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宝暦元年(1751)12月19日、テレビドラマでおなじみ大岡越前こと、大岡越前守忠相が亡くなりました。75歳でした。大岡忠相は延宝5年(1677)江戸で生まれました。父は1700石の旗本大岡忠高、10歳の時に同族の旗本大岡忠真(奈良町奉行)の養子になります。

宝历元年(1151)12月19日,电视剧中为人们熟知的大冈越前——大冈越前守忠相去世,享年75岁。大冈忠相延宝5年(1677)生于江户。父亲大冈忠高是俸禄1700石的旗本,10岁时,大冈忠相成为同族旗本大冈忠真(奈良町奉行)的养子。

元禄6年(1693)に兄の忠品が将軍綱吉の怒りを買って遠島になり、同12年には従兄の忠英が上役を殺害する事件を起こして一族は肩身の狭い思いをすることになります。同年養子先の娘珠荘院と結婚して子供を2人もうけますが二人とも早死にし、宝永6年(1706)にはその妻も亡くなってしまいました。幕府の職に就いたのは元禄15年(1702)5月、御書院番という役目でした。その後、御徒頭、御使番、御目付と出世し、正徳2年(1712)伊勢山田奉行に就任しました。

元禄6年(1693)兄弟忠品因为触犯将军纲吉被流放,元禄12年时又发生了堂兄忠英谋杀上司的事件,大冈一族也因此蒙羞。同年,忠相同养父母家的女儿珠庄院结婚,生两子,但都早早夭折了。宝永6年(1706)妻子也故去了。元禄15年(1702)5月,大冈忠相在幕府任职,是个名叫“御书院番”的职位。之后又历任御徒头、御使番、御目付,正德2年(1712)担任了伊势山田奉行。

《大冈越前》第2部剧照

しばしば大岡越前は紀州藩内で活動していたのを吉宗に認められて、吉宗が将軍になった時に一緒に連れて行ったと思っている人がいますが、そうではなく、大岡はお隣の山田の奉行でした。この山田奉行時代に紀州と松坂の境界線問題を厳正に裁いたことで吉宗がこの人物に注目します。そして享保元年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、彼を江戸町奉行に抜擢したのです。

有人认为,大冈越前是在纪州藩供职时得到吉宗的赏识,吉宗做将军后也让其随行,其实并非如此,大冈担任奉行的地点是在纪州藩附近的山田。在山田奉行时代中,他因为公正裁决了纪州与松坂的边界纷争,引起了吉宗的注意。于是享保元年(1716),吉宗任将军,将他提拔为江户町奉行。

彼は江戸町奉行を19年間、その後寺社奉行を15年間務め、寛延元年閏10月には1万石に加封して三河国大平の大名に列しました。この大平の大岡家はその後もずっと継続していきます。寛延4年、病気により寺社奉行を辞し、その年6月に吉宗が亡くなると、その後を追うように同年12月19日死去。

江户町奉行在任19年,之后又担任了15年寺社奉行,宽沿延元年闰10月获封1万石,进入三河国大平的大名之列。大平的大冈家此后也一直延续了下去。宽延4年,大冈忠相因病辞去寺社奉行,就在那年6月,吉宗病故,忠相则于同年12月19日离世,似乎追随其故主一般。

忠相が江戸町奉行に任命された時、彼は北町奉行でしたが、2年後にその奉行所が南町奉行所と改名されて。彼はその後南町奉行として活動しています。その頃の奉行所の陣容は与力25騎、同心120人。これで御江戸八百八町の治安を守らなければならないので、かなりの激務であったようです。

忠相被任命为江户町奉行时是作为北町奉行,2年后该奉行所更名为南町奉行所。此后他作为南町奉行的官员施政。那时,奉行所的常备人员是:与力(捕吏)25人、同心(下级官员)120人。维护江户八百八町的治安就仅仅依靠这么点人数,可见工作是极为繁重的。

德川吉宗

だいたい事件の発生件数からすると1日平均30~40件の判決が言い渡されており(ニューヨークの24時間営業の裁判所並み)、その関係者の取り調べにあたる与力たち、事件の捜査をする同心たちの負荷というのはすさまじく重たいものでした。

从案件的大致发生数来看,1天平均会下达30-40个判决(数量和纽约24小时工作的法院相同),讯问调查的与力与搜查办案的同心都承受了极繁重的工作量。

町奉行所は北と南が月交替でおこない、1月受付をしたら1月休みなのですが、その休みの月にも下調べや調書書きですさまじい忙しさ、実際には休みはほとんど無かったようです。

南、北町奉行所按月轮班,受理一个月案件后便休息一个月,不过即使在休息月里,官员们也会忙于调查与撰写公文,毫无闲暇,实际上基本没有什么休息时间。

事件が多いので、ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けており奉行はその結果を承認するだけ。あとは主として取り調べの様子を見て回ることに時間を割いたようです。奉行が御白州で直接取り調べをおこなったのは余程の重大事件でしょう。

因为诉讼复杂纷乱,大部分案件都交给与力办理,奉行仅仅只对结果做裁定。此后,凡由长官奉行亲自坐镇法庭的案件,基本是重案。

時代劇ではよく「不届きに付き、打首獄門を申しつける」などとやっているケースもありますが、実際には相手が町人といえども、死罪を言い渡すには老中の許可が必要でしたので、死刑の場合その場で判決が言い渡されることはありませんでした。

时代剧里常出现这类情节,“严审案犯,再下令斩首示众”,实际上,即使案犯是町人,要判处死刑也必须取得老中的许可,死刑并不是当场就宣判的。

大岡忠相は町奉行所の構造の設計をおこない、その後奉行所が建て直される時は忠相の設計が基本的に踏襲されています。また同心やその個人的な部下である岡っ引きたちに拷問の禁止を徹底させ、冤罪防止のための心得なども厳しく説いています。その辺りが「名奉行」と呼ばれたゆえんなのでしょう。

大冈忠相对町奉行所的建筑构造进行了设计,此后町奉行所翻修时也基本沿袭了忠相的设计。另外,他彻底禁止同心及受命于同心的捕吏拷问犯人,严申防止冤假错案的要则。恐怕这便是他被众人称作“名奉行”的缘由了。

また、吉宗の事績として知られる目安箱の設置、養生所の設置、町火消しの設置などにも忠相は吉宗のブレーンとして貢献しているようです。

设意见箱、疗养所、町火消(即消防员的一种)等善政作为吉宗的政绩闻名于世,身为吉宗智囊的忠相对此也贡献卓著。

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