西行の旅の意味

西行は『山家集』「五首述懐」の中で、

うかれ出づる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせん

という歌を詠んでいます。これは花であれ旅であれ憧れるものを目指して心が身から離れていくことを現しています。西行は旅という非日常的空間に己を置くことによって独自の美意識を展開し、また旅によって西行の美意識が磨かれていったともいえます。数奇にまかせて旅に出ることは、遁世者とは名ばかりの風来であったわけではなく、当時は現世の数奇と来世の救済の矛盾解決を求める宗教的文学理念でした。

西行云游的意义

西行在《山家集》“五首述怀”中咏歌道:

心思浮荡难驾驭 尽情驰骋由他去(叶渭渠译,据《日本文学史序说》)

此歌呈现的是这种心境,花也好,羁旅也好,让人为之神往,探求这些的“心”逐渐脱离“身”。“旅”是一种非日常的空间,西行将己身置于其中,以此来发展自己独自的美意识,另外也可以说,西行的美意识因旅行变得洗练。“遁世者”并非徒有其名的一时兴起,心随风雅行、踏上旅途之举,在当时是意在化解现实苦难和来世救济之间矛盾的宗教性文学理念。

旅は芸術家であり宗教家である西行の人生の証であったのでしょう。最初の大きな旅は、おそらく西行が30歳以前のこと、祖先の出身地である陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅を敢行しています。陸奥から帰洛後、真言霊場の高野山に入って草庵を結び、その生活は30年に及びました。

恐怕,羁旅就是宗教家、艺术家西行一生的证明吧。首次长距离旅行大概是在西行30岁以前,他毅然踏上前往祖先发祥地陆奥平泉之路,探访那里的歌枕。自陆奥回京后,他又进入真言宗道场高野山,结起草庵,如此生活了30年之久。

注:(1)歌枕,指和歌中吟咏的名胜;(2)真言宗,空海大师创于平安初期,高野山为其修行道场。

西行草庵

仁安三(1168)年、51歳のころ、讃岐を目指して四国への長い修行に出ました。時は鳥羽院政の末期、乱世の気配が高まる情勢にあり、この旅は崇徳院の鎮魂という政治的意味を含んだ旅であったと言われています。そのような目的にあっても、讃岐修行の旅の作には備前国児島あたりから瀬戸内海を渡る途中で眼にした漁民、商人などの生きざまがいきいきと描かれており、若年期の歌よりも多面的で深みのある西行の数奇心がうかがえます。

仁安三年(1168),西行51岁时向赞岐出发,踏上前往四国的漫长修行。当时正值鸟羽院政末期,世间正酝酿着一场大乱。这次旅行也含有为崇德院超度的政治上的意义。即使是以这样的目的,赞岐修行之旅的作品中,对从备前国儿岛泛舟往濑户内海途中所见的渔夫、商贾等人的生活也有生动描写,从中可窥见西行的风雅之心,比青年时的和歌驰骋到了更广阔、更深邃的地方。

西行咏歌寄兴于花月,又将其看作虚妄之物,咏花非花,咏月非月,无痕无踪,也即如来真身

数奇の達成

西行がいつ陸奥の旅を終えたのか明らかではありませんが、文治三(1187)年には嵯峨の草庵に入っていたようです。嵯峨で詠んだ「たはぶれ歌」には

うなゐ子がすさみにならす麦笛の声におどろく夏の昼臥し

などとあり、杖にすがって昼寝にまどろむ西行の老いが印されています。

风雅达成

西行何时完成陆奥之旅虽不得而知,文治三年(1187),他似乎住进了位于嵯峨的草庵,在这里所咏的《たはぶれ歌》中有:

总角小童嬉闹忙  老僧闲卧贪一晌   夏日长 麦笛响    惊起梦一场

拄杖午睡,意识朦胧,老态龙钟的西行浮现在字里行间。

長旅の疲れと、この時代に稀な70歳に達したという自覚が、西行に迫り来る死を予期させ、生涯の数奇を自ら締めくくる決意をさせたようです。『御裳濯河歌合』と『宮河歌合』の自撰です。それまでは流行をきわめた歌合に自作を出さない方針を貫いてきた西行が、「伊勢の太神宮に奉らむ」として独創的な自歌合制作を試みたのでした。

漫长旅程让身心疲惫不堪,同时也意识自己到了在这个时代罕见的70高龄,西行预感到大限将至,似乎是决定亲自给一生的风雅画上句号,他自己编撰了《御裳濯河歌合》和《宫河歌合》。迄今为止一直坚持不在风靡一时的歌会上拿出自己作品的西行,怀着“欲献给伊势大神宫”的目的,尝试创作自己独创的歌会和歌,

注:歌合,一种和歌比赛活动,参赛人分左右两组比赛咏歌,最后由”判者“宣读”判词,决定胜负。

文治五(1189)年のころ、西行は高尾の神護寺に登山し、そこで少年の明恵にむかって「 この歌は即ちこれ如来の真の形体なり、されば一首詠み出でては一体の尊像を造る思いをなす、一句思ひつづけては秘密の真言を唱ふるに同じ。」 と和歌の本質を説いています。この言葉にはのちの明恵上人に対する潤色が混じっているかもしれませんが、西行の到達した和歌観の究極と読み取れます。しかし、西行は年来かかわってきた数奇を無条件に肯定したわけではありません。上記の言葉の前に、花や月をはじめ眼に見え耳に満ちる万物すべて「虚妄」であり、みずからも年来「この虚空如なる心の上に於いて種々の風情をいろどる」わざをしてきたが、むなしくも「さらに蹤跡無し」と、痛切な反省を告白しています。これは、数奇の魔性を知りつくした詩人の真率な述懐の言葉なのでしょう。西行は最晩年「慈円」と名乗り、建久元(1190)年2月16日、弘川寺にてその生涯を閉じました。

文治五年(1189),西行登上高尾神护寺,在那里遇见了少年明惠,他对明惠如此解说和歌的本质:“歌即如来真身,若此,咏歌一首,造一佛像之念可成,连日思一句,即与念我佛真言同。”这些话也许日后加进了针对明惠上人的润色,但仍能体得西行所领悟的和歌终极理念。不过,西行也并非总是无条件地肯定自己多年追求的风雅。就在上述话语之前,西行表达出痛切的反省,诸如花、月,目之所见、耳之所充的万物尽为“虚妄”,自己多年虽施技艺“在此等如虚似幻的心上点饰万般风情”,然而虚妄“更寻更无迹”。这正是洞彻了风雅魔性的诗人发自内心的感怀之言。西行晚年自号“慈圆”,建久元年(1190)2月16日,他在弘川寺走完了自己的一生。

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