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日语文学作品赏析《池》
大学
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日语文学作品赏析《新生》
)に住む小使の家の窓は無かった。岸本はその門を入って一筋の径(みち)を上って行って見た。チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。そのかわりに新しい別の建築物があった。その建築物の裏側へ行って見た。そこに旧い記憶のある百日紅(さるすべり)の樹を見つけた。岸本が外国の書籍に親しみ初めたのも、外国の文学や宗教を知り初めたのも、海の外というものを若い心に想像し初めたのも皆その岡の上であった。しばらく彼は新しい講堂の周囲(まわり)を歩き廻った。彼はこの旧い馴染の土を踏んで、別れを告げて行こうとしたばかりではなかった。彼には遠い異郷の客舎の方で書きかけの
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日语文学作品赏析《石》
土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります。島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。今でも絵はがきで見ますと、其の当時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で残つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆ど石から出来上つて居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立つて居るかなり高い山の頂上には――それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない――実に何とも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合つて、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの耶馬渓よりも、と称せられて居る寒霞渓を、其の岩石を、懐深く大切に愛撫して居ることを――。 私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのであります。而も岩石であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。 話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の怪、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません。否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ッころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか。いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益□意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至つてはどうでせう。雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。 私は屡□、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころを産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云ったやうなものがあります。その道の方では、これをくろたまと云って居ります。ですから、木と同様、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな……とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑気に遊んで居る時はよいのですが、一度吾々の手にかゝつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思つて、三寸から四寸位も削りとつて見るのですが、中はもうボロ/\で、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまつて居るのですな、結局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々軽くなつて居るかも知れませんな……とか、かう云つたやうな話は、ザラに聞く事が出来るのであります。石よ、石よ、どんな小さな石ツころでも生きてピンピンして居る。その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。 庵は町の一番とつぱしの、一寸小高い処に立つて居りまして、海からやつて来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります。庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます。そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此の辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。そして、どれも、これも皆勿体ない程立派な石塔であります。申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです。そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります。墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆ど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません。只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります。地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、わたしのなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを――。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《祭》
毎年春と秋と一度ずつ先祖祭をするのがわが家の例である。今年の秋祭はわが帰省中にとの両親の考えで少し繰り上げて八月某日にする事ときめてあったが、数日来のしけで御供物肴がないため三日延びた。その朝は早々起きて物置の二階から祭壇を下ろし煤(すす)を払い雑巾(ぞうきん)をかけて壇を組みたてようとすると、さて板がそりかえっていてなかなか思うようにならぬのをようやくたたき込む。その間に父上は戸棚から三宝(さんぼう)をいくつも取下ろして一々布巾(ふきん)で清めておられる。いや随分乱暴な鼠の糞(ふん)じゃ。つつみ紙もところどころ食い破られた跡がある。ここに黄ばんだしみのあるのも鼠のいたずらじゃないかしらんなど独語を云いながら我も手伝うておおかた三宝の清めも済む。取散らした包紙の黴臭(かびくさ)いのは奥の間の縁へほうり出して一ぺん掃除をする。置所から色々の供物(くもつ)を入れた叺(かます)を持ってくる。父上はこれに一々水引(みずひき)をかけ綺麗にはしを揃えて、さて一々青い紙と白い紙とをしいた三宝へのせる。あたりは赤と白との水引の屑が茄子(なす)の茎人蔘(にんじん)の葉の中にちらばっている。奥の間から祭壇を持って来て床の中央へ三壇にすえ、神棚から御厨子(みずし)を下ろし塵を清めて一番高い処へ安置し、御扉をあけて前へ神鏡を立てる。左右にはゆうを掛けた榊台(さかきだい)一対。次の壇へ御洗米と塩とを純白な皿へ盛ったのが御焼物の鯛をはさんで正しく並べられる。一番大きな下の壇へは色々な供物の三宝が並べられる。先ず裏の畑の茄子冬瓜(とうが)小豆(あずき)人参里芋を始め、井戸脇の葡萄塀の上の棗(なつめ)、隣から貰うた梨。それから朝市の大きな西瓜(すいか)、こいつはごろごろして台へ載りにくかったのをようやくのせると、神様へ尻を向けているのは不都合じゃと云い出してまた据え直す。こんな事でとうとう昼飯になった。食事がすんでそこらを片付けるうち風呂がわいたから父上から順々にいってからだを清める。風呂から出て奥の間へ行くと一同の着替えがそろえてある。着なれぬ絹の袴のキュー/\となるのを着て座敷へ出た。日影が縁へ半分ほど差しこんで顔がほて/\するのは風呂に入ったせいであろう。姉上が数々の子供をつれて来る。一同座敷の片側へ一列にならんで順々拝が始まる。自分も縁側へ出て新しく水を入れた手水鉢(ちょうずばち)で手洗い口すすいで霊前にぬかずき、わが名を申上げて拍手(かしわで)を打つと花瓶の檜扇(ひおうぎ)の花びらが落ちて葡萄の上にとまった。いちばん御拝(ごはい)の長かったは母上で、いちばん神様の御気に召したかと思われるはせいちゃんのであった。一順すむと祭壇の菓子を下げて子供等に頂かせる。我も一度はこの御頂きをうれしがった事を思い出してその頃の我なつかしく、端坐したまう父母の鬢(びん)の毛の白いのが見えるも心細いような気がする。子供等は何か無性に面白がって餅を握りながらバタバタと縁側を追い廻る、小さいのは父上の膝で口鬚(くちひげ)をひっぱる。顔をしかめながら父上も笑えば皆々笑う。涼しい風が吹いて来て榊のゆうがサラサラと鳴り、檜扇がまた散った。そのうちに膳が出て来て一同その前にすわる。「どうですかせいちゃんは、神様の前で御膝を出して。ソレ御つゆがこぼれますよ」と云う一方では年かさの姪が小さいのにオッキイ御口をさせている。夕日が向うの岡にかくれて床が薄暗くなったから御神燈をつけ御てらしを上げた。榊の影が大きく壁にうつって茄子や葡萄が美しくかがやいた。父上のいくさの話が出て子供等が急におとなしくなったと思うたら、小さいのとせいちゃんは姉上の膝の上ではや寝てしまった。姉上等がかえると御てらしが消えて御神燈の灯がバチバチと鳴る。座敷がしんとして庭では轡虫(くつわむし)が鳴き出した。居間の時計がねむそうに十時をうったから一通り霊前を片付けて床に入った。座敷で鼠が物をかじる音がするから見に行ったら、床の真中に鏡が薄くくらがりの中に淋しく光っていた。 (明治三十二年十一月『ホトトギス』) 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《因果》
俳優(やくしゃ)というものは、如何(どう)いうものか、こういう談(はなし)を沢山に持っている、これも或(ある)俳優(やくしゃ)が実見(じっけん)した談(はなし)だ。 今から最早(もう)十数年前(すねんぜん)、その俳優(やくしゃ)が、地方を巡業して、加賀(かが)の金沢市(かなざわし)で暫時(しばらく)逗留(とうりゅう)して、其地(そこ)で芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優(やくしゃ)が泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが、何時(いつ)しかその俳優(やくしゃ)と娘との間には、浅からぬ関係を生じたのである、ところが俳優(やくしゃ)も旅の身故(ゆえ)、娘と種々(いろいろ)名残を惜(おし)んで、やがて、己(おのれ)は金沢を出発して、その後(のち)もまた旅から旅へと廻っていたのだ、しかしその後(のち)に彼はその娘の消息を少しも知らなかったそうだが、それから余程月日が経ってから、その話を聞いて、始めて非常に驚怖(きょうふ)したとの事である。娘は終(つい)にその俳優(やくしゃ)の胤(たね)を宿して、女の子を産んだそうだが、何分(なにぶん)にも、甚(はなは)だしい難産であったので、三日目にはその生れた子も死に、娘もその後(のち)産後の日立(ひだち)が悪(わ)るかったので、これも日ならずして後(あと)から同じく死んでしまったとの事だ。こんな事のあったとは、彼は夢にも知らなかった、相変らず旅廻りをしながら、不図(ふと)或(ある)宿屋へ着くと、婢女(じょちゅう)が、二枚の座蒲団を出したり、お膳を二人前据(す)えたりなどするので「己(おれ)一人だよ」と注意をすると、婢女(じょちゅう)は妙な顔をして、「お連様(つれさま)は」というのであった、彼も頗(すこぶ)る不思議だとは思ったが、ただそれくらいのことに止(と)まって、別に変った事も無かったので、格別気にも止めずに、やがて諸国の巡業を終えて、久振(ひさしぶり)で東京に帰った、すると彼は間もなく、周旋する人があって、彼は芽出度(めでた)く女房を娶(もら)った。ところが或(ある)日若夫婦二人揃(そろい)で、さる料理店へ飯を食いに行くと、またそこの婢女(じょちゅう)が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘(まま)冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦(す)れ寄(よ)りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処(そこ)に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石(さすが)に慄然(ぞっ)としたそうだが、幸(さいわい)に女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが、就中(なかんずく)胆(きも)を冷したというのは、或(ある)夏の夜のこと、夫婦が寝ぞべりながら、二人して茶の間で、都(みやこ)新聞の三面小説を読んでいると、その小説の挿絵が、呀(アッ)という間に、例の死霊が善光寺(ぜんこうじ)に詣(まい)る絵と変って、その途端、女房はキャッと叫んだ、見るとその黒髪を彼方(うしろ)へ引張(ひっぱ)られる様なので、女房は右の手を差伸(さしのば)して、自分の髪を抑えたが、その儘(まま)其処(そこ)へ気絶して仆(たお)れた。見ると右の手の親指がキュッと内の方へ屈(まが)っている、やがて皆(みんな)して、漸(ようや)くに蘇生をさしたそうだが、こんな恐ろしい目には始めて出会ったと物語って、後(あと)でいうには、これは決して怨霊とか、何とかいう様な所謂(いわゆる)口惜(くや)しみの念ではなく、ただ私に娘がその死を知らしたいが為(た)めだったろうと、附加(つけくわ)えていたのであった。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《家》
ある日、婦人ばかりといつてよい招待の席で、小林一三氏が、吉屋信子さんの新築の家を絶讃された。 ――私は、隨分澤山好い家を見てゐるが、その私が褒めるのだから、實際好い家なのだ。たいがいの家は、茶室好みか、もしくは待合式なのかだか、吉屋さんの家はいかにも女性の主人で外國の好いところも充分にとり入れてあると、いはれた。そして、そのよさのわかるものが、お仲間にはあるまいと―― 吉屋さんの隣りに、その座でたつた一人の、そのお仲間代表のわたくし、なでふ、褒めるにおいて人後におちんや、ではあるが、まだ見ぬ家のことなり、我等のグループとは違つた四邊の空氣なので、友達の家の褒められたことだけを甘受してゐた。 家といへば、震災前までは東京の下町住宅には、よい好みの各階級、好きさまざまの良い家が澤山あつた。もとより洋風もとりいれてない、近代建築でないのは知れてゐるが、待合といふものの發展しない時代ではあり、賢實な市民の住宅で、しかも京阪風をも取り入れた、江戸といふサツパリしたところもある良い家が多かつた。根岸、深川、向嶋、日本橋の(濱町河岸)花屋敷、京橋、築地といつたふうに、それ/″\の好みがすこしづつ違つてゐたやうだつた。わたくしの父などでも、家の何處へか格子を一本入れようと思ふとき、散歩してくるのに、今日は花屋敷の方面のを諸方(はうぼ)見て來た、好いのがあるなあ、といつてゐたものだつた。 それはさておき、わたくしの言ひたいのはそんな事などではないので、畫壇の人と文壇の人との住宅觀について、根本的異つたものを感じてゐたことであつた。わたくしは此處では、日本畫家のことを多くさしていつてゐるのであるが、仕事場を、おなじく家庭に持つ職業でありなながら[#「ありなながら」はママ]、畫家は、家の建築、庭石のおきかたまで自分の美術、自分の畫に描く趣味と個性を、思ふままに現し、樂しみ滿足しようとする強い慾望を見る。畫よりも建設的である文學の方の人には、家のことなどかまつてゐられるか、その暇に讀み思索するといつた、めんどくさがりやが多いやうに思はれた。よき書齋は誰しもほしいと思ふが、本をたつぷりおけて、靜に、居日心地がよければそれでよいといふていどで、好事家のすけないことである。 と、いつても、これは自分だけの推測で間違つてゐないとはいへない。もとより、國が大きくなるのに、昔通りに文人は――清廉は結構だが――貧乏であるのを看板にすることはないし、立派な書齋や家をもつ人が、多く出來る方がよいのはきまつてゐる。收入の當不當は別の問題で、畫人の中にだとて贅澤のいへるものは、幾人と數へられる人達であらう。 ふと、そんなことを思つたといふのも、去年「塔影」といふ繪の雜誌で、京都に建つ榊原紫峰氏の新築の、庭木や、石や、木口の好みの、思ふがままに、實に素晴しいものが、易易と、實に神業のやうにうまく調ひ、しかもその豪華さが、奧ゆかしいまで目立たずに、自然らしく、組みたてられてゆくやうな話に、わたくしは、自分のものでもないのに、自分のもの以上な、樂しみと悦びを感じて、未知な方ではあるが、京都へゆくことがあれば、その新築を、ぜひ見せて頂かうと自分勝手に樂しんでゐたからで、いかにも豐富といふこと――この世にも、こんな好いことがあるのかと心樂しく思はせられたからだつた。 その話といふのは、市區改正に追れた榊原畫伯が、紫野大徳寺孤蓬庵の隣地を敷地に選んだことからはじまる。紫野といふ土地からして好いなあと思つた。もとから好きなところだつたが、先年、大徳寺塔中(たつちう)聚光院に一夜を御厄介になつてから、樹々にわたる風を、齒にしみるやうに思ひ出す土地だ。その敷地へ移す庭木といふのが、百萬遍のお寺の西側が、これも市區改正なので、椋の巨木何十本かが、薪屋に捨賣にされるところを、七本手に入れる。しかもこの椋の木、何百年かの星霜をへて一抱へも二抱へもあつて木振りよく、巨木移植法にも成功して植つけると、大徳寺境内の欝蒼たる森につづいて、どこがどこか、けじめのつかぬ幽邃な廣々とした庭になつたといふ。 そこで、庭石も、それに釣りあはねばならぬ。鞍馬石をきらつて、北山あたりを探すと、奇特な石山の持主あらはれ、我山の石ならどれでももつてゆけ、代價は入らぬ、汝の繪をよこせ、もつていつた石の繪を描いてよこせばよしといふので、落葉を掻きのけると、地べただと思つたほど、平な大きな石、十二三尺もあらうかといふ理想的靴脱石をめつける。それよりさき立派な、黄手(きで)の鞍馬石をもらつてゐるのだが、それは、グツと埋(い)けこんで、中庭の玄關にでもまはさうとある。 そこで、建築材料木材は、紀州熊野の奧から出て來る人が引きうけて、それほどの豫算では見る影もない借家建だと、はじめ、首をひねりはしたが、その人の腹づもりはすぐ出來てしまつて、木の國生れの人が、丹波に飛び、江州(おほみ)に行き、草鞋がけで山の杉の立木を買ふ。材木は揃つた、見に來ぬか、と行つてよこす時分には、大工がもう木組みをしてくれてゐる。 この材木だけ見ても唯の家ではないといふ、それだけの木組みをして、豫算の金には手がついてゐないといふのは、山を買つて伐りだし、製材所で柱や板にした中からよい材をえらみ、あとは材木屋へ賣つて、よいものがただ手に殘つたのだとある。 疊の敷いてある坪數より、板張りの方が廣い位の設計、廊下を澤山とつて、縁側を、廣いところでは一丈からあるといふ。悉くが、わたくしが夢に思つてゐるやうな家だ。 木目のない、ハギのない、木理(きめ)の細かく通つた一枚板の、すつと通つた廊下。 夕暮の色が、その上に漂よふとき、椋の葉はカラカラと風にさやぎ、一面の大きな平石は、うつすらと水を吹いてゐるであらう。その時、わたしは燈籠に灯の點るのを思ふ。民家でありながら、稀れに見る、すつきりと崇高な日本式の粹であると感じる。 その渺々たる空想のなかに、美しき女(ひと)が、黄昏を蹈んでゆくその面影をさへ、踵をさへ思ひうかべるのであつた。 ――十三年六月・文藝春秋―― 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《犬》
日立つ筈だからね」 その犬の悲鳴する声は、甲板の下のハツチのあたりから絶えずきこえて来た。小さな箱の中に入れられて、鉄の棒の間から鼻を出したり口を出したりして、頻りに心細がつて鳴いてゐるのであつた。 「Hさん、何処に行くんですか?」 Mが訊いた。 「赤峰(せきはう)にやられてね」 「赤峰――それは大変ですね? それで奥さんも一緒ですか?」 「さうだよ」 「それは大変だ――」 「でもな、あゝいふ人達はさういふところから階段を経なくてはならないからね? まア一二年仕方がないさ――」 「それでも奥さんがえらいですな。まだ若いのに、赤峰つていへば北京(ぺきん)から十日もかゝるつていふぢやありませんか?」 「でもな、細君でも一緒につれて行かなければ、一月だつてあんなところにゐられやせんからね」 「それはさうですな。それにあの奥さん子供はないし、美しいし、置いて行くわけにも行かないでせうからな」 Bは黙つて聞いてゐたが、しかもさうした会話の中(うち)に若い美しい細君を発見せずにはゐられなかつた。Bは一種ロマンチツクな情緒を感じた。 Bは海を眺め、煙突から湧き上る煙を見、遠く港外に漂つてゐるジヤンクの帆を見廻したりなどしてゐたが、しかも間もなく桟橋から船へとのぼつて来るその夫妻の姿を見落しはしなかつた。それに、今日の船旅では、尠(すくな)くともその人達が一番多く見送人を集めてゐたので、その周囲にはいろいろな色彩が巴渦(うづ)を巻いて、裾模様がチラチラしたり、ダイアの指環がかゞやいたり、派手な水色のパラソルに日影が照つたり、出帆の時刻が近づいて行くにつれて、談話が囁きに、囁きが歔欷(きよき)に、次第に別離の光景をそのあたりに描き出すやうになつて行つた。 若い細君は軽快な洋装に水色ボンネツトをつけて、宝石の首飾をあたりに見せてゐたが、ふと此方(こつち)を振向いた顔には、美しい眉と整正(せいせい)な輪廓と大きい黒い眼とがかゞやいた。やがてT氏の紹介でBはH夫妻と挨拶を取り交はしたりなどした。 T氏もMも、H夫妻を見送りに来た人達も皆な桟橋の方へと下りて行つた。やがて汽船は出帆した。岸でも船でも長い間互ひに手巾(ハンケチ)を振つてゐたが、それもいつか遠く小さくなつて行つた。 Bの船室から右舷の方へと出て行くところに、ひとり立つてじつと海を眺めてゐる若い美しい女――それは一目で狭斜(けふしや)の人であるといふことがわかつたが、さつきBが夫妻を見た時には、その女が送つて来てゐる待合のお上(かみ)らしい年増とさびしさうにして何かこそこそ話してゐるのが眼に着いたが、(天津(てんしん)にでも鞍替するのかな)と思つたが、今またその白い頬とさびしい眼とがわるくBの体に迫つて来るのを感じた。Bはその傍(かたはら)をそつと掠めるやうにして向うの方へと行つた。 Bにはさういふ人達のことが何も彼もはつきりとわかるやうな気がした。つかんでもつかんでもつるりと抜けて行つて了ふやうな男の心、浮気な男の心、それは女の方でも破れた草鞋(わらぢ)でも捨てるやうに惜しげもなしに捨てゝ捨てゝ来てはゐるけれども、しかも何うかして、その男の心を一つはつかまずにはゐられないために、さうした女達はかうして遠く海を渡つて行くのではないか。不知案内(ふちあんない)のさびしい海をもひとりさびしくわたつて行くのではないか。(それから思ふと、何んなに遠いところでも、どんなに不知案内の砂漠の中でも、ひとつの男の心をしつかりとつかんで、それに縋つて、何処までも何処までも行かうとするH夫人の方が何れだけ幸福だらうか。同じさびしさにしても何れだけ力強いさびしさであらうか――)Bはじつと夕暮近い海を眺めた。 幸ひに航路は穏かで、心配した濃霧もかゝらずに茫(ばう)と静かに海は暮れて行つたけれども、しかもさびしさは遂に遂にBを離れなかつた。Bは波濤の舷側に当る音を耳にしながら、長く寝床(ベツト)の上に身を横(よこた)へた。 そのすぐ向うには、社用で天津に行かうとしてゐるまだ若い三十二三になつたかならないくらゐの会社員のKが雑誌を持つて坐つてゐた。 Kは雑誌を爪(つま)さぐりながら、頷(あご)で向うを指し示して、 「そこに立つてゐましたらう?」 「あ、女ですか?」 「さうです……あれは大連(たいれん)でも売(う)れ妓(こ)でしたんですがね?」 「御存じですか?」 「え、二