3 武士の登場

武士がいつ登場したかは、史料から見て、具体的時間も載っていない。「武士」という言葉自体は、最初は、奈良時代の史料にも見えるので、「武士」は奈良時代に登場したという立場が多いの史学家に承認された。本文もこの立場を取ろうと思う。

3.1 桓武平氏の勢力が関東地方での台頭

桓武平氏というのは桓武天皇の孫が臣籍降下する際に与えられたのが始まりである。最初の平氏であった桓武平氏の祖である桓武天皇が建設した平安京と名づけたとするものである。桓武天皇のひ孫・高望王を祖とする「桓武平氏」に注目して、高望王は平という姓を得て平高望となり、東国(足柄峠より東の地域)の上総国の国司=上総介として赴任する。
9~10世紀の東国は治安が悪化していた。桓武天皇の対蝦夷戦争の後、律令国家の支配に入った蝦夷の一部が東国などに送られて住んでいたが、彼らはしばしば反乱を起こしていた。また、徒党を組んだ盗賊の蜂起なども相次いでいた。こうした状況だったため、東国の国司には、武芸に秀でた軍事貴族が任命されることが多かったようだ。
高望自身がどの程度軍事的素養を持っていたかはよく分かっていなかったが、子どもが鎮守府将軍に任じられているので、それなりの軍事的素養を身につけていたと考えられる。それを武器に、治安の悪い東国の国司に任命されたわけだ。
そして地方豪族と婚姻関係を結んだりして、任期が終わった後も都に戻らずに、その土地に住み着いた。高望の子どもたちも東国の各地に土地を持ち、やがては国司に任命されるなど、東国に勢力を広めていた。

3.2 承平・天慶の乱

高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は武家平氏の盤踞地であった。そのうち、平将門は国司には任命されていた。
将門は、「承平・天慶の乱」の主役の1人で、最初は都に出て摂関家に仕えていました。しかし、父親が急死したために、東国に帰って、現在の茨城県西部を本拠地とし、やがて国家に対する大きな反乱を起こすことになるのだ。
それでは「将門の乱」についてみている。都から東国に戻った平将門は、935年以降、同じ桓武平氏一族である伯父や従兄弟たちと争いを繰り返していた。その原因は、結婚を巡る争いとも領地を巡る争いとも言われているが、はっきりとは分かっていなかった。
こうした争いの一方で、将門は、武蔵国や常陸国で起きた紛争の仲裁を行なったりもしていた。
このころ国司の権限が強まったため、税の取り立てなどをめぐって郡司や地方豪族との対立が生まれていたのだ。
939(天慶二)年、将門は常陸国司と対立した地方豪族から助けを求められ、仲裁に入る。しかし、この話し合いはまとまらず、将門はついには常陸国府を襲撃することになってしまった。その後、下野、上野など周辺の国府を次々と襲い、将門の勢力は関東の8か国に拡大する。
将門は自ら「新皇」と称し、弟などを国司に任命。いわば、独立国を作り上げた。将門反乱の知らせを受けた中央政府は、翌天慶三年、軍隊を送ることを決めた。さらに関東各地の豪族に対して、貴族の位を与えることを条件に、将門追討を呼びかけたのだ。
この呼びかけに応えた将門の従兄弟・平貞盛や、下野の豪族・藤原秀郷らによって、将門は倒されました。将門討伐に功績のあった藤原秀郷と平貞盛は、貴族の位を与えられました。その子孫は、「兵」として一目置かれる存在となり、都であるいは地方で、勢力を増していくことになる。
将門の乱を解決した後、軍事貴族を起用して、「兵」は武士へと成長していく。一部は、内乱後もそのまま現地に土着して、領主化する。将門のように、軍事力を背景に地方のもめごとの調停をしたり、国衙の役人になったりしながら、人々を使って土地を開発するわけだ。また一部は都に戻り、摂関家などの有力者に近づいて勢力を伸ばしていく。摂関家の身辺警護をしたり、検非違使など軍事警察部門に勤めたりした。またあるいは受領などになり、そこで得た富でさらに摂関家への奉仕を行なったりして実力を蓄えていく者もいた。また、軍事貴族だけでなく、彼らの周りにいて彼らと関係を持った人々の中からも武士が出てきたと考えられている。

3.3 清和源氏の勃興

こうして武士が力をつけていく中、特に「武士の棟梁」として頭角を現わしていったのが、平氏と源氏です。源氏は、清和天皇の子孫から始まったと言われる。源氏といえば、「東北地方の戦乱」と関わりがある。源頼義・義家の親子は東北地方へと勢力を拡大しようとし、その始めとなったのが、「前九年合戦」だった。
前九年合戦は、1051年、東北の陸奥国・奥六郡を舞台として始まった。奥六郡とは、現在の岩手県中部の内陸に置かれていた6つの郡のことだ。そのころ、奥六郡では、安倍氏という豪族が勢力を持っていた。この安倍氏が勢力を伸ばし、奥六郡より南にまで進出したために陸奥の国司と対立したことが、戦乱の発端でした。始めの戦いでは安倍氏が勝利するが、中央政府が源頼義を陸奥の守に任命して派遣すると、安倍氏は頼義に服従し、いったんは平和が戻った。
ところが、頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年、再び戦いが始まってしまう。これは、頼義が、奥六郡に対する支配力を手に入れようとしてしかけたものだとも言われている。戦いは、安倍氏が優勢のうちに進んでいった。しかし、出羽豪族・清源氏が頼義の援軍についたことで、形勢は逆転。1062年、安倍氏は滅ぼされたのだ。
当時の東北は、金、馬、矢羽に使う鷲の羽など豊かな物資の産地で、また津軽奥地や北海道との交易を通して、昆布、熊や海の動物の毛皮などが手に入った。源頼義も、おそらくそうした物資を狙ったのだろう。
清源氏は、本拠地だった出羽に加えて、安倍氏が治めていた奥六郡も支配し、後には鎮守府将軍という官職にも任命された。
この清源氏一族の内紛が、後三年合戦だ。清源氏の当主・真衡と、その弟・清衡・家衡が対立する。さらに、その争いに介入したのが、源頼義の子で陸奥守となっていた源義家だった。戦いは、真衡が急死したことによっていったんは収まったが、今度は清衡と家衡が、領地の分け方や清源氏当主の地位を巡って対立する。そして、源義家とともに戦った清衡が家衡を倒し、東北の支配権を手にした。