ひと回り前の亥年だった95年の今日、阪神大震災が起きた。それから流れた12年は、例えば当時の小学1年生が大学生になるほどの長い年月にあたる。あの震災の記憶をこれからどう伝えてゆくのか、懸念する声もあるだろう。

上一轮亥年(猪年)1995年的今天,爆发了阪神大地震。此后所流逝的12年真是漫长的岁月,倘若当时是一名念小学一年级的学生,现在则要成为大学生了。对于那一次地震的记忆,今后将如何流傳呢,或许也会有为此担心的人吧。


 日本では誰もが未来の被災者になりうる——。12年前にそんな思いをつづって本紙に寄せ、市民自らが鉛筆やワープロで体験を記録に残そうと訴えたのが、神戸市で被災した高森一徳さんだった。出版社を経営する傍ら「阪神大震災を記録しつづける会」の代表を務め、手記集を毎年出し続けた。

在日本,谁都有可能成为将来的受害者——。12年前,承续这一思考,给本报写信,希望能保存市民们自己用铅笔或者文字处理机记录下来的体验——提出这一诉求的正是在神户市受灾的高森一德先生。在经营出版社的同时,他还担任了“阪神大地震跟踪记录会”代表一职,每年都有笔记集不断印出。


 目標とした10冊目の「阪神大震災から10年 未来の被災者へのメッセージ」の校正を終えた04年の暮れ、惜しくも心不全のため57歳で急死した。「公の記録から漏れた普通の人のささいな記録を残したい」。この行動の原点は、広島の原爆にあったという。


作为既定目标的第十本(笔记)《阪神大地震距今十载  未来受害者之与印象》, 在完成其校对工作的04年末,非常遗憾,高森先生由于心力衰竭于57岁骤然离世。(他)“希望能够保留下在公开发表的记录中所遗漏的普通人的点滴纪录”。据说(他)这一做法的出发点在于广岛原子弹爆炸。


 高森さんの父は、45年8月に軍人として広島市に入り被爆した。晩年に被爆手帳を申請する際、太田川の橋のたもとで見た言葉のことを説明した。

高森的父亲,作为军人于45年8月进入广岛市,遭到过原子辐射。他曾讲起过一件事,即在晚年申请受辐手册时于太田川桥头所看到的一句话。


 「国破れて山河在り」。誰かがチョークで書き残したこの言葉が別の人の記録と合致し、被爆体験として認められた。「小さなことだが誰かが記録してくれていたおかげ」と、高森さんは生前に語っていたという。

“国破山河在”。这句不知是谁用粉笔写下的话正与其他人的纪录一致,作为遭到原子辐射后(共同)的体验而被认可。“虽然是点点滴滴,但多亏有人写下了一笔”,据说这是高森先生身前所说的。


 12年前の本紙を開く。日を追って死者数が増えてゆく。20日の朝刊に文字だけの見開き(みひらき)の面がある。犠牲者の名前と年齢と住所で、二つの面がすべて埋まっている。戦後最悪となった災害の墓碑銘を、「未来の被災者」への無言の伝言として記憶し直した。

 

翻开12年前的报纸。随着(报纸)日期的推进死者数不断增加。在20日的晨报上,有一个只有文字的合版。这两版全然埋没在丧生者的姓名、年龄与住所之中。作为给“未来受灾者”的无声留言,我重新记忆了这场战后最惨重灾难的墓志铭。