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工藤平助は紀州藩医、長井大庵の第三子として生まれた。名は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、青年になって平助と称した。12歳まで紀州で育ったが、13歳のとき父・長井大庵と親交のあった仙台藩医、工藤丈庵の養子となった。工藤家は代々仙台藩医だった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(なんかく)、青木昆陽に師事した。 

工藤平助是纪州藩医长井大庵的第三子。名为球卿,字元琳、万光。通城周庵,到了青年时叫做平助。他12岁以前在纪州成长,13岁时成为仙台藩医工藤丈庵的养子,丈庵与其原本的父亲长井大庵是好友。工藤家是代代传承的仙台藩医。平助跟从养父学医,另又向服部南郭、青木昆阳学习儒学。

平助は1754年(宝暦4年)、父禄300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となった。大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭から出入司(仙台藩固有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。 

1754年,平助继承了工藤家的300石俸禄,成为了仙台藩的藩医,被外派到江户供职。在为仙台藩供职期间,他表现平稳,并且作为医生也得到了重用,逐渐开始参与藩政,从小姓头到升进到了出入司(仙台藩特有的官职,主管财务)。

平助は医術のみに携わることを好まず、学問を修め、多くの優れた友人と様々なことを論じ合った。中川順庵、野呂元丈、吉雄耕牛、桂川甫周ら蘭学者と交遊、海外の知識を得た。親交のあった蘭医・学者、前野良沢の弟子、大槻玄沢を藩医に推挙し、彼と親族の義を結んだ。平助は玄沢とともに仙台領内の薬物30種を調査研究し、藩政に寄与した。 

平助并不喜欢一心只钻研医术,他研究其他学问,与许多优秀的友人进行各种各样的讨论。比如他与中川顺庵、野吕元丈、吉雄耕牛、桂川甫周等兰学家来往,了解到海外的知识。并且还推举前野良泽的弟子大规玄泽为藩医,与其结下了兄弟之谊。平助与玄则一起走遍仙台领内,调查研究了30种药物,对藩政也作出了不少贡献。

1883年(天明3年)、平助は老中田沼意次に建白書『赤蝦夷風説考』を提出し、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた。赤蝦夷とは当時日本側が使っていたロシアの通称。これによって平助は、林子平、本多利明らとともに江戸期の海防論の先駆となった。 

1883年,平助向老中田沼意次提出了建议书《赤蝦夷风说考》,发出俄国向南扩展的警告,呼吁开港贸易、开发蝦夷地区。“赤蝦夷”是当时日本对俄国的通称。由于这个举动,平助与林子平、本多利明等人一起成为了江户时期海防论的先驱者。

老中田沼意次は蝦夷地経営に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に備える必要性を認識していた。そこで平助は何とか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人、三浦庄司を介して上申。その甲斐あって1784年(天明4年)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、この『赤蝦夷風説考』が添付された。伺書は『赤蝦夷風説考』を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地、豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。 

老中田沼意次对开发蝦夷地区有一些兴趣,他也意识到,有必要防备俄国人南下的威胁。因此平助通过田沼的手下三浦庄司呈报自己的著作,想方设法让田沼过目。他的努力收到了成效,1784年,勘定奉行松本秀持向田沼意次提出有关蝦夷地考察的申请报告,附带了平助的《赤蝦夷风说考》。申请报告通过引用《赤蝦夷风说考》的内容,强调蝦夷地广大肥沃的土地、丰富的物产以及地理的重要性,建议由幕府主导进行防卫开发。

それを受けた田沼意次は早速、翌年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし1786年(天明6年)、田沼の失脚により、この探索隊は残念ながら中途で断絶してしまった。

受到申请的田沼意次很快就于次年派遣了幕府主导的前往蝦夷沿海的探索队。平助的愿望终于实现了。然而遗憾的是,1786年,随着田沼意次下台,探索队成了一纸空文。

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