厳島神社和弥山

島 イコール 神

岛=神

厳島(いつくしま)とは、「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」の意、つまり島イコール神というのが原点だ。まさにアニミズム。当初は神を傷つけないよう上陸は控えられ、まして建物が建てられることはなかった。人が住むようになったのは室町時代以降とされているので、今に近い形の社殿が建てられた平安末期はまだ無人島で海上の社殿だけが建っていたものと思われる。

所谓严岛是“清心洁身,供奉神祗”的意思,也就是说“岛等同于神”是基本出发点。真是体现了万物有灵论。当初为了不伤害神灵,连上陆地都不被允许,更别说在陆上建造建筑了。一般认为岛上开始有人居住是在室町时代以后,所以这里在出现和现代模样相近的神殿的平安末期时还是个无人岛,只建成了海上的神殿。

なぜ社殿が海上にあるのかもこれで理解できる。つまり、神の体を傷つけないよう、陸地ではなく海上に建てたということのようだ(諸説あり完全には解明されていない)。

这样也就可以理解为什么神殿会建在海上。即为了不伤害神的玉体,没有在陆地上而是在海上建造(众说纷纭,没有确切解释)。

なお、宮島では林業が禁止されていたため、瀬戸内海では数少ない原生林が残った。この意図を汲み、ユネスコの世界遺産リストには社殿と弥山がセットで登録された。

此外,因为在宫岛(即严岛)林业是被禁止的,所以在濑户内海留存下了为数不多的原始森林。念及此意图,宫岛的神殿和弥山被并列于联合国教科文组织世界遗产名单中。

本社祓殿保留了浓厚的寝殿造色彩

平清盛の美意識

平清盛的审美意识

現在の建築群は平安末期の最高権力者である平清盛の意向を受けてデザインされたものだ。後の鎌倉時代に火災で建築群の大半が失われたため、厳密には平安時代の建築は存在しないが、被災前の姿に忠実に再建されており、今見ることのできる建築群は平安時代の寝殿造りと言っても差し支えないと思う。

现在的建筑群是按平安末期的最高权力者平清盛的意向设计的。在之后的镰仓时代因火灾之故建筑群的大半被毁坏,严格的说平安时代的建筑已不存在,但忠实于受灾前的面貌被重建,所以说现在可见的建筑群是平安时代的寝殿造也无妨。

清盛は若き日を安芸守としてこの地で過ごしており、厳島への信仰が厚く、天下を取れたのも厳島のおかげという意識があった。そのため、厳島神社も最高権力者にふさわしい大建築とする必要があったのは想像に難くない。

清盛年轻的时候作为安艺守在此地生活过,对严岛有着诚挚的信仰,认为取得天下也是由于严岛的保佑。因此,不难想象严岛神社也有作为跟最高权力者相匹配的宏伟建筑的必要性。

だがそれだけでは、こんなに手間のかかる建築をこれほどの大スケールで建てた説明としては足りない。これは私の推測だが、平清盛は「海上にしか建てられない」という制約条件に逆に意欲をかき立てられ、この世のどこにもない美しい海上建築を建てて現世の極楽浄土を表現しようと試みたと思う。

但是仅凭此,不足以解释为什么建造如此费工夫的大规模建筑。据我推测,“只能在海上建造”的限制条件反倒激发了平清盛的意欲,尝试建造出世间独有的美丽的海上建筑,表现现世的极乐世界。

そもそも寝殿造りは平安貴族の邸宅建築の様式のはず。それを神社に適用しようという発想自体がすごい。おそらく、寝殿造りにつきものの”池”と、この遠浅の海が清盛の中で結びつき、「この海上に寝殿造りで建てたら、すげぇ美しくなるぞ~」とひらめいたのではないだろうか。

原本寝殿造应是平安时期贵族宅邸的样式。把它应用到神社的建造上的想法本身就很了不起。大概是清盛把寝殿造中不可缺少的池塘和这里的浅滩联系到一起,“如果在这片海上用寝殿造来修建神社一定很美”的念头突然闪现吧。

回廊

平家は武士でありながら貴族のような生活を好み、これが地方武士団の反発を呼んで滅亡の一因となったとされるが、その領袖たる清盛には相当な美の素養があったと推測する。厳島神社の建築群を見て私が感じるのは、「信仰」よりも「美」の視点だ。曲がりくねった回廊は、神社間をつなぐという用途があり、山津波とよばれる土石流から本社を守る(本社の代わりに壊れる)役割もあり、管弦祭での船の転回場を囲んでもいるが、あくまで主目的は訪問者がシークエンス(風景の動的な変化)を楽しむことにあったように思えてならない。

平家虽是武士,但却喜好贵族式的生活,这被认为是招来地方武士反对而至灭亡的一个原因。其领袖清盛据推测具有相当的美的素养。参观了严岛神社的建筑群我感受到的是,与“信仰”相比更是“美”的视点。蜿蜒曲折的回廊有连接神社的用途,也有保护总神社不被称为“山津波”的泥石流破坏的功能(代替总神社被破坏),还可以在管弦祭时包围船的回转场地,但不管怎么说其主要目的是让来访者享受连续镜头(风景的动态变化)的乐趣。

ちなみに、平安貴族の邸宅はちっとも残っていないので、むしろ本作によって寝殿造りのスタイルが今に伝えられているとも言える。

顺便一提,由于平安贵族的宅邸一点也没有留存下来,可以说因严岛神社,寝殿造的式样才能够流传至今。

回廊

8と108

8和108

実は厳島神社は「8」と「108」で構成されている。回廊の基本スパンは約2.4m(つまり8尺)で、その間に敷かれた床板は8枚だ。そして回廊の延長は約262mであり、108スパン(柱108本)あるという。そして、社殿の釣り灯籠も参道の石灯籠も108個であるという。(ものの本に書いてあるだけでまだ自分で数えたことはない)

实际上严岛神社是由“8”和“108”构成的。回廊的基本墩距约2.4m(即8尺),其间铺的地板是8块。而回廊的长度约262m,有108个墩距(108根柱子)。神殿的挂灯和参道的石灯笼也是108个。(仅是书上所写,还未亲自数过)

さらに、本社拝殿から大鳥居までは108間(けん)で、火焼前から大鳥居までは88間となっている。

并且,从神社拜殿到大鸟居有108个柱子的间隔,火烧前到大鸟居有88个间隔。

ここまで8にこだわった原因は分かっていないが、例えば以下の説がある。

说到这里还不知道拘泥于8的原因,譬如有以下的说法。

日本において8は聖数であり大きさの象徴だから?
…例えば「八百万(やおよろず)」など。
漢字の「八」は末広がりで縁起がよいから?
108は仏教で煩悩の数とされ、浄土思想に結びつけられた?

因为在日本8是神圣的数字,是“大”的象征?
……如“八百万(数不胜数)”等。
因为汉字的“八”有逐渐繁荣的意思所以比较吉利?
因为108在佛教中被认为是烦恼的数量,和极乐世界的思想有关?

日出时的大鸟居

大鳥居

大鸟居

大鳥居の役割は他の神社と同様、参詣ゲートである。参詣者は船に乗ってこの鳥居をくぐり、神社にアクセスする。平安時代から鳥居はあったようだが、当時の形状は不明である。

大鸟居的作用和其他的神社一样,是参拜的入口。朝圣者乘船穿过鸟居,接近神社。好像从平安时代起鸟居就存在,但当时的形状不详。

鳥居は地中に固定されているのではなく、自重で建っている。確かに、地中には重量を支えるために無数の松杭が打ち込んであり、また鳥居の中には重量を増すための石が入れられているのだが、基本的に「ただ置いてある」状態であることに変わりはない。

鸟居不是固定在海底,而是靠自身重量立在那里。诚然,在海底为了支撑重量打了很多松木桩,而且鸟居的箱形的岛木里为了增加重量放入了石头,但从根本上来说,“只是放在那儿”的状态是不争的事实,没有改变过。

立地条件から海水や風雨による腐食は避けられず、鳥居は頻繁に更新されている。現在のものは8代目にあたり(1875年再建)、クスノキの巨木が使われている。しかし現代ではこれほどの大木を国内で調達するのは困難であり、次の建て替えには問題を抱えている。

受立地条件影响,不可避免会被海水和风雨腐蚀,鸟居也在频繁地更新。现在的鸟居是第八代(1875年再建),用巨大的樟木制成。但是在现代,这么巨大的树国内供给困难,下次的重建面临着问题。

宮島詣では続く…

拜访宫岛 未完待续

厳島神社は天候、干満、時間帯によって全く違う表情を見せるので、1度や2度行ったくらいで魅力を味わい尽くすことはできない。平家一門が京都からここまで相当な回数通ったというのも分かる気がする。

严岛神社根据天气、潮涨潮落、时间段的不同呈现不同的姿态,来这里一次两次不能完全感受到它的魅力。于是好像也能理解平家一族从京都到这里往返了相当多次的理由。

声明:双语文章中,中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

伊势神宫:神社本厅之本宗

鸟居:日本神社入口处的那一抹红