(本文节选自笈川幸司老师自传,接上篇:《清华人》

2002年2月。僕は清華人になった…。

2002年2月,我成了清华人……

民間大学での最後の授業、僕はみんなに言った。「来学期から、清華大学の先生になります。だけど、みんな、ときどき連絡をください!」と。すると、全員が顔面蒼白となり、空気が止まった。しばらくすると、何人かが怒鳴り出し、何人かが泣き出した。何の心づもりもしてこなかった僕は慌て、「ごめん、みんな」と頭を下げた。

在民营大学的最后一堂课上,我对大家说道:“下学期开始我就去清华大学当老师了。不过,大家也要时常保持联系!”说完,大家脸色发白,空气凝固了。一阵之后,有好多人怒吼起来,还有好多人哭了起来。我对此毫无心理准备,慌着赔礼说:“对不住大家了。”

最悪の空気を残し、僕は急ぎ早にバスに乗り込んだ。いつものように教え子たちがバスを取り囲んでくれたが、風景はいつものものとは違っていた。みんな、窓ガラスを叩いて泣いていた。

扔下这极度尴尬的氛围,我赶紧乘上了巴士。一直以来学生们都会围着巴士送我,可今天的情景却与平常不同,大家敲着窗玻璃痛哭着。

それから2年後、たまたま町で会った教え子のひとりが教えてくれた。その夜、ラジオ番組に一曲リクエストしたと。

那之后2年,我偶尔在街上碰到当时的一个学生,他告诉我那天晚上,大家在广播节目上为我点了一首歌。

「笈川先生が私たちの学校に来てくれた日、両親に電話しました。そして、神様がプレゼントをくれたから嫌いな勉強も頑張ると約束しました。今、日本語も話せるようになりました。でも、笈川先生が今日、私たちの学校をやめると言いました。先生、私たちのことを忘れないでください。お元気で。」

“笈川老师到我们学校那天,我给父母打了电话,约定说如果老师是神送来的礼物,那自己再不喜欢也会好好学习。现在我也能说日语了,但是,今天笈川老师说要离开我们学校。老师,请别忘了我们,老师保重。”

リクエスト曲を聞きながら、みんな肩を寄り添って泣いていたという。

听着点播的歌,据说大家相互倚靠着哭了。

2002年2月。僕はそんなことがあったとも知らず、清華人になった。民間大学でひとつひとつ大事に積み上げてきた信頼をおいて、ゼロから再スタートを切ることに した。正門に足を踏み入れたときは足も体も心も重かったのを覚えている。体がフラフラになって今にも倒れそうだった。

2002年2月,我在对此毫不知情的情况下成了清华人。我决定抛舍在民营大学一步一步用心走来积聚的信任,再次从零开始。踏入正门时脚步、身体和内心的沉重感我至今记忆犹新。身体晃晃悠悠的仿佛马上就要倒下去了。

清華大学に来て最初に仲良くなったのは王燕准教授だ。今の僕は耳が聞こえ、口さえ動けば、学生たちの発音を矯正することで一生社会に貢献することができると 思っている。このような特殊技術を身につけさせてくれたのは、すべて彼女のお陰だ。どんな声もどんな発音もできる。彼女の英語を聞けばアメリカ人、日本語を聞けばNHKのアナウンサー。いわゆる、語学の天才という人に僕は生まれて初めて会った。

到清华大学后最先要好的是王燕准教授。我自认现在只要耳朵听着并动动嘴,纠正学生的发音就能一生为社会做贡献,我能掌握这种特殊技能全是托她的福。不管什么声音怎样发音都会,听她说英语就觉得是美国人,听她说日语还以为是NHK的播音员。就是说我有生以来第一次遇到了所谓的语言天才。

当時、毎晩8時になるときまってベルが鳴り、受話器をとると彼女の明るい声が聞こえてきた。

当时,每晚一到8点电话铃声就会响起,拿起听筒就听到她响亮的声音。

「あの、教科書を朗読しますから、おかしな発音をなおしていただけませんか」

“我要朗读教科书了,如果有发音不对的请纠正”

半年間休みなく、彼女への発音指導が続いた。毎晩最低40分、長いときは3,4時間。それを聞くと、「すごいですね!」と僕のほうが褒められそうだが、実際にすごいのは彼女の根気。僕はただ黙って聞いていて、たまにうとうとしていた。(笑)

我连续半年一直在指导她的发音。每晚最少40分钟,久的时候3、4小时。听到她的发音,我都不由得想赞赏“真厉害啊!”但是最厉害的还是她的毅力。我只是默默听着,有时听得睡意朦胧(笑)。

僕が中国に来る前、腹話術のプロ・いっこく堂さんに憧れていた。たまに彼を真似、口を閉じたまま話すことがある。実は、そこには日本語の発音を正す秘密が隠されている。日本人とまったく同じアクセントで話しても、日本人の日本語とは思えない、おかしな発音がある。そういうのも瞬時になおすことができるように なっていった。

我来中国前很崇拜腹语术大师一刻堂(音译)。偶尔会模仿他闭着嘴说话。其实这里面正隐藏着纠正日语发音的秘密。即使发音的声调跟日本人完全相同,可还是会让人觉得不像日本人说的日语、发音奇怪的地方。当时我也开始立刻纠正这种情况的发音。

僕はひらめいた。直感だから根拠がどこにあるか説明できない。しかし発音指導を、途中から本腰をいれるようになった。なぜなら、何か特別なことをマスターできるような気がしたからだ。

我突然妙计上心头。毕竟是直觉,要说根据实在说不清。不过对发音指导我中途开始认真起来了。为什么呢?因为我觉得仿佛参透了某种特殊诀窍。

半年後、王先生の日本語を聞いた日本人はみな、彼女に留学経験がないという事実を知って驚くようになった。そして、今からちょうど10年ほど前、劇的に発音 がよくなる「笈川楽譜」を作り出すこととなる。この楽譜は、教え子たちにきれいな発音で日本語を話してもらいたいという純粋な思い、アツイ気持ち、そして執念が生んだものだ。ちなみに、楽譜を韓国人の先生たちに見せたところ、韓国人学習者にも役立つと言われた。

半年后,听到王老师说日语的日本人听说她没有日本留学的经历都很震惊。距今刚好10年前,我制作出了快速纠正发音的《笈川乐谱》。该乐谱从能让学生说日语时正确发音的纯粹想法出发,带着炽热的感情以及执着而生。顺带一提,我把乐谱给韩国老师看过后,那老师说这对韩国学生也有帮助。

笈川幸司小乐谱:日语发音秘决>>

僕が尊敬する人に斎藤一人さんという方がいる。彼は、「今やっている仕事が忙しいから、天職を見つけられない。どうすれば良いか」という悩みに対してこう言った。「今やっている仕事が天職だよ。仕事というのは呼ばれるものなんだ。仕事に呼ばれて、それを一生懸命にやると、自然と天職になっていく」と。

我尊敬的人里有一个叫斋藤一人的。“现在的工作很忙,找不到我的天职,该怎么办呢?”对于这种烦恼,他如此回答:“现在的工作就是我的天职。所谓工作只是个叫法,工作需要你,而你拼命努力去做,那工作自然就成天职了。”

本来なら面倒臭いはずの発音矯正を、僕は真剣にやった。それで、誰よりも上手に発音指導ができるようになった。おまけに「楽譜」まで開発することができた。別に国の機関から研究費をもらったわけではない。それにこの「楽譜」で儲けるつもりもない。

对于原本很麻烦的发音矫正,我认真的去做了,因此我比谁都更长于发音指导。甚至还开发出了“乐谱”这玩意儿。我并没有收到某国机构的研究费,也无意靠这个“乐谱”赚钱。

仕事に呼ばれ、それを真面目にやった結果生まれた「楽譜」。将来、中国人学習者だけでなく、世界中の日本語学習者たちの目に留まり、大切にしてもらえるなら、それは、この上ない幸せだ…。

“乐谱”的诞生是因为工作需要我,我也认真去做了。将来,如果乐谱能不仅仅帮助中国学生,也能对全世界的日语学生有帮助,并且受到重视的话,实在是没有比这更幸福的了。

上篇:《清华人》

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