日语文学作品赏析《南蛮秘話森右近丸》
「将軍
ここは京都二条通、辻に佇んだ一人の女、
だが何という大胆なんだろう! 夕暮時とは云うものの、織田信長の管理している、京都の町の辻に立ち、その信長を攻撃し、その治世を
驚いているのは群集である。
不思議な巫女の放胆な言葉に、気を奪われているのである。
「唐寺の謎こそ奇怪である」巫女はまたもや云い出した。
「唐寺の謎を
ここで
「どんなに
「馬に念仏申しても、
群集を分けて不思議な巫女はスタスタ北の方へ歩き出した。
と、その時一人の
「
そこで後を追っかけた。
町を出外ずれると北野になる。大将軍から小北山、それから平野、衣笠山、その衣笠山まで来た時には、とっぷりと日も暮れてしまい、林の上に月が出た。巫女はズンズン歩いて行く。若武士もズンズン歩いて行く。
2
もうこの辺りは山である。鬱々と木立が繁っている。人家もなければ人気もない。夜の闇が
巫女はズンズン歩いて行く。
「一体どこまで行くのだろう?」若武士はいささか気味悪くなった。だが断念はしなかった。足音を忍んでつけて行く。
一際こんもりした森林が、行手にあたって繁っている。ちょうどその前まで来た時であった。巫女は突然足を止め、グルリと振り返ったものである。
「若い綺麗なお侍さん、お見送り有難うございました。もう結構でございます。どうぞお帰り下さいまし。これから先は秘密境、迷路がたくさんございます。踏み込んだが最後帰れますまい」それから不意に叱るように云った。「犯してはならぬよ我等の領地を! 宏大な「処女造庭」境を!」
「おっ」と若武士は驚いたが、同時に怒りが湧き起こった。「何を女め!
「捕ってごらんよ」とおちついた声、それで巫女はまた云った。「悪いことは云わぬよ。帰るがいい、お前が
馬鹿にしきった態度である。
本当に怒った若い武士は、手捕りにしようと思ったのだろう、「観念!」と叫ぶと躍りかかった。
それより早く、不思議な巫女は、サ――ッと後へ飛び退いたが、「お馬鹿ちゃんねえ」と云ったかと思うと、片手をヌーッと頭上へ上げた。キラキラ光る物がある。巨大な星でも捧げたようだ。カーッと烈しい青光る
だがそれにしても不思議である、いかに月光が照らしたとは云え、そんな鏡がそんなにも強い、焔のような光芒をどうして反射したのだろう?
「あッ」と
「妖婦!」と一
「勇気があるねえ、いっそ可愛いよ。だが駄目だよ、お止めお止め」
とはいえ若武士も勇士と見える。両眼
だが何の手答えもない。ギョッとして眼を開いた眼の前に、十数本の
異様の扮装をした十数人の男が、
いつの間にどこから来たのだろう? 森の奥から来たらしい。町人でもなければ農夫でもない。庭師のような風俗である。そのくせ刀を差している。その立派な体格風貌、その点から云えば武士である。
若武士などへは眼もくれず、巫女の前へ一斉に
「ご苦労」と家来に対するように、巫女は鷹揚に頷いたが、ユラリとばかりに輿に乗った。
「さようならよ、逢いましょうねえ、いずれは後日、ここの森で……綺麗で若くて勇しい、妾の好きなお侍さん」[#「妾の好きなお侍さん」」は底本では「妾の好きなお侍さん」。」]
それから巫女は意味ありげに笑った。
「さあお遣りよ、急いで輿を!」
松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。
3
信長の居城
春三月、
乗っているのは信長の寵臣、
かの有名な森
天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。
舟はズンズン
とその時事件が起こった。どこからともなく一本の
「あっ」と仰天する
「ほほうこいつは矢文だわい」
左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。
矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。
「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公
これが記された文字であった。
「成程」と呟いたが右近丸は
「さあ、舟遣れ、
そこで小舟は
その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。
「アベ マリア! ……アベ マリア!」
美しい神々しい清浄な声!
ボーン! 梵鐘! 神秘的の音!
それらが虚空へ消えて行く。
この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。
この頃
今日も二人は
だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか?
どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような
親子であることには疑いない。万事二人はよく似ている。そうして二人ながら貧しいとみえ、粗末な衣裳を着ているが、しかし大変清らかである。
4
「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」
こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさんの字を付けている。ひどく言葉が砕けている。
「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」
民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。
だがこいつは
「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に
「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。
「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」
「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。
「ははあ、左様で、ではお茶でも」
「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」
「おやおやそいつは困りました。では
「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす
これにはどうやら弁才坊も少しばかり
「ははあ焚物もございませんので」
「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」
「随分貧乏でございますな」
「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」
「これはいかにも
「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」
「そうなった日の
「そうなった日の暁には、この民弥さんも
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に
ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
まだ梵鐘が鳴っている。
讃美歌の声も聞こえている。
庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
5
人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、
「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」
「困ったなア困ったなア」
こんなことを云い出した。
「よし」と云うと一
「こいつを足場にしてやろう」
そっと窓下へ石を置いたが、やがてその上へヒョイと乗ると、背延びをして小穴から覗き出した。
「ワーッ、
それから熱心に覗き出した。
「ワーッ、姐ごめ、嘘は云わなかった。ほんとにほんとに弁才坊め、いろいろの機械を持ってやがる……ははああいつが設計図、ははああいつが測量機、ははああいつが
こんなことを口の中で呟きながら、風船売の少年は、障子の穴から覗いている。
日がだんだん暮れてきた。南蛮寺の鐘も今は止み、合唱の声も止んでしまった。
庭木の陰が次第に濃くなり、夜が間近く迫ってきた。
と、突然家の内から、「これ、誰だ。覗いているのは!」弁才坊の声がした。
「ワッ、いけねえ、目つかっちゃった」
石から飛び下りた風船売の少年、庭木の陰へ隠れたが、その素早さというものは、人間よりも猿に近い。
と内から窓があき、顔を出したは弁才坊で、グルグルと庭を見廻したが、神経質の眼付、ムッと結んだ口、道化た俤など少しもない。眼を付けたは窓下の石!
「石を足場にして覗いたな、さして高くもない窓だのに……とすると子供に相違ない。が、子供でも油断は出来ない……民弥々々!」と声をかけた。
「はい」と民弥が顔を出した。「近所の子供でございましょう。無邪気に覗いたのでございましょう」
そういう民弥こそ無邪気であった。
「さあそいつが解らない」いぜん弁才坊は不安らしい。「私の探った秘密というものは、一通りならぬものだからな。いろいろの人間が狙っていよう」
「申す迄もございません」――だが民弥は苦にもしないらしい。
「で、ちょっとの油断も出来ない」
「物騒な浮世でございますから」だが民弥はやっぱり無邪気だ。
「全くどうも物騒だよ、北山辺りにも変な人間がいるし、洛中にも変な人間がいる」
「そうして諸方の国々では、今日も戦争、明日も戦争、恐ろしいことでございます」これだけは民弥も真剣であった。
「そればかりではない紅毛人までが、ユサユサ日本へやって来て、南蛮寺などを建立してしまった」弁才坊はひどく不満そうである。
「でもお父様」と娘の民弥は、どうしたものか微妙に笑った。
「その南蛮寺が建ったればこそ、お父様には今回のご研究が出来たのではございませんか」
「それはそうだよ」と云ったものの、やはり弁才坊は不満らしい。だがにわかに態度を変えた。
「どうやら宵も過ぎたらしい。さあさあ民弥さん寝るとしよう」剽軽の態度に帰ったのである。
「かしこまりました、弁才坊さん、おねんねすることに致しましょう」
二人窓から引っ込んだが、つづいて雨戸が閉ざされた。後はシーンと静かである。
とガサガサと庭木が揺れ、現われたのは
6
その風船はユラユラと部屋の中へ入って行った。
さてその部屋の中であるが、弁才坊ただ一人、床を延べて伏せっていた。
うとうと眠っているらしい。部屋の中には
しかし少年は何のために、そんな風船を飛ばせたのだろう? どんな役目をするために、風船は部屋の中へ入り込んだのだろう?
だがそいつは風船が、弁才坊の真上まで、ユラユラユラユラとやって来た時、ハッキリ了解することが出来た。
風船がパッと二つに割れ、闇の部屋の中へバラバラと、
と、どうやら風船には、糸でも付けてあったらしい、そうしてそれが
後はひっそりと静かである。
コトンと窓も閉ざされてしまった。
春の夜風が出たのだろう、花木の揺れる幽かな音が、サラサラサラサラと聞こえてくる。
弁才坊は寝たままである。弁才坊は微動さえしない。
だんだん夜が更けて行く。
とまたコトンと窓が開き、一本子供の腕が出た。続いて子供の顔が出た。風船売の少年である。今まで窓の外に立ち、様子をうかがっていたらしい。
と、窓から飛び込んで来た。例によって敏捷猿のようである。足音一つ立てようとはしない。窓から射し込む月の光で、部屋中薄蒼く
「さあてどの辺りにあるんだろう? 手っ取り早く探さなけりゃアならねえ」こんな事を呟いている。「隣部屋に寝ている民弥めに、眼を覚まされては大変だ」こんなことも呟いている。
部屋の一所に書棚がある。で、書棚を探し出した。部屋の一所に机がある。で、机を探し出した。壁に図面が張り付けてある。それを素早く探り出した。部屋の一所に測量機がある。その
「ないなあ、ないなあ、どうしたんだろう? どこに隠してあるんだろう? こんなに探しても目つからないなんて、どう考えたって箆棒だよ。もっとも途法もなく大事なもので、それこそうんとこさ値打のあるもので、いろいろの人が狙っているもので、そいつを一つさえ手に入れたら、大金持になれるんだそうだ。だからチョロッカにその辺りに、うっちゃってあろうとは思われないが、盗みにかけちゃ俺らは天才、その俺様が克明に、こうも手順よく探すのに、目つからないとは箆棒だよ。……何だこいつあ? 人形か?」
部屋の片隅の卓の上に、二尺あまりの
ヒョイと取り上げた風船売の少年、ちょっと小首を傾げたが、そこはやっぱり子供である、小声で節を付けて唄い出した。
「可愛い可愛い人形さん、綺麗な綺麗な人形さん、物を
と考え込んだ。
「そうだ
「そうだそうだひょっとかするとこの人形のどの辺りかに、あいつが隠してあるのかもしれない。あの素晴らしい秘密の物が」
で、少年は窓口へ行き、仔細に人形を調べ出した。人形は随分貫目がある。少年の手には持ち重りがする。顔は非常に美しい。眼などまるっきり活きているようだ。紅を塗られた口からは、今にも言葉が出そうである。着ている衣裳も高価なもので、唐来もののように思われる。
だがこれといって変わった所もない、単純な人形に過ぎなかった。
「何だちっとも面白くもない、ただのありきたりの人形だアね」
不平らしく呟いた風船売の少年、卓の上へ人形を返そうとした時、驚くべき一つの事件が起こった。
7
と云うのは突然人形が、鋭い高い金属性の声で、次のようにハッキリ叫んだのである。
「南蛮寺の謎は胎内の……」
それだけであった! たった一声!
よし一声であろうとも、確かに人形は叫んだのである。しかも驚くべき大きな声で。
風船売の少年が、どんなに吃驚仰天したか、想像に余ると云ってよい。自分が泥棒だということも、忍び込んだ身だということも、何も彼も忘れて声を上げた。
「ワーッ、いけねえ、化物だあ!」
この結果は悪かった。隣部屋に寝ていた娘の
「どうなされましたお父様」
まずこう呼ぶ声が聞こえてきた。つづいて起き上る
「いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!」
人形を卓の上へ抛り出すと、窓へ飛びついた風船売の少年、ヒラリと外へ飛び出した。
と、それと引違いに、部屋へ現われたのは娘の民弥で、開けてある窓へ眼をつけたが、「まあお父様の不用心なことは。窓をあけたままで寝ておいでなさる。その上寝言など
「弁才坊さん弁才坊さん、民弥さんを嚇してはいけません。『ワーッ、いけねえ、化物だあ……』などと仰有ってはいけません。さあさあお眼覚めなさりませ。さあさあお話し致しましょう」佇んだまま見下ろしたが、窓から射し込む月光に照らされ、寝ている父の寝姿が、何となく異様に見えたらしい。「おや」と云うと
「お父様!」と声をかけ、額へ指をふれて見た。「あっ!」と叫びを上げたのは、父の額が水のように、
「お父様!」と物狂わしく、もう一度叫ぶと両手を延ばし、父の体を抱き上げた。脈もなければ温気もない、全身すでに硬直している。父はこの世の人ではなかった。父は死んでいるのであった。
これが気弱の娘なら、取り乱したに相違ない。泣き喚いたに相違ない。気絶ぐらいはしただろう。しかし民弥は強かった。眼から涙を流しながらも、しっかり奥歯を噛みしめていた。ブルブル全身を顫わせながらも、気の遠くなるのを我慢した。
しばらく心をしずめたのである。
「誰が、どうして、何の為に、お父様のお命を絶ったのだろう?」
ズーッと部屋の中を見廻してみた。
「窓が一杯に開いている。用心深いお父様、開けたままお寝になるはずはない。誰かが開けたに相違ない。その誰かが下手人なのだ。……部屋の中が乱暴に取り散らしてある。どうやら何かを探したらしい。とするとあれだ! 唐寺の謎!」
父の殺された原因は、これでどうやら解ってきた。
「お父様が苦心して研究された、唐寺の謎の材料を、盗み取ろうとしたものが、お父様のお命を絶ったのだ」
そこで死骸を調べ出した。切り傷もなければ突き傷もない。絞め殺された
「ああ妾には
ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。
どうするだろう? 可哀そうな民弥?
「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。
どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。
どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。
だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。
「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」
それはこういう声であった。
窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが
「ああ
その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。
8
「随分遅いな、猿若は」
こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い
「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」
こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっとその辺りの年格好、いやらしく
男の名は
夫婦ではなくて、相棒だ。
家は玄女の家である。
「全く仕事の性質から云えば、かなりむずかしい仕事だからな、うまく
「そんな心配はご無用さ」
玄女には自信があるらしい。
「百人二百人
「だが相手の大将も、尋常の奴じゃアないんだからな」やっぱり猪右衛門は不安らしい。
「そりゃア云う迄もありゃアしないよ。昔は一国一城の主、しかも西洋の学問に、精通している人間だからね」
「だからよ、猿若やりそこない、とっ捕まりゃアしないかな」
「なあに
「へえおかしいね、何故だろう?」猪右衛門には
「だってお前さんそうじゃアないか、相手がそういう偉者だから、なまじっか
「うん、成程、そりゃアそうだ」今度はどうやら猪右衛門にも、胸に落ちたらしい様子であった。
二人しばらく無言である。
部屋の片隅に檻がある。幾匹かの猿が眠っている。彼等の商売の道具である。壁に人形が掛けてある。やっぱり商売の道具である。いろいろの能面、いろいろの武器、いろいろの衣裳、いろいろの鳴物、部屋のあちこちに取り散らしてある。いずれも商売道具である。
コン、コン、コンと山羊の咳がした。庭に檻でも出来ていて、そこに山羊が飼ってあって、それが咳をしているのだろう。
だが何より面白いのは、隣部屋から聞こえてくる、いろいろの香具師の口上の、その稽古の声であった。
「耳の
「独楽は元来
「これは万歳と申しまして、鶴は千年の
「
「これは都に名も高き、
「ヤンレ憐れは籠の鳥、昔ありけり片輪者……」
――などと云う声が聞こえてくる。
隣に香具師の稽古場があって、玄女の
「それはそうと、ねえお前さん」
玄女は猪右衛門へ話しかけた。
「例の恐ろしい
9
「あああいつか」とニヤニヤ笑い、猪右衛門は得意らしく話し出した。「南蛮寺すなわち唐寺だが、そこから俺ら盗み出したのさ」
「へえ、なるほど、唐寺からね」
「十日ばかり前のことだったよ。俺ら信者に化け込んで、南蛮寺へ入り込んだというものさ。礼拝なんかには用はない、そこで寺内のご見物だ、ズンズン奥の方へ入って行くと、一つへんてこの部屋があった。いろいろの機械が置いてある、二人の坊主が話している。鼠のような獣がいる。と、どうだろう坊主の一人が、罐の中から粉薬を出して、鼠のような獣へ、ちょいとそいつを嗅がしたじゃアないか。するとコロリと
「大成功、褒めてあげるよ」玄女は図々しく笑ったが、「でもそいつを風船へ仕込み、弁才坊殺しを巧んだのは、この妾だからね、威張ってもよかろう」
「いいともいいとも、威張るがいいや。だが成功不成功は、猿若が帰って見なけりゃアね」
「ナーニきっと成功だよ」
「うまく秘密を盗んだかしら?」
「あいつのことだよ、やりそこないはないさ」
恐ろしい話を平然と、二人の男女は話している。
と、猪右衛門はニヤニヤした。
「うまくいったら大金持になれる」
すると玄女もニコツイたが、
「そうなった日には妾なんか、こんな商売はしていないよ」
「俺だってそうさ、
「つまらないことを云ってるよ」
「アッハハ、つまらないかな」
苦く笑ったが猪右衛門はにわかに聞耳を引き立てた。
「どうやら帰って来たらしい」
なるほどその時
「おや本当だね、帰ったようだよ」
二人同時に起き上った時、部屋へ駈け込んで来た少年がある。例の風船売の少年である。
「おお猿若か、どうだった?」先ず
「どうだもこうだもありゃッしないよ、うまくいったに相違ないさ」引き取ったのは玄女である。
「そうだろうね、え、猿若?」
「待ったり」と云うと猿若少年、走って来たための息切れだろう、苦しそうに二つ三つ大息を吐き、胸を叩いたがベッタリと坐った。それから
「まずこうだ、聞きな聞きな、『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』弁才坊めが云っていたってものさ。ああそうだよ民弥にね。綺麗な綺麗な娘によ。全くあいつア別嬪だなあ。姐ごなんかよりゃアずっといいや。……ええとそれから風船だ、飛ばして置いて引いたってものさ、云う迄もないや、糸をだよ。するとパッチリ二つに割れ、パラパラこぼれたのは毒薬だ。と、ムーッと弁才坊……」
「そうかそうか、
「云うにゃ及ぶだ」と
「偉い偉い、探したんだね」今度は玄女が褒めそやす。
「そうともそうとも探したのさ。目に付いたは人形だ」
「人形なんかどうでもいい、手に入れたかな、唐寺の謎?」
猪右衛門短気に声をかける。
「急くな急くな」と猿若少年、例によって早熟た大人の口調、そいつで構わず云い続けた。
「驚いちゃアいけねえ、喋舌ったのさ。うんにゃうんにゃ
「ご飯は上げるが唐寺の謎は?」訳がわからないと云うように、訊き返したのは玄女である。
「唐寺の謎? 俺ら知らねえ」
「馬鹿め!」と立ち上る猪右衛門。
そいつを止めたのは玄女であった。
「まあまあお待ちよ、怒りなさんな。それだけ働きゃアいいじゃアないか。それにさ随分いろいろの為になる言葉を聞いて来たじゃアないか。『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』『唐寺の謎は胎内の……』――ね、どうだい面白いじゃアないか。ひとつ二人で考えてみよう。三つの言葉をくっ付けたら、唐寺の謎だって解けるかも知れない」
玄女は考えに分け入ったが、その間も春の夜が更け、次第に
そうして
10[#「10」は縦中横]
信長の居城安土の城、そこから船で乗り出したのは、
庭に佇むと右近丸はまず見廻したものである。
「春の花が
深い感慨に耽ったようである。
玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。
「はい」と女の声がして、現われたのは
恭しく一礼した右近丸。
「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」
粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、
「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに
と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、
「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」
「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が
「
「
「父、多門兵衛尉」
「真実かな□」一歩進んだ。
「真実! 昨夜!
「何!」と叫んだが右近丸は、心から
「下手人不明にござります」
「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。
朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。
それを背景にして玄関には、父を失い
まさに一幅の絵巻物だ。
さてその日から数日経った。
「物買いましょう、お払い物を買いましょう」
こういう
足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。
11[#「11」は縦中横]
民弥の家の一つの
その一人は民弥であり、もう一人は右近丸であった。
父を失い
窓から昼の陽が射し込んでいる。
極めて異国趣味の室である。
牀几に腰かけた二人の男女、
「秘密の鍵は第三の壁、こう確かに弁才坊殿には、仰せられたのでございますな?」いずれ話の続きだろう、こう訊いたのは右近丸。
「はい、さようでございます」こう答えたのは民弥である。直ぐに後を云いつづけた。「
民弥はこんなことを云い出した。「ほんとにつまらないお父様だ」などと……これでは死んだ自分の父を、
そういう民弥の様子に対し、森右近丸は不審を打った。しかし不審は打ったもののメソメソ泣かれたり悲しまれたり、訴えられたりするよりは、却って気持はよいのであった。「勿論心中では悲しみもし、又嘆いてもいるのだろうが、非常にしっかりした性質なので、努めて抑え付けているのだろう。そうして
で右近丸は云ったものである。
「いや全く弁才坊殿は、つまらないお方でございましたよ。訳のわからない暗号のような、変な謎語を残しただけで、死んでしまったのでございますからな。……先ずそれはそれとして、せっかく残された二つの謎語、うっちゃって置く事も出来ますまい。解いてみることにいたしましょう。ひょっとするとこの謎語に、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が語られてあるかもしれません」
で右近丸は考え込んだ。
12[#「12」は縦中横]
考え込んでいた右近丸が、ヒョイと
と右近丸は云い出した。
「第三の壁という言葉の意味、どうやら
こう云われたので娘の民弥はなるほどとばかり頷いた。
「よいお考えでございますこと、
「さよう即ち秘密の鍵が、隠くされてあるかもしれません。どれ」と云うと右近丸は、ツカツカ書棚の前へ行き、一渡り書物を眺めてみた。が書物の数は非常に多く、いずれも整然と並べてあり、一々取り上げて調べていた日には、手数がかかって遣りきれそうもなかった。だがその中の一冊の書物が、特に右近丸の眼を引いた。何の変わったところもない、
「はてな?」と呟いた右近丸ツトその書物を取り上げたが、まず
「おかしいなあ、何のことだろう?」
文字を見詰めて右近丸は、しばらく熟慮したけれど、意味をとることは出来なかった。
で、そのまま書物を閉じ、帙へ入れると書棚へ返し、それから改めて
悉皆目算は外れたのである。
失望をした右近丸は、佇んだまま考えている。
同じように失望した娘の民弥は、これも佇んで考えている。
唐寺の鐘の鳴る頃である。夕の祈りをする頃である。永い春の日も暮れかかってきた。
「明日また参るでございます」
別れを告げた右近丸が、民弥の屋敷を立ち出でたのは、それから間もなくのことであった。心にかかるは謎語であった。
「『くぐつ、てんせい、しとう、きようだ』……何のことだろう? 何のことだろう?」
南蛮寺の横を歩いて行く。
森右近丸が帰ってしまうと、やっぱり民弥は寂しかった。そこで一人で
窓外の春は
それらの物を蔽うようにして、高々と空に聳えているのは、南蛮寺の塔であった。夕陽を纏っているからであろう、塔の頂が光っている。
「これからどうしたらいいだろう?」ふと民弥は呟いた。「お父様は南蛮寺へお送りした。だからその方の心配はない。でもお父様がおいでなされない以上、誰も稼いでくれ手はない。
民弥はこれからの生活について心を傷めているのであった。
その民弥の苦しい心を、見抜いて現われて出たかのように、窓からヒョッコリ顔を出したのは、古道具買に身を
ジロジロ
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」
13[#「13」は縦中横]
小判一枚に青差一本! これは実際
「この人形を大事にしろ!」こうお父様は仰有ったけれど、どういう意味だか
そこで、民弥は切り出した。
「大事な人形ではございますが、小判一枚に青差一本、それでお買い取り下さるなら、お売りすることに致しましょう」
すると猪右衛門は頷いたが、やがてこんなことを云い出した。
「実はな」と薄っぺらな能弁である。「こういう訳でございますよ。ナーニ商売の道から云えば、奈良朝時代の貴女人形、大した値打もありませんので。精々がところ青差二本……ぐらいな物だと思いますので。ところが小判を一枚はずみ、そこへ青差を一本付け、相場違いの大高値で、譲っていただこうというのには、他に目的がありますからで。と云うのは人形のその中に、南蛮寺の謎を解き明かせた……オットドッコイ口が
「はいはい確かに受け取りました」
こう云うと民弥は窓越しに、小判と青差とを受け取ったが、引き返すと卓の
と、窓から人形を、猪右衛門へ渡したものである。
両手で受け取った猪右衛門は謂うところの
「可愛い人形でございます、大切に扱って下さいまし」
永年の間傍へ置き、慣れ馴染んで来た人形である。それが売られて行くのである。それが人手へ渡るのである。二度と持つことは出来ないだろう。二度と逢うことは出来ないだろう。――こう思うと民弥には悲しいのだろう、こう寂しそうに声をかけた。
「かしこまりましてございますよ。大切に扱かうでございましょう。ヘッヘッヘッヘッ帰るや否や、腹を立ち割り胎内の……アッハッハッハッ嘘でございますよ。ナーニ早速よいお家へ、売り渡すことにいたします。と、綺麗なお姫様の、
駄弁を弄して猪右衛門は花木の間を大跨に歩き、往来の方へ出て行ったが、ちょうどこの頃森右近丸は、南蛮寺を出外れた四条通り[#「四条通り」は底本では「四条り通」]を、考えに耽りながら歩いていた。
14[#「14」は縦中横]
四条通りは寂しかった。人の
右近丸は歩いて行く。
と、
身を翻えすと右近丸は元来た方へ引っ返した。
ちょっとの躊躇も許されない。見得も外聞も構っていられぬ。で右近丸は走り出した。
が、どんなに急いでも、人形は売られた後である。人手に渡った後である。どうすることも出来ないだろう。
まさしくそれはそうであった。息せき切った右近丸が、民弥の屋敷へ駈け込んで、例の室で民弥と逢い、人形の行方を尋ねた時、民弥の口から右近丸は、残念な報告を聞かされたのである。
小判と青差を卓の上へ載せ、それに見入っていた娘の民弥は、右近丸が入って来るのを見ると、驚いたように云ったものである。
「まあそのあわただしい御様子は、どうなされたのでございます?」
それには碌々挨拶もせず、右近丸は室を見廻したが、「民弥殿! 民弥殿! 人形を! ……ちょっと人形をお見せ下され!」
すると民弥は赤面したが、小判と青差とを指さした。
「小判とそうして青差とに、人形は変わってしまいました」
「え?」と云ったものの右近丸には、何のことだか解らなかった。で直ぐに云い続けた。「
「まあ」と叫ぶと娘の民弥は仰天して立ち上ったが、見る見る顔色を蒼白くした。と、グッタリと牀几の上へ、腰を下ろすと喘ぎ出した。
「一足違い! 一足違い!」
「何?」とばかり右近丸。
「売り渡しましてございます」
「誰に□」と右近丸は胸をそらせた。
「今しがた来た古道具買に……」
「誠か□」と云ったが
「はい……一向……その辺りの所は……」
「ご存じないと云われるか?」
「存じませんでございます」
ここに至って右近丸は落胆したというように、牀几にべッタリ腰かけてしまった。苦心が水泡に帰したのである。又九
しばらく二人とも物を云わない。互いに顔さえ見合わさない。溜息を吐くばかりである。
すっかり
と、
「それでは」と民弥も意気込んだ。「
「おお、そなたも
「参りますとも参りますとも! 妾ご一緒に参らなければ、人形を買った古道具買の、人形風俗わかりますまい!」
「これは如何にもご尤も! それでは一緒に!」
「右近丸様!」
「おいでなされ!」
と走り出た。続いて民弥も女ながら、一所懸命の場合である。
15[#「15」は縦中横]
ここは五条の橋である。
今、宵月に照らされて、フラフラ歩いて来る人影がある。古道具買に身を
「こんなに楽々と苦労もなく、唐寺の謎を持っている。奈良朝時代の貴女人形を、手に入れようとは思わなかったよ。運がよかったというよりも、俺に才智があったからさ。……さて所で人形だが、物を云うということだが、どうしたら物を云うだろう?」
人形の手を引っ張って見た。が、人形は物を云わない。そこで足を引っ張って見た。が、人形は黙っている。今度は首を捻ってみた。しかし人形は音を出さない。
「不思議だな、どうしたんだろう? あんなことを猿若は云ったけれど、物なんか云わないのじゃアあるまいかな。人形が物を云うなんて、どう考えたってへんてこだからなあ。でもし物を云わないとすると、弁才坊めが苦心して、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所を、発見することが出来なくなる。困ったことだ、困ったことだ。……ナーニ、ナーニ、そんなことはないさ。どうかしたら物だって云うだろう。もし又物を云わないようなら、人形の腹を立ち割ればいい。そうしたら秘密は解けるだろう。『この人形を大事にしろ』弁才坊めが民弥めに、こんなように云ったというからな。大事な秘密が人形の中に、隠されているのは確からしい。……どっちみち早く帰るとしよう」
五条の橋を渡って行く。
渡り切った所に柳がある。ちょうどそこまで来た時であった。一つの人影が現われた。柳の陰から現われたのである。
「オイどうだったい猪右衛門さん」
その人影が声をかけた。同じ香具師の女親方、猪右衛門と相棒の玄女であった。
「ヨー、これは玄女さんか」
「首尾はどうかと思ってね、ここ迄様子を見に来たのさ。お迎えに来たと云ってもいい」
玄女はニヤニヤ笑っている。
「首尾は上々この通りさ。うまうま人形を手に入れたよ」
こう云うと猪右衛門は人形を、ヒョイとばかりに突き出した。
「おやマァ大きな人形だねえ。そうして随分立派じゃアないか。どれどれ
「オッとよしよし抱くがいい」
玄女は人形を受け取ったが、月光に隙かしてつくづく見た。
人形は精巧に出来ている。顔など活きているようだ。今にも物を云いそうである。
「成程ねえ、この人形なら、物を云うかもしれないねえ」
玄女は感心したらしい。で、猪右衛門のやったように、人形の手を引っ張ったり、足を引っ張ったりしたけれども、人形は物を云わなかった。
「とにかくここに突っ立って、人形いじりをしていたって、どうも一向はじまらないよ。家へ帰ってゆっくりと、人形いじりをすることにしよう」と玄女はスタスタ歩き出した。
「それがいいいい」と猪右衛門も、玄女と並んで歩き出した。しかし十間とは行かなかったろう、
「古道具買さん古道具買さん、ちょっとお待ち下さいまし」
それは女の声であった。
驚いた玄女と猪右衛門が足を止めて振り返ると、いずれ走って来たのだろう。息を切らせた若い娘と、若い武士とが立っていた。
娘は民弥、武士は右近丸、うまく二人を目つけたのである。
民弥を見ると猪右衛門は、これは! というような表情をしたが、「オヤオヤこれは先刻方、人形をお売り下された、お嬢さんではございませんか。何かご用でございますかな」こう云いながら猪右衛門は素早く玄女へ眼配せをした。用心しろと云ったのである。
「はい」と云うと娘の民弥は気の毒そうに云い出した。「少し都合がございますので、お売りいたした人形を、買い戻しとう存じます。どうぞお返し下さいまし」
「成程」と云ったものの猪右衛門はどうしてどうして返すことではない。鼻の先でフフンと笑った。「がどうもそいつはいけますまいよ」
「それは又何故でございますか」民弥も後へ引こうとはしない。
「一旦買い取った上からは、この人形は私の物、お返しすることではございません」
「そう
「駄目だあアーッ」とがぜん猪右衛門は兇悪の香具師の本性を、露骨に現わして一喝した。「帰れ帰れ! 返しゃアしねえ!」
「これ!」と叱るように声をかけ、進み出たのは右近丸で見れば両眼を怒らせて、刀の柄へ手をかけている。
16[#「16」は縦中横]
「売りは売ったが金を返し、買い戻そうと申すのだ、何が不足で返さぬと云うぞ! 返辞によっては用捨せぬ! 懲しめるぞよ、どうだどうだ!」
こう云ったが右近丸は感付いた。「ははあ儲けが欲しいのだな」そこで今度は穏しく、「成程なるほど考えて見れば、お前は
だが香具師の猪右衛門は相手にしようとはしなかった。
「駄目だアーッ」と再び
「おっ!」と叫んだは右近丸である。「ううむ、
「知っているのが不思議かな!」猪右衛門はいよいよ嘲笑的に、憎々しく首を突き出したが、「まず云うまいよ、明かすまいよ。が、ハッキリと云って置く、それさえ解いたら素晴らしいものが、手に入ることになっている、南蛮寺の謎――唐寺の謎が、籠っているのだ、人形にはな! だからよ小判一枚と、青差一本というような、破格な高価で買ったのさ! そうでなかったらこんな人形、そんな高価で買うものか! オッと待ったり」と猪右衛門は
「それがいいねえ、そうしよう」
こう云ったのは玄女である。胸にしっかり人形を抱き、猪右衛門と右近丸の問答を、面白そうに見ていたが、こうこの時云ったのである。
「それじゃア走って行くとしよう、お前さんも急いで来るがいいよ。さあさあおいでよ、猪右衛門さん!」
「よし来た、急ごう、それ走れ」
そこで玄女と猪右衛門は右近丸と民弥を尻目にかけ、サーッと四ツ塚の方へ走り出した。怒りをなしたのは右近丸である。
「待て!」と一声呼びかけたが、すぐに民弥を振り返った。
「ご覧の通りの彼等の有様、人形の秘密を知った上で、ペテンにかけて買い取った様子、とうてい尋常では返しますまい。もうこうなっては止むを得ませぬ、腕を揮うは大人気ないが、今は揮わねばなりますまい。
腰の
「はい、それではこの
「待て!」ともう一度声を掛け、逃げて行く猪右衛門の
「ワッ」と云う喚き! 猪右衛門だ! もんどり打って倒れたが、不思議と血潮は流れなかった。当然である。右近丸がこんな下人を切ったところで、無駄な殺生と考えて、ピッシリ峯打に後脳を、一つ喰らわせたに過ぎなかったのだから。
香具師の頭の猪右衛門は、しかし右近丸が思ったより、獰猛な性質の持主であった。打たれて地上へは倒れたが、隠し持っていた一腰を、引き抜くと翻然飛び上った。
「こんなものだアーッ」と凄じい掛声! 右近丸を目掛けて猪右衛門は一本「突き」を突っ込んだ。立派な腕前、油断のならぬ気魄、右近丸思わずギョッとしたが、さてその右近丸ときたひには、この時代の剣聖塚原卜伝、その人に仕込まれた無双の達人、香具師の頭猪右衛門などに、突かれるようなヤクザではない。横っ払いに払い捨てた。と、チャリーンと太刀の音! 人通りの絶えた寂しい五条、そこの夜の気に響いたが、さすがに気味の悪い音であった。
と、一方この時分、民弥は懐刀を振りかざし、玄女の行手へ突っ立っていた。
17[#「17」は縦中横]
行手へ突っ立った娘の民弥、
「
言葉は優しいが態度は強く、厭と云ったら用捨しない、懐刀で一
しかし一方香具師の頭、玄女も決して只者ではなかった。
「民弥さんとやら、断わりましょう」にべもなくポンと付っ刎ねたが、「この人形の返されない訳は、今も仲間の
胸に抱いていた人形を、左の脇下へ
と、玄女飛び込んだ。民弥の肩へズーンと一刀! 刀の切先を突き立てたのである。
なんの民弥が突かれるものか、右へ流すとひっ
「さあさあみんな出ておくれよ!」
するとどうだろう、声に応じ、家の陰やら木の陰やら、橋の下やら、土手の下から、二十人あまりの人影が、獲物々々を打ち振って、黒々として現われた。
こういうこともあろうかと、
グルグルと民弥を引っ包んだ。
「さあさあお前達力を合わせ、この娘を手取にするがいい」
飛び起きた玄女は声を掛けた。「仲々綺麗な娘だよ、捕らえて人買へ売り込んだら、相当の金になるだろう。切ってはいけない、傷付けてもいけない、お捕らえお捕らえ捕らえるがいい!」
「合点々々それ捕らえろ!」
「ソレ引っ担げ引っ担げ!」
香具師の面々声掛け合わせ、ムラムラと民弥へ押し
仰天したのは民弥である。こんな
「これは大変なことになった。……もうこうなっては仕方がない。血を流すのは厭だけれど、切り散らさなければならないだろう」
そこで一躍右へ飛び、ヒューッと懐刀を打ち振った。「ワッ」という悲鳴! 倒れる音! 香具師の一人切られたらしい。
しかし香具師共は二十人以上、しかもその上命知らず、兇暴の精神の持主である。一時サーッと退いたが、すぐまた民弥を取り巻いた。
「女の手並だ、知れたものだ、組み敷け組み敷け、取り抑えろ!」
棒を投げ付ける者もある。足を攫おうとするのである。縄を飛ばせる者もある。引っくくろうとするのである。
今は民弥も必死である。サーッと一躍左へ飛び、「エイ!」と掛声!
またもや香具師共はサーッと引き、遠巻きにして取り巻いたが、「強いぞ強いぞ、案外強い! と云ったところでたかが女、蹴倒せ蹴倒せ踏み倒せ!」
そこでまたもや寄せて来た。
民弥武道には勝れても、若い女のことである、敵を二人迄切っている。
「一度に寄せろ、占めた占めた! 女は疲労た、からめ捕れ! この機を外すな、からめ捕れ!」
香具師共ドッと押し寄せた。
以前程の元気はないのである。民弥は疲労ているのである。そこを狙って多勢の香具師共、一度に寄せて来たのである。危険だ危険だ捕らえられるかも知れない。
だがこの時声がした。
「強いぞ強いぞ侍めは! あぶないあぶない一時逃げろ!」
他ならぬ猪右衛門の声である。
つづいて右近丸の声がした。「お助けいたす、民弥殿!」
バタバタバタバタと足の音! 右近丸のために切り立てられ、逃げて来た猪右衛門の足音である。それに続いてまた足音! 猪右衛門の後を追っかけて、走って来た右近丸の足音である。
と、「ワッ」という数声の悲鳴! 民弥をグルグルと取り巻いていた香具師の群から起こったが、これは馳せ付けた右近丸が、太刀を揮って
当然香具師の円陣が崩れ、バラバラと四方へ別れたが、四ツ塚の方へ走り出した。
つと現われたは右近丸、「おお民弥殿!」
「右近丸様!」
「どこもお怪我は?」
「ございませんでした」
力が抜けたのか娘の民弥が、グッタリと右近丸へもたれるのを、胸で支えて左手で抱き、右手に握った血刀を、グーッと高くかざしたが、右近丸大音に呼ばわった。
「人形を返せ! 人形を返せ!」
しかし玄女も猪右衛門も、手下と雑って逃げるばかりで、返辞をしようともしなかった。
「残念々々、人形をみすみす取られる、みすみす取られる!」
「右近丸様!」と血走った声! 民弥は元気を取り返したらしい。
「追っかけましょうどこまでも! 取り返しましょう人形を!」
「しかし」と
「無理にも走って参ります! 途中で血を吐き死にましても、きっと走って参ります! 永年の間お父様が、苦心して調べた唐寺の謎、それを解き明かした研究材料、それを持っている人形を、
「立派な決心!」と右近丸は感激した声で叫んだが「それでは一緒に!」
「追っかけましょう!」
「
負けずに民弥もひた走った。
右近丸の持った血染めの太刀、民弥の持った血染めの懐刀、走るに連れて月光を弾き、凄じくキラキラ反射する。
不意に、玄女は振り返った。
「オイいけないよ。猪右衛門さん、あいつ等どこ迄も追っかけて来るよ」
猪右衛門も
「だがねえ」と玄女は
「おっ、なるほど、それはそうだ! どうしたらよかろう、よい智慧はないか?」
「道を違えて走ろうよ、そうして途中でまくとしよう」
「そいつァよかった、是非まこう」
そこでにわかに玄女と猪右衛門は部下の香具師共と引き別かれ、北山の方へ走り出した。
早くも見て取った右近丸と民弥は、見失っては一大事と、すぐにそっちへ道を取り、ヒタヒタヒタと追い迫る。
逃げて行く玄女と猪右衛門と、追って行く民弥と右近丸、どっちも足弱連れである。一方まくことも出来なければ、一方まかれもしなかった。
四人いつの間にか町を出て、北野の方へ走っていた。二十人あまりの香具師の群は、とうに四方へ散ってしまい、
北野を過ぐれば大将軍、それを過ぐれば小北山、それを過ぐれば
四人が四人とも疲労した。だが逃げなければならなかった。だが追わなければならなかった。
ちょうどこの頃のことである、
18[#「18」は縦中横]
地上に鏡が置いてある。坐っている女が覗いている。月光が鏡を照らしている。魚の横腹を思わせるような、仄かな煙った光芒が、その鏡から射している。
「いよいよ時期が近付いた。
独り言を云っている。だがどうしてその女には、そういうことが解るのだろう? そうして一体この女は、どういう身分の女なのだろう?
年の頃は
いつぞや京都二条通りで、時世を諷し、信長を譏り、森右近丸を飜弄した、あの時の巫女とそっくりである。そっくりどころかその女なのである。
だがどうしてその女が、こんな寂しい森の奥に、一人で
女の坐っている後方にあたって、一点の
何という古風な社だろう! その様式は
社に添って家がある。おおかた似たような様式である。やはり階段がついている。その正面に扉がある。出入口に相違ない。勾欄を巡らした廻廊が、家の
月がそれらを照らしている。で、一切の建物が、
と、女は
「
「はい御姫様」と云う声がした。社務所の中からしたのである。と、社務所の戸が開いて、一つの人影が現われた。廻廊を渡り階段を下り、月光の中へ現われたのを見れば、白髪を結んで肩へ垂らした、六十余りの老女であった。質素なみなりはしているが、上品で柔和で慈悲深そうな容貌、立派な素性を現わしている。
「宵も更けましてございます、もうお休みなさりませ」云い云い老女は近寄ったが「これはこれは
並んで鏡を覗き込んだ。
「ね」と巫女は――唐姫は、またもや鏡に見入ったが、「ね、人影がしかも四人、私達の
「まあまあ左様でございますか」こうは云ったが老女には、鏡に映っているという、人間の姿など
「ああそうとも走って来るよ、一人は若武士、一人は娘、後の二人は香具師らしいよ。卑しい
じっと鏡に見入ったが、尚も唐姫は云い続けた。
「それも普通の人達ではないよ、私達
ほんとにどうしてそんなことが、この唐姫には解るのだろう? 月光に反射して朦朧と、鏡は光っているばかりである。そんな人影など
それにもかかわらず唐姫にだけに、そういうことが解るのなら、唐姫という女には、特別に違った感覚が、備わっているものと見なければならない。
と、唐姫は立ち上った。
「もう間もなく遣って来よう! 私達の
「はい」と云うと老女の浮木は逞しい声で呼ばわった。「姫君お呼びでございますぞ! 方々お集りなさるよう!」
声に応じて数十人の人影が森の四方から現われた。
唐姫の前方数間の手前で、膝折敷いて下坐をした。慇懃を極めた態度である。
唐姫はスッと見廻したが、
「
「は」と答えると一人の庭師が坐ったままで辞儀をした。
「大儀ではあるが衆を率い、
「は」と答えたが一人の庭師が同じく坐ったまま一礼した。
「大儀ではあるが衆を率い、同じく造庭境の入口へ参り、香具師風の男女をひっ捕らえ、ここまで連れて参るよう」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは
「では
二派に別れた数十人の庭師、スタスタと歩くと森へ入り、すぐに姿を隠したが、あたかもこの頃猪右衛門と玄女が右近丸と民弥に追いかけられ、衣笠山の坂道を、上へ上へと上っていた。
19[#「19」は縦中横]
一際こんもりした森林が、行手にあたって聳えている。ちょうどその辺りまで来た時である。傍らの灌木の茂みを抜き、ガラガラと何物か投げ出された。
「あッ」と叫んだは猪右衛門、でもんどり打って転がったが、鎖で足を巻かれている。
同時に叫んだは玄女である。同じくドッタリ倒れたが、是も鎖で巻かれている。
「先ずは捕った」という声がして、灌木の陰から現われたのは、六七人の庭師であった。
「有無を云わすな、猿轡をかけろ、それから担いで引き上げろ!」一人の庭師が囁いたが、これ他ならぬ四郎太であった。
「帰れ帰れ、巷の者共、穢してはならぬよ、処女造庭境を! そこから一歩踏み込んだが最後、迷路八達岐路縦横、再び人里へは出られぬぞよ!」
続いてドッと笑う声が天狗倒しの風のように、物凄じく聞こえてきた。「おっ」と云ったは右近丸で、ピッタリ足を止めたが、声のした方へ眼をやった。
大森林が聳えている。月光もその中へは射し込まない。宏大な城の鉄壁のように、ただ黒々と聳えている。
恐れぬ二人、右近丸と民弥は、サーッと森の方へ駈け上った。
「
だが恐れない二人であった。サーッと上へ駈け上る。
と、一つの辻へ出た。森林の中に八本の道が、全く同じ形をとり、八方へ延びているのである。
と、一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人はひた走った。とまた一方から声がした。
「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人は
とまた一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人は方向を変え、声のする方へひた走った。
すると今度は八方から、嘲ける声が聞えてきた。「こっちだこっちだ、こっちだこっちだ!」
怒りを発した右近丸は今は平素の思慮も忘れ、ひたむきに一本の道を辿り、サーッばかり[#「サーッばかり」はママ]にひた走ったが、ハッとばかりに気が付いて立止まって
――民弥とはぐれてしまったのである。
さてその翌日のことである、一人の女が物思わしそうに、京都の町を
20[#「20」は縦中横]
ほかでもない
どうしてさまよっているのだろう?
それは
が、ああいう親切なお方だ、今日は訪ねて下さるだろうと、心待ちに待っていたのであったが、今迄待っても姿を見せない。そこで目当てはなかったが、とにかく町へ出てお探ししてみようと、今彷徨っているのであった。
ここは室町の通りである。午後の日が華やかに射している。道も明るく、家々も明るく、歩いている人も明るかったが、民弥の心は暗かった。
全く宛がないのであった。
どこへ行ってよいか
まるで放心したように、歩く足さえ力なく、ただフラフラと歩いて行く。
年の頃は六十前後、
それが民弥へ話しかけた。
が、話しかけたその瞬間、老人の顔は優しくなった。
「これはこれはお嬢様、よいお天気でございますなあ」こんな調子に話しかけた、親切らしい猫撫声である。
「はい」と云ったが
「お寺参りでございますかな」こんなことを云いながら、老人は並んで歩き出した。
「あの、いいえ、人を
「おやおや左様でございましたか、どなたをお尋ねでございますな」
「はい、若いお侍様を」
「ほほう、成程、お侍様をな、で、どういうお方なので?」
何となく老人は訊くのであるが、勿論心中ではよくないことを、きっと巧らんでいるのだろう。
「大事なお方なのでございますの」民弥は
平素の民弥なら
お
「成程々々、大事なお方で。……何というお名前でございますかな?」
「森右近丸様と申します」
「おやおや左様でございましたか。それはまことに幸いで、そのお方ならこの老人が居場所を存じて居りますよ」
「まあ」と云ったが娘の民弥は、驚きもすれば喜びもした。
「それでは本当にお爺様には森右近丸様の居場所を、ご存じなされて居りますので?」
「はいはい存じて居りますとも。実はな、お嬢様、こういう訳で」
21[#「21」は縦中横]
それからベラベラと
「いや全く右近丸様ときては、立派なお方でございますなあ。……へいへい私の親類なので、甥にあたるのでございますよ。ええと年は三十五で……え? 何ですって、違いますって? アッハッハッ、さようさよう、三十五になんかなるものですか。ええと数え年十九歳で。……え、何ですって? 違いますって? さようさよう大違いで、アッハッハッ、ごもっとも。二十三歳でございますよ。……非常な美男で、剣道も達者で、浪人の身分ではありますが。……え何ですって、違ったというので? さようさよう、大違いで、間違いますなあ、よく間違う! アッハッハッハッ、こう間違っても困る。……左様でございますともご家臣で、信長公のご家臣で。
間違ったことばかり云っている。
でもし民弥が冷静だったら、当然疑いを挿んだろう。ところが民弥は冷静ではなかった。心がとうから
そこで民弥は夢中のように、老人の腕へ縋ったが、
「お爺様! お爺様! お爺様! さあさあ連れて行って下さいまし! さあさあ、逢わせて下さいまし、右近丸様は大事なお方、お逢いしなければなりません! 逢いとうございます、逢いとうございます! どうぞ逢わせて下さいまし!
「うむ、しめた!」と云ったように、老人は凄く笑ったが、「
そこで二人は走り出した。
往来の人が振り返る。さも不思議そうに二人を見る。一人は兇相の老人である。一人は無邪気な娘である、それが走って行くのである。不思議そうに見るのは当然だろう。
だが民弥は夢中であった。人に見られようが笑われようが、心に掛けようとはしなかった。一刻も早く右近丸様に、逢いたい逢いたいと思うのであった。
二人はズンズン走って行く。
22[#「22」は縦中横]
ここは柏野の一画である。
そこに一軒の家があった。
見掛けは極めて陰気ではあったが内は反対に陽気であった。
その陽気な奥の部屋に、十五六人の男がいた。
歌をうたっている者、酒を飲んでいる者、詈っている者、議論している者、取っ組み合っている者もある。いずれも兇相の連中である。その風俗も様々である。神主風の者もある。商人風の者もある。坊主風の者もある。武士姿をした者もあれば、
ガヤガヤみんな
「近来は思わしい仕事がない」
「こう不景気では仕方がない」
「地方へ行かなければならないだろう。都に仕事がないのだから」
「今日も戦、
「逃げまどう落城の女どもを引っ攫うのもいいだろう」
突然一人が歌い出した。
とその時奥の部屋から女の泣声が聞こえてきた。
「まだあの女は泣いているわい」
「どうせ売られて行く女だ、思うさま勝手に泣くがいい」
昼だというのに部屋の隅に、幾本か
綺麗な娘を攫って来て、遠い他国へ売り渡す、恐ろしい恐ろしい人買共の、此処は巣であり会所なのであった。
そうしてここにいる人間どもは、その恐ろしい人買なのであった。
と、部屋の片隅に、壁へ背中をもたせかけ、考え込んでいる少年があった。
だがどうしたのだろう猿若少年、今日はいつも程に元気がない。深い考えに沈んでいる。
「おい猿若よ、はしゃげはしゃげ!」
こう一人が声をかけた。片腕のない小男であった。勘八という人買であった。
「それどころじゃアありませんて」猿若の声は
「親方の
「へえ、そいつは不思議だね」もう一人の人買が声をかけた。
片眼が潰れた大男で、その綽名を一ツ目と云い、この仲間での小頭であった。「
「玄女姐さんも居なければ、
「おかしいなあ、どうしたというのだ?」こう訊いたのは勘八である。
「どうして行方が知れないのか、俺らには訳がわからないよ。二人ながら
「親方紛失とは気の毒だなあ」こう云ったのは一ツ目である。「どうだ猿若香具師なんか止めて俺達の仲間へ入らないか」
「真平ご免だ、厭なことだ」猿若は早速
「若い女を攫って来て、遠い他国へ売るような、殺生な商売は嫌いだよ」
「何だ何だこのチビ公、利いたようなことを云っているぜ。そういうお前達の商売だって、立派なものではないではないか」
「せいぜい盗みをするぐらいさ」
「それ、それ、それ、そいつがいけない」
「娘なんかは盗まないよ」
「金か品物を盗むんだろう」
「人形、人形、綺麗な人形!」
「え?」と一ツ目は訊き返した。
「人形を盗もうとしたってことさ」
「アッハッハッ、馬鹿にしているなあ、一人前の口は利くようだが、やっぱり子供は争われない、人形を盗もうとは可愛らしいや」
一ツ目が大声で笑ったので、人買共も一斉に、面白そうに笑い出した。
と、その笑声の終えない
先に立ったは老人であり、後に続いたは娘であった。
それと見て取るや人買共は、一度にタラタラと辞儀をしたが、「これはお頭、お帰りなさいまし」こう云ったのは一ツ目であった。
続いて勘八が声をかけた。「素敵な玉でございますなあ」
「ざっとした所がこんなものさ」老人は凄じく笑ったが、娘の方を振り返った。「何とか云ったね、民弥さんか! 大概は見当が付いたろうが、ここに居るのは人買だ。そうしてここは人買宿、そうして私は人買の頭、柏野の里の
「
「さあ娘ッ子、二階へ行こう」
むっと民弥の手を取ったが、その結果は意外であった。あべこべに民弥に腕を取られ、グッと逆手に返されたのである。
「さてはお前達は悪人だね!」
いわゆる裂帛の声である! 勘八を向うへ突き倒し、その手を帯へ差し入れたが、抜いて握ったは
「そうとも知らず連れ込まれたは、
壁を
驚いたのは人買共である。
23[#「23」は縦中横]
「油断をするな、大変な娘だ!」
「一度にかかって手捕りにしろ!」
「相当武芸も出来るらしい。甘く見込んで怪我するな」
そこで一同ダラダラと並び、隙を狙って飛びかかろうと、民弥の様子をうかがった。
飛び込んで来い! 叩っ切る!
父は何者かに殺されてしまった。手頼りに思った右近丸は、どこへ行ったか行方が知れない。それだけでさえ不幸なのに、その上他国へでも売られたら、いよいよ不幸と云わなければならない。
助ける者はないだろうか?
人買共は
助ける者はないだろうか?
だがこの時何者だろう、家から飛び出した者がある。
例の猿若少年であった。
門口から民弥へ声をかけた。
「おい民弥さん民弥さん、往生して捕虜になるがいい。ジタバタ騒ぐと怪我をするぜ。捨てる神があれば助ける神がある。機会をお待ちよ機会をお待ちよ。
ポイと往来へ飛び出したが、数十間走ると足を止め、腕組みをすると考え込んだ。
「気の毒だなあ、民弥さんは。……どうも大変なことになった。……あの人の人形を盗もうとしたり、お父さんを殺しはしたものの、本心からやったことではない。親分の指図でやった事だ。……俺らの本心から云う時は、綺麗な民弥さんは好きなのだ、人買の奴等に捕らえられ、他国へ売られては可哀そうだなあ。多勢に一人、殊には女、捕らえられるは知れている。……どうぞして
この猿若という少年は、元から悪童ではなさそうである。境遇が悪童にしたようである。
そこで民弥の不幸を見るや、本来の善心が甦えり、真から民弥を助けようと、どうやら考えに沈んだらしい。
ここら辺りは郊外である。人家もまばらで人通りも少い。木立があちこちに茂っている。その木立へ背をもたせ、夕暮の陽に染まりながら、猿若はいつ迄も考えた。
「……他に手段はなさそうだ。うまく忍び込んで連れ出してやろう。……家の案内は知っている。……裏庭へ入り込み壁をよじ、二階の雨戸をコジ開けてやろう。……と云って日中は出来そうもない。宵闇にまぎれてやってやろう。ナーニ目つかったら目つかった時だ、何とかごまかしが付くだろう、付かなかったら仕方がない、戦うばかりだ、戦うばかりだ。……だがそれにしても今日の日は、どうしていつ迄も暮れないんだろう。同情のないお日様だよ」
呟いて空を見上げたが、決して決して今日に限って、日が永いのではなさそうである。
次第に夕空が暮れてきた。
「もうよかろう、さあ仕事だ」
木立を離れると猿若少年はもと来た方へ引っ返した。
ところが同じ日のことであったが、鴨川の水を溯り、一隻の小舟が
四五人の男が乗り込んでいる。
いずれも不逞の面魂で、善人であろうとは思われない。
夕陽が川水を照らしている。今にも消えそうな夕陽である。
「久しくよい玉にぶつからない。……今日はそいつにぶつかりたいものだ」
顔に痣のある男である。
「桐兵衛爺と来た日には、人攫いにかけては名人だ、いずれ上玉の三つや四つは、仕込んでいるに相違ない。真っ先に桐兵衛を訪ねよう」
ひそやかに小舟は進んで行く。
この時代における鴨川は、水量も随分たっぷりとあり、小舟も自由に往来した。
夕陽が次第に薄れてきた。
まばらの両側の家々や、木立に夜の色が滲んできた。
これは人買の舟なのであった。乗っている四五人の人間は、諸国廻りの人買なのであった。
「この辺りでよかろう、舟を
で小舟は岸へ寄せられ、傍らの杭に繋がれてしまった。
「さあさあ桐兵衛の
夕暗の逼ってきた京の町を、柏野の方へ歩き出した。
しかるにこの頃北山の方から、異形の人数が五人揃って、京都の町の方角へ、陰森とした山路を伝いストストストストと下っていた。
24[#「24」は縦中横]
一人は上品な老女であった。すなわち他ならぬ
後の四人は武士であった。が風俗は庭師である。その一人は
そうしてこれ等は云う迄もなく、処女造庭境を支配している
「民弥という娘を捕らまえて、唐姫様のお言葉を、是非ともお伝えしなければならない」
こう云ったのは浮木である。
「しかしくれぐれも云って置くが、決して手荒くあつかってはいけない。丁寧に親切にあつかわなければならない」
「かしこまりましてございます」
こう云ったのは三郎太である。「丁寧にあつかうでございましょう」
「南蛮寺の裏の貧しい家に、
またも浮木は云い出した。
「で慇懃に訪れて、事情を詳しく話すがいい」
「承知いたしましてございます」こう答えたのは銅兵衛である。
「唐姫様が仰せられた、お前達ばかりをやった日には、人相が悪く荒くれてもいる、恐らく民弥という若い娘は怯えて云うことを聞かないだろうと。で
「ご尤も千万に存じます」頷いたのは三郎太で「しかし我々が長い年月、心掛けていました南蛮寺の謎が、解かれることでございますから……」
「そうともそうともその通りだよ。だから妾も厭々ながら、京都の町へ行くというものさ。……が民弥という娘ごが、この私達の云うことを、
「もし民弥という娘ごが、不在でありましたら
「さあそれが心配でね」浮木の声は心配そうである。
「だが大概は大丈夫だろう。若い娘のことであり、父に死なれたということではあり。それにもう今日も夜になった、町など歩いてはいないだろう、大方は家にいるだろう」
で一同は歩いて行く。
どうやら話の様子によれば娘の民弥に用があって、民弥の家へ行くのらしい。
しかし肝心のその民弥が、家にいないことは確かである。桐兵衛という人買の家に、捕らえられている事は確かである。
一同は山を下って行く。ズンズンズンズン歩いて行く。
誰が民弥を手に入れるだろう?
うまく猿若が助け出すかしら?
遠国廻りの人買共が、それより先に買い取るだろうか?
それとも浮木の一団が、民弥の居場所を探し出すかしら?
とにかく一人の民弥を挿んで、三方から三通の人達が、競争をしているのであった。
ところで肝心のその民弥であるが、この頃どうしていただろう。
恐ろしい人買の桐兵衛の家の、真暗な二階の一室に厳重に監禁されていた。
雨戸がビッシリと閉ざされている。出入口も厳重に閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。その上両手は縛られている。開けようとしても開けることが出来ない。
彼女は格闘したのであった。しかし一人に大勢であった。
縛られてこの部屋へ入れられたのである。
「ああどうしたらいいだろう?」
民弥はじっと考え込んだ。
人買共の話声が、階下から遠々しく聞こえてくる。
隣部屋から泣声がする。やはり民弥と同じように捕らえられた不幸な娘たちが、監禁されているのだろう。
「ああどうしたらいいだろう」
またも民弥は呟いた。
と、にわかに笑声が、階下の座敷から聞こえてきた。続いて人買の親方の桐兵衛の
「ヨーこいつはいい所へ来た、遠国廻りのお仲間か。さあ上るがいい上るがいい。ちょうど上玉が一人ある。早速売り渡すことにしよう」
――どうやら鴨川から上陸した、遠国廻りの人買が、桐兵衛の家へ着いたらしい。
だがその時一枚の雨戸が音もなく戸外からスルスルと開けられ、顔を覗かせた子供があった。
誰なのか、猿若である。
しかしその時階段を上る、人の足音が聞こえてきた。桐兵衛の手下の人買が、民弥を連れに来たのらしい。
25[#「25」は縦中横]
最初に部屋へ入り込んだは、幸いにも猿若少年であったが、こう
「声を立てちゃあいけませんよ。俺らは怪しい者ではない。お前さんを助けに来たものだ。さあさあ逃げたり、お逃げお逃げ! オッとそうそう縛られていたっけ。これでは逃げるにも逃げられめえ。よしきた俺らが
こうして民弥を裏口から下ろし、自分も裏庭へ飛び下りたとたん、人買共がドヤドヤと、戸口から部屋の中へ入って来た。
「おっ、どうした、居ないではないか!」こう
「やっ、裏口が開いていらあ」続いて叫んだのは勘八であったが、直ぐに裏口へ飛んで行った。
「大変だ大変だ。逃げて行く! ……おっ、一人は小僧ッ子だ!」
「どれどれ」と一ツ目も覗いたが、「一人は民弥だ! 一人は猿若!」
「それじゃア猿若が裏から忍んで、助け出したに違いない! とんでもない小僧だ、うっちゃっては置けない」
バタバタと駈け下りた人買共は階下へ下りると叫び立てた。
「親方、やられた、攫われた!」こう云ったのは勘八である。
「何を!」と立ち上ったは柏野の里の桐兵衛、「何だ何だどうしたんだ?」
「何だじゃない、大変だ、あの小僧ッ子の猿若めが、民弥を攫って行ったんだよ!」
「え、ほんとうか、途方もねえ話だ! あんな素晴らしい上玉を、あんな小倅に横取られた日にゃア、俺らの商売は成り立たない! さあさあ皆な追っかけろ!」
「それ!」と云うと人買共は親方の桐兵衛を真先に、裏口から一散に走り出したが、もうこの頃には民弥と猿若は、数町のあなたを走っていた。
「さあさあ民弥さん、お走りお走り! ぐずぐずしていると取っ捉まる。取っ捉まったらもういけない。それこそ酷い目に逢わされる。売られるだろう売られるだろう。それも遠くへ売られるのだ。二度と都へは帰れない。……おやいけない。足音がする。あッいけない追っかけて来る。力一杯逃げたり逃げたり!」
で、二人は走って行く。
この辺りは郊外で人家に乏しく、林や藪が立っている。すなわち小北山の山脈で、道らしい道も出来ていない。たとえ助けを呼んだところで、助けにやって来る人はない。でどうしてもひた走って、町の方へ出なければならないのである。
おりから月夜で物の影が見え、逃げて走るには不便であった。隠れることもむずかしく、横へ反れることもむずかしい。でどこ迄も逃げなければならない。
南へ走れば町へ出られる。東へ走っても町へ出られる。だがもし北の方へ走ろうものなら、南鷹ヶ峰の山地となり、そうして西の方へ走ろうものなら、小北山から衣笠山となり、同じく町へは出られない。
26[#「26」は縦中横]
ところが人買の追手達は、東の方から走って来る。だから東へは逃げられない。どうでも南へ逃げなければならない。ところがそっちへも逃げられなかった。と云うのは人買の追手共が、にわかに同勢を二つに分け、一手が南へ廻ったからである。で二人は残念ながら、西へ西へと逃げることになった。
一人は子供で一人は娘、足の弱いのは知れている。とはいえ命がけの場合である。いつもの二倍も走ることが出来る。
一所懸命走って行く。走りながら猿若は
「ねえ民弥さん民弥さん、俺らを疑っちゃアいけないよ。安心して俺らに
民弥は無言で走って行く。民弥には全く不思議であった。
何が何だか
で、黙ったままひた走る。
だが精力には限りがある。だんだん二人は
「ああもう
民弥がこう云って足を止めた時、人買の追手が追い逼った。
すぐに民弥と猿若とを、グルグルと包囲したのである。
「これ」と
「民弥、猿若、もう駄目だ!
「さあ来やアがれ!」と五六人の人買が民弥と猿若とへ飛びかかった。
「何だい何だい悪者め!」こう
「来やがれ来やがれ、叩っ切って見せる」
そこで懐刀を振り廻したが、疲労てはいるし敵は大勢、到底勝目はなさそうであった。
民弥に至っては尚更である。立っているさえ苦しい程に、心も休も疲労切っていた。
「
救いの声を立てながら、ヒョロヒョロ逃げ廻るばかりである。
こうして民弥と猿若とは、せっかくここ迄は逃げて来たが、またもや人買の手にかかり、連れ戻されなければならなかった。
だがその時
見て取ったのは民弥である。追い廻す人買を突きのけて、一散にそっちへ走り出した。
「民弥めが逃げるぞ、追っかけろ!」
人買が後を追っかける。
27[#「27」は縦中横]
しかしその時には娘の民弥は、松火をかかげた一団の中へ、身を躍らせて飛び込んでいた。
「これは娘ごどうなされた」
こう云いながら見守ったのは、一人の立派な老女であった。他でもない
「はい」と云うと娘の民弥は、クタクタと土へ崩折れたが、「
「なに、民弥? ほほう左様か、これは幸、よい所で逢った。実はな、お前さまに逢おうと思うて、わざわざ山から下ったものでござるよ、……と云うのは他でもない、南蛮寺の謎につきましてな、お
ここで浮木は庭師達を見たが、「あいや方々お聞きの通り、人買共が民弥殿を、
「心得てござる」と答えたのは、庭師の一人の
「さあ方々」とその銅兵衛は味方の三人を見廻したが、「一度に抜き連れ、叩っ切りましょうぞ!」
声に応じて四本の大刀[#「大刀」はママ]がキラキラと松火に反射した。四人腰の物を抜いたのである。
庭師の扮装はしているが、決して尋常な庭師ではなく、いずれも名ある
だが人買の連中には、どうやらそんなことは
嘲笑ったは銅兵衛で、「黙れ! 鼠賊! 何を云うか! 民弥殿は我らが守護いたす、
ヌッと踏み出した気塊というものは、凄じい迄に高かった。
ギョッとはしたが人買の桐兵衛、こいつも甲斐撫での悪党ではなかった。後へ退がると引き抜いた。「やあ手前達邪魔が入った、邪魔な奴から
手下に向かって声をかけた。
「云うにゃ及ぶだ」と人買共は一斉に抜き連れ飛びかかった。
「命知らずめ!」と一喝くれ、真っ先立って飛び込んで来た、人買の一人を大袈裟に、一刀にぶっ放した庭師の銅兵衛、「幾人でも来い、さあさあ来い! 一度にかかれ! さあさあかかれ!」
血刀を揮って切込んだ。続いて三人が躍り込む。それを人買がおっ取り巻く。キラキラ! 太刀だ! 月光に映じ、十数本の太刀が閃めいたのである。悲鳴! つづいて仆れる音! 人買が切られて仆れたのであろう。
むこうに一群、こっちに一群、庭師と人買とが切り合っている。バラバラと逃げる一群がある。それを追って行く一群もある。
と、一方では猿若少年が、二三人の人買を相手にして、懐刀を縦横に揮っている。
「しめたぞしめたぞ味方が出た! 敗けっこはない敗けっこはない! さあさあこいつらめ鏖殺だ! まるかって来い、まるかって来い!」
庭師の群が現われて、助太刀をすると見て取ったので、
月光が上から照らしている。地上に捨てられた松火が、焔を上げて照らしている。
と、その時意外の事件が、忽然勃発することになった。
浮木の姥の傍に立って、乱闘を見ていた娘の民弥が、何と思ったか身を飜すと、町の方を目掛けて一散に、野草を蹴散らして走り出したのである。
一体どうしたというのだろう? 乱闘に驚いて逃げたのであろうか? それとも何かそれ以外に、逃げて行かなければならないような、大事な理由があるのだろうか?
大事な
「山から下って来た庭師風の人達、南蛮寺の謎を解こうとして、
で、民弥は逃げ出したのである。
仰天したのは浮木の姥で、「民弥殿、民弥殿、逃げてはいけない。何も恐ろしいことはない。戦いは我らの勝でござる。そうして我らは悪者ではござらぬ。お帰りなされ、お帰りなされ」――で後を追っかけた。
何で民弥が帰るものか。民弥は懸命に走って行く。
木間を
しかし民弥は逃げられなかった。
行手に盛り上った森があり、そこの前まで駈けて行った時、五六十人の同勢に、グルグルと取り囲まれてしまったのである。
28[#「28」は縦中横]
大方の者は赤裸で、
つかみ乱した頭の髪、それを荒縄で巻いている。
「あっ」と仰天した娘の民弥は、ベッタリ地上へ坐り込んでしまった。
極度に胆を潰したのである。
胆の潰れたのは当然といえよう、一難が去れば一難が来る。そうして新しい災難は、以前の災難よりより以上、恐ろしいものであるのだから。
気丈の民弥も顫え上り、茫然として見守った。
が、それにしてもこの連中は、どういう身分の者だろう?
浮木の姥が走って来て、その連中とぶつかった時、大体身分の見当が付いた。
「おっ、
「珍らしいの、浮木の姥か」
こう云って進み出た壮漢は、この一党の頭と見え、荒々しい顎鬚を顎に
「
「うむ」と云ったが浮木の姥は、かなり
「ご覧の通りさ、たった今さ」
「で、何のために上洛したな?」
「
「が、そいつはよくあるまい」浮木はその眼をひそめたが、
「あの信長めが京師を管理し、威令行なわれているからの」
「そんなことには驚かないよ」星影左門は笑ったが「何の検断所の役人どもに、指一本でもささせるものか」
「が、それにして何のために、五六十人ばかりの同勢で、いまごろ上洛して来たな?」
「唐姫殿が欲しいからよ」
「ふふん」と浮木は嘲笑った。「お前のような人間は、唐姫様にはお気に召さぬそうな」
「それは昔から
「が、腕ずくでも手に入れて見せる」
浮木の姥はまた笑ったが、「我等の勢力を知らぬと見える」
すると左門も笑ったが、「そういうことを云うお姥こそ、我々の勢力を知らぬと見える。……と云うのはここにいる人数こそ、六十人にも不足だが、なお後から続々と、大勢の者が
「ふふん」と云ったものの浮木の姥はいささか胆を奪われたらしい。「よかろうよかろう幾百人でも来い。しかし我等が固めている、処女造庭の境地へは、一歩たりとも入れぬからの」
「入れぬと云っても入ってみせる。がそれは後日の問題だ。今夜はこれで別れよう」
「これ」と浮木は声を強めた。「娘をこちらへ引き渡せ」
すると左門は民弥を見たが「随分美しい娘だの。酌などさせたら面白かろう。……お気の毒だが渡されぬよ」
「是非とも渡せ! 大事な娘だ!」
「ほほうそんなにも大事かな?」
「大事な娘だ、さあさあ渡せ!」
「では」と云うと星影左門は一層意地の悪い顔をしたが、「では尚更渡されぬよ。と云うのはこいつを囮にして、我等の望みを遂げたいからさ」
ここでグルリと手下を見たが、
「さあさあ
もうこうなっては仕方がない、浮木はたった一人である、左門の一党は多勢である。
「娘を渡せ! 娘を渡せ!」
浮木の叫ぶのを意にも介せず、
「どうぞお許し下さいまし、家へ帰らして下さいまし」
こう云う民弥の言葉も聞かず、大盗茨組の一党は、民弥を数人で宙につるし、悠々として山路を下り、京都の町へ入ったが、そのまま
29[#「29」は縦中横]
が再びそれが現われた時には、南蛮寺の前に立っていた。
ところが茨組の一党の後から、ひそかに歩いて来た少年があった。他ならぬ猿若である。その猿若は小北山における、例の乱闘の
「これが有名な南蛮寺か」
「いや立派な伽藍ではある」
「
「莫大な費用がかかっているらしい」
賊どもは互いに呟いている。
蒼白くひろがった月光の中に、尖塔を持ち
夜が相当深いので、往来を通る人もなく、夜警にたずさわる検断所の武士も、他の方面でも巡っているのであろう。ここら辺りには見えなかった。
「噂によれば南蛮寺には、大変もない値打ちのあるものが、貯えられているということだが、どうぞして
こう考えたは一党の頭、すなわち星影左門であったが、手下の者を見廻した。
「誰でもよいから
つまり命令を下したのである。
いつもは
それには理由があるのである。
始めて眼にした南蛮寺、
で、どうにも入り込みにくい。
で、一同黙っている。
「ふん」と云ったのは星影左門で、改めて手下を見廻したが、「行くものがないのか、臆病な奴等だ。よしよしそれなら頼まない。この俺が自分で出かけて行こう」
そこで鉄棒を小脇にかかえ、スルスルと門際へ歩み寄ったが、その星影左門さえ、結局寺内へは踏み入ることが出来ず、その上娘の民弥をさえ、捨ててしまわなければならないような、意外な事件にぶつかってしまった。
と云うのは突然門の内から、かつて一度も聞いたことのない、微妙な不思議な音楽の音色が、さも荘厳に湧き起こり、続いて正面の門が開き、そこから数本の松火を持った、数人の男が現われたが、それに守られた一人の老人が、「民弥よ民弥よ、恐れるには及ばぬ、
まずこう云ってから賊どもを見廻し、「ああ汝等も救われるであろう。改心をせよ、改心をせよ、一切悪事というものは、改心によって償われる、まず手はじめにすることは、捉えている娘を離すことだ、そうしてこっちへ手渡すがよい! そうして坐れ、土の上へ! そうして拝め、唯一なる神を!」
こう云って威厳のある眼を以て、次々に賊共を睨んだので、賊共は等しく胆を潰し、民弥を放すと一同揃って、大地へひざまずいたからである。
で、民弥は小走ったが、その老人の袖へ縋った。
「ああ
「民弥か、おいで、怖れることはない」
「はい有難うございます。どうぞお助け下さいまし」
で、民弥とオルガンチノとは、門を
と、すぐにその後から、猿若少年が飛び込んだ。民弥を慕って飛び込んだのである。
やがて門は内から閉ざされ、松火も隠れ音楽も消え、あたりは全く
だがもし誰か民弥達と一緒に、南蛮寺の寺内へ入って行ったなら、その寺内の一室から、民弥とそうしてオルガンチノとが、次のように話していることを、耳にすることが出来たろう。
「おお、まアそれではお父様が!」
「見られる通りの有様でござる」
「お父様! お父様! お父様!」
「静かになされ、静かになされ!」と。……
30[#「30」は縦中横]
処女造庭境とは何物であろう?
衣笠山から小北山、鷹ヶ峰から釈迦谷山、瓜生山から白妙山、その方面の山林地帯へ、種々様々の迷路を設け、またいろいろの防禦物を作り、都の人間を入れないように、造を構えた地域であって、特に男性を入れないようにしたのと、それを作った頭なるものが、美しい処女であったのとで、処女造庭境というような、物々しい名をつけたまでで、特別の境地ではなかったのである。つまり自然を利用した、一個の広い砦なのであった。
その頭は何という女か?
で、ここは処女造庭境の神明づくりの社の前である。
二人の男女が縛られて、大地の上に据えられている。
ところで今はいつかというに、民弥が南蛮寺へ入り込んだ、そのおんなじ夜なのである。
「いつ迄縛って置くのだろう。どうにもこうにもやりきれないなあ」こう云ったのは猪右衛門。
「ほんとにほんとにどうする気だろう」こう云ったのは玄女である。
「とうとう人形も取られてしまった」
「犬さんが骨を折りまして、鷹さんに取られたというものさ」
「取った鷹さんはよかろうが、取られた犬さんはつまらない」
「その犬さんが私達さ」
「
「もっと酷い目に逢うかもしれない」
「もうこれ以上は御免だよ」
「どだいお前が悪いのだよ」玄女が猪右衛門をやっつけた。
「ううんお前がよくないのさ」
「ナーニお前がよくないのさ、と云うのは道草を食っていたからさ、人形を盗んだら大急ぎで、飛び帰ってくればよかったのに」
「と云うことが云えるなら、俺の方にだって
「何だか知らないがお前が悪い!」
「何だか知らないがお前が悪い!」
「いいえさ、お前だ!」
「何のお前だ!」
人間が逆境に落ち込むと、仲好し迄が喧嘩をする。例えに洩れずというのでもあろう、玄女と猪右衛門とは争い出した。
やがて二人は掴み合いをはじめ、互いに咽喉を締め合った。そうして二人ながら死んでしまった。
ところがこの頃社務所の中の、
唐姫と右近丸と浮木である。
「……と云うわけでございまして、民弥殿を目付けはしましたが、惜しいところで茨組共に、奪い去られましてございます。使命をお果しすることが出来ず、何とも申しわけござりませぬが、事情が事情ゆえ特別を以て、何卒お許し下さいますよう。……それはそれとして民弥殿は、お可哀そうにも茨組共に、連れて行かれたのでございます。ところで茨組と来た日には、ご存知の通りのあばれもの。で、民弥殿のお身の上、心元のう存ぜられます。と云ってはたして茨組共は、どこに根城を構えていて、どこへ民弥殿を連れて行ったものやら、これさえ今のところ一向わからず、いよいよ心元のうございます」
こう云ったのは浮木である。
民弥を探して探しそこなった、その事情を話しているのである。
「困ったことになりましたねえ」
こう云ったのは唐姫で、チラリと右近丸の顔を見た。
右近丸は黙ってうつ向いている。その顔色は蒼白い。頬が痙攣を起こしている。感動をしている証拠である。民弥が賊に奪われたと、そう聞いたので心配し、それが痙攣を起こしたのであろう。
部屋の中は清らかである、だがたくさんの武器がある。鉄砲、刀、槍、弓矢、……
三人しばらくは無言であった。
で、部屋の中は静かであった。
31[#「31」は縦中横]
だが
「茨組と云う賊共は、父の旧家臣にございます。その頭の名は
そこで右近丸は立ち上ったが、そのまま社務所から外へ出た。
月のあきらかな山路を、京都の方へ下って行く。
案内役は銅兵衛である。松火を持って先へ立った。
造庭境の出口へ来た。
「これでお別れいたしましょう」
「ご苦労でござった。では御免」
一人となった右近丸は、京都の方へ下って行く。
「
いろいろのことを思い出した。
玄女と猪右衛門とを追っかけて、処女造庭境へ入り込んだこと、そこの住民に捉えられたこと、今日迄監禁されたこと、しかし優待されたこと、玄女や猪右衛門の手許から、処女造庭境の連中が、例の人形を奪ったこと、そこで自分が申し出て、人形の眼を押させたこと、すると人形が叫んだこと、
「唐寺の謎は胎内の、肺臓の中に蔵してあろうぞ」と、
そこで人形を断ち割って、その肺臓をしらべた処、一葉の紙のあったこと、そうしてその紙に次のような、数行の文字が書いてあったこと、
「
「その肝心の多聞兵衛殿は、気の毒な変死をした上に、南蛮寺へ葬られてしまった。左右の胸を調べるとなると、なるほど土から掘り出さなければならない。大変な役目を引き受けたものだ」
右近丸は都へ下って行く。
都へ入ったのは間もなくであった。
夜分は南蛮寺はとざされている。
翌朝行かなければならなかった。
そうして翌朝行った時、驚くべきことが発見された。
死んだと思っていた多聞兵衛が、死なずに活きていたのである。
のみならず娘の民弥までいた。
「おお民弥殿!」
「右近丸様!」
抱き合ったのは云う迄もない。
唐寺の謎は解かれたか? いや解くことは出来なかった。多聞兵衛が拒否したからで、こう兵衛は云ったそうである。
「わしは南蛮寺の教義について、とんでもない誤解をしていたよ。だが南蛮寺に数日いて、その誤解を知ることが出来た。よい教えだ、立派なものだ。そうしてオルガンチノ司僧をはじめ、寺中の人達も立派なものだ。で、わしは帰依をする。わしもこの宗旨の信者になる。で、秘密は明かされない」
そうして絶対に多聞兵衛は、胸を見せなかったということである。いやいや見せないばかりではなく、その胸の上へ焼金をあて、
で南蛮寺の謎なるものは、遂に世人には知れなかったのである。
で、唐姫も信長も、けっきょく南蛮寺から何物をも、奪い取ることが出来なかった。
風船仕込みの毒薬は、強烈な催眠剤であったそうな。
しかしそれにしても唐寺の謎とは、どういう性質のものなのであろう?
更にその
そうしてこれら二つの謎を集め、総称して「唐寺の謎」と云い、その謎をひそかに解いた上、その黄金を手に入れようとして、織田信長や唐姫の徒や、
弁才坊事多聞兵衛は、吉利支丹そのものを邪法と認め、五億円の黄金は日本侵略の金と信じ、その金の在り場所を発見し、それを信長に告げ知らせ、その功によって家を再興しよう――こう思って唐寺の附近に住み、唐寺へ絶えず出入し、その才智と胆略とで、その黄金の在り場所を探り、謎をすっかり解いたのであった。しかしその秘密を紙などへ書いては、盗まれる憂いがあるというので、唐寺から窃取した薬品を以て、自分の胸へ焼きつけて、身を以て秘密を保ったのであった。
しかるに弁才坊は猿若によって、一時仮死の状態にされた。
それを唐寺のオルガンチノ僧正が、唐寺へ引取り介抱し、その間吉利支丹宗旨なるものの、邪宗でないことを説明したので、弁才坊は翻然悟り、黄金の在場所を未来永劫、他人に知らせないようにしたのであった。
その翌年の春が来た時、右近丸と民弥との結婚式が、織田信長の仲人の下に、安土城内において行なわれた。その客の中には改心をした猿若が、可愛らしいお小姓の姿をして、嬉しそうに雑っていた。栄達を嫌い隠遁をし、吉利支丹宗徒となった弁才坊も、この日は特に美々しく着飾って、出席したことは云う迄もない。
洛中洛外にはびこっていたところの、姦悪の人買の連中を、信長が指揮して根絶やしにしたのは、それから間もなくのことであり、その中には桐兵衛一味がいて、いずれも捕らえられて殺された。
「処女造庭境」に
信長に楯突くの非を悟り、関東の方へ居を移し、広大な山間の地域を領し、女ながらも大豪族として、永く栄えたということである。
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