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日语文学作品赏析《破片》
一 昭和九年八月三日
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日语文学作品赏析《影》
人形の遊びを続けました。 やがて、子供達の寝る時間になりましたので、叔母が彼等を寝かしつけてる間、私は二階に上って、叔父の書棚を片附けたりなんかしました。□絵のある書物はそれを一々眺めたりして、ゆっくり時間をつぶしてるうちに、だいぶたってからふと、縁側の硝子戸に自分の姿が、顔や手先の皮膚をなま白く浮出さして、底気味悪く写っているのを見付けました。それを見ると、天井板や床の間や唐紙(からかみ)の模様など、凡て眼新らしいその室の中が、心をそそるような冷かさに静まり返ってきて、同時に、先刻の影
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日语文学作品赏析《感想》
最近は芝居も映画もあまり見ない。東京をはなれて暮してゐる期間が長いためでもあるが、たまに東京へ出ても、わざわざ切符を買つて観に行く気がしないのである。自分の仕事に直接関係があるのだから、勉強のつもりで新しい芝居ぐらゐはのぞいておくべきだと思ふのだけれども、ついおつくうになつてしまふ。不心得だと云はれゝば一言もないが、それでも、私にしてみると、今のところ、脚本を読みさへしたら、上演の結果はだいたい想像がつくし、第一、劇場といふものが従来以上に私を誘惑しにくゝなつたといふ理由をあげなければならぬ。 これには別にむづかしい理由なぞはない。元来、私は芝居や映画を見て楽しむといふ趣味はあまりなく、私にとつて、戯曲を書くことの目的と意味とは、まつたく違つたところにあるらしいのである。かういふと不思議に思ふひとがあるかもしれぬが、それはうそでもなんでもない。そのうへ私は、自分の作品が上演されてゐても、そんなに見に行きたいとも思はず、見ればたいがいうんざりするのである。上演の結果が気に入らぬといふよりは、自分の作品そのものが、どうも場違ひのやうにみえ、役者や見物に申しわけないといふ気がしてしかたがない。 私は芝居の社会といふものが、自分の性に合はぬのではないかと、時々、考へることがある。それなら芝居以外の社会なら性に合ふのかと開き直られては困るが、それも前に云ふとほり、いつたいに芝居の社会といふものは特に私のやうな人間を住はせてくれる余地がないやうにも思へるのである。その証拠に、私は、劇場の空気をあまり好まない。楽屋に出入するのは必要止むを得ぬ時であり、幕間の廊下は殆どつねに私をいらだたせる。さらに、「芝居の玄人」が芝居の話をしてゐるのを聞くほど私には縁遠い感じがすることはないくらゐである。 私はなるべく一般に通じない「芝居用語」を使はないやうにしてゐる。むしろ、使はうとしても使へないのかも知れない。「かみて、しもて」といふ慣用語さへ、私は自然に使つたことがない。 水木京太君が死んだ。私とほゞ同時代に、同じく戯曲を書いてゐた仲間である。イプセンの研究家として自他ともに許し、作品は手堅い構成で論理的な筋の運びを特色としてゐたやうである。さういふ特色が、時に却つて、その意図する喜劇的効果を鈍らせ、緻密ではあるが、なにかもうひと息といふものを感じさせた。しかし、その演劇評論は流石は蘊蓄の深さと眼のたしかさを思はせるものであり、つねに私を傾聴せしめた。終戦後、君は自ら主宰する雑誌「劇場」に、是非何か書けといふ手紙を私によこした。「何故に戯曲を書かないか」といふ題まで与へてくれた。私は、同君とは、実はそれほど親交はなく、むしろ一時は、ある事情のため、関係は疎きにすぎるほどになつてゐたが、この同君からの最初の手紙は、丁重で、しかも、好意に満ちたものであつた。私は、その頃、どこにもものを書く気はしなかつたのだけれども、水木君の勧めだけは無下に断る気もせず、いづれ書きませう、と返事をしておいた。そして、それきりになつてしまつたことを、いまさら悔んでゐる。 私は、水木君の出してくれた題に、そのまゝ答へることはできなくなつた。その後、とうとう戯曲を一つ書いてしまつたからである。しかし、長い間、ほんとに戯曲を書きしぶつてゐたわけを、別の目的で、ちらつと述べてみたい気がする。自分の弁解にはもうならないし、したくもないが、これは、何かの役に立つと思ふからである。 断つておくけれども、私ひとりが戯曲を書く書かないは、別段問題にするほどのことではない。たゞ、水木君も「戯曲を書かなくなつた」作家の一人であり、おそらくそこを考へたのであらうけれども、私のやうに戯曲作家として出発したものが、中途から戯曲を書かなくなる理由が、若し、単なる個人的な事情によるのでないとすれば、これは、やはり日本の現代劇壇の特殊な条件にもとづくのではないか、といふこと、それを云つてみたいのである。 私は、今ここで改まつて日本劇壇の解剖をしてみる気はない。私は、むしろ、主観的に、自分の立場を率直に語つて、わかるものだけにわかつてもらへればよいとしよう。 「なぜ久しく戯曲を書かなかつたか」と云へば、端的にいふと、戯曲家としてどうにも張合がなくてしやうがないと思へることが、あまりにも多すぎるからである。ほかのひとは知らぬが、私だけの愚痴をすこしならべてみる。 第一に、書きたいと思ふ戯曲を、やつてほしいと思ふ頃あひの劇団がない。書きたいと思ふ戯曲には、その時々で、いろいろな年配、職業、教養をもつた、つまり、いろいろな型の人物が登場するわけだが、さういふ雑多な人物のそれぞれの役を割りあてることになると、日本の劇団の組織と人的要素では、おいそれといかぬ不都合がまづひかへてゐる。 第二に、上演の可能性が少いから自然、戯曲の発表はまづ雑誌でといふことになるのだが、その雑誌は、短篇小説本位の雑誌が多いから、自然、「一と晩の出し物」としての多幕物は遠慮することになり、たまたま、長くてもよいといふ条件が与へられても、「舞台で観せる芝居」を活字で読ませるのは雑誌本来の性質でないから、つい、それは無意識にもせよ、「読ませる戯曲」の穽に陥つてしまふ。さて、それがそのまゝ上演されてごらんなさい。きつと舞台が平板になるかどこかに孔が開くのである。 第三に、芝居といふものは妙なもので、書生芝居とか小供芝居とかいふものもあるにはあるが、やつぱり、芝居の芝居らしい風格は、役者に相当の年配の役者がゐて、それが、中心にならぬと、本物でない。その点、映画もおなじである。ところが、日本の芝居も映画も、現代ものとなると、いづれも、青年俳優が中心である。近頃は、新劇畑では、四十代の優れた役者が活躍するやうになつて来たがそれでも、四十代が最年長者となると、ちよつと、大人の芝居をやるのには、平均年齢が少なすぎる。 次に私などは、今、戯曲を書くとすると、一番書きたいのは、男は五十代から六十代、女は、四十前後といふところである。そんな人物ばかりといふのではないが、少くとも中心人物乃至重要人物にそれくらゐの年配の人物を配したいのである。簡単に「老け役」などといふけれども、現代人の精神的年齢は演技や扮装の巧緻だけではどうにもならぬところがあることは、西洋映画をみればよくわかる。私がどうも残念に思ふのは、新劇が生れて以来ずつと舞台を踏んでゐればもう六十代で堂々たる大俳優になつてゐるものが二人や三人はゐなければならない筈なのにそれがゐないことである。私に云はせれば、若干の例外をのぞき年をとるほど駄目になる役者などといふのは、二十代三十代に既にろくな役者ではなかつたといふことである。 第四に、これはなかなか大事なことだが、現在の戯曲家で、戯曲だけ書いて生活のできるひとはまづまづゐないであらうといふことである。座附作者のやうにでもなれば別であるが、それもいくたりと数へるほどしかゐないであらう。今日の日本では、専門の戯曲家として一家をなすためには、結局、上演科を当てにしないで暮しを立てる方法を考へることが必要なのである。つまり余技の小説、内職の翻訳、なんでもいいから、戯曲を書き続け得られるといふことが大切である。しかしかういふ戯曲の書方は、決して、戯曲家本来の才能と感興とを、その作品のうちに完全に活かし得ないといふ憾みがある。つまり、観客を前にした舞台との「待つたなし」の勝負のみが、戯曲家の全生命を打ち込む創造の契機なのであつて、これこそ、戯曲が時間芸術として散文とはつきり分けられる微妙な世界につながる所以なのである。 上演のみを目的として文学と袂を分つ脚本作者と、文学の領域に止つて戯曲らしい戯曲をと志し、次第に舞台から遠ざかる作家と、その何れを択ぶかといふことが今日までの若い戯曲家の思案のしどころであつた。 しかし、これからは、次第に、道が拓かれさうである。文学と舞台との理想的な結合を意識的に目指して有力な二、三の新劇団が戦後、目ざましい活躍をしはじめた。私たちの時代には望み得なかつたチャンスが、若い世代のために着々準備せられつゝあるやうである。それに呼応して、新しい作家群が動き出した。全く新しい人々ではないが、彼等はいづれも、新しい意気と、新しい着想とをもつて、われわれの企て及ばない新風を捲き起さうとしてゐる。私は、この感想をこれらの人々に期待する意味で書いた。私たちの時代の障碍が、この人々の障碍とならぬことを念じるあまりである。 本誌姉妹紙「スクリーン・ステージ」新聞であつたと思ふが、近頃甚だ面白く、意義のある座談会記事がのつてゐた。それは、新進小説作家、評論家の一群に、新劇の舞台を見物させ、合評を試みさせてゐるのである。その座談会の記事は多分の省略があり、前後の脈絡がなく、隔靴掻痒の嘆はあつたけれども、ともかく、ねらひの正しい、鋭い企画である。個々の意見に対して、私がそれを不正確に受けとつてはなにもならぬから別にかれこれ云はぬが、やはり、ぜんたいに、云ふべきことが云はれてゐたやうである。田中千禾夫君の「雲の涯」を問題作として、十分に注意してくれたこともうれしかつた。この試みは何かの形で続けてほしい。新劇はかういふ人々をもつと近くへ惹きつけ、もつとその影響に身をさらさなければいけない。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《傘》
秋雨のうすく降る夕方だつた。格子戸の鈴が、妙な音に、つぶれて響いてゐるので、私はペンをおいて立つた。 臺所では、お米を磨(と)いでゐる女中が、はやり唄をうたつて夢中だ。湯殿では、ザアザア水音をさせて、箒をつかひながら、これも元氣な聲で、まけずに郷土(くに)の唄をうたつてゐる。私は細目に、玄關の障子をあけてみた。 「冬子は見えてをりませうか?」 洋服で、骨の折れた傘を、半開きに、かしげてゐた。 「戸澤ですが――」 と、中年の、小柄な男は、小腰をかがめて上眼づかひにいつた。 「冬子が、あがつてゐないとすると、大變なことになりました」 私は格子をあけて、その人を迎へ入れなければならなかつた。 「大變なことと、おつしやると――」 「あれは、死んでゐます」 これは變だと、さう聞いた刹那に思つた。だが、その人は、眞劍で、青白い顏に、オドオドした大きな眼が、うつろで、まぶちの赤いのが目立つてゐた。 「時間からいふと、今ごろは――」 彼は唇を噛むやうにしてうつむいた。立つたままでも聞いてゐられないので、あがつてもらふと、彼はいひつづけた。 「つまらないことで別れてゐて、けふ歸つて見ると、家の中の樣子が變つてゐるのです」 「變つてゐるといふと?」 「彼女(あれ)は、もう、二度と、あの家へは歸らないつもりなのです。僕は――」 と、顏を赤くしてどもつたが、 「あの女(ひと)なしには、實際、今、ゐられないのですが――」 伏せた眼はうるましてゐる。別段、書置きも何もないが、壁にかけてあつた彼女の古い雨外套のカクシを探ると、ある男へやる、打合せの手紙の書きかけが丸めて入れてあつて、それを讀み解くと、冬子は、けふの丁度いまごろの時間に、函館海峽で、投身自殺をしてゐるのだ。 「僕が惡いのです。僕が、彼女(あのひと)を苦しめるものだから――だが、僕は堪らないのです。冬子が選んだ相手が、ニヒリストの、あの詩人であるなら、まだ耐へることが出來るが、僕の――僕の先輩、日本でたつた一人の先覺者、アナキズムの、大學者の×氏を、僕があるために、空しく海峽の藻屑としてしまふのは忍びない、そのくらゐならば、僕が死んであげる――」 その人は歔欷したが、私は吃驚した。 「心中なのですか?」 ときくと、冬子の夫はコツクリした。 「誰と?」 「それが、わからないから、堪らんのです。ニヒリスト詩人なんぞなら、彼一人死ぬがいいのです。だが、×氏なら惜しい、實に、實に惜しい、死なせたくないのだ。」 彼はいふ。冬子とニヒリスト詩人とが、お互に變名して、手紙を託しあつてゐる古本屋へ、ニヒリスト詩人が、きのふの朝か、をととひ、冬子の手紙をとりに來たか、または冬子に手紙を渡したか、それを電話で、こちらから問合せてくれれば、けふ、函館海峽で命を落したのは、冬子と誰とだかがわかるのだと。 これは困つたことだと、私は思つた。どんな氣持で、冬子がそんな手紙の書きかけを、古外套のカクシなどに入れておいたのであらう。そのニヒリスト詩人と彼がいふ詩人も、私は知つてゐる。なるほど、さうした對手を求めるやうな、熱烈な、死と愛の詩は發表してゐるが、しかし、冬子とどんな關係があるのだらう。しかもきのふは、冬子が帝展をゆつくりみてゐた姿を、見て來たものがあつたのだ。 そんなことはおくびにもいへない。彼女の夫は、熱心に電話帳を繰つてゐる。 と、門の潜戸があいて、敷石を蹈んでくるヅツシリした靴の音は、彼女のものだつた。私は、口のうちであつといつて、そこで、物凄い爭鬪が起らなければいいがと、逞しい彼女の腕を、目に見た瞬間、いとも朗らかに、彼女は叫んだ。 「あら、來てゐるの?」 彼は、上衣のポケツトへ兩手を突つぱらして、そして、毛絲のセーターの濡れてゐる、彼の妻を見詰めた。 「厭だわ、なんだつて、來たの」 「なんだつてつて、僕は、何もかも申上げちやつた」 「あらま、呆れた」 彼女が睨んで、笑ふと、かねて彼女からよく聞かされてゐる、英雄であるはずの彼は、從順にはにかんで、連れ立つて、一つ傘で歸つていつた。 (「大阪毎日新聞」昭和九年十二月) 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《恥》
的な小説などを好みますが、私は、そればかりでなく、貴下の小説の底にある一種の哀愁感というものも尊いのだと信じました。どうか、貴下は、御自身の容貌の醜さや、過去の汚行や、または文章の悪さ等に絶望なさらず、貴下独特の哀愁感を大事になさって、同時に健康に留意し、哲学や語学をいま少し勉強なさって、もっと思想を深めて下さい。貴下の哀愁感が、もし将来に於いて哲学的に整理できたならば、貴下の小説も今日の如く嘲笑せられず、貴下の人格も完成される事と存じます。その完成の日には、私も覆面(ふくめん)をとって私の住所姓名を明らかにして、貴下とお逢いしたいと思いますが、ただ今は、はるかに声援をお送りするだけで止そうと思
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日语文学作品赏析《An Incident》
が如何(いか)にも正当な仕打ちに考へなされた。 それでも彼は動かなかつた。 火のつくやうに子供が地だんだ踏んで泣き叫ぶ間に、寝室では二人の間に又いまはしい沈黙が続いた。 彼はぢつとこらへられるだけこらへて見た。然しかうなると彼の我慢はみじめな程弱いものであつた。一分ごとに彼の胸には重さが十倍百倍千倍と加はつて行つて、五分も経(た)たない中に彼はおめ/\と立ち上つた。而して子供を連れ出して来た。 彼は妻の前に子供をすゑて、 「さ、マヽに悪う御座いましたとあやまりなさい」 と云ひ渡した。日頃ならばかうなると頑固(ぐわんこ)を云ひ張る質(たち)であるのに、この夜は余程懲(こ)りたと見えて
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日语文学作品赏析《修身》
一九五〇年度は、青少年の犯罪が一般の重大な関心をひいた。 青少年の犯罪は、ふっとそんな気になって、ついやられてしまう。それが習癖にもなる。そのついやることは、きょうの社会のわれ目が巨大であり非条理であるに応じて、大きい規模をもち、非人間性を示す。「希代の少年空巣。年にチョロリ三百万円」(十二月十三日、東京新聞)、「アゴで大人使う少年強盗」(十二月十六日、東京新聞)そして、日大ギャング事件の山際・左文の公判記事は、大きく写真入りで扱われている。 信濃教育会教育研究所が、小学生の行動について父兄が問題だと考える点を調査したら、「無作法」各学年を通じて七〇%、「根気がない」三年七六%、六年七三%、「理窟をこねるが実行力がない」各学年四二%そのほかだった。青少年の育ってゆく精神によりどころを与えることが必要だということは誰のめにも明らかになっている。文相天野貞祐が、各戸に日の丸の旗をかかげさせ、「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巖となりて苔のむすまで」と子供の科学では解釈のつかない歌を歌わせたとして、ピチピチと生きてはずんで刻々の現実をよいまま、わるいままに映している子供の心に、何か人間としての秩序を感じさせる力をもっているだろうか。九歳になるひとりの女の子は、その父親とこんな問答をした。「パパ、君が代って昔のうた、知ってる?」「知っているよ」「きょう学校でならったの」「ふーん。どうだった?」「むずかしいのね、ほかの歌とちがうんだもの。とてものろのろうたうのよ、むずかしいわ」 戦後の子供がラジオを通じレコードを通じ、なじんで歌う歌は、軽快に、明るくたのしく、リズミカルであるように、と児童の心理に即して選ばれている。君が代が歌そのものとして、歌う子供たちにわけのわからない義務感しか与えていないとすれば、君が代に対するとしよりの郷愁は、もう一度考え直されなければなるまい。 修身科をおくかおかないかも論議まちまちで、修身がほしいと考える人々でさえも、教育勅語的修身を拒否したのは、こんにちの日本として当然であった。子供のために修身を、と考える親の心には、きょうの世相をかえりみて、子供の未来、日本の将来に、人間らしい生活をうちたててゆく自立した精神の源を欲する願いが切なのである。 北九州の小・中学校の先生たちは、昨年六月二十五日以来、青少年の窃盗事件の頻発に悩んでいる。クズ鉄の価がはね上った。子供たちは、工場の地べたにおかれているクズ鉄、クズでない鉄、手あたり次第に、ひろって来るようになった。アルバイトの一種のようにさえ思っている。そういう子供たちに対して、厳粛に訓戒するために、先生は非常に困惑を感じるそうだ。場所がら「特需」景気がふきあれていて、家庭にも朝鮮景気が侵入しているし、新聞雑誌などでも朝鮮の動乱で日本は儲かっていいという話がおおっぴらにされている。全体のそういう火事場泥棒めいた雰囲気のなかで、先生の正直であれという声は、案外にも、だから先生んちはいつも貧乏なんだね、という子供のひそひそ話をひき出しさえしているのである。 十二月四日から一週間、「人権擁護週間」が行われた。読売新聞が(七日)社説「人権擁護の完全を期するために」で第一、警察官の民主化の実行、第二、地方刑罰条例の濫発への警告――売春等取締条例・公安条例など「国会で決定せず、地方自治体できめしかもムヤミにつくりたがる傾向」を批判していた。一九四八年に人権擁護委員会が置かれてから取扱った件数八八一七件。そのうち警察官の人権蹂躙事件五〇%。毎日新聞(八日)の社説に、この五〇パーセントが「二十五年には八〇%というおどろくべき数字をしめしている」「官憲による恐怖時代がまだ存在している」とかかれているのは誇張でない。最高検では、青少年の反社会的行為が、おとなのえらい人たちの行為にあらわれている社会的良心の麻痺と責任感の欠如をどう反映しているか、については考慮を払っていないようだ。少年法を二十歳まで適用しては、罰が軽くなりすぎるとばかり心配している。 しかも毎日新聞(十二月十五日)では「反戦・反軍をあおる少年の犯罪が激増しており」それらの子供たちの「逮捕留置」が、いまの少年法では困難だ、と論じられている。わたしたち日本の人民は目を大きくあいて、この一行をよむべきである。東條内閣のとき、反戦・反軍をあおる「犯罪」というものがあった。その嫌疑、その告発によって人々は生命さえおびやかされた。戦争放棄した日本に、いつ、戦争に反対する行為が、犯罪であるとされることになったのだろう。軍隊のないはずの日本に、いつ反軍の犯罪というものが成り立つようになったのだろう。反戦・反軍ということと「犯罪」という観念とを直結した用語の方法のうちにこそ、一九五一年度の、日本人民の人権擁護の要(かなめ)石がむき出しにされている。幾百万の人々がよむ新聞で日ごと夜ごとに、「赤」という正に「言葉の魔術」(大河内一男、十二月十三日、東京新聞)を行い、平和のための行為までを犯罪めいたものと暗示すること自体、権力は自身の修身をもっていないということを痛切に感じさせる。 〔一九五一年二月〕 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。
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日语文学作品赏析《神曲》
)してその己が性(さが)に從ひて世の蝋を整(とゝの)へ象(かた)を捺(お)すこといよ/\著(いちじる)し 四〇―四二 かしこを朝(あした)こゝを夕(ゆふべ)となしゝ日は殆どかゝる處よりいで、いまやかの半球みな白く、その他(ほか)は黒かりき 四三―四五 この時我見しに、ベアトリーチェは左に向ひて目を日にとめたり、鷲だにもかくばかりこれを凝視(みつめ)しことあらじ 四六―四八 第二の光線常に第一のそれよりいでゝ再び昇る、そのさま歸るを願ふ異郷の客に異ならず 四九―五一 かくのごとく、彼の爲(な)す所――目を傳ひてわが心の内に入りたる――よりわが爲す所いで、我は世の常を超(こ)えて目を日に注げり
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日语文学作品赏析《支流》
水訪問したが、皆の都合わるく俳諧をせずにしまつた。夜、秋調から招かる。廿六日、遊川と東陽(歌川平蔵)と逢ふ。 廿七日、始めて天気になつたので、馬で尾花沢を立つて、楯岡、天童を経て山寺著。巡拝、坊に泊る。山形に行かうとしたが止めた。廿八日、馬で、天童、六田、上飯田を経て、午後一時頃、大石田の一栄宅に着いた。上飯田迄川水出迎へた。廿九日、黒滝向川寺参詣(曾良行かず)、夕食川水宅。一栄宅泊。卅日、歌仙一巻終了、書了。六月朔日、大石田出発。かういふ順序である。 最上川の支流は、なほ下流に向つて数ふれば、小国川、鮭川(真室川大沢川合流)、立谷沢川、赤川等がある。赤川最も大きく、湯殿山の谿谷から発して、酒田近くで、最上川に入つてゐる。是等の支流と本流との関係は学者の論ずるところで有益である。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。