明惠上人

栄西と明恵上人の出会い

政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする『興禅護国論』などの書物を著し、二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。

注:明惠上人,镰仓时的名僧,1206年在京都栂尾山创建高山寺,将荣西带来的茶种播种于栂尾山,形成茶园。

荣西与明惠上人相遇

镰仓时代,与政治结合的日本式佛教固定下来。从南宋回来的荣西在将带回的临济宗教义传授世人时,便受到来自政治的各种阻碍。不过荣西写下《兴禅护国论》等书,阐明禅宗是镇护国家的教义,他接受镰仓二代将军赖家的庇护与皈依,元久2年(1205),他在京都建立首座禅宗寺院——建仁寺,成为首任主持,在这里构筑起广布禅学的基础。2年后,明惠上人在京都栂尾为华严宗的兴隆发愿,中兴了高山寺,他常常拜访荣西,和其对谈问答。

注:荣西传播禅宗的活动受到比睿山等地寺院的阻挠,1194年(建久5年)镰仓幕府令荣西停止传道,于是荣西写成《兴禅护国论》,强调禅宗也存在吟诵护国佛经的活动,以求幕府支持。

建仁寺

栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。さらに注目すべきことは京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。

荣西对明惠谈起茶的药效,建议他饮茶,希望将茶种送到栂尾。更值得瞩目的是京都栂尾的茶叶栽培。经过此后的两个世纪,栂尾的茶叶栽培蒸蒸日上,人们甚至称栂尾的茶为“本茶”,其余地方的茶则为“非茶”。宇治以前的茶叶名产地是栂尾。

栂尾山的茶园

喫茶養生記

栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。

吃茶养生记

为了将茶叶生产遍布到日本各地,同时也出于让大众了解茶叶药效的目的,承元5年(1211),荣西写下《吃茶养生记》。这部著作由上下两卷组成,从茶的药效到适合栽培地,乃至制作工序,都被详细记录在书中。另据森鹿三的解释,《吃茶养生记》的初治本与再治本,再治本写讫于3年后的建保2年(1214)1月。

お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。

镰仓时代作为记录书闻名的《吾妻镜》中,有关于茶叶功效的最古记载。在建保2年2月的一条记录里,记载将军实朝宿醉不醒时,荣西禅师将茶与《吃茶养生记》一并呈上,将军饮茶后当即得到治愈。毋须冗言,经过这件事,茶叶便在上流阶层中流行开来。建保3年(1215)7月,即写下再治本的次年,荣西辞世于寿福寺。

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