日语文学作品赏析《小学生のとき与へられた教訓》
突然、「そんな事をしてゐてはいけません。第一体に毒ですし、又、そばを駈け廻つてゐるものがぶつつかつたら、両方共に怪我をしますよ。どうしてそんな事をするのです。」と先生に叱られた。私はまごついて遂、「何子さんも誰さんも、みんな、斯うやると面白いから、あんたもやつて見なさいと、言はれましたので……」と言ひ訳をしたのであつた。すると先生は「誰にすゝめられても悪い事をすればいけません。他人のせいにして自分のいけない事を言ひ訳しやうとするのは、大変卑怯な事です」と更にたしなめられた。
私は子供心にも先生から卑怯だと言はれた事を非常に恥かしく感じ、以後、他人の悪い事を見ても告げ口する事が出来ず、まして自分の事を他人のせいにしたりする事が出来なくなつた。それは、初めのうちは、告げ口し度い気持が起つても愈々口に出さうとすると、嘗て先生に卑怯だとたしなめられた事が頭に浮んで私の口を引き締めてしまふのであつたが、それが段々進んで精神学的に意志制止症と言はれる程までになると、もう先生に卑怯だと言はれた事を思ひ出さずとも自然と口をつむんでしまふといふ極端な癖が付いてしまつた。
少女時代、他人の非難とか自分の事に就ての言ひ訳などを除いて、どんな話題があるであらうか。これ等の事を絶対にしやべれないとしたら少女の話は仲々スムーズに進むものではない。従つて私は無口で鬱屈した、他人から見て幾分重苦しい少女になつてしまつた。丸い眼をぱち/\させながら無口でゐる私に「蛙」と言ふ仇名をさへ付けた友がゐた。
小学校から女学校へかけて、私は友人に対する蔭口とか非難が出来ず、自分のする事には絶対の責任を持たねばならぬといふ立場に追ひ込まれて随分と口惜しい悲惨な思ひをした。或る時など小学校随一の悪戯者が校門近くの道路に
だが、かういふ内心的の苦しみは幼時から私に物事を深く考へさせるやう習慣づけた。何事でもぱつと口に出してあけすけに話してしまつたのでは物事を充分に観察し、味はふ暇がない私は自己反省に於ても人一倍強いやうになつた。自分のする事は一つ一つに考慮と全責任を持つた。今に至るも私の其の癖は残つてゐて、他人から随分重苦しいやうに見られてゐるが、私は私で、「少くとも確つかり落付いて生活してゐる意識が、私に充分あるのだから、これで良いのだ」と思つてゐる。
私の此の打ち明け話に依つても判るやうに、幼時の感じ易い頭脳に与へる小学校教師の訓戒が、子供の将来にまで力強く支配力を及ぼし、性格運命までも決定するやうな事がある。これを思ふと小学生に対する訓戒は誠に注意を要するもので、殊に廉恥心をゆすぶるやうな訓戒が一番強く子供の頭脳に響き子供の将来に及ぶのであるから、特に注意して、良心的に関聯して廉恥心を洗練するやうな訓戒は最も効果があるが、之れと反対に精神を汚辱的に打ちのめすやうな訓戒は良き性格の穂を打ちひしぐもので、大いに慎まねばならぬものである。
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