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季羨林師をしのぶ

数年前の北京大学。第13校舎。

季羨林先生の助手がわざわざ車を手配して迎えを寄こしてくれた。さらに季先生は校舎でお待ちしてますと告げてくれたとき、非常に申し訳なく思った。

私の訪問は彼の執筆と急速のじゃまになるのではないだろうか。この心配はあったが、次の話を聞いたとき、とても不思議で驚いた。

「小さい頃のことは、今でもありありと目に浮かびます。毎日私の目の前にあらわれ、目の前で動きます。毎日すべて見えるんですよ」

季先生はにこにこと笑いかけ、毛君が変わっていないので、一目で分かりましたよと言って下さった。

思い起こせば、20数年前北京大学を卒業するとき、季先生から数巻がセットになった先生の学術文集をいただいた。その当時、私の哲学を論じたある論文が、季先生の興味を引いたことがあり、ずっと今日までとてもはっきりと記憶している。そして私にとっては先生の仏教経典を解釈した著作は、私が浄土思想を研究するうえでの基礎となった。これら季先生の思いやりを私は仏家の縁とみなしてきた。時には心の中で先生に「南無阿弥陀仏」と願掛けしたりもした。

季先生はこれを聞くと、笑いながら言った。

「私は俗人ですよ。出世もできないし、かといって仙人にもなれません。人の世で、私は懐旧の文章を書くのは、ただ真心の感動から出ているのであって、更に多くの欲求はありません」

言い終えると、一匹の老猫が一筋の白煙のようにするりと部屋に入ってきて、敏捷に先生の肩にのぼった。気取ったような目つきでじっと私を見つめている。季先生は言った。

「老猫は世事をわきまえています。死ぬのだって後の人を煩わせたりしません。昔猫を飼っていたとき、老いて、もうだめになっても、家の中では死にませんでした。人目を忍ぶように出ていき、ひっそりと死んで行きます。私は外に出て探しました。小山の上や、池のそば、岩のすきままで。でもどんなに探しても見つかりませんでした。それから私は猫がひっそりと死んでいくのは、人に探させないためなのではと思うようになりました。こうすれば葬式を出さなくてもいいし、弔辞を読む必要もない。猫は本当に見上げたものですね」

この時、雪のように白い老猫が季先生の肩からすべりおりた。まるで何かの感応を得たように、身動きせず、異常なまでの静けさに変わっていた。しかし、眼差しは柔和で、まるで流水のようだった。先生が続けて言った。

「若い頃というのは、文章を書けば大半が文字の修飾に頼って色を付けます。しかし、老年に到ると、文字の修飾というのは煩わしいものになります。というのは、老人の感情というのは真実で、豊富で、いかなる潤色も必要としませんから。この猫についての議論もこの年になって初めて出てきたものです。長生きするほどに力が涌き、長生きするほどに細やかになってきているので。」

助手の話によると、先生は眼病を患い、もうあまりたくさん本を読めないそうだ。それでも毎日助手が読んでくれるのを聞き、なおかつ学術研究に従事し続けている。季先生との二時間近い談話が終わったとき、先生が私の手をしっかりと握り、校舎の外の正門まで送って下さった。先生の手の中に、私ははっきりと暖かな流れを感じた。そして、その流れは今も私の心を温めてくれている。

季羨林 1911年山東省生まれ、2009年7月11日北京で死去。享年98歳。 現代中国を代表する国学者・仏教研究者。北京大学名誉教授。

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