2 中国の茶文化と日本の茶道

2.1 同質性と異質性

中国茶も日本茶も同じツバキ科の茶葉から作られるが、製法が異なる。日本茶は茶葉を蒸すことで酸化を止めるが、中国茶は茶葉を炒る又は菱凋(茶葉を安置させて水分をゆっくり失わせ、葉を柔らかくして茶の香りを形成する過程)することで酸化(発酵)を止める。その結果一般的に中国茶は茶葉を見て楽しみ、香りと味を楽しむ事が出来る。一方日本茶は味を一番で楽しみ、次に香りを楽しむので順位が異なる。中国茶は日本茶と較べて特に香りが重視される。
(2) 同質性
陸羽『茶経』に「もし熱渇,疑悶、頭痛、目渋、手足の痛み、百節が伸びない時、茶を四、五口飲めば、醍醐(最高の乳製品)、甘露と抗衡(はりあ)うなり」とある。体を治し心を癒す飲み物が茶である。日本の茶の始祖栄西は「茶は養生の仙茶なり、延命の妙術なり」という有名な言葉で始まる『喫茶養生記』を著し、喫茶を長寿の薬として推奨した。
(2) 異質性
中国の茶文化は香りと味が大切で、いわゆる工夫茶はいかに手間をかけてお茶を美味しく飲むかが重要となる。一方日本の茶道は『もてなし』と『しつらい(飾り付け)』の美学だと言える。「亭主」は、まず露地という庭園を整え、茶室の中に,掛物や水指、茶碗、釜などを用意して、演出の準備をする。日本の風土が育ったんできた結晶がそこにある。そして「亭主」ち客の間に通う人間的なぬくもりがある。

3. 酒文化について

3.1 中国酒と日本酒

中国人は食べ物の味についてはあれほどうるさいにもかかわらず、酒の味についてはおおざっぱなのではないであろうか。中華料理の奥の深さに比べると中国の酒は種類も少ないし製造法についての研究も行き届いていない。参考までに中国の酒は大きくいって白酒と老酒に分かれる。色で分類するのはいかにも即物的ですが「白」は白色ではなく無色透明の意で蒸留酒のことである。有名なものには「マオタイ酒」(53度)をはじめ「五粮液」(60度)「汾酒」(50~60度)などが有名である。
黄酒は醸造酒でコハクいろからきた名前であろう。これは老酒とも言う。よく熟成したという意味から来たものであろう。なんといっても紹興酒(13~18度)が有名である。黄酒は地域的には長江以南が多いようである。しかし、その味については実に大ざっぱである。そこに行くと日本料理では「酒の肴」として魚をナマとか、塩焼きとか、煮て食べるとなると、味は淡白ですから肴の相棒をつとめる酒となるとどうしてもソフトな日本酒となる。それも甘口、辛口といった分け方のほかに、デリケートな味の違いのある地酒が色々とあるようである。酒の味わい方はフランス料理に対するワインの関係と大変似ているのではないであろう。

3.2 宴会で飲酒文化の相違

出来ないと思われる。
日本人の場合は、どうもこれと正反対のようである。飲んでも羽目を外さない人は「腹を割って話合ってくれない」とか「つき合いが悪い」「薄気味悪い」などという理由で評価が下がるようである。そして醜態をさらした人間の方が何となく信頼出来ると評価されるようである。
第三のタブーは「宴会中国人は料理についてはグルメだとしても酒の味に関する限り日本人やフランス人の足元にも遠く及ばないのではないであろうか。味については今まで述べたとおりであるが、この酒の飲む礼儀が中国と日本では違う様である。中国の宴会には大きく言って三のタブーがある。第一のタブーは「マイペースで飲んではいけない」ということである。手酌などはご法度である。飲む場合には必ず誰かと乾杯をしなければならない。目と目を見交わせながら飲むのが中国流の宴会の基本である。日本人の乾杯は宴会の始まるときだけで、あとは皆自分勝手に飲むようである。ところが中国人は必ず誰かを誘って一緒に飲む。例えば、十二人でテーブルを囲んだ場合、その日のホストが杯をあげて「さあ、皆さん、今日は本当によくいらっしゃいました。乾杯」とやる。
「乾杯」とは日本人のように杯をあげて適量飲むことではなく、文字通り杯を乾かしてしまう事を言う。だから一滴も残らないように全部乾かしてしまわなければならない。最も理想的なのは全員と乾杯するという方法である。自分の右隣の人から一人ずつ乾杯して全員と酌み交すことである。当然のことながら、全員が「人数分マイナス1」の回数だけ乾杯することになる。なるべく全員が同量の酒を飲むと言うのが中国流の宴会の重要な作法である。しかし、こうやって酒を酌み交わしていても、絶対にやってはいけないことがある。それが第二のタブー「絶対に酔っ払ってはいけません」である。
中国人の宴会では、とにかくありとあらゆる口実を使って酒を飲まされる。しかし、どれだけ酒を飲まされても酔った様子を表に出してはならない。宴会が終わるまでシャンとしてはならない。すなわち、たとえ酒の場であっても絶対に緊張をくずさず、最後まで崩れない人こそが、中国の社会では尊敬されるのである。だから、うっかり気を緩めて泥酔でもしようものなら二度と宴会に呼ばれないようなる。日本人からすれば信じられないことかもしれないが、宴会の場に於いて酔うような人間は信頼でまじめな話をしてはならない」ということである。特に政治向きの話などはもってのほかである。同じようなことは欧米のパーティーでも言われるようであるが、中国の場合とかなりニュアンスが違う。
欧米の場合は思想信条が違う人がいると議論になってしまい、白けるから政治の話や宗教の話はしない方が良いという意味のようである。だが中国の場合、もし政治批判の話が飛び出した場合、それを聞かれた方は窮地に陥ってしまう。中国人は言質を取られるのを極端に怖れる。他人から攻撃されたとき、言質を取られていると逃げ道がなくなるからである。だから中国人はなるべく面倒なことになりそうな話は避けたがる。ところが宴会の場で、酔った勢いで政治批判の発言をした人間は勿論弱みを握られるわけであるが、それを黙って聞いていたと言うのも同罪と見なされるのが中国社会の常識なのである。黙っているのは賛成の証拠だろうと言われるからである。かと言って反論を仕掛けるのもおろかしいことで反論をすればその発音によってまた言質を取られることになる。だから宴会の席に置いては絶対に政治の話をしてはいけないのである。小声で隣りの人と話をするのは何にか企みごとをしているのではないかと疑われるし、無礼なことだと思われる。馬鹿話を大きな声でしなければならない。
日本人からすればこんな宴会のどこが楽しいのかと思うであろう。中国人だって楽しくて飲んでいるのではない。宴会とは娯楽ではなく自分がいかにしっかりした立派な人間であるかを証明するための、ある意味に於いては「戦の場」なのである。だから絶対に酔ってはならない、我慢競争に勝ち続けることが、中国社会では尊敬される条件なのである。つまり中国人にとっての宴会とは、もう一つのビジネスなのである。来る日も来る日もパーティーに出つづけ、そこで酔いを見せることなく帰ることによって、他人の信頼を勝ち得ていく。これが中国社会の付き合い方なのである。何度も同じ人に宴会で会いその人物が酔わずにしかもいつもたわいのない話をしている姿を見て「なるはど、この人は一緒に仕事をしても安心だ」と判断するのである。だから中国人の社会において宴会に呼ばれなくなるというのは社会的な死を意味することである。あいつは羽目を外す、だらしのない奴だという烙印が押されると言うことなのである。まとめてみると、中国人の酒文化は日本人のように日本料理を楽しむ或いは引き立てるために飲むものではなく、宴会を通じて自分を信頼させるために飲むものである。中国料理を楽しむ或いは生かすためのものではないという事なのである。