日语文学作品赏析《黒船来航》
当時の資本主義は貿易第一主義を奉ずる自由経済の全盛期で、いわば資本主義の青年時代であったが、それですらインドや中国にたいする植民地化の戦争、その戦争のけっかとしての不平等条約と、その不平等条約によって保障された不当な利潤によって先進国の地位が保たれてきたのであった。
問題はどうしてアメリカが日本開国の先鞭をつけたかであるが、それは一言でいえば中国貿易でイギリスに勝つための足がかりとして日本を必要としたのだといえる。
新興国アメリカは中国貿易の面でもぐんぐんイギリスに迫ろうとしていた。一八四八年といえばブルジョア革命の波が西欧を襲った年であり、産業革命によって蒸汽船が実用化され、鉄道が実用化される時代であった。ペリーはアメリカ海軍で、世界に先がけて、最新の技術をもって従来の伝統にこだわることなく蒸汽海軍をつくった。
さてサンフランシスコから蒸汽船航路で中国に行くと、中国貿易でイギリスに勝てる目算がついた。だが当時の幼稚な技術ではどうしても途中で石炭をつむ寄港地が必要だった。つまり前にものべたように中国貿易でアメリカがイギリスに勝つための足がかりとして日本を開国させねばならぬことになった。だからペリーは第一ばんに沖繩にいき、
太平の眠をさました黒船の来航は国内に開国派と攘夷派の抗争となって波紋をひろげていった。ところで同じく開国派といい、攘夷派といっても、それぞれ二種類があった。
開国派の一方には、
攘夷派にも同じく封建支配者の攘夷と人民の攘夷の二派があった。前者の例は
日本開国の先べんをつけたアメリカが、その直後に起った南北戦争に手をしばられている間に日本貿易の果実はイギリスの手に帰した。やがて日本にも明治維新の変革が、フランスに支援された幕府とイギリスに支持された天皇の両派の、どちらも封建的な同一階級同士の権力争奪戦という形で、革命ではなく一種の改革が行われることになった。
だがアメリカは日本を水先案内とするアジア進出の積年の野望をとげようとして乗り出してきた。その最初の現れはグラント将軍の琉球問題あっせんで、台湾征伐以来反目している日本と中国との間に仲裁者として登場した。ついで朝鮮にたいしては、日本を水先案内としてイギリスに対抗した。この英・米の対立競争を
ポーツマスでアメリカが日露戦争の仲裁役を買って出たのも、ペリー来航いらい一貫してもっていた「日本を足がかりにしたアジア進出」という年来の野望をとげようとするこんたんであったといえる。
百年来のこんたんを百年目にちょうど実現したものといえようか。それがサンフランシスコ条約であり、日米安全保障条約であり、行政協定であり、今また
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