• 日语文学作品赏析《新生》

    )に住む小使の家の窓は無かった。岸本はその門を入って一筋の径(みち)を上って行って見た。チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。そのかわりに新しい別の建築物があった。その建築物の裏側へ行って見た。そこに旧い記憶のある百紅(さるすべり)の樹を見つけた。岸本が外国の書籍に親しみ初めたのも、外国の文学や宗教を知り初めたのも、海の外というものを若い心に想像し初めたのも皆その岡の上であった。しばらく彼は新しい講堂の周囲(まわり)を歩き廻った。彼はこの旧い馴染の土を踏んで、別れを告げて行こうとしたばかりではなかった。彼には遠い異郷の客舎の方で書きかけの

  • 日语文学作品赏析《池》

     大

  • 日语文学作品赏析《石》

     土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります。島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。今でも絵はがきで見ますと、其の当時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で残つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆ど石から出来上つて居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立つて居るかなり高い山の頂上には――それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない――実に何とも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合つて、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの耶馬渓よりも、と称せられて居る寒霞渓を、其の岩石を、懐深く大切に愛撫して居ることを――。  私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのであります。而も岩石であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。  話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の怪、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません。否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ッころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか。いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益□意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至つてはどうでせう。雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。  私は屡□、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころを産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云ったやうなものがあります。その道の方では、これをくろたまと云って居ります。ですから、木と同様、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな……とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑気に遊んで居る時はよいのですが、一度吾々の手にかゝつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思つて、三寸から四寸位も削りとつて見るのですが、中はもうボロ/\で、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまつて居るのですな、結局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々軽くなつて居るかも知れませんな……とか、かう云つたやうな話は、ザラに聞く事が出来るのであります。石よ、石よ、どんな小さな石ツころでも生きてピンピンして居る。その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。  庵は町の一番とつぱしの、一寸小高い処に立つて居りまして、海からやつて来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります。庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます。そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此の辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。そして、どれも、これも皆勿体ない程立派な石塔であります。申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです。そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります。墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆ど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません。只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります。地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、わたしのなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを――。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《感想》

     最近は芝居も映画もあまり見ない。東京をはなれて暮してゐる期間が長いためでもあるが、たまに東京へ出ても、わざわざ切符を買つて観に行く気がしないのである。自分の仕事に直接関係があるのだから、勉強のつもりで新しい芝居ぐらゐはのぞいておくべきだと思ふのだけれども、ついおつくうになつてしまふ。不心得だと云はれゝば一言もないが、それでも、私にしてみると、今のところ、脚本を読みさへしたら、上演の結果はだいたい想像がつくし、第一、劇場といふものが従来以上に私を誘惑しにくゝなつたといふ理由をあげなければならぬ。  これには別にむづかしい理由なぞはない。元来、私は芝居や映画を見て楽しむといふ趣味はあまりなく、私にとつて、戯曲を書くことの目的と意味とは、まつたく違つたところにあるらしいのである。かういふと不思議に思ふひとがあるかもしれぬが、それはうそでもなんでもない。そのうへ私は、自分の作品が上演されてゐても、そんなに見に行きたいとも思はず、見ればたいがいうんざりするのである。上演の結果が気に入らぬといふよりは、自分の作品そのものが、どうも場違ひのやうにみえ、役者や見物に申しわけないといふ気がしてしかたがない。  私は芝居の社会といふものが、自分の性に合はぬのではないかと、時々、考へることがある。それなら芝居以外の社会なら性に合ふのかと開き直られては困るが、それも前に云ふとほり、いつたいに芝居の社会といふものは特に私のやうな人間を住はせてくれる余地がないやうにも思へるのである。その証拠に、私は、劇場の空気をあまり好まない。楽屋に出入するのは必要止むを得ぬ時であり、幕間の廊下は殆どつねに私をいらだたせる。さらに、「芝居の玄人」が芝居の話をしてゐるのを聞くほど私には縁遠い感じがすることはないくらゐである。  私はなるべく一般に通じない「芝居用語」を使はないやうにしてゐる。むしろ、使はうとしても使へないのかも知れない。「かみて、しもて」といふ慣用語さへ、私は自然に使つたことがない。  水木京太君が死んだ。私とほゞ同時代に、同じく戯曲を書いてゐた仲間である。イプセンの研究家として自他ともに許し、作品は手堅い構成で論理的な筋の運びを特色としてゐたやうである。さういふ特色が、時に却つて、その意図する喜劇的効果を鈍らせ、緻密ではあるが、なにかもうひと息といふものを感じさせた。しかし、その演劇評論は流石は蘊蓄の深さと眼のたしかさを思はせるものであり、つねに私を傾聴せしめた。終戦後、君は自ら主宰する雑誌「劇場」に、是非何か書けといふ手紙を私によこした。「何故に戯曲を書かないか」といふ題まで与へてくれた。私は、同君とは、実はそれほど親交はなく、むしろ一時は、ある事情のため、関係は疎きにすぎるほどになつてゐたが、この同君からの最初の手紙は、丁重で、しかも、好意に満ちたものであつた。私は、その頃、どこにもものを書く気はしなかつたのだけれども、水木君の勧めだけは無下に断る気もせず、いづれ書きませう、と返事をしておいた。そして、それきりになつてしまつたことを、いまさら悔んでゐる。  私は、水木君の出してくれた題に、そのまゝ答へることはできなくなつた。その後、とうとう戯曲を一つ書いてしまつたからである。しかし、長い間、ほんとに戯曲を書きしぶつてゐたわけを、別の目的で、ちらつと述べてみたい気がする。自分の弁解にはもうならないし、したくもないが、これは、何かの役に立つと思ふからである。  断つておくけれども、私ひとりが戯曲を書く書かないは、別段問題にするほどのことではない。たゞ、水木君も「戯曲を書かなくなつた」作家の一人であり、おそらくそこを考へたのであらうけれども、私のやうに戯曲作家として出発したものが、中途から戯曲を書かなくなる理由が、若し、単なる個人的な事情によるのでないとすれば、これは、やはり日本の現代劇壇の特殊な条件にもとづくのではないか、といふこと、それを云つてみたいのである。  私は、今ここで改まつて日本劇壇の解剖をしてみる気はない。私は、むしろ、主観的に、自分の立場を率直に語つて、わかるものだけにわかつてもらへればよいとしよう。 「なぜ久しく戯曲を書かなかつたか」と云へば、端的にいふと、戯曲家としてどうにも張合がなくてしやうがないと思へることが、あまりにも多すぎるからである。ほかのひとは知らぬが、私だけの愚痴をすこしならべてみる。  第一に、書きたいと思ふ戯曲を、やつてほしいと思ふ頃あひの劇団がない。書きたいと思ふ戯曲には、その時々で、いろいろな年配、職業、教養をもつた、つまり、いろいろな型の人物が登場するわけだが、さういふ雑多な人物のそれぞれの役を割りあてることになると、日本の劇団の組織と人的要素では、おいそれといかぬ不都合がまづひかへてゐる。  第二に、上演の可能性が少いから自然、戯曲の発表はまづ雑誌でといふことになるのだが、その雑誌は、短篇小説本位の雑誌が多いから、自然、「一と晩の出し物」としての多幕物は遠慮することになり、たまたま、長くてもよいといふ条件が与へられても、「舞台で観せる芝居」を活字で読ませるのは雑誌本来の性質でないから、つい、それは無意識にもせよ、「読ませる戯曲」の穽に陥つてしまふ。さて、それがそのまゝ上演されてごらんなさい。きつと舞台が平板になるかどこかに孔が開くのである。  第三に、芝居といふものは妙なもので、書生芝居とか小供芝居とかいふものもあるにはあるが、やつぱり、芝居の芝居らしい風格は、役者に相当の年配の役者がゐて、それが、中心にならぬと、本物でない。その点、映画もおなじである。ところが、日本の芝居も映画も、現代ものとなると、いづれも、青年俳優が中心である。近頃は、新劇畑では、四十代の優れた役者が活躍するやうになつて来たがそれでも、四十代が最年長者となると、ちよつと、大人の芝居をやるのには、平均年齢が少なすぎる。  次に私などは、今、戯曲を書くとすると、一番書きたいのは、男は五十代から六十代、女は、四十前後といふところである。そんな人物ばかりといふのではないが、少くとも中心人物乃至重要人物にそれくらゐの年配の人物を配したいのである。簡単に「老け役」などといふけれども、現代人の精神的年齢は演技や扮装の巧緻だけではどうにもならぬところがあることは、西洋映画をみればよくわかる。私がどうも残念に思ふのは、新劇が生れて以来ずつと舞台を踏んでゐればもう六十代で堂々たる大俳優になつてゐるものが二人や三人はゐなければならない筈なのにそれがゐないことである。私に云はせれば、若干の例外をのぞき年をとるほど駄目になる役者などといふのは、二十代三十代に既にろくな役者ではなかつたといふことである。  第四に、これはなかなか大事なことだが、現在の戯曲家で、戯曲だけ書いて生活のできるひとはまづまづゐないであらうといふことである。座附作者のやうにでもなれば別であるが、それもいくたりと数へるほどしかゐないであらう。今日の日本では、専門の戯曲家として一家をなすためには、結局、上演科を当てにしないで暮しを立てる方法を考へることが必要なのである。つまり余技の小説、内職の翻訳、なんでもいいから、戯曲を書き続け得られるといふことが大切である。しかしかういふ戯曲の書方は、決して、戯曲家本来の才能と感興とを、その作品のうちに完全に活かし得ないといふ憾みがある。つまり、観客を前にした舞台との「待つたなし」の勝負のみが、戯曲家の全生命を打ち込む創造の契機なのであつて、これこそ、戯曲が時間芸術として散文とはつきり分けられる微妙な世界につながる所以なのである。  上演のみを目的として文学と袂を分つ脚本作者と、文学の領域に止つて戯曲らしい戯曲をと志し、次第に舞台から遠ざかる作家と、その何れを択ぶかといふことが今日までの若い戯曲家の思案のしどころであつた。  しかし、これからは、次第に、道が拓かれさうである。文学と舞台との理想的な結合を意識的に目指して有力な二、三の新劇団が戦後、目ざましい活躍をしはじめた。私たちの時代には望み得なかつたチャンスが、若い世代のために着々準備せられつゝあるやうである。それに呼応して、新しい作家群が動き出した。全く新しい人々ではないが、彼等はいづれも、新しい意気と、新しい着想とをもつて、われわれの企て及ばない新風を捲き起さうとしてゐる。私は、この感想をこれらの人々に期待する意味で書いた。私たちの時代の障碍が、この人々の障碍とならぬことを念じるあまりである。  本誌姉妹紙「スクリーン・ステージ」新聞であつたと思ふが、近頃甚だ面白く、意義のある座談会記事がのつてゐた。それは、新進小説作家、評論家の一群に、新劇の舞台を見物させ、合評を試みさせてゐるのである。その座談会の記事は多分の省略があり、前後の脈絡がなく、隔靴掻痒の嘆はあつたけれども、ともかく、ねらひの正しい、鋭い企画である。個々の意見に対して、私がそれを不正確に受けとつてはなにもならぬから別にかれこれ云はぬが、やはり、ぜんたいに、云ふべきことが云はれてゐたやうである。田中千禾夫君の「雲の涯」を問題作として、十分に注意してくれたこともうれしかつた。この試みは何かの形で続けてほしい。新劇はかういふ人々をもつと近くへ惹きつけ、もつとその影響に身をさらさなければいけない。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《祭》

     毎年春と秋と一度ずつ先祖祭をするのがわが家の例である。今年の秋祭はわが帰省中にとの両親の考えで少し繰り上げて八月某日にする事ときめてあったが、数日来のしけで御供物肴がないため三日延びた。その朝は早々起きて物置の二階から祭壇を下ろし煤(すす)を払い雑巾(ぞうきん)をかけて壇を組みたてようとすると、さて板がそりかえっていてなかなか思うようにならぬのをようやくたたき込む。その間に父上は戸棚から三宝(さんぼう)をいくつも取下ろして一々布巾(ふきん)で清めておられる。いや随分乱暴な鼠の糞(ふん)じゃ。つつみ紙もところどころ食い破られた跡がある。ここに黄ばんだしみのあるのも鼠のいたずらじゃないかしらんなど独語を云いながら我も手伝うておおかた三宝の清めも済む。取散らした包紙の黴臭(かびくさ)いのは奥の間の縁へほうり出して一ぺん掃除をする。置所から色々の供物(くもつ)を入れた叺(かます)を持ってくる。父上はこれに一々水引(みずひき)をかけ綺麗にはしを揃えて、さて一々青い紙と白い紙とをしいた三宝へのせる。あたりは赤と白との水引の屑が茄子(なす)の茎人蔘(にんじん)の葉の中にちらばっている。奥の間から祭壇を持って来て床の中央へ三壇にすえ、神棚から御厨子(みずし)を下ろし塵を清めて一番高い処へ安置し、御扉をあけて前へ神鏡を立てる。左右にはゆうを掛けた榊台(さかきだい)一対。次の壇へ御洗米と塩とを純白な皿へ盛ったのが御焼物の鯛をはさんで正しく並べられる。一番大きな下の壇へは色々な供物の三宝が並べられる。先ず裏の畑の茄子冬瓜(とうが)小豆(あずき)人参里芋を始め、井戸脇の葡萄塀の上の棗(なつめ)、隣から貰うた梨。それから朝市の大きな西瓜(すいか)、こいつはごろごろして台へ載りにくかったのをようやくのせると、神様へ尻を向けているのは不都合じゃと云い出してまた据え直す。こんな事でとうとう昼飯になった。食事がすんでそこらを片付けるうち風呂がわいたから父上から順々にいってからだを清める。風呂から出て奥の間へ行くと一同の着替えがそろえてある。着なれぬ絹の袴のキュー/\となるのを着て座敷へ出た。日影が縁へ半分ほど差しこんで顔がほて/\するのは風呂に入ったせいであろう。姉上が数々の子供をつれて来る。一同座敷の片側へ一列にならんで順々拝が始まる。自分も縁側へ出て新しく水を入れた手水鉢(ちょうずばち)で手洗い口すすいで霊前にぬかずき、わが名を申上げて拍手(かしわで)を打つと花瓶の檜扇(ひおうぎ)の花びらが落ちて葡萄の上にとまった。いちばん御拝(ごはい)の長かったは母上で、いちばん神様の御気に召したかと思われるはせいちゃんのであった。一順すむと祭壇の菓子を下げて子供等に頂かせる。我も一度はこの御頂きをうれしがった事を思い出してその頃の我なつかしく、端坐したまう父母の鬢(びん)の毛の白いのが見えるも心細いような気がする。子供等は何か無性に面白がって餅を握りながらバタバタと縁側を追い廻る、小さいのは父上の膝で口鬚(くちひげ)をひっぱる。顔をしかめながら父上も笑えば皆々笑う。涼しい風が吹いて来て榊のゆうがサラサラと鳴り、檜扇がまた散った。そのうちに膳が出て来て一同その前にすわる。「どうですかせいちゃんは、神様の前で御膝を出して。ソレ御つゆがこぼれますよ」と云う一方では年かさの姪が小さいのにオッキイ御口をさせている。夕日が向うの岡にかくれて床が薄暗くなったから御神燈をつけ御てらしを上げた。榊の影が大きく壁にうつって茄子や葡萄が美しくかがやいた。父上のいくさの話が出て子供等が急におとなしくなったと思うたら、小さいのとせいちゃんは姉上の膝の上ではや寝てしまった。姉上等がかえると御てらしが消えて御神燈の灯がバチバチと鳴る。座敷がしんとして庭では轡虫(くつわむし)が鳴き出した。居間の時計がねむそうに十時をうったから一通り霊前を片付けて床に入った。座敷で鼠が物をかじる音がするから見に行ったら、床の真中に鏡が薄くくらがりの中に淋しく光っていた。 (明治三十二年十一月『ホトトギス』) 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《因果》

     俳優(やくしゃ)というものは、如何(どう)いうものか、こういう談(はなし)を沢山に持っている、これも或(ある)俳優(やくしゃ)が実見(じっけん)した談(はなし)だ。  今から最早(もう)十数年前(すねんぜん)、その俳優(やくしゃ)が、地方を巡業して、加賀(かが)の金沢市(かなざわし)で暫時(しばらく)逗留(とうりゅう)して、其地(そこ)で芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優(やくしゃ)が泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが、何時(いつ)しかその俳優(やくしゃ)と娘との間には、浅からぬ関係を生じたのである、ところが俳優(やくしゃ)も旅の身故(ゆえ)、娘と種々(いろいろ)名残を惜(おし)んで、やがて、己(おのれ)は金沢を出発して、その後(のち)もまた旅から旅へと廻っていたのだ、しかしその後(のち)に彼はその娘の消息を少しも知らなかったそうだが、それから余程月日が経ってから、その話を聞いて、始めて非常に驚怖(きょうふ)したとの事である。娘は終(つい)にその俳優(やくしゃ)の胤(たね)を宿して、女の子を産んだそうだが、何分(なにぶん)にも、甚(はなは)だしい難産であったので、三日目にはその生れた子も死に、娘もその後(のち)産後の日立(ひだち)が悪(わ)るかったので、これも日ならずして後(あと)から同じく死んでしまったとの事だ。こんな事のあったとは、彼は夢にも知らなかった、相変らず旅廻りをしながら、不図(ふと)或(ある)宿屋へ着くと、婢女(じょちゅう)が、二枚の座蒲団を出したり、お膳を二人前据(す)えたりなどするので「己(おれ)一人だよ」と注意をすると、婢女(じょちゅう)は妙な顔をして、「お連様(つれさま)は」というのであった、彼も頗(すこぶ)る不思議だとは思ったが、ただそれくらいのことに止(と)まって、別に変った事も無かったので、格別気にも止めずに、やがて諸国の巡業を終えて、久振(ひさしぶり)で東京に帰った、すると彼は間もなく、周旋する人があって、彼は芽出度(めでた)く女房を娶(もら)った。ところが或(ある)日若夫婦二人揃(そろい)で、さる料理店へ飯を食いに行くと、またそこの婢女(じょちゅう)が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘(まま)冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦(す)れ寄(よ)りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処(そこ)に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石(さすが)に慄然(ぞっ)としたそうだが、幸(さいわい)に女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが、就中(なかんずく)胆(きも)を冷したというのは、或(ある)夏の夜のこと、夫婦が寝ぞべりながら、二人して茶の間で、都(みやこ)新聞の三面小説を読んでいると、その小説の挿絵が、呀(アッ)という間に、例の死霊が善光寺(ぜんこうじ)に詣(まい)る絵と変って、その途端、女房はキャッと叫んだ、見るとその黒髪を彼方(うしろ)へ引張(ひっぱ)られる様なので、女房は右の手を差伸(さしのば)して、自分の髪を抑えたが、その儘(まま)其処(そこ)へ気絶して仆(たお)れた。見ると右の手の親指がキュッと内の方へ屈(まが)っている、やがて皆(みんな)して、漸(ようや)くに蘇生をさしたそうだが、こんな恐ろしい目には始めて出会ったと物語って、後(あと)でいうには、これは決して怨霊とか、何とかいう様な所謂(いわゆる)口惜(くや)しみの念ではなく、ただ私に娘がその死を知らしたいが為(た)めだったろうと、附加(つけくわ)えていたのであった。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

  • 日语文学作品赏析《家》

     ある日、婦人ばかりといつてよい招待の席で、小林一三氏が、吉屋信子さんの新築の家を絶讃された。  ――私は、隨分澤山好い家を見てゐるが、その私が褒めるのだから、實際好い家なのだ。たいがいの家は、茶室好みか、もしくは待合式なのかだか、吉屋さんの家はいかにも女性の主人で外國の好いところも充分にとり入れてあると、いはれた。そして、そのよさのわかるものが、お仲間にはあるまいと――  吉屋さんの隣りに、その座でたつた一人の、そのお仲間代表のわたくし、なでふ、褒めるにおいて人後におちんや、ではあるが、まだ見ぬ家のことなり、我等のグループとは違つた四邊の空氣なので、友達の家の褒められたことだけを甘受してゐた。  家といへば、震災前までは東京の下町住宅には、よい好みの各階級、好きさまざまの良い家が澤山あつた。もとより洋風もとりいれてない、近代建築でないのは知れてゐるが、待合といふものの發展しない時代ではあり、賢實な市民の住宅で、しかも京阪風をも取り入れた、江戸といふサツパリしたところもある良い家が多かつた。根岸、深川、向嶋、日本橋の(濱町河岸)花屋敷、京橋、築地といつたふうに、それ/″\の好みがすこしづつ違つてゐたやうだつた。わたくしの父などでも、家の何處へか格子を一本入れようと思ふとき、散歩してくるのに、今日は花屋敷の方面のを諸方(はうぼ)見て來た、好いのがあるなあ、といつてゐたものだつた。  それはさておき、わたくしの言ひたいのはそんな事などではないので、畫壇の人と文壇の人との住宅觀について、根本的異つたものを感じてゐたことであつた。わたくしは此處では、日本畫家のことを多くさしていつてゐるのであるが、仕事場を、おなじく家庭に持つ職業でありなながら[#「ありなながら」はママ]、畫家は、家の建築、庭石のおきかたまで自分の美術、自分の畫に描く趣味と個性を、思ふままに現し、樂しみ滿足しようとする強い慾望を見る。畫よりも建設的である文學の方の人には、家のことなどかまつてゐられるか、その暇に讀み思索するといつた、めんどくさがりやが多いやうに思はれた。よき書齋は誰しもほしいと思ふが、本をたつぷりおけて、靜に、居心地がよければそれでよいといふていどで、好事家のすけないことである。  と、いつても、これは自分だけの推測で間違つてゐないとはいへない。もとより、國が大きくなるのに、昔通りに文人は――清廉は結構だが――貧乏であるのを看板にすることはないし、立派な書齋や家をもつ人が、多く出來る方がよいのはきまつてゐる。收入の當不當は別の問題で、畫人の中にだとて贅澤のいへるものは、幾人と數へられる人達であらう。  ふと、そんなことを思つたといふのも、去年「塔影」といふ繪の雜誌で、京都に建つ榊原紫峰氏の新築の、庭木や、石や、木口の好みの、思ふがままに、實に素晴しいものが、易易と、實に神業のやうにうまく調ひ、しかもその豪華さが、奧ゆかしいまで目立たずに、自然らしく、組みたてられてゆくやうな話に、わたくしは、自分のものでもないのに、自分のもの以上な、樂しみと悦びを感じて、未知な方ではあるが、京都へゆくことがあれば、その新築を、ぜひ見せて頂かうと自分勝手に樂しんでゐたからで、いかにも豐富といふこと――この世にも、こんな好いことがあるのかと心樂しく思はせられたからだつた。  その話といふのは、市區改正に追れた榊原畫伯が、紫野大徳寺孤蓬庵の隣地を敷地に選んだことからはじまる。紫野といふ土地からして好いなあと思つた。もとから好きなところだつたが、先年、大徳寺塔中(たつちう)聚光院に一夜を御厄介になつてから、樹々にわたる風を、齒にしみるやうに思ひ出す土地だ。その敷地へ移す庭木といふのが、百萬遍のお寺の西側が、これも市區改正なので、椋の巨木何十本かが、薪屋に捨賣にされるところを、七本手に入れる。しかもこの椋の木、何百年かの星霜をへて一抱へも二抱へもあつて木振りよく、巨木移植法にも成功して植つけると、大徳寺境内の欝蒼たる森につづいて、どこがどこか、けじめのつかぬ幽邃な廣々とした庭になつたといふ。  そこで、庭石も、それに釣りあはねばならぬ。鞍馬石をきらつて、北山あたりを探すと、奇特な石山の持主あらはれ、我山の石ならどれでももつてゆけ、代價は入らぬ、汝の繪をよこせ、もつていつた石の繪を描いてよこせばよしといふので、落葉を掻きのけると、地べただと思つたほど、平な大きな石、十二三尺もあらうかといふ理想的靴脱石をめつける。それよりさき立派な、黄手(きで)の鞍馬石をもらつてゐるのだが、それは、グツと埋(い)けこんで、中庭の玄關にでもまはさうとある。  そこで、建築材料木材は、紀州熊野の奧から出て來る人が引きうけて、それほどの豫算では見る影もない借家建だと、はじめ、首をひねりはしたが、その人の腹づもりはすぐ出來てしまつて、木の國生れの人が、丹波に飛び、江州(おほみ)に行き、草鞋がけで山の杉の立木を買ふ。材木は揃つた、見に來ぬか、と行つてよこす時分には、大工がもう木組みをしてくれてゐる。  この材木だけ見ても唯の家ではないといふ、それだけの木組みをして、豫算の金には手がついてゐないといふのは、山を買つて伐りだし、製材所で柱や板にした中からよい材をえらみ、あとは材木屋へ賣つて、よいものがただ手に殘つたのだとある。  疊の敷いてある坪數より、板張りの方が廣い位の設計、廊下を澤山とつて、縁側を、廣いところでは一丈からあるといふ。悉くが、わたくしが夢に思つてゐるやうな家だ。  木目のない、ハギのない、木理(きめ)の細かく通つた一枚板の、すつと通つた廊下。  夕暮の色が、その上に漂よふとき、椋の葉はカラカラと風にさやぎ、一面の大きな平石は、うつすらと水を吹いてゐるであらう。その時、わたしは燈籠に灯の點るのを思ふ。民家でありながら、稀れに見る、すつきりと崇高な日本式の粹であると感じる。  その渺々たる空想のなかに、美しき女(ひと)が、黄昏を蹈んでゆくその面影をさへ、踵をさへ思ひうかべるのであつた。 ――十三年六月・文藝春秋―― 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。