日语文学作品赏析《鑑定》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
三円で果亭 の山水 を買つて来て、書斎の床 に掛けて置いたら、遊びに来た男が皆その前へ立つて見ちや「贋物 ぢやないか」と軽蔑した。滝田樗陰 君の如きも、上から下までずつと眼をやつて、「いけませんな」と喝破 してしまつた。が、こちらは元来怪しげな書画を掘り出して来る事を以て、無名の天才に敬意を払ふ所以 だと心得てゐるんだから、「僕は果亭 だから懸 けて置くのぢやない。画 の出来が好 いから懸けて置くのだ」と号して、更に辟易 しなかつた。けれどもこの山水を贋物 だと称する諸君子 は、悉 くこれを自分の負惜 しみだと盲断した。のみならず彼等の或者は「兎 に角 無名の天才は安上 りで好 いよ」などと云つて、いやににやにや笑ひさへした。ここに至る以上自分と雖 も、聊 か三円の果亭の為に辯ずる所なきを得ない。
仰 鑑定家 なるものはややもすると虫眼鏡 などをふり廻して、我々素人 を嚇 かしにかかるが、元来彼等は書画の真贋 をどの位まで正確に見分ける事が出来るかと云ふと、彼等も人間である以上、決して全智全能と云ふ次第ぢやない。何 となれば、彼等の判断を下 すべきものはその書画の真贋 である。或は真贋に関する範囲内での巧拙 である。所がその真贋なり巧拙なりの鑑定は何時 でも或客観的標準の定規 を当てると云ふ訣 に行かう筈がない。たとへば落款 とか手法 とか乃至 紙墨 などと云ふ物質的材料を巧 に真似 たものになると、その真贋を鑑定するものは殆 ど一種の直覚の外 に何もないと云ふ事に帰着してしまふ。が、如何 に鋭敏な直覚を備へてゐたにした所で、唯過去に於て或書家なり画家なりがその書画を作つたと云ふ事実だけの問題になつたら、鑑定家にして占者 を兼ねない限り、到底 見分けなんぞはつきはしまい。現にこの間 も何 とか云ふ男の作つた贋物 の書画は、作者自身も真贋を辨 じなかつたと云つてゐるぢやないか。よし又それ程巧妙をを極めた贋物でないにしても鑑定家に良心のある限り、真とも贋とも決定出来ない中間色 の書画が出て来るのは自然である。して見れば鑑定家なるものは、或種類の書画に限り、我々同様更に真贋の判別は出来ないと云つても差支 ない。そこで翻 つて三円の果亭 を見ると、断じて果亭だと言明する事が出来ないにしても、同様に又断じて果亭でないとも言明する事の出来ないものである。既 に然るからはこれを果亭と認めて壁間 にぶら下げたのにしろ、毛頭 自分の不名誉になる事ぢやない。況 んや自分は唯、無名の天才に敬意を表する心算 で――
辯じてここまで来ると、大抵 の男は「わかつたよ、もう無名の天才は沢山 だ」と云つた。沢山ならこれで切り上げるが、世間には自分の如く怪しげな書画を玩 んで無名の天才に敬意を払ふの士が存外 多くはないかと思ふ。それらの士は、俗悪なる新画に巨万の黄金 を抛 つて顧みない天下の富豪 に比 べると、少くとも趣味の独立してゐる点で尊敬に価 する人々である。そこで自分は聊 かそれらの士と共に、真贋の差別に煩 はされない清興 の存在を主張したかつたから、ここにわざわざ以上の饒舌 を活字にする事を敢 てした。所謂 竹町物 を商ふ骨董屋 が広告に利用しなければ幸甚 である。
辯じてここまで来ると、
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