(本文节选自笈川幸司老师自传,接上篇:《笈川乐谱诞生》

「これまで6位に入賞したことがないので、ぜひ3等賞を目指して頑張ってください!」

“至今为止没有进入过前六名,所以一定要以三等奖为目标好好加油!”

清華大学に来て、すぐに新しい仕事が舞い込んできた。2ヵ月後にスピーチ大会があり、その指導をしてくれと依頼されたのだ。経験はなかったが、「任せてください!」と即答した。

我来到清华大学后,马上就有新的任务了。两个月后的演讲比赛,学校让我负责指导。虽然我没有丝毫的经验,我还是一口答应了。

自信がないときに日本では、「ちょっと考えさせてください」と返事をし、断わる準備をする。しかし、中国でそんなことをやってはダメだ。

在日本,人们在没有自信的时候常说“让我考虑一下”来拒绝。但是在中国却不行。

いつも貴重なアドバイスをくれるおばさんの話によると、どんなときでも、「絶対にできます」と引き受けることが大事で、少しぐらい遅れても大丈夫だという。どうしてもできないときは、そのときになってはじめて「できませんでした」といえば良いそうだ。文化の違いというか、習慣の違いというか、ここは中国。日本人のやり方は通用しない。言われるままにやってみた。

一直以来给我很多忠告的阿姨告诉我,无论在什么时候,认为“我一定可以”,然后接受任务是非常重要的,即使迟点也没关系。无论如何都不行的话,到了那个情况再说“我不行”就可以了。这是文化的差异还是习惯的差异呢,这里是中国。日本人的做法是不能通用的。于是我照着说的尝试去做了。

清華大学主催、第3回北京市大学一年生日本語スピーチコンテスト、開催!

由清华大学主办的第三届北京市大学一年级日语演讲比赛正式举行。

さあ、スピーチ指導初体験だ!その日、生まれて初めて中国人の日本語スピーチを見た。衝撃的な3分間スピーチを披露してくれたのは、龔さんという名の女子学生。感想を言えば、壊れたおもちゃのスピーカーのようで、うるさいやら耳が痛いやらで、3分後には頭痛がした。同僚のひとりがこっちにお辞儀をしながら、「ご愁傷さまです」と言い放った。

这是我第一次进行演讲比赛的指导。那天,第一次看了中国人的演讲比赛。带给我3分钟冲击性演讲的是一名姓龚的女生。谈到感想,我觉得就像坏掉了的玩具扩音器,很吵,耳朵感到很疼。3分钟后我开始头痛。我的一名同事一边向我鞠躬,一边说着“真是万分同情”。

しかし、僕には勝算があった。なぜなら、数日前に「楽譜」を完成させていたからだ。「楽譜」があれば、中国人も日本人と同じ発音でスピーチができる。あとは彼女に発表の機会を山ほど創れば良い。おばさんからのアドバイスをすぐ実行に移せる人はきっと僕しかいない、そう思った。

但是我还是有胜算的。因为我在数日前以前完成了“乐谱”的创作。只要有了“乐谱”,中国人可以用和日本人相同的发音来演讲。接着就是为她创造无数的发言机会了。我想恐怕只有我才能将阿姨给我忠告立即付诸行动吧。

それからは、一日一回留学生宿舎へ出向き、僕は「日本人のみなさーん、どうぞ3分間だけ時間をくださーい。よろしくお願いしまーす」と声を張り上げた。すると、10人くらいの日本人留学生がぞろぞろと集まってきて、龔さんは毎日彼らの前でスピーチを披露した。

自那以后,我每天去一次留学生宿舍。我大声地说道:“各位日本人,麻烦给我3分钟的时间,拜托了。”于是,十来个日本人留学生聚集过来,我让小龚每天都在他们的面前进行演讲。

ピーチが終わると、留学生ひとりひとりに問題点を指摘してもらった。彼女はそれを聞いて、ひとつひとつノートに書き込み、日が暮れると寮へ帰って自分で練習していた。

演讲完了之后,我让留学生们一个一个指出问题。小龚听了之后,逐一记录在笔记本上,等到天黑了回到宿舍自己再练习。

ある日曜日の朝、龔さんを草野球の試合に誘った。試合終了後、両軍合わせて5、60人の日本人の前でスピーチをしてもらうためだ。大勢の前でスピーチをすれば、本番で緊張することはないだろう。スピーチの目的は皆を喜ばせること、皆を勇気付けること。彼女のスピーチを見て、日本人部員たちは驚き、みな「俺も頑張ろう!」という気持ちになった。

某一个星期天的早上,我邀请小龚去看业余棒球比赛。我想让她在比赛结束之后,在两队加起来有五、六十日本人的面前进行演讲比赛。在很多人面前练习演讲的话,到了正式比赛的时候大概就不会紧张了吧。演讲的目的是让大家欢乐,带给大家勇气。听了她的演讲,日本人队员们感到很吃惊,大家都变得更有勇气了。

さあ、本番当日。ほとんどの出場者は緊張のあまり、セリフを忘れるやら途中でやめてしまうやらで、上手なスピーチができなかった。それに引き換え龔さんは堂々としていた。それもそのはず。大勢の日本人の前で、何十回もリハーサルしてきたからだ。テーマスピーチも即興スピーチも、ほぼ完璧だった。

终于到了正式比赛的那一天。大部分的选手由于过于紧张,有的忘词有的中途退出,都不能很好地进行演讲。相反,小龚表现得很棒。那也是在情理之中的,因为在众多日本人的面前进行了十多次的演讲练习。命题演讲和即兴演讲都近乎完美。

結果発表がずいぶん遅れた。

最终结果很久才公布。

実は、ある男子学生と龔さんが同点で一位だったのだ。しかし、控え室に集まった審査員たちがもめにもめていた。その男子学生の日本語がうますぎて一年生には思えなかったというのが理由らしい。

实际上,有一名男生与小龚得分相同,并列第一。但是评委们在等候室里议论纷纷。理由据说是那名男生的日语非常好,让人无法相信他是大一的学生。

後からわかったことだが、彼は日本に10年以上滞在していた帰国子女で、この大会に出場する資格がなかった。審査員たちは、彼を控え室に連れてきて白状させようと話していた。

我后面才知道,他是在日本待了十年的归国子女,没有参赛的资格。评委们把他带到等候室,想让他说出实情。

その時、馮峰主任が言った。「その男子学生をここに連れてきてどうする?彼の人生をめちゃくちゃにする気か?私が主催者だ。彼を優勝、龔さんを2位にする。以上。皆さん、席に戻ってください!」

那个时候,冯峰主任说道:“把那个男生带到这里干什么,想毁灭他的人生吗?我是主办方。他是优胜者,小龚第二名,就这样定了。大家请回到座位上。”

中国のコンテストでは、優勝者は決まって主催校の学生だと言われている。しかし、馮先生のような人がいることをひとりでも多くの人に知ってもらいたい。馮先生が、そのとき格別格好良く見えた。

据说中国的比赛,优胜者经常是主办学校的学生。但是我想让更多的人知道还有像冯老师那样的人。那时的冯老师在我看来是非常的有风度。

僕のスピーチ指導初体験は、残念ながらそのような形で終わった。しかし、二ヶ月間の特訓を経て、コンテストにおいては一年生が帰国子女と同点だったことで、結果こそ手にできなかったが、自信を深めることはできた。

我的演讲指导初体验以这样的方式告终,有些遗憾。但是通过两个月的特训,在演讲比赛中能取得与归国子女一样的分数,虽然没有取得骄人的成果,但是却大大地增加了我的自信。

その後、龔さんは全国スピーチ大会2位、全国卒業論文コンクールで1位になるなど、清華大学では伝説の先輩になっていく。そして現在、東京大学の博士コースで比較文学を研究している。

在那之后,小龚取得了全国演讲比赛第二名,全国毕业论文比赛一等奖等成绩,成为了清华大学的传奇人物。现在,她在读东京大学的博士课程研究比较文学。

上篇:《笈川乐谱诞生》

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