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慶安3年(1650)3月21日、剣客として知られる柳生十兵衛三厳(1607生)が死去しました。柳生十兵衛は徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた柳生但馬守宗矩の長男で、同じく家光の剣指南役をしていましたが、後に諸国を漫遊。やがて郷里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上の弟子に剣術を指南しました。その弟子の中に、鍵屋辻の仇討ちで知られる荒木又右衛門などがいます。

庆安3年(1650)3月21日,作为剑客而闻名的柳生十兵卫三严 (出生于1607年)去世。柳生十兵卫是柳生但马守宗矩的长子,宗矩侍奉德川家康、秀忠、家光三代将军,十兵卫也同样担任过家光的剑术指导,不过他后来周游各地,最后在故乡伊贺正木坂开设道场,指导的弟子达一万人以上。他的弟子中有在鍵屋十字复仇名声大噪的荒木又右卫门等人。

新陰流(しんかげりゅう)は上泉伊勢守信綱が戦国末期に編み出した剣術で、二世の柳生石舟斎宗厳以降、柳生家に伝えられたため、柳生新陰流とも呼ばれます。江戸時代には将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授が禁じられていたようです。

新阴流是上泉伊势守信纲创立于战国末期的剑术。自二代柳生石舟斋宗严以后就被柳生家继承下去,因而也被称为柳生新阴流。江户时代时新阴流被作为将军家的独学,禁止传授于民间。

時代劇でおなじみ柳生但馬守は石舟斎の五男ですが、彼は剣術よりも政治力により徳川幕府の中核に進出したもので、新陰流の完成者は但馬守の甥である四世・柳生兵庫助利厳であるとされます。

在时代剧中为人熟知的柳生但马守是石舟斋的第五子,不过比起剑术,他在政治上更胜一筹,进入了德川幕府的政治核心,因此新阴流的完成者被认为是但马守之甥四代柳生兵库助利严。

ただし、兵庫助は結局尾張徳川家に仕えるようになり、以後兵庫助の系統は尾張柳生と呼ばれ、対して但馬守の系統は江戸柳生と呼ばれます。柳生家は代々大和国柳生庄に居を構えていたのですが、石舟斎の代に織田信長から所領を没収されてしまいました。しかし但馬守が徳川家康から1万2千石を与えられ大名となります。但馬守はその所領を十兵衛に8千石、弟で家を継いだ飛騨守に4千石分け与えますが、十兵衛の死後はその所領は飛騨守の所領に合併されて、再び大名に復しました。

但兵库助最后侍奉了德川家,从此兵库助一系便被称为尾张柳生,与其相对的是但马守一系被称为江户柳生。柳生家代代居住在大和国柳生庄,然而石舟斋时代被织田信长没收了领地。不过但马守从德川家康那里受封了1万2千石,成为大名。但马守把领地分了8千石给十兵卫,又分给了继承家业的弟弟飞弹守4千石,十兵卫死后飞弹守合并了他的领地,重新恢复为大名。

十兵衛が江戸を出て諸国を巡るようになったきっかけとしては家光との関係が言われています。ある時、家光は辻斬りの味を覚えてしまいました。夜な夜な密かに城を抜け出しては、闇に紛れて通行人を斬るということをしていました。これは万が一にも表沙汰になる前に何とかせねばと考えた十兵衛は、通行人に身をやつして(女装説もあり)、家光が来るのを待っていました。そして家光が、いい獲物が来たとばかり斬りかかると、家光の腕をつかんで、の中へ思いっきり放り込んでやったのです。

相传,十兵卫离开江户,开始环游各地的契机和将军家光有关。某一次,家光体验到了杀人试刀的乐趣。他每天深夜都秘密溜出城,趁着天黑斩杀路过的行人。十兵卫觉得在这件事暴露之前得做点什么,他扮作行人(也有女装说),等待家光到来。就在家光认为遇上好猎物一刀斩下时,十兵卫扭住家光的手腕,一口气将他抛进护城河中。

お陰で家光も反省して、こういうとんでもないことは止めるのですが、さすがに十兵衛と目を合わせるのが照れくさく感じるようになり、十兵衛もそれを察して、城を辞し、各地を廻って剣の腕を鍛えたといいます。なお、十兵衛は片目が見えなかったのですが、これは小さい頃剣の練習をしていて、相手(父の宗矩という)の剣が誤って目に当たってしまい失明したものといわれます。

多亏此举,家光得以反省,停止做这种不成体统的事,但却感到没脸与十兵卫见面,据说十兵卫也察觉了他的心思,便辞去领地周游各地,修炼剑术。此外,十兵卫有一只眼睛失明,这是因为小时候练习剑术时被父亲宗矩的剑误伤了眼睛而从此失明。

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