鳥の声の「聞きなし」を知っておられるだろうか。鳴き声に耳を傾けて、似た言葉に置き換えることだ。簡単なものではカラスの「阿呆(あほう)、阿呆」、コノハズクの「仏法僧(ぶっぽうそう)」などがある。

知道有将鸟的鸣叫声用日语替换的吧。仔细倾听鸟语,可用相似的语言替换。简单的有如乌鸦的“傻瓜、傻瓜”、 木菟鸟的“佛法僧”等。

やや難しくなるとフクロウを「ぼろ着て奉公」と聞く。地方によってさまざまだが、ツバメなら「土食って虫食って渋い」、ホオジロは「一筆啓上仕(つかまつ)り候」となる。夏を告げる渡り鳥のホトトギスは「特許許可局」だ。久しぶりに聞きたくて、先だって群馬の山を歩いた。

稍微难一点的是听猫头鹰叫“两袖清风”。尽管因地而异,但燕子总是“吃土吃虫好苦涩”、白颊鸟则是“一笔带过”。宣告夏季来临的杜鹃为“特许许可局”。因为想听听这些久违的声音,前不久在群马的山中神游了一番。

滴るような青葉だが、時期が早すぎたのか、美声の拝聴はかなわずに山を下りた。だがじきに飛来して、あたりのウグイスの巣に卵を産み付けるだろう。「托卵(たくらん)」といって、ホトトギスには抱卵から子育てまで他の鳥にお任せする変わった習性がある。

尽管绿叶已青翠欲滴,但或许时节还嫌过早,没能倾听到悦耳的鸟叫声就下了山。然而不久就会飞来,在这一带黄莺的鸟巢里产下卵吧。说到“托卵”,杜鹃鸟具有一个很怪异的习性,它们把从孵卵到养育孩子的工作都托付给其他鸟类。

孵化(ふか)したホトトギスは育ての親より大きくなる。巨大なヒナに、小さな親が餌を与える図は、かなり奇異だ。自然の摂理とはいえ、ずうずうしい習性である。

孵化出来的杜鹃比它的养父母还要大。弱小的父母给巨大的雏鸟喂食,这是一幅相当奇异的画面。虽说这是自然的法则,却也是相当无耻的习性。

劇作家の宇野信夫はある劇で、子不孝な遊び人を、岡っ引きが「お前は親にはなったが、親とはなれぬ」と諭すせりふを書いた。生物学的には親でも、世間的には親として失格。その含みを「に」と「と」の違いに込めた。遊び人は改心する、という筋書きだ。

在剧作家宇野信夫的一部戏剧中有这样一句台词,捕快告诫游手好闲不顾孩子的人说,“你虽然身为父母,却还没有成为父母。”即使是生物学上的父母,作为世间的父母也是失格的。在“身为”和“成为”两个词上,有着不同的含义。其大致梗概就是,游手好闲的人后来改过自新。

親と子をめぐる辛(つら)い話が多い。熊本市の「赤ちゃんポスト」で男児が保護され、東京のゴミ集積場では女児が置き去りにされた。〈ツバメの子赤ちゃんポストは無縁です〉。川柳欄の入選作にほほえみつつ、「に」と「と」の違いを思ってみる。

围绕父母与孩子之间有许多沉重的话题。一个男婴受到熊本市“婴儿邮筒”的保护,东京的垃圾场有被丢弃的女婴。“燕子的孩子无缘婴儿邮筒”,我看着川柳栏的入选作品,一边思考着“身为”与“成为”的不同。

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