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聖徳太子は、飛鳥時代の皇族と言われる人物です。飛鳥時代は日本の歴史の中で、古墳時代の終末期と重なっていて、3世紀の終わりから8世紀にかけて、飛鳥に都が置かれていた時代です。聖徳太子がいた時代には、飛鳥文化が花開いたときでもありました。

圣德太子是飞鸟时代的皇族。飞鸟时代在日本历史中,与古坟时代末期相重合,是历经3世纪末期到8世纪、建都于飞鸟的时代。圣德太子生活的时代正值飞鸟文化大放异彩之时。

蘇我氏との関わり

聖徳太子は、没した後に呼ばれるようになった名前で、本名は『厩戸(うまやど)』と言います。厩戸の前で生まれたからという伝説がありますが、厩戸という地名があり、そこから命名されたとする説の方が有力です。別名、豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、古事記では上宮之厩戸豊聡耳命とされています。用明天皇の第二皇子として生まれました。曽我氏とは血縁関係になります。仏教を巡り、蘇我氏と物部氏の争いが激しくなる中、聖徳太子は蘇我氏と共に戦い、勝利を納めます。用明天皇が崩御すると、蘇我氏と守屋が皇位を巡って戦いになり、聖徳太子も蘇我氏の軍に加わって戦います。この戦いによって、大豪族だった物部氏は没落してしまいます。やがて初の女帝、推古天皇が即位すると、聖徳太子も皇太子となり、推古天皇元年には摂政として、大臣であった蘇我氏と天皇を補佐していきます。

与苏我氏的关系

圣德太子这个名字是在其死后才开始逐渐称呼起来的,他的本名叫作“厩户”,虽然传说中太子是在厩户前出生,因而叫作“厩户”,但厩户也是地名,以这一个理由而被命名的说法更为可信。太子的别名也称作“丰聪耳”、“上宫王”。《古事记》作“上宫之厩户丰聪耳命”。他作为用明天皇的第二皇子诞生,与曾我氏有血缘关系。围绕佛教,苏我氏和物部氏激烈地对立起来,圣德太子当时与苏我氏共同作战取得了胜利。用明天皇驾崩后,苏我氏与守屋(物部守屋)围绕皇位问题大动干戈,圣德太子加入苏我氏的军队参与战斗。因这一战,原是大豪族的物部氏一蹶不振。不久首位女帝——推古天皇继位,圣德太子也成为皇太子,推古天皇元年作为摄政和大臣苏我氏一同辅佐天皇。

聖徳太子が行ったこと

聖徳太子は、歴史に残る数々のことを行っています。摂政となった推古元年、蘇我氏が物部氏と戦う際に勝利祈願をし、勝利した際には寺院を建立して祀るとの誓願通り、摂津国難波に、四天王寺を建立しました。推古天皇9年に、奈良県生駒郡斑鳩町に斑鳩宮を造営し、4年後に移り住んでいます。斑鳩宮の西には法隆寺が作られました。推古11年、氏姓制や身分に関わらず、才能重視で人材を登用し、天皇の中央政権を強める目的で、冠位十二階を定め、翌年、十七条憲法も定めました。これは、豪族に対して、臣下としての心構えを示しているもので、天皇に従って、仏法を敬うようにとするものです。天皇を中心とする、国家体制作りの基礎を築きます。聖徳太子は、当時の大豪族でもあり、血縁でもある蘇我馬子と共に政治を行い、遣隋使を派遣して隋の文化や制度を輸入しました。

圣德太子的事迹

圣德太子所行之事大多都在历史上的留下了印迹。就在他成为摄政的推古元年,在与苏我氏一同对物部氏作战时太子做了胜利祈祷,誓言大获全胜时会建立寺院祭祀神佛,如这一誓愿,他在摄津国难波建起了四天王寺。推古天皇9年,在奈良县生驹郡斑鸠町营建斑鸠宫,4年后迁居至此。斑鸠宫以西建立了法隆寺。推古11年,为了加强天皇的中央集权,他制定了冠位十二阶,不在乎氏姓制或是身份,着重录用有材之士。次年,又制定了十七条宪法,这是针对豪族,告诫为臣之道,以此让他们遵从天皇,笃敬佛法。以天皇为中心的国家体制的基础就构筑起来了。圣德太子和当时的大豪族并且有血缘关系的苏我马子共同执政,派遣遣隋使,吸收隋朝的文化与制度。

聖徳太子伝説

豊聡耳聖徳太子は、一度に何人もの話を同時に聞き、理解することができたと言われています。人々の請願を聞いていた太子は、10人以上もの人が一度に発した言葉を理解し、的確な答えを返したと言われています。『聖徳太子伝暦』によると、11歳のときには、36人の話を一度に聞くことができたと記されています。実際のところは、順番に話を聞いて、それぞれに的確な返事をしたものだと思われ、記憶力が優れていたと考えられます。

圣德太子传说

传说丰聪耳圣德太子能一次同时倾听并理解多个人说话。听取人们请愿的太子能理解10名以上的人同时说出的话,并能准确的给予回答。据《圣德太子传历》,他11岁时就能同时听36个人说话。实际上的情况也许是太子的记忆力非凡,依次听取人们的言谈后再分别准确地答复。

預言者?

『兼知未然』とあり、後の世で、聖徳太子による『未来記』の存在が噂されるようになります。『太閤記』では、楠木正成が、この『未来記』を実際に見たと記されています。ただ、過去に未来記が実在した証拠がないために、真実は闇の中です。

预言者?

太子能“兼知未然”,后世传言太子著有一本《未来记》。《太阁记》中记载楠木正成曾亲自见过这本《未来记》。只是并没有《未来记》过去实际存在的证据,因此真相还是不明。

南嶽慧思の生まれ変わり

南嶽慧思とは、天台宗開祖の師であり、聖徳太子はその生まれ変わりだと言われていて、この説は『南嶽慧思後身説』として中国でも有名で、鑑真が渡日する動機になったとも言われています。

南岳慧思的转生?

南岳慧思是天台宗开祖的师父,据说圣德太子就是他的转世,这个说法即“南岳慧思后身说”,在中国也为人熟知,传说鉴真东渡日本的动机正是缘于此。

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