日语文学作品赏析《偸盗》(4)
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-06-04 13:34
七
次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた太刀をふるいながら、小路を南へ二三町、下るともなく下って来た。今は沙金の 安否を気づかっている余裕もない。侍は衆をたのんで、すきまもなく切りかける。犬も毛の逆立った背をそびやかして、前後をきらわず、飛びかかった。おりか らの月の光に、往来は、ほのかながら、打つ太刀をたがわせないほどに、明るくなっている。――次郎は、その中で、人と犬とに四方を囲まれながら、必死に なって、切りむすんだ。
相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸し た、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしま う。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬の牙を、防がなければならない事さえある。それでもさすがにいつか傷をうけたのであろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の小鬢から流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでた眉を一文字にひそめながら、あたかも太刀に使われる人のように、烏帽子も落ち、水干も破れたまま、縦横に刃を交えているのである。
それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の脾腹を斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横に薙いだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手は肘をしたたか切られて、やにわに元来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭が鞠の ように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の 筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分の いる所が、ほかならない立本寺の門前だという事に気がついた。――
これから半刻ばかり以前の事である。藤判官の屋敷を、表から襲った偸盗の一群は、中門の右左、車宿りの内外から、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ真木島の十郎が、太腿を箆深く射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたく間に二三人、あるいは顔を破り、あるいは臂を傷つけて、あわただしく後ろを見せた。射手の数は、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しい鏑の音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた沙金でさえ、ついには黒い水干の袖を斜めに、流れ矢に射通された。
「お頭にけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、鏃があるぞ。」
交野の平六が、斧の柄をたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また矢叫びの声が上がり始める。太刀の柄に手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の苛責を感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖をついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。
「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」
太腿を縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、太刀を杖にして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれた鴉のように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な戦慄を覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、
「おぬしは、お頭に付き添うていればよい。十郎の始末は、小盗人でたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。
次郎は、このことばに皮肉な侮蔑を感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく一声の角を合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、牙の鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらに衝いて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。斧をふりかざした平六を先に立てて、太刀や鉾が林のように、きらめきながら並んだ中から、人とも獣ともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然として殺到する。沙金も、今は弓にたかうすびょうの矢をつがえて、まだ微笑を絶たない顔に、一脈の殺気を浮かべながら、すばやく道ばたの築土のこわれを小楯にとって、身がまえた。――
やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にま た、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗と埃とにまみれながら、二三か所薄手を負うた様子で、血に染まったままかけつけた。肩にかついだ太刀の刃のこぼれでは、このほうの戦いも、やはり存外手痛かったらしい。
「あっちは皆ひき上げますぜ。」
その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。
「なにしろ肝腎の太郎さんが、門の中で、やつらに囲まれてしまったという騒ぎでしてな。」
沙金と次郎とは、うす暗い築土の影の中で、思わず目と目を見合わせた。
「囲まれて、どうしたえ。」
「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、万々大丈夫だろうと思いますがな。」
次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、小盗人はもちろんそんな事は、気にとめない。
「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」
沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、
「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。
次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、踵をめぐらす様子がない。(実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。)口笛の音は、蒸し暑い夜の空気を破って、むなしく小路の向こうに消えた。そうしてそのあとには、人の叫ぶ声と、犬のほえる声と、それから太刀の打ち合う音とが、はるかな空の星を動かして、いっそう騒然と、立ちのぼった。
沙金は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく眉を動かした。
「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」
そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むら むらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に弓返りの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、斑々として砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、鏘然とした響きと共に、またたく間、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた樺桜の直垂とを、相手の男に認めたのである。
彼は直下に、立本寺の門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。沙金はこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪の間にこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の太刀の下を、脱兎のごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか藁沓でふみにじった。
彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が肋の骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の藁沓に、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の復讐心に、 快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身 を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何 人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男の鉾は、危うく鋒を、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の水干の袖を裂いて、うつむけにがくりと倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、颯然と風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと箆深く立ったからである。
それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る太刀の中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た沙金の事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおう蝗の羽音のように、築土にせかれた小路の中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。
が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭の頤を蹴返すと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭の牙が、すんでに太刀を持った手を、かもうとした。とまた、三頭とも巴のように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、頤を前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の執拗い働きに悩まされた。
しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆空を 切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮 余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、藁でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上げながら真一文字に追いすがった。
が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口にはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺の辻をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に白んだ小路をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に□々の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛な野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病の女を、宵のうちから餌食にして、互いに牙をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。
犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、太刀の上をおどり越えると、尾のない狐に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと頬にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに眉の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀を回しながら、急に、猪熊のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、喉を かもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうち に、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに 多い野犬の群れが、あるいは芒原の向こうから、あるいは築土のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――
次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金の事を、一度に石火のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿に、鋭い牙の立ったのを感じた。
するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々たる馬蹄の音が、風のように空へあがり始めた。……
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しかしその間も阿濃だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々とした水光りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人のにおいを蔵していた京の町も、わずかの間に、つめたい光の鍍金をかけられて、今では、越の国の人が見るという蜃気楼のように、塔の九輪や伽藍の 屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返してい るのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花のにおいがした。門の左右を埋める藪のところどころから、簇々とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった瓦の上や、蜘蛛の巣をかけた楹の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
窓によりかかった阿濃は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門のような、大きな丹塗り の門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうに かこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。あ る時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの咎で、裸のまま、地蔵堂の梁へつり上げられた。それがふと沙金に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃は猪熊のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲された。猪熊の爺には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金でさえ、癇にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。
煤のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、甍の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠で ある。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますよ うにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを嘗めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。
そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもい るのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動き は、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い灯にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。
しかし、その子が、実際次郎の胤かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗く黙ってしまう。そういう時は、必ず垢じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆な 彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、 当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。―― 阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人 間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払っ て、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……
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相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、中門を打って出た侍たちに、やはり手痛い逆撃ちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた先手の何人かも、算を乱しながら、背を見せる――中でも、臆病な猪熊の爺は、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、太刀をぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。酒肥りした体格と言い、物々しく鉾をひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、鋒をそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。
「はやるまいぞ。わしはこの殿の家人じゃ。」
猪熊の爺は、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。
「うそをつけ。――おのれにたばかれるような阿呆と思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」
侍たちは、口々にののしりながら、早くも太刀を打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう死人のような色になった。
「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」
彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周 囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい太刀音と叫喚の声とが、一塊になった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、上下の齒をむき出しながら、すばやく鉾をかまえて、威丈高にののしった。
「うそをついたがどうしたのじゃ。阿呆。外道。畜生。さあ来い。」
こう言うことばと共に、鉾の先からは、火花が飛んだ。中でも屈竟な、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ十合と刃を合わせないうちに、見る見る、鉾先がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた鉾の柄を、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟がけに浴びせかける。猪熊の爺は、尻居に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這いに這いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀をふりかざした。その時もし、どこからか猿のようなものが、走って来て、帷子の裾を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊の爺は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その猿のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。
それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。噛む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、痣だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、蟇に似た、猪熊のばばの顔が見えた。
老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の髻をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟の声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、干からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊の爺は、老女の救いを得ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路のそこここに、得物を ふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばば は、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされ た。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかってい る小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
老婆は、血の交じった唾を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々として沈んで行った。
その時である。太郎は、そこを栗毛の裸馬にまたがって、血にまみれた太刀を、口にくわえながら、両の手に手綱をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金が目をつけた、陸奥出の三才駒であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす白い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に頭をめぐらして、後にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。
それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻きの太刀をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく厩の戸を蹴破って、この馬の覊綱を切るより早く、背に飛びのる間も惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。水干の袖はちぎれ、烏帽子はむなしく紐をとどめて、ずたずたに裂かれた袴も、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀と鉾との林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、昂然として、馬を駆った。
彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお沙金の心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬の間、侍たちの太刀の 下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実であ る事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそ のために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の卑怯を恥じた。そうして口にくわえた太刀を、右手にとって、おもむろに血をぬぐった。
そのぬぐった太刀を、ちょうど鞘におさめた時である。おりから辻を曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった築土を背負って、おぼろげながら黒く見える。と思う間に、馬は、高くいななきながら、長い鬣をさっと振るうと、四つの蹄に砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。
「次郎か。」
太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく眉をひそめて、弟を見た。次郎も片手に太刀をかざしながら、項をそらせて、兄を見た。そうして刹那に二人とも、相手の瞳の奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、吠えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へ跳った。あとには、ただ、濛々としたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……
太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、一時、ただ、半時、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。
「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。羅生門は遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹を蹴った。馬は、尾と鬣とを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、急湍のように後ろへ流れた。
するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱を握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金かの、選択をしいられたわけではない。直下にこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の手綱を、ぐいと引いた。見る見る、馬の頭が、向きを変える。と、また雪のような泡が、栗毛の口にあふれて、蹄は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬を跳らせていたのである。
「次郎。」
近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。
次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった眉に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。
「早く乗れ。次郎。」
太郎は、群がる犬の中に、隕石のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤するような声で、こう言った。もとより躊躇に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那に猿臂をのばし、弟の襟上をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の頭が、鬣に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。
と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺へ飛びあがった。とがった牙が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛の腹を蹴った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。
が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔 が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来 るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――
「にいさん。」
馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、頬を紺の水干の胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。
半時ののち、人通りのない朱雀の大路を、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ馬蹄の響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。
八
羅生門の夜は、まだ明けない。下から見ると、つめたく露を置いた甍や、丹塗りのはげた欄干に、傾きかかった月の光が、いざよいながら、残っている。が、その門の下は、斜めにつき出した高い檐に、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく藪蚊に刺されながら、酸えたようによどんでいる。藤判官の屋敷から、引き揚げてきた偸盗の一群は、そのやみの中にかすかな松明の火をめぐりながら、三々五々、あるいは立ちあるいは伏し、あるいは丸柱の根がたにうずくまって、さっきから、それぞれけがの手当てに忙しい。
中でも、いちばん重手を負ったのは、猪熊の爺である。彼は、沙金の古い袿を敷いた上に、あおむけに横たわって、半ば目をつぶりながら、時々ものにおびえるように、しわがれた声で、うめいている。一時の間、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の困憊した心には、それさえ時々はわからない。目の前には、さまざまな幻が、瀕死の彼をあざけるように、ひっきりなく徂来すると、その幻と、現在門の下で起こっている出来事とが、彼にとっては、いつか全く同一な世界になってしまう。彼は、時と所とを分かたない、昏迷の底に、その醜い一生を、正確に、しかも理性を超越したある順序で、まざまざと再び、生活した。
「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」
彼は、暗から生まれて、暗へ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を汗衫の袖で包んだ、交野の平六が顔を出して、
「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた蓮の上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」
言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、真木島の十郎の腿のけがの手当をしている、沙金のほうをふり返って、声をかけた。
「お頭、おじじはちとむずかしいようじゃ。苦しめるだけ、殺生じゃて。わしがとどめを刺してやろうかと思うがな。」
沙金は、あでやかな声で、笑った。
「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」
「なるほどな、それもそうじゃ。」
猪熊の爺は、この問答を聞くと、ある予期と恐怖とに襲われて、からだじゅうが一時に凍るような心もちがした。そうして、また大きな声でうなった。平六と同じような理由で、敵には臆病な彼も、今までに何度、致死期の仲間の者をその鉾の先で、とどめを刺したかわからない。それも多くは、人を殺すという、ただそれだけの興味から、あるいは自分の勇気を人にも自分にも示そうとする、ただそれだけの目的から、進んでこの無残なしわざをあえてした。それが今は――
と、たれか、彼の苦しみも知らないように、灯の陰で一人、鼻歌をうたう者がある。
あの虫のように、自分もほどなく死ななければならない。死ねば、どうせ蛆と蝿とに、血も肉も食いつくされるからだである。ああこの自分が死ぬ。それを、仲間のものは、歌をうたったり笑ったりしながら、何事もないように騒いでいる。そう思うと、猪熊の爺は、名状しがたい怒りと苦痛とに、骨髄をかまれるような心もちがした。そうして、それとともに、なんだか轆轤のようにとめどなく回っている物が、火花を飛ばしながら目の前へおりて来るような心もちがした。
「畜生。人でなし。太郎。やい。極道。」
まわらない舌の先から、おのずからこういうことばが、とぎれとぎれに落ちて来る。――真木島の十郎は、腿の傷が痛まないように、そっとねがえりをうちながら、喉のかわいたような声で、沙金にささやいた。
「太郎さんは、よくよく憎まれたものさな。」
沙金は、眉をひそめながら、ちょいと猪熊の爺のほうを見て、うなずいた。すると鼻歌をうたったのと同じ声で、
「太郎さんはどうした。」とたずねたものがある。
「まず助かるまいな。」
「死んだのを見たと言うたのは、たれじゃ。」
「わしは、五六人を相手に切り合うているのを見た。」
「やれやれ、頓生菩提、頓生菩提。」
「次郎さんも、見えないぞ。」
「これも事によると、同じくじゃ。」
太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの造作もなく死んでしまう。――こんな取りとめのない考えが、暗の中に鳴いている藪蚊のように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。猪熊の爺は、形のない、気味の悪い「死」が、しんぼうづよく、丹塗り の柱の向こうに、じっと自分の息をうかがっているのを感じた。残酷に、しかもまた落ち着いて、自分の苦痛をながめているのを感じた。そうして、それが少し ずつ居ざりながら、消えてゆく月の光のように、次第にまくらもとへすりよって来るのを感じた。なんにしても、自分は死にたくない。――
「阿濃のあほうが見えぬの。」
「なるほど、そうじゃ。」
「おおかた、この上に寝ておろう。」
「や、上で猫が鳴くぞ。」
みな、一時にひっそりとなった。その中を、絶え絶えにつづく猪熊の爺のうなり声と一つになって、かすかに猫の声が聞こえて来る。と流れ風が、始めてなま暖かく、柱の間を吹いて、うす甘い凌霄花のにおいが、どこからかそっと一同の鼻を襲った。
「猫も化けるそうな。」
「阿濃の相手には、猫の化けた、老いぼれが相当じゃよ。」
すると、沙金が、衣ずれの音をさせて、たしなめるように、こう言った。
「猫じゃないよ。ちょっとたれか行って、見て来ておくれ。」
声に応じて、交野の平六が、太刀の鞘を、柱にぶっつけながら、立ち上がった。楼上に通う梯子は、 二十いくつの段をきざんで、その柱の向こうにかかっている。――一同は、理由のない不安に襲われて、しばらくはたれも口をとざしてしまった。その間をた だ、凌霄花のにおいのする風が、またしてもかすかに、通りぬけると、たちまち楼上で平六の、何か、わめく声がした。そうして、ほどなく急いで梯子をおりて 来る足音が、あわただしく、重苦しい暗をかき乱した。――ただ事ではない。
「どうじゃ。阿濃めが、子を産みおったわ。」
平六は、梯子をおりると、古被衣にくるんだ、丸々としたものを、勢いよくともし火の下へ出して見せた。女の臭いのする、うすよごれた布の中には、生まれたばかりの赤ん坊が、人間というよりは、むしろ皮をむいた蛙のように、大きな頭を重そうに動かしながら、醜い顔をしかめて、泣き立てている。うすい産毛といい、細い手の指と言い、何一つ、嫌悪と好奇心とを、同時にそそらないものはない。――平六は、左右を見まわしながら、抱いている赤子を、ふり動かして、得意らしく、しゃべり立てた。
「上へ上がって見ると、阿濃め、窓の下へつっ伏したなり、死んだようになって、うなっていると、阿呆とはいえ、女の部じゃ。癪かと思うて、そばへ行くと、いや驚くまい事か。さかなの腸をぶちまけたようなものが、うす暗い中で、泣いているわ。手をやると、それがぴくりと動いた。毛のないところを見れば、猫でもあるまい。じゃてひっつかんで、月明かりにかざして見ると、このとおり生まれたばかりの赤子じゃ。見い。蚊に食われたと見えて、胸も腹も赤まだらになっているわ。阿濃も、これからはおふくろじゃよ。」
松明の 火を前に立った、平六のまわりを囲んで、十五六人の盗人は、立つものは立ち、伏すものは伏して、いずれも皆、首をのばしながら、別人のように、やさしい微 笑を含んで、この命が宿ったばかりの、赤い、醜い肉塊を見守った。赤ん坊は、しばらくも、じっとしていない。手を動かす。足を動かす。しまいには、頭を後 ろへそらせて、ひとしきりまた、けたたましく泣き立てた。と、齒のない口の中が見える。
「やあ舌がある。」
前に鼻歌をうたった男が、頓狂な声で、こう言った。それにつれて、一同が、傷も忘れたように、どっと笑う。――その笑い声のあとを追いかけるように、この時、突然、猪熊の爺が、どこにそれだけの力が残っていたかと思うような声で、険しく一同の後ろから、声をかけた。
「その子を見せてくれ。よ。その子を。見せないか。やい、極道。」
平六は、足で彼の頭をこづいた。そうして、おどかすような調子で、こう言った。
「見たければ、見るさ。極道とは、おぬしの事じゃ。」
猪熊の爺は、濁った目を大きく見開いて、平六が身をかがめながら、無造作につきつけた赤ん坊を、食いつきそうな様子をして、じっと見た。見ているうちに、顔の色が、次第に蝋のごとく青ざめて、しわだらけの眦に、涙が玉になりながら、たまって来る。と思うと、ふるえるくちびるのほとりには、不思議な微笑の波が漂って、今までにない無邪気な表情が、いつか顔じゅうの筋肉を柔らげた。しかも、饒舌な彼が、そうなったまま、口をきかない。一同は、「死」がついに、この老人を捕えたのを知った。しかし彼の微笑の意味はたれも知っているものがない。
猪熊の爺は、寝たまま、おもむろに手をのべて、そっと赤ん坊の指に触れた。と、赤ん坊は、針にでも刺されたように、たちまちいたいたしい泣き声を上げる。平六は、彼をしかろうとして、そうしてまた、やめた。老人の顔が――血のけを失った、この酒肥りの老人の顔が、その時ばかりは、平生とちがった、犯しがたいいかめしさに、かがやいているような気がしたからである。その前には、沙金でさえ、あたかも何物かを待ち受けるように、息を凝らしながら、養父の顔を、――そうしてまた情人の 顔を、目もはなさず見つめている。が、彼はまだ、口を開かない。ただ、彼の顔には、秘密な喜びが、おりから吹きだした明け近い風のように、静かに、ここち よく、あふれて来る。彼は、この時、暗い夜の向こうに、――人間の目のとどかない、遠くの空に、さびしく、冷ややかに明けてゆく、不滅な、黎明を見たのである。
「この子は――この子は、わしの子じゃ。」
彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、沙金が、かたわらからそっとささえた。十余人の盗人たちは、このことばを聞かないように、いずれも唾をのんで、身動きもしない。と、沙金が顔を上げて、赤子を抱いたまま、立っている交野の平六の顔を見て、うなずいた。
「啖がつまる音じゃ。」
平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――猪熊の爺は、暗におびえて泣く赤子の声の中に、かすかな苦悶をつづけながら、消えかかる松明の火のように、静かに息をひきとったのである。……
「爺も、とうとう死んだの。」
「さればさ。阿濃を手ごめにした主も、これで知れたと言うものじゃ。」
「死骸は、あの藪中へ埋めずばなるまい。」
「鴉の餌食にするのも、気の毒じゃな。」
盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、かすかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。
「阿濃は?」と沙金が言った。
「わしが、あり合わせの衣をかけて、寝かせて来た。あのからだじゃて、大事はあるまい。」
平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。
そのうちに、盗人が二人三人、猪熊の爺の死骸を、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。有明の月のうすい光に、蕭条とした藪が、かすかにこずえをそよめかせて、凌霄花のにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。
「生死事大。」
「無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
猪熊の爺の死骸は、斑々たる血痕に染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深く舁かれて行った。
次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた太刀をふるいながら、小路を南へ二三町、下るともなく下って来た。今は沙金の 安否を気づかっている余裕もない。侍は衆をたのんで、すきまもなく切りかける。犬も毛の逆立った背をそびやかして、前後をきらわず、飛びかかった。おりか らの月の光に、往来は、ほのかながら、打つ太刀をたがわせないほどに、明るくなっている。――次郎は、その中で、人と犬とに四方を囲まれながら、必死に なって、切りむすんだ。
相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸し た、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしま う。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬の牙を、防がなければならない事さえある。それでもさすがにいつか傷をうけたのであろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の小鬢から流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでた眉を一文字にひそめながら、あたかも太刀に使われる人のように、烏帽子も落ち、水干も破れたまま、縦横に刃を交えているのである。
それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の脾腹を斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横に薙いだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手は肘をしたたか切られて、やにわに元来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭が鞠の ように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の 筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分の いる所が、ほかならない立本寺の門前だという事に気がついた。――
これから半刻ばかり以前の事である。藤判官の屋敷を、表から襲った偸盗の一群は、中門の右左、車宿りの内外から、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ真木島の十郎が、太腿を箆深く射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたく間に二三人、あるいは顔を破り、あるいは臂を傷つけて、あわただしく後ろを見せた。射手の数は、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しい鏑の音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた沙金でさえ、ついには黒い水干の袖を斜めに、流れ矢に射通された。
「お頭にけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、鏃があるぞ。」
交野の平六が、斧の柄をたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また矢叫びの声が上がり始める。太刀の柄に手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の苛責を感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖をついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。
「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」
太腿を縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、太刀を杖にして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれた鴉のように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な戦慄を覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、
「おぬしは、お頭に付き添うていればよい。十郎の始末は、小盗人でたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。
次郎は、このことばに皮肉な侮蔑を感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく一声の角を合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、牙の鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらに衝いて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。斧をふりかざした平六を先に立てて、太刀や鉾が林のように、きらめきながら並んだ中から、人とも獣ともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然として殺到する。沙金も、今は弓にたかうすびょうの矢をつがえて、まだ微笑を絶たない顔に、一脈の殺気を浮かべながら、すばやく道ばたの築土のこわれを小楯にとって、身がまえた。――
やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にま た、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗と埃とにまみれながら、二三か所薄手を負うた様子で、血に染まったままかけつけた。肩にかついだ太刀の刃のこぼれでは、このほうの戦いも、やはり存外手痛かったらしい。
「あっちは皆ひき上げますぜ。」
その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。
「なにしろ肝腎の太郎さんが、門の中で、やつらに囲まれてしまったという騒ぎでしてな。」
沙金と次郎とは、うす暗い築土の影の中で、思わず目と目を見合わせた。
「囲まれて、どうしたえ。」
「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、万々大丈夫だろうと思いますがな。」
次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、小盗人はもちろんそんな事は、気にとめない。
「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」
沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、
「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。
次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、踵をめぐらす様子がない。(実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。)口笛の音は、蒸し暑い夜の空気を破って、むなしく小路の向こうに消えた。そうしてそのあとには、人の叫ぶ声と、犬のほえる声と、それから太刀の打ち合う音とが、はるかな空の星を動かして、いっそう騒然と、立ちのぼった。
沙金は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく眉を動かした。
「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」
そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むら むらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に弓返りの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、斑々として砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、鏘然とした響きと共に、またたく間、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた樺桜の直垂とを、相手の男に認めたのである。
彼は直下に、立本寺の門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。沙金はこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪の間にこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の太刀の下を、脱兎のごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか藁沓でふみにじった。
彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が肋の骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の藁沓に、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の復讐心に、 快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身 を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何 人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男の鉾は、危うく鋒を、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の水干の袖を裂いて、うつむけにがくりと倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、颯然と風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと箆深く立ったからである。
それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る太刀の中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た沙金の事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおう蝗の羽音のように、築土にせかれた小路の中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。
が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭の頤を蹴返すと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭の牙が、すんでに太刀を持った手を、かもうとした。とまた、三頭とも巴のように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、頤を前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の執拗い働きに悩まされた。
しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆空を 切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮 余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、藁でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上げながら真一文字に追いすがった。
が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口にはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺の辻をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に白んだ小路をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に□々の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛な野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病の女を、宵のうちから餌食にして、互いに牙をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。
犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、太刀の上をおどり越えると、尾のない狐に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと頬にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに眉の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀を回しながら、急に、猪熊のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、喉を かもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうち に、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに 多い野犬の群れが、あるいは芒原の向こうから、あるいは築土のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――
次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金の事を、一度に石火のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿に、鋭い牙の立ったのを感じた。
するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々たる馬蹄の音が、風のように空へあがり始めた。……
―――――――――――――――――
しかしその間も阿濃だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々とした水光りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人のにおいを蔵していた京の町も、わずかの間に、つめたい光の鍍金をかけられて、今では、越の国の人が見るという蜃気楼のように、塔の九輪や伽藍の 屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返してい るのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花のにおいがした。門の左右を埋める藪のところどころから、簇々とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった瓦の上や、蜘蛛の巣をかけた楹の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
窓によりかかった阿濃は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門のような、大きな丹塗り の門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうに かこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。あ る時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの咎で、裸のまま、地蔵堂の梁へつり上げられた。それがふと沙金に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃は猪熊のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲された。猪熊の爺には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金でさえ、癇にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。
煤のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、甍の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠で ある。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますよ うにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを嘗めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。
そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもい るのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動き は、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い灯にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。
君をおきて
あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
うろ覚えに覚えた歌の声は、灯のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。沙金はよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
しかし、その子が、実際次郎の胤かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗く黙ってしまう。そういう時は、必ず垢じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆な 彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、 当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。―― 阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人 間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払っ て、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない呻吟の声が、暗を誘うごとく、かすかにもれ始めた。阿濃は、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い疼痛を感じ出したのである。波も越えなむや
波も越えなむ
―――――――――――――――――
相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、中門を打って出た侍たちに、やはり手痛い逆撃ちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた先手の何人かも、算を乱しながら、背を見せる――中でも、臆病な猪熊の爺は、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、太刀をぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。酒肥りした体格と言い、物々しく鉾をひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、鋒をそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。
「はやるまいぞ。わしはこの殿の家人じゃ。」
猪熊の爺は、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。
「うそをつけ。――おのれにたばかれるような阿呆と思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」
侍たちは、口々にののしりながら、早くも太刀を打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう死人のような色になった。
「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」
彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周 囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい太刀音と叫喚の声とが、一塊になった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、上下の齒をむき出しながら、すばやく鉾をかまえて、威丈高にののしった。
「うそをついたがどうしたのじゃ。阿呆。外道。畜生。さあ来い。」
こう言うことばと共に、鉾の先からは、火花が飛んだ。中でも屈竟な、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ十合と刃を合わせないうちに、見る見る、鉾先がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた鉾の柄を、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟がけに浴びせかける。猪熊の爺は、尻居に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這いに這いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀をふりかざした。その時もし、どこからか猿のようなものが、走って来て、帷子の裾を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊の爺は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その猿のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。
それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。噛む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、痣だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、蟇に似た、猪熊のばばの顔が見えた。
老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の髻をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟の声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、干からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊の爺は、老女の救いを得ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路のそこここに、得物を ふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばば は、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされ た。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかってい る小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
老婆は、血の交じった唾を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々として沈んで行った。
その時である。太郎は、そこを栗毛の裸馬にまたがって、血にまみれた太刀を、口にくわえながら、両の手に手綱をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金が目をつけた、陸奥出の三才駒であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす白い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に頭をめぐらして、後にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。
それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻きの太刀をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく厩の戸を蹴破って、この馬の覊綱を切るより早く、背に飛びのる間も惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。水干の袖はちぎれ、烏帽子はむなしく紐をとどめて、ずたずたに裂かれた袴も、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀と鉾との林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、昂然として、馬を駆った。
彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお沙金の心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬の間、侍たちの太刀の 下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実であ る事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそ のために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の卑怯を恥じた。そうして口にくわえた太刀を、右手にとって、おもむろに血をぬぐった。
そのぬぐった太刀を、ちょうど鞘におさめた時である。おりから辻を曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった築土を背負って、おぼろげながら黒く見える。と思う間に、馬は、高くいななきながら、長い鬣をさっと振るうと、四つの蹄に砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。
「次郎か。」
太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく眉をひそめて、弟を見た。次郎も片手に太刀をかざしながら、項をそらせて、兄を見た。そうして刹那に二人とも、相手の瞳の奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、吠えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へ跳った。あとには、ただ、濛々としたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……
太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、一時、ただ、半時、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。
「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。羅生門は遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹を蹴った。馬は、尾と鬣とを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、急湍のように後ろへ流れた。
するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱を握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金かの、選択をしいられたわけではない。直下にこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の手綱を、ぐいと引いた。見る見る、馬の頭が、向きを変える。と、また雪のような泡が、栗毛の口にあふれて、蹄は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬を跳らせていたのである。
「次郎。」
近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。
次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった眉に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。
「早く乗れ。次郎。」
太郎は、群がる犬の中に、隕石のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤するような声で、こう言った。もとより躊躇に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那に猿臂をのばし、弟の襟上をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の頭が、鬣に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。
と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺へ飛びあがった。とがった牙が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛の腹を蹴った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。
が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔 が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来 るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――
「にいさん。」
馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、頬を紺の水干の胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。
半時ののち、人通りのない朱雀の大路を、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ馬蹄の響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。
八
羅生門の夜は、まだ明けない。下から見ると、つめたく露を置いた甍や、丹塗りのはげた欄干に、傾きかかった月の光が、いざよいながら、残っている。が、その門の下は、斜めにつき出した高い檐に、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく藪蚊に刺されながら、酸えたようによどんでいる。藤判官の屋敷から、引き揚げてきた偸盗の一群は、そのやみの中にかすかな松明の火をめぐりながら、三々五々、あるいは立ちあるいは伏し、あるいは丸柱の根がたにうずくまって、さっきから、それぞれけがの手当てに忙しい。
中でも、いちばん重手を負ったのは、猪熊の爺である。彼は、沙金の古い袿を敷いた上に、あおむけに横たわって、半ば目をつぶりながら、時々ものにおびえるように、しわがれた声で、うめいている。一時の間、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の困憊した心には、それさえ時々はわからない。目の前には、さまざまな幻が、瀕死の彼をあざけるように、ひっきりなく徂来すると、その幻と、現在門の下で起こっている出来事とが、彼にとっては、いつか全く同一な世界になってしまう。彼は、時と所とを分かたない、昏迷の底に、その醜い一生を、正確に、しかも理性を超越したある順序で、まざまざと再び、生活した。
「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」
彼は、暗から生まれて、暗へ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を汗衫の袖で包んだ、交野の平六が顔を出して、
「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた蓮の上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」
言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、真木島の十郎の腿のけがの手当をしている、沙金のほうをふり返って、声をかけた。
「お頭、おじじはちとむずかしいようじゃ。苦しめるだけ、殺生じゃて。わしがとどめを刺してやろうかと思うがな。」
沙金は、あでやかな声で、笑った。
「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」
「なるほどな、それもそうじゃ。」
猪熊の爺は、この問答を聞くと、ある予期と恐怖とに襲われて、からだじゅうが一時に凍るような心もちがした。そうして、また大きな声でうなった。平六と同じような理由で、敵には臆病な彼も、今までに何度、致死期の仲間の者をその鉾の先で、とどめを刺したかわからない。それも多くは、人を殺すという、ただそれだけの興味から、あるいは自分の勇気を人にも自分にも示そうとする、ただそれだけの目的から、進んでこの無残なしわざをあえてした。それが今は――
と、たれか、彼の苦しみも知らないように、灯の陰で一人、鼻歌をうたう者がある。
いたち笛ふき
猿かなず
いなごまろは拍子うつ
きりぎりす
ぴしゃりと、蚊をたたく音が、それに次いで聞こえる。中には「ほう、やれ」と拍子をとったものもあった。二三人が、肩をゆすったけはいで、息のつまったような笑い声を立てる。――猪熊の爺は、総身をわなわなふるわせながら、まだ生きているという事実を確かめたいために、重い□を開いて、じっとともし火の光を見た。灯は、その炎のまわりに無数の輪をかけながら、執拗い夜に攻められて、心細い光を放っている。と、小さな黄金虫が一匹ぶうんと音を立てて、飛んで来て、その光の輪にはいったかと思うとたちまち羽根を焼かれて、下へ落ちた。青臭いにおいが、ひとしきり鼻を打つ。猿かなず
いなごまろは拍子うつ
きりぎりす
あの虫のように、自分もほどなく死ななければならない。死ねば、どうせ蛆と蝿とに、血も肉も食いつくされるからだである。ああこの自分が死ぬ。それを、仲間のものは、歌をうたったり笑ったりしながら、何事もないように騒いでいる。そう思うと、猪熊の爺は、名状しがたい怒りと苦痛とに、骨髄をかまれるような心もちがした。そうして、それとともに、なんだか轆轤のようにとめどなく回っている物が、火花を飛ばしながら目の前へおりて来るような心もちがした。
「畜生。人でなし。太郎。やい。極道。」
まわらない舌の先から、おのずからこういうことばが、とぎれとぎれに落ちて来る。――真木島の十郎は、腿の傷が痛まないように、そっとねがえりをうちながら、喉のかわいたような声で、沙金にささやいた。
「太郎さんは、よくよく憎まれたものさな。」
沙金は、眉をひそめながら、ちょいと猪熊の爺のほうを見て、うなずいた。すると鼻歌をうたったのと同じ声で、
「太郎さんはどうした。」とたずねたものがある。
「まず助かるまいな。」
「死んだのを見たと言うたのは、たれじゃ。」
「わしは、五六人を相手に切り合うているのを見た。」
「やれやれ、頓生菩提、頓生菩提。」
「次郎さんも、見えないぞ。」
「これも事によると、同じくじゃ。」
太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの造作もなく死んでしまう。――こんな取りとめのない考えが、暗の中に鳴いている藪蚊のように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。猪熊の爺は、形のない、気味の悪い「死」が、しんぼうづよく、丹塗り の柱の向こうに、じっと自分の息をうかがっているのを感じた。残酷に、しかもまた落ち着いて、自分の苦痛をながめているのを感じた。そうして、それが少し ずつ居ざりながら、消えてゆく月の光のように、次第にまくらもとへすりよって来るのを感じた。なんにしても、自分は死にたくない。――
夜はたれとか寝む
常陸の介と寝む
寝たる肌もよし
男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
また、鼻歌の声が、油しめ木の音のような呻吟の声と一つになった。とたれか、猪熊の爺の枕もとで、つばをはきながら、こう言ったものがある。常陸の介と寝む
寝たる肌もよし
男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
「阿濃のあほうが見えぬの。」
「なるほど、そうじゃ。」
「おおかた、この上に寝ておろう。」
「や、上で猫が鳴くぞ。」
みな、一時にひっそりとなった。その中を、絶え絶えにつづく猪熊の爺のうなり声と一つになって、かすかに猫の声が聞こえて来る。と流れ風が、始めてなま暖かく、柱の間を吹いて、うす甘い凌霄花のにおいが、どこからかそっと一同の鼻を襲った。
「猫も化けるそうな。」
「阿濃の相手には、猫の化けた、老いぼれが相当じゃよ。」
すると、沙金が、衣ずれの音をさせて、たしなめるように、こう言った。
「猫じゃないよ。ちょっとたれか行って、見て来ておくれ。」
声に応じて、交野の平六が、太刀の鞘を、柱にぶっつけながら、立ち上がった。楼上に通う梯子は、 二十いくつの段をきざんで、その柱の向こうにかかっている。――一同は、理由のない不安に襲われて、しばらくはたれも口をとざしてしまった。その間をた だ、凌霄花のにおいのする風が、またしてもかすかに、通りぬけると、たちまち楼上で平六の、何か、わめく声がした。そうして、ほどなく急いで梯子をおりて 来る足音が、あわただしく、重苦しい暗をかき乱した。――ただ事ではない。
「どうじゃ。阿濃めが、子を産みおったわ。」
平六は、梯子をおりると、古被衣にくるんだ、丸々としたものを、勢いよくともし火の下へ出して見せた。女の臭いのする、うすよごれた布の中には、生まれたばかりの赤ん坊が、人間というよりは、むしろ皮をむいた蛙のように、大きな頭を重そうに動かしながら、醜い顔をしかめて、泣き立てている。うすい産毛といい、細い手の指と言い、何一つ、嫌悪と好奇心とを、同時にそそらないものはない。――平六は、左右を見まわしながら、抱いている赤子を、ふり動かして、得意らしく、しゃべり立てた。
「上へ上がって見ると、阿濃め、窓の下へつっ伏したなり、死んだようになって、うなっていると、阿呆とはいえ、女の部じゃ。癪かと思うて、そばへ行くと、いや驚くまい事か。さかなの腸をぶちまけたようなものが、うす暗い中で、泣いているわ。手をやると、それがぴくりと動いた。毛のないところを見れば、猫でもあるまい。じゃてひっつかんで、月明かりにかざして見ると、このとおり生まれたばかりの赤子じゃ。見い。蚊に食われたと見えて、胸も腹も赤まだらになっているわ。阿濃も、これからはおふくろじゃよ。」
松明の 火を前に立った、平六のまわりを囲んで、十五六人の盗人は、立つものは立ち、伏すものは伏して、いずれも皆、首をのばしながら、別人のように、やさしい微 笑を含んで、この命が宿ったばかりの、赤い、醜い肉塊を見守った。赤ん坊は、しばらくも、じっとしていない。手を動かす。足を動かす。しまいには、頭を後 ろへそらせて、ひとしきりまた、けたたましく泣き立てた。と、齒のない口の中が見える。
「やあ舌がある。」
前に鼻歌をうたった男が、頓狂な声で、こう言った。それにつれて、一同が、傷も忘れたように、どっと笑う。――その笑い声のあとを追いかけるように、この時、突然、猪熊の爺が、どこにそれだけの力が残っていたかと思うような声で、険しく一同の後ろから、声をかけた。
「その子を見せてくれ。よ。その子を。見せないか。やい、極道。」
平六は、足で彼の頭をこづいた。そうして、おどかすような調子で、こう言った。
「見たければ、見るさ。極道とは、おぬしの事じゃ。」
猪熊の爺は、濁った目を大きく見開いて、平六が身をかがめながら、無造作につきつけた赤ん坊を、食いつきそうな様子をして、じっと見た。見ているうちに、顔の色が、次第に蝋のごとく青ざめて、しわだらけの眦に、涙が玉になりながら、たまって来る。と思うと、ふるえるくちびるのほとりには、不思議な微笑の波が漂って、今までにない無邪気な表情が、いつか顔じゅうの筋肉を柔らげた。しかも、饒舌な彼が、そうなったまま、口をきかない。一同は、「死」がついに、この老人を捕えたのを知った。しかし彼の微笑の意味はたれも知っているものがない。
猪熊の爺は、寝たまま、おもむろに手をのべて、そっと赤ん坊の指に触れた。と、赤ん坊は、針にでも刺されたように、たちまちいたいたしい泣き声を上げる。平六は、彼をしかろうとして、そうしてまた、やめた。老人の顔が――血のけを失った、この酒肥りの老人の顔が、その時ばかりは、平生とちがった、犯しがたいいかめしさに、かがやいているような気がしたからである。その前には、沙金でさえ、あたかも何物かを待ち受けるように、息を凝らしながら、養父の顔を、――そうしてまた情人の 顔を、目もはなさず見つめている。が、彼はまだ、口を開かない。ただ、彼の顔には、秘密な喜びが、おりから吹きだした明け近い風のように、静かに、ここち よく、あふれて来る。彼は、この時、暗い夜の向こうに、――人間の目のとどかない、遠くの空に、さびしく、冷ややかに明けてゆく、不滅な、黎明を見たのである。
「この子は――この子は、わしの子じゃ。」
彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、沙金が、かたわらからそっとささえた。十余人の盗人たちは、このことばを聞かないように、いずれも唾をのんで、身動きもしない。と、沙金が顔を上げて、赤子を抱いたまま、立っている交野の平六の顔を見て、うなずいた。
「啖がつまる音じゃ。」
平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――猪熊の爺は、暗におびえて泣く赤子の声の中に、かすかな苦悶をつづけながら、消えかかる松明の火のように、静かに息をひきとったのである。……
「爺も、とうとう死んだの。」
「さればさ。阿濃を手ごめにした主も、これで知れたと言うものじゃ。」
「死骸は、あの藪中へ埋めずばなるまい。」
「鴉の餌食にするのも、気の毒じゃな。」
盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、かすかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。
「阿濃は?」と沙金が言った。
「わしが、あり合わせの衣をかけて、寝かせて来た。あのからだじゃて、大事はあるまい。」
平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。
そのうちに、盗人が二人三人、猪熊の爺の死骸を、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。有明の月のうすい光に、蕭条とした藪が、かすかにこずえをそよめかせて、凌霄花のにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。
「生死事大。」
「無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
猪熊の爺の死骸は、斑々たる血痕に染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深く舁かれて行った。
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