东海道

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古代から中世にかけて発展した東海道は、やがて国内で最も重要な幹線道路となっていきました。徳川家康は、豊臣政権下にあって関東地方を領土としているころ、すでに江戸~小田原間に宿を設定し、伝馬制度を整えていました。そして慶長五(1600)年の関ヶ原の役で実質上の天下統一を果たした家康は、慶長六(1601)年正月、改めて江戸~京都間の東海道の平均二里(約8km)ごとに宿を設定して伝馬朱印状と伝馬定書を下し、それぞれに伝馬36疋を常備させました。この制定の年(慶長六)が東海道の誕生とされ、2001年には400年を迎えます。

从古代到中世发展起来的东海道不久就成为了(日本)国内最为重要的干线大道。德川家康还处在丰臣政权治下领有关东地区时,就已经在江户和小田原之间设置了宿驿,整备了传马制度(即每隔一段距离设置24小时营业的宿场,使传送公文的差人得以在每个驿站休息住宿)。接下来在庆长5(1600)年的关原之战中实际上完成天下统一的家康于庆长6(1601)年正月,再次在江户至京都间的东海道上每隔2里(约8km)设一宿驿,颁下传马朱印状和传马定书(定书:江户时代以庶民为对象的法令),在每个驿站常备传马36匹。制定该制度的庆长6年被作为东海道诞生的年份,2001年时东海道迎来400年诞辰。

(东海道形成于奈良时代,江户时代五大官道(五街道ごがいどう)之一,自江户日本桥起,至京都三条大桥止)

いわゆる「東海道五十三次」とは、江戸日本橋を基点として第一番目の宿である品川宿から京都に至る最後の宿駅の大津宿までの53宿のこと。

平常说的“东海道五十三次”指的是从以江户日本桥为起点、第一个宿驿品川宿到京都的最后一个宿驿大津宿为止的53个宿驿。

(东海道上的宿驿分为大名使用的“本阵(ほんじん)”与普通人使用的一般驿站)

东海道五十三次・日本橋 朝の景

 

庶民の旅はじまる

慶長六(1601)年に整備がはじまった東海道は、徳川政権の安定によってしだいに軍事的役割の色が薄れ、17世紀を通じて東海道筋の治安は極めてよくなりました。庶民の生活にはゆとりが生まれ、元禄八年には大量の金銀貨が発行されて庶民の間にも通用するようになり、第一次東海道ブームが起こります。領主や主人の許可を得れば、時間があって金銭さえ持てれば、誰でも安全な旅を保証される時代が到来したのです。

庶民的旅游开始
于庆长6(1601)年开始整修的东海道随着德川政权的安定渐渐褪去了军事职能的色彩,整个17世纪,东海道路线的治安变得极为优良。庶民的生活有了闲暇,元禄8年时,大量金银货币被发行流通于世,逐渐通用于民间,第一次东海道热潮兴起来了。只要得到领主或主人的许可,加上有时间、金钱,任何人都被保证能够安全旅行的时代来临了。

(江户日本桥:东海道第1站,图上可见大名队列行进在桥上,鱼贩子经过桥头)

东海道五十三次・神奈川 台の景

一般の人々が旅に出かけようとするとき、「遊びに行く」では主人の許可がおりませんから、ほとんどが社寺参詣という宗教行為を旅の名目にしました。許されない場合は「抜け参り」と称して無断で旅に出ましたが、目的が参詣であるために帰ってから罰を受けることはなく、元の仕事に戻ることができました。さらに、東海道筋の人々も「抜け参り」の旅人に路銭を与えたり、食べ物を供したりして旅を支援しましたから、庶民の旅は社会のシステム上でも恵まれていたといえます。

普通人想要出门旅行时,若是“为闲游出行”是得不到主人同意的,因此大多数人是以参拜社寺这种宗教活动作为旅游借口。在未得允许的情况下就称作是“私自参拜”,擅自踏上旅途,因为目的是参拜,回来以后也不会受罚,还能重返原来的岗位。更甚的是,东海道路线上的人们也会给“私自参拜”的旅人路费,还供应食物来援助旅行,因此可以说,庶民的旅行也得益于社会系统。

(神奈川:东海道第4站,“台”即高台,此图描绘的是从高台向下俯瞰的景致:江户湾上穿行的渔船、坡道上鳞次栉比的茶馆、料理店,女招待正在拉客)

东海道五十三次・大磯 虎ケ雨

出版物の影響

東海道を旅した各時代の文化人たちは、遠い国の景色や人々のようすを絵画や書物にしたためました。元禄八(1695)年、菱川師宣は『東海道分間絵図』で東海道の地理を紹介し、浮世絵で華やかな三都を描いた『道中記』という旅行案内所も出版され第一次東海道ブームの火付け役となりました。

出版物的影响

旅行于东海道的各个时代的文人们将远国之景与众生之貌绘于画卷、记于书册。元禄8年(1695),菱川师宣以《东海道分间绘图》来介绍东海道的地理, 用浮世绘描绘三都盛景的《道中记》(道中记 どうちゅうき,即旅行指南,记载各个驿站。名胜的情况)这类旅行指南书也被出版发行,起到了在第一次东海道热上添柴加火的作用。

(大矶:东海道第9站,每年阴历5月28日必会下雨,传说大矶游女虎御前因情人曾我十郎复仇身死,终日以泪洗面,泪水化为了雨水,得名“虎が雨“)

东海道五十三次・箱根 湖水図

十九世紀になると、享和二(1802)年、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の出版がきっかけで、爆発的な第二次東海道ブームが起こりました。弥次郎兵衛と喜多八という一介の庶民がおもしろおかしい伊勢参りの旅を描いたこの本は、人々に東海道の旅への憧れを強く印象づけたのです。

到了19世纪,享和2年(1802),以十返舍一九的《东海道徒步旅行记》的出版为契机,爆发性的第二次东海道热兴起了。这本书描写了名为弥次郎兵卫和喜多八的两个平头小百姓参拜伊势的旅行,一路上乐趣横生,在人们心中烙上了对东海道之旅的强烈憧憬。  

(箱根:东海道第11站,幕府直辖的重要关口,防止枪支输入江户以及居住江户作为人质的大名妻女脱逃,即“入鉄炮出女”,禁枪支入境、女人出境)

东海道五十三次・戸塚 元町別道

おかげ参り
「おかげ参り」とは、特定の年に伊勢神宮への参拝が爆発的に増える現象をいいます。子は親に、妻は夫に、奉行人は主人に断りなく、衣裳に趣向をこらして歌い踊りながら集団で参拝しました。とくに慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、文政十三(1830)年 に全国規模で「おかげ参り」が流行。江戸時代の「おかげ参り」は、おおよそ60年周期で流行しましたが、文政十三年の「おかげ参り」には実に500万人近くが参宮に出かけたといいます。

(御荫:即庇护,伊势神宫迁宫第2年被称作“御荫年”,民间多在这一年前往参拜)

御荫参拜

“御荫参拜”指特定年份里到伊势神宫参拜的人数暴增的现象。孩子不向父母打招呼、妻子不通告丈夫、佣工不请示主人,人们在穿着上下尽功夫、载歌载舞地组成团队参拜。特别是在庆安3年(1650)、宝永2年(1705)、文政13年(1839)里,“御荫参拜”行成全国规模,风行一时。江户时代的“御荫参拜”大致是以60年为周期流行,文政13年的“御荫参拜”中,据说竟有近500万人前往伊势神宫参拜。

(户塚:东海道第6站,图上,”飞脚(送书信或其它小物件的脚夫)“抵达宿驿的茶馆正准备下马,茶馆屋檐下挂着伊势参拜团(伊势講)成员的名牌,中央处石灯笼旁的石柱上写有”左边 镰仓“,此处是个岔道口)

东海道五十三次・御油 旅人留女

 

この「おかげ参り」から3年後の天保四(1833)年、歌川広重の『宝永堂版・東海道五十三次』が出版されました。おかげ参りに出かけた人々は、この浮世絵を買い求めて旅の思い出を語り合ったのでしょう。

在这次“御荫参拜”3年后的天保4年(1833),歌川广重所作的《宝永堂版・东海道五十三次》出版了。大概前去参拜了伊势神宫的人们会求购这些浮世绘,相互谈论旅行的回忆吧。

(御油:交通要道,如图,这里的旅店女招待称作”留女“,拉客时力大无穷,一旦被盯上插翅都难逃了)

东海道五十三次・京都 三条大橋

往来する人々

東海道筋には、参詣の旅に出かける庶民の他に、近江商人や富山の薬売り、武士、旅僧、御師(おし)、旅芸人等々、実に多様な人々が往来しました。 旅人たちの往来によって口から口へと伝えられる情報は、各地の宿から助郷や人足を通じて村へと伝わるようになり、街道は常に新しい情報源の役割も果たしていました。


来往的人们

除了踏上参拜之旅的庶民,东海道路线上还有近江商人、富山的买药郎、武士、旅行僧、祈祷师、流浪艺人等等,各式各样的人们穿梭往来。由于旅人们的来往,口口相传的信息从各地的驿站通过助乡(すけごう,位于驿站附近,负责维护驿站的乡村)或脚夫传到村子里,大道还常常起到传播最新信息的作用。

(京都三条大桥:东海道终点,远望可见京都东山,桥下流淌的是贺茂川)

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