きょうとあす、左義長(さぎちょう)(日本正月15日举行焚烧新年装饰物的驱邪仪式)の火が各地で燃えることだろう。どんど(正月十五日焚烧门前所饰的松枝、稻草绳的仪式)焼き、とも呼ばれる小正月の祭事である。高く組んだ竹や木に、松飾りなどを結わえて焼く。火に神秘を見た往古の名残(留名后世,痕迹)か、その炎を「若火」とあがめる(崇拜)地方もある。


今日和明日,左义长的火焰应该在各地焚烧吧。这也被称为“どんど焼き”的小正月的祭事。将竹子、树木、松枝等绑住高高垒起来焚烧。不知是否遗留有古时对于火神秘的思想,有的地方将那个火焰称作“若火”而崇拜。

古人の畏怖(いふ)した火に、東京で野外教育のNPOを主宰する大西琢也さん(31)が魅せられて10年になる。マッチやライターを使わない「原始の火」を求め、きりもみ(捻钻)式の火起こし術を磨いてきた。

主持东京野外教育的NPO的大西冢先生着迷于古人所敬畏的火已经有10年了。他追求不使用火柴和打火机,钻研如何钻木取火。

地面に置いた木の板(火錐臼(ひきりうす)(钻木取火用的臼(台))に鉛筆よりやや太い棒(火錐杵(ひきりきね)(钻木取火的杵))あてがい(分配)、手のひらではさんで、押しつけるように回す。続けていると煙が出て、熱く焦げた木くずがたまってくる。ケシ粒のようなそれが「火の赤ちゃん」だ。

地板上放着木板,使用比铅笔稍微粗的木棒,用手掌夹着,不断地来回向下压。连续不断地重复这个动作,就有烟冒出。逐渐产生由于过热而烧焦的木屑。似明似灭的那些微利被称为“火孩子”。

それで成功、ではない。放っておけば種火はすぐに消える。「赤ちゃん」を麻の繊維でくるみ(包裹)、指でつまんで大きく腕を回す。こうすることで中に空気を送り込む。すると麻玉はぽっと燃えあがる。炎の誕生である。

这样还没有成功。若将其放置于一边,种火很快就熄灭了。将“火孩子”包裹在麻纤维中,用手指捏着,手腕不断地摇摆。通过这样往里面送空气。不久,麻纤维就一下子燃烧起来。火焰诞生了。

力まかせでは火はつかない。大西さんは失敗を重ね、謙虚になった。「木には火が隠れている。人間はそれをいただくだけ」。「起こす」のではなく「いただく」のだと悟ると、不思議に上達した。3年前には空気の薄い富士山頂でも成功した。

仅仅通过力气是无法生火的。大西先生在不断失败中变得谦虚。“木中隐藏着火。人类将其享用。”这种不是“起火”而是“享用”的不可思议的觉悟。3年前在空气稀薄的富士山顶也成功地燃起火了。

「燃す」という随筆を、幸田文はかつて朝日新聞に寄せた。庭で紙くずや枯れ葉を燃やしながら、その熱いとおしみ(疼爱)、「ものの最後の力だと思うと、その火を惜しまずにはいられない」とつづった。「最後の力」で餅や団子を焼いて食べ、一年の無病息災を願う左義長もある。

幸田文曾在朝日新闻中有个名为“燃烧”的随笔。在庭院燃烧纸张、枯叶,特别喜爱那些热量,说道“我认为这是一个事物最后的力量,不由得就珍惜起这堆火。”也有种通过“最后的力量”烧熟饼和团子食用,从而祈愿一年无病无灾的左义长。