日语文学作品赏析《プルウストの文體について》
プルウストの文體は、一見しますと、いかにも書きつぱなしのやうで、混亂してゐて、冗漫に見えるのであります。しかし、それだからと言つて、その文體そのものを非難する訣には行きません。プルウストの場合には、その驚くべき冗漫さも已むを得ぬと我々に首肯せしめるだけの充分な理由があるからであります。「スワン家の方」の何處でもいいから開いて御覽なさい。例へば、ここにアスパラガスを描寫した數行があります。
此處で、私はプルウストの友人のある音樂家の語つた彼の逸話を插入することを許して貰ひます。その音樂家の話によりますと、ある田舍の別莊に彼と一緒に招ばれたときのこと、その庭園を二人で散歩中、突然彼は一本の薔薇の木の前に立ち止つたきり、その友人のことなど忘れてしまつたやうに、いつまでも、顏をしかめたまま、それを見つめ續けてゐたさうであります。さういふ殆ど傍若無人と言つていいほどな、そしてその當人自身をも苦しめるやうな、何物にか強制されてゐるかに見える模索が、こんなアスパラガスのやうなものの前でもなされてゐることを諸君も既にお氣づきになつてゐるだらうと思ひます。プルウスト自身も、さういふ彼の倦まざる模索を、小説の終りの方で、こんな風に説明してゐます。「私の感じたものを薄くらがりから抽き出して、それを何か精神的に同値のものに置き換へなければならないのだ。」そしてさういふ感覺に瞬間的に訴へられるもの、云はば泡沫にも似たものから、もつと永遠性のある、何か精神的なものを抽き出さうとする、さういふプルウストの模索こそ、彼の作品を單なる印象主義のそれから切り離してゐると言はなければなりません。
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もう一つ、「スワン家の方」から引用して見ませう。今度はリラの花の描寫です。
クルチウスは更らに、これらの章句のリズムの素晴らしさを説明してゐますが、それは原文で味つていただくより仕方がありませんし、それは私などの持つてゐる語學力では、なかなかその妙味はわかりません。――しかし、プルウストが、どんなにさういふ章句のリズムに注意してゐたかは、彼の友人の一人が語つてゐる次ぎのやうな逸話によつても解りませう。
プルウストは、ある眞夜中に(それは彼が何時も友人を訪問する時間でしたが)もう寢てゐたその友人のところに訪ねて來ました。さうしてそんな遲い訪問をいかにも慇懃に言ひ譯をしながら、佛蘭西語で sans rigueur(嚴しくなく)といふのを伊太利語ではどういふか、その正確な發音法を教へて貰ひたいと頼みました。そこでその友人は即座に senza rigore と發音しました。するともう一度それを繰り返してくれと言ふので、今度はゆつくりと發音しますと、それをプルウストは、目をつぶりながら、聞いてゐたさうです。それから丁寧にお禮を云つて、忽ち消えるやうにその部屋を出て行つたさうです。――そのあとで、その友人は何んだか、その異樣な客が自分の部屋から、自分では氣づかないでゐた形や、色や、匂ひや、音などを持つて行つてしまつたやうな、妙な苛立たしさを感じずには居られなかつたと告白して居ります。
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「プルウストの聲は忘れられない。」と、彼の年少の友であつたコクトオが書いてゐます。「僕には彼の作品を聽かずに、彼の作品を讀むことは困難だ。スワンだとか、アルベルティヌだとか、シャルリュスだとか、ヴェルデュランだとかが喋舌るとき、僕は、プルウストが喋舌るときの、喋舌らうとして唸るときの、腹の底から笑ふやうな、不確かな、引き伸ばされた聲を聽くやうな氣がする。」――さう言はれると、プルウストのそんな聲を知らない我々にも、その聲のアクセントの描く曲線は朧げながら辿れるやうな氣もしますけれど、さて、その微妙なところになりますと、我々外國人の耳にはなかなか掴みにくいのであります。ことに飜譯などで讀む場合は、先程説明しましたやうな比喩の方はどうにか解るやうな氣もしますが、かういふ文章のリズムは全然解りつこないと斷言してもいいかと思ひます。
私は冒頭に、どんな風にでも構はずに表現してしまふのが散文の本質だと述べ、只今は、さういふプルウストの文體の微妙な味にまでも迫らうとしました。しかし、さういふ文體の微妙な味といふものは、作家がどんなに無頓着に書かうと、おのづからそのうちに具はつてしまふものでありますので、一層それが微妙なものであることを御注意申し上げたいと思ひます。
プルウストの文體は、注意深く見てみますと、以上のやうな微妙なものでありますが、その表面は、文法上の誤りなども大變多いさうで、いかに贔屓眼に見ても、甚だ不手際なものであります。それは先程も述べましたやうに、一瞬の感覺から、すぐその場で、何か永久性のある精神的なもの(これこそ本當の現實なのでありますが)を抽き出さうとする困難な仕事、その仕事に參加する夥しい數の記憶のこんがらかつた現はれでありますが、――もう一つ、その出發點となつてゐる、感覺そのものの豐富さに依ると言はなければなりません。
コクトオの話によりますと、プルウストから受取つた手紙には、いつも「僕らがそんな事をしたとは一向信じられない、その癖、どうも僕らがしたらしい、そして唯、僕らの粗雜な感覺がこれを氣づかないでゐたに過ぎないところの、さまざまな被害の苦情」が一ぱい書いてあつたさうであります。この話や、さつき眞夜中にプルウストの訪問を受けた友人の話(プルウストが歸つて行つたとき何んだか自分の部屋の、自分では氣づかないでゐた形だの、色だの、匂ひだのを持つて行かれたやうな一種の苛立たしさを感じたといふ)などから推して見ましても、確かにプルウストは他の人間の全く知らないやうな感覺の領分と交渉を持つてゐたことが理解できます。さういふ今まで誰もが語らうとしなかつた領分内のことを、プルウストは語らうとしましたから、甚だ不器用にしか語れなかつたのだと言ふことが出來ます。そしてさういふ不器用な、ぎごちないものこそは、プルウストに限らず、あらゆる獨創的な作家に背負はされてゐるところのものであると申しても差支へないやうであります。
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