ことばの誤用には、いくつかのパターンがある。似かよった表現を混同したり、混合した表現として使ったりする「混交表現」。意味を取り違えて使う「誤用」。発音を誤って使うものなどが代表である。

词语的误用有几种模式。具代表性的有,混淆意思相近的表达或混合使用造成的“表达混淆”,搞错词语意思的“误用”,以及发音错误等。

「耳ざわり」も誤用とされる一つだ。

“耳ざわり”也是误用的一种。

騒音耳障りだ」「耳障りなことばを聞いた」など「障り」の字を当てるのが普通であり、「耳になじまない、気に障る」という意味で使うのは問題がない。これに対して、「耳ざわりのよい音楽」「耳ざわりのよいことをいう」などは「耳触り」の字を当て「肌触り」などと同じように「よしあし」で表現する人が増えてきた。

诸如“騒音が耳障りだ(噪音刺耳)”、“耳障りなことばを聞いた(听了刺耳的话)”等句中常用“障り”,可用于表达“听着不顺耳,让人不爽”的意思。与之相对,诸如“耳ざわりのよい音楽(听起来让人觉得舒服的音乐)”、“耳ざわりのよいことを言う(听起来让人心情愉快的话)”等句中用“耳触り”,跟“肌触り(触感)”一样用“好坏”来表现的人不断增加。

「さわり」は文法の品詞でいうと「障り」のほうは形容動詞、「触り」は名詞ということになる。「目障り、耳障り、気障り」は形容動詞、「肌触り、舌触り、手触り、歯触り」は名詞である。

“さわり”在语法上属于品词,写成“障り”是形容动词,写成“触り”是名词。“目障り、耳障り、気障り(碍眼,刺耳,讨厌)”是形容动词,“肌触り、舌触り、手触り、歯触り(触感,口感,手感,齿感)”是名词。

一部の辞書では「耳触り」を認めているものもあるが(三省堂『国語辞典』第5版・『大辞林』第2版)、俗用であるとしている辞書もある(『新明解国語辞典』第6版)。編集者の見解の違いだが、「耳触り」を取り入れるとするなら、おかしなことに気づく。

部分辞典承认“耳触り”(三省堂《国语辞典》第5版、《大辞林》第2版),还有辞典将其作为俗用(《新明解国语辞典》第6版)。这是不同编辑看法的差异,但有人觉得收录“耳触り”会很荒谬。

「触り」のほうは、手で触れたり、食物を口の中で味わったりという「物理的接触」が共通である。これに対して「障り」のほうは感覚的なものであり、物理的な接触は要件ではない。一方で、情操教育として、こどもに豊かな芸術を体験させる重要性が叫ばれ、「美しい音楽や絵画に触れさせることが大切だ」ということも言われている。体験として「触れさせる」が拡張され、視聴覚についても「触れる」が使えるような雰囲気になってることもあろう。

“触り”的共同点是用手触摸或在口内品尝食物等“物理接触”,而“障り”则是感觉上的,物理接触并非必要条件。另外,情操教育中强调让孩子体验丰富艺术的重要性,还说“让孩子接触优美的音乐和绘画很重要”。作为体验去“接触”的做法扩大,在视觉和听觉方面也形成了通过“触摸”来体验的环境氛围!

また、以前では考えられなかった大きな音を体験することも増えてきた。ジェット機の騒音や、コンサートの電気的増幅による音の洪水も日常茶飯事だ。このような大音量はまさに「耳に刺さる」「圧迫される」といった触覚的な作用がありそうだ。

此外我们现在能体验更多以前难以想象的巨大声响。喷气式飞机的噪音,演唱会上通过电波增幅的声波也成了家常便饭。如此大音量似乎确实给人“刺耳、受压迫”等触觉感受吧!

「耳触り」を認めるかどうか、社会状況や生活の変化に伴う、ことばの変化と見て考えざるを得ないのかもしれない。

是否接受“耳触り”,也只能随着社会环境和生活的变化,将其作为语言的变迁来思考了。 

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