·撑杆跳

文芸翻訳家の鴻巣友希子氏は『翻訳のココロ』というエッセイ集のなかで翻訳をさまざまに例えていますが、なかでも印象的なのが棒高跳びの例えです。こちらは硬貨の例えとは対照的に、教科書のようにきれいな比喩だと思います。

文艺翻译家鸿巢友季子在《翻译之心》这本文集中,用了很多东西来比喻翻译,当中给我印象最深的是撑杆跳的例子。这与硬币的比喻正相反,是教科书般漂亮的比喻。

翻訳は棒高跳びに似ている。という気が少ししてきた。ふくまれる意味の伝達というバーを越せなければ、そこで敗退であり、だが、文中密かにくだぐだしい解釈をもりこんでバーより高く跳びすぎては、力の無駄づかいであるし、第一にみっともない。やはり、ほどよい余裕でクリアするのが美しい。

我逐渐觉得翻译与撑杆跳相似。如果不能跨越传达出所含意思这一高杆就算失败,然而,如果暗中絮絮叨叨地过多解释,跳得高出杆太多,那不但白费力气,也不中看。还是要跨越得迎刃有余而又恰到好处最漂亮。

——鴻巣友季子「ホンヤク棒高跳び」p16-17

——鸿巢友季子《翻译撑杆跳》p16-17

このエッセイが収められた「翻訳のココロ」のなかでは、柴田元幸様との対談があり、そのなかで翻訳を何にたとえるかという、そのまんまの話題が展開されています。

收录该文章的《翻译之心》里还有与柴田元幸老师的对谈,当中就有对翻译比作什么这一话题的展开。

柴田:翻訳とはどういうものか、っていう喩えを見ると、そこにけっこう個性が出ると思って。鴻巣さんの言うことって人間的ですよ。あの、「あくを抜く」とかさ。

鴻巣:ああ。

柴田:まあ、「棒高跳び」でもそうなんですけど。そういう、人がやることに喩えますよね。

そういうのってあんまり実は聞いたことがないような気がする。少なくとも僕は翻訳というのは圧倒的にオーディオアンプだと思っているし、岸本佐知子さんはもっとわけのわかないことを言って、「甕(かめ)に水を張ってゴーンと叩くとこれが翻訳だ」なんて。なんかわけのわからない(笑)。……それは「あくを抜く」と本当は同じなんだけど、翻訳者岸本さんはそれを張った甕になるんですよね。

鴻巣:あ、その甕になることが翻訳だと。

柴田:そう、それでその甕が鳴るんですよね、叩かれて。それが訳すことなんだと。よくわかんないんだけど(笑)。でも僕も、アンプになるとかね、あんまり人間に喩えないんですよね。そこはけっこう大きな違いじゃないかなと思ったんですよね。オーディオアンプも面白いですが、甕だなんて(笑)。

柴田:来看看对翻译为何物的比喻,有很多独具个性的例子。鸿巢老师说的都很人化,比如“不俗气”什么的。

鸿巢:恩。

柴田:“撑杆跳”也是,都是比喻人们会去做的事情呢。

像这些实际上感觉都没怎么听过,至少我是觉得翻译肯定是扩音器,而岸本佐知子老师更甚,说是罐子里装水再咚的敲响,这就是翻译什么的。让人摸不着头脑(笑)……这跟“不俗气”在本质上相同,但是翻译家岸本老师比作装满水的罐子呢。

鸿巢:啊,变成罐子比作翻译。

柴田:没错,罐子敲了会响吧,她说这就是翻译。我倒不是很懂啦(笑)。不过我也比喻成扩音器这种不太人化的东西。其实这当中也没有太大的不同啦。扩音器也挺有意思的,什么罐子嘛(笑)。

柴田元幸様の発言に触発され、わたしも翻訳を何かに例えてみたいと思います。

受到柴田元幸老师发言的触发,我也想试试把翻译比作什么。

・奴隷

·奴隶

翻訳者は奴隷だと私は思います。と言うときっと誤解されると思うので説明しますと、翻訳が奴隷労働だという意味ではありません。

我认为翻译者是奴隶。这么一说肯定会被误解,再说明下,这并非说翻译是奴隶般的劳动。

そうではなく、「奴隷は主人の頭で考える」という意味において、翻訳者は奴隷なのです。

自分の思考がなくなって、ご主人様(=原文の書き手)の思考回路で訳すさまが奴隷だと思います。自虐的に解釈されることは百も承知なのですが、そこは意図していません。

ところで、古代ローマにおいて翻訳は奴隷の仕事だったそうです(出典不明)。

这是从“奴隶是顺着主人的想法去思考”这层意思出发,才说翻译者是奴隶。

丧失自己的思考,而根据主人(原文写作者)的思考回路来翻译,我觉得这就是奴隶。我当然十分清楚这是自虐式的解释,不过并非我有意为之。

不过,据说在古罗马翻译就是奴隶的工作(出典不明)

・小人の靴屋さん

·小矮人鞋匠

人が休んでいる間に仕事し、翌朝には何事もなかったかのようにきれいに靴(=訳文)ができている。実務翻訳者は小人の靴屋さんだと言えます。同じ路線の比喩として翻訳者は「打ち出の小槌」とも言えます(翻訳者が小槌、訳文は小判)。どうやら私は「翻訳者は努力の跡を見せてはいけない」と思っているようです(?!)

在别人休息时工作,翌日早晨做好漂亮的鞋子(译文),仿佛什么都没发生过,所以我说从事翻译的人是小矮人鞋匠。同一思路的比喻也可说翻译者是“百宝槌”(翻译者是小槌、译文是金币)。看来我是觉得“翻译者不能让自己的努力示人”(?!)

・植木職人

·花匠

翻訳者は植木職人、原文はぼさぼさの木、訳すのは木を刈り込む作業です。原文は多義性を持つことがままありますが、翻訳においても同じように多義性を持たせようとすると、たいていは意味不明になります。訳(=刈り込まれた状態)をつくるには、残すべき枝を判断し、落とすべき枝(けっこういい枝もあったりしますが)は思い切って切り落とす必要があります。

翻译者是花匠,原文是乱蓬蓬的树,翻译是修剪枝叶的工作。原文常带有多义性,如果在翻译中也欲使其带上多义性,则多会变得意义不明。要翻译(=修剪后的状态)就要判断需留下的枝叶、要剪除的枝叶(当中也有相当好的)就得下狠心剪除。

海女さん

·渔女

私が実際に訳していて最もよく想起するのは、海にもぐるイメージです。翻訳者は「この書き手はなぜこう書いているのだろう?」と考え、書き手の心の奥深くまで分け入っていくことがあります。たとえ契約書や論文のような硬い文章でも、書き手にその言葉を選ばせた心理がわからないと、訳語が出てこない場合はけっこうあります。字面に表れない心理を探るとき、私は海を深く潜っていくような心境になります。海の底にあるひとつの石を拾いにいく作業の繰り返しが翻訳だと思います。

我在实际翻译当中最常想起的是潜入海中的场景。翻译者会思考“这位作者为什么这样写呢?”而深入到原作者的内心里去。即便是合同、论文等生硬的文章,如果不能理解作者选词用句的心理,有时就想不出合适的对应表达。在探寻不外露在字面上的心理时,我会有仿佛潜到深海中的心情。所以我认为翻译就是到海底去捡一块石头的工作的重复。

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