• 日语中的文学作品与名著

    。 此外,还有川端康成的《雪国》、《伊豆的舞女》等作品,以其细腻的描写和深刻的情感表达,展现了本的自然美和人性的美好。村上春树的《挪威的森林》、《1Q84》等作品,则以其独特的叙事风格和深刻的思想内涵,吸引了全球读者的关注。 四、阅读日语文学作品的建议 阅读日语文学作品是了解本文化的重要途径之一。对于初者来说,可以选择一些经典的短篇小说或散文进行阅读,逐渐适应日语言风格和表达方式。在阅读过程中,要注意理解作品的主题和思想内涵,以及作者的表达方式和技巧。同时,也可以通过阅读相关的文学评论和研究资料,加深对作品的理解和认识。 总之,日语中的文学作品和名著是了解本文化的重要途径之一。通过深入阅读和研究这些作品,我们可以更好地了解本的历史、文化、社会和人民的精神面貌。同时,也可以提高自己的言表达能力和文学能力。   如果您对日语学习感兴趣,想要深入习,可以了解沪江网校精品课程,量身定制高效实用的个性化习方案,专属督导全程伴,扫一扫领200畅卡。

  • 日语文学作品赏析《或

     奇妙な夢を見た。女校の裁縫の教室と思われる広い部屋で、自分は多勢の友達と一緒にがやがやし乍ら、何か縫って居る。先生は、実際の女学校生活の間、所謂虫がすかなかったのだろう、何かとなく神経的に自分に辛く当った音楽の先生である。自分の縫ったものについて頻りに小言を云われる。夢の中にあり乍ら、私は、十七の生徒で真個に意地悪を云われた時と同様の苦しい胸の迫る心持になった。すると、突然、今まで居るとも思えなかった一人の友達が、多勢の中から突立ち、どうしたことか、まるでまる真赤な洋服を着て、非常に露骨な強い言葉でその先生の不公平を罵倒し始めた。始めのうちは、条理が立って居たのが次第に怪しくなって、仕舞いには、何を云おうとするのか、文句が断れぎれで、訳のわからないことを口走るようになった。  赤い洋服を着た小さい人は、気が違って仕舞ったのだ。  場面は病院のような処となり、学校の二階のようなところと成ったり、夢特有の唐突さで変るが、どうかして自分はひどくその気の狂った人に深い愛を覚えて居る。先方もそうであるらしい。ところが、二人で二階へ昇る廊下口のような処に居ると、其処へ、一人男の人が出て来た。私の心覚えのある姓名の人であった。  洋服を着、何心なく来かかるその男を見ると、赤い着物の気の違った女の子は、いきなり腕をからみ合って居た私を突のけて、男の方へかけて行った。そして、手を執り、首をかしげて、頻りに何か頼んで居る。何処へ行くのか知らないが 「彼方へ行きましょう、ね、行きましょうよ」 と云い乍ら、驚き、不機嫌な男の手を、ぐんぐんと引張って居るのである。  相手は、暫く呆然とされるままになって居たが、やがてはっきり 「いやです」 と云った。それでも、気の違って居る人は承知しない。猶も執念くつきまとう。終に、男は実に断然たる口調で、 「厭だと云ったらいやです」 と云いさま、手を振もぎって、殆ど馳るように、階子段とは逆の方に歩き出した。  赤い着物を着た娘は、血相をかえて後を追い出した。追われると心付いて、男は洋袴にはまった脚を目まぐるしく動かして逃げる。後から娘は、加速度的に速さを増して追いすがろうとする。――  二人の後姿が、見えないようになると、何と云う訳なのか、私は、学校の舎監室に逃げ込んだ。そして、声を震わせて 「かくまって下さい」 と云い、大きな婦人の机の下に這い込んだ。可笑しいことに、其処に居る婦人は皆、西洋人である。丁度、私が紐育(ニューヨーク)の或大学寄宿舎に居た時日々顔を合わせたような、肥満した二重顎の婦人達ばかり、スカートをパッと拡げて居るのである。  隠れ乍らも、私の心は、深い悲哀に満されて居る。男を追って走り去った赤い洋服の娘のことが心掛りで仕方ないのである。  涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大きい人である。大変快活な顔付で、いかつい眼や口のまわりに微笑さえ浮べて居る。 「あの娘(こ)は見つかりましたよ」 と云う。自分は勿論、居合わせた婦人も一斉に新たに入って来た人の方を見た。 「まあ! 何処に?」  矢張り笑顔のまま、大きな女のひとはくるりと、私共の方に背を向けた。一目見、自分は大声で泣き出した。背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。 「河に身を投げたのだ」 と誰かが云う声が聞える。自分は、泣き泣き机の下から出た。どうしてもその小さい赤い屍を背負った人の傍を通らなければならないので、両手で眼を押え 「どうぞ見せないで下さい。見ることは許して下さい」と云い乍ら、すり抜けようとする。不思議なことに、いくら眼を瞑っても、手で押えても屍の顔ははっきり、見える。  房さりと濡れもせずに散った栗色の髪の毛と、賑やかな襞になって居る赤洋服の襟との間に、極々小さい顔はまるで白蝋色をして居る。唇はほほえみ、つぶった双眼の縁は、溶きもしない鮮やかな草色に近い青緑色で、くっきりの西洋絵具を塗ったように隈どられて居る。  見まい、見まいとしても顔の見える恐ろしさに、私は激しい叫び声を立てて一散に逃げようとした。狭いところを抜けようとして頻りにする身□きで、始めて夢が破れたのである。  半分眼が醒めかかっても、私は夢に覚えた悲しさを忘れ切れず、うっかりすると、憐れな泣声を立てそうな程、心を圧せられて居た。時間にすれば、五時頃ででもあったろうか。  眠りなおして八時過に起ても、私は何となく頭が重苦しいのを感じた。熟睡して醒めた後誰でも感じる、暖かに神経の末端まで充実した心持。それがなく、何だか詰らない、疲労の後味とでも云うようなものが、こびりついて居るのである。  新奇なこともない新聞を読み乍ら食事を終った処へ或書店から人が見えた。  髪をちょっと丸めたままの姿で、客間に行って見ると髪を長くのばし、張った肩に銘仙の羽織を着た青年が後を見せて立って居る。  初対面の挨拶をし、自分は 「どうぞおかけ下さいまし」 と上座に当る椅子を進めた。  はあ、と云って立って居るのでもう一度同じ言葉を繰返すと、その青年は、ひどく心得た調子で 「まあどうぞ其方へおかけ下さい」 と、まるで自分が主人ででもあるような口調で私に、彼にすすめる椅子を進めた。 「荷物がありますから」  ちらりと小さい風呂敷包みを見、自分は何だか滑稽な、苦笑したい心持で席についた。  用向と云うのは、その書店で編輯して居る雑誌のことにつき、或話をききたいと云うのであった。用談がすむと、二三の人の噂をし、淡青い色の巻煙草の箱を出した。  家族に喫煙する者がないので、道具の出してないのに心付き、私は火鉢を彼の近くに押してやった。  彼は 「いや、どうも」 と云い乍ら、こごんで巻煙草に火をつけ、一ふきふかすと、直ぐ 「其じゃあ失礼致しましょうか」 と云い出した。  煙草を出すところから、火をつけ終るまで、悠くりした心持で見て居た自分は、突然そう云われた刹那、火をつけたばかりの煙草をどうするのだろう、と云う疑問を感じた。迂遠な私は、落付いて一休みして行く積りなのだと思って居たのであった。  面喰い、猶も同じ疑問に拘泥して居る間に、彼は、薄平たい風呂敷包みを持って立ち上った。そして、片手の指には、火のつき煙の立つ煙草を挟んだまま、両足を開いて立ち、 「失礼しました。左様なら」 と云う。私も立って 「左様なら」 と云った。もう少しで、 「一服つけて御出かけと云う処ですか」 と云うところであった。  出て行った音をきき乍ら書斎に入り、私は何と云う無作法な男かと思った。文学を遣ると云ったのを思い出し空恐ろしい気もする。  夜中に見た夢が悪かったのか、男が余りがさつであった為か、私の気分は愈々悪化した。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《$1》

    面的に道具立的に組み合わせて扱おうと試みた。作者としても作中の世界としてもそこに、真の思想の呼吸があり得ないことは当然な現実の帰結であった。 「日蔭の村」は、やや「蒼氓」の線に近づいた傾きを示した作品であったが、ここでは、既に作者の習慣のようになった、あれこれを題材的に按配して書く、という大衆小説の手法に通じる外文学作品面的な方法がやはり消極の作用を示した。作品としての現実が渾然と読者の心を撃つというよりは、調査した実際と想像とが文学の現実以前のままのありようでつなぎ合わされていた。  文学の世界の現実と日々の実際というものとの間にあるこの作者独特な混乱は、或はこの作者が人間としては芸術のかんを持たず、ごく実際的な生きかたをしてゆくように生れついている性格だということを語っているのかもしれない。「結婚の生態」は、実際的な一人の中年の男が、若くていくらかフーピーな身よりのない娘といい家庭をこしらえてゆくことを眼目に結婚をすることから始まる。  初めは、奪う愛は誤っている、与える愛でなければならないと細君の教育や家政への手助けや大いに努めるが、やがて「それでは男の精神が寂しい。行動では我ままをしてもいいのだ。奪われる愛というものも、特に女にとっては在っていいのだ」というところへ落着く。  その間のいきさつを、人間生活の問題、両性の生きかたへの探究という云いまわしをとりつつ、現実には、ごく実際的な女房と家のもちかたというありきたりの内容を、真の精神の努力はなしに辿っている作品である。  作品のそういう本質からいうと、この小説は書かれても書かれなくても全く同じであったと云えるたちのものである。いい生活というとき、芝生があってテニスコートもあるような家を心に思い浮べるのは、どんな卑俗な若者でも、映画ぐらい見ていれば一応は描く空想であろう。どしどし仕事をして儲けて、それを実現する生きかたは、小説にかかれるまでもなく踏み古された凡庸な道ではなかろうか。  あらゆる文学は、この世俗の道への人間としての疑い、あるいはその道すがらなお魂を噛む苦しみがあることの承認から出発していたと思う。「愛情とは理由のない感情である。」「第一、恋愛とはそれ自身、認識不足によって生ずる感情の偏行にすぎない」と片づけきれない人間の心から発足するのが文学の一つの本質であったと思う。 「我々の魂の中にもし何か価値あるものがあるとしたら、それは如何に他人よりももっと激しく燃焼したかにあるのだ」とジイドの文句が引かれていても、主人公の男がいい家庭と云い、その建設のために妻を教育し扶けようとするという、その実質について全然人間生活という見地からの省察が向けられていない時、読者はどこに作者の魂の価値たるより激しき燃焼を見出すことが可能であろうか。  つまりは世俗の目やすにいい生活というものの基準をおいて、家庭は家庭と代々の凡俗な生き手たちが結論した結論をこの作品の中に知ろうとして、もし現代の若い人々がこの小説にひかれなければならないとしたら、彼等の青春の精神の鋭さと誇りとは、今日の日本の社会生活のなかで、どのように不具にさせられ、麻痺させられているというのだろう。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《$1》

    下等の獣性を縦(ほしいまゝ)にしたるもの、恋愛は、人類の霊生の美妙を発暢(はつちやう)すべき者なる事を、好色を写す、即ち人類を自堕落の獣界に追ふ者にして、真(まこと)の恋愛を写す、即ち人間をして美を備へ、霊を具する者となす事を、好色の教導者となり通弁官となりつる文士は、即ち人類を駆つて下等動物とならしめ、且つ文

  • 日语文学作品赏析《母》

    てくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。  そのことは、本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭く、そういう点でも断乎としていたことをも示す面白い話だが、当時母はそんな事情はちっとも云わなかった。ただ、あの何とかさんの筆は死んでるからおやめだ。私の絵の方がよっぽど活きているよ。など話した。文学の仕事から推し母の絵の修業にも関心をもっていた私は、母の云う筆勢なるものにいくらか不安も持ったりした。文学作品で云えばメロドラマティックな誇張に陥るのではないかと、母の筆勢論には消極なうけこたえしか出来なかった。  この前後(一九二四

  • 日语文学作品赏析《感想》

     今春、思いがけない大雪が降って、都下全体交通ストップ、自動車などは一夜に皆エンコして一歩も前進できない因果な時、拙作陶の展示会を催すことになった。この大雪では誰一人見る人はなかろうと悲観していたが、意外! 数百人の目で拙作は静かに見おろされた。  私の作品は例の如く勝手気儘で、どんどん移りゆく現実の世界に解されていこうなどとは、てんで望んではいない。私が切望しているのは、どうか自分の柄にあったことを一途(いちず)にしていきたいというだけなのである。だから現代のグループには干与しない。恰(あたか)もスネ者のように独歩している。気に入らない過去を見ては創(つく)り直すことに少しもひるむ者ではない。伝統に打たれることも多々あるが、伝統と乳兄弟になっても双子になりたくない。さりとてケンカ別れもしたくない。生活に合法と言われる西洋建築の美の如きはコーヒー茶碗ぐらいにしか私は認めない。それより生活に不合理と言われている空間だらけ、ムダだらけの床の間を持つ古典日本建築に生甲斐を感じる、有数の抹茶碗の持ち味に近い超道美をである。しかもこれだけで満足せず、これを如何(いか)に創り直すかが今後の仕事ではないかと考えている。この考えはどうやら及第であるらしい。  私は直接干与しないが、国立博物館か文部省かは知らないが、私の作品を諸方の持主から集めてフランス・パリにて催された日本陶器展に仲間入りされたとのこと。ところが私の作品が人気の中心であった如く評判されている。ピカソのいる陶器村でも志野八寸の如きは場中第一との賞賛を受けたといわれる。  私からすればフランスの目も甘いものだと思っているが、イタリアでも感動しているらしい。イサムノグチが語るところも、私の作品がニューヨーク、ワシントンなどで評判だとある。現につい先日東京でのダイジェスト日本陶器展で私のやや大作長方鉢をリッジウェイ大将夫人が目にとめて持ち帰られたという。これでみると、日本陶器に於ても勝手気儘の挙措に出た人間の自由思想が世界的に感動を受けるものであることを物語っているかである。即(すなわ)ち芸術の力こそ人種を超え、国籍を問題にせず、相抱いて楽しみを共にし、共に生きる道を発見するものなのであることを今更の如く感ずる。各自個性に生きることだ。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《窓》

    自然界から這入ってくる光線のようであった。――と同時に、それはまた、私のかたわらに居る夫人のその絵に対する鋭い感受性が私の心にまで伝播(でんぱ)してくるためのようにも思われた。  その上、私をもっと驚かせたのは、その超自然的な、光線のなかに、数年前私の見た時にはまったく気づかなかったところの、A氏の青白い顔がくっきりと浮び出していることだった。それをいま初めて発見する私の驚きかたというものはなかった。私の心臓ははげしく打った。  けれども私には、数年前のこの絵に、そういうものが描かれてあったとは、どうしても信ずることが出来なかった。 「あっ、A氏の顔が!」と私は思わず叫んだ。 「あなたにもそれがお見えになりますか?」 「ええ、確かに見えます。」  そこの薄明にいつしか慣れてきた私の眼は、その時夫人の顔の上に何ともいえぬ輝かしい色の漂ったのを認めた。  私は再び私の視線をその絵の上に移しながら、この驚くべき変化、一つの奇蹟について考え出した。それがこのように描きかえられたのでないことはこの夫人を信用すればいい。よしまた描きかえられたのにせよ、それはむしろ私達がいま見ているものの上に、更に線や色彩を加えられたものが数年前に私達が展覧会で見たものであって、それが年月の流れによって変色か何かして、その以前の下絵がおのずから現われてきたものと云わなければならない。そういう例は今までにも少なくはない。例えばチントレットの壁画などがそうであった。  ――だが、それにしては、この絵の場合は、あまりに、日数が少なすぎる。数年の間にそのような変化が果して起り得るものかどうかは疑わしい。そうだとすると、それは丁度現在のように、夫人の驚くべき共感性によってこの絵の置かれてある唯一の距離、唯一の照明のみが、その他のいかなる距離と照明においても見ることを得ない部分を、私達に見せているのであろうか?  そういうことを考えているうちに、私にふと、A氏はかつてこの夫人を深く愛していたことがあるのではないか、そして夫人もまたそれをひそかに受け容(い)れていたのではないか、という疑いがだんだん萌(きざ)して来た。  それから私は深い感動をもって、私の前のA氏の傑作と、それに見入っているごとく思われるO夫人の病める眼とを、かわるがわる眺めたのである。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《画》

    ○十年ほど前に僕は本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃為山(いざん)君と邦画洋画優劣論をやったが僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に為山君が日本画の丸い波は海の波でないという事を説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き半ば感心した。殊に日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて非常に驚いた。けれども形似(けいじ)は絵の巧拙に拘(かかわ)らぬという論でもってその驚きを打ち消してしもうた。その後不折君と共に『小日本』に居るようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めて居た。この時も僕は日本画崇拝であったからいう事が皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨(だるま)は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑(かっちゅう)は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。その内ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味(いやみ)が出来る、これ位の事は前から知って居たのであるけれどそれを画の上に推(お)し及ぼす事が出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じ事であるという事が分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると何だか癪(しゃく)に障(さわ)ってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知る事が出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと癇癪(かんしゃく)に障るので大に議論を始める。終には昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際 君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべって居る。その気障(きざ)加減には自分ながら驚く。 ○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画く事は出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯(たわむ)れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れて居た。秋になって病気もやや薄(うす)らぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠(しゅうかいどう)を見て居ると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展(の)べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いてそれが秋海棠と見えるは写生のお蔭(かげ)である。虎を画いて成らず狗(いぬ)に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば何でも画けぬ事はないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握って居る処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えて居る処で、これを画きあげるのは非常の苦辛(くしん)であった。そこへ虚子(きょし)が来たからこの画を得意で見せると、虚子は頻(しき)りに見て居たが分らぬ様子である。「それは手に柿を握って居るのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点(がてん)した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見て居たのだ」というた。 ○僕の国に坊主町という淋しい町があってそこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけにそこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずその内の人が外へ出ようとすると中庭に大男が大物を抱いて居る画があるので度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったとその内の人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が今の為山君である。 ○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。 〔『ホトトギス』第三巻第五号 明治33・3・10〕 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《$1》

    「馬車」は横光利一さんのもつとも特異な作品の一つである。横光さんの作品の基底には、いつも humain なものと surhumain なものとがふしぎに交錯してゐるが、それがどちらがどちらだか分らないくらゐな點にまで達するとき、その作品は大概成功してゐる。ことに「馬車」においてはその效果がいちじるしい。物語は、先づ、半陰影のうちに展開する。その無意味なやうな薄暗がりのなかに何者かがくんづほぐれつして爭つてゐる。それは人間であらうか、それとも怪物であらうか? また見知らぬ植物かとも見える。読者はただ息をつめてゐる。が、物語が結末に近づくにつれて、どこからともなく聖らかな光が射し込んでくる。そしてその光は、結末になるや、突然まぶしいくらゐに輝きだし、諸人物の上をくまなく照らし、そして私達にはその光はずつと向うの、物語のうすぐらい冒頭にまで達してゐるかのやうに思はれてくる。私は、人々がレンブラントを光の畫家と云ふごとき意味にて、この「馬車」一篇を光の傑作であると云ひたい。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《牛》

    方は別に何事も見なかったような冷酷な気持でわが家へ戻った。そして、その記に、 「彼の落したカバンの異様に重い地響。牛の本の重きことよ」  というようなことを書いた。           ★  その年の春休みの一であった。  光也(牛の名である)はハーモニカをポケットに入れて家をでた。  友の一人にハーモニカを吹きならす者がいて、そのえも云われぬ快音に光也はホレボレと心を奪われたのである。そこで彼は手ほどきを乞うた。病みついて二ヵ月になるが、彼の吹きならすフシギな音も彼の耳には音楽であったし、自らそれを味得する幸福でこの上もなく満足であった。静かな山林の中で自分の音楽を味うために彼は家