「この紋所が目に入らぬか!」テレビやお芝居で現在も愛されるヒーロー、水戸黄門。もちろん創作されたキャラクターではなく、江戸時代の歴史人物徳川光圀をモデルとしています。日本中を旅し、悪人を改心させて回った黄門さま。さて、その実像はどんなものだったのでしょう。

“你没看见这个家纹吗!”这是现在都在电视和戏剧里大受欢迎的英雄——水户黄门。当然他不是创作出来的角色,而是以江户时代的历史人物德川光圀为原型。这位黄门大人周游日本各地、让恶人洗心革面。那么,他的真实情况是怎样的呢?

(注:“黄门”源自中国唐代门下省”黄门侍郎“一职, 德川光圀的官位是”权中纳言“,正好与此职相当,因而有”黄门“之称)

水户黄门、小助、小格

若き日は「かぶき者」

水戸黄門徳川光圀は寛永5(1628)年6月10日に、初代水戸藩主徳川頼房の三番目の子として誕生しました。三番目の子ですから普通は家を継ぐことはないのですが、光圀の場合は六歳の時、兄の頼重を差し置いて嗣子と定められます。非常な秀才を発揮したためと記録されているものの、六歳の子が兄を超えて嗣子と定められることはかなりの異常事態とも言え、そのはっきりした理由は分かりません。また、その後光圀は頼重の子を自らの養子とし、後を継がせることで水戸の血筋を兄へと返しています。

年轻时是个“倾奇者”

水户黄门徳川光圀生于宽永5年(1628)6月10日,是水户初代藩主德川赖房的第三子。第三子的话,一般是不能继承家业的,可光圀在六岁时就越过了哥哥赖重被定为了嗣子。虽然史载这是由于他施展了超群的才能,但六岁的孩子超过了哥哥被定为嗣子这件事仍然是很不寻常的,明确的原因尚且不明。再者,之后光圀将哥哥赖房之子收为自己的养子,让其继承自己使得水户的血统又重归哥哥一系。

(注:据说黄门让位于哥哥之子的原因是受到了《史记・伯夷传》的影响,《伯夷传》中,弟弟叔齐被立为国君,而叔齐遵循长幼之序,让位于哥哥伯夷,伯夷尊重父亲的愿望又让位于叔齐,最终两人都放弃了国君之位,逃往别国)

《水户黄门》剧照

嗣子とされた光圀でしたが、十代の頃には「かぶき者」として鳴らしたと伝えられます。「かぶき者」とは奇抜な服装や行動を好む人のことを言い、今で言えば光圀は「ぐれていた」ということでしょうか。正義の味方黄門様がぐれていたというのはなかなか衝撃的です。お世継ぎとしてのプレッシャーもあったのかもしれません。ところが、ぐれていた光圀を一変させる出来事が起こります。中国の歴史書『史記』との出会いです。この『史記』中の「伯夷伝」に感銘を受け、以後勉学に励むようになるのです。多くの学者を招いて学問を教わったり、当時一流の大学者であった林羅山とも交友を持ちました。ここから光圀は「名君」への道を歩み始めるのです。

虽说光圀被定为嗣子了,但传说十多岁时他都是作为一个“倾奇者(意为奇装异服之人,流行于战国时代至江户初期的一种社会风气,最具代表的人物是织田信长、前田利家、花之庆次等人)”而名扬于世的。所谓“倾奇者”指的就是喜好穿奇装异服或夸张举动的人(小编评:大概相当于现在街头的“非主流”吧)。按现在的说法,光圀是个“走入歧途”的人吧。正义之友黄门大人竟然误入了歧途实在是太具冲击性了。也许他是有家业继承方面的压力吧。不过,发生了一件让这位误入歧途的光圀脱胎换骨的事情。那就是他与中国史书《史记》的邂逅。光圀读了《史记》中的《伯夷传》后翻然醒悟,从此勤学上进。招集了一大批学者来教授他学问,还与当时的一流大学者林罗山相交。自此,光圀开始向“名君”之路迈开了步子。

印有德川家纹三叶葵的印笼,武士随身携带的装饰品,里面可放药片,《水户黄门》中黄门常常对恶人亮出此物

藩をあげての大事業

学問に目覚めた光圀は特に歴史をテーマにした書物を数多く編纂しました。中でも名高いのが『大日本史』。明暦3(1657)年に江戸に支局を開設し、これを後に彰考館と名付けて編纂を行いました。『大日本史』は光圀が生きている間には完成せず、水戸藩をあげての大事業としてその死後も編纂が継続されました。江戸の中期ごろには大体の形が出来上がるのですが、それでも手が加え続けられ、結局全てが完成したのは1906(明治39)年。

举藩的大事业

喜爱上学问的光圀尤其编撰了一大批历史题材的书籍。其中最富盛名的便是《大日本史》了。明历3年(1657)他在江户开设编书分局,后来将其命名为“彰考馆”(“彰往考来”之意,在江户与水户都有设置,称为江馆、水馆),展开了编书事业。在光圀在世时《大日本史》并未完成,作为水户藩的一项大事业,在他死后仍然在继续进行书籍的编撰工作。虽然该书的大概内容在江户中期时已经完成了,但修正工作还在继续,最终完成已是在1906年(明治39)了。

この250年にもおよぶ大事業は、尊王思想や国家思想を尊ぶ水戸学と呼ばれる学風を形成しました。この水戸学は幕末の尊王攘夷思想にも大きな影響を与えました。桜田門外の変や天狗党の乱など、維新の動乱期には水戸藩と藩出身者が多く登場します。光圀の思想事業が遠く時を超えて人々を動かしたとすれば、歴史のつながりというものに思いを馳せずにはいられません。ちなみに、彰考館には数多くの学者が集められ、『大日本史』の編纂が行われていましたが、彼らの中に安積澹泊、佐々十竹という学者がいました。二人とも彰考館の総裁までつとめた優秀な学者であったのですが、澹泊はまたの名を覚兵衛、十竹はまたの名を介三郎といいます。そう、覚さんと介さんです。この二人、字こそ違っていますが、あの助さん格さんのモデルと言われています。

这个跨越250年的大事业使奉行尊王思想与国家观念、被称为水户学的学风得以形成。水户学对幕末的尊王攘夷思想有巨大影响。包括樱田门外之变或天狗党之乱等事件,水户藩出身的藩士在维新的动乱时期多有登场。光圀的思想与事业跨越了漫长的时间距离,让人们行动起来,这么说来让人禁不住要感怀历史的羁绊了。顺便要说的是,彰考馆中积聚了大批学者来编撰《大日本史》,而他们中间有两位叫安积澹泊和佐佐十竹的学者, 澹泊又名觉兵卫,十竹又名介三郎。对哦,就是阿觉与阿介了,这两人据说就是小助与小格的原型,虽然在字上不同。

时代剧《水户黄门》第40部剧照,该剧是日本最长寿电视剧

名君徳川光圀

光圀は歴史事業のみならず、藩政の充実にも尽力しました。経済政策から福祉、軍事まで光圀が着手した分野は数多くあります。中には効果をあげられなかった政策もありましたが、光圀の施策がスタート直後の水戸藩の体制を整えたのは間違いないことで、民衆の支持も勝ち取りました。やがて光圀は兄の子綱条(つなえだ)に家督を譲り、藩主の座を降ります。

名君德川光圀

光圀不仅致力于历史事业,为了充实藩政他也竭尽了全力。从经济政策到福利、军事,光圀着手的范围十分广泛。其中虽然也一些不奏效的政策,但水户藩体制的整治正是在光圀的政策开始以后,因此他赢得了民心民意。不久光圀将家督之位让与哥哥的儿子纲条,离开了藩主的位子。

政治や学問以外のことでも、光圀に関するエピソードがいくつか残っています。「貧乏で困っている百姓に薬や食べ物を与えた」など、光圀の人格者ぶりを伝えたものも数多く、真偽のほどは別として、こうしたエピソードが名君としての光圀像を形づくる助けとなりました。「水戸黄門」のお話が「水戸黄門漫遊記」として成立したのは明治の終りごろ、大阪の講談界においてと言われています。光圀が実際に日本全国を歩き回ったことはないようですが、『大日本史』の資料収集のために関東近辺を旅行したことはあったようです。その業績やエピソードが後世においてミックスされ、現在まで愛される時代劇の大ヒーロー「水戸黄門」誕生へとつながったのです。

光圀在政治和学问以外也有不少轶闻。如“给予因贫困苦恼的百姓药物与食物”之类,传颂光圀杰出人格的事迹也有许多,真伪暂且不论,这些轶闻都构造出了作为名君的光圀形象。“水户黄门”的故事在明治末期的大阪讲谈界中被编成了《水户黄门漫游记》。其实光圀并没有周游日本全国,为了搜集《大日本史》的资料只在关东地区附近游览过。他的业绩与轶闻在后世被改造混合,由此才诞生了直到现在都备受人们喜好的时代剧大英雄“水户黄门”。

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