武田との戦いが決着がつかないので、輝虎は武田を牽制したまま関東に軍を進め、北条氏康の勢力を削ぐのに腐心します。そして永禄7年には第五回の川中島の戦いが起きますがこれも武田勢が一時的に奪った城を奪回しただけで終了しています。しかしこの頃から、戦闘は頻繁に起きるのに特に領土が拡大する訳でもないことから離反する武将が相次ぎました。その中、永禄11年(1568)武田・今川・北条の三国同盟が崩れてしまいました。今川と北条は甲斐との国境を封鎖し、翌年には足利将軍家の仲介で、上杉と北条の和議が成立。北条氏康の七男氏秀が輝虎の養子になり彼が9年前まで名乗っていた名である景虎を名乗ります。なお輝虎はそれ以前の永禄7年に甥の顕景あらため景勝を養子にしており、後継者としては彼の方を指名していました。しかし、この景虎(氏秀)の存在は、後に謙信が亡くなったあと、面倒な後継争いを起こすことになりました。

因为与武田的战争没有决定性成果,辉虎就一直牵制着武田,自己进军关东,力在削弱北条氏康的势力。永禄7年又爆发了第五次川中岛合战,这一次也仅以夺回被武田一时夺走的城池作为战果而告终。然而,从这时候开始,武将陆续叛离,皆因辉虎频起战关,而又并非为了扩大领地的缘故。期间,永禄11年(1568),武田、今川、北条的三国同盟破裂。今川和北条封锁了与甲斐的国境,次年在足利将军家的斡旋下,上杉与北条达成合议。北条氏康的七子氏秀成为辉虎的养子,以辉虎9年前的名字“景虎”作为氏秀的姓名。辉虎又把之前于永禄7年改名“景胜”的外甥显景作为养子,指定他做后继人。然而在谦信殁后,因为景虎(氏秀)的存在,引发场恼人的继承纠纷。

上杉谦信军旗

さて甲斐としては南方で今川・北条と対峙して国境を封鎖され、北方では上杉と以前から緊張関係にあるため、物資の補給が滞り始めます。中でも海を持たない甲斐は生命の維持に不可欠な塩を確保できずにひじょうに困りました。ここで今川は上杉にも武田との国境を封鎖して欲しいと依頼しますが、輝虎は「勝負は戦いで決着すべきものである」と言い、永禄12年(1569)には敢えて武田に塩を贈る粋な計らいもしていました。

且说甲斐一方,南方与今川、北条对峙,被封锁了国境,北方与上杉的关系自来就很紧张,于是物资补给陷于停滞。特别是境内无海,难以确保人生存必备的食盐,甲斐陷入苦境。今川提出要求,希望上杉和自己一同封锁与武田交界的国境,辉虎却回以“胜负应以战定”,永禄12年(1569)特地给武田送去了食盐,潇洒处之。

影片《天与地》剧照

そして元亀元年(1570)年12月、輝虎は法号・謙信を名乗ります(剃髪は4年後)。この後、諸国の同盟関係はめまぐるしく変わります。北条との同盟はあっという間に破棄されて北条はまた武田と結び、元亀3年(1572)にはその同盟軍と上杉軍が利根川をはさんでにらみ合ったりします。この年は今度は織田信長と同盟し、信長は息子を養子にやる約束をします(但し実行されていない)。そして相変わらず関東攻略を図る一方でこの時期から盛んに越中方面にも進出。こちらの方は順調に攻略が進んで富山から能登までを手中にします。しかしこの付近で結果的に勢力範囲がぶつかってしまった信長との同盟が崩壊。謙信は信長と対立する毛利と同盟を結びます。

元龟元年(1570)12月,辉虎称法号为“谦信”(4年后剃发)。此后,诸国同盟瞬息万变。与北条的同盟不久便破裂,北条又重新与武田结盟,元龟3年(1572),其同盟军与上衫军相距利根川对峙。这一年上杉与织田信长结盟,信长答应将其子作为谦信的养子(但并未实现)。接下来谦信一方面仍旧谋图击破关东,另一方面从这时候开始热衷于越中的进取。越中方面进取顺利,从富山至能登的区域都尽入谦信囊中。然而与附近的信长势力起了冲突,和信长的同盟也因此破裂。谦信又和信长的对手毛利结盟。

そして天正5年(1577)能登半島の七尾城の攻防により実際に織田勢力とぶつかりあうことになり、同年9月に湊川(現手取川,石川県美川町)で信長の軍と直接衝突。これを撃破しました。翌年、北陸のほうが一段落したので再び関東攻略に移ろうとした所で病気に倒れます。天正6年3月13日(1578.4.19)春日山城で死去。享年49歳。

天正5年(1577),上杉谦信因进行对能登半岛七尾城的攻防,与织田军发生实质上的对峙,同年9月,在湊川和织田军直接交火,大败其部。次年,因北陆方面暂告一段落,谦信欲再谋关东的进取,这时突然病倒,天正6年3月13日殁于春日山城,享年49岁。

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