山脇東洋(1705~1762) 

朝廷の侍医だった東洋は、古来から伝わる中国の身体観「五臓六腑」説に疑問を抱いていた。宝暦4年(1754)のある日、死刑囚の腑分け(解剖)に立会い、この観察に基づいて、宝暦9年(1759)に日本初の人体解剖書『蔵志』を発刊、解剖図4葉を掲載した。これから、日本の医学は人体の構造に着目し始める。安永元年(1772)には、古河藩医河口信任が解剖書『解屍編』を刊行した。

山胁东洋(1705-1762)

原为朝廷侍医的东洋对自古相传的中国人体学说“五脏六腑说”怀有疑问。宝历4年(1745)的某天,他观摩了对死刑犯的解剖,以这次观摩为基础,宝历9年(1759)东洋发表了日本首部人体解剖书《脏志》,登载了四张解剖图。自此,日本的医学开始着眼于人体构造。安永元年(1772),古河藩医河口信任刊行了《解尸编》。

杉田玄白(1733~1817) 

やはり中国の医学書を見て、東洋人と西洋人の人体構造の記述の違いに疑問を抱いていた、小浜藩医杉田玄白と中津藩医前野良沢も、明和8年(1771)小塚原での解剖に立会い、現場でオランダの医学書『ターヘルアナトミア』に描かれた解剖図を実物と照らし合わせてみて、その記述の正確さに驚かされた。西洋の実証主義に啓発された玄白らは、『ターヘルアナトミア』の翻訳を決意。苦労のすえ、足掛け4年の歳月をかけ安永3年(1774)に翻訳本『解体新書』5巻を刊行し、医学界に大きな影響を与えた。文政9年(1826)には、玄白の弟子大槻玄沢が、改訂版『重訂解体新書』13巻を刊行した。

杉田玄白(1733-1817)

与东洋一样,小滨藩医杉田玄白读了中国的医学书籍,对东方人与西方人针对人体构造的不同说法持怀疑,他与中津藩医前野良泽观摩了明和8年(1771)在小冢原进行的一次解剖,他们在现场将荷兰医书《Tafel Anatomie》中所绘的解剖图与现场人体对照,为其记录的精准而惊叹。受西方实证主义的启发,玄白决心翻译《Tafel Anatomie》(德国人古鲁姆斯著)。一番艰辛,历经4载,安永3年(1774),译著《解体新书》5卷本出版,给医学界极大影响。文政9年(1826),玄白的弟子大槻玄泽又出版了修订版《重订解体新书》13卷。

華岡青洲(1760~1835) 

漢方とオランダ外科学を学んだ紀伊の華岡青洲は、文化元年(1804年)麻酔による外科手術を決意、世界初の全身麻酔による乳癌摘出手術に成功した。青洲は、通仙散と呼ばれる6種類の生薬からなる独自の経口麻酔剤を開発し、これを使用。東洋医学と西洋医学を融合させ、独創的な業績を残した。文政6年(1823)に医師シーボルトが来日し、新しい西洋医学が伝えられると、医学はさらに発展していく。

华冈青洲(1770-1835)
文化元年(1804),兼习汉医与荷兰外科学的纪伊藩华冈青洲决定用麻醉进行外科手术,他采用全身麻醉成功摘除了乳腺癌,属世界首例。青洲还研发、采用由六种生药组合而成的独家口服麻醉剂,称之为“通仙散”(仔细看过《仁医》的童鞋一定对这个有印象哦)。他融合东方医学与西方医学,留下独具一格的成就。文政6年(1823),西博尔德医生来日,全新的西方医学传播开来,医学又继续向前迈步。

江户时代的其他著名医生(小编补充):

前野良泽(1723-1803)

丰前中津藩医生,46岁时学习荷兰语,与杉田玄白一起翻译《解体新书》。

桥本宗吉(1763-1836)

大阪兰学家,在大阪行医并教授荷兰语,制作过摩擦起电器,翻译有摩擦起电器制作技术的相关著作。

伊东玄朴(1800--1871)

肥前藩医生,向德国人学习西方医学,在江户开业行医。曾建议肥前藩主锅岛直正订购牛痘疫苗,并且接种成功。

高野长英(1804-1850)

陆奥兰学家,在长崎向德国人学习医术后往江户行医,批判幕府炮击美国船只被判终身监禁,越狱后在追捕中自杀。

绪方洪庵(1809-1862)

备中兰学家,著有日本最早病理学著作《病学通论》,还为牛痘接种的普及做出了贡献,1838年在大阪开塾,教授兰学,门下人才辈出,包括有“日本伏尔泰”之称的福泽谕吉。

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