日语文学作品赏析《身のまはり》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
一 机
僕は学校を出た年の秋「芋粥 」といふ短篇を新小説に発表した。原稿料は一枚四十銭だつた。が、いかに当時にしても、それだけに衣食を求めるのは心細いことに違ひなかつた。僕はそのために口を探し、同じ年の十二月に海軍機関学校の教官になつた。夏目 先生の死なれたのはこの十二月の九日 だつた。僕は一月六十円の月俸を貰ひ、昼は英文和訳を教へ、夜 はせつせと仕事をした。それから一年ばかりたつた後 、僕の月俸は百円になり、原稿料も一枚二円前後になつた。僕はこれらを合せればどうにか家計を営 めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪 と結婚した。僕の紫檀 の古机 はその時夏目先生の奥さんに祝 つて頂いたものである。机の寸法は竪 三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今では板の合せ目などに多少の狂ひを生じてゐる。しかしもう、かれこれ十年近く、いつもこの机に向つてゐることを思ふと、さすがに愛惜 のない訣 でもない。
二硯屏
僕の青磁 の硯屏 は団子坂 の骨董屋 で買つたものである。尤 も進んで買つた訣 ではない。僕はいつかこの硯屏のことを「野人生計事 」といふ随筆の中に書いて置いた。それをちよつと摘録 すれば――
或日又遊びに来た室生 は、僕の顔を見るが早いか、団子坂の或骨董屋に青磁の硯屏 の出てゐることを話した。
「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中 にとつて来なさい。もし出かける暇 がなけりや、使でも何 でもやりなさい。」
宛然 僕にその硯屏を買ふ義務でもありさうな口吻 である。しかし御意 通りに買つたことを未 だに後悔 してゐないのは室生のためにも僕のためにも兎 に角 欣懐 といふ外 はない。
この文中に室生といふのはもちろん室生犀星 君である。硯屏はたしか十五円だつた。
三 ペン皿
夏目 先生はペン皿の代りに煎茶 の茶箕 を使つてゐられた。僕は早速 その智慧 を学んで、僕の家に伝はつた紫檀 の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以 の妹婿 に当たる細木伊兵衛 のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄 先生に字を書いて頂きこの茶箕 の窪んだ中へ「本是山中人 愛説山中話 」と刻 ませることにした。茶箕の外 には伊兵衛自身がいかにも素人 の手に成つたらしい岩や水を刻 んでゐる。といふと風流に聞えるかも知れない。が、生来の無精 のために埃 やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆さまになつてゐるのである。
四 火鉢
小さい長火鉢 を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗 の具合 などは値段よりも上等に出来上つてゐる。僕は当時鎌倉の辻 といふ処に住んでゐた。借家 は或実業家の別荘の中に建つてゐたから、芭蕉 が軒 を遮 つたり、広い池が見渡せたり、存外 居心地のよい住居 だつた。が、八畳二間 、六畳一間 、四畳半二間、それに湯殿 や台所があつても、家賃は十八円を越えたことはなかつた。僕らはかういふ四畳半の一間にこの小さい長火鉢を据ゑ、太平無事 に暮らしてゐた。あの借家 も今では震災のために跡かたちもなくなつてゐることであらう。
僕は学校を出た年の秋「
二
僕の
或日又遊びに来た
「売らずに置けといつて置いたからね、二三日
この文中に室生といふのはもちろん
三 ペン皿
四 火鉢
小さい
(大正十四年十二月)
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