山東京伝は江戸時代を代表する戯作者だ。従来の戯作者は、そのほとんどが余技で書いており、原稿料もほとんどなかった。これに対し、彼は職業として戯作活動を行い、原稿料が支払われるようになったのは彼が最初だともいう。また、松平定信が推進した「寛政の改革」で出版取り締まりにより、彼の洒落本三部が摘発され発禁となり、手鎖(てぐさり)50日の刑に処せられたことで知られている。 

山东京传是江户时代具有代表性的通俗小说家。一般的通俗小说家大多都是业余写作,因此基本都没有稿酬。而山东则把通俗小说的创作作为职业,通俗小说作者获得稿酬也是从她开始的。另外众所周知,在松平定信推行的“宽政改革”对出版业的严厉管制下,山东的三部洒落本遭人揭发被禁,他本人也被处以了50日的枷锁刑。

注:洒落本,即描写游廓游乐内容的通俗小说。

山東京伝は江戸・深川木場で岩瀬伝左衛門の長子として生まれた。生家は質屋だったという。本名は岩瀬醒(さむる)。通称は京屋伝蔵。「山東京伝」の筆名は、江戸城紅葉“山”の“東”に住む“京”屋の“伝”蔵からといわれる。ほかに山東庵、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。合巻作者の山東京山は実弟。 

山东京传出生于江户深川木场,是岩濑传左卫门的长子,家里经营的是当铺。他本名叫岩濑醒。通称“京屋传藏”。据说“山东京传”这一笔名来自于他是居住在江户城红叶“山”之东的“京”屋的“传”蔵。其他还有山东庵、菊亭主人、醒斋、醒醒老人等雅号,狂歌方面还有“身轻折介”等雅号。合卷作者山东京山是京传的弟弟。

山東京伝は浮世絵師・北尾重寅に学び、18歳で草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅(まさのぶ)としてデビュー。20歳ごろから黄表紙と呼ばれる絵入り読物を書き始める。黄表紙洒落本を数多く書き、売れっ子作家となり、とくに『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782年)で一躍、黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び、天明・寛政期(1781~1801年)の中心的戯作者の地位を占めた。 

山东京传向浮世绘师北尾重寅学习,18岁就作为草双纸(黄表纸)插画家“北尾政寅”出道。20岁时开始写作被称为“黄表纸”的插画读物。他著有大量的黄表纸读物和洒落本,成为当红作家,特别是《御存知商卖物》(1782年)让他一举成名,作为黄表纸作者备受世人关注,和恋川春町、朋诚堂喜三二等武家出身的作者平起平坐,在天明宽政时期(1781年-1801年)的主要通俗小说家中占据了一席之地。

ところが、1791年(寛政3年)、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が、松平定信が推進した「寛政の改革」の出版取り締まりに触れ摘発・発禁処分となり、手鎖50日の筆禍に遭った。これに懲りたか、山東京伝は路線を変更。その後は読本作家として新境地を開き、享和・文化期(1801~1818年)には“飛ぶ鳥落とす勢い”だった曲亭馬琴に対抗し得た、ただ一人の作家だった。 

然而在1791年(宽政3年),他的三部洒落本《锦之里》、《仕悬文库》《娼妓绢》触犯了松平定信所推行“宽政改革”中的出版取缔令,被人揭发后受到了犯禁处罚,不幸遭受了50日的枷锁刑罚。大概是吃了苦头吧,此后山东京传改变了以往的创作常规,开始摸索出作为读本作家的新路线。在享和、文化时期,他是唯一能与红极一时的曲亭马琴抗衡的作家。

そして、そのかたわら考証随筆にも名著を残した。その代表作には黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)』(1785年)、『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』、『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787年)、『繁千話(しげしげちわ)』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790年)、読本に「忠臣水滸伝」(前編1799年、後編1801年)、『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(1806年)、随筆に『近世奇跡考』(1804年)、『骨董集』(1814、1815年)などがあり、貴重な史料として今日に残している。 

另一方面,他在考证随笔方面也留下了一些名作。其代表作中,就有黄表纸《江户生艳气桦烧》、《心学早染草》,洒落本《通言总篱》、《古契三娼》、《繁千话》、《倾城买四十八手》,读本《忠臣水浒传》、《昔语稻妻表纸》,随笔《近世奇迹考》、《骨董集》等等,这些作品都作为贵重的史料流传至今。

門人には曲亭馬琴はじめ数人いるが、その影響は十返舎一句、式亭三馬、為永春水らにも及ぼしている。 京伝は生涯で二度結婚したが、相手はいずれも吉原の遊女上がりだった。また、京伝には尾張藩主・徳川宗勝の落胤説がある。

山东京传的门人中除了曲亭马琴以外还有数人,十返舍一九、式亭三马、为永春水也深受他影响。京传一生结果两次婚,对方都是吉原的游女出身。另外也有说法认为京传是尾张藩主德川宗胜的私生子。

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