠 めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪 から棒 にそんな無理を云ったって」
「訳は聞 さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火 のようにくるくる廻っているよ。錯乱体 だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓 が明かないから、一 と思 に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾 だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度 が始 てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃 しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭 がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請 るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母 さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一 さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺 に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭 だよ。大いに感泣 しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
兄妹は隔 なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々 洋行するはずになったんだが、阿父 さんの云うには、立つ前に嫁を貰 って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭 なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
糸子は微 かな笑を、二三段に切って鼻から洩 した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻 くといけないから」
「ハハハハ厭なら断 るのが天下の定法 だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜 でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大 に慶すべき現象だ」
「苛 い事を……だって坊さんになるのは、酔興 になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶 が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈 でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚 は小供の時から嫌 なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理 が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目 でどこまでが冗談 だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家 と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母 さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好 ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭 だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家 を出るなんて馬鹿気 ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一 さんへは上げられませんと、こう御叔母 さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的 に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭 なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎 としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆 が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄 てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要 らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜 みや面当 じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己 だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐 くのは大嫌 です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家 を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭 かい」
「厭だって……」とと言い懸 けて糸子は急に俯向 いた。しばらくは半襟 の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬 く睫 を絡 んで一雫 の涙がぽたりと膝 の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変 で兄さんに面喰 わしてばかりいるね」
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫 落ちた。宗近君は親譲の背広 の隠袋 から、くちゃくちゃの手巾 をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗 き込む。
「糸公厭 なのかい」
糸子は無言のまま首を掉 った。
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体 だけを故 へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。粗 い銘仙 の膝が少し染 になった。その上へ、手巾の皺 を叮嚀 に延 して四つ折に敷いた。角 をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃 してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間 に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後 が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟 がさらに解 せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無 の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父 さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想 をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様 と兄さんの傍 にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢 えないから、平生 親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無 の御礼に。ねえ好いだろう」
糸子は何とも答えなかった。下で阿父 さんが謡 をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階 を下りる。
十七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌 が通る。高い土手は春に籠 る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風 のごとく弧形に折れて遥 かに去る。断橋 は鉄軌 を高きに隔つる事丈 を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚 って俯 すとき広き両岸の青 を極 めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下 して始めて茶色の路 が細く横 わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留 った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に倚 って立った。立って見る間 に、限りなき麦は一分 ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
青蓆 をのべつに敷いた一枚の果 は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木 の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉 となって空に吹き散るかと思われるのは、樟 の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好 えな。僕はしかし田舎 から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊 んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲 の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の手擦 に背を靠 たせたまま、内隠袋 から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開 けた。箔 を置いた埃及煙草 の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
二人の煙はつつがなく立ち騰 って、事なき空に入る。
「君は始終 こんな上等な煙草を呑 んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変銭 がいって困っとるところじゃ」
本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要 るのかね」
「三十円でも二十円でも好 え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘 を鉄の手擦 に後 から持たして、山羊仔 の靴を心持前へ出した。煙草を啣 えたまま、眼鏡越に爪先の飾を眺 めている。遅日 影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の濃 かに照る上に、眼に入らぬほどの埃 が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖 で靴の横腹をぽんぽんと鞭 うった。埃は靴を離れて一寸 ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑 に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工 である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃 まで」
「今月末 にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の股 に挟んだまま、一振はたくと三分 の灰は靴の甲に落ちた。
体 をそのままに白い襟 の上から首だけを横に捩 ると、欄干 に頬杖 をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑 がないから、行かんが。君先生に逢 うたら宜 しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎 のごとき唾 を遥 かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を向 へ投げた。白いカフスが七宝 の夫婦釦 と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が空 を掠 めて橋の袂 に落ちた。落ちた煙は逆様 に地から這 い揚 がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘 を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、好 え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好 えぞ。そうせい。僕が懸合 うてやる」
「そりゃ貰 うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と故 のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目 にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面 の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古 のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分宜 しく……」
「などと云って、裏では盛 に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾 るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所 などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な臭 がするわい」
浅井君はここに至って指の股に焦 げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅 いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落 だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中 へ踏み出した。浅井君の肘 は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を掠 めて畦 を騰 る。野を蔽 う一面の陽炎 は逆上 るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後 から跟 いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目 な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで緩 くり聞くから。――それで僕も、君の知っている通 、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯 の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵 らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方 をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚 してしまって、そうして万事をそれから演繹 してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬 を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に擦 れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨 に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好 いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢 うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢 うてよく話してやろう」
浅井君は茶漬を掻 き込 むように容易 く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯 する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故 のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振 も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽 くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡 は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後 が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
錐 は穴を穿 つ道具である。縄は物を括 る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜 り抜けようと企 てるものはない。縄でなくては栄螺 を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃 く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観 の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃 う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜 る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重 、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限 をつけたからである。先方で苦状 を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入 にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日 藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷 だけ卸 したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香 が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香 がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家 へ行くのか」と聞く。
「甲野 の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香 でも嗅 いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好 え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近 かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日中 に行こうと思っとる」
小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
小野さんは眼を地面の上へ卸 して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日 の朝行ってやる」
「そうか」
麦畑を折れると、杉の木陰 のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの遑 もない。下り切って疎 な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変恥 かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
小野さんははなはだ心元 なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の邸 まで来る。藤尾 の部屋へ這入 って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
甲野さんは故 の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何 模様を図案している。丸に三 つ鱗 はとくに出来上った。
おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、臆 したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ遥 かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
宗近君はつかつかと洋卓 の角 まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し開 けよう」と上下 の栓釘 を抜き放って、真中の円鈕 を握るや否や、正面の仏蘭西窓 を、床 を掃うごとく、一文字に開いた。室 の中には、庭前に芽ぐむ芝生 の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を卸 した。今さきがた謎 の女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか旨 いだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上を滑 らせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋 の上絵師 と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは沢山 ないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世の鍋 の中で、煮え切れずにいるのさ」
甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい来 ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん欧羅巴 へ行くのさ」
「行くのはいいが、親父 見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、印度洋 さえ越せば大抵大丈夫だろう」
甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越 に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に逢 ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子 の背に倚 りかかって、この楽天家の頭と、更紗模様 の襟飾 と――襟飾は例に因 って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広 とをじっと眺 めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母 さんに話して来 ようか」
今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃 すが好い」
洋卓の向側 から一句を明暸 に云い切った。
徐 に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻 き上げながら、左の手に椅子の肩を抑 えたまま、亡 き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据 えて、室 の中に聳 える、漆 のような髪の主 を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較 べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠 せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活 きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自 からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下 している。
しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父 さんも気の毒な事をしたなあ」
立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓 を抜けて二段の石階を芝生 へ下 る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
芝生は南に走る事十間余にして、高樫 の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁 き植込に遮 ぎられた奥は、五坪 ほどの池を隔てて、張出 の新座敷には藤尾の机が据えてある。
二人は緩 き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回 て、植込の陰を書斎の方 へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃 っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の方 へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子 の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
四尺の空地 を池の縁 まで細長く余して、真直 に水に落つる池の向側 に、横から伸 す浅葱桜 の長い枝を軒のあたりに翳 して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻 に立っている。
不規則なる春の雑樹 を左右に、桜の枝を上に、温 む水に根を抽 でて這 い上がる蓮 の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠 が自然の景物の粋 をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを損 なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、椽 に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好 の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影 と、忽然 に現われたるために――二人の視線は水の向 の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付 にして立つ。際 どい瞬間である。はっと思う刹那 を一番早く飛び超 えたものが勝になる。
女はちらりと白足袋の片方を後 へ引いた。代赭 に染めた古代模様の鮮 かに春を寂 びたる帯の間から、するすると蜿蜒 るものを、引き千切 れとばかり鋭どく抜き出した。繊 き蛇 の膨 れたる頭 を掌 に握って、黄金 の色を細長く空に振れば、深紅 の光は発矢 と尾より迸 しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛 たる金鎖が動かぬ稲妻 のごとく懸 っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
藤尾の癇声 は鈍い水を敲 いて、鋭どく二人の耳に跳 ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、後 から乗 し懸 って来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、煙 に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
肩に手を掛けて押すように石段を上 って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓 を左右からどたりと立て切った。上下 の栓釘 を式 のごとく鎖 す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである鍵 をかちゃりと回すと、錠 は苦もなく卸 りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入 って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後 、静かに、用い慣 れた安楽椅子に腰を卸 す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温 い暖味 があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂 びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
かちゃりと入口の円鈕 を捩 ったものがある。戸は開 かない。今度はとんとんと外から敲 く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳 けながら遠退 いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も廃 せ」
「うん。廃そう」
甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱 いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾 はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓 な跳 ね返 りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
宗近君は節太 の手を胸から抜いて、刈 り立 の頭の天辺 をとんと敲いた。
甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々 しく首肯 いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要 らないだろう」
宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭 の上へ載 せる。宗近君は巻煙草を燻 らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語 のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙 を押し開いて、元気づいた顔を近寄 た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
指の股に敷島 を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気 に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自 ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家 も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三 つ鱗 を描 いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易 く……」
「何要 るものか。あればあるほど累 だ」
「御叔母 さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終 君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物 だよ。君らがみんな欺 かれているんだ。母じゃない謎 だ。澆季 の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻 んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由 が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭 だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤 って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家 を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
宗近君は突然椅子 を立って、机の角 まで来ると片肘 を上に突いて、甲野さんの顔を掩 いかぶすように覗 き込 みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向 を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要 らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮 を竪 に、勾配 のついた欅 の角でとんとんと軽く敲 きながら、少し沈吟 の体 であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭 かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父 のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母 さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損 なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値 を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊 い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣 のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家 を出ても好い。山の中へ這入 っても好い。どこへ行ってどう流浪 しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊 い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
十八
小夜子 は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼 の皿に移すと、真中にある青い鳳凰 の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁 はだいぶ残っている。揃 えて渡す二本の竹箸 を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽 に逼 ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後 へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋しい笑顔を俯向 けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺 めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯 の幸福についてはあまり同情を表 しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害 せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全 たき人性に戻 らざる好処置が、知慧 分別の純作用以外に活 きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子 の一言 でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂 先生は変な咳を二つ三つ塞 いた。小夜子は心元なく父の方 を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
先生は右の手頸 へ左の指を三本懸 けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯 と共に日ごとに細長く瘠 せこけて来る。
「どうですか」と気遣 わし気 に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除 れない」と額に少し皺 が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼 と思う一本杉をありがたしと梢 を見れば稲妻 がさす。怖 いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪 なら、機嫌 の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪 と、当人も思い、自分も苦 にしなかった昨日今日 の咳 を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質 が善くないと云う。二三日で熱が退 かないと云って焦慮 るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳 を起す。この調子で進んで行くと、一年の後 には神経が赤裸 になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜 小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作 に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪 を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着 もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精 しく聞いて貰おうと思っていた先生は当 が外 れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小 さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の窪 んだ眼 は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々 しくなる。
「廃 した方が好 えですな」
置き失 くした験温器を捜 がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出 を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
先生の苦々 しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳 ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子 に影がさす。腰板の外 から細い白木の筒 がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳 して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛 を透 して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は腋 の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然 としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精 しく話すがいい」
「二三日中 に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
襖 の蔭で小夜子が洟 をかんだ。つつましき音ではあるが、一重 隔ててすぐ向 にいる人のそれと受け取れる。鴨居 に近く聞えたのは、襖越 に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出 。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
小夜子は襖 の蔭に蹲踞 ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具 じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物 だよ。私 から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢 いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想 だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
小夜子は襖の蔭で啜 り泣 をしている。先生はしきりに咳 く。浅井君は面喰 った。
こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛 な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢 って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰 である。
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極 めて容易 事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜 そうに云う。
先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜 によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支 ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日 からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来夫 だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家 へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯 を誤まらして、それで好い心持なのか」
先生の窪 んだ眼が煮染 んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精 しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭 だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家 に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考 ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手 で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
襖 の向側 で、袖 らしいものが唐紙 の裾 にあたる音がした。
「そう返事をして差支 ないだろうね」
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋 めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋 の行灯 を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
突然電車に乗った浅井君は約一時間余 の後 、ぶらりと宗近 家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後 れて、玄関の松の根際に梶棒 を上げた一挺は、黒い幌 を卸 したまま、甲野 の屋敷を指して馳 ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪 の音 を留めた時、小野さんはちょうど午飯 を済ましたばかりである。膳 が出ている。飯櫃 も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾 と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎 める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽 は固 より自分で投げた。一六 の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒 は英雄である。通例の人はいざと云う間際 になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃 せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと棹 を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸 から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行 せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜 し合せて、停車場 で落ち合う手筈 をする。手筈が順に行って、汽笛 がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼 った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄 の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家 へ帰って来た。あとで聞くと朋友 の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合 かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾 と云えばどっちへ転んでも幸 である。否 と聞くならば、退 っ引 きならぬ瀬戸際 まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否 と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵 え上げた計画を人情が崩 しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼 のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長 して想像の鏡に思い浮べて眺 めると二 た通 になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面 から自分の影を拭き消すと闇 になる、暮になる。すべてが悲惨 になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小 さき竈 に立つべき煙を予想しながら薪 を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉 って苦 い物を呑 む。こんな絡 んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開 いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉 れた浅井君を頼んだ。頼んだ後 は、想像を殺してしまえば済む。と覚束 ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策 である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
瘠 せた頬を描 く。落ち込んだ眼を描く。縺 れた髪を描く。虫のような気息 を描く。――そうして想像は一転する。
血を描く。物凄 き夜と風と雨とを描く。寒き灯火 を描く。白張 の提灯 を描く。――ぞっとして想像はとまる。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快 からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々 の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚 がわるい。社会が後指 を指 す。
惘然 として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促 がす。橇 の上に力なき身を託したようなものである。手を拱 ぬいていれば自然と約束の淵 へ滑 り込む。「時」の橇 ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗 い行 さえなければ行っても差支 ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
煙草の煙が、未来の影を朦朧 と罩 め尽すまで濃く揺曳 た時、宗近君の頑丈 な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
いつの間 にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入 った。
「だいぶ狼籍 だね」と云いながら紅溜 の膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃 を出す。土瓶 まで運び出して置いて、
「どうだい」と部屋の真中に腰を卸 した。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の体 で向き直る。折よく下女が来て湯沸 と共に膳椀を引いて行く。
心を二六時に委 ねて、隻手 を動かす事をあえてせざるものは、自 から約束を践 まねばならぬ運命を有 つ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと怖 い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途 に遮 った。遮ぎられた人は邪魔に逢 うと同時に、一刻の安きを故 の位地に貪 る事が出来る。
約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑 になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨 げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く鎖 されている。
宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を陥 いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎 める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
ただの親類ならまだしもである。兼 てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日 まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに繋 いでいた宗近君である。偸 まれた金の行先も知らずに、空金庫 を護 っていた宗近君である。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、半 劈 れた。眠っていた眼を醒 しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌 ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が咎 めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手 に出て、利害が直接に吾身 の上に跳 ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に連 なっている。そうして宗近君はこの未来を司 どる主人公のように見えた。
「昨日 は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色 も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、敵 が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は当 っ擦 りなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背 く……」
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな卑 しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐 がない。君だって教育のある事理 の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人 だって、君に軽蔑 されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目 だよ。いいかね。人間は年 に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮 ばかりで生きていちゃ、相手にする張合 がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術 なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「他人 が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮 ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人 どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人 かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮 ぎった。
「あなたは羨 しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
愛嬌 に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音 が出る。悄然 として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉には何だか暖味 があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱 を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危 うい時に、生れつきを敲 き直して置かないと、生涯 不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目 になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮 だけで生きている人間は、土 だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後 は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目 の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺 じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳 けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据 る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存 していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者 に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾 なく世の中へ敲 きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日 真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人 真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々真 に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通 を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと
「随分遠いね。
と
「どこか
と顔も
「恐ろしい
「あんなに見えるんだから、
「あんなに見えるって、見えるのは
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に
「君はあの山を
「うむ、動かばこそと云ったような
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の
「今日は
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に
「おおい」と後れた男は立ち
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな
「君見たようにむやみに
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に
「出るとはどこへ出るのだい」
「
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
「おい、君、
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、
「なるほど好い
「いつの
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも
「ハハハハそれで君は
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと
「この辺の女はみんな
「あれが
「なに
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、
「なるほど、
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も
宗近君は
「
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として
「そう泰然と尻を
「動けば吐く」
「
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを
「それじゃ
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、
あとは静である。静かなる事
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また
「万里の道を見ず」
と小声に
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、
右よりし左よりして、行く人を両手に
行く路の杉に
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で
「
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を
「また
と例の桜の
「なるほど」と甲野さんは
鏡を延べたとばかりでは
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に
「何でも向う側だ。京都を
「将門か。うん、気□を吐くより、
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで
「あの
「あの島か、いやに
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の
「やまなくって好いから、突き当るのは
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「
山を下りて
二
静かなる昼を、静かに
「墓の前に跪 ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋 め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃 い、この手にて香 を焚 くべき折々の、長 しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶 も我らを割 き難きに、死こそ無惨 なれ。羅馬 の君は埃及 に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋 められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂 きわれに拒 める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情 だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱 に、市 に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇 なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫 に隠したまえ。」
女は顔を上げた。女はただ
「
「え?」とすぐ応じた男は、
「何ですか」と男は二の句を
女はまだ
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は
女は
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく
「
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って
「沙翁の
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き
「え?」と小野さんは
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を
「恋が
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「
「紫が
「紫が
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う
「そこでクレオパトラがどうしました」と
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき
美しき女の
「年を取ると
小野さんはまた
「そうですね。やっぱり人に
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに
「有りますよ」
女の声は静かなる
「
「
「
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは
「
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の
「可愛らしいんですよ。ちょうど
「安珍は
許せと云わぬばかりに、今度は受け
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が
「
これを逃げ損ねの
「ホホホ私は清姫のように
男は黙っている。
「
時ならぬ春の
「
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は
花の
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、
「母が帰って来たのです」と女は
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を
「
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち
「まあ
「しかし」と云いながら、
薄い煙りの、黒い
「まあ、御坐り遊ばせ」と
男は無言のまま再び
「近頃は女ばかりで
「甲野君はいつ
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに
「
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「
「ええ」
「
「なぜです」
「でも何か御用が
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。
小野さんは
金は色の純にして濃きものである。
「おやいらっしゃい」と
「藤尾が
御母さんの弁舌は
「花を墓に、墓に口を接吻 して、憂 きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯 をこそと召す。浴 みしたる後 は夕餉 をこそと召す。この時賤 しき厠卒 ありて小さき籃 に無花果 を盛りて参らす。女王の該撒 に送れる文 に云う。願わくは安図尼 と同じ墓にわれを埋 めたまえと。無花果 の繁れる青き葉陰にはナイルの泥 の□ の舌 を冷やしたる毒蛇 を、そっと忍ばせたり。該撒 の使は走る。闥 を排して眼 を射れば――黄金 の寝台に、位高き装 を今日と凝 らして、女王の屍 は是非なく横 わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭 のあたりに、月黒き夜 の露をあつめて、千顆 の珠 を鋳たる冠 の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及 の御代 しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑 る」
埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、「藤尾」と知らぬ
男はやっと
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を
「いえ、あなた、どうもわがまま
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。
「兄の本を庭へ
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、
「ここです」と藤尾は、軽く
右手を
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、
「
「こうすると引き立ちますよ」と云って
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど
「全体どうしたんです」と小野さんは
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、
三
「京都という所は、いやに寒い所だな」と
甲野さんは
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの
「なるほど妙だね。
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。
「じゃこの筍も気違の
「ハハハハ。そのくらい
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は
古い京をいやが上に
甲野さんは寝ながら日記を
「
と書いてしばらく考えている。
旅行案内を
「
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は
宗近君は
雨は一つである。冬は
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に
琴の手は次第に繁くなる。
「おい、甲野さん、
と
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる
「おい、どうも東山が
「そうか」
「おや、
「渉ってもいいよ」
「君、
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の
「落ちても
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「
「
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、
「座敷でも
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の
「食うと
「やっぱり謎か。君だって謎を
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。
「
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが
「そうかい」
「それっきりじゃ、
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは
「霞の
「君見たように
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく
「おれは、これで正気なんだからね」
「
「精神も正気だからさ」
「どてらを着て
「そうか、それじゃ
「君は感心に
「
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは
毛筋ほどな細い管を通して、
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その
春の旅は
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を
「しかしそりゃ、いかん。第一
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば
二人はしばらく無言である。
「あの琴は
「寒くなった、狐の
丹前の胸を開いて、
「その
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。
「いいか、ふん。
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の
四
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「
小野さんは
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。
京都では
東京は目の
きりきりと回った
世界は色の世界である。ただこの色を
世界は色の世界である、形は色の
世界は色の世界である。いたずらに
過去の節穴を
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、
机の前に
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り
「小野清三様」と
小野さんは机に添えて
小野さんは
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は
小野さんは重い足を引き
「拝啓柳暗花明 の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀 候 。小生も不相変 頑強 、小夜 も息災に候えば、乍憚 御休神可被下 候 。さて旧臘 中一寸申上候東京表へ転住の義、其後 色々の事情にて捗 どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓 あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度 候 。二十年前 に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留 の外は、全く故郷の消息に疎 く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古 るしたる住宅は隣家蔦屋 にて譲り受け度旨 申込 有之 、其他にも相談の口はかかり候えども、此方 に取り極め申候。荷物其他嵩張 り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴 一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故 きを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下 候 。
「御承知の通 小夜は五年前 当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速 かなる事を希望致し居候。同人行末 の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述 。追て其地にて御面会の上篤 と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓 の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰 みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層 途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致 候 。まずは右当用迄匆々 不一」
読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた「年来住み
「御承知の
「博覧会にて御地は定めて
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち
半世の歴史を長き穂の心細きまで
自然は自然を用い尽さぬ。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと
そこへ浅井君が
「ええ天気だな」と
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分
「なかなか自分できめた事は動かない。
「近頃は
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
五
山門を入る事一歩にして、古き世の
「明かだ」と甲野さんは
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を
「夢窓国師も
「そうさ、
「何が」
「何がって、この
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは
宗近君は
「夢窓国師はそんな
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は
今までは真面目の上に
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と
「無論さ」
「
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ
すべてを
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に
「美しいな」と宗近君はもう天下の
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「
「いいえ。あれを見るとほとんど
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに
「どうも
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて
「こうだ」と甲野さんが壊れた
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、
浮かれ人を花に送る京の汽車は
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の
ぎいぎいと
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の
「なるほど」と甲野さんが、
「あれだ」と宗近君が
「
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は
大きな丸い岩である。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
「少しは
「まるで猿だ」と宗近君は
「
「あれで一日働いて
「若干になるかな」
「下から聞いて
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。
「君が廻せば今頃は御互に
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち
「そう困った日にゃ
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「
「まずそんなものに
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは
「ハハハハ僕は
乱れ起る岩石を左右に
「その鼻を廻ると
二人は松と桜と京人形の
赤松の
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
六
丸顔に
人に示すときは指を用いる。四つを
人に
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に
「父一人で忙がしいものですから、つい
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「
「まだどこへも行かないの」
「そんなに御用が
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この
「
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ
「どなたか心当りはないんですか。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの
「あなたは
「あらっ」と糸子の頬に
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い
小野さんは
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの
「ホホホホそれでも
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の
「まだ京都から
「いいえ」
「だって
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが?
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の
小野さんの手巾はちょっと
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「
「
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに
「でも、あなたの事は
「おや、何と」
「御前より
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、
追い懸けて来る過去を
「
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の
「想像すると面白い
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の
「御気に
五重の塔を持ち出せばなお
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人を
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん
居は気を移す。藤尾の想像は空と共に
「小米桜を二階の
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと
「ホホホホ
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから
「おや
「
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に
七
古き寺、古き
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく
眠る夜を、生けるものは、
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は
「随分早いね。何
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは
「千里の
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を
色白く、傾く月の影に生れて
紫に
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに
「御前が京都へ来たのは
「学校を
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の
「いえ御団子はありましたわ。そら
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分
「性質が
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う
「本当にね」
明かなる夢は輪を
「小野は新橋まで
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと
神の
「おい富士が見える」と宗近君が座を
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは
「そうか、
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い
窓から肉の落ちた顔が半分出る。
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に
「どうだね」と折の
「まだ、食べたくないの」と小夜子は
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた
「もう
「ああ、もう訳はない」と
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が
「小野さんは宿を
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で
「おい、
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、
「御茶でも上がったら……
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは
「いよいよ東京へ行くと見える。
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「
「
「あんまり逢うからかい」
「うん。――
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で
「
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と
「ハハハハ。聞いてやろうか」と
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を
「糸公か。あいつは、から
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に
「さっき
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、
八
一本の
静かな椽に足音がする。今
「おや
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を
口多き時に
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は
「ふん」
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、
雲井の煙は
「帰って来ても
「同じ事さ。
「
「なあに、口だけさ。それだから
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「
「よっぽど男らしくない
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの
母は鳴る
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は
母は
この作者は趣なき会話を嫌う。
「宗近と云えば、
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。
「あんな見込のない人は、
趣味のないのと見込のないのとは別物である。
「いっそ、ここで、
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって
「それを今だに
「宗近の
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。
同時に豊かな
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この
「それじゃ
「相輪□た何ですか」と宗近君は
「アハハハハそれじゃ
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の
「相輪□はなかったようだね」と甲野さんは手を
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に
「一体御前方はただ
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。
「
「やはり
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は
過去は死んでいる。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外
「
「アハハハ
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「
「アハハハハ」と老人は大きな腹を
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする
と宗近君が今度は
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ
一座はどっと
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも
「しかし
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「
老人は自分の心で、わが母の心を
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
九
今までは
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が
小野さんも同じ事である。打ち
「
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす
「
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い
家は小野さんが
「
いじらしいのと
「もっと好い
と云い
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは
細い
五年の間
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、
新橋へは
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。
始めは穴を出でて
やさしく
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと
「そのくらいでしょう、
花を
「やっぱり
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。
「そうですか」
「
「ええ、知っています」
「
「
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。
「また来ましょう」と
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ
「あの……」と
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは
降らんとして降り
「今帰ったよ。どうも
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、
「今日はね。
「おやおや」と気の毒そうに
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。
「
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で
「御湯に
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と
「おや琴を弾いているね。――なかなか
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が
気が
「ちっと
娘は浮かぬ顔を、
「まあ
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の
「だから落ちついていないんだよ。学問に
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
十
真率なる快活なる宗近家の
悲劇マクベスの
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは
「いや。だいぶ
「その
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々
頭はここでようやく上がる。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは
「そうですか、アハハハハ。
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、
「嵐山と云えば」と
「せんだって
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに
「私には女でいっこう分りませんが、何だか
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。
「いえ、誠に陽気で
「ごもっともで」と宗近老人は
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって
「へええ」これは
「そりゃ、どうも」
「
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
「その結婚の事を
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人
「
謎の女は
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して
「ふん、困るね」
和尚は
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ
「弱るね、そう、
「まるで
「ふうん」と
「もし
「
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「
「藤尾さんは
「もう、明けて
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた
「いえもう、
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は
「こちらでも、糸子さんやら、
「いえ、どう致して、実は
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの
「はい」
「どうでしょう、
「あの
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに
謎の女の云う事はしだいに
日のあたる別世界には二人の
糸子は床の間に縫物の五色を、
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか
「ええ。大事な盆栽よ。
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、
「
「何だって」
「日が
「
「なに、そりゃ、ちょっと。
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは
「いやに
「
「
「あらいやだ。あんな
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、
「まだあるのよ。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の
「云って見ましょうか」
「う。うん」
「あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい
「でも
「そう兄さんが
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を
「そうして
「
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに
「その
「これ?
「御前がこしらえたのかい。感心に
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな
「なんだいこれは。へええ。
「兄さんは藤尾さんのような
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の
「ことに
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、
「自分の
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか
「聞かないでも分かるのか。まるで
「
云いながら糸子は首を
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「
「もう
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と
「ハハハハ見えない所でも、
「だって
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に
「
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら
「その女の
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう
「
糸子はめでたく笑った。
十一
文明を刺激の袋の底に
花電車が風を
岡は
松高くして花を隠さず、枝の
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は
「
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。
「あの横にあるのは何」と糸子が
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って
空は低い。薄黒く大地に
「空が
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに
「あの橋は人で
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで
「
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で
「どこに」と孤堂先生は足を
文明の波は
暗い底に
「どうも
「随分出ます」
「早く
小野さんはにやにやと笑った。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を
「どうだい
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は
「でも
「ハハハハなかなか
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた
「あすこが
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい
「どこに」と
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を
「あら
「どうだい、
「うつくしい
「ええ」と
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の
「そんな事知らないわ」と糸子は
「そら
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が
「そう
「もう叱られる
「ホホホホ一人で
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗を
四人が席を立った時、藤尾は
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は
「驚ろくうちは
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
十二
貧乏を十七字に
仙人は
文明の詩は
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の
詩人ほど金にならん
天地はこの有望の青年に対して
四五日は
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。
「ホホホホ
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変
「そこを
男はおやと思う。姿勢だけは
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ
「御免」と云いながら、手を重ねたまま
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて
「昨夜は
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、
「あんな
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて
「先生も
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を
「御迷惑でしたろう」と小野さんは
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と
女はまた口籠る。男は少し
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び
紫を
心臓の扉を
愛の対象は
縄なくて
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。
我の女はいざと云う
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、
神聖とは自分一人が
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。
よし来ても
小野はどうしても
静かな
拭き込んだ細かい
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。
男は、眼さえ動かさない。
「
女は答える前に熱い団子をぐいと
「ええ」と極めて冷淡な
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女は
「驚くうちは
女は
姿勢を変えるさえ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯を
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と
「そうか」
と兄は
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に
世を
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして
「そうかい、奇麗だったろう」とまず
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから
一歩の空間を行き尽した靴は、光る
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく
「ああ、藤尾も行った。――ことに
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の
老いて
他人でも合わぬとは限らぬ。
小野さんは
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを
「何を考えているの」
「おや、
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の
「おやおや。――
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は
母は無意味に池の上を
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
「
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの
「
「いいえ」と女は
男は出鼻を
「だいぶ
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、
鯉がと云おうとした小野さんはまた
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ
「
「ええ、行きました」
迷っている男の
「
「奇麗でした」と女は
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し
「そうでしたか」と云った。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を
「誰か
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その
「そんなに
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は
「実は一週間前に京都から
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、
「大変
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影は
十三
太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。
やがて静かなうちで、すうと
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても
「あら」
同時に杖の
「
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない
「御留守ですか。――
「父は
「そう」と男は長い
「まあ、
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは
「
「いいえ」
「疲れない?
「だって、
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しい
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
塗り立てて
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と
「どこに」と暖い
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い
「あら」と女は
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
糸子は美くしい歯を
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと
女は依然として、肉余る
「藤尾が一人出ると
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
女は
「嫁に行くと変ります」
女は
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと
十四
電車が赤い札を
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は
呼ばれた本人は、知らぬ
「おい」と
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが
「そんなハイカラな
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を
小野さんは黙って笑ながら
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を
常でさえ宗近君に
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる
「散歩ですか」と小野さんは
「うん。今、その
この答は少々論理に
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど
「そう云う風に
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。
「
「そんなものは
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は
見物に行った事はさっき露見してしまった。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは
「とかく眼鏡が
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「
二人は肩を
「君、
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「
「さよう」と小野さんは
「
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと
小野さんの
「あれは僕よく知ってるぜ」
「
「琴を弾いていた」
「なかなか
「旨いんだろう、何となく
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上
「冷やかすんじゃない。
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云う
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の
「どんな……」と聞き返した時は何となく
「どんなって、よっぽど深い
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨の欄に出て、
「
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
小野さんは突然
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡の
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が?
念を押したような、
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
小野さんは
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の
宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を
藤尾には
それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、
ただ機一髪と云う
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき
曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る
「御免」と云う。
静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどに
平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴の
「さあ御上り」
座敷の真中に、昼を
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、
「いえ、今格子を
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
床の抜殻は、こんもり高く、
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
「
「
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。
「もう少し
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっとも
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ち
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い
「横になって
「いえ、もう大丈夫。出だすと
若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて
「東京は変ったね」と先生が云う。
「
「恐ろしいくらいだ。
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には
「そうですね」と
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から
「さっき御嬢さんが
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い
「はあ、そうかい。そりゃあ」と
「先生、
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と
「はあ――何だか暗くってよく見えない。
「私が
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、
やがて
「ちょうどよく合うね。
「
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が
二三年前と違って、先生は
「なに小夜さえなければ、京都にいても
「
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間
「なるほど」
「まあ御前が
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。
「論文の方がないと、まだ
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
先生は
「どうも、ぞくぞくする」と細長い
「
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ
先生は急に胸の中から、手を出して
「まあ
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の
実は
「時に小夜の事だがね」と先生は
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに
「あれも
小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は
「
「そりゃ
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ
「そんなに御心配なさる事も
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで
「少し
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん
「そうですか、そりゃ好い
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに
「
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――
小野さんはすっきりと立つ。先生は
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ
「京都はなお穏だよ」
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
小野さんは
外は
小野さんの靴は、
実は
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から
女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。
「
二人の話はここで小野さんの
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を
月はまだ
十五
部屋は南を向く。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を
そのほかに
書棚は壁に片寄せて、
小野さんは
こう云う書斎に
高等学校こそ違え、大学では
正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い
右手の小窓は、
やがて、かたりと書物を置き
「多くの人は
甲野さんは、指先に軸を
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。
「剣客の剣を舞わすに、力
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の
余り大きくはない。半身とは云え
名のある人の筆になると云う。三年
見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに
想界に
親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。
活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは
馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。
それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを
十人は十人の
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。
「おや、
煙管は火鉢の向う側にある。長い
「はい」と手取形の
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して
「だから、話したら
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、
「だって
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
母は黙っている。
「この間金時計を
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の
「それは覚えていますけれども、何だか
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を
「年を取って心細いから」
「心細いから、
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ
「貰うなら、貰うで、
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。
「御前、一に
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした
「暗い事」と云いながら、母は真中の
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と
「どうでも――
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と
「
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは
「扇骨木が大変
「見事だね。かえって
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い
「世話はする気です」と
「御前がそう云ってくれると
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は
「ですが、
「そんな事が」と今度は母の方が
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を
「
「だって
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と
「そんな事があっては第一
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を
「もし不都合があったら、私から
額に加えた五本の指は、節長に
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、
甲野さんは手の甲の影で
「
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は
「
「それじゃ御前……」と
「財産も藤尾にやります。
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。
「困りますかって。――私が、死んだ
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と
「どうすれば好いか、どうせ
「
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、
「じゃ、どうあっても
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、
甲野さんは返事をする前に、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか
「時計?」と母は首を
「父さんの金時計です。
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が
「時計もだが、藤尾の事を
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の
「見えます」と甲野さんが云った。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。
「そんなら好いです」
「そう
しばらく
「宗近の方が小野より
「そりゃ」とたちまち出る。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ
「呼びましょう」
母は立った。
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は
二人の心は無論わからぬ。ただ
丹念に引く線はようやく
「
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に
「藤尾、この
「いつ」
「今日からやる。――その代り、
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は
「それを聞いて何になさる」と
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも
「兄さんの考では、小野さんより
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い
十六
叙述の筆は
相変らずの
宗近の
ところへ入口の
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき
「十六世紀頃の
「それは
「仏見笑? 妙な名だな」
「
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「
老人はいながら、顔の向を
茶がかった
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に
「
「頭を」と云いながら
「あんまり
「奇麗にもならんじゃないかって、
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、
「西洋はやかましい。御前のような
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を
「二た通とは」
「
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の
「いっそ
「ことに
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を
「どうも、この
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は
「
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。
多少
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が
「家を出るって、まさか坊主になる
「甲野が神経衰弱だから、そんな
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が
「それは好い。構わない」
「
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど
とんとんと二段踏むと妹の
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。
「大変邪魔にするね。糸公、
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら
「兄さんは知らないよ。
「嘘よ、
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を
「
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を
「ほら」と上へ出す。
両手で
「
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って
「そんな
「困ったな。
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、
「どうだい、御嫁は。
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、
「訳は
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか
「まだ」
「まだって
「だけれど、藤尾さんは
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の
兄妹は
笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって
糸子は
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を
「ハハハハ厭なら
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、
「
「何とも云えない。近頃のように
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。
「なぜでしょう」
「つまり、病身で
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に
「だって
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が
「そりゃごもっともだがね……」
「
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。
「糸公、御前は甲野の
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね
「厭だって……」とと言い
「糸公、どうしたんだ。今日は天候
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を
「糸公
糸子は無言のまま首を
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも
糸子は何とも答えなかった。下で
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は
十七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
二人の煙はつつがなく立ち
「君は
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変
本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい
「三十円でも二十円でも
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ
「今月
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために
「そりゃ
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と
「ハハハハ。そう
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと
「何分
「などと云って、裏では
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ
浅井君はここに至って指の股に
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の
「暑いのう」と浅井君は
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも
「そうか、訳ない。僕が先生に
浅井君は茶漬を
「その代り先生の世話は
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず
「こう日が照ると、麦の
「
「時に君はやはりあのハムレットの
「
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「
「そうそう。あの男の所へ二三日
小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
小野さんは眼を地面の上へ
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か
「そうか」
麦畑を折れると、杉の
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
小野さんははなはだ
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の
「おい」
甲野さんは
おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、
「君か」と云う。
宗近君はつかつかと
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。
甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは
「いつまでも浮世の
甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん
「行くのはいいが、
「なんとも云えないが、
甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「
今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「
洋卓の
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い眼を
「父は死んでいる。しかし
椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、
しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「
立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
芝生は南に走る事十間余にして、
二人は
四尺の
不規則なる春の
女はちらりと白足袋の片方を
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
藤尾の
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、
「黙って……」と小声に云いながら、
肩に手を掛けて押すように石段を
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく
「そうか」
腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
かちゃりと入口の
「うちやって置け」と冷やかに云う。
入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も
「うん。廃そう」
甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を
「宗近さん」と
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。
「この通り頭ができた」
宗近君は
甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて
「頭ができれば、藤尾なんぞは
宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る
「これからだ」と
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
指の股に
「本来の無一物から出直すとは」と
「僕はこの
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に
「やってしまうってそう
「何
「
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは
「僕の母は
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。
宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが
宗近君は突然
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
十八
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋しい笑顔を
浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
先生は右の
「どうですか」と
「少し、早いようだ。やっぱり熱が
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が
「いえ、ちっと
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の
「
置き
先生の
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと
「二三日
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと
小夜子は
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は
小夜子は襖の蔭で
こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を
先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は
先生の
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな
「いや、話してくれないでも好い。
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
「そう返事をして
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て
突然電車に乗った浅井君は約一時間
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを
血を描く。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る
「やっぱり行く事にするか。
煙草の煙が、未来の影を
いつの
「だいぶ
「どうだい」と部屋の真中に腰を
「どうも失敬です」と主人は恐縮の
心を二六時に
約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く
宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を
ただの親類ならまだしもである。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に
「
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「
小野さんはこの時始めて積極的に相手を
「あなたは
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉には何だか
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う
小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯
宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々