日语文学作品赏析《科学の精神を》
科学的な学識や知識が、素人が考えるより遙かに科学の精神とは切りはなされたままで一人のひとの中に持たれているという場合も、現代の実際にはある。
或る婦人があって、そのひとは医学の或る専門家で、その方面の知識は常に新しくとりいれているし、職業人として立派な技量もそなえているのだけれども、都会人らしい、いろいろの迷信めいたものも一方にそのままもっていて、それは決してやめない。科学の知識は、極めて局限された範囲内で持っていることは確かなのだろうが、この場合、その人の全精神が、客観的な真実を愛すという科学の精神によって一貫されてはいないことも亦確だと云わざるを得ない。一寸考えると、ありそうもないこういうことが現実に存在する。
若い女性について、科学の知識は相当ある筈なのにそれが生活の中では一向活かされていない、という非難が
科学の精神というものと、ただの科学知識とは決して一つものでない。
どんなに身勝手なひとに思いやりのない母親でも、この頃の母親なら自分の子供を育てるのに一応科学的な知識が必要だということは心得ている。自分の子のためになら随分と面倒くさいヴィタミン補給の方法もとるであろうと思う。こういう母親は、自分の子にトマトをたべさせようと思って、店先に一つしかないのを見れば、もう一人そこにいる母親がどんな切迫した必要から、やはりその一つのトマトを欲しく思っているかもしれないなどとは思いもせず、必要の人が多ければ多いほど、我勝ちと猛ってそのトマトを買ってしまうだろう。うちの子にヴィタミンがいるという知識は、やはり科学知識の一つであるのにちがいはない。
しかし、そのとき、その場に居合わせる人の中でそのトマトを一番欲しがっているというよりも一番必要としているのはどういう状況の子供か、というところへ迄、母親としての念が働いてゆくとき、そこには最も初歩の形なりに科学の精神が輝くのだと思う。母性の愛は、科学の精神に導かれて、主我的な我が子への執着からよりひろやかな人間の子の母の心情へまで移って行き得るのである。
真実を
人間精神の溌剌さは、現実のうちではそういう不器用なハンダづけをとび越して、科学の精神そのものの道をとおって美であり善であるところへ迄も到達する可能を示している。母親の愛の感情が拡大され得る場合について考えても、これは私たちにとって決して虚構な希望ではないのである。
パストゥールの努力を描いた「科学者の道」という映画が今日なお私たちに与えている深い感銘も、この点にふれているからこそのことであろう。パストゥールが、科学の示した真実についてどこまでも譲歩せず屈従せず其の真実性を守ったことから人類への福祉はもたらされたのだし、感動的な美がその物語のうちに生じたのであって、万一あれがクリスチャン・サイエンスの映画であったら、何の美しさや感動があり得ただろう。
科学教育のことが云われるからには、有益な科学の原理的な知識とともに、無私なよい観察者としての能力と、独創性を発揮するに足りるだけの周密、動的な推理の力とを二本の脚とする科学の精神が、あらゆる男女の心に培かわれてゆくことを願っていいのであろうと思う。
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