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若者が集う繁華街というイメージの強い渋谷に城があったという。意外だ。もっとも、天守閣があるものものしい要塞とは違い、のような質素なものだったそうだ。

涉谷,一条年轻人熙攘聚集的繁华街,给人留下深刻印象。然而出乎意料的是,这里曾有座城。不过涉谷城是座如贵族公馆一般的朴素建筑,与拥有天守阁的庄严城池不同。

平安時代末に当時の武将、河崎基家と源義家が創建した八幡宮。その一帯に基家の息子の重家が築城した。重家は、京都の御所に侵入した賊を捕らえた褒美に天皇から渋谷の姓をもらった。だから城の名は渋谷城。

平安时代末期,当时的武将河崎基家和源义家建立八幡宫,基家之子重家在其附近筑城。重家捕拿了进犯京都御所的贼人,天皇对此褒奖,赐予他“涉谷”一姓。因此城名叫“涉谷城”。

「城の名が、渋谷の地名の由来とされているんですよ」。金王八幡宮の宮司さんが教えてくれた。しかし残念なことに、渋谷城は16世紀の北条氏と上杉氏の合戦の際、焼き払われてしまった。渋谷城の跡は、の石が境内に残っているだけだ。

“涉谷的地名来自城池的名字”,金王八幡宫宫司介绍说。不过遗憾的是,涉谷城16世纪在北条氏与上杉氏的合战中被烧毁殆尽。其城迹仅剩下八幡宫内的城寨垒石。

さて、重家の息子、金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱で武功を立てた。しかし、続く平治の乱で義朝は敗走中無残な最期を遂げる。

且说,在保元之乱中,重家之子、时年17岁的金王丸跟随源义朝建功立业。然而义朝在平治之乱中惨败,死于非命。

金王丸は、出家し土佐坊昌俊と名乗り、義朝の霊を弔った。その後、義朝の子の頼朝に、「義経を討て」と命令された金王丸は、断れずに討伐に行き、戦死した。その金王丸の逸話が有名になり、八幡宮はいつしか、金王八幡宮と呼ばれるようになったという。

金王丸皈依佛门,自号“土佐坊昌俊”,为义朝的灵魂祈冥福。之后义朝之子赖朝令金王丸“讨伐义经”,他毅然踏上征讨之路,战死沙场,其事迹名扬天下,不知何时起,八幡宫就称作“金王八幡宫”了。

 

金王八幡宮の現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定した際、家光の乳母の春日局と教育役の青山忠俊らが建てたもの。社殿の真正面に立つ赤い立派な神門は、通称「赤門」と呼ばれる。渋谷の街を歩いている若者の中でこうした歴史を知っている人っているのかしら? と「赤門」を眺めながら思った。

金王八幡宫目前的神殿,由家光的乳母春日局和监护人青山忠俊建造于德川家光被定为三代将军之时。社殿正中央伫立的一扇恢宏的红色神门通称作“赤门”。我眺望“赤门”思忖着,那些漫步于涉谷街道的年轻人中,可还有人知晓这段历史?

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