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江戸時代の大火

「火事と喧嘩は江戸の」といわれるほど、江戸の町に火事は多かった。現代同様、江戸における火災も特に11月から5月にかけて多発した。特有の乾燥した空気、強い季節風(冬期には北西風、春先は南西風)、暖房のための火気使用という、 この時期は火災を発生させやすい状況下にあったことが、江戸の町に火災を多発させた原因の一つとなっている。

江户时代的大火

常言“火灾与打架是江户两大景”,江户的街道频发火灾。与现在同样,在江户,火灾多发于11月到5月间,特有的干燥空气、强季风(在冬季是西北风、早春是西南风)以及为使用暖炉而点燃的明火,使这段时期处于火灾易发的状况下,成为江户街巷火灾频频的原因之一。

しかし、こうした気象条件は江戸に限ったことではなく、他の町でも似たような状況であったはずである。江戸の華とまで強調されたいわれは、火災の規模、そして頻度においてであると考えられる。つまり、江戸で発生した火災は、他の町では見られないほどの大規模火災であり、そうした火災が頻繁に発生したということのようである。

不过如此气象条件也并不限江户一处,其它城镇其实也存在类似情况。之所以强调为“江户一道景”,是在于火灾的规模以及频度。也即是说,江户发生的火灾,其规模远甚于其它城镇,而那样的火灾还经常发生。

大規模火災に発展した原因は、当時の江戸の町が日本一の過密都市であったことによるものであった。江戸時代の城下町は、住民の身分によって武家地、寺社地、町人の住む町地とはっきり区別されており、江戸では三者の面積の割合はおおむね6:2:2であったといわれる。江戸の町の総人口の半数は町人であり、当然町地は人口密度の高い、過密地域であった。その過密ぶりは、路地裏までびっしりと長屋がつまっているといわれるほどで、こうした町地にひとたび火災が発生すれば、消火能力の低い当時では、火は止まることなく延焼拡大したであろうことは想像に難くない。

当时的江户城是日本第一的人口密集城市,此为酝酿着大规模火灾的温床。江户时代的城下町,根据居民的身份,分明地区别为武家地、寺社地、以及町人居住的町地,江户城内,三者的面积比例大致为6:2:2。而町人占到了江户城总人口的一半,自然,町地就成了人口密集程度极高的拥挤地区了。其拥挤度甚至到了连胡同里侧都挤满长屋的程度,当时的消防能力低下,如此町地一旦发生火灾,不难想象,火势会越烧越旺,一直蔓延下去。

江户时代的长屋

注:长屋是一种集体居住的大杂院,分为“表长屋”和“里长屋”,如图,“表长屋”一般为富裕商贾租住,面向街市,“里长屋”则位于这些店铺后面,大部分江户人都居住在“里长屋”里,一栋里长屋有六隔间,住户分别住在隔间里,而厕所与井、垃圾场都在屋外,由住户们共享,人与人保持着亲密的交流,大家在井边打水拉家常,“井户端”这个词来源于此。

 

260年に及ぶ江戸時代における大火の発生は、約90件と記録されている。3年に1度は江戸の町の大半が焦土と化すような大火に見舞われたのである。中でも、江戸三大大火として知られる火災は、次のとおりである。

在长达260年的江户时代里,大火发生的事件被记录下的大约有90件。每3年就有一次几乎将江户城的大半烧成焦土的大火来袭。其中,以“江户三大火”闻名史册的火灾依次如下。

明暦の大火

明暦3年(1657)正月18日本郷丸山本妙寺から出火し、翌19日には小石川伝通院前と麹町からも出火。3件の出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸をはじめ、武家邸500余、寺社300余、倉庫9,000余、橋梁61を焼失、死者10万余人ともいわれ、江戸の町の大半が焦土となったほどの大惨事であった。若死にした娘の愛用していた振袖を、縁起が悪いと本妙寺で焼却したところ、飛火して大火になったことから振袖火事ともいわれる。

明历大火

明历3年(1657)正月18日,从本乡丸山本妙寺开始起火,次日19日,小石川传通院前和麹町也燃起了火。因这3件起火事件,以江户城本丸、二丸、三丸为首的武家宅邸500余所、寺社300余所、仓库9000余所、桥梁61座尽被烧毁,死者据说达到了10万余人,可谓一场化江户大半街区为一片焦土的大灾难。又被称作“振袖火灾”,起因是本妙寺认为一位夭折的姑娘常穿的振袖和服不吉利,在将其焚烧时火星飞散,燃起了大火。

注:“振袖大火”的起因,小泉八云在《怪谈》中也有记载:少女恋慕上一名武士,为解幽思,她做了件与武士所穿服饰质地、花纹相同的振袖和服,每次都穿这件和服出门,后来少女不甘相思之苦,患病归天,和服辗转于多名主人之手,穿过振袖和服的女孩都无缘无故病故,最终,和服送至寺院,住持将其投入火里,引发了火灾。大火持续三天,烧掉三分之二个江户城,此后幕府投巨资重建江户,形成今天东京的规模。

 

明和の大火
明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、麻布、芝から日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。別名行人坂火事。

明和大火

明和9年(1772)2月29日,目黑行人坂大圆寺起火,尽烧自麻布、芝到日本桥、京桥、神田、本乡、下谷、浅草和下町一园一带,死者达数千人。别名“行人坂火灾”。

文化の大火

文化3年(1806)3月4日芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸80余、寺社80余、500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。別名芝車火事、あるいは丙寅火事ともいわれる。

文化大火

文化3年(1806)3月4日,从芝车町起火,蔓延至日本桥、京桥、神田、浅草。武家宅邸80余所、寺社80余所、500余条街道尽化焦土,死者据说有1200多人。别名“芝车火灾”,也称作“丙寅火灾”。

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