事態の悪化
こうして起こってしまったのが「石田三成襲撃事件」でした。これは文字通り、加藤清正らの有力武将が三成を襲い、殺そうとしたという事件です。内実はどうあれ、三成も清正らも、同じ政権に属する者同士です。それが実力で殺し合いを始めてしまったのですから、これは大変な事件でした。三成はどうにか助かったのですが、この助けた人間というのがなんと対立者の徳川家康でしたから、なお始末の悪いことになりました。家康の政権内での立場はますます強まり、逆に三成は一時的な失脚状態に陥ってしまったからです。

事态的恶化

就这样发生了“石田三成袭击事件”。如文字所言,也就是加藤清正等有力武将袭击三成、欲将其杀害的事件。不管内情如何,三成也好清正也好,都是同一个政权的同僚。他们动起兵来窝里斗就是一件极为严重的事。结果更糟糕,三成虽然总算是捡了一命,而救了三成的人竟然正是对手德川家康。家康在政权内越发一手遮天,三成反而暂时陷入下野的状况中。

もうひとつ起こった大事件は、徳川家康による「加賀征伐」です。加賀といえば豊臣政権の要ともいうべき前田氏の本拠。利家の死後は息子の利長が後を継いでいましたが、その利長らが、あろうことか家康の暗殺を計画していたという話が持ち上がったのです。これに怒った家康は加賀への出兵を準備します。

接下来又发生了一件大事,德川家康的“加贺征伐”。说起加贺,也就是被称作丰臣政权骨干的前田氏的大本营。利家死后,子利长承继其业,然而,竟有流言称利长等人策划了暗杀家康的计划。家康对此大为震怒,准备对加贺用兵。

結果を言いますと、利長が母親を人質として差し出すという態度に出たことで、実際の戦はすんでのところで回避されます。しかしながら、この事件によって前田氏は家康に屈した形になってしまいました。なお、現在ではこの「家康暗殺計画」は家康サイドによるでっち上げという説が有力です。これらの事件を通して家康は、政権内ではもはや逆らえるものがないというほどに自らの影響力を高めたのです。

结果是利长表示出愿将母亲作为人质交出的态度,避免了几乎交火的危机。然而因为这件事前田氏臣从于家康了。现在有可信说法认为,所谓的“家康暗杀计划”是由家康一方捏造出来的。通过这一系列事件,家康权倾朝野,几乎已没有能与之对抗的势力存在了。

德川家康

開戦~終結

関ヶ原の戦いに向けて事態が大きく動き出したのは、慶長5年のことでした。家康は五大老の一人で大大名である上杉景勝に対し、軍備増強を行っていることを理由に、豊臣政権への反意がないかということを訊ねるのです。これに対して上杉方は直江兼続の手になる書状を送り、逆に家康の専横糾弾します。この書状は「直江状」と呼ばれ、戦国ファンには非常に有名なのですが、偽書という説もあります。ただ、全てが嘘とも考えられず、上記のようなやりとりがあったこと自体は確かなようです。

开战~终结

庆长5年,发生了一件将事态进一步推向关原之战的事。家康以五大老之一的有力大名上杉景胜(当时有120万石)有整修武备之举为由,责问其是否心怀叛意。对此,上杉一方送来直江兼续所写的书函一封,信中反而谴责起家康的横暴来。这封书信称为“直江状”,在战国迷中是非常著名的,不过有说法提出这是伪书。然而也不能一概论其为伪,至少上述的书信来往本身是真实无误的。

こうして家康は、上杉方の本拠地である会津を攻めることを決意し、大坂城から出陣します。しかし、この家康不在の期間に石田三成が動きます。三成は反家康の大名らをとりまとめ、ついに挙兵したのです。三成立つ。進軍中の家康はこの報に接し、いかに動くかを諸将と相談します。これは「小山評定」と呼ばれ、やはり戦国ファンにはお馴染みでしょう。評定の日時は、慶長5年の7月25日とされています。

这样,家康决定攻打上杉家的大本营会津,从大阪城出兵。然而,三成就在家康离城期间活动起来了。他招集起反家康的大名门,最终举兵。三成奋然而起。正在行军途中的家康闻报,便与诸将商量如何行动。这就是“小山会议”,这也是战国迷烂熟的事吧。会议日期是庆长5年7月25日。

この評定は三成と戦うことで決定します。家康は会津への進軍を中断して反転しました。その後は、決戦に向けて日本中が動き出します。いくつかの前哨戦も戦われました。また、家康は各地の有力大名などに大量の書状を送り、自分に味方するよう根回しも行っています。そして、いよいよ家康の東軍と三成の西軍が激突したのが9月15日、美濃国関ヶ原においてです。戦闘中、三成の西軍は寝返りが続出して崩壊、家康の東軍が完勝して決着します。言うまでもなく、家康の事前の根回しが劇的に効いた結果でした。

这次会议决定了与三成作战。家康中止向会津的进军,回师折返。此后,整个日本都向着决战大步前行起来了。几次前哨战打响。家康又向各地的有力大名递送书函,周旋疏通让其加入己方。接下来,9月15日,终于到了家康的东军和三成的西军在美浓国的关原厮杀的日子了。战斗中,三成的西军接连出现叛徒,陷于瓦解,而家康的东军则取得了完胜。不用说,这正是家康在战前笼络人心收到戏剧性成效的结果。

红:关原之战中属东军的大名;绿:属西军的大名;黄:背叛西军投向东军的大名

随分駆け足であり、省略した部分も多いのですが、以上が関ヶ原の戦いの流れということになるでしょうか。こうしてみて見ると、秀吉死後に家康が横暴なふるまいを始めたことといい、上杉に質問を投げかけ、戦に持ち込んだことといい、全てが「天下分け目の決戦」実現に向けた家康の大戦略のように感じられます。いや、実際にそうであろうと言われています。経験豊かな軍人の側面と、神算鬼謀の政治家の側面。この両面が見事に合致した家康の真骨頂が、関ヶ原の戦いであったのでしょう。残念ながら、はじめから三成に勝ち目はなかったようにさえ感じられます。

这是个走马观花式的叙述,省掉的部分不少,不过以上内容也就是关原之战的来龙去脉了。看了这些,不由感到,秀吉死后家康开始为所欲为也好,因为质问上杉而带来了一场大战也罢,这一切都好像是家康为了实现“决定天下的决战”所作出的一个大战略。不对,事实上就是那么回事。他既有身为军人身经百战的一面,也有神机妙算的政治家一面。这两面完美地结合起来便是关原之战中家康的真面目。很可惜,甚至从一开始,三成就毫无胜算。

さて、ここまで「関ヶ原の戦い」のアウトラインをご紹介してきました。来月は「関ヶ原の戦い」後編として、さまざまな有名エピソードをご紹介します。

那么,“关原之战”的轮廓至此就介绍完毕了。下个月将在“关原之战”的后篇中介绍其它各种著名的轶闻。

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