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1977年の11月15日を、具体的に記憶している人は少ないだろう。最近、あの頃の日記を引っ張り出した。〈15日(火)奨学金入る/明日のバイトはきつい/前期の成績も心配〉。東京で一人暮らしの学生にとって、ありふれた一日だった。

1977年的11月15日,恐怕没多少人能依稀记得那天曾发生过什么事。最近,人们翻出一本记录了那时候的日记。“15号(周二)发奖学金;明天的(打工)工作很艰巨;前一段时间的成绩也不免有些担心。”对于一个人在东京就学的学生来讲,是平平常常的一天。

その日の夕刻、新潟市の中学1年生、横田めぐみさんが行方不明になった。両親の滋さん、早紀江(さきえ)さんには、忘れたくても忘れられない、特別な日になった。

就在那天的傍晚,新泻市的一个名叫横田惠的初一学生失踪了。对于她的父母横田滋和横田早纪江来说,1977年11月15号是想忘也无法忘记刻骨铭心的一天。

帰りが遅い娘を案じた母は、部活のバドミントンが長引いているのかと学校に急ぐ。体育館から漏れる照明と女性の声に安心するが、ママさんバレーの練習だった。東京の学生が、アパート近くの中華料理屋で野菜炒(いた)めか何かを食べていた時刻だ。

女儿很晚还没回来母亲不禁有些担心,以为孩子在学校参加课余活动一直在打羽毛球,急冲冲的赶到学校。看到从体育馆透出的灯光和听到传来的女声,母亲松了一口气。孩子是在练排球。与此同时,东京的那个孩子打完工后正在附近的一家中国餐馆吃着炒菜什么的。

新潟の母親は遥(はる)かに正確に、作りかけの夕食を覚えている。鶏のホワイトシチューは、ジャガイモが煮え切る前に火が止まった。転勤家族の平穏も、そこでぷつりと断たれた。多くの日本人にとって、この悲劇が「同時代の体験」となるのはずっと後のことである。

那位新泻的母亲依旧清晰地记得那顿做到一半的晚饭。锅里炖的是鸡肉白炖(whitestew),土豆还没熟的时候火就给关上了。调动工作地点以来的平静也就在那时戛然而止了。对于多数的日本人来说,这样的悲剧就好像是一直持续下去的“同时代的经历”。

早紀江さんは、娘の夢をめったに見ない。最後は小泉再訪朝の前だった。長い長い下りのエスカレーターに、20歳ぐらいのわが子がいた。声は届くが手が届かない6段先、赤いシャツで、赤ん坊をおぶっていた。その残像さえ宝物だ。

早纪江很少能梦见女儿。最后在小泉再次访朝之前梦到了。在长长的下行扶梯上,有一个二十来岁的年轻人。她站在能听见声音却无法牵手的第六节台阶边上,身穿红色衬衫背着小宝宝。这些残存的记忆(对于早纪江来说)都如是珍宝。

「私たちができることは全部しました。早く静かに、普通の人になりたい」。自分の名が難しいからと選んだひらがな3字。いつの間にか、国家犯罪告発する記号になった。親子の30年を奪ったまま、極東を次の冬がつつむ。

“我们已经竭尽全力了。只想尽快安静的成为普通人。”自己的名很难写所以就选了三个假名。不知什么时候,这三个假名就变成了检举国家犯罪的印记。骨肉分离的三十年后又将迎来远东的下一个冬天。

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