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誤訳とは?

什么是误译?

誤訳というのは、我々職業翻訳者にとって一番こわいことだ。これだけは避けたいと思うが、そこは人間がすること、完全に避けることはできない。だから、実力をつけましょうねって話になるのが普通なのだが……そもそも誤訳とはなんだろうか。

误译对于我们专业翻译来说是最可怕的事情,唯独这个大家都想避免。但这毕竟是人做的事情,不可能完全避免。说到这,一般下文都会来句“所以要加强实力嘛”……可话说回来,到底什么是误译呢?

翻訳者は、原著者の代弁者として、原著者の意図が読者に正しく伝わるように橋渡しをすることが仕事だ。言い換えれば、単語の対応がどうであれ、見た目がどうであれ、原著者の意図が読者に正しく伝われば、結果として、翻訳者としての仕事がきちんとできたことになる。逆に言えば、どんなに「正しく」訳されていようと、訳文の読者が原著者の意図を正しく読み取れなかったら……その読者にとっては「誤訳」に等しい

译者作为原作者的代言人,起到的是桥梁作用,需要将原作者意图正确地传达给读者。换而言之,不管单词是否对应,文章给人感觉如何,只要能将原作者意图正确地传达给读者,从结果上来说,翻译这个工作就算很好地完成了。反之,无论翻译的如何“正确”,只要译文读者没有很好地读懂原作者的意图……那这文章对这位读者来说就相当于误译了。

「おいおい、読み手の力不足は翻訳者の責任じゃないぞ」と思うひともいるだろう。そのとおりではある。それでもなお、翻訳者に責任の一端があると私は思う。

可能也有人会觉得“喂喂,那是读的人能力不足,责任不在翻译啊”。说的在理。但即便如此,我依然觉得译者该负一部分责任。

誤読を誘う訳文は、限りなく誤訳に近いのだ。よくよく読んでみれば、たしかに間違ってはいない訳文、でも、すんなりとは読めない訳文というものがよくある。一方、同じ文を上手な人が訳すと、さらっと内容が頭に入ったりする。この2種類の訳文を100人に読ませたらどうなるか。上手な人の訳文でも、1人や2人、もしかすると10人が誤読するかもしれない。でも、間違ってはいないというレベルの訳文なら、すぐに10人、20人、下手すれば半数以上が誤読するだろう。

引发误读的译文很大程度上已经接近误译。我们经常能见到这样的译文,细细读来,确实没什么错误,但也没那么顺。可另一方面,同样的文章经达人那么一译,内容很自然的就呈现在了读者脑海中。如果让100个人来读这两种译文,结果会怎样呢?即使是达人的译文,可能也会有一两人、甚至十人误读。而只是达到没有错译这样一个水平的译文,马上就有一二十个人误读了,水平再差些的,会达到半数以上吧。

このように考えると、誤訳という問題は、0か1か、○か×かという2進数的な話ではなくなる。その訳文が誤訳になる人の割合が100%なのか、80%なのか、50%なのか、10%なのか、1%なのか、0.1%なのかという問題になる。

这么一想的话,误译这个问题就不是0或1、对或错这样的2进制问题了,而是对多少人来说这个译文出现了误译,100%、80%、50%、10%、1%还是0.1%?

従来の○×的な判別では、100%のみが誤訳であり80%は誤訳ではないという主張が一応はできるし、訳した翻訳者側からはそのような主張がされることが多い。でも、誤訳になる(誤読する)人の割合をたとえば10%以下にしたいなら、50%が誤読する訳文は誤訳である。誤訳していないのに誤訳だと言われたという話をみかけることがときどきあるが、その中には、このようなケースも含まれている(もちろん、逆のケースも)。

一直以来,对于译文对错的判别一般是——只有100%的人误读了才算是误译,80%则不是,很多译者都如此主张。如果想把理解为误译(误读)的读者比例降到比如10%以下,那50%的人误读了的文章就等于误译。有时我会看见这样的发言,说明明没有误译却被人说成是误译,其中就有上面这种情况(当然,也有相反的例子)。

「誤読されたら誤訳だ」と思うと、訳文を書くのが怖くなるはず。その怖さがあれば、「誤訳をしない」をさらに進め、「誤読される危険性をなるべく低くする」まで行けるのではないかと思う。

一想到“如果被误读就等于误译”,那撰写起译文来应该会有些恐惧吧。我以为,有了这种恐惧,是不是就可以将“不误译”这个要求再提高下,变成“尽量降低误读的危险性”呢。

日本译者说:翻译时那些消失的语言

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