「か」に対して「が」。
「は」に対して「ば」。

“か”对“が”。
“は”对“ば”。

言語音の実体は目に見えない空気振動のはずなのに「すんだ音」、「にごった音」と視覚的表現を使って分類する。そのことで、「か」と「が」、「は」と「ば」は同じ言語音だけれど平等じゃないことがわかる。そこには価値判断が存在する。だから、「かおり」という女の子はいても「がおり」という子は一人もいない。「はなえ」という名は存在しても「ばなえ」はありえない。

语言音其本质本是肉眼无法看见的空气振动,而人们却用“清音”、“浊音”这样的视觉性表达对其进行分类。从这点上我们能了解到,“か”和“が”、“は”和“ば”虽都为语言音却并不平等。这中间存在着价值判断。因此,虽然有女孩子叫“かおり(kaori)”,却没有人叫“がおり(gaori)”。就算有人叫“はなえ(hanae)”,也不可能有人叫“ばなえ(banae)”。

なぜ清音は好まれ、濁音は避けられるのか?という疑問を煎じつめると、言語音に対する快不快という原始的な身体反応にたどり着く。わたしたちの身体は清音に対しては快を感じ、濁音に対しては不快を感じるようにできているのだ。語感というつかみどころのない存在も、結局音に対するこの素朴な身体反応に根ざしている。擬態語はこの語感に依存している。

为什么清音会招人喜欢、而浊音却人人避让呢?对这个疑问进行彻底分析后,我们终于把目光放在了对语言声音产生愉快、或不快的原始身体反应上。我们的身体能够对清音产生愉快的感觉、而对浊音则感到不快。像语感这种无形的存在最终也是基于这种对声音产生的简单的身体反应上。拟态词就是依存于这种语感。

つくづく言語の身体性というものを感じる。

这让我深切地感觉到了语言的身体性。

「ようやく雪がやみ、空がからりと晴れ上がった」

“雪终于停了,天空哗地一下放晴了”

「からり」という言語音に対して、わたしたちの身体はある特定の反応をする。そのはたらきが、この表現を可能にする。長い忍従の時を経て、ようやく晴天を迎えた喜びと解放感、開放感がひしひしと伝わってくる。もし、この「からり」の部分を「がらり」と入れ替えればわたしたちの身体は別の反応を示すだろう。そうすると上の表現はたちまち成り立たなくなる。人間の身体は融通の利かないものなのだ。言語記号は恣意的とよく言われるけれど、身体反応はそんな便利なものじゃない。ここらあたり、言語学はどのように折り合いをつけているのだろう?

对于“からり”这个语言音,我们的身体有着某种特定的反应。这种身体机能使得这个表达变为可能。我们能深深感受到这种经过长时间忍受终于迎来晴天的喜悦、以及得到解放且眼前一片开阔的感觉。如果把这个“からり”换成“がらり”的话,身体应该会产生不一样的反应吧。这样一来上面的表达立马就不成立了。人的身体就是这么死心眼。都说语言记号是很随意的,可身体反应却没那么方便。在这些方面,语言学要如何进行调和呢?

げじげじ」という虫がいる。あまり好きな人はいない。辞書によると本来は「げじ」の2音節語なのだそうだ。しかし、多くの人は「げじ」では飽き足らず「げじげじ」とたたみかけて呼ぶ。ただでさえ嫌われる濁音のオンパレード!おそらく「げじげじ」という音声に対する身体反応と、あの虫に出会ったときの身体反応が合致しているのだ。だから、「げじげじ」はあの虫の名前として定着した。ここから派生して、「人から嫌われる者、憎まれる者」の意味も獲得した。「げじげじ」君にしてみればまことに気の毒な話であるが、これが語感の威力である。なにしろ身体性の裏打ちがあるから強いのだ。

有种虫子叫做“げじげじ(gejigeji、多足虫)”,没什么人喜欢。据辞典介绍,其原名本是个双音节词“げじ(geji)”。但很多人觉得不够过瘾,于是将其重叠着读。光这成堆的浊音就够让人讨厌的了!或许身体对于听到“げじげじ”这声音的反应和看见那虫子的反应是一样的。所以它才作为那种虫子的名字一直被沿用下来。由此也派生出了“遭人讨厌、遭人唾弃的家伙”之意。虽然对于虫同志来说有点不公平,但这就是语感的威力所在。毕竟有了身体性的支持这种威力变得非常强大。

ところで、語感の威力は意味獲得にあるだけではない。反対に、意味からの解放という離れ業を演じることもできる。たとえば女の子の名前には表音文字だけで表記する名前が珍しくない。少し前に登場した「りか」ちゃんなんかがその例である。音文字で表記された名前は、日本語の体系の中では意味を持たない。しかし、その語感はクールで知的なイメージを喚起する。「りか」ちゃんの名は語感が支えているのだ。「里香」ちゃんや「梨花」ちゃんには表意文字によって示される限定的な意味がある。しかし、「りか」ちゃんになるとその限定的な意味から解放される。「りか」ちゃんだけでなく、「まなみ」ちゃんや「ななみ」ちゃんも意味から解放されて自由な感覚の世界に飛び立ってゆく。語感の存在がそれを可能にする。

不过,语感的威力并不只在于能争取到意思。相反的,它还有使语言摆脱意思的绝技。比如在女孩子的名字中,只用表音文字取名的情况并不少见。之前出现的“りか”就是个例子。用声音文字来写的名字在日语体系中并没有什么含义。但那语感却能带给人冷静知性的感觉。“りか”这名字是被语感所支撑着的。“里香”及“梨花”通过这些表意文字表达了有限的意思。而“りか”则从这些意思中得到了解放。不仅仅是“りか”,“まなみ”还有“ななみ”亦是如此,她们飞向了充满自由感的世界。语感的存在让这些都变为可能。

日本人谈外语:语法是捷径语感是钥匙

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