有松の絞り

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名鉄の有松駅を降り狭い路地を抜ける。そこには駅前に開発されている大きなビルとは対象的に東海道の古い町並みが残っている。木綿絞りで有名な有松に行った時、駅の周辺地図を見て桶狭間古戦場の近くに来ていることを知った。 『過有松邨 邨民粥撮 縫為業村 東即桶峡』 江戸後期の儒学者頼山陽が有松の井桁屋で詠んだ漢詩。この頃から有松は縫い絞りの町として栄えていた。そして詩からも有松の東に位置する桶狭間は特別な地名として知られていたことが分かる。

在名铁的有松车站下车,穿过狭窄的小巷。东海道的古老街道就遗留在那,与车站边新修建的高楼大厦对比鲜明。以前我去以棉花扎染闻名的有松时,看到过车站周边的地图知道这里就在桶狭间古战场附近。“过有松邨 邨民粥撮 缝为业村 东即桶峡”这是江户后期的儒学者赖山阳吟咏有松井桁屋的汉诗。从这时开始,有松以缝线扎染的城镇负有盛名。这首诗中,位于有松以东的桶狭间以其特别的地名为人所知。

桶狭間古戦場

『東海道一の弓取り』と評された義元は駿河、遠江、三河を治める大大名。今川家は室町幕府を開いた足利家の支流で、足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐといわれるほどの名家である。義元は武田、北条と婚姻関係を結んで東の憂いを断つと、上洛するために京へ向けて進軍。京への通り道にある鳴海城、大高城、沓掛城を次々に攻略する。

被誉为“东海道一弓取”的义元是治理骏河、远江、三河的大名。今川家原是开创室町幕府足利家的支系,贵为名门,相传如果足利绝嗣由吉良继承,吉良绝嗣便由今川继承。义元与武田、北条缔结秦晋之盟,一扫东边之患,此时便为上洛而向京都进军。依次攻下位于上京途中的鸣海城、大高城、沓掛城。

織田信長と今川義元

さらに西へ向かうために沓掛城を出た義元は突然の豪雨に出会う。桶狭間で休憩することにした。そのころ善照寺砦を出た信長は、義元本隊の休息を察知。間髪いれずに雨に紛れて奇襲をかけた。油断している義元を信長軍の精鋭隊が襲う。降りしきる雨の中、毛利新助の一番槍が義元の首を討ち取った。これがよく知られている桶狭間の戦いの通説である。

为向西行进,义元离开沓掛城,忽逢暴雨,遂决定在桶狭间小憩。就在那时,出兵善照寺砦的信长探得义元主力休息的消息,立即间不容发地趁着大雨发动了奇袭。疏忽大意的义元遭到信长精锐部队的攻击,绵绵不绝的雨中,毛利新助首建头功取了义元项上人头。这是著名的桶狭间之战的一般说法。

義元の墓

今川義元戦死之地の石碑と義元の墓と伝えられるものの横には、ねずの枯れ木が立つ。義元が馬を繋いでいたという伝説があり、その枯木に触れると熱病にかかるという。無念の最期を遂げた義元の亡霊が氏蛍となって京へ向かって飛ぶともいい伝えられている。

在今川义元之墓和今川战死之地的石碑一旁,耸立着一棵枯槁的杜松。传说义元在此系马,碰上这课枯树便会染热病。另外还相传死时懊悔万分的义元,其亡灵化作氏萤飞往京都。

義元公首洗いの泉

義元が休息の折りに水を汲み暑さをしのがれたという今川義元公水汲みの泉(義元公首洗いの泉)。首を断たれた後にその首を洗い清めるのに使ったというが、それにしては石が新しい。戦場公園を作る際に伝説が作られたのだろう。

相传义元休憩时曾舀水祛暑,泉水即称今川义元公舀水泉。他被斩首后泉水又被用于清洗首级,不过石头毫无沧桑感,大概这个传说是在建战场公园时被人杜撰出来的吧。

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