日语文学作品赏析《偸盗》(3)
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-06-03 13:32
五
白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
見ると、広くもない部屋の中には、廚へ通う遣戸が一枚、斜めに網代屏風の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、肥った、十六七の下衆女が一人、これも酒肥りに肥った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子を、 空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒 く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけ るほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へは いった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
太郎は、草履を脱ぐ間ももどかしそうに、あわただしく部屋の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子をもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝した。
「何をする?」
太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
太郎は、瓶子を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸の上へ蹴倒した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃はあわてて、一二間這いのいたが、老人の後へ倒れたのを見ると、神仏をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊の爺を、太郎が再び一蹴して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風をふみ倒して、廚のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂をのべて、浅黄の水干の襟上をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる頸を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の柄へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻きの太刀の柄へのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
猪熊の爺は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃を、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、猪熊の爺は、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの阿濃の阿呆めが、どうしても飲みおらぬ。されば、ついわしも手荒な事をした。それだけじゃ。いや、まだある。薬をこしらえおったのは、おばばじゃ。わしの知った事ではない。」
「薬? では、堕胎薬だな。いくら阿呆でも、いやがる者をつかまえて、非道な事をするおやじだ。」
「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。極道。」
「たれがおぬしを殺すと言った?」
「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、太刀の柄へ手をかけているのじゃ。」
老人は、汗にぬれたはげ頭を仰向けて、上目に太郎を見上げながら、口角に泡をためて、こう叫んだ。太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、一閃する。彼は思わず、ひざに力を入れながら、太刀の柄を握りしめて、老人の頸のあたりをじっと見た。わずかに残った胡麻塩の毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋の腱が、赤い鳥肌の皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、その頸を見た時に、不思議な憐憫を感じだした。
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
猪熊の爺は、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた遣戸を小盾にとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、狡猾らしい顔を見ると、太郎は、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。
「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」
「殺せば、親殺しじゃて。」
彼の様子に安心した、猪熊の爺は、そろそろ遣戸の後ろから、にじり出ながら、太郎のすわったのと、すじかいに敷いた畳の上へ、自分も落ちつかない尻をすえた。
「おぬしを殺して、なんで親殺しになる?」
太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、枇杷の木が、葉の裏表に日を受けて、明暗さまざまな緑の色を、ひっそりと風のないこずえにあつめている。
「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。沙金は、わしの義理の子じゃ。されば、つながるおぬしも、子ではないか。」
「じゃ、その子を妻にしているおぬしは、なんだ。畜生かな、それともまた、人間かな。」
老人は、さっきの争いに破れた、水干の袖を気にしながら、うなるような声で言った。
「畜生でも、親殺しはすまいて。」
太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。
「相変わらず、達者な口だて。」
「何が達者な口じゃ。」
猪熊の爺は、急に鋭く、太郎の顔をにらめたが、やがてまた、鼻で笑いながら、
「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」
「きくまでもないわ。」
「できまいな」
「おお、できない。」
「それが手前勝手じゃ。よいか。沙金はおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち打擲もするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。妻にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金を妻にするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」
老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、左兵衛府の下人をしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを懸想していた。」
太郎は、こういう場合、この酒飲みの、狡猾な、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した猪熊の爺と懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。
「そのうちに、わしはおばばに情人がある事を知ったがな。」
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
「情人があったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」
猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその情人の子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばの行き方が、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、疫病で死んだの、筑紫へ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂のしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、賭博も打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。綾を盗めば綾につけ、錦を盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」
今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に頬をぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の沙金を見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばを妻にしよう――こう思い切って、持ったのが、この猪熊の痩世帯じゃ。………」
猪熊の爺は、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の沙金一 人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今こ こで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろか ろう。」
涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた悪態をつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、卑怯者じゃな。ははあ、さっき、わしが阿濃に薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの阿呆をはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」
こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた遣戸の向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの造作を、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの雑言に堪えかねて、立ち上がりながら、太刀の柄へ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊の痰をはきかけた。
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。沙金は、おぬしばかりの妻かよ。次郎殿の妻でもないか。されば、弟の妻をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊の爺はまた、指をふりふり、罵詈を浴びせかけた。
「お ぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よ いか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃ よ。………」
老人は、こう唾罵を飛ばしながら、おいおい、呂律がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、□々、猪熊の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、燕が軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門へ行って、日の暮れるのでも待とう。」
彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる夜には、好んで、男装束に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路を南へ、大またに歩きだした。
それから、三条を西へ折れて、耳敏川の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路へ出た時の事である。太郎は、一町を隔てて、この大路を北へ、立本寺の築土の下を、話しながら通りかかる、二人の男女の姿を見た。
朽ち葉色の水干とうす紫の衣とが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、小路から小路へ通りすぎる。めまぐるしい燕の中に、男の黒鞘の太刀が、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。
太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」
六
ふけやすい夏の夜は、早くも亥の上刻に迫って来た。――
月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている京の町は、加茂川の水面がかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の辻々にも、今はようやく灯影が絶えて、内裏といい、すすき原といい、町家といい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、右京左京の区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた大寺の内陣で、金泥も緑青も所斑な、孔雀明王の画像を前に、常燈明の光をたのむ参籠の人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を芥火の影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす朱雀門の古狐が、瓦の上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は千本、南の鳥羽街道の境を尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、夜色の底に埋もれながら、河原よもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。
その時、王城の北、朱雀大路のはずれにある、羅生門のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠の羽音のように、互いに呼びつ答えつして、あるいは一人、あるいは三人、あるいは五人、あるいは八人、怪しげないでたちをしたものの姿が、次第にどこからか、つどって来た。おぼつかない星明かりに透かして見れば、太刀をはくもの、矢を負うもの、斧を執るもの、戟を持つもの、皆それぞれ、得物に身を固めて、脛布藁沓の装いもかいがいしく、門の前に渡した石橋へ、むらむらと集まって、列を作る――と、まっさきには、太郎がいた。それにつづいて、さっきの争いも忘れたように、猪熊の爺が、物々しく鉾の先を、きらりと暗にひらめかせる。続いて、次郎、猪熊のばば、少し離れて、阿濃もいる。それにかこまれて、沙金は一人、黒い水干に太刀をはいて、胡□を背に弓杖をつきながら、一同を見渡して、あでやかな口を開いた。――
「いいかい。今夜の仕事は、いつもより手ごわい相手なんだからね。みなそのつもりで、いておくれ。さしずめ十五六人は、太郎さんといっしょに、裏から、あとはわたしといっしょに、表からはいってもらおう。中でも目ぼしいのは、裏の厩にいる陸奥出の馬だがね。これは、太郎さん、あなたに頼んでおくわ。よくって。」
太郎は、黙って星を見ていたが、これを聞くと、くちびるをゆがめながら、うなずいた。
「それから断わっておくが、女子供を質になんぞとっては、いけないよ。あとの始末がめんどうだからね。じゃ、人数がそろったら、そろそろ出かけよう。」
こう言って、沙金は弓をあげて、一同をさしまねいたが、しょんぼり、指をかんで立っている、阿濃を顧みると、またやさしくことばを添えた。
「じゃ、お前はここで、待っていておくれ。一刻か二刻で、皆帰ってくるからね。」
阿濃は、子供のように、うっとり沙金の顔を見て、静かに合点した。
「されば、行こう。ぬかるまいぞ、多襄丸。」
猪熊の爺は、戟をたばさみながら、隣にいる仲間をふり返った。蘇芳染の水干を着た相手は、太刀のつばを鳴らして、「ふふん」と言ったまま、答えない。そのかわりに、斧をかついだ、青ひげのさわやかな男が、横あいから、口を出した。
「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」
これと共に、二十三人の盗人どもは、ひとしく忍び笑いをもらしながら、沙金を中に、雨雲のむらがるごとく、一団の殺気をこめて、朱雀大路へ押し出すと、みぞをあふれた泥水が、くぼ地くぼ地へ引かれるようにやみにまぎれて、どこへ行ったか、たちまちのうちに、見えなくなった。……
あとには、ただ、いつか月しろのした、うす明るい空にそむいて、羅生門の高い甍が、寂然と大路を見おろしているばかり、またしてもほととぎすの、声がおちこちに断続して、今まで七丈五級の大石段に、たたずんでいた阿濃の姿も、どこへ行ったか、見えなくなった。――が、まもなく、門上の楼に、おぼつかない灯がともって、窓が一つ、かたりとあくと、その窓から、遠い月の出をながめている、小さな女の顔が出た。阿濃は、こうして、次第に明るくなってゆく京の町を、目の下に見おろしながら、胎児の動くのを感じるごとに、ひとりうれしそうに、ほほえんでいるのである。
白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
見ると、広くもない部屋の中には、廚へ通う遣戸が一枚、斜めに網代屏風の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、肥った、十六七の下衆女が一人、これも酒肥りに肥った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子を、 空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒 く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけ るほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へは いった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
太郎は、草履を脱ぐ間ももどかしそうに、あわただしく部屋の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子をもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝した。
「何をする?」
太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
太郎は、瓶子を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸の上へ蹴倒した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃はあわてて、一二間這いのいたが、老人の後へ倒れたのを見ると、神仏をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊の爺を、太郎が再び一蹴して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風をふみ倒して、廚のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂をのべて、浅黄の水干の襟上をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる頸を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の柄へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻きの太刀の柄へのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
猪熊の爺は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃を、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、猪熊の爺は、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの阿濃の阿呆めが、どうしても飲みおらぬ。されば、ついわしも手荒な事をした。それだけじゃ。いや、まだある。薬をこしらえおったのは、おばばじゃ。わしの知った事ではない。」
「薬? では、堕胎薬だな。いくら阿呆でも、いやがる者をつかまえて、非道な事をするおやじだ。」
「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。極道。」
「たれがおぬしを殺すと言った?」
「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、太刀の柄へ手をかけているのじゃ。」
老人は、汗にぬれたはげ頭を仰向けて、上目に太郎を見上げながら、口角に泡をためて、こう叫んだ。太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、一閃する。彼は思わず、ひざに力を入れながら、太刀の柄を握りしめて、老人の頸のあたりをじっと見た。わずかに残った胡麻塩の毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋の腱が、赤い鳥肌の皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、その頸を見た時に、不思議な憐憫を感じだした。
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
猪熊の爺は、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた遣戸を小盾にとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、狡猾らしい顔を見ると、太郎は、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。
「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」
「殺せば、親殺しじゃて。」
彼の様子に安心した、猪熊の爺は、そろそろ遣戸の後ろから、にじり出ながら、太郎のすわったのと、すじかいに敷いた畳の上へ、自分も落ちつかない尻をすえた。
「おぬしを殺して、なんで親殺しになる?」
太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、枇杷の木が、葉の裏表に日を受けて、明暗さまざまな緑の色を、ひっそりと風のないこずえにあつめている。
「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。沙金は、わしの義理の子じゃ。されば、つながるおぬしも、子ではないか。」
「じゃ、その子を妻にしているおぬしは、なんだ。畜生かな、それともまた、人間かな。」
老人は、さっきの争いに破れた、水干の袖を気にしながら、うなるような声で言った。
「畜生でも、親殺しはすまいて。」
太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。
「相変わらず、達者な口だて。」
「何が達者な口じゃ。」
猪熊の爺は、急に鋭く、太郎の顔をにらめたが、やがてまた、鼻で笑いながら、
「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」
「きくまでもないわ。」
「できまいな」
「おお、できない。」
「それが手前勝手じゃ。よいか。沙金はおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち打擲もするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。妻にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金を妻にするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」
老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、左兵衛府の下人をしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを懸想していた。」
太郎は、こういう場合、この酒飲みの、狡猾な、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した猪熊の爺と懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。
「そのうちに、わしはおばばに情人がある事を知ったがな。」
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
「情人があったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」
猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその情人の子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばの行き方が、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、疫病で死んだの、筑紫へ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂のしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、賭博も打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。綾を盗めば綾につけ、錦を盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」
今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に頬をぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の沙金を見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばを妻にしよう――こう思い切って、持ったのが、この猪熊の痩世帯じゃ。………」
猪熊の爺は、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の沙金一 人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今こ こで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろか ろう。」
涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた悪態をつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、卑怯者じゃな。ははあ、さっき、わしが阿濃に薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの阿呆をはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」
こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた遣戸の向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの造作を、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの雑言に堪えかねて、立ち上がりながら、太刀の柄へ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊の痰をはきかけた。
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。沙金は、おぬしばかりの妻かよ。次郎殿の妻でもないか。されば、弟の妻をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊の爺はまた、指をふりふり、罵詈を浴びせかけた。
「お ぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よ いか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃ よ。………」
老人は、こう唾罵を飛ばしながら、おいおい、呂律がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、□々、猪熊の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、燕が軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門へ行って、日の暮れるのでも待とう。」
彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる夜には、好んで、男装束に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路を南へ、大またに歩きだした。
それから、三条を西へ折れて、耳敏川の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路へ出た時の事である。太郎は、一町を隔てて、この大路を北へ、立本寺の築土の下を、話しながら通りかかる、二人の男女の姿を見た。
朽ち葉色の水干とうす紫の衣とが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、小路から小路へ通りすぎる。めまぐるしい燕の中に、男の黒鞘の太刀が、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。
太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」
六
ふけやすい夏の夜は、早くも亥の上刻に迫って来た。――
月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている京の町は、加茂川の水面がかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の辻々にも、今はようやく灯影が絶えて、内裏といい、すすき原といい、町家といい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、右京左京の区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた大寺の内陣で、金泥も緑青も所斑な、孔雀明王の画像を前に、常燈明の光をたのむ参籠の人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を芥火の影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす朱雀門の古狐が、瓦の上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は千本、南の鳥羽街道の境を尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、夜色の底に埋もれながら、河原よもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。
その時、王城の北、朱雀大路のはずれにある、羅生門のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠の羽音のように、互いに呼びつ答えつして、あるいは一人、あるいは三人、あるいは五人、あるいは八人、怪しげないでたちをしたものの姿が、次第にどこからか、つどって来た。おぼつかない星明かりに透かして見れば、太刀をはくもの、矢を負うもの、斧を執るもの、戟を持つもの、皆それぞれ、得物に身を固めて、脛布藁沓の装いもかいがいしく、門の前に渡した石橋へ、むらむらと集まって、列を作る――と、まっさきには、太郎がいた。それにつづいて、さっきの争いも忘れたように、猪熊の爺が、物々しく鉾の先を、きらりと暗にひらめかせる。続いて、次郎、猪熊のばば、少し離れて、阿濃もいる。それにかこまれて、沙金は一人、黒い水干に太刀をはいて、胡□を背に弓杖をつきながら、一同を見渡して、あでやかな口を開いた。――
「いいかい。今夜の仕事は、いつもより手ごわい相手なんだからね。みなそのつもりで、いておくれ。さしずめ十五六人は、太郎さんといっしょに、裏から、あとはわたしといっしょに、表からはいってもらおう。中でも目ぼしいのは、裏の厩にいる陸奥出の馬だがね。これは、太郎さん、あなたに頼んでおくわ。よくって。」
太郎は、黙って星を見ていたが、これを聞くと、くちびるをゆがめながら、うなずいた。
「それから断わっておくが、女子供を質になんぞとっては、いけないよ。あとの始末がめんどうだからね。じゃ、人数がそろったら、そろそろ出かけよう。」
こう言って、沙金は弓をあげて、一同をさしまねいたが、しょんぼり、指をかんで立っている、阿濃を顧みると、またやさしくことばを添えた。
「じゃ、お前はここで、待っていておくれ。一刻か二刻で、皆帰ってくるからね。」
阿濃は、子供のように、うっとり沙金の顔を見て、静かに合点した。
「されば、行こう。ぬかるまいぞ、多襄丸。」
猪熊の爺は、戟をたばさみながら、隣にいる仲間をふり返った。蘇芳染の水干を着た相手は、太刀のつばを鳴らして、「ふふん」と言ったまま、答えない。そのかわりに、斧をかついだ、青ひげのさわやかな男が、横あいから、口を出した。
「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」
これと共に、二十三人の盗人どもは、ひとしく忍び笑いをもらしながら、沙金を中に、雨雲のむらがるごとく、一団の殺気をこめて、朱雀大路へ押し出すと、みぞをあふれた泥水が、くぼ地くぼ地へ引かれるようにやみにまぎれて、どこへ行ったか、たちまちのうちに、見えなくなった。……
あとには、ただ、いつか月しろのした、うす明るい空にそむいて、羅生門の高い甍が、寂然と大路を見おろしているばかり、またしてもほととぎすの、声がおちこちに断続して、今まで七丈五級の大石段に、たたずんでいた阿濃の姿も、どこへ行ったか、見えなくなった。――が、まもなく、門上の楼に、おぼつかない灯がともって、窓が一つ、かたりとあくと、その窓から、遠い月の出をながめている、小さな女の顔が出た。阿濃は、こうして、次第に明るくなってゆく京の町を、目の下に見おろしながら、胎児の動くのを感じるごとに、ひとりうれしそうに、ほほえんでいるのである。
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