今では想像しにくいが、女性のスポーツが快く思われない時代は長かった。日本の女性が五輪に初めて出た1928年アムステルダム大会で、陸上800メートル2位となった人見絹枝はこう書いた。「人生はすべて戦いである。女も戦う時代だ」(『女子スポーツを語る』ゆまに書房)。得意の100メートルで敗れ、初体験の距離に挑んで手にした成果だった。

现在难以想象的是,曾经认为女性运动速度不快的年代非常漫长。人见绢枝作为日本首次参加奥运会的女性,在1928年的阿姆斯特丹奥运会上取得了800米赛跑的第二名。她在书中这样写到:“人生完全就是一场战争。这是女性也要战斗的时代”(《说说女子运动》人类书房)。在擅长的100米赛跑失败了,这是她挑战首次参加的项目而获得的成绩。

新しがり屋をモボ・モガ(モダンボーイ、モダンガール)とはやす一方、女性が太ももをさらして競走するなんてはしたないとする時代を生きた。彼女が生まれて今月で100年になる。

她生活的那个年代,一方面越来越多的时髦男女追随流行,另一方面女性认为露出大腿参加赛跑是可耻的事情。本月是她诞辰100周年。

短距離や走り幅跳びで世界記録を出すかたわら、記者として働き、後輩の遠征費用を募って歩いた。「努める者はいつか恵まれる」(『炎のスプリンター』山陽新聞社)。若い人を励まし続け、銀メダルから3年後の同じ8月2日、病で24歳の生涯を閉じた。

不仅在短跑和跳远上创造了世界纪录,她还做过记者,为募集后辈的参赛经费而奔波。“努力的人总会得到收获”(《火焰中的短跑选手》山阳新闻社)。她坚持鼓励年轻人,在获得银牌3年后的同一个8月2日因病逝世,享年24岁。

それから61年後の同じ日、バルセロナ五輪のマラソンで、有森裕子さんが陸上女子2人目の表彰台に立った。影響を受けた人に、同じ岡山出身の人見の名をあげる彼女もまた、闘うランナーだ。

61年之后的同一天,巴塞罗那奥运会的马拉松比赛中,有森裕子女士站上了陆上女子项目第二名的颁奖台。受此影响的人们赋予同样是冈山出生的有森人见之名,有森也是一位战斗着的选手。

走ることで生活費を得る。その権利は個人に属する。今は当たり前のこの原則も、10年ほど前までは違った。競技団体と3年間渡り合い、これを認めさせたのが彼女だった。

跑步能得到生活费,这个权力属于个人。这个当今被视为理所当然的原则,在大约10年前还并非如此。是有森和竞赛团体交涉了3年才获得了认可。

「きちんと練習し、自己最高を目指した上で終わりたい」。有森さんは昨年、そう言って練習を再開した。40歳で走る2月の東京マラソンがひと区切りになる。自らの存在を問い続けて走る女性の言葉には、背筋の伸びる思いがする。

有森去年说“好好练习,想以完成自己最高的目标作为结束”,之后重新开始练习。她以40岁的年纪,在2月的东京马拉松中横跨了一个区。坚持追问自身存在的奔跑着的女性的话语,令人想到背部肌肉的伸展。
 

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