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細川忠興の妻ガラシャ(おたま)は「関が原の戦い」の直前、豊臣方の石田三成が豊臣家に縁のある大名を味方につけようとして、その妻子を大阪城内に移そうとした。その際、徳川家康に従って上杉征伐に出陣している夫・忠興の命でなければ行動できないと三成の命令を拒み、キリシタンで自害できない彼女は火が放たれた屋敷で、家来の振りかざす白刃の下で果てた。享年37歳。一本気な彼女らしい壮烈な最期だ。その最期の言葉が「ちりぬべき時知りてこそ世の中の、花は花なれ人は人なれ の辞世だ。

关原之战前,丰臣方的武将石田三成为了笼络与丰臣家有旧交的大名,强行要将他们的妻子留在大阪城内。此时,细川忠兴的妻子加拉夏(明智玉)以丈夫跟随德川家康参加讨伐上杉的战争,未得其许可无法听命为由,拒绝了三成的命令,身为基督教徒的她视自杀为禁忌,于是在大火弥漫的宅邸中,由家臣挥刀结束了生命。她最后的辞世句是:“深知难免凋零那天  世上花才需更艳 人才需更美”。

ちょっと妙に思われるのは、彼女はガラシャという洗礼名を持つクリスチャンだ。その彼女が日本風の辞世を詠んで死を迎えたことだ。当時の彼女は朝夕のお祈りなど精神的にはクリスチャンとしての生活を送っていたと思われるのに、最後は“日本の武士の妻”として波乱万丈の生涯を全うしたのだ。そのことが後世の人の、細川ガラシャに対する哀憐の情をさらに深めていることは言うまでもない。 

比较奇怪的是,她自己是一个拥有“加拉夏”这一洗礼名的基督教徒,却在死前吟诵了日本式的辞世句。尽管她朝夕祈祷,在精神上过着基督教徒的生活,最终还是作为“日本武士的妻子”圆满结束了起伏的一生。正是这一点,更加深了后人对细川加拉夏的哀悯之情。

細川ガラシャ(おたま)は明智光秀の三女。生没年1563~1600。織田信長の仲介による政略結婚。美男美女で夫婦仲は大変よかった。ところが、1582年6月、父・光秀が主君信長を本能寺で討って、事態は急変。夫・忠興が光秀を見捨てて秀吉側についたため、当時のおたまは形の上で離縁され、丹波山中に幽閉された。父の叛乱のショックと、この山中での瞑想生活がキリスト教入信の契機になったと思われる。二年後、信長に代わって天下を統一した秀吉に許され復縁、夫婦として再スタートした。

细川加拉夏是明智光秀的三女儿。生卒年是1563年-1600年。她与细川忠兴的婚姻是在织田信长主持下的政略结婚。两人皆为美男美女,夫妻关系十分融洽。然而,1582年6月,父亲光秀在本能寺讨伐了主君信长,事态由此出现转变。丈夫忠兴没有理会光秀,跟随了秀吉方,因此在形式上与明智玉离婚,将她幽禁在丹波山中。父亲叛乱的打击、及山中的冥想生活成为了她信仰基督教的契机。2年后,在取代信长统一天下的秀吉允许下,夫妇两人再度复婚。

1587年、洗礼を受けてガラシャの霊名を受けた。ただ、忠興は嫉妬心が異常に強く、ガラシャは教会への礼拝さえ思うに任せなかったらしい。ざっくばらんに言えば二人はしょっちゅう火花を散らすようなケンカをしていた。当時の大名家の夫婦としては極めて珍しい、ある意味で近代的な感じの夫婦だったのかもしれない。文献によると、ガラシャ(おたま)は容貌の美しさは比べるものなく、精神活発にして鋭く、決断力に富み、心情高尚、才智抜きんずる-とあり、誇り高く、冒しがたい気品のある女性だった。

1587年,明智玉接受洗礼,得到了“加拉夏”的洗礼名。不过相传细川忠兴的嫉妒心异常强烈,加拉夏甚至无法自由地去教会参加礼拜。坦率来说,两人还经常会激烈地争吵。这在当时大名夫妇中是非常罕见的,或许从某种意义上说,他们是一对颇有近代感觉的夫妇吧。根据文献记载,加拉夏(明智玉)容貌无与伦比,性格活波聪明,富有决断力,并且人格高尚,才智过人,正是一位自尊心很强、不可冒犯的高洁女性。

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